フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

ツイッター [289]

2010年06月16日 | 超緩色系




                 ツイッター


 毒を喰らわばサラゴサ、と云う。
 いや、云わない。
 毒を喰らわばサラ・バラス! が正しいぴかぴか(新しい)、わけがない。

 つーことで昨日の早朝、いま流行のツイッターに登録した。
 何もわからぬままブログを始め、
 ワケもわからぬままmixiを始め、
 どさくさまぎれにしゃちょ日記を始め、
 そして今回、まったくわからぬままツイッターを始めた。 

 だいたい「リツイート」って何だ?
 モライートかと思ってクリックしちゃったじゃねーかよ。
 
 闘いながら闘い方を覚えるのは我が家の伝統だが、
 この伝統は私の代でおわりにした方がいいと思った。
 尚、ハンドルネームはもつろん「paseoflamenco」で、
 わかりやすく直訳すれば「ハンサムな人格者」となる。

       

 

             

                   
 


これもひとつの再会 [286]

2010年03月22日 | 超緩色系



        これもひとつの再会


 
       


 「ゆうちゃん、おれ都電に乗りてえな」

 銀座で待ち合わせ、懐かしい昔話に盛り上がりつつ
 遅い昼飯を食いながら、やや唐突にキミハルが云う。
 東京東部の下町・小松川で生まれ育った幼なじみのキミハルは、
 小学校に上がる寸前に遥か遠い地方へと一家で引っ越した。
 その前日、私たちは抱き合って泣いた。

 その後、何年かに一度、忘れた頃に便りを寄こす彼とは、
 20代半ばに一度だけ故郷・小松川で呑み明かし、
 それ以来およそ30年ぶりの再会となる。

 「じゃあ日比谷線で三ノ輪に出て、荒川線に乗ろう。
 今はそれしか残ってねえんだよ」

 都電沿線で遊び育った私たちの最大共通項を持ち出す
 キミハルの提案に、即座に私は反応する。
 電車道脇の二人して通った駄菓子屋の楽しい想い出が点滅する。
 アメ玉、あんこ玉、メンコ、ビー玉、紙ヒコーキ......。

 学年的には同期だったが、
 早生まれの彼より一年近く早く生まれた私は
 自然と兄貴分となり、ややトロかった彼を外敵から守ったり、
 また子分扱いしたもので、私がどこへ行くのにも、
 ゆうちゃん待ってくれよおと、ふうふうハナを垂らしながら
 ついてこようとする彼だった。
 純朴で温厚なキミハルと我がままな私の相性は
 そこそこだったかもしれない。

 日暮れまでにはまだ間がある。
 三ノ輪から終点の早稲田までは一時間ぐれえだ。
 おめえの気が済んだら、どこかで降りて一杯やろうや。
 巣鴨や大塚あたりの盛り場をイメージしながら私はそう云う。

 そりゃサイコーだな、ゆうちゃん。
 満面の笑みでキミハルはそう返し、いい歳した親父たちは、
 レトロな雰囲気を残す三ノ輪の停車場から二人して都電に乗り込む。
 車窓に映える昭和の面影に、キミハルは夢中に見入り、
 私たちは黙りがちになる。


 チンチーン、浅間前、浅間前~と、
 うっかり居眠りしちまったらしい私の耳に、
 車掌の肉声が大きく響く。
 ん......おかしいな、ワンマン電車のはずなのに。
 しかも「浅間前」って、荒川線にそんな駅はないはずだ。
 おいっ、そりゃオレたちの長屋のそばにあった
 都電25番線「小松川三丁目」の隣りの駅だ。

 あわてて窓から景色を見ると、すでにあたりには夕闇が漂い、
 しかし確かにあの懐かしの中川の木造橋の上を、
 とっくの昔に跡形もなく消え去った廃線を、この都電は走っている。
 ゆるいカーブの坂を下り、このままだとあと十秒足らずで
 「小松川三丁目」に到着するはずだ。
 一体こりゃどういうことなんだ?

 「サンキューゆうちゃん、おれここで降りるよ」
 やや哀しげな、それでもあの人懐こい笑顔でキミハルは立ち上がり、
 じゃあねと小さく手を振り、ひとり電車を降りる。
 おい、待てよキミハル、キミハルっ!
 そう叫ぼうとする私は金縛り状態で声を出すことも
 身動きすることもできない。

 そこで目が覚めた。
 夢、だったか。
 クソおやぢの懐古願望と気づくのに、そう時間はかからなかった。
 キミハルとの音信は20年以上も前に途絶えたままだ。
 もはや彼の消息をたどる手立てもないだろう。

 だが今でもキミハルが、この汚れちまった心の中に健在であることが、
 私にはとてもうれしかった。
 いつかバッタリ会える可能性もゼロではないが、人間欲張ってはいけない。
 嬉し懐かしいこの淡い夢こそが、ヤツとの再会なのかもしれないのだ。



 

          


へなちょこブログのご案内 [285]

2010年01月26日 | 超緩色系




  へなちょこブログのご案内


 ほとんど更新しないのに、
 当へなちょこブログへ
 たくさんの方々にご来場いただき、
 まことに光栄であります。
 あ、ありがとうございます。

 その他のへなちょこブログには、
 毎日書いておりますので
 今日はそれらのご案内です。

 
 ○
毎日更新!『しゃちょ日記
 ○mixiの『しゃちょ日記
 ○『パセオを斬れっ!
 ○『ツバメンコ同好会
 ○『しゃちょ友日記
 ○『シュール・アホリズム

 ……などなどです。
 どれもこれも、
 
ビックリするほどくだらねえです。
 


           

     


アタりハズれは風任せ [282]

