代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

大河ドラマ「天地人」への期待① -真田幸村の描き方-

2008年12月20日 | 真田戦記 その深層
 師走で多忙につき、全くブログの更新を怠ってしまいました。申し訳ございません。

 毎週楽しく見ていた大河ドラマ「篤姫」も終わった。「篤姫」は徳川幕府の「滅びの美学」を描いたが、次の大河ドラマの「天地人」は関ヶ原の合戦の上杉を描くことにより「負ける側のいさぎよさの美学」を描くようだ。
 日本経済が右肩上がりだった頃は勝者の側から見た歴史ドラマが多く制作されてきた。現在、敗者の側の歴史が重視されるようになってきたのも、競争の敗者を切り捨てることを礼賛してきた市場原理主義経済が完全な行き詰まりを見せた現在の世相を反映しているだろうか。

 今回の大河の制作側の意図は、「利」を求めるのではなく「義」と「愛」を貫く生き方の美しさを描くことだ。たとえそれで結果として負けても、義と愛を貫いた方がカッコよい、それがドラマのテーマ。NHKのHPを見たら、プロデュ-サーの内藤慎介氏、ディレクターの片岡敬司氏や、脚本を手がける小松江里子さんがそのようなことを書いていた。

 米国発の市場原理主義、そしてマスコミ世論がつくり出してきた、「利」のみを求める「合理的」で「個人主義的」な生き方を讃美する風潮に対する、アンチテーゼの発信。このようなテーマを設定した企画側の心意気はすばらしいと思う。

 徳川の覇道に異を唱え、義を求めて立ち上がった直江兼次を描きながら、「利ではなく義と愛」を訴えるテーマ設定は、利のみを礼賛する市場原理主義の猛威が世界を混乱の淵に陥れた、現在の世相に照らして的を得たものだと思う。そういえば、小松江里子さんが以前に脚本を書いたNHKの朝のテレビ小説の「どんと晴れ」も、「利ではなく愛」というメッセージが濃厚であった。

 さて、今回の大河ドラマで私にとってうれしいのは、私の故郷の英雄である真田幸村(本名・信繁)が、上杉謙信と直江兼次の「義」の精神を受け継ぐ重要人物として登場し、上杉と真田の浅からぬ因縁も描かれることだ。
 前の大河の「風林火山」では、いちど武田信虎に主家を滅ぼされ流浪の人となりながら、あえて信虎の子の武田晴信に仕えて旧領回復を遂げた真田幸隆の人物像が描かれた。

 今回は、上杉と真田の関係が描かれる。上杉と真田は川中島合戦以来長年の敵対関係にあった。しかし1585年、真田家が徳川と北条の二大勢力から攻められて滅亡の淵にあった際、真田昌幸は次男の幸村を人質として上杉家に送り、上杉は援軍を出して真田を助けてくれ、徳川軍に勝利した。その後、関ヶ原の折には再び真田は上杉とともに西軍に与して徳川と戦った。こうした因縁が描かれる。

真田幸村の人物像

 真田幸村という人物は、その実像があまりにも後世に歪められて伝えられているため、有名なわりに、ドラマや小説で、その人柄が正しく描かれたことはないと言ってよい。「鬼神のごとき軍神」といった俗な描き方は、幸村の実像からは全くかけ離れている。今回の大河ドラマでは、従来あるような「超人」的なイメージではなく、等身大の真田幸村像を正しく描いてほしい。

 幸村に関しては、直筆の書状がいくつか残っているので、その手紙を読めば人柄はよく分かる。手紙からは、心のやさしい、思いやりのある、おだやかで繊細な感性の持ち主だったことが伝わってくる。

