NHK総合 2008年8月7日
NHKスペシャル
解かれた封印
-米軍カメラマンが見たNAGASAKI
美智子皇后が、このカメラマンが遺した一枚の写真にコメントをよせられたという。
あの直立で弟の死体を背負っていた少年の写真である。
その写真をとったのアメリカ海兵隊第5師団ジョー・オダネル軍曹(去年の夏85歳没)。
オダネルは軍の命令にそむき30枚の写真とっていた。
--長い間、封印されてきたという。
トランクからとりだし、オダネルは公開する。
--なぜ公開したかのテープが発見されたという。
「アメリカはきのこ雲を見て戦争は終わったと思っていた。しかし、それは間違いだった。生き残った日本人にとって苦しみの始まりだったのだから」
■アメリカ・ネバダ■
ジョー・オダネルの息子、タイグ・オダネル。
ホテルで働き、写真とは無関係の人生だったが、写真を引き継ぐことになった。
屋根裏部屋に置かれていたトランク。
父は開けるなといっていたが、67歳の時、突然トランクを開けた。
--そこには軍の規則をやぶって撮った写真があった。
きめられたカメラでしか撮影は許されていなかった。
--ひそかに持ち込んだカメラでとった……。
日本人の姿がとらえられていた……。
--なぜ、命令にそむいて、写真をとろうとしたのか、父の心情を知りたがる息子。
今年、父の遺品に肉声のテープを残していた。
--地元・図書館員が遺していた戦争の記録。ジョー・オダネルへのインタビュー。
日本人への憎しみから軍に入ったと告白。
1945年8月、原爆投下を聞いた時の記録も残していた。
終戦から同年9月22日に、占領軍として長崎県佐世保市に。
長崎にはいってオダネルは衝撃を受ける……。
一歩ずつ爆心に進み、その破壊力を記録していったという。
目の前の現実は想像をはるかにこえたものだった……。
許可なく日本人を撮ってはいけないという命令を破ったオダネル。
チョコレートをもっているオダネルの後をついて来たという……。
子供たちの親は戦場か原爆で亡くなっていた……。
晴れ着を着た少女は爆音で耳が聞こえなくなったという。
オダネルは救護所へ向う。
--患者から殺してくれと言われたという……。
肉塊としか思えない顔から涙が出ていたという。
--オダネルは眠れなかった。
翌日、その被爆者の所へ行くと、いなかった……。
憎しみから憐れみにかわったという……。
■息子は父の同僚の所へ
米軍兵隊ノーマン・ハッチ元少佐(87)。
個人の感情をすて、記録に徹しなければならなかった……。
■廃墟の丘の浦上天主堂
8,500人の信者が亡くなられた。
このあたりで一番、写真をとった。
あの少年の写真もここで撮られたものであったという。
炎が彼のほおを赤く覚めていたという……。
7か月にわたって、撮影したという。
■帰国後■
長崎の記憶に精神をさいなまれたという。
「写真をみたくなかった
見ると長崎の悪夢がよみがえってしまう」
以後43年間、屋根裏部屋に隠した。
■息子は回顧する■
やさしい父だという……。
何があっても、トランクに触るなと言われていたという。
トルーマン大統領を撮影する仕事についたという。
アメリカは原爆を正当化し、核兵器を増強。
オダネルはトルーマン大統領に一度だけ質問。
--1950年、朝鮮戦争を指揮していたマッカーサーとトルーマンが会談の時。
「大統領、私は長崎と広島で写真を撮っていました。あなたは日本に原爆を落としたことを後悔したことはありませんか」
トルーマンは動揺し真っ赤にしてこう言った。
「当然それはある。しかし原爆投下は私のアイデアではない。私は前の大統領から単に引き継いだだけだ」
--オダネルは苦悩を深めていったという。
■退役軍人■
「原爆は日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」
「原爆は必要だった」
■体調の変化■
25回の手術を受けたという。原爆症ではないか……。
放射能がもたらす健康被害について何も知らされてなかった。
保証を求めたが、却下……。
■反核運動の彫像に出合う■
そのイエスの彫像には被爆者の写真が貼られていたという……。
ナガサキの様子が甦ってきたという……。
オダネルは屋根裏部屋に行き、トランクを開く。
ネガは当時のまま、残っていた……。
■妻は衝撃をうけ、離婚■
母は写真から目をそむけたという……。
オダネルはアメリカの各地で写真展を開く。
本に掲載してもらおうと35社をまわるが、全て断られたという。
--家にはいやがらせの手紙が来たという。
そして離婚。
オダネルは孤立を深めていった……。
オダネルが『原爆神話』を否定する名演説をしている……。
--日本でも写真を公開、体験を語る。
■息子・当時の通訳者の所へ■
父は再開した被爆者と再会した。
救護所での少年と再会。
その少年は谷口稜曄。
10年間、谷口とともに、原爆の過ちを訴えた。
あの少年の行方を捜し続けた……。
全国各地を歩くが発見できず。
行方をさがして10年、ついに捜せなかったという。
背骨の痛み、そして皮膚ガンは全身に転移していたという。
亡くなったのは8月9日長崎原爆投下の日だったという。
一通だけオダネルを擁護する手紙があったという。
「原爆とは何だったのか?
