磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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石田郁夫記録文学選集2 天皇制国家と海外侵略-排外主義を撃つ思想的原基-

2009年10月02日 | 読書日記など
『石田郁夫記録文学選集2
  天皇制国家と海外侵略-排外主義を撃つ思想的原基-』
    石田郁夫・著/御茶の水書房1993年

タイトルと本文があわない感じがします。
ヒロシマのことも書かれてありました……。
著者は30年近く、ヒロシマ・ナガサキに関わったという……。



流言を信じた兵士……。下「」引用。

「O氏は今、四五歳、あの八月六日にのは大竹海兵団で精神棒におびえていた。家のある広島が、爆撃されたというので、軍は三日間のひまをくれた。六日のピカリは遠望したが、あれは日本軍の、とっておきの秘密兵器の実験だという流言を信じきっていたので、ただもう女と逢える、若い女をむさぼり見ることが出来るという一念で、はちきれんばかりになって一散走りに広島へ来た。そして見た、相生橋の死体の山を、太田川の死体の筏を、練兵場の焼けぽっくいと化した隊列を……、行きかう女たちは、そそけだったローソクの行列のようだった。-略-」

原爆病院の姥捨て。“いこいの家”の田辺耕一郎氏。下「」引用。

「氏のもとには年寄りちから絶えず、くさぐさの相談ごとが持ちこまれる。たとえば「原爆病院から退院しようと思っても、息子夫婦が帰ってくるなという」。原爆病院への姥捨て事件が、持ちこまれる。氏は、その鬼のような息子を訪れて、こんこんと説いて聞かせる。こんこんと説いて聞かせる。そう言った役割を、彼が果たしているかぎりにおいて、「義太夫」も、ありがたく聞けようと言うものだろう。フランス人の篤志家の寄金によってこの“いこいの家”は維持されている。ところがいま、ここに、立ち退き問題が生じた。-略-」

立ち退き迫られる吉川氏と被爆者。下「」引用。

「「背広着とる。クツはいとる、原水協理事の名刺もち歩いとる、原爆を売りものにして、うまいことしとる」。吉川氏は原爆病院を出て、喰いつめてしまった時、原爆屋に居直ったように、これらの非難や、かげぐちに対しても居直るほかなかった。-略-」

原爆少女歌手だというコロンビヤの新人歌手の追悼の歌。

ファシズムの体質……。下「」引用。

「-略-このような無名の心ばえに対する敬虔の然を、その根底に持たない運動は、ファシズムに転化するだろう。-略-」

プレスコード、ABCC……。下「」引用。

「占領期間中、プレスコードによって禁止され、その間、多くの犠牲者を見殺しにしました。-略-ABCCに日本の厚生省の管轄する国立予防医学研究所のスタッフを組みこむことによって専門的に進められ、その研究結果は最初、英文で、最近は日米両文で発表され、日本とアメリカの医学者に配布されております。……原爆医療法が制定施行されている現在も厚生白書に、原爆被災者のための原爆医療の項は昭和三七、八各年度、わずかに三十行内外で済まされているわけです。つまり原爆被災に関してはアメリカへの遠慮で、日本政府としての公式発表 を戦後十九年をへた今日なお国内および国外へもさしひかえているということでしょうか-略-」

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政治的抗争の玄人活動家。下「」引用。

「広間で、原水爆禁止広島母の会を、政治的抗争でつぶされてしまった正田篠枝さんも「玄人」について言っていた。「わたし達あ、書いたり弁じたり、うまく出来ないから、どうしても玄人の人がいるのですが、その玄人の人がねえ……」-略-」

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大江健三郎が正しいとは限らないし、被爆者もいろいろ……。下「」引用。

「大江氏は、いかに現実を美化したか、本当のところは、事実は、かくかくしかじかと、聞きこんできたところを力説する。
「被爆者同士であればこそ、相互に、足をひっぱり合うことだってある……」と私は説明する。だから、被爆者が、運動の分裂を怒り悲しんでいる。非難しているといっても、額面どおりにとることは出来ない。被爆者の証言であれば、すべてそれが真実であると言えない。かつて共産党の綱領討議のおり、私は被爆者だから、この綱領の正しさが体でわるかという代議員がいたら、満場セキとして声なしという情景を見たことがある……その下らなさを君らにわかるだろう。被爆者の言であれば、絶対だということでは、すべて、こんがらかってどうしようもなくなる」と、私がまわりくどく説ききかすと、不満そうだったが、そのうちようやく、-略-」

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佐藤栄作と日の丸ヘルメットの右翼。下「」引用。

「糾弾闘争の勝利を確認して、集会はつづけられ、「佐藤に怪我された慰霊碑を、われわれの黙祷できようめよう」という提案がなされ、雨のなかを被青同の旗を先頭に、慰霊碑前に進んだ。参列者はひっきりなしにつづいた。子供の手をひいた主婦たちまで、はずむようにつきしたがっていった。インターと「原爆許すまじ」がひびいた。
 その後も集会は、ひきつづきもれた。うかがいにきた日の丸ヘルメットの右翼は、市民の輪に一蹴され、平和公園はようやく民衆の場となった。-略-」

インターで、たんなる民衆? なんだろうか?

今では、イデオロギーに染まった被爆者たちはほとんど見かけなくなりましたね……。

でも、街宣車はつめかけますね……。自由主義史観も……。

1 沖縄闘争誌-新たな沖縄闘争の構築へ-

3 差別の重構造と階級支配







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