 とくに死を覚悟した大坂夏の陣の前、城中から上田の姉や知人に出した手紙は、今の時代の我々が読んでも胸を打つ。
 幸村は、自分が大坂城に入ったせいで、徳川方の上田の皆に迷惑がかかっただろうことを心配しながら、「自分たちはもうこの世にはいないものと思ってほしい」(「我々事などは浮世にあるものとはおぼじめし候まじく候」)と書き綴っている。また上田に残した娘の「すへ」の夫の石合十蔵(徳川方)にあてた手紙では、敵味方に分かれてしまったが、自分のせいで娘の立場が危うくなることはないように願たい、どうか娘だけはどんなことがあっても見捨てないでいて欲しいと、娘婿に切なく訴えている。
 死を目前にした人間の、肉親への限りなく深い愛情と心配りの様子は、時代を超えて読む者の心を打つ。また、幸村が女性である姉にあてた手紙は、漢字を使わずに仮名文字で書かれ、文体も武家言葉を使わずに非常にやわらかい。こうした心配りの様子から、彼の繊細さや、心のやさしい人となりは明らかになる。

 映画やテレビドラマで描かれる大坂の陣の真田軍は、赤備えに六文銭の旗が定番であるが、あれはウソである。幸村は大坂の陣で六文銭の旗を使わなかった。徳川方について参戦している甥の真田信吉と信政に遠慮したのだ。豊臣に味方するのは自分個人の信念であるが、それによって徳川方の自分の親族たちには決して迷惑はかけまいとする幸村のやさしさが、六文銭の旗の使用をためらわせたのである。大坂入場後は、同様な理由で「信繁」という本名も使わなかったはずである。敵方にいる兄の信之や甥の信吉や信政と同じ「信」の字を使うわけがない。本家に迷惑をかけないという配慮を優先させていた彼のやさしい性格を考えれば、当然、本家が用いる「信」の字を捨て、祖父や父が使っていた「幸」の字に名前を変えるはずである。自分は徳川方の真田本家とは別の真田なのだと示すために。しかし例外として、大坂入場後も故郷に送った手紙には本名の信繁を使った。「幸村」という署名を入れた文書は、大坂城といっしょに皆燃えたのだろう。

 もはや真田家での人間でもないという覚悟の天涯孤独の幸村は、滅亡した武田軍の最強部隊だった山県昌景隊が使用した赤備えの鎧に、無地の赤旗で合戦に臨んだのだ。誰にも迷惑はかけない、特定の「家」とは全く関係がない、ただ自分のために戦う、まさに「失うべきものは何もない」無の境地を示した無地の赤旗だったのだ。

 死を覚悟した幸村が故郷に出した手紙は、映画『硫黄島からの手紙』でも紹介された栗林忠道が故郷に出した手紙を思い出させる。ちなみに栗林家は、松代藩の真田家の家臣の家系である。栗林忠道と真田幸村は、最後に置かれた状況も似ていれば、最後の戦い方も似ており、死に方も似ている。
 真田の家臣の出である栗林忠道の戦術には、やはり真田流の兵法が濃厚ににじみ出ている。敵から身を隠して、味方の人命損失を極力避けながら、罠をしかけて、おびき寄せ、ゲリラ戦で戦うという戦術である。昌幸と幸村が上田城や真田丸で行った戦い方なのである。
 イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』では、人命を軽んじること甚だしい一般の日本陸軍とは全く違う、将兵の命を何よりも大切にする栗林中将の合理的な戦い方は、米国留学を通して修得されたものであるかのように描かれていた。それは違うと思う。あれは真田の戦い方なのだ。
   
 さて、今回の大河では、真田幸村は、おそらく上杉家に人質に入ったことにより、謙信以来の「義」の精神を受け継ぐ武人となっていく様子が描かれるのだと思う。幸村の人格形成に上杉家での人質生活がはたした役割は、ちゃんと描かれたことがない。ここをどのように描くのかに関しては、期待して見たい。

 真田幸村を主人公にした本格的大河小説は意外にも存在しない。池波正太郎の『真田太平記』の主人公は真田信之である。『真田太平記』では、信之の人物像はよく描き切っていると思うが、幸村に関してはうまく描けているとはいえない。

 海音寺潮五郎は『真田幸村』という小説を書きかけて、出だしはすごくよく書けている。しかし途中で断筆してしまった。あれが完成していれば『天と地と』に負けないくらいの名作になっただろう。未完に終わったのは非常に惜しまれる。