2010年01月06日 | 超緩色系



      アタりハズれは風任せ
 

 『しゃちょ友日記』も順調にスタート。
 みなさまのボランティアに大感謝!
 これまで三日間のアップ状況(↓)はこつら。

 1/3◇ 私の地元・親友ヒデノリの『上原モンパルナス』
 1/4◇ フラメンコ博士号取得中のパセオ特派員・志風恭子さん
 1/5◇ スペインのコンクールに入賞した中田佳代子さん
 
 ─────────────────────

 さて、正月元旦は兄貴のうちで、毎年恒例の新年会。
 両親ともに他界しているので、
 兄弟夫婦やら甥っ子姪っ子やらが集合して、
 半日ばかり呑み食いしながら、馬鹿っ話に興じる。
 連れ合いも毎度、自慢のパエージャをふるまう。
 
 パセオ新年号の『しゃちょ日記』が面白かった!
 という話題になる。
 さすがに身内である。
 お年玉に見合った分だけ賞賛してもらった。
 お年玉を忘れていたら、
 酷評になっていたことは明らかである。

 兄も姉もカタギだったから、
 若い私のことは心配ネタだったのだと思う。
 甥っ子・姪っ子たちは、
 私のチョー失敗談にハラを抱えて笑う。 
 そーゆーおまえらにも、
 こーゆー私の血が流れているのかと思うと、
 このおいちゃんとしても、心からの同情を禁じえない。
              
 ─────────────────────

 その元旦深夜、mixi日記を書いて寝ようと思ったら、
 おもろげな映画をやってる。
 国分太一さん主演の珍しい落語映画、
 『しゃべれども しゃべれども』。
 あまりのおもろさにググッと魅せられ、
 最近は24時前には爆睡体制を完備する私が、
 おしまい(27時半)まで観てしまった。

 私の大好きな浅草や都電・荒川線沿線でのロケが多く、
 下町情緒満載のシーンがうれしい。
 かなりの低予算だと思うが、
 映画はやはり、制作費の大小じゃないんだなと思う。


 


 江戸っ子の心意気と屈折とが矛盾錯綜する、
 真打前の若手落語家(国分さん)の真情が身に沁みた。
 失敗まみれの自分の人生を、
 控えめながら肯定してもらえてる感じに、
 ぽろぽろ涙が止まらない。

 「下手な鉄砲数打ちゃ当たる、アタりハズれは風任せ」
 落語の師匠(伊東四朗さん)のこんなつぶやきが
 この映画の肝だと、勝手に私は受け止めた。
  
 こりゃ元旦早々、縁起がいいや。
 こんなフラメンコ映画を創ってみたいなと思った。
 おっとその前に、
 もっとおもろいフラメンコ専門誌つくらなきゃ。

                       


情熱の覇者 [その275]

2009年08月29日 | 超緩色系




        
情熱の覇者




 野心や恋愛のように激しい情熱ばかりが、
 ほかの情熱に打ち克てると思うのは誤りである。
 なまけ心は、どんなにだらしなくはあっても、
 しばしば情熱の覇者たらずにはいない。
 それは、人生のあらゆる企図とあらゆる行為を蚕食し、
 人間の情熱と美徳とを、
 知らずしらずのうちに破壊し、絶滅する。
             
           
 
 [ラ・ロシュフコオ/箴言と考察]より
 岩波文庫(1976年当時で定価200円)
        
             
 容赦のない辛口分析でマキャべリと並び、
 私ら世代には人気のあったパリ生まれの
 貴族ロシュフコオ(1613~1680年)による
 (日本で云えば徳川幕府の創成期のころだね)
 比較的有名なアフォリズム。
           
 若い頃に肝に銘じたはずの金言だが、
 折をみて、
 今の私にもみっちり聞かせてやりたいものだ。

 

               


元気の出るボヤキ [その274]

2009年08月19日 | 超緩色系





            元気の出るボヤキ

 

 「金を出せっ!」

 信用金庫に侵入し女子行員に包丁を突きつける強盗。
 身体を張ってその行員を救出した支店長は代わりに腕を刺され、犯人は逃走した。

 その朝刊記事を読みアワを食って奴のケータイに電話すると、俺がドジ踏むわけねーだろ!、と杉田支店長は大見得を切った。
 おめーのドジはもう千回は観てる!という言葉を呑み込みながら、私は胸をなでおろした。
 十数年前に東京・東部で起きた実際の事件である。

 高三時代のなかよし同級生である杉田とは、すでに36年の付き合いになる。
 大学を出てから出身高校近くの信用金庫勤務一筋、30代半ばにして支店長に出世した男で、学生時代は“失恋の神さま”との異名をとった。

 月に一度くらい、まるでご機嫌伺いのような電話で、さり気なく最新の経済・金融情報を教えてくれるのが、ここ数十年来の慣例になっている。
 その方面にまるで疎い私は、奴のおかげで未然に災難から逃れたことが幾度かある。
 昔から危なっかしい生き方をしていた私を、お互いこの歳になっても心配で仕方ないらしい。

 いまでも年に何度か、出身高校近くの人気のちゃんこ屋で、他のなかよし仲間と共にだらしなく呑む機会は、人生の余禄としてはかなり上等な部類に属すると思う。
 近ごろ役員に昇格した杉田の、その年季の入ったボヤキは、ますます深い味わいを熟成しつつある。
 ふつう愚痴というのは、それを聞く相手をどよんとした気分に陥らせることによって自分を救おうとする邪悪なものだが、杉田のそれは、昔から聞く相手に元気を振る舞うような芸風のトホホな自嘲ネタだった。

