磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆に生きて-----原爆被害者の手記-----

2008年03月05日 | 読書日記など
『原爆に生きて-原爆被害者の手記-』
   原爆被害者の手記編纂委員会・編/三一書房1953年

このような本を出すのも、なかなかできるものじゃなかったようです。




「序」に書かれてあります。下「」引用。
 
「我々が原爆被害者の手記を集めようといい出したのは、一九四八年の八月で、いよいよ具体的に仕事が進み出したのは、一九五二年八月であります。この間我々はその集め方について、適切な方法がみいだせず、それが為に仕事が前へ進まなかったのです。八月二十一日の相談の結果、新聞やラジオによる募集には、あまり頼らず我々が被害者の家を直接訪問して御願いし、書けない人々のは代筆してもいい、発表の機会に恵まれない人々の、手記を書かれることに重点をおこうということなったことは、この仕事を進める一つの鍵となったようです。」

--永井隆博士が白血病になっても六年生きてこられたことが目標となった人もいるようです。
しかし、永井隆博士は当時としては、やはり一般の被爆者と比べれば恵まれたほうではないかとボクは思います。そして、それよりも大きなことは永井隆博士が、その著作権などで被爆者や文化に貢献したことも忘れてはいけないことだろうと思う。特に長崎の人は忘れてはならないとボクはおもう。京都人ならそう考えるだろう……。しかし、差別主義的なイデオロギーの人たちはそうはならないかもしれません。なぜなら、彼らは多様化を認めることはないようです。

平和も単なるカードでしかなかったら、寂しいものですね。

治療などについても、やはり御自身のことを気にされています。当たり前のことですね……。下「」引用。

「二十四年九月二十四日日刊山陽新聞健康相談に、広島市の原爆被害青年二十四歳が二十二年七月下旬より原爆症が現われ、皮下出血はん点と共に口内が発作的にタダレるので種々治療を試みたが、何等効果もなく大変困っているが治療法はないものでしょうかと質問されていました。この質問に対し広島医大病理学教室の玉川主任教授は、原爆当時殆どの者が皮下出血口内炎を起こして重症者は一二カ月で死亡し、其のほかの者は現在ではなおっており、現在原爆症の後遺症はビタミンBCの欠乏による栄養失調の一つとして壊血病が起っているから、血液検査して血球を調べる必要がある。また壊血病ならば偏食をせず野菜類を食べる事が必要だと述べておられました。私はこの記事を読み私と全く同一症状で悩み苦しみ原爆被害者のおられる事を知り、私だけの特異な病気でない事がわかりました。私の場合、壊血病は起っていないが、毎日多量の野菜を食べ偏食を避けて回復に努めましたが病状に殆ど変化はなく、ただ一進一退を繰り返すばかりでした。」

昭和二十四年、終戦後といっても軍関係者は優遇されたようです。下「」引用。

「十一月始め私が原爆被害の為自費で療養生活を続けている事が村役場厚生係の人に知れ、その人が軍関係の戦争犠牲者であるから復患療法を適用して国立病院に入院し、療養を続けてはと親切に勧めてくださるので、二十四年十一月末に国立病院で内科医長の診察を受け原爆症の疑いで入院しました。」

いろいろな樹木が傷ついた人の心を癒してくれますね。下「」引用。

「今日私の家には、原爆で枯れ死んだかと思った木槿(むくげ)が「無窮」の名にふさわしく、また芽を出して、私の背よりも高くのび、白い花が咲き、古い井戸の底には昔ながらの水が澄み、昔のままに残っている石は、耳をあてれば、原爆で死んだ人々のささやきがきこえるようです。で私は無窮庵鳴名と、自分の号を名乗りました。」

もくじ

電鉄に夫が勤務されていた人の文もありました。下「」引用。

「夫はかえらない
         多田マキ子
 戦争中私の主人は電鉄へ勤めておりましたので、そのため電鉄の課長様の世話で私共夫婦は皆実町二丁目のガスタンクの下へ立ててあった一個立の電鉄の家へ住むようになったのです。家の近くに逓信倉庫があって、二十年八月頃その倉庫でドラムを巻く仕事がありました。その仕事は男が三十円、女が十五円の日当で、日当がいいから主人は電鉄の休日はドラムを巻きに行き、私も暇さえあればドラムを巻きに通いました。」



3. 







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