『原爆前後XXX』
思い出集世話人・編/白井秀雄1975年
この本では、深堀日記が掲載されていました。ビラのことやパラシュートについてもさらに書かれてありました。
「鎮西学院で九死に一生を得る」という人の文章もありました。下「」引用。
「当時、私は二十六才の血気盛りの青年工員でありました。鎮西学院の一階東側の教室を借り受け、机の代りに小型機械を据え付け、三菱製鋼機械工場に属する疎開工場の作業責任者として、女子挺身隊や女子学徒報告隊にて編成された約三十名と共に、日々作業に精励していました。」
--深堀日記。
永井隆博士と活動をされていた深堀福市さんの日記が掲載されていました。
もくじ
カトリック教徒としての生活も書かれてありました。下「」引用。
「三月十七日(土)晴後曇
今日は、浦上信者が大浦天主堂に於いて、聖母マリアの像の前で、切支丹なることを時の司祭プチジャン師に名乗りをあげた記念すべき日である。この切支丹の発見は、全世界カトリック教会に非常なる刺激と興奮とを起こし、三百年間信者の堅い信仰が失われなかった日本公教会の名声を全世界に発揮したものであった。」
広島のことも翌日に書かれてあります。下「」引用。
「八月七日(火)晴
-略-広島市で相当の損害を被った由、午後七時の「ニュース」で発表される。これは新型爆弾と発表されたり。広島市に転出した知人の安否如何? 大に気づかわる。」
そして、長崎……。下「」引用。
「八月九日(木)晴
(長崎市原子爆弾の攻撃を受く)
午前八時ころ警報出で九時半ごろひと先ず解除となり警戒警報発令中、午前十一時ごろ突然ぱっと物凄い光が目に射ると共に一大轟音さく烈し、当所事務所の窓ガラス大部分破壊す。
午後四時半ごろまで壕入り待避し、午後五時四十五分ごろ退場許可となり、直ちに吾が家を指して走る(四・五キロ)」
永井博士のことも、わずかに書かれてある。下「」引用。
「八月十一日(土)晴
永井先生(永井隆博士)の御話では、大学病院で久留米陸軍病院医療班が見て呉れると言う。四人の子供を運ぶ事か出来ぬ。手がない。」
川南病院へ子供が入院。下「」引用。
「八月十二日(日)晴
(四人の子供を病院に送る)
四人の子供の容態漸次悪くなる。殊に美津子の寝姿甚だ悪し。正午ごろ川南高校生生徒約三十名来り、四人の子供を川南病院に運ぶ可く来る。嬉し涙に父子ともに泣く。易子は漸次上ると共に苦しいと訴う。生徒の厚意に従い四人の子供を病院に送り、これでやっと安心す。」
しかし……。下「」引用。
「八月三十一日(金)雨
(死亡届八人分終了す)」
--終戦一カ月前くらいに、空中魚雷が投下されたという。下「」引用。
「第一船台(太田尾工場)の船首の左側に、建設工事の間組の事務所と工場便所が二米位の通路を挟んで向かい合っていたが、この通路に五屯もあろうかとい思われる空中魚雷が一米位も土の中にのめり込み三個に割れていた。(四巻二一七頁 金子金吉)」
これはパンプキンではないかと思うが……。
ビラについても詳しい記述があった。
8月10日にもビラが撒かれたという。
原爆はパラシュートで投下されてないことがさらに書かれてありました。
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目 次
思い出集世話人・編/白井秀雄1975年
この本では、深堀日記が掲載されていました。ビラのことやパラシュートについてもさらに書かれてありました。
「鎮西学院で九死に一生を得る」という人の文章もありました。下「」引用。
「当時、私は二十六才の血気盛りの青年工員でありました。鎮西学院の一階東側の教室を借り受け、机の代りに小型機械を据え付け、三菱製鋼機械工場に属する疎開工場の作業責任者として、女子挺身隊や女子学徒報告隊にて編成された約三十名と共に、日々作業に精励していました。」
--深堀日記。
永井隆博士と活動をされていた深堀福市さんの日記が掲載されていました。
もくじ
カトリック教徒としての生活も書かれてありました。下「」引用。
「三月十七日(土)晴後曇
今日は、浦上信者が大浦天主堂に於いて、聖母マリアの像の前で、切支丹なることを時の司祭プチジャン師に名乗りをあげた記念すべき日である。この切支丹の発見は、全世界カトリック教会に非常なる刺激と興奮とを起こし、三百年間信者の堅い信仰が失われなかった日本公教会の名声を全世界に発揮したものであった。」
広島のことも翌日に書かれてあります。下「」引用。
「八月七日(火)晴
-略-広島市で相当の損害を被った由、午後七時の「ニュース」で発表される。これは新型爆弾と発表されたり。広島市に転出した知人の安否如何? 大に気づかわる。」
そして、長崎……。下「」引用。
「八月九日(木)晴
(長崎市原子爆弾の攻撃を受く)
午前八時ころ警報出で九時半ごろひと先ず解除となり警戒警報発令中、午前十一時ごろ突然ぱっと物凄い光が目に射ると共に一大轟音さく烈し、当所事務所の窓ガラス大部分破壊す。
午後四時半ごろまで壕入り待避し、午後五時四十五分ごろ退場許可となり、直ちに吾が家を指して走る(四・五キロ)」
永井博士のことも、わずかに書かれてある。下「」引用。
「八月十一日(土)晴
永井先生(永井隆博士)の御話では、大学病院で久留米陸軍病院医療班が見て呉れると言う。四人の子供を運ぶ事か出来ぬ。手がない。」
川南病院へ子供が入院。下「」引用。
「八月十二日(日)晴
(四人の子供を病院に送る)
四人の子供の容態漸次悪くなる。殊に美津子の寝姿甚だ悪し。正午ごろ川南高校生生徒約三十名来り、四人の子供を川南病院に運ぶ可く来る。嬉し涙に父子ともに泣く。易子は漸次上ると共に苦しいと訴う。生徒の厚意に従い四人の子供を病院に送り、これでやっと安心す。」
しかし……。下「」引用。
「八月三十一日(金)雨
(死亡届八人分終了す)」
--終戦一カ月前くらいに、空中魚雷が投下されたという。下「」引用。
「第一船台(太田尾工場)の船首の左側に、建設工事の間組の事務所と工場便所が二米位の通路を挟んで向かい合っていたが、この通路に五屯もあろうかとい思われる空中魚雷が一米位も土の中にのめり込み三個に割れていた。(四巻二一七頁 金子金吉)」
これはパンプキンではないかと思うが……。
ビラについても詳しい記述があった。
8月10日にもビラが撒かれたという。
原爆はパラシュートで投下されてないことがさらに書かれてありました。
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