磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前後XXXIII

2008年03月28日 | 読書日記など
『原爆前後XXXIII』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1976年

おもに一人の人が書かれています。そのことについて。下「」引用。

「あとがき
 第十四巻のあとがきに百五十枚の原稿を下さったら、その方のために一冊提供してもよいと書いておいたが、この卅三巻でこの僕の提案が実現した。もっとも近頃は巻末に僕のメモを掲載することにしているので百枚ぐらいの原稿を下されば一巻になる。事実、-略-」



友人の紹介で、電気部ではなかったが、造船に入る著者。下「」引用。
「しかも日本一、いや東洋一の帝国海軍の工場で働けるなんてバチが当たるぞ! などと私は有頂天になってしまった。」

電気の勉強をしてきたので、造船屋はやめようとしたが、貴重な存在といわれて留まったという。

カトリック教徒に。下「」引用。

「勿論当時は、カトリックなどという外国語は忌避されていたので、どこでも大てい天主公教会という看板がかけられていた。今もそうだが、当時も呉教会は、イエズス会というドイツの宣教会が布教する広島教区に属しており、ネーベルという一人のドイツ人神父さんがおられた。」

そして、監視されることとなる。下「」引用。

「だが、こんな不愉快な監視や尾行も、考えようによっては、泥棒やスリよけになるガードマンをタダで雇っているのと同じだ、と後で笑い合ったものだった。」

ノイローゼとなり、呉の工場を辞めたという。辞めるにも大変だったようだ……。

そして、長崎へ。空襲を受けたという。下「」引用。

「私たちはいつも部長室の床下に掘ってあった簡易防空壕に入ったり入らなかったりであった。
 ところが或る日、すぐそこで肝をつぶす爆発音がしたのである。腰を抜かさんばかりにしてその床下の穴に飛びこんだが、その一発だけでそのあとは物音一つしなかった。急に外がさわがしくなったので出てみると、第一船台の一番山手のクレーンの運転台が燃えていた。
 それから何日もしない、警報も出ていない時、船台を歩いていると、何の前ぶれもなくいきなりガンガンガンッと機銃掃射を浴びせられ、ぶったまげて逃げ帰ったことがあった。エンジンを止め急降下してやってきのだ。今までなめてきたわれわれが、いよいよなめられはじめたのである。」

そして長崎原爆。妻の死。下「」引用。

「普通なら司祭に告白し終油の秘蹟によって許されるが、それが出来ない場合には心から罪を悔み神の憐みに頼るしかない。そして、今はその場なのだ。
 私は、妻の耳元でその祈りを唱え、聖母マリアにその取次ぎを願った。マリア様への祈りは、「めでたし聖籠充ちみてるマリア……罪人のために今も臨終の時も祈り給え」というのである。妻は、私と共にその祈りを最後の一息までくりかえし安らかにその魂を神にゆだねた。八月二十三日、午前十一時十一分、あの一瞬から丁度十四日と九分後のことであった。
 丘の上の小屋で父と兄そして私にお礼とお別れの言葉を述べたあと、どうかこのまま埋めてくれるようにと言いのこした。すぐ目の下の畑で母をはじめ近所の多くの人びとを焼く悲しい光景に耐え難かったからである。次女操子のときもそうであったが、ありあわせの着物にくるんだ妻の顔に、土をかぶせるときの非情な気持は、今だに鉛のように重い記憶となって残っている。」

--会社に行くと、白人や黒人の米兵がいたという。
制止された先をみると、ドックには潜水艦があったという。

「メモ8・熱気と爆風」白井秀雄・著。








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