 仲間のみんなで強盗撃退記念祝賀会を張ってやった時なども、命を張って女子行員と金庫を守ったご褒美として支給された会社からの報奨金について、奴のボヤキは炸裂した。

 「5万円、俺の命は5万円」

 その晩の杉田は、数々の失恋懺悔の合い間に、この哀しい嘆き節を飽くことなく歌いまくった。

 そんな杉田の哀しくも明るいボヤキを聴いてると、ふと思い出すのはカンテ・ボニートの名人、あのペペ・マルチェーナの親しみある懐かしい歌声だ。
 庶民には大人気だったが、純粋派からは反発を食らったマルチェーナについて、プーロの大長老マトローナはこう語ったという。

 「マルチェーナをダメだと云う人もいる。
  でも何十年も歌っていて、
  人々がそれについて行くんだから、
  何かを持っているわけですよ」


                 


ドストを愛した勝負師 [その272]

2009年08月14日 | 超緩色系




   ドストを愛した勝負師



 福沢はギャンブルの天才だった。
 特に強みを発揮したのはカードで、あまり目立たぬように、しかしトータルではしたたかに稼ぎ、心得のある大人たちをいつも手玉にとっていた。決して一人勝ちせぬように配慮し、10万勝てば5万と、儲けた半金で仲間にふるまうことを常としていた。幾度か吉原までゴチになったこともある。

 複雑な家庭事情らしかったが、いつも羽振りのよかった福沢は、私よりふたつ年上の将棋仲間だった。プロには行かず、二浪して東大に入り、一年も通わずに退学したことは風の噂に聞いていた。

 私がギターを弾いていた場末のパブに、綺麗どころを三人ばかり連れ、その福沢が突然ぶらりと現れた。共通の仲間から私の居所を知ったらしい。
 久々の再会だった。私は23歳だから奴は25歳か。
 塾の経営と副業の株が大当たりして濡れ手に泡の状態だと自嘲するように笑った。早くに結婚して子供もいるが女好きは変わらない。

 私のギターを聴いて、瞬時にその明るくない将来性を察したらしく、就職できるアテもまるでない大学5年の私に、ここをやめたらウチへ来ないかと誘った。フシギと相性のよい福沢のところで働くのも悪くないと思いつつも、私は塾の先生の務まるガラではなかった。

 その後福沢からは、年に二度三度誘いがかかり、すべて彼が勘定を持つ豪遊に私はコロコロ付き合った。豪奢な店に美女をはべらせ、ヤバかった過去の修羅場話や、プロに進んだ仲間の活躍を肴に毎度トコトン呑んだ。
 だがパセオを創刊した頃には、私の方にそんな余裕がなくなり、次第に酒池肉林の交流は途絶えていった。

 高田馬場のパセオに彼から電話が入ったのは、三十代半ばの頃だったろうか。無沙汰を詫び合ったのち、100万ばかり都合してくれるかと彼は切り出した。貧乏通帳を見やれば残高は50万ばかりで、銀行に駆け込みその内の40万を引き出し、馬場のルノアールで彼と落ち合った。
 今のおれにはこの程度だ。その代わり返す必要はないから。
 お前ほんとに俺が返さないとでも思っているのか? まあいい、これは借りとくと、少しやつれてはいたが、あの懐かしい彫りの深いソース顔でニヤリと笑った。





 「おととしだったか。福沢が死んだんだよ」

 この夏、
ひょんなことから、やはり昔の仲間でひとつ年上の秋田と連絡がとれて、福沢の死をはじめて知った。そうか、奴は今のおれの歳で逝ったのか。以前から何となく嫌な予感もあったので泣かずにすんだ。
 晩年の福沢の生き様や死因は皆目わからず、墓は鹿児島だという。だが、ドストエフスキーを愛したあの勝負師福沢のことだ。言い訳も愚痴もない潔い散り様であったことにまちがいはなかろう。
       

 私と同じ時期にやはり金策を頼まれたという秋田は、100万取りっぱぐれたとカラカラ笑った。お互い高校時代から福沢にはもろもろ世話になりっぱなしだったから、その借りを少しでも返せたことは互いに上出来だった。

 「後手は踏むな」
 「安全そうに見えるルートがいちばん危ない」
 「悲観が基本だが、そればかりじゃ勝ち筋は見えない」

 学校では教えてもらえない、
若い頃に福沢から学んだ勝負の修羅場の鉄則は、その後の凡人(秋田や私)がどうやら食えてる最大の理由とも云うべきものだろう。
 福沢によくおごってもらった有楽町のあの店、まだあるのかなあと、懐かしそうに秋田が声を詰まらせた。 ああ、きっとあるに決まってる、久々に行ってみるかと、自分を励ましながら私は応えた。




 


父の戦略 [その270]

2009年08月11日 | 超緩色系


 



           父の戦略




 「きれいに焼けちゃったなあ、はっは」

 焼け跡を静かに見つめる兄は、駆けつけた弟をふり返りながらこう云う。
 二十数年前、隣家からのもらい火で生まれ育った実家が全焼した。
 悲劇を喜劇に転じようとする、その爽やかな笑い声がいまも心に響く。 

 「便所まで丸焼けで、あれがほんとのヤケクソだったよなあ」。 
 そんな昔話に、何度ハラを抱えて笑い合ったことだろう。

 「長男は堅気に、できれば公務員に。次男は自由な道で」。
 真田一族じゃないけど、それが親父の戦略だったんだよと、四つ年上の兄から、数年前そのことをはじめて聞かされた。
 幸村みたいに勝手放題に跳ねまわるお前がうらやましかったよと云う兄だが、彼にしたって第一志望の小学校の先生になれたわけだから、そこはおあいこのように思える。

