『悪人』。

2007-01-27 02:03:48 | ・本・記事。
新聞連載小説は昔日経のを読んでいたことはあるが、それ以外は気がつくと既に例えば第十何話になっていて話が見えないから、ということばかりだ。朝日夕刊の『悪人』も束芋さんの絵しか見ていなかったのだが、それこそ100話なんて過去のことみたいな或る夜、引き込まれた。

毎日熱心に読むわけではないが、とりあえずは必ず掲載面を開く。


家庭環境が悪いから犯罪を犯すという言い方は、例によって御都合的もしくは結果的なカテゴライズだろう。知人の少ない私でも、例えば片親もしくは両親がいない、被生活保護家庭、ヤクザの娘が、より柔軟で愛に満ちている例を複数知っている。

例えば自殺も犯罪だとしよう。

例えば、匿名でしか物の言えない人々のコミュニティーなりで私は、それぞれ個別に、あなた家族と離れて暮らしたほうがいいよ、と言ってやりたくてたまらなくなる。私の言葉によってひとり暮らしで死んじゃったら責任持てんから言わず、もしくはガス抜き程度に仄めかす。仄めかしなど意味はなく、強硬に言っても出られないひとは多いだろう。誰も拘束してはいないがされている。

ノモンハンの話じゃないが、閉じられた世界にはそこだけの規範がある。ひとというものは自分で考えることができるはず、ではある。しかし、それを悉くあるいはそれに近く否定され続ける。考えがそれに沿って変わってしまえば楽だが、自分を守るためにひとは考え、同時に自分を守るために自分の考えを否定する。相対し合う者同士も含め、誰もそれを知り得ない。

いくら書物やメディアでフツウを見て、ソレが正しい、コレはおかしいと思っても、実際的にはソレは誤りであり、コレはそういうものなのである。逆にイコールで結ばれた場合、たぶんそれが大抵とか常識とかいうものだろうが、真っ当な規範意識ということになる。規範意識というものは躾けるものではなく、身につくものだ。

家庭環境が悪いというのは、ただ片親だったり構ってもらえないということではない、金がないことではない、父親が飲む打つ買うではない。

嫌われ松子にあるのは自分を責める心とすがる心で、規範意識はない。普通に思われる父母であり、敬愛する父親の病弱な妹に対する愛情への嫉妬、満たされない感覚だけだったか、よく思い出せないが、これは逆に、家庭環境もいいのに、自分で判断するだけのIQもあるのに、と言われるのだろう。

それぞれ真っ当だと思われている両親から犯罪者が生まれる。犯罪に関してはDNAなども研究されているだろう。何らかの研究結果が出る。受胎したらDNA鑑定を受けて取捨する。それも恐ろしいことだ。

絵だけでなく文章に目が行ったその或る日の『悪人』で少し泣いた。次々と出てくる登場人物の事情は、面倒くさいので飛ばし読みしてはいるが、やはり少し面倒くさい事情らしい。


【追記(2007-01-29 09:08)】『悪人』のレビューでも内容説明でもなくて、ゴメンナサイ。

以前同じようなことを言ったときに反論のようなことがあり、例によって押し黙ってしまったことが形を変えて夢に出てきたための?追記。


それがつまり金がないということであったり、あれでありそれであるからカテゴライズされるわけだが、その形と、その形が生みやすいこととをカンタンにまとめてしまうことが、カテゴライズに対する反感の大抵というものではないか。

否定される、というのは、ブスだ、バカだ、てめえ死ね、とか、完全ネグレクトとか、そういう顕現的な否定を言っているのではない。
ちやほやされる否定もあるだろうし、とかね。それを存在の否定と言ってみたときに、それこそ捉える側のDNAとかということになってしまうのか。

最初に書いたときにうまく書けなかったことをここで書けるわけではなく、
この上の数行も、駄言の繰り返しということになるのだろう。

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おこちゃまでちゅ。

2007-01-15 08:08:28 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。
「私があなたのことをずっとずっと見守っていくから安心してゆっくり大人になりなさい」というメール。ぽん・で・ら・りんだはメールは打てません。5歳年長の女の人。私はナガイキスルツモリだが、彼女は私より20年ぐらいナガイキしそうなので安心だ。なりなさいに応えられる安心はなくても。

