磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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双書・人間の航路 平和の夢を追いつづけて

2006年04月18日 | 読書日記など
『双書・人間の航路
   平和の夢を追いつづけて』
       原田東岷・著/影書房1984年

原田東岷の三冊目の本です。
危篤になったり、体調が悪かったようです。



1982年の春、著者の健康にかげりがあり、
7月から相次いで4回も手術を受ける身になってしまったという。
ある時期には危篤が伝えられたらしい。
 
原爆乙女の死について、わりと詳しく書かれてあります。
〈原爆乙女〉についても解説してくださっています。下「」引用。

「〈原爆乙女〉については、前者二冊において触れてあるが、かいつまんで説明しておこう。昭和二十(一九四五)年八月六日、当時広島市の中学生(女学生)の高学年は工場に、低学年は市内の建物疎開に動員されていた。当日爆心地から一・五キロ~一・八キロあたりの平町、比治山橋付近では多数の女学校一年生、二年生が作業をしていて被爆し、全員がひどい火傷を負った(もっと誓いところで作業していた男子中学生は殆ど全員爆死した)。彼女たちは主として顔面や頸部にすさまじい射熱傷(フラッシュ・バーン)を受けたため、数カ月後ないし一年後創がふさがった時には、言語に絶するハンコンのヒキツリやケロイドが残された。多くの人々は口のまわり固い瘢痕のため口が開かなくなったり、目瞼(まぶた)のヒキツリのため四六時中目が開いたていたり、その他あらゆる醜形と機能不全が幼い彼女たちを苦しめた。おまけに、ケロイドは切除しても三カ月後には再発して、元の黙阿弥になり、外科医を唖然とさせたものである。昭和二十五年頃、流川協会の谷本牧師はそれらの妙齢の女性の救援に立ち上がり、十数名の人々がシオン会というグループを作って、神の恵みに縋った。やがてこの人たちをマスコミが〈原爆乙女〉と呼ぶようになったのだ。」


これらはノーマン・カズンズがはじめたようです。
大内五良医師と著者(原田東岷)は
協力医師として同行を要請されたという。

アメリカへ渡った原爆乙女の最初の死は、
手術中に死亡であったという。
しかし、事業は亡くなられた原爆乙女の
家族からの要請もあり続けられたという。

マスコミによって差別が助長されたと書いてあるけれど、
癌を新性腫瘍などと名前をかえる方が問題があると思います。

この本ではありませんが、キング牧師の運動をはじめたのは、
カトリックの神父だったという。
そして当時のキング牧師たちは、
そんな「差別」をおおぴらに言えば、
差別が助長されると非難した。
しかし、それが間違いであったことは、キング牧師自身が
証明したと僕は思っています。
語らないなら、差別じゃないと認めたことになると
主張される方が正しいと思います。
たとえ心の中で差別反対を叫んでいたとしても、
現実の世界では何もしていないことと同じと
書かれてあるのが本当だと思います。


バーバラというクエーカー教徒の平和運動家のことが
書かれてありましたが、すさまじいとしか言えません。

1983年11月、広島市は太平洋市長・商工会議所長会議の会場となり、
五百名の客を迎えた。
広島ばら会の有志は1年前から準備し、ピースばらを配布したという。

原田東岷は〈ヒロシマ〉という名のばらを願ったようです。

最後に長い詩がありました。一部分だけです。下「」引用。
「人々は平和を好んだが
平和を楽しむものと考え
きずくべきものとは気づかなった
人々はまもなく
戦いの痛みを忘れ
再び戦場に向かった」



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