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代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

日本国憲法は押し付け憲法にあらず

2013年01月27日 | 政治経済(日本)
 本日(2013年1月27日)の東京新聞の30面に興味深い記事があった。武蔵五日市市の市民たちが自由民権運動の中で作り上げた民衆による憲法草案である「五日市憲法草案」の紹介である。起草の中心人物であった千葉卓三郎は、戊辰戦争で敗れて放浪の末に多摩に移り住んだ旧仙台藩士。

 五日市憲法は、「基本的人権の尊重」「法の下の平等」「集会・結社・言論の自由」「信教の自由」「地方自治権」などが明記され、明治憲法など飛び越えて、日本国憲法により近い内容であったという。
 基本的人権を定めた条文は下記の如し。「日本国民は各自の権利自由を達すべし、他より妨害すべからず、かつ国法これを保護すべし」。これは現行憲法の第11条と同様な内容である。
 
 五日市憲法草案の発見者である新井勝紘氏(専修大学教授)は、同記事の中で、明治政府は民衆の中から提起された私擬憲法を一顧だにしないまま、「一部の専門家が極秘に草案をつくり、国民に押し付けた」と語っている。逆にGHQの押し付とされている現行憲法は「最近の研究で、私擬憲法を参考にしていることが分かってきた。明治の民衆が願った理想の国家像がよみがえった」と語っている。現行憲法の精神は明治の民衆の願いを具現化している。

 
 拙ブログで紹介してきた赤松小三郎が慶応三年に起草した「御改正口上書」も、全人民の中から普通選挙で選出された議会を国の最高権力機関と定め、議会の決定には天皇も拒否権を行使できないとするなど、「主権在民」と「象徴天皇制」の現行憲法の精神を慶応年間に先取りしていた。

 大河ドラマ「八重の桜」準主役の山本覚馬が、鳥羽伏見の戦いの後に捕らえられ、失明の不幸の中で口述した「管見」も、盟友であった小三郎の議会政治の理念を継承しつつ、三権分立も規定する詳細な内容であった。
 「佐幕派」のレッテルを貼られた小三郎や覚馬のような人々に憲法を起草させていたら、明治の時点で、現在の日本国憲法に近いものができたことは疑う余地がない。
 その小三郎を卑劣な手段で暗殺し、クーデターで権力を奪取し、東北地方を軍靴で蹂躙した人々がつくった明治政府が、密室で決めて強圧的に国民に押し付けたのが明治憲法だった。密室で決めて国民に押し付ける伝統は、原発からダムからTPPに至るまで、現在にまで連綿と引き継がれている。

 明治憲法と現行憲法のどちらが押し付け憲法だろう?
 幕末から明治にかけて、権力に敗れた在野の人々が夢に描いた理想国家の精神が現行憲法に宿っている。それゆえ人々は現行憲法を歓迎した。我々は、現行憲法を「GHQに押し付けられた」などと卑下する必要はないのだ。


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3 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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「押し付け憲法」に思うこと。 (薩長公英陰謀論者)
2014-05-05 19:13:02

 越境連投をご容赦ください。国権(君権)憲法である旧憲法に対して、民権憲法である新憲法が、明治期の私擬憲法を熱心に研究した憲法学者である鈴木安蔵の案を核として

 「 中江兆民の思想/植木枝盛案 → 鈴木安蔵案 → GHQニューディーラー民政局案 → 女性の参政権を認めた初めての選挙(女性議員39名誕生)による憲法議会での審議 → 日本国憲法制定 」

 という流れによって出てきたものだと憲法学の講義を聞き認識していたことを思い出しました。このウェブログによって初めて知った「赤松小三郎」をこの日本国憲法への流れの先頭に置く議論が現れることを祈ります。


 さて、この流れを学ぶはるか以前に既に「押し付け憲法論」というのがうるさく言われていたように思います。往時に遊び友だちと話しながら悪ガキなりに思ったことは:


1.それなら「押し付けて来た」ヤツらに対して真っ向から立ち向かい追い払うのがスジではないか。「押し付けられた」ものだけ勝手にドブに捨てたらすむように言うのは、あまりに弱虫でいじましい。


2.で、「押し付けられ」てしまうようなことにしたヤツらがいちばんわるいので、まずそいつらを責めるべきでは。それを「押し付けられた」ものがわるい、と言うのは見当ちがい。


 と。いま年齢なりの「知恵」がついて思いますに、民権憲法を「押し付け」られたと思ったのは、欽定憲法を「押し付け」た(@関様)人たちだけなのでは。ま、手下がそれなりにいてわーわー言っているようです。彼らによって若い人たちの人生が「永遠のゼロ」にならないことを祈ります。
 
 「護憲」ではなく、「復古憲法案の代替案」として、民権性をさらにすすめた民定憲法を対置してはいかがでしょう。たとえば、王制・君主制の名残である「内閣・大臣・省」に「官」という言い方を一掃するとか。
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民定憲法なら否定しません ()
2014-05-06 00:01:31
薩長公英陰謀論者さま

 私も民定憲法なら、必ずしも改憲を否定しません。
 「現行憲法はGHQの押し付け」と主張する人々の改憲案に反対するのは、彼らこそ「押し付け大好き」な人々だからです。

 自民党改憲案の押し付けに対し、民定憲法を対置させるというのは面白そうですね。
 
 最近の憲法ですばらしいなあと思うのは、2009年制定のボリビア新憲法です。すばらしく拡張高いです。こういう下からの民定憲法なら、私も改憲も大賛成です。
 以下のサイトから一部引用させていただきます。

 http://estudio-cuba.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/2009-40a3.html

