『広島の遺書』
豊田清史・著/蒼洋社1984年
広島は死なないと思います。
--それなのに、どうして広島の遺書?
ボクには理解できないことがたくさん書かれてありました。
--あの原爆当時でも(異常?)性欲があり、食欲もあった著者。
梶山さんと親しかったようです。
--そして、学校の教頭先生であったという。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/83/348fa2926628dd2c042926180e97ec6d.jpg)
■目 次■
第一部 広島に生きて
被爆記 9
死夜 44
寂寥日記 61
わが炎のノート 72
第二部 忘れられない人々
原民喜を偲ぶ 91
峠三吉を憶う 103
大田洋子回想 118
広島の川端康成 126
正田篠枝、人と作品 141
吉野秀雄大人の気魄 158
梶山季之を思う 174
第三部 現実と私のねがい
広島の七不思議 191
私の原爆文献収集 218
羽ばたく千羽鶴 239
原爆の風化と修飾 254
広島の実践家たち 268
人間悪の摘発 292
あとに
原民喜の友のことが書かれてありました。下「」引用。
「ほとんど肉親とも口をきかず、二階からおりてくることもなかった彼に、たった一人の心の友がいた。それはすぐ隣家で製粉業を営んでいた堀田秀吉氏であった。民喜の遺品小品に〈深井氏〉という一文があるが、これが堀田氏である。堀田氏は敗戦の一年前、朝鮮から引揚げてきて、食いぶちを支えるために小さな製粉業を始めたと私に語った。ものわかりがよくて人情味のある氏は、民喜の孤独な姿に同情して、再婚をすすめたりもしている。」
index
火野葦平が広島へいったときのことが、以前の本より詳しく書かれてあった。
大田洋子のことが書かれてありました。下「」引用。
「あの日、彼女の仮寓をである玉藤家の離れをのぞくと、小柄で白粉気ひとつない青ざめた顔に、派手なネッカチーフを髪にまき、黄色のパジャマ風の着物姿で部屋に寝そべっていた。唇がうすく鋭い目つきの応対が印象的であったが、もの言いは無愛想で部屋には中年の男が一人居た。
その男はインテリらしい顔つきであったが、私は何かひどく陰猥(いんわい)な気がしてすこし文学の話などして辞去した。たしか万年床が敷いてあった。帰りのバスでいっしょに乗った村の百姓風の男に女史のことをたずねたら、「作家か何か知らんが、そこらの青年を誘惑してタバコを買ってこさせるやら、まるで女給のような身なりをして、村の評判者です」要約このような言いぶりであった。やはり女史の現行は白眼視されていたようだ。」
貧乏なら、みかける風景でもあった……。
金持ちなら、そんなことを見せなくともすむだろうが……。
また出会ったという。下「」引用。
「瞬間、(あ、やっぱり大田洋子だった!)と私は懐かしくなり後を追いかけようとしたが、小倉先生ののまるで吐き出されるような口ぶりに諦めるより仕方がなかった。それにしても本まで送りつけておいて、広島にもどってきても連絡ひとつしない女史の不遜な心を私は咎めたかった。」
エロおやじに、連絡はしたくないだろうなあー。
本を送りつけたのか、贈ったのか?……。
原爆文献誌
index
--正田篠枝を。
太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり
--これは『太』き骨ではなく、『大』き骨だという……。
index
著者は峠三吉に借家を世話したという。
峠の死について。下「」引用。
「峠の死について竹内達の『ヒロシマ愛と死』(昭和四十年八月、芸文社刊)に原爆死と真顔でかかれているし、ひどいのは『昭和萬葉集』の著者略歴の項にも、「原爆症に苦しみながら云々」と書いてあるが彼の場合生来や蒲柳(ほりゅう)の体質で結核にかかり、これが進行して死につながったわけである。峠といえば、人々は「ああ、あの父をかえせ、母をかえせの詩人か」とすぐ原爆に結びつけて考えるので、つい原爆症死となったのであろう。」
真顔で書かれてあるとは、どんなことなのか?
--原爆症が死因でなかったかもれしないが、原爆の影響がなかったとは思えない。
index
--大江健三郎
再刊『原爆体験記』は、いぜんに発禁されていたわけではないと著者は書く。
そして、それを知らなかった大江健三郎の良心を疑うという……。
知らないと、良心も機能しないだろうとボクは思う……。
--沖縄のことでは、がっかりしたが……。
index
謙虚なのだろうか? 下「」引用。
「井伏氏が野間文学賞授賞式の席上、「〈黒い雨〉は私の編著とするべき性格の作品でありました」と述べられていることは、あながち氏のえらぶらない謙虚さだけでなく、理由のあることであった。」
いろいろ読んでいると、そうとも思えない。
単に送ったのだろうか? いろいろあったのでばはないか? 下「」引用。
「また『黒い雨』が単行本となるや十七万円という当時として多額の金が重松さんに送られてきているとをみても、一般には知られていない重松日記の重みを思うのである。」
index
むかしの教頭先生は、地方の名士様でしたネ……。
今でも、そんな地区もあるかも知れませんね。
積極的平和は構造的暴力をなくしていくこと……。
index
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豊田清史・著/蒼洋社1984年
広島は死なないと思います。
--それなのに、どうして広島の遺書?
