『新聞資料原爆II』
小田切秀雄・監修/日本図書センター1988年
監修の小田切秀雄は、法政大学名誉教授と書かれてあります。
印刷の文字がかすれていて読みづらいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/d8/a58e1c15073bb2239031c0b3a689c1b5.jpg)
■1971年■
「「梶山季之」氏の被爆小説 差別を助長さす」原爆文献を読む会など抗議」
1971年4月16日「両陛下、原爆慰霊碑ご参拝 広島終戦27年目に初めて」
--大江健三郎の記事がある。
1971年12月14日。全国被爆者青年同盟の集会について。下「」引用。
「被爆者として見殺しにされつづけている、戦後二十七年のこの現実から、自己防衛することをいう。そこでかれらの病院は、核戦争のもたらすものについての、軍事的研究のための機関として出発したABCCと、まっこうから対決するものとなるであろう。-略-」
index
■1972年■
「ノーモア・ヒロシマズ」“生みの親”はだれか
昭和47年1月25日の記事。 下「」引用。
「-略-戦後いち早く世界二十六カ国に呼びかけて「ノー・モア・ヒロシマズ運動」を起こしたカリフォルニア州オークランドのパプティスト教会管理人アルフレッド・パーカー氏と親交のある広島市流川教会の谷本清牧師はこう断言する。
「生みの親は東京駐在のUP特派員だったルサフォード・ポーツ記者で、それを広めたのがパーカー氏だ」
谷本牧師の話によれば、ポーツ記者が同師と東京で会ったときのもようを二十三年三月五日付けの駐留米軍の機関紙「パシフィック・スタンダーズ・アンド・ストライブズ」に書いたときに初めて使ったことばだという。
その記事の切り抜きを谷本師はいまも大事に保存しており、さほど目立つ扱いではないが、確かに「ノーモア……」のことばがある。これはアメリカの一部の新聞にも掲載され、これがパーカー師の目にとまって、同氏の活動がはじまったという。-略-」
しかし、その前からいわれていたかはわからないという……。
誰がいったかより、運動が大切では?
■1974年■
「映画「人間であるために」を見よう 広がる運動」
「ハーシー 「ヒロシマ'74 往復書簡」
■1976年■
「源田実の発言 原爆の一つや二つ 被爆者ら反発」
--特攻作戦をつくり、ルメイに勲章をあげた国会議員。
反省しない愚かな人間。日本にも右にも左にもクラウゼヴィッツ人がいる。
--こんな人間に権力もてば、危険な世の中になるのは当然では?
■1977年■
「故永井隆の遺品寄贈」伊藤久秋さん
「反原爆」版画で訴え 長崎の小崎侃(かん)さん 国際文化会館に寄贈」
■1979年■
「長崎被爆リアルに帰した教授の日記
神々しい永井先生
長崎大調教授 貴重な記録、雑誌へ」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/e1/24c2fcf6391d9ee4dd71b7508a3bc656.jpg)
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8月5日 川柳集『花ばさみ--原爆ケロイドに耐えて』串かつ川柳会発行
「ケロイドを もう隠さない 歳になり」
讀売テレビ 9月27日
「広島被爆者団体に読売テレビが謝罪-略-「11PM ステキ!! ジュリーはゲンバクのようにツヨーイ男!!」-略-」
index
12月4日「エノラ・ゲイ」副機長の手記
「おれたちゃ 何をやった
原爆投下…思わず叫ぶ
「何人殺した」忘れぬ瞬間」
INDEX
■1980年■
ユネスコ 6月14日
「広島・長崎の原爆
世界の教科書に
ユネスコ軍縮教育会議」
Index
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/c1/5fc3b98352a16aaa3a2ad479e3859c6f.jpg)
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小田切秀雄・監修/日本図書センター1988年
監修の小田切秀雄は、法政大学名誉教授と書かれてあります。
印刷の文字がかすれていて読みづらいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/d8/a58e1c15073bb2239031c0b3a689c1b5.jpg)
■1971年■
「「梶山季之」氏の被爆小説 差別を助長さす」原爆文献を読む会など抗議」
1971年4月16日「両陛下、原爆慰霊碑ご参拝 広島終戦27年目に初めて」
--大江健三郎の記事がある。
1971年12月14日。全国被爆者青年同盟の集会について。下「」引用。
「被爆者として見殺しにされつづけている、戦後二十七年のこの現実から、自己防衛することをいう。そこでかれらの病院は、核戦争のもたらすものについての、軍事的研究のための機関として出発したABCCと、まっこうから対決するものとなるであろう。-略-」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/0d/ee31f886eb6a99045a4171182271cb51.jpg)
■1972年■
「ノーモア・ヒロシマズ」“生みの親”はだれか
昭和47年1月25日の記事。 下「」引用。
「-略-戦後いち早く世界二十六カ国に呼びかけて「ノー・モア・ヒロシマズ運動」を起こしたカリフォルニア州オークランドのパプティスト教会管理人アルフレッド・パーカー氏と親交のある広島市流川教会の谷本清牧師はこう断言する。
「生みの親は東京駐在のUP特派員だったルサフォード・ポーツ記者で、それを広めたのがパーカー氏だ」
谷本牧師の話によれば、ポーツ記者が同師と東京で会ったときのもようを二十三年三月五日付けの駐留米軍の機関紙「パシフィック・スタンダーズ・アンド・ストライブズ」に書いたときに初めて使ったことばだという。
その記事の切り抜きを谷本師はいまも大事に保存しており、さほど目立つ扱いではないが、確かに「ノーモア……」のことばがある。これはアメリカの一部の新聞にも掲載され、これがパーカー師の目にとまって、同氏の活動がはじまったという。-略-」
しかし、その前からいわれていたかはわからないという……。
誰がいったかより、運動が大切では?
■1974年■
「映画「人間であるために」を見よう 広がる運動」
「ハーシー 「ヒロシマ'74 往復書簡」
■1976年■
「源田実の発言 原爆の一つや二つ 被爆者ら反発」
--特攻作戦をつくり、ルメイに勲章をあげた国会議員。
反省しない愚かな人間。日本にも右にも左にもクラウゼヴィッツ人がいる。
--こんな人間に権力もてば、危険な世の中になるのは当然では?
■1977年■
「故永井隆の遺品寄贈」伊藤久秋さん
「反原爆」版画で訴え 長崎の小崎侃(かん)さん 国際文化会館に寄贈」
■1979年■
「長崎被爆リアルに帰した教授の日記
神々しい永井先生
長崎大調教授 貴重な記録、雑誌へ」
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8月5日 川柳集『花ばさみ--原爆ケロイドに耐えて』串かつ川柳会発行
「ケロイドを もう隠さない 歳になり」
讀売テレビ 9月27日
「広島被爆者団体に読売テレビが謝罪-略-「11PM ステキ!! ジュリーはゲンバクのようにツヨーイ男!!」-略-」
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12月4日「エノラ・ゲイ」副機長の手記
「おれたちゃ 何をやった
原爆投下…思わず叫ぶ
「何人殺した」忘れぬ瞬間」
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■1980年■
ユネスコ 6月14日
「広島・長崎の原爆
世界の教科書に
ユネスコ軍縮教育会議」
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