 海音寺の小説では、武田信玄の兵法を受け継ぐ父・昌幸の薫陶を受け継いだ幸村が、上杉家に入り上杉謙信の残した「義」の精神をも受け継ぎ、武田流と上杉流が渾然一体となった武人として成長する様を描こうとしたのであろう。しかしそこまで筆が進む前に断筆されている。

 『天地人』の原作者の火坂雅志氏は、おそらく海音寺の遺志を受け継ごうという意図もあったのだろうか。これまで注目されていなかった、上杉景勝・直江兼次主従と真田幸村の交流をクローズアップした。ただ、火坂氏の原作はやはり真田幸村の人物像をちゃんと描けていない。ここは小松江里子さんの脚本に期待したい。

 『天地人』の原作で納得のできない箇所をいくつか指摘しておきたい。大河ドラマでは修正されることを望む。というわけで、「ドラマではこうして欲しい」という私の個人的願望をいくつか書いておく。

兼次と幸村の関係

 人質の身でありながら上杉家で家臣同様に遇されて、知行までもらった幸村であるが、途中で召喚されて今度は豊臣秀吉の大坂城に人質として送られることになる(これは史実)。『天地人』では、昌幸が利害打算に基づいて上杉よりも秀吉に媚を売るべきと考え、上杉を騙して幸村を召喚して秀吉の元に送ったことになっている。
 原作では、それで上杉と真田の関係は気まずくなる。結局、直江兼次と真田幸村はその後ずーっと会うことがなく、大坂冬の陣になって小説のラストシーンで再会するということになっている。それは普通に考えればあり得ない。

 小田原の陣では、前田・上杉・真田が連合軍を形成して碓井峠から北条領に攻め込んでいる。上杉と真田の関係が冷え込んだまま、このような大規模な共同軍事作戦がとれるわけがない。たとえ人質の一件で何か気まずいことがあったとしても、当然、小田原の陣の段階では、兼次と幸村の関係も修復され、以前のように大いに語り合っているというストーリーにすべきだ。

 ちなみに、私は幸村が上杉家から豊臣家へ移ったのも、当然、秀吉が上杉景勝を説得して了解させ、円満に事が運んだのだろうと思っている。上杉も豊臣に臣従し、真田も豊臣に臣従すれば、真田と上杉は豊臣系大名として同格になり、真田から上杉に人質を送るというのは天下人の秀吉の権威を否定することにもなりかねないからだ。

 ついでに言えば、小田原の陣で前田軍の中にはあの前田慶次がいる。大河ドラマの中では、陣中で兼次と幸村と前田慶次が酒でも酌み交わし、「天下有事の際には義のために力を合わせよう」といった「桃園の誓い」のようなものをするといったストーリーにすべきだと思う。実際、後に関ヶ原では、この三人は力をあわせるのだから。

 さらに後には、上杉も真田も共に伏見城の築城の際に普請奉行を命じられているのでここでも顔を合わせる必然性が生じる。伏見城下でも、景勝・兼次と昌幸・幸村は頻繁に顔をあわせ、有事の際には力を合わせることを誓うといったストーリーにすべきだと思う。

 関ヶ原の合戦の際には、真田家は石田の西軍と上杉を仲介する連絡役であった。真田の沼田領内から尾瀬ケ原を超えれば、そこは上杉の会津領である。真田領と上杉領は隣接していた。真田を仲介として、石田と上杉は連絡をしていたのである。真田と上杉の関係が壊れたままで、このような共同作戦をとれるわけがない。

 石田三成が、真田に要請したことは、三成が家康を引きつけているあいだに、真田・上杉・佐竹の連合軍で「関東に乱入すべし」ということであった。これは三成から昌幸宛の手紙の中にハッキリと書かれている。関ヶ原の以前から真田と上杉のあいだにはこうした共同作戦をとるための信頼関係が構築されていたと考えるべきであろう。

真田昌幸の描き方

 もう一つ、原作で気になるのは真田昌幸の描き方である。原作では、昌幸はひたすら「利」を求めて動く老獪な人物として描かれ、上杉家の影響で「義」の心に目覚めた幸村とは対照的に描いている。関ヶ原で西軍に味方したのも、三成が昌幸に、破格の加増というエサを与えて釣ったからだという解釈だ。

