11月16日の続きです
1813年頃の歌川国貞の「源頼朝公富士之裾野巻狩之図 三枚族」
1760~64頃の北尾重正の「獅をしとめる仁田四郎」
1836年頃の歌川国芳の「建久四年五月二十八日富士之裾野曽我兄弟夜討本望之図」
メガネ外して顔を近付けて(老眼)よ~く見ると
毛の一本一本が細かく描かれていてビックリしたけど
後ろに描かれてる人の顔は結構ええ加減やなと感じたよ
1845年頃の歌川国芳の「川中島信玄謙信旗本合戦之図」
全員が同じ方向を向いてる
目つきや鼻の形が一緒やし口もへの字口や
これも歌川国芳で「信州川中島大合戦之図」
1859年頃の二代歌川国綱「甲越両将川中島大戦全」
1833~35年頃の歌川国芳の「宮本武蔵」を描いたと思われるけど
描かれてる字は「宮本無三四」ってなってるよ
「武蔵」と「無三四」はどっちがホンマやねん?
べ~やんは歴史の事はあまり知らんけど
浮世絵をじっくり見ていると結構面白いと実感したのは
年のせい???
展覧会ってどれも館内が暗いので結構疲れるんよね
年のせい?
ほんで
最初と最後に見たの名刀 鎌倉時代の「伝来国光」とは
調べてみた
来国光(らいくにみつ)は、鎌倉時代の山城国住来国俊くにとしの門下と称され、
鎌倉時代末期から南北朝時代にわたる刀工で、太刀や短刀を得意とした。
この刀は、鎬しのぎ造、庵いおり棟、大磨上げで反りがやや高い。地鉄の鍛えよくつむ。
大磨上げながら堂々たる姿で、地刃、肉置き共にすこぶる健全で、
無銘ながら来国光の作中屈指の名刀である。
徳川五代将軍綱吉が、柳沢吉保の子吉里が初登城の際に引出物に与えた刀とされ、
『徳川実紀』にも記されている逸品である。
それではお腹も空いてきたんで帰ります
が
何処をどう走って帰ったらええんか分からない
昼ご飯どころではなかったんで
取り敢えず東向いて高速乗る事にした
トラックが怖くて気になってオマケに高速の入り口がややこしくって
行き過ぎてUターンしてやっとこさ高速に乗れてホッとした
後は道成に走るだけ
分岐点は大阪方面へ
まだまだトラックが多い!
南港まで来たら交通量が減って来た
ガラガラで走りやすい
それにしてもお腹が減ったよ!
やっと堺まで帰って来たよ
とっくに昼食時間が過ぎたんで食べる量が加減出来る
回転寿司でランチしたら
今までは二人で1,500円で済んでたけど
最近値上げしたんで一人1,000円も払ったよ
ご訪問ありがとうございました
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