磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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占領下の広島-反核・被爆者運動草創期ものがたり-

2009年07月02日 | 読書日記など
『占領下の広島-反核・被爆者運動草創期ものがたり-』
   渡辺力人、田川時彦、増岡敏和・編/四国五郎・表紙/日曜舎1995年

被爆者運動といっても、庶民的ではなく、イデオロギー的な感じがボクにはする本ですネ……。



カバー絵 四国五郎

「爆心地にむかう三人のジャーナリスト」 下「」引用。

「中国新聞社は壊滅し、七日と八日は発行出来なかったからである。その日に書いた大佐古の原爆直後の広島の記事も発表出来ずじまいになった。しかし彼は、その取材内容を日記にしたためて保存し、ずっと後に発表する。
 「広島特報」である。発行に当って、「この新聞は原爆投下直後に爆心地をめざした三人の記者・カメラマンが、その時の取材にもとづき、当時の気持そのままに、あらためて今、二日間(七日と八日)の新聞を発行するものである。」と注釈を付している。タブロイド版謄写印刷の新聞であった。発行日は一九八○年八月六日である。-略-」

「科学朝日」が出版物では最初だという。下「」引用。

「最初の出版物は「原子爆弾特輯」を組んだ「科学朝日」誌の一九四五年七月号だという。原爆投下以前の号に広島原爆が載っているのは不思議だが、この頃は月遅れが普通(先付発行になるのは一九五○年頃から)であったから、実際の発行日は同年の九月中旬頃ということである。占領軍によってプレスコード(日本に与える新聞遵則)が九月十九日に発せられているから、その少し前の刊行したのだろう。しかもひっかけられないよう内容はすべて外電で構成されていねる。外電紹介なら占領軍に弾圧されることはあるまいという苦肉の策だったらしい。」

最初の小説は、壷井栄の「石臼の歌」、「少女倶楽部」一九四五年の八・九月合併号に発表。

削除されているという……。下「」引用。

「しかし一九四七年発行の壷井の童話集以後、原爆に関する記述二十六行が最初の文章から削除されている。「戦争の生んだ広島の悲劇の渦の中で、人人の思ひもおよばない苦痛を身にあびてゐたとは……」「世界を驚かせた原子爆弾が、この日広島に投下されたのです」という部分である。
 これについて冨沢は、壷井の死後だったので関係者に問い合わせたが理由は分らなかったと書いている。そして「占領下だったため、GHQへ遠慮したことなどが想像されるが、作者の生前ついに元へ戻されなかった(ことは)……残念である」と言っている。原爆に関するところだけにこの削除は私も残念に思う。しかし冨沢(*佐一)のした「想像」のところは疑義もある。-略-」

「中国文化」のことが書かれてありました。

原民喜の姪・原華子さん1952年8月1日の「原爆の子にこたえる会」で手記を朗読。下「」引用。

「くうしゅうの時、サイレンがなると、いつも私をおぶってにげてくださった叔父さまは、去年の三月十三日、東京の郊外電車にひかれて自殺されました。広島城のあとに碑がたてられました。佐藤春夫先生が来られて、『この碑を見るたびに、もう決して戦争をしてはならない、こんな悲しい目にあってはならない、みんなで平和な国をつくろう、ということを思い出してください。』とお話しになりました。私も、もう戦争は大きらいです。私の叔父さまは自殺されました。けれども、あとにのこった私たち原爆の子につよい期待をかけて、つぎのような詩をのこして死んでいかれたのです。
   永遠のみどり
ヒロシマのデルタニ
-略-」

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「広島子どもを守る会の精神養子運動」山口勇子・著。

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「辻詩運動と平和美術展の展開」四國五郎・著。下「」引用。

「はじめに「辻詩」なる名称について説明する。当時はこれを「壁詩」とも称していた。
 ほぼ新聞の一ページから二ページ大の紙に詩と絵を組みあわせて描き、これを焼け跡の塀や壁などに数枚または十数枚を展示した。正確に言えば展示よりも、ビラやポスター貼りに近い。-略-」

美術館がなかった軍都……。下「」引用。

「広島は軍都という忌まわしい呼び方もされた街で、あらゆる軍事施設と軍隊が存在したが美術館・博物館はなく、現在原爆ドームとなって残る県立の産業奨励館がその代わりをしていた。私(*四国五郎)は敗戦の前年徴兵されて知らなかったが、憧れだった先輩画家山路商は、太平洋戦争開戦の翌日特高警察に逮捕されて拷問で痛めつけられ死亡した。靉光は同じ年に召集されて中国に送られて死亡していた。-略-」

孤児から買っていた原爆一号吉川清。下「」引用。

「彼はまた求めに応じて原爆で灼かれた瓦や溶けたガラス瓶をサービスしていた(無料)。原爆孤児が買ってくれともってくるものがたまってしまうので、そうしていたのである。それに対して「原爆を売りものにして儲けている」という非難も被っていた。面とむかって言われると、彼は顔を真っ赤にして怒ることもあったが、やはり耐えていることが多かった。おなじ被爆者から言われるのが一番こたえると言ってもいた。-略-」

ABCCに入院しした吉川の妻、生美の証言。下「」引用。

「-略-ところが治療は一切してくれない。検査、検査である。食事は毎食乾燥物ばかりであった。乾燥卵、乾燥肉であり、野菜や果物は缶詰ばかり。原爆戦が始まったら、シェルターの中で何日生きていけるかという実験のモルモットにされていたのではないか。「危ない」と生美はふと思ったという。そこで夫を呼び、ABCC側の止めるのも聞かず強引に退院し、そのまま原爆ドームの近くの河村医院に入院した。」

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食欲もなかったが、飲んだこともないブドウ酒をのんだら、食欲がわき、回復していったという……。










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