 ちなみに、池波正太郎が『真田太平記』の中で示した解釈はそれとは違っている。『真田太平記』の中での真田昌幸は、第一次上田合戦の際に上杉に助けてもらった恩義を深く心に刻み込んでいる。そして西軍に加担する理由として昌幸が口にするのも、「上杉景勝に天下をとらせたい」というものだった。もちろん天下は豊臣秀頼のものだが、西軍が勝利すれば上杉景勝は間違いなく大老の筆頭となり、天下の政治を取り仕切ることになる。昌幸は、家康のような狡猾な人物に大老を委ねるのではなく、景勝のような私欲のない義心を持つものにこそ大老の役を担ってもらい公正な政治を行ってもらいたい、そう考えて西軍に味方する。
 私は、この池波正太郎の解釈の方が正しいと思う。
  
(つづく)
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2 コメント

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天地人 (若手歴史研究家)
2009-06-07 20:47:37
天地人の真田幸村は非常に残念な人物像にされました。

天地人全体が妄想ドラマであるとは言え、あまりにも上杉や兼続を良く見せようとし過ぎるが為におかしな話になっていますね。

兼続に弟子入りする破天荒なひねくれた青年に幸村はされてしまいました。

恐らく、大坂の陣での幸村活躍を見越して、無理やり兼続の教えのお陰と言う方向に持っていく為でしょう。

幸村が人質となった期間は短く、真田の武将や軍勢も一緒に上杉に出仕しています。
恐らく人質と言うより常備の援軍も兼ねていたのでしょう。

また、影勝から秀吉への手紙で分かる様になんらかの策で出し抜いて、無断で秀吉のもとへ人質として移ったのがわかります。

毎週、見る度に歴史認識が間違って伝えられる事に腹が立ちます。
若手歴史研究者さま (関)
2009-06-09 09:39:59
 コメントまことにありがとうございました。

>天地人の真田幸村は非常に残念な人物像にされました。

 本当にガッカリでした。真田昌幸の描き方のひどさには唖然としてしまいました。この先、見続ける気力がなくなってしまいました。
 時代考証をしっかりやって、役者の役作りもしっかして、歴史のリアリティを追及した一昨年の風林火山がよかったので、天地人にも期待したのですが、間違いでした。ドラマの作り方が風林火山とは180度反対の方向を向いていますね。「妄想ドラマ」とは言い得て妙でした。
 まあ、NHKとしては、これでも風林火山より視聴率が高いんだから、この路線は成功だったという評価なのでしょう。

>恐らく人質と言うより常備の援軍も兼ねていたのでしょう。

 なるほど、「常備の援軍」ですか。上杉の新発田攻めには、真田昌幸も援軍を出していますし、真田も精一杯、恩を返していますからね。
 
>また、影勝から秀吉への手紙で分かる様になんらかの策で出し抜いて、無断で秀吉のもとへ人質として移った

 なるほど。やはりそう解釈されるのですか。
 それにしても、あの辺の事情はかなり謎が多いです。歴史研究者の方に教えてもらえるとうれしく存じます。

 1585年の段階で、秀吉は家康を苦しめるために、真田昌幸に肩入れしていました。しかし家康がいざ上洛となると、家康が上洛の条件として真田征伐を要請したらしく、秀吉は家康の求めに応じて、一度、真田征伐を口にしています。秀吉は、上杉に真田と手を切れと要請もしています。しかし、結局、真田征伐はしなかった。

 この間の動きがすごく複雑で、とくに史料を読みこんだわけでもない私には事情がよく分からないでおります。
 はたして、秀吉は本当に真田征伐をしようとしたのでしょうか? それとも、その気はなかったのに、家康の機嫌をとるための方便として真田征伐を口にしただけなのか? もし本気で真田征伐をしようとしたのなら、中止になった原因は何なのか?
 上杉が真田擁護に回ったのか、昌幸の対秀吉外交によるものか、信繁(幸村)の人質問題は何か関係しているのか?
 この辺が私には謎のまま残されています。どうお考えですか?  

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