磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

原爆前後XXXI

2008年03月26日 | 読書日記など
『原爆前後XXXI』
   思い出集世話人・編/白井秀雄1976年

デマのことを取り上げられていました。終戦しても、戦争をしようと思っていた人たちがいたそうです……。



ピカピカと稲妻のようだったという。下「」引用。

「午前十一時二分、あの恐しい、運命の原子爆弾が投下されて間もなくピカピカと稲妻のような光がきらめき、皮膚に熱いという程の烈しい痛みを感じましたので慌てて、逃げる暇もなく、今度は激しい爆風が怒濤のように押し寄せてきて、身体は地面に吹き飛ばされまして、暫くの間は人事不省に陥っておりました次第であります。」


「高層ビル陰で被爆者泣き続け」長崎川柳社同人 池田三秋

昭和21年8月ごろ、再建にむけて鯨工船をつくっていたという。

--デマ。
沖縄で原爆が使われたという。下「」引用。

「市民が続々と長崎を去りつつあった十一日に、日本も原爆を使い出した、という景気のよいデマが飛んだ。これは真崎千明氏の採集である。」

このころは、戦争当時者だから、やはり景気のよいデマだったんでしようね……。

終戦はデマであるというのは、たくさんの人が聞いておられるようです。
--しかし、それこそがデマであったという……。

さらに新兵器のデマもあったという。下「」引用。

「十三日には「日本軍もX光線爆弾で米国の主要都市を報復爆撃して長崎以上の大損害を与えた」」

進駐軍が来るのというので婦女子総待避の指示が出された……。下「」引用。

「直接には町内会長、さらに、町内には聯合会長から伝達されたのだろうが、僕が十八日の午後、城山に行っての帰りに梁橋を渡って松山に出て、長崎駅方面に向っていったところ、道路の山手がわに、婦女子は市内から待避せよという真新しい大きな掲示が出されているのを見た。しかし、この掲示には、これを誰が出したのか、市長あるいは知事、司令部ともなんとも書いてなく、掲示を出した日付さえ記入してなかった。」

米軍上陸で戦争をするつもりだった人たち……。下「」引用。

「八月十五日の終戦の放送は聞かなかったが、米軍が間もなく長崎に上陸して来るということを知ったので、私は家の中の防空壕に入れていた日本刀、木剣や雨傘などを腰にぶら下げ、鶏一羽と米、麦などの配給品を前後に入れ、天秤棒でかつぎ、貴重な財産を身につけて家を出た。考えてみると、今の社会だったらとても通れたものではなく、またその格好たるや実に見ものであった筈。しかし、その時は悲愴そのものであった。
 私は、母が田舎に一人で疎開していたてので、食糧持参で、暫くそこで厄介になる心算だった。城山の橋の所まで来た時に、若い憲兵上等兵が銃を構えて私を呼び止めた。
「長崎市内の若い男子は市内から出てはならん。米軍が上陸して来るから戦争するんだ」
 私は言った。
「俺は命が惜しくて田舎に行くのではない。俺も軍人のはしくれだ。しかし、年老いた母が田舎に疎開しているので、配給物を届けに行くところだ。届けたらすぐ長崎に帰ってくる。そこさどいてくれ」
 憲兵上等兵はおとなしく銃を下ろしてくれた。
 それから、私は旧長崎市立商業学校横の坂道を登り、平坦地に出たところで、一休みして汗を拭いていると、下からガヤガヤと十名ぐらいの陸軍の兵隊が上ってくる。見ると、牛蒡剣で、引卒者の一人だけが古ぼけた銃を持っており、他はみな竹槍をかついで息をはずませながら、坂道を上がって来る。私はその指揮官に尋ねた。
「何処へ何しに行くのか」
と。すると、その指揮官は言った。
「米軍が上陸して来るので、一戦争するのだ。山に立て籠るのだよ」」

「解説・落下傘付電波発信器の数」相原秀次・著。
気象ゾンデのことが書かれてありました。
これと、原爆とを間違った人がいたようです。

仁科博士は知らなかったという。下「」引用。

「同じ八月十四日に広島から飛行機で長崎に着いた仁科芳雄博士と随行した鈴木辰三郎陸軍技術中佐が長崎地区憲兵隊本部を訪れたとき彌富大尉(隊長)の話で、アメリカが落としたパラシュートの筒の中にねある日本の科学者宛の私信があった。宛名の名前を隊長が口にしたのだが仁科博士も鈴木中佐もきき覚えのない名前だった。」







index

index

目 次





エンタメ@BlogRanking


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。