磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原子爆弾-広島の姿-続2

2008年10月25日 | 読書日記など
『原子爆弾-広島の姿-続2』
   広島市二葉公民館・編/広島市二葉公民館1989年

中山村に避難民がやってきたことが書かれてあります。
--当時の生活について書かれてあります。
電気などもない……。



題字 広川照明

「はじめに」で書かれてあります。 下「」引用。

「二葉公民館では、みなさまのご協力をいただき原子爆弾-広島の姿-を一九八八年(昭和六十三年三月)にの発刊しました。続いて一九八九年(平成元年二月)に続1を発刊しました。更に今回、一九八九年(平成元年三月)に続2を発刊することになりました。
 みなさまのご協力に対し感謝しつつ、二度とこのような大惨事が地球、宇宙全てに渡って起らないよう、全世界の恒久平和を祈るものであります。
   一九八九年(平成元年三月)
      広島市二葉公民館 館長 広川照明」

「七、被爆後の生活状況」……。下「」引用。

「被爆後の中山村は三五○世帯であったが、避難者の殺到により、伝染病発生のおそれがあり、七日に安芸地方事務所へ石灰の交付を申請していたところ、まもなく、蒲刈島から送付して来たので、週一回、各戸の便所へ散布してまわった。幸いに、伝染病も発生せず、ハエも少なかった。ノミ、シラミの害も特別になかった。
 当初、非常米を受けていないところへ、十日まで炊き出しをし、また個人家庭では、保有米を炊いて避難者に提供した家が多かったから、食糧が極度に欠乏した。炊出しにあたっては、麦・馬鈴薯・南瓜なども加えた。トマト・茄子・胡瓜などの供出は少なかった。しかし、応援医師に対し供応するぐらいはあった。-略-」

電灯は9月初旬についたとそうである……。

メンソレータムを頭につけたという。
ヨートチンキはすぐになくなったそうです。

「中山の避難民救済状況」増岡貞五郎・著。下「」引用。

「そのうち近所の人が、国民学校が避難者のためろにたき出しがあるらしいと伝えて来た。-略-そこで私と兵隊三人は国民学校に行った。にぎり飯の配給を受けた兵隊に先に帰ってもらい、私は国民学校の教室にはいってみた。多くの被災者がいるというので、もしや会社の同僚がおりはしないかと思ったからである。-略-ほとんどの人の顔や手は焼けただけているのだからとても人相の判別なんか出来そうにない。」

大変だったことが書かれてある……。下「」引用。

「避難民は民家へ約二、五○○人、国民学校へ約一、○○○人というから、ほとんど全部の民家が避難民を収容した。またあの小さな国民学校に約一、○○○人もはいって文字通り足の踏み場もなかったはずである。
 救護状況-当時中山地区は無医村であった。七日猿猴橋町の澤田医師が来着した。▽八日~九日…忠海町、竹原町方面から医師三人、看護婦二人。▽九日~十二日…鳥取県から医師さん分、看護婦三人。▽十二日…呉市から医師(人員不明)来援。▽十四日…倉橋島から医師二人。▽十五日…浦刈島、江田島、庄原から医師(人員不明)来援。▽十六日~二十日までは医師の来援なし。▽二十一日~二十五日…大阪市から医師四人。」









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1 コメント

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佐々木禎子 (ゆう)
2009-09-25 17:15:26
原爆の子の像で知られる佐々木禎子さんの甥にあたる、佐々木祐滋さんという歌手がいらっしゃいます。
禎子さんの事を歌っていますので是非一度聞いてみてください。

www.yujisasaki.com
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