五十歩百歩
私という人は、仕事や友や女やアートや金などが大好きなタイプだ。
最初から持ってない約三点を含め、これらを失うのはたいへん辛いことだ。
でも、ほんとはもっと失うのが怖いものがひとつある。
意外かもしれないが、それというのは「運」のことである。
ふんわりとはしているけれども、それこそがあらゆるものの元締なんじゃないか?
私に限って云うと、「運」とはそれほどまでに重要な存在だ。
大むかしの一時期、勝負の世界で生きていた私は、いわゆる「運」に対し敏感な方だったかと思う。
ガチンコ世界の実力が接近する勝負において、運は重要なファクターになり得るからだ。
だが若い私はその正体を知らず、よってそれを改善するための手がかりを持たなかった。
人生の実相がおぼろ気ながら見えてくる30代半ばぐらいで、大方の人がそうであるように、ようやく運の実態がわかるようになる。
運とはすなわち確率論であり、基本的に誰にもほぼ平等にそれが分配される。
そんなことを経験則的に実感するわけだ。
ついでに「運の育成」の可能性に気づくのもその頃だと思う。
さて、運の育成に踏み込む場合、ツボを買わされるのが一般的な手法のようだ。
だが、国際平和を優先するため、あらゆる宗教を放棄するタイプの私には、どうにもそれが向いてない。
そこで、運を呼び込むのに成功していると思われる人々を、注意深く観察してみたりしたわけだが、そこには思いもかけず、いろんなやり方があることがわかった。
その結果、本格的なのはいずれもストイック系であり、ユル過ぎる私にはどれも到底無理だよというあきらめがチラつく。
が、ただひとつだけ、これならばひょっとして、という方法論があった。
それは「人として、普通にやる」という、にわかには信じがたいチョー楽ちんな運の呼び込み方法である。
人として普通にやる。
つまり、どうあれ悪い雰囲気を自らはつくらないこと。
余裕に応じて、自らよい雰囲気を創ること。
な、なんと、これだけである。
いつの間にやら「グチる」「キレる」みたいなうすら汚いストレス解消法がナシ崩し的にオッケーとなったネットを含む現代は、逆に「グチらないこと」「キレないこと」が好ましい特殊能力として、世に歓迎される時代だったのだ。
人として普通にやってれば、おいしい話が勝手に向こうからやってくる確率が高くなる。
ふと気付けば、そういう不思議な時代になっていたのである。
あまりにも安易にすぎて何か納得ゆきかねる気分を感じつつも、それがホントなら、こりゃ金も時間も修行もいらねえ優れモノだと思った。
誰もが「グチらない」「キレない」人となるノーマルな時代がやって来れば、そうした確率もまた下がるのだろうが、幸か不幸か「こんちわ」の挨拶もロクにできない現代日本に、今のところそんな兆しはまったくないし………。
さて、「グチる」「キレる」というのは、一息こらえてわが身をふり返りその内側に「強いタメ」を創るチャンスを、一挙に台無しにする手法だ。
あースッキリしたあ! という刹那の快感は得られるのだが、その代償があまりにもヤバすぎることは、かつて「グチる」「キレる」を専売特許としたこの私が涙とともに保証したい。
プロアマ問わず、上手なフラメンコさんなのにタメのないのが惜しい! みたいな方と実際にお話ししてみると、そんなタイプである確率が異常に高いことも、その手法がまた別な不幸を呼び込んでしまう一面も裏付けている。
これはフラメンコ屋25年間のリアル・データだから、覚えておいて損はないと思う。
この実例は、その実力がほとんど頼りにならない私のよーなアホシオナードが好きな仕事を続けてゆくためには、人として普通のやり方を採ることで「運」を味方につけるよりないことを強く認識し直すのに十分すぎるデータだと思う。
ま、そんなわけで、ある時期からの私は、自らは悪い雰囲気をつくらずに、可能な範囲でよい雰囲気を創ることを心がけ始めた。
期待も何もしてなかったのだが、意外にも三年ばかりでその成果は少しずつ上がり始め、昔に比べるとはるかに、特に人間運がよくなったことは事実のようである。
ではあるのだがその一方で、悪いアイレのケンカを売られる場合など、「待ってますた!」とばかり戦闘態勢に入ってしまうところに、元々素材のよくないこの江戸っ子の限界がある。
「待ってますた!」の切り返しは、もちろん相手の急所は外すにしても、その相場は三倍返しと決まっている。
一息こらえてわが身をふり返りその内側に「強いタメ」を創るチャンスを、一挙に台無しにする手法だ。
カレーを食いながらウンコする自分が脳裏をかすめつつも、あースッキリしたあ! という刹那の快感は得られるのだが、いつまでたっても、めざすウン気に到達できない理由がそこにある。