『娘よ、ここが長崎です
原爆のおそろしさをうったえた
永井隆の遺児・茅乃のねがい』
筒井茅乃・作/松岡政春、保田孝(写真)/
くもん1985年、1990年22刷
茅乃さんは結婚されて、関西に住んでおられたようです。
ボクの少年時代には隣の市にお住まいだったみたいです。
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「被爆四十年めのねがい
昭和二十年八月九日、長崎市の浦上上空で、一発の原子爆弾がさくつれした。長崎医科大学の永井隆博士は、みずからも重傷をおいながら、人びとの救護にあたった。被爆当時の惨状と、献身的な愛で救護活動をつづけた父隆の姿を純真な目で見つめていた少女−−茅乃が、今、母となり、平和の尊さを娘に語りつたえようとする。」
故郷へ帰られた時の文章。下「」引用。
「昭和五十八年(一九八三)年春、わたしは肉親の供養のために、ひさしぶりに、娘をつれて、生まれこきょうの長崎市にかえりました。
わたしの生まれところは、長崎市上野町です。
そこは長崎の町をふたつにわけている金比羅(こんぴらさん)山が東に、岩屋(いわや)山、稲佐(いなさ)山が西にある、せまい土地。むかしから、浦上といわれていたところにあります。
きょうも、天主堂の鐘の音がなりわたる浦上は、いまはなき、父の永井隆、母の緑とともにすごした思い出と、兄の誠一(まこと)のあとをおってあそんだ川や石だたみの道のある、わたしにとってなつかしい思い出の地なのです」
茅乃(かやの)という名前は、永井隆博士がつけられたようです。
“かやの”とは、春の野原に小さな白い穂をなびかせている“チガヤ”のことだそうです。
当時の風情はボクの子供時代にも通じるものがあります。下「」引用。
「家のまえの石だたみの道は、ふたりならんであるくと、いっぱいになるような小道具でした。工場へいく生徒や職工さんたちが、よくとおりました。
カラコロカラカロ カラコロカラコロ
朝はやくから、まいる石をしきつめたその道を歩くげたの音が、きこえてきました。」
原爆が落とされたときには、茅乃さんはまだ子どもだから、看護婦さんのことを「カンゴクさん」と呼んでいたそうです。
こわそうな看護婦さんだったのでしょうか? 今では看護師さんですね。詐欺師みたいでイヤだわと、話している方もおられました。
アメリカ兵からお菓子をもらったことなども書かれています。
腹水がたまって、寝た切りの永井隆博士、それでも著作は続けられたようです。
第二楽章 長崎から 吉永小百合(朗読)
目 次
原爆のおそろしさをうったえた
永井隆の遺児・茅乃のねがい』
筒井茅乃・作/松岡政春、保田孝(写真)/
くもん1985年、1990年22刷
茅乃さんは結婚されて、関西に住んでおられたようです。
ボクの少年時代には隣の市にお住まいだったみたいです。
表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。
「被爆四十年めのねがい
昭和二十年八月九日、長崎市の浦上上空で、一発の原子爆弾がさくつれした。長崎医科大学の永井隆博士は、みずからも重傷をおいながら、人びとの救護にあたった。被爆当時の惨状と、献身的な愛で救護活動をつづけた父隆の姿を純真な目で見つめていた少女−−茅乃が、今、母となり、平和の尊さを娘に語りつたえようとする。」
故郷へ帰られた時の文章。下「」引用。
「昭和五十八年(一九八三)年春、わたしは肉親の供養のために、ひさしぶりに、娘をつれて、生まれこきょうの長崎市にかえりました。
わたしの生まれところは、長崎市上野町です。
そこは長崎の町をふたつにわけている金比羅(こんぴらさん)山が東に、岩屋(いわや)山、稲佐(いなさ)山が西にある、せまい土地。むかしから、浦上といわれていたところにあります。
きょうも、天主堂の鐘の音がなりわたる浦上は、いまはなき、父の永井隆、母の緑とともにすごした思い出と、兄の誠一(まこと)のあとをおってあそんだ川や石だたみの道のある、わたしにとってなつかしい思い出の地なのです」
茅乃(かやの)という名前は、永井隆博士がつけられたようです。
“かやの”とは、春の野原に小さな白い穂をなびかせている“チガヤ”のことだそうです。
当時の風情はボクの子供時代にも通じるものがあります。下「」引用。
「家のまえの石だたみの道は、ふたりならんであるくと、いっぱいになるような小道具でした。工場へいく生徒や職工さんたちが、よくとおりました。
カラコロカラカロ カラコロカラコロ
朝はやくから、まいる石をしきつめたその道を歩くげたの音が、きこえてきました。」
原爆が落とされたときには、茅乃さんはまだ子どもだから、看護婦さんのことを「カンゴクさん」と呼んでいたそうです。
こわそうな看護婦さんだったのでしょうか? 今では看護師さんですね。詐欺師みたいでイヤだわと、話している方もおられました。
アメリカ兵からお菓子をもらったことなども書かれています。
腹水がたまって、寝た切りの永井隆博士、それでも著作は続けられたようです。
第二楽章 長崎から 吉永小百合(朗読)
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