磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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被爆体験記ピカに灼かれて 第6集、第7集、第8集、第9集

2008年11月19日 | 読書日記など
『被爆体験記ピカに灼かれて 第6集,第7集,第8集,第9集』
   生協原爆被害者の会、広島医療生活共同組合/
     生協原爆被害者の会、広島医療生活協同組合
       1983年、1984年、1985年、1986年

庶民の目線で書かれてあります。



放影研に連れていかれたことが書かれてあります。下「」引用。

「生来両親は健康に恵まれ運動会等では必ず選手に選ばれていたそうです。母の被爆が無ければ何事も無い平穏な家族だったことでしょう。母は私を放影研まで連れて行った事もあるようです。やはり不安は一杯あったようですが納得出来る返事はなかったそうです。
 私は戦争の恐ろしさを知りません。しかし、自分の体のことを考えると他人事ではなく、戦争の無い平和な暮らしを続けることの出来るように微力ながら運動の輪にも参加して行きたいと思います。」

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また、別の人は、知りたくなかったという……。下「」引用。

「運ばれてくる被爆者の看護をしていたという事を母の口から聞く事ができた私は、自分が「被爆二世」である事をその時初めて知りました。
 私が十七歳の時でした。高校に入学した時から平和運動に取り組んでいた私でしたが、「知りたくなかった」という気持ちはおさえきれませんでした。同時に、自分の体が弱かったのはもしかしたら両親が被爆しているから……。被爆二世だからではないだろうか。と思うようになりました。-略-」

もくじ

当時の命令は絶対であったという……。下「」引用。

「そのそばで、惨たらしい情景がありました。校庭のへいを背にして、被爆で全裸状態の女性が作業に入る前から座って一人で泣いていました。傷の痛みでか被爆で家族と別れ別れになった孤独のショックか……でも誰一人声を掛ける人も無く手を貸す人とて無いまま、その前で兵隊たちが火葬場所を作り、死体を焼く炎が、泣きじゃくる女の人を赤く照り返しておりました。その女の人には、目の前で日本人が沢山作業していても、自分には誰一人助けてくれるどころか、自分と同じ被爆者の死体が次々焼かれて行く情景を見せつけられ、其処にいた日本人は非情な地獄の鬼どもの様に思えたのではないでしょうか……。今にして思えば、せめて温かい人間同士として何とかしてあげたかったのですが、当時は軍から命令は絶対的であったのです。」

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「焼けただれた電車に「救援たのむ」の文字が」 下「」引用。

「-略-横川橋をすぎ、広島別院の電停近くに焼けただれた市内電車が一台あり、大きな文字で「救援たのむ」と書いてあり、車内を見ると半死半生の人が十五・六人いました。道路の両側に死人や、けが人が……それこそこれが、この世の地獄かと、口では言い表わすことのできない、悲惨な状態でした。」

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「死体処理場となった“せせらぎ公園(旧安佐郡佐東町川内)”」 下「」引用。

「-略-「ここは、当時低湿地で、被災者の死体処理場でし。」と近くにら住む上村正幸氏(当時十五歳)は語る。
 せせらぎ公園は、ジョギングコースと住民憩いの場となっているが、ふと気づくと、足もとに誰が置いたとも知れない花がさしてあった。」

「「かわいそうながもうだめじゃろう」言われて--」という体験記もありました。








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