2009年ボリビア新憲法(前文抜粋)
 
「すべての人の間の尊重と平等を基礎とし、主権・尊厳・補完・連帯・調和と社会的生産物の分配・再分配の公平の原理を有する国、そこでは安らかに生きる(vivir bien)ことを追求すること; この土地の住民の経済、社会、司法、政治ならびに文化の複数主義を尊重すること; すべての人びとが水、労働、教育、医療、住宅の取得を共有すること、が優先する。

我々は、過去の植民地国家、共和制国家、新自由主義国家を廃棄する。

我々は、多民族・共同体的で社会的な統一法治国家を集団的に建設するという歴史的課題に挑む。その国は、民主的で、生産的で、平和を享受し、平和を追求し、総合的な発展と諸民族の自由な自決権を推進するボリビアという国に向かって前進する諸目的を統合し、関連させる国である。

我々、女と男は、憲法制定会議を経て、人民の始原的権力により、国の統一と一体性を守る義務を宣言する。

わが諸民族の命令を遂行し、わが母なる大地(Pachamama)の強靱さと神への感謝をもって、我々はボリビアを再建する。」
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まこと目を瞠るボリビア新憲法から思いますこと。 (薩長公英陰謀論者)
2014-05-08 22:43:31

 関様、ボリビア新憲法の紹介のご投稿を本当にありがとうございました。数千年前から直近に至る激動の歴史を持つ国についてまことに認識不足であったために、新憲法に至る経緯についてほんの少し知っただけで大きな衝撃を受けました。

 人生の足もとの深淵を垣間見るようなことがありちょっとうろたえておりまして、前投稿でパラグラフ分けの行間がひどく間延びしていたことをお詫びします。

 「押し付け」というのは「受け手にとってイヤなこと困ること」以外にはありえないわけで、GHQというものがもう存在しない今なお、現憲法が「GHQの押しつけ」であると言い立てる人たちは畢竟、現憲法の三原則「国民主権」「基本的人権」「平和主義」がイヤでイヤで困ると言っていることになります。

 そういう人たちはまさに関様のお見立てどおり何でもかんでもの「押し付け派」で、ひと(民)がイヤなこと困ることばかりをする人たちなのでしょう。
 では、そういう人たちだけで「尖閣」に独立国をつくらせてあげて心ゆくまでシマのなかで押し付け合いをしてもらってはどうでしょう。

 それはそれとして、記憶で書いてしまいますが、かの明治私擬憲法等ベースの憲法案を「GHQ案として押し付けられた」ということにしたのは、戦前を引き継いだ当時の政府&エスタブリッシュメント(吉田茂とか白州次郎)だったと言っていいと思います。
 政府サイドの新憲法案が大日本帝国憲法の文言を言い替えただけのような代物で、天皇の軍統帥権や「臣民」という言い方まで引き継いでいたので、あわてたGHQが大急ぎでフランス革命憲法から明治私擬憲法や民間諸憲法案をペースにたたき台をつくり、それを示して「日本政府案とどちらでゆくか国民投票にかけたら」と言ったとか。
 そこで、国民投票にかけられると間違いなく政府案が拒否されると「GHQ案」を議会審議することにしたわけです。これを「押し付け」だ!と騒いだのは薩摩伯爵家の令嬢を妻に持つカッコいいお金持ち、白州次郎だったかと思います。自分で「押し付け」にしておいてえぐい(しかし、それは手だったのかも、それが現在になって生きるという。さすがです)。

 ということで、そちらからのほうからの最近のお家芸、お得意の「守旧抵抗勢力」仕立てに律儀な反論をするのはそれとして、あきれるほどの復古案をみこしに担ぐそちらの言い分を逆手にとって「改憲とはこうするもんや」とばかり、と前に出るのはどうだろうかと思ったのです。

 あちらの改憲論は「押し付け返上論」はともかく「現憲法の制定時と今は状況が変わっているのに石頭が・・」ということがベースになっているようです。
 ご紹介いただいたサイトで2009年ボリビア新憲法案のポイントを見ますと、「新しい権利」といわれているものは、①環境権、②アクセス権、③障害者の権利、④消費者の権利、となっています。

 高度成長がゆきついたバブル崩壊&小泉改革、リーマン・ショック、そしてフクシマ・・・と、現憲法制定時以降の歴史的変化は何であるのか、何より、現在から将来に直面している課題は何であるのか、現エスタブリッシュメントの目(簡単に言えば「日経の視点」)ではなく、99.9%の民の視点から考えて、国のあり方、世の中のありかたを思い切ってリデザインすべきではないかと思う次第です。

 と、いいますか、とりわけて若い人々が今こそ、自分たちが、心が満たせる生き方をする、よりよく生きてゆく、そうする上で直面する困難、そこから耳タコの「少子高齢化社会」、「地方と地域の空洞化と崩壊」、「都市における貧困の蓄積」、「官財学メディアにわたる社会的エリート層の知的・倫理的劣化」、「政治的無関心の蔓延」・・・うまく整理できませんが、かように深刻化する事態と、正面から問題となることが回避されている陸海空の広範囲の放射線被曝の進行拡大と予期される大規模地震に対する国家的対処といった足もとの深淵、そういったものにひるまず目を向けて、生命と自然環境、歴史的文化的環境を大切にして「おだやかに、生き生きと、安心して」のびのにと老若男女がたすけあい、尊重しあい信頼しあって、人生を送る、そういった「くに」をつくるということから、ひとのあつまった国のあり方を示す憲法をあらためて考え出す、という動きが、これからの人生をもつ人たちから生まれることを祈ります。

 と、のんびりかまえている場合ではないかも。手おくれではないことを。
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