磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆体験記

2008年04月11日 | 読書日記など
『原爆体験記』
   広島市原爆体験記刊行会・編/大江健三郎・著/
     朝日新聞社1965年、1970年11刷
『朝日選書42 原爆体験記』
   広島市原爆体験記刊行会・編/大江健三郎・著/
     朝日新聞社1975年

二冊の本はほとんど同じです。下の本には地図がついています。
上の本には口絵でモノクロの写真がついています。

もともとの本の刊行のことば。下「」引用。

「刊行のことば
 これは、五年前の広島においての痛ましい体験のいつわりなき記録の一部である。
 応募者六十四編、いずれもこれを読むものをして血涙をしぼられしめるものがあったが、被爆当時の環境、実態、距離的関係等の観点から、原文のまま十八編と、特色ある体験のぬきがき十六片をここに収めた。他の原稿は平和都市広島の至宝として、やがて産まれるべき平和記念館に保存される筈である。-略-
   昭和二十五年八月六日   編者記」

元々の本は配布されなかったようです。下「」引用。

「未配布本の『原爆体験記』は十五年もの間、広島市役所の倉庫でホコリをかぶっていました。黄色く変色していたが、読んでみて深い感銘を受けました。被爆後あまり時がたっていない時に書かれたものなので、なによりも実感がこもっています。-略-
  昭和四十年七月  朝日新聞広島支局長 松井一郎」

「なにを記憶し、記憶しつづけるべきか?」大江健三郎・著で書かれあります。下「」引用。

「十五年前、この書物に加えれた不当な仕打ちは、もっぱら占領軍にその責を帰すべきことでした。しかし、いま、ここに公刊される体験記を、もし、われわれが再び不当にあつかってしまうとしたら、その責はすなわち、われわれにあります。-略-」

付記として書かれてあります。下「」引用。

「付記
本書の手記は、いずれも執筆後十五年以上を経過しているので、このたびの収録にあたり、朝日新聞社において直接筆者あるいはご遺族のご消息をたしかめ、実名使用の了解を得ました。ただし、二、三の方は、異動その他で消息の手がかりを得られなかったため筆名にしてあります。
 なお、本書収載の大江健三郎のエッセイは、この本のために新たに書下ろされたものであります。」

月日がたつとやはり記憶の保存も変化するようですね。
--これは人間ならすべての人にあるようです。

この本は初期に書かれたといっていいかと思います。

軍隊の人たちも、もう戦争どろこではなかった……。下「」引用。

「その声は私の聞馴れた戦友古本軍曹の声だった。「おお古本、やられたか、大したことになったのう」私は思わずそういった。彼はその朝、教育のため西練兵場にいたのである。上半身裸体のまま被爆したのだろう。頭から灰をかむったようになって、ぶくぶく腫れ上っていた。両手の皮がハゲてたれかかり、見る影もなくあわれな姿に変り果て、命からがら逃げて来たのであろう。一見して古本であるとは想像がつかぬ姿であった。「どうにかしてくれ」と震えている。「苦しいか、よし逃げるぞ、俺について来いよ」と、私は彼のバンドをグッと握って引くようにして構内を出た。」

そして逃げ惑う人たちも、思い通りになんかならなかった……。下「」引用。

「船頭らしい人が「舟を出すぞオ!」と叫んだ。がしかし同じようにこの舟に避難した人でいっぱいになった上に、折からの干潮で舟脚が座って動かない。そのうちに敵機の機銃掃射を受けると危い、と船底に押しこまれる。生あたたかい水垢が溜っている。息ぐるしい船底にうずくまっているうちに、外部で騒然とした気配がしはじめた。数町はなれた下手にある学校に、徒歩で移動避難するというのである。精根をつかい果たした私は舟を出てしばらく手を引かれているうちに、両足さえ支えることができなくなった。「しっかりしなさい」と人々が励ます。
「かまいません、放って行って下さい!」とようやく答えたまま、再び私は気を失ってしまった。」

広島の遺書






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