図書館に行って歴史を勉強してから批判しろ」
--その手紙は23歳の息子。オダネルが日本へ行った年齢だったという。
そして、息子が跡を継ぐことに……。
全米にむけて父の写真をネットで公開した。
--写真に批判の声が集まったという。
父の時代には見られないコメントもあったという。
「長崎の少年を見ました。悲しみに堪えている姿に胸が締めつけられました。原爆の写真で、こんなに心動かされることはありませんでした。」
それは、イラク帰還兵からのコメントだった。
さらに。
「この写真は戦争の現実を伝えている。もしこれがイラクで写された写真だったら、アメリカ人はイラクへの駐留を考え直したかもしれない。」
思い掛けない人からの意見。--母からのものだった。
未だに母国を告発したかわからないというが、ジョーの写真は多くの人に影響を与えており、ジョーが息子を誇りにしているだろうと理解しているという。
■息子、来日■
長崎原爆資料館で、ジョー・オダネル写真展が開催。
--会場で谷口稜曄と出合う。
まだ、手術をしているという。
写真に記録された場所をまわる……。
父と同様にカメラで写真をとる。
あれから63年。
息子は、子供たちを撮影する。
--生前父が願っていることをするためだという。
あの日の長崎には子供の笑顔がなかった。
いつかそれを撮りたいと……。
本当の愛国者は、オダネル父子だろう……。
戦争愛国主義はたんなるファシズムでしかないだろう……。
--その証拠に相手のそれは認めることができない……。
トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録
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NHKスペシャル
-米軍カメラマンが見たNAGASAKI
美智子皇后が、このカメラマンが遺した一枚の写真にコメントをよせられたという。
あの直立で弟の死体を背負っていた少年の写真である。
その写真をとったのアメリカ海兵隊第5師団ジョー・オダネル軍曹(去年の夏85歳没)。
オダネルは軍の命令にそむき30枚の写真とっていた。
--長い間、封印されてきたという。
トランクからとりだし、オダネルは公開する。
--なぜ公開したかのテープが発見されたという。
「アメリカはきのこ雲を見て戦争は終わったと思っていた。しかし、それは間違いだった。生き残った日本人にとって苦しみの始まりだったのだから」
■アメリカ・ネバダ■
ジョー・オダネルの息子、タイグ・オダネル。
ホテルで働き、写真とは無関係の人生だったが、写真を引き継ぐことになった。
屋根裏部屋に置かれていたトランク。
父は開けるなといっていたが、67歳の時、突然トランクを開けた。
--そこには軍の規則をやぶって撮った写真があった。
きめられたカメラでしか撮影は許されていなかった。
--ひそかに持ち込んだカメラでとった……。
日本人の姿がとらえられていた……。
--なぜ、命令にそむいて、写真をとろうとしたのか、父の心情を知りたがる息子。
今年、父の遺品に肉声のテープを残していた。
--地元・図書館員が遺していた戦争の記録。ジョー・オダネルへのインタビュー。
日本人への憎しみから軍に入ったと告白。
1945年8月、原爆投下を聞いた時の記録も残していた。
終戦から同年9月22日に、占領軍として長崎県佐世保市に。
長崎にはいってオダネルは衝撃を受ける……。
一歩ずつ爆心に進み、その破壊力を記録していったという。
目の前の現実は想像をはるかにこえたものだった……。
許可なく日本人を撮ってはいけないという命令を破ったオダネル。
チョコレートをもっているオダネルの後をついて来たという……。
子供たちの親は戦場か原爆で亡くなっていた……。
晴れ着を着た少女は爆音で耳が聞こえなくなったという。
オダネルは救護所へ向う。
--患者から殺してくれと言われたという……。
肉塊としか思えない顔から涙が出ていたという。
--オダネルは眠れなかった。
翌日、その被爆者の所へ行くと、いなかった……。
憎しみから憐れみにかわったという……。
■息子は父の同僚の所へ
米軍兵隊ノーマン・ハッチ元少佐(87)。
個人の感情をすて、記録に徹しなければならなかった……。
■廃墟の丘の浦上天主堂
8,500人の信者が亡くなられた。
このあたりで一番、写真をとった。
