磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前後XXXIV

2008年03月28日 | 読書日記など
『原爆前後XXXIV』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1976年

「神風が吹いてくれる」といった政治家、「神の国」といった政治家。そんな人物が権力を握っていたら、困ったことになる……。神ではなく、職務に忠実であっていただきたいものです……。



ニッケルは昭和18年にもう手に入らなかったという。下「」引用。

「戦況我に利あらず、南方よりの輸送が杜絶したため、内地のニッケル源も底をつくにいたりました。そのため陸軍当局より十八年の秋頃、ニッケルを大量に配合する戦車用防弾鋼鈑の発注は十八年度をもって打ち切るという内命が出た模様で、会社としては十九年三月末をもって、この防鋼弾鈑のの製造を中止し、製鈑課も一旦解散、戦局好転の暁は朝鮮に於いて再開するということになりました。」

職域軍人会と、三十六時間勤務。下「」引用。

「特に仕事がきつくなったのは終戦の年の六、七月からのことと記憶しています。それよりさき、四月の末には職域在郷軍人会が結成され、それからは職員は規則を重んじ、何事も卒先垂範せねばならなぬということで、職員にも当直週番制も実施し、特に夜間の空襲に備えて、二十四時間勤務から三十六時間勤務というのは、朝七時に会社に出勤して翌日の午後七時まで勤務するのです。会社での食事は、殆ど米粒の見えない弁当で、夜は椅子を並べてその上に寝るとか、または机の上の仮眠でした。つまり、殆ど職場から離れぬ日がつづいたのですから、七月に入ってからは疲労に暑さが重なり躰が続かず、職員の欠勤も多くなり、従って当直も減るようになりました。」

これで亡くなられたこともあるのではないでしょうか?

今の過労死よりもひどいと思います……。

軍人は被爆しても優遇された……。下「」引用。

「やがて、海軍の兵隊が来ましたので、水を求めましたところ
「地方人より兵隊が先だ」
と叱られ、彼等はさっきの兵隊に水筒の水を飲ましていきました。私はただ、それを見送るだけです。太陽の光は、とてつもなく強く、耐えがたい暑さです。」

駄菓子屋があったそうです。下「」引用。

「十九日か二十日ごろでしたが、第三工場の前で駄菓子を売っておられた佐々木のおばさんが、御主人と一緒に私を訪ねてきて下さいました。
 このおばあさんの御主人は造船所の製缶工でお子さんがなく、御本人は「メガネばあさん」の愛称で皆に親しまれていた方です。」

「戦艦武蔵長崎湾に浮ぶ」を梶原正夫(元海軍監督官)が書かれています。

「メモ9・火事こぼれ話」白井秀雄・著が掲載されています。

東条と神風。下「」引用。

「また、東条英機が組閣したというところでは、同首相が議会で戦局の行方を質問されたとき、「神風が吹いてくれる」と答弁したという当時の新聞記事を思い出す。」

寝ぼけた政治家のせいで、多くの人の尊い生命が失われたとボクは思います。

長崎のお医者さんはオートバイに乗っていたそうです。下「」引用。

「当時、長崎のお医者さんがよく使っていた赤い色のインディアンというオートバイの新車は新品が千五百円だったと記憶している。これは大卒の初任給の二十カ月分にあたる。」

しかし、永井隆博士や秋月さんは書かれていませんね……。

今じゃ、プラモも1500円じゃかえません。2800円とか……。
--インディアンモーターサイクル ロードマスター








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