 怖いもの知らずに荒稼ぎしていた学生時代の私には、実家や兄にその半分ほどを回していた一時期があった。 
 当時は大学の合気道部一直線だった武闘派の兄は、そのことをいまだに恩に着てくれるのだが、二度の結婚や株式会社設立の時には目ん玉が飛び出るような祝儀を包んでくれた。 
 おまけにもう四半世紀近く、兄には大きな借金の保証人を引き受けてもらっている。私がポシャれば兄貴もポシャる、通算すれば数億円の保証人だ。

 昨年から兄の連帯保証なしで借金が出来るようになったので、これまでほんとにお世話になりましたと、この正月の兄宅の新年会で両手をついて永年の礼を云ったら、手放しで喜んでくれると思っていた兄がちょっと寂しそうな表情をした。
 兄にとっての私は、ヤクザな弟であると同時に、手がかかって当たり前のバカ息子同然だったことに、その時気づいた。

 その元旦の新年会では私の連れ合いが作るパエージャが恒例化しているのだが、甥や姪たちがこれに夢中でパクつくのを横目に見ながら、兄との共通項である文学の話になった。 
 音楽はからきしダメで、昔から硬派文学を好んだ読書家の兄だが、近ごろは肩の凝らないエンタテインメントがお楽しみらしい。 
 とっておきの愛読書は超人気作家、あの佐伯泰英さんの時代小説だと云う。その新刊はすべて買う、テレビドラマも全部観る。
 あっ、フラメンコの小説なんかも書いてるぞ、おまえ、佐伯泰英知ってるか?

 その昔の数年間、フラメンコ協会設立・運営のために、毎晩のようにその佐伯さんとツルんでいたことを私は話した。 
 当時ビンボーだった佐伯さんが無理やり買った四輪駆動の保証人、しょーがねえんでオレがなってやったんだよ。

 ほ、ほんとかよ、おいっ? 
 つーことは、佐伯泰英の保証人がおめえで、 
 そのまた保証人がおれだってこと?……。
 ううっ、さすがわおれ様の弟だあ!と、 
 こんどは心底うれしそうに笑った。




昭和なシュール [その268]

2009年08月07日 | 超緩色系





          昭和なシュール


 

 母に手を引かれながら、荒川の上を歩いている。

 対岸の土手同士を結ぶように、
 なぜか川面に直接、あまりにも唐突に
 3メーターの幅もない狭い砂利道が続いており、
 それを東側から西側の小松川方面に向かって、
 私たちは歩いているようだ。

 川向こうで何か用事をすませてきたようだが、
 それが何であったかはわからない。
 やはり手をつないで、私たちの後をついてくる
 姉と兄の姿からすると、私は5歳くらいだろうか。
 そのほかに、川の上を歩く人影はない。

 荒川を渡りきって土手を越えれば、
 そこは都電25番線の終点『西荒川』あたりのはず。
 電車道にしばらく沿って、
 煙草屋を左に行けば我が家がある。
 ロッシーニを口ずさみ、上機嫌で仕事をしながら、
 父は私たちの帰りを待ちわびていることだろう。

 波の荒れる、こんなに幅広な大川を歩くのは、
 泳げぬ私には相当に怖いはずなのだが、
 母としっかり手をつないでいるせいなのか、
 まったく恐怖は感じていない。
 つくしん坊が生えているはずの小松川の土手は、
 もうすぐそこだ。
 だが、いくら歩いてもなかなかたどり着かない。
 おかしいなあ。
 でも、そんなことはどーでもいーや。
 そう思いつつ、黙々と私たちは歩く。


 おそらく小学生の頃に見た夢だと思うが、
 いまだにその光景を鮮明に憶えている。
 土手の緑と荒川の青が印象的だったから、
 それはおそらくカラーの夢だったのだろう。
 夢の記憶は、そこでプッツリ切れるのだが、
 いつかその続きが観れないものかと、
 もう40年以上も想っている。


 



 


芸の肥やし [その263]

2009年04月23日 | 超緩色系






          芸の肥やし




 草なぎ剛さんは、私の好きな役者さんのひとりだ。

 「ハダカで騒いで逮捕」という朝のニュースには驚いたが、若い私もそうであったように、なぜか男は酔ってハダカで騒ぐのが好きなのだ。
 とっつかまったことはないが、それで惚れた女に逃げられたことが十回はある(TT)。


 「大ヤバ系でなくてよかったあ」

 かつて『笑っていいとも』の本番で、草なぎ剛さんにフラメンコを教授したことのある連れ合いは、そう云いながら胸を撫でおろした。

 私たち一般人に出来ない夢を代わりに実現してくれるアーティストたちに、可能な限り一般モラルを押し付けたくない私としても、内心、この程度でほんとによかったあと、むしろホッとしている。

 「芸のレベルに比例して、立派な人間であってほしい」という願望とはまた別にある、「芸のレベルに比例して、ハチャメチャなプレイベートは容認される」という私の心のバロメーターは、剛がんばれっ!と叫ぶ。
 秀でる芸人を「大目にみる」戦略は、古来からの日本の優れた文化だしさ。

 このピンチを飛躍への突破口ととらえる彼が、この先、さらにひと回り大きなアーティストとなって、私たちをいっそう楽しませてくれることは、まずまつがえのないことだと、ひとり私は予測している。

 

 

 

              

 


 


何をやっても一生は一生 [その253]

2009年03月15日 | 超緩色系

 

 

    何をやっても一生は一生









           