あの少年の写真もここで撮られたものであったという。
炎が彼のほおを赤く覚めていたという……。
7か月にわたって、撮影したという。
■帰国後■
長崎の記憶に精神をさいなまれたという。
「写真をみたくなかった
見ると長崎の悪夢がよみがえってしまう」
以後43年間、屋根裏部屋に隠した。
■息子は回顧する■
やさしい父だという……。
何があっても、トランクに触るなと言われていたという。
トルーマン大統領を撮影する仕事についたという。
アメリカは原爆を正当化し、核兵器を増強。
オダネルはトルーマン大統領に一度だけ質問。
--1950年、朝鮮戦争を指揮していたマッカーサーとトルーマンが会談の時。
「大統領、私は長崎と広島で写真を撮っていました。あなたは日本に原爆を落としたことを後悔したことはありませんか」
トルーマンは動揺し真っ赤にしてこう言った。
「当然それはある。しかし原爆投下は私のアイデアではない。私は前の大統領から単に引き継いだだけだ」
--オダネルは苦悩を深めていったという。
■退役軍人■
「原爆は日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」
「原爆は必要だった」
■体調の変化■
25回の手術を受けたという。原爆症ではないか……。
放射能がもたらす健康被害について何も知らされてなかった。
保証を求めたが、却下……。
■反核運動の彫像に出合う■
そのイエスの彫像には被爆者の写真が貼られていたという……。
ナガサキの様子が甦ってきたという……。
オダネルは屋根裏部屋に行き、トランクを開く。
ネガは当時のまま、残っていた……。
■妻は衝撃をうけ、離婚■
母は写真から目をそむけたという……。
オダネルはアメリカの各地で写真展を開く。
本に掲載してもらおうと35社をまわるが、全て断られたという。
--家にはいやがらせの手紙が来たという。
そして離婚。
オダネルは孤立を深めていった……。
オダネルが『原爆神話』を否定する名演説をしている……。
--日本でも写真を公開、体験を語る。
■息子・当時の通訳者の所へ■
父は再開した被爆者と再会した。
救護所での少年と再会。
その少年は谷口稜曄。
10年間、谷口とともに、原爆の過ちを訴えた。
あの少年の行方を捜し続けた……。
全国各地を歩くが発見できず。
行方をさがして10年、ついに捜せなかったという。
背骨の痛み、そして皮膚ガンは全身に転移していたという。
亡くなったのは8月9日長崎原爆投下の日だったという。
一通だけオダネルを擁護する手紙があったという。
「原爆とは何だったのか?
図書館に行って歴史を勉強してから批判しろ」
--その手紙は23歳の息子。オダネルが日本へ行った年齢だったという。
そして、息子が跡を継ぐことに……。
全米にむけて父の写真をネットで公開した。
--写真に批判の声が集まったという。
父の時代には見られないコメントもあったという。
「長崎の少年を見ました。悲しみに堪えている姿に胸が締めつけられました。原爆の写真で、こんなに心動かされることはありませんでした。」
それは、イラク帰還兵からのコメントだった。
さらに。
「この写真は戦争の現実を伝えている。もしこれがイラクで写された写真だったら、アメリカ人はイラクへの駐留を考え直したかもしれない。」
思い掛けない人からの意見。--母からのものだった。
未だに母国を告発したかわからないというが、ジョーの写真は多くの人に影響を与えており、ジョーが息子を誇りにしているだろうと理解しているという。
■息子、来日■
長崎原爆資料館で、ジョー・オダネル写真展が開催。
--会場で谷口稜曄と出合う。
まだ、手術をしているという。
写真に記録された場所をまわる……。
父と同様にカメラで写真をとる。
あれから63年。
息子は、子供たちを撮影する。
--生前父が願っていることをするためだという。
あの日の長崎には子供の笑顔がなかった。
いつかそれを撮りたいと……。
本当の愛国者は、オダネル父子だろう……。
戦争愛国主義はたんなるファシズムでしかないだろう……。
--その証拠に相手のそれは認めることができない……。
トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録
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