数人の役者の名だけで録画しておいた「聖の青春」で死を貼りつけられた若い男がそうでもないような若い男に答える「そんなことよりも」。+殆ど飛ばし読みした本で理由の無意味を知る。

2021-05-03 15:09:43 | memo。






「だあいじょぶですよにんげんだれでもいつかはしにますから

 そんなことよりも

 いまぼくたちがかんがえなきゃいけないのはめのまえのいってです」








写真は、背中を見せて立つ羽生に村山が添うように並び立ち、視線の先、雪の庭にあらわれた猫が消える前の場面。




 ────




識者とかコメンテーターとかの区別はともかく、高いところから「なぜ国民は黙っているのか」と(それを言う本人は何をなさっているのか顕らかにされず)言い放たれ続けてきた私(国民)。





驚いた。2008年11月の講演録という。
その前段で、イラク戦争に抗議する巨大なデモがヨーロッパ各国、アジア諸国、韓国やインドでもあったが、日本にはほとんどなかった──「外からはまったく目立たない程度の規模でした」と述べ、(写真の部分 p.168で、今から90年以上前の和辻哲郎の文章を引いて)柄谷行人が「驚く」。




続けて和辻「前者においては公共的なるものへの無関心をともなった忍従が発達し、後者においては公共的なるものへの強い関心関与とともに自己の主張の尊重が発達した。デモクラシーは後者において真に可能となる」を引き、柄谷は書く。「日本ではよく、個性を尊重せよといわれますが、それは私的なものを重視するという意味です。したがって、個人としては弱い。そこで、自由都市とか市民社会とかいうと、私的個人から考えることになりがちです。しかし、ヨーロッパの都市は、ギルドや同業組合のような集団から成り立っています。要するに、都市というのは、たくさんの個人の集まりではなく、同業組合のような集団の連合体としてあったのです。そのような連合体、ネットワークの総体が都市である。個人はその中に育つ。だから、公共性に対して無関心な個人などありえないのです」



「私がデモについて語るのは、もちろん、デモによって革命を起こせとか、デモによって社会を変えよ、というためではありません。デモそのものに意味があるのです。デモの存在は、その国が専制国家でなく民主的であるということを端的に証明するものです」
「議会もアセンブリなのです。 アセンブリとは 「集まり」であり、日本語でいえば「寄り合い」です。 近代以前からそれはあっ た。日本だけではない。 どんな社会にも古来、寄り合いのようなものがあった。それが議会(アセンブリ)に発展したのです。 だから、デモ・集会と議会は同根です。 ルソーはいう。《人民はアセンブリにおいてだけ、主権者として行動しうるだろう〉(『社会契約論』)。この場合、アセンブリは、代議制の議会ではありえません。そこでは、「寄り合い」にあった直接民主主義的な要素は失われてしまうからです。 代議制では、人民が主権者となるのは投票するときだけで、そのあとは奴隷となってし まう、とルソーはいう。《代表という考えは近代のものである。古代の共和国では、いな君主国においてすら、人民は決して代表者をもたなかった》。
 先にいったように、代議制は貴族政的なものです。では、ルソーがいうような、人民が主権者とし て登場するアセンブリ、直接民主主義はどこにあるでしょうか。それを古代アテネの民会のようなものだと考えるのは、まちがいです。 あれは少数の市民だけが参加するものです。多数を占める女性や奴隷、外国人、子供は締め出されている。ついでにいうと、ソクラテスはダイモン(霊)にいわれて、民会には行かず、広場(アゴラ)で議論をした。むしろ、そこに真の民会、真の直接民主主義があったのです」



メモでしかありません。
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なし (junhigh)
2021-05-04 17:34:36
例の事件から

「バス、ノットリました」
少年は、くったくなく言う。
高速バスでなく、これは循環バスなのだ。
循環するだけのバスをキミが乗っ取ることに意味があるのか。
循環して、もとにもどって、そして、また、出発して、またもどる。
このバスは死ぬまで、同じ道を繰り返し通るだけなんだ。

「ノットリました」と言ったよね。
それって、循環するバスには意味がないし、キミも、その循環の一員になるだけだ。
「僕の言うことをよく聞いてください。あなたたちは循環するバスに乗り、その一部分にすぎないのですが、それを利用しているのです。バスは生真面目に循環し、あなたたちはその一部を利用している。不条理です」


僕は、唐突にF先生のことを書こうとしている。
本来、僕にはF先生のことを書く資格はないのである。
なぜなら、僕はネット上でしかF先生のことを知らない。
そのような僕がF先生のことを書こうとしている。


少年は続ける。
「あなたたちそのものが家を起点として会社や学校に行って、また、もどってくるという無意味な循環行動にあけくれている。たまには、家族旅行やデートなど、ちょっとテレビで紹介された『うまくもないレストラン』や、手打ちのそば屋に行ったり、つまり人生のアクセントみたいなもの・・・、だから、クダラナイお前らの人生の循環の一部にこの循環バスの一部を無造作に利用している」


僕はこのF先生に向けての一文が、どうなるかも予想できないし、妥当なものかもわからない。自己満足の嫌悪されるべき駄文にすぎないだろうが、それでも、しばらく書き続けるだろう。

少年は続ける。
「循環をやめよ。つまり、僕はこの循環バスをノットリ、バスを解放する」
つまり、キミは循環バスをこの循環の軌道から外すということ。
「僕にとっての幸福は、多くの場合は他人にとって不幸でしょう。しかし、断言できます。循環バスを・・・そう、あなたの言うところの軌道から外すこと・・・これは、まったくもっての偶然ですが、あなた方にとっても幸福につながるものだと確信します」
wanonaka (junhigh)
2021-05-04 18:02:59
僕は線路の内側で生きている。
というか、線路を越えることができないのだが。
かといって、僕は、ロシアの少女が花売りで
花を売る。
多分、汚れた精液が少女の唇を濡らすのだろうが。
そうさ、閉ざされた閉鎖空間で
僕は、死んだ妹と昭和40年代のラジオで会話するのさ。
しかし、東京へ行くために線路を横断する。
そのために、僕はツルハシを準備した。
日曜大工の店で。
そうだろう、僕に不釣り合いなその店で。
僕は、ベッドの上に死んだ妹のパジャマをキレイにヒトガタにしき、
その上に例の旧式ラジオを置いた。
僕は、僕のベッドごとツルハシで一撃をくらわした。
ラジオは断末魔の妹の声を響かせた・・・
ように思った。
結局、僕は、何の苦労も無く線路を横断した。
しかし、僕は新たな空間がこわかった。
・・・
でもね、閉鎖空間を脱出しても
キミも僕も新たな閉鎖空間に移動しただけなんだ。
わかるだろう。
大型の地球儀に輪投げの輪を置いてみなよ。
輪から外に出ても
やっぱり輪の中さ。
Unknown (ramen0069)
2021-05-12 17:47:24
軌道を外す仲間たちはどんな顔どんな服。
運転士を想像し創造し振り向かないキミ。





F先生は日射しを背に絵本をするり収納。

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