 「何をやっても一生は一生



 将棋のプロ棋士を志すきっかけになった、その技術書の中にあった言葉。
 それまでは、何物かに流されてる感じがしてたので、 この響きには清冽なショックがあった。

 そうか! 自分の人生は自分で選んでいいのか。

 昭和40年代半ば。
 すでに世の中は、あまりにも過保護になりすぎてる時代だったから、流されやすい中学二年の私は、そんなことにさえ気付いてなかったのだ。
 異様な過保護に本能を狂わせられる現代の少年少女も大変だが、わたしら世代もおんなじようなものだったと思う。

 この言葉が内包するポジティブな開き直り戦略が、プロ棋士テスト失格に始まる、失敗に失敗を重ねまくるその後の、他から流されるのではなく自らスベりまくるマイペース人生を演出したのかと思うと、妙に感慨深い。





五十歩百歩 [その252]

2009年03月09日 | 超緩色系





 

           五十歩百歩

 

 

 私という人は、仕事や友や女やアートや金などが大好きなタイプだ。
 最初から持ってない約三点を含め、これらを失うのはたいへん辛いことだ。

 でも、ほんとはもっと失うのが怖いものがひとつある。
 意外かもしれないが、それというのは「運」のことである。
 ふんわりとはしているけれども、それこそがあらゆるものの元締なんじゃないか?
 私に限って云うと、「運」とはそれほどまでに重要な存在だ。

 大むかしの一時期、勝負の世界で生きていた私は、いわゆる「運」に対し敏感な方だったかと思う。
 ガチンコ世界の実力が接近する勝負において、運は重要なファクターになり得るからだ。
 だが若い私はその正体を知らず、よってそれを改善するための手がかりを持たなかった。

 人生の実相がおぼろ気ながら見えてくる30代半ばぐらいで、大方の人がそうであるように、ようやく運の実態がわかるようになる。
 運とはすなわち確率論であり、基本的に誰にもほぼ平等にそれが分配される。
 そんなことを経験則的に実感するわけだ。
 ついでに「運の育成」の可能性に気づくのもその頃だと思う。

 

          

 

 さて、運の育成に踏み込む場合、ツボを買わされるのが一般的な手法のようだ。
 だが、国際平和を優先するため、あらゆる宗教を放棄するタイプの私には、どうにもそれが向いてない。
 そこで、運を呼び込むのに成功していると思われる人々を、注意深く観察してみたりしたわけだが、そこには思いもかけず、いろんなやり方があることがわかった。

 その結果、本格的なのはいずれもストイック系であり、ユル過ぎる私にはどれも到底無理だよというあきらめがチラつく。
 が、ただひとつだけ、これならばひょっとして、という方法論があった。

 それは「人として、普通にやる」という、にわかには信じがたいチョー楽ちんな運の呼び込み方法である。
 人として普通にやる。
 つまり、どうあれ悪い雰囲気を自らはつくらないこと。
 余裕に応じて、自らよい雰囲気を創ること。
 な、なんと、これだけである。

 いつの間にやら「グチる」「キレる」みたいなうすら汚いストレス解消法がナシ崩し的にオッケーとなったネットを含む現代は、逆に「グチらないこと」「キレないこと」が好ましい特殊能力として、世に歓迎される時代だったのだ。
 人として普通にやってれば、おいしい話が勝手に向こうからやってくる確率が高くなる。
 ふと気付けば、そういう不思議な時代になっていたのである。

 あまりにも安易にすぎて何か納得ゆきかねる気分を感じつつも、それがホントなら、こりゃ金も時間も修行もいらねえ優れモノだと思った。
 誰もが「グチらない」「キレない」人となるノーマルな時代がやって来れば、そうした確率もまた下がるのだろうが、幸か不幸か「こんちわ」の挨拶もロクにできない現代日本に、今のところそんな兆しはまったくないし………。

 

            

 

 さて、「グチる」「キレる」というのは、一息こらえてわが身をふり返りその内側に「強いタメ」を創るチャンスを、一挙に台無しにする手法だ。
 あースッキリしたあ! という刹那の快感は得られるのだが、その代償があまりにもヤバすぎることは、かつて「グチる」「キレる」を専売特許としたこの私が涙とともに保証したい。

 プロアマ問わず、上手なフラメンコさんなのにタメのないのが惜しい! みたいな方と実際にお話ししてみると、そんなタイプである確率が異常に高いことも、その手法がまた別な不幸を呼び込んでしまう一面も裏付けている。
 これはフラメンコ屋25年間のリアル・データだから、覚えておいて損はないと思う。
 この実例は、その実力がほとんど頼りにならない私のよーなアホシオナードが好きな仕事を続けてゆくためには、人として普通のやり方を採ることで「運」を味方につけるよりないことを強く認識し直すのに十分すぎるデータだと思う。


 ま、そんなわけで、ある時期からの私は、自らは悪い雰囲気をつくらずに、可能な範囲でよい雰囲気を創ることを心がけ始めた。
 期待も何もしてなかったのだが、意外にも三年ばかりでその成果は少しずつ上がり始め、昔に比べるとはるかに、特に人間運がよくなったことは事実のようである。

 ではあるのだがその一方で、悪いアイレのケンカを売られる場合など、「待ってますた!」とばかり戦闘態勢に入ってしまうところに、元々素材のよくないこの江戸っ子の限界がある。

 「待ってますた!」の切り返しは、もちろん相手の急所は外すにしても、その相場は三倍返しと決まっている。
 一息こらえてわが身をふり返りその内側に「強いタメ」を創るチャンスを、一挙に台無しにする手法だ。
 カレーを食いながらウンコする自分が脳裏をかすめつつも、あースッキリしたあ! という刹那の快感は得られるのだが、いつまでたっても、めざすウン気に到達できない理由がそこにある。

 

 

 