 
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ロストジェネレーション。

2007-01-12 08:57:30 | 自ら援くる者以外はその在るを神も認めず。
十代のそう短くない期間、自分が押しつけられた貰い子だったらまだよかったのにという不毛な思いを抱いていた。何がまだよかったかというその頃の感覚をうまくここでは形づくれない。

橋の下で拾った子供という言い方がある。拾ってまで育てるというのは優しさの証でもあるだろう。



朝日朝刊のロストジェネレーションという特集。きちんと年をとってきた人には抵抗のないことかもしれないが、私には世代でカテゴライズすることにやや抵抗がある。時代の経済、志向や空気は大きいとはいえ、人が生きることのエクスキューズにはならないという感覚だ。「戦争を知らない。大きな共通体験もない」、それはうちらも同じだ。生活できない演劇人は昔から当たり前で彼らの誇りにもなり得た。もちろん巡回する。場からは確実に遮られていてもバブルを横目の端っこで見ていた者と下方へ吸い込まれるような情報の中で育つ者と。

「すっきりと整理して話された言葉は多くのものを殺しているのではないか」というチェルフィッチュの芝居をいちど見てみようかと思う。

ヘミングウェイの時代と同じ名称を誰がつけ誰が認めたのか。
「僕らは損をしてきた世代」と言っていいと認められた。まだよい、と思っていい。


【追記 2007-01-19 02:10】
やっぱりジェネレーションでしょー、すいません、なんて、菊地ナルちゃんラジオを聞いてると、言っちゃえますね。ナルちゃんご本人はスーバージェネレーションですが。

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日帰り仙台。

2007-01-08 22:21:37 | ■だらだら。
ナカジマさんが親戚じゅう町じゅうから嫌われていると言うから、いっちょうら着ていっちょ芝居したろやないか、ナカジマさんに世話になってる人間がトーキョーにいるってことで、と、朝4時半に起きてポトスじゃないポトフもどきをつくりながら滑舌甘いおくさま言葉を練習した。顔は追いつかなくとも声や口調に人はときにだまされるもんだ。

もう一つの目的地、ガレは思ったより遠かった。仙台には美人が多い。おんなは美人だがおとこはヤマダシ、とかなんとか思っていたら道が怪しくなってきた。住所と店名を伝えた御夫妻(ふう)、ダンディーなだんながまことに懇切丁寧に教えてくださった。

ネットで何度も見ている絵がそこにあるからなのだろうか、本物だからなのだろうか、これはやはり感動というものだろうか。才色兼備ふうの女主人。小さい店のさりげないセンス。入り忘れたのが残念に思われるトイレへの入り口。


仙台四郎の人形をナカジマさん用と実家用に買う。

仙台で白松ケ最中を買う幸せよ。525円の一番ちいさなやつだけど。

そしてタクシーで乗りつけた(理由:バス廃止)ナカジマ邸のガラス戸をあけたらそこにいるはずの芝居を打つ相手は、見計らったように出かけたばかりだという。ちから尽きるというかちから抜けるというか、阿武隈川が美しい。

亘理町が元祖というはらこ飯は、仙台駅で帰りに買い、やまびこ内で食す。

kuurinan。
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1月のとり。

2007-01-02 06:54:07 | ■だらだら。
地元神社参道で厄年の看板を指さしながらあたしらだよとさんざめく少女5人幼児4人のグループ、ぽん・で・ら・りんだに格別あいじゃくを示す幼児一人に年齢を聞くと5歳でどっかのテレビドラマのタイトルだテキヤさんの宿泊場所聞かず帰宅後2時間のちに3時間ほど寝て目覚めたら正月の真似事やら何やらで既に午後歌舞伎町はミラノの硫黄島で息詰め洟をかみ稲荷鬼王神社水琴窟に耳そばだてて浮遊してナルちゃんラジオで有名なKマートでピ(雨)の携帯ストラップは義姉への土産、グレートインディアンでスプーンを動かしながら……。
煮物もチキン
雑煮がチキンなら
カレーもチキンで人生はチキンレース。なんて言ってみるだけのチキン肌。

 

コメント (4)
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