磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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沈黙の壁をやぶって

2008年10月16日 | 読書日記など
『沈黙の壁をやぶって』
  長崎県教職員組合長総支部・長崎市被爆教師の会(編)/
        労働旬報社s45年

どうも庶民のボクとの間には大きな溝が、
あるいは亀裂がある……。



庶民の方の被爆体験などは受け入れたいとは思う。

しかし、ある種の独善的な思想は受け入れられない。


永井隆博士批判を「鎌田定夫」が展開する……。下「」引用。

「「天主は浦上の人びとを愛しているがゆえに浦上に原爆を落下した。浦上の人びとは天主から最も愛されているから何度でも苦しまねばならぬ。」という自虐的論理をどう考えたらいいだろう。これを喜ぶものは悪魔であって神ではない。永井博士のベストセラーズはだからこそもてはやされ、利用されたのではないか。ここからは、原爆を拒否し否定していく論理も心情も、また文学も生みだされはしない。」


「自虐的論理」……。
十字架を背負うという論理はキリスト教徒の論理ですね。
永井批判をする「鎌田定夫」や「山田かん」は共産主義……と書かれてあったと思う……。
ボク自身はどちらにも属していませんが……。

キリスト教徒が十字架を背負っていくことが、人類に対してどんな弊害があったのだろうか? 平和に対してどれほどの障害になったというのか?

むしろ、十字架を背負わなくなったブッシュ大統領など。むしろ、他者に十字架を背をわせることを好む。そのことでは大きな弊害があったような気がする……。名前だけのクリスチャンたち……。

宗教全体も、ビジネスやカルトのような存在がふえている……。
他者を尊重するよりも、欲望のトリコになっている。
きれいごとをいっても、核保有論者と組む平和……。

山田かんはこうも主張していたようです……。下「」引用。

「永井博士だけが負うべきではない。当時の長崎の指導的文化人といわれる人びとの詩歌や文章の多くに、類似の発想はハンランしているのだ。」


ところで、山田かんたちの類似の発想が平和にたいして、反核にたいして、どのような影響を与えたのでしょうか? 

憎悪が人類を地球をむしばんでいる……。
そのようにボクには思えてならない……。
平和というのはいいけれど……。
反核というのはいいけれど……。

永井隆博士の「五年間を顧みて」をきちんと理解したいとも思いました……。

そして、愛をもって、静かに怒っている人たちの怒りの方が力強いし、何に対して怒っているかも、大切なことだとも思いました……。

刻を曳く

京都の共産主義者は人道をとるので、まだ話し合いができたが、これじゃ、話し合いも困難でしょうね……。

永井隆は人道をとっているが、山田かんたちは、平和運動に人道を重んじていないのだろうか?

もし重んじていてくれたら、そこで和睦できるのに……。

新しい構造的暴力をつくろうとしている人たちとの和睦は実に困難でしようね。

そもそも本当の平和主義ではないとボクは思う。



司馬遼太郎が右翼も左翼も合わせカガミといわれていたと思う。

--「自虐的論理」の鎌田。

そして、今の南京大虐殺なかったという、右翼がいう「自虐史観」。

どちらも他者を罵倒するために使っているのでしょうね……。

そこに傲慢さ、独善性をみるという人がいても、ボクは否定できないなあー。









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