 

           

 

 


まじめに生きるために [その250]

2009年02月21日 | 超緩色系

 




       まじめに生きるために




                        


 生来私は"生まじめ"な性質だ。 
 だから、余分な"生"の付かない、本当に"まじめ"な人に対して、こりゃかなわんと、いつも負い目を感じながら生きてきた。 
  
 島田紳助、春風亭小朝、サイモン・ラトル、所ジョージ、福田進一、中村勘三郎……。 
 パッと思いつく同世代の有名人だけでも、私の憧れる「まじめな人」はこんなにいる。 
 他の世代の有名人や、愛すべき周囲の仲間を入れたらものすごい人数になりそうだ。 
 
 生まじめな人間というのは、しばしば不まじめな人間よりよっぽどタチが悪いことは、生まじめ人間出身である私がよく知っている。 
 放っておいても約束は守り、生まじめに働くメリットはあるが、細部に神経が集中しすぎて、肝心な全体を見失う致命的なデメリットを有しているのだ。 
 
 それに比べると、まじめな人間というのは、実に全体バランスがしっかりしている。 
 さらに、大切なものとそうでないもののメリハリのつけ方が実にうまい。 
 すでに1コンパス12年近くを暮らす連れ合いなどを観察していても、そのバランス&メリハリ感覚にはなかなかのものがあり、特に「力の入れ方・抜き方」のノウハウはかなり参考になった。 
 
 ただし私の場合は、「力の抜き方」についてのみ、あまりに集中的に学習してしまったため、最近の私は一見、若干、不まじめな人間に見えるかもしれない。 
 実際にはチョー不まじめな人間になってしまったわけだが、こんな極端な成果を出せるのも、肝心な全体を放置したまま、徹底的に細部に集中できる生まじめ人間の特徴である。   
 
 
 
            
 

 
 生まじめ人間を廃業するために、ある時期からの私は徹底的に「ユーモア」を学習した。 
 勉強嫌いの私が、生まれてはじめて着手した本格的な学問だったかもしれない。 
 細部への思い込みの強い人間が、全体バランスを獲得するには、日常的に、かつ徹底的に「自分を笑う」習慣を身につける必要があると感じていたのだ。 
 
 私の育った下町界隈においては、"真心"というものが、いつも"ユーモア"とセットだったことも、そう感じる遠因だったかもしれない。 
 盲目的に細部にこだわるおマヌケな自分をゲラゲラ笑い、その反作用によって冷静な自分を呼び覚ますことで、常に全体バランスの構成に気を配れる自分になりたかったのだろう。 
 
 愚かな自分が勝手に思い込んでる信条のすべてを笑い倒し、その上で改めて、必要最小限のコンパスを選択しようと思った。
 気に入らない他人の言動にハラを立て、貴重な時間を消費するのはヘンだと思った。 
 私に限って云えば、事件が起きたとき、人を疑うより自分を疑った方がはるかに解決は早いのだ。 
 だから、他に対する許容範囲を広げるような方向が望ましいと思った。 
 可能な限り何でもオッケーな幅と奥行きを持ったコンパス&アイレを、シンプルにほんの少しの数だけ選ぼうと思った。  



           

 

 小さい頃からのお笑い好きが幸いして、面白い話に素直に笑えることには自信があった。 
 残る課題は、「自分を笑う」ネタで、いかに「自分を笑わせる」か、それだけである。 
 幸か不幸か、私の場合は、イヤ~な奴の欠点を鋭く暴き、これを一発で撃沈する、辛辣極まりない嘲笑能力にも自信があった。 
 これを人さまに使用することを封印し、その代わりにこの辛辣な批判能力のすべてを、自分自身に集中砲火させる方法を思いついたのだった。 
 
 社会的には罪にならない罪深き凶悪犯罪である"愚痴"をやめたのも同じ頃だ。 
 私を含め、みな自分の愚痴だけは許されると思っている。 
 これほど愚かでみじめでグロテスクな事象を笑わない手はないなと思った。 
 何気ない愚痴でも、結局そのストレスはその下請けに伝染するものだ。 
 それを反面教師化できない心やさしき弱者や子供たちはさらに追い込まれる。 
 下請けから下請けにそのストレスは伝染し、現代日本は立派な鬱社会となった。
 その真犯人は、政治家でもなければ世の中でもない。
 
 そうした風潮の中、逆にフラメンコ人口は増えた。 
 つい口から出そうな愚痴も、フラメンコ的カタルシスでスパークさせれば、それをエネルギーや笑いに逆転させることも可能ではないか?……と。
 フラメンコは“自立と協調”のアートだ!

 そう本能的に察知した人々が、大挙してフラメンコの世界に足を踏み入れてきたのだ。 
 もちろん、それらを自覚できずに、不平たらたらで生きてる人もいるにはいるが、これはカレーを食べながらウンコをするようなものなので、逆にそれだけ器用な人なら、この私もそうであったように、必要な自覚は時間の問題かと思われる。 
 
 愚痴や他者への攻撃を放棄し、自嘲的ユーモアに私が走ったのはそんな理由による。 
 これらの転換の副産物として、自分をとりまく人間運がスイスイ向上し始めたことには、我ながらびっくらこいた。 
 それらの根気よい継続の末に、自分で云ったり書いたりする自嘲ネタで、十年後の自分を笑わせる水準まで、その能力を向上させることもできたと思いたい。 
 
 『オラシオン連歌』や『シュール・アフォリズム』などに毎日10分程度、コンスタントに書き込み続けるのも、自然にチョー大吉を呼び込む、そうした自分好みの感性をサビ付かせないためだ。 
 壊れにくいユーモアというアイレを保つことは、酸いも甘いもある日常生活を丸ごと楽しむことの反映のようにも思える。 
 