ボクには理解できないことがたくさん書かれてありました。
--あの原爆当時でも(異常?)性欲があり、食欲もあった著者。
梶山さんと親しかったようです。
--そして、学校の教頭先生であったという。
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■目 次■
第一部 広島に生きて
被爆記 9
死夜 44
寂寥日記 61
わが炎のノート 72
第二部 忘れられない人々
原民喜を偲ぶ 91
峠三吉を憶う 103
大田洋子回想 118
広島の川端康成 126
正田篠枝、人と作品 141
吉野秀雄大人の気魄 158
梶山季之を思う 174
第三部 現実と私のねがい
広島の七不思議 191
私の原爆文献収集 218
羽ばたく千羽鶴 239
原爆の風化と修飾 254
広島の実践家たち 268
人間悪の摘発 292
あとに
原民喜の友のことが書かれてありました。下「」引用。
「ほとんど肉親とも口をきかず、二階からおりてくることもなかった彼に、たった一人の心の友がいた。それはすぐ隣家で製粉業を営んでいた堀田秀吉氏であった。民喜の遺品小品に〈深井氏〉という一文があるが、これが堀田氏である。堀田氏は敗戦の一年前、朝鮮から引揚げてきて、食いぶちを支えるために小さな製粉業を始めたと私に語った。ものわかりがよくて人情味のある氏は、民喜の孤独な姿に同情して、再婚をすすめたりもしている。」
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火野葦平が広島へいったときのことが、以前の本より詳しく書かれてあった。
大田洋子のことが書かれてありました。下「」引用。
「あの日、彼女の仮寓をである玉藤家の離れをのぞくと、小柄で白粉気ひとつない青ざめた顔に、派手なネッカチーフを髪にまき、黄色のパジャマ風の着物姿で部屋に寝そべっていた。唇がうすく鋭い目つきの応対が印象的であったが、もの言いは無愛想で部屋には中年の男が一人居た。
その男はインテリらしい顔つきであったが、私は何かひどく陰猥(いんわい)な気がしてすこし文学の話などして辞去した。たしか万年床が敷いてあった。帰りのバスでいっしょに乗った村の百姓風の男に女史のことをたずねたら、「作家か何か知らんが、そこらの青年を誘惑してタバコを買ってこさせるやら、まるで女給のような身なりをして、村の評判者です」要約このような言いぶりであった。やはり女史の現行は白眼視されていたようだ。」
貧乏なら、みかける風景でもあった……。
金持ちなら、そんなことを見せなくともすむだろうが……。
また出会ったという。下「」引用。
「瞬間、(あ、やっぱり大田洋子だった!)と私は懐かしくなり後を追いかけようとしたが、小倉先生ののまるで吐き出されるような口ぶりに諦めるより仕方がなかった。それにしても本まで送りつけておいて、広島にもどってきても連絡ひとつしない女史の不遜な心を私は咎めたかった。」
エロおやじに、連絡はしたくないだろうなあー。
本を送りつけたのか、贈ったのか?……。
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--正田篠枝を。
太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり
--これは『太』き骨ではなく、『大』き骨だという……。
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著者は峠三吉に借家を世話したという。
峠の死について。下「」引用。
「峠の死について竹内達の『ヒロシマ愛と死』(昭和四十年八月、芸文社刊)に原爆死と真顔でかかれているし、ひどいのは『昭和萬葉集』の著者略歴の項にも、「原爆症に苦しみながら云々」と書いてあるが彼の場合生来や蒲柳(ほりゅう)の体質で結核にかかり、これが進行して死につながったわけである。峠といえば、人々は「ああ、あの父をかえせ、母をかえせの詩人か」とすぐ原爆に結びつけて考えるので、つい原爆症死となったのであろう。」
真顔で書かれてあるとは、どんなことなのか?
--原爆症が死因でなかったかもれしないが、原爆の影響がなかったとは思えない。
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--大江健三郎
再刊『原爆体験記』は、いぜんに発禁されていたわけではないと著者は書く。
そして、それを知らなかった大江健三郎の良心を疑うという……。
知らないと、良心も機能しないだろうとボクは思う……。
--沖縄のことでは、がっかりしたが……。
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謙虚なのだろうか? 下「」引用。
「井伏氏が野間文学賞授賞式の席上、「〈黒い雨〉は私の編著とするべき性格の作品でありました」と述べられていることは、あながち氏のえらぶらない謙虚さだけでなく、理由のあることであった。」
いろいろ読んでいると、そうとも思えない。
単に送ったのだろうか? いろいろあったのでばはないか? 下「」引用。
「また『黒い雨』が単行本となるや十七万円という当時として多額の金が重松さんに送られてきているとをみても、一般には知られていない重松日記の重みを思うのである。」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/07/558896c5c1af91e28bde37dcf5a5a05e.jpg)
むかしの教頭先生は、地方の名士様でしたネ……。
今でも、そんな地区もあるかも知れませんね。
積極的平和は構造的暴力をなくしていくこと……。
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