 さて、これらの結果、常に全体バランスの構成に気を配れる自分になれる予定であったのだが、あいにく自分を笑わすことに手一杯で、そこまで手が回らなくなってる哀しすぎる現状がある。 
                      
 こんな極端な成果を出せるのも、肝心な全体を放置したまま、徹底的に細部に集中できる生まじめ人間の特徴である。   
 
 
 
 
 

                 

 

 


パコ・デ・ルシア [その247]

2009年01月26日 | 超緩色系





           パコ・デ・ルシア 
 


 
 授業を投げ出し街々を徘徊中に、偶然手にした一枚のレコード。
 人生を賭けた将棋のプロテストに失格し進路を失った高校生の私に、まったく新たな道筋を示すパコ・デ・ルシアのフラメンコギター。 
 
 
 
         
 
 
 
 グチんな!クヨクヨすんな!
 誰も助けちゃくれんぞ。
 魂ケチんな!
 さらして鍛える魂を金庫にしまってどーする。
 遠慮すんな!
 やりたいことを思う存分やれ。
 心配すんな!
 どー生きても人は必ず死ぬ。
 
 
 エネルギーに充ちあふれたそのフラメンコが、どん底の私にそうソウルする。
 当時流行の優柔不断~ジリ貧コースとは対極に位置する方法論。
 ノミの心臓ゆえのキマジメだけが取柄の私に、そんなんでいーのか? 本当にそれだけで足りるのか? とズバリ迫る、まばゆい光の大胆パッション!
 引きこもり寸前の魂に、コペルニクス的転換の可能性を示す鮮烈な一撃!
 背筋のピンと伸びた本音と熱情のアートは、本物のエロスとタナトスを備えていた。
 その神秘のレコードは、わずか半日で、沈みかけた私の運命をあっさり変えた。 
 
 

        
       
 
 
 パコ・デ・ルシアのフラメンコギターが発散するファンタジーには、自分の人生を丸ごと賭けてしまいたくなるような「ときめき」がある。
 そして、そのときめきには、聴き手のポテンシャルを引き出し育てるような響きが内包されている。
 失敗に明け暮れる青春時代から今日に至るトータル37年間、一度としてブレることなく、彼は私の心の神として存在し続けている。
 天才パコ・デ・ルシアが示す道筋を、一般人平均を大幅に下回る私がせっせと歩んだ悲惨なプロセスは都合により割愛するが、いつも心にアルモライマ(パコの有名なブレリア)を響かせた歳月は、暗くハンサムな少年を、陽気でブサイクな青年に変え、やがて彼にパセオを創刊させるのだった。
 
 
 
        
       
 
 
 パコ・デ・ルシアのゆくところには必ずや新しいシーンが展開し、次の時代を予言する熱風が吹く。
 岐路に立ったとき、鋭い直観と強い信念によって人生の選択肢を決断したパコ・デ・ルシア。
 フラメンコと自らの良心に忠実に、世間の外圧に翻弄されることなく自身を貫いたパコの生きざまは胸に迫る。
 チック・コリアやアル・ディメオラをはじめとする国際的ミュージシャンとの長年にわたる異種格闘技試合から凱旋して、フラメンコに還ったパコ・デ・ルシア。
 その回帰第一作『熱風』は、フラメンコギターの最頂点として、また、ビートルズやピアソラなどと並ぶ20世紀音楽の傑作として、私たちの子孫らに聴き継がれてゆく名盤だ。
 パセオ創刊のきっかけが『アルモライマ』なら、この『熱風』は廃刊を阻止する精神的カンフル剤のようなものだった。
 極東のパセオでさえそんな恩恵に浴したぐらいのものだから、スペイン・フラメンコ界、とりわけプロの一流アーティストたちが与えられたインスピレーションの大きさには想像を絶するものがあったろう。
 『熱風』は、バイレ・カンテを含む現代フラメンコの潮流を決したアルバムなのだ。
 全八曲の中に『二筋の川』や『アルモライマ』のような親しみやすいメロディを持たせなかったところにパコの心が見えてくる。
 ここでのパコは、現世的な喝采には背を向け、ただひたすらフラメンコの神に、全身全霊で感謝と祈りを捧げている。 
 

 
        
       
 
 
 さて、パコ・デ・ルシアを神と仰ぐ場合、その信仰効果は人によってまちまちであるが、私のケースで云うと「人生はいいなと思う」「不幸に鈍感になる」「すぐハラが減る」などである。
 若い頃の私は、パコのアートや生き様に少しでも近づきたくて必死にあがいたものだが、それを実現するには、私個人のレベルがあまりにもユルすぎた。
 ここ十数年の私なら、石炭に向かって「ダイヤモンドになってください!」と必死にお願いすることの方が、まだしも実現の可能性が高いことを知っている。
 「月とスッポン」と云うが、この地上から月(パコ)を眺めつづけ憧れつづけるスッポン(私)でありたい、というのが偽らざる心境だ。
 若き日はともかく現在の私には、パコ・デ・ルシアとのそういう距離感がちょうどいいくらいに感じられる。
 道に迷っては、思わず夜空を見上げるこの私に、その超然たる月は、進むべきだいたいの方向を示してくれる。
 
 ご降臨とも云うべきだった、あの2005年夏の来日ライブ。
 ともすれば寄る年波にさらわれそうになる私たち世代は、自らのペースをまったく崩すことのない57歳パコ・デ・ルシアの、愛と勇気とユーモアに充ちたその原色のファンタジーに、目からウロコをぽろぽろ落とすことになる。
 
 そう、神はときめき続けていたのである。
 
 この月を見失えば、
 そのときはナベにされちまう時だな、と思った。
 
 
 
 
 
 
                
 
 
 
 
 
【追記】
 久々の休暇に、半日ばかりパコ・デ・ルシアを聴いて過ごした。こんなにまとめて聴いたのはしばらくぶりだ。
 今朝になって、ふと思いつき、以前にブログに書いたいくつかを、切り貼りでまとめてみた。こうして、わたすの半生をふり返る見事な駄作はわずか30分で完成した(TT)。
 
 

マリパヘにムターが響く [その242]

2008年12月14日 | 超緩色系





 

      マリパヘにムターが響く





 ふだんから正常とは云えない私の脳に、突然の異変が生じたのはその時だった。

 

          

 

 今年5月のマリア・パヘス来日公演『セビージャ』。
 マリア・パヘスのつむぎ出す艶やかなバイレフラメンコから、唐突にあのアンネ=ゾフィー・ムターのヴァイオリンが聴こえてきたのである。

 弾力とボリュームに充ちた力強い重低音。
 シャープにして色彩豊かな中音部。
 とてもこの世のものとは思えぬ美しい高音ピアニッシモ。
 あらゆる要素に配慮しつつ、全体を前向きにひっぱる推進力。

 

         

 

 そんなムターの艶やかなヴァイオリンが、マリパヘの踊りがピークに達するたびに、私の脳内に朗々と響きわたる。
 それがあまりにも突然でありかつ鮮明であったがゆえに、とうとうボケが本格化したかと私はうろたえた。

 はじめての体験にクビをひねりながら、終演後すぐにロビーのパセオブースに駆けつけ、まぬけな大声で呼び込みのおっさんをやりつつ、また、チョー美女のウェブ友さんたちと「わかめっ!」「ひじきっ!」の合言葉を交しつつも、私はこの不思議な現象を反芻していた。
 
漱石を読むとグレン・グールドのバッハが鳴り出す、ややスノブな感じとは明らかに違っていて、それはもっと自然でフィジカルな感触だった。

 だが、その謎は意外にも簡単に解けた。
 ムターとマリパへには、実は物理的な共通項がたくさんあることに気付いたのだ。

 第一に、そのアートは完璧かつ明快であり、ド素人にもわかりやすいこと。
 第二に、その音色およびアイレに、むせかえるような色気が充ちていること。
 第三に、あらゆるテクニックがその音楽性(舞踊性)とひとつになっていること。
 第四に、チョー美人ではないけど、ステージでプレイ中の表情が飛びきりに美しいこと。
 そこには、女性のみならず、全人類の規範ともなるべき輝かしいヴィジョンが示されている。

 あー、そんなんで、ぼけぼけ頭の中で彼女たちが一緒くたになっちゃったわけなのね。
 ま、これは愛する美女Aを抱きながら、同じく愛する美女Bを想うのに似てなくもないわけで、清廉潔白で鳴らす私(←そ、それはどーゆー私?)には、ちょっとだけ後ろめたい感じも生じていたのかもしれない。

 

 そんなこともあって、この夏は久々にアンネ=ゾフィー・ムター(マリア・パヘスと同じ1963年生まれ/スイス出身)を集中的に聴いた。
 学生時代からメシや酒を抜いても彼女の録音はもらさず買ってたので材料に不足はないし、何度か観聴きした生ムターの感触をそれにかぶせ、さらに膨らませて聴くこともできるのだ。
 13歳でかのヘルベルト・フォン・カラヤンに見い出されベルリン・フィルと共演した早熟の天才だが、特に聴きたくなるのは見事に成熟したここ十年ほどの録音である。

 2000年のドイツ・リサイタル(特にプロコフィエフのソナタ)にはむせ返るような色気にメロメロとなるのだが、やはり繰り返し聴くのは自身で弾き振りするモーツァルトのコンチェルト集(2005年録音)で、これはあのアルテュール・グリュミオーの永遠の名盤に迫る凄みがある。
 そして、折りよくこの夏リリースされた『バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ』。
 私にとっては米のメシにも相当するバッハのヴァイオリン・コンチェルトの二度目の録音である。
 ただ美しいだけの若い頃の録音に比べると、情感の彫り込みが格段に深くなっており、そのクオリティは現代バッハのひとつの美的典型にまで到達している。
 マリパヘ同様、彼女はほんとうにいい歳のとり方をしてるな、と思った。
 何だかこの録音が、彼女のバッハ・無伴奏ヴァイオリンの全曲録音を心底待ち望む世界中の音楽ファンに対する、彼女らしいチャーミングなメッセージのようにも思えてきた。


            
          【アンネ=ゾフィー・ムター/バッハ・ミーツ・グバイドゥーリナ】
                  2008年/ドイツ・グラモフォン


 土曜日の早朝、ご近所代々木公園にジェーを遊ばせながら、単音でたっぷり歌うバッハの、そのゆっくりな第二楽章を目を閉じ心で聴く。
 するとどーだ!
 予感的中! マリア・パヘスのあの美を尽くしたブラソがしっかり視えたではないか。


 「ふへへ( ̄▽ ̄)  これでおあいこだあ」

 (↑)三角関係上の色男になったつもりの変態妄想おやぢ

          

 ま、それはさておき。
 お茶の間でムターを聴きながらブラソ(腕)やマノ(手)なんかの練習をすると、その美しいイメージに自然と身体が反応し、ひょっとして、マリア・パヘスみたいなしなやかで美しい動きに近づくことが出来るんじゃねーか?
 これって私にしては、わりと自信のある推測。
 ムター持ってる人、誰か試してみっ?!