───────────────────────────────
2012年3月01日(木)/その972◇全てに意味がある
屋良有子/フラメンコライブ 2月19日/東京(新宿)エル・フラメンコ
【バイレ】屋良有子/ベニート・ガルシア
【カンテ】エル・プラテアオ
【ギター】フェルミン・ケロル
【ヴァイオリン】三木重人
【パルマ】パウル・オルテガ
「自分に対して、自分で確信を持つこと。私の場合はそれに尽きます。
信じられるまでは、いつまでも自分と向き合う。
後になってする言い訳とか後悔が絶対にイヤだから、徹底的に自分と対話します。
勝負はそこで決まるって思うんです。
そういう徹底的な自問自答の毎日が、心と身体を、あるいは心と技を
スムーズに連携させてくれているような気がします。
自分の中の葛藤に負けることはありません。
自分がどこに居てどこに行きたいのか、いつも自問しているから。
そのために私はこう在ると自答しているから」
おそらくはフラメンコ星人かと思われる彼女の分析を試みた
新年号『屋良有子/自問自答』に、本誌創刊以来屈指の
反響が寄せられたことは彼女の絶大なる人気を物語っている。
冒頭はその抜粋だがこのフラメンコ論は同時に、
地球人にとっても極めて勝率の高い人生論であるように思われる。
ふだんは客演的に一曲もしくは二曲踊ることの多いバイラオーラ屋良有子の、
そのオール・ソロライブを観るのは初めてのことだ。
有名なモーツァルトの未完の名曲レクイエム(死者のためのミサ曲)が
要所要所に現れ、このライブの意図は明らかにされる。
あの日からおよそ一年が経とうとしているが、
日本という国家がしっかり自問自答しているかどうかは大いに疑問であり、
屋良有子はアーティスト個人として潔くそこに踏み込んだ。
いつものように屋良のバイレフラメンコは決して期待を裏切らない。
ブレない軸の上にダイナミックに展開する緩急のコントラストの妙。
切れ味鋭く重量感あふれるスリリングな緊張感。
例によって次の瞬間に何が起こるかわからないから、一瞬たりとも目が離せない。
強烈な求心性の先端に確かな何かがあることは誰の目にも明白だ。
カンテやギターと見えない何かでつながっていることもわかるが、
それは細い糸ではなく太くしなやかな霊波の如し。
そんなものは最初から必要ないぞとばかりにいわゆる俗なセクシーさは排除され、
ほんまもんのエロス(生衝動)がみなぎる生命の躍動。
そのほの青い情念は燃え尽きてしまうタイプのものではなく、
メラメラとどこまでも希望を絶やすことのない炎だ。
ヴァイオリンの三木重人は屋良の潜在意識を歌うようでありながら、
どう弾いても彼が彼らしく聞こえる。
対象と同化しながら自分らしさが表出する比例線が美しい。
この日のベニート・ガルシアはシャープな安定感と
外交的でグアポな明るさが印象的。
好ましい陰影と共にフラメンコな推進力に充ちた
フェルミン・ケロルのギター。
細部を丁寧に描くことで巨大な輪郭が浮き彫りになるエル・プラテアオの
熱唱はいつでも存分に私たちを楽しませてくれる。
つまり、この日のフラメンコの音楽的充実ぶりは図抜けていた。
屋良はシギリージャ、ソレア、アレグリアス他を踊った。
トーナメント戦(客演)ではブッチ切りに勝ち抜く力があるが、
リーグ戦(今回のようなソロライブ)においては
屋良有子の伸びしろがまだまだタップリあることに、幾分私はホッとした。
若いうちに何から何まで完璧に出来てしまったら、
その先を歩むことには辛すぎるものがあるだろう。
未完の大器のまま、ずっとずっと伸び続ける
彼女を眺めていたいと願う自分に気づいた。
「私にとってもあの日は忘れられません。
"todo por algo" 全てに意味がある。
その意味のために明日も踊ろうと思います」
プログラムにはこう記されていた。
あの震災後、膨大な時間を費やしたと思われる屋良有子の自問自答は
この短い言葉に集約されており、
ソロライブのあらゆる瞬間にその自問自答の成果は、
実に正確に映し出されていた。
───────────────────────────────
2012年3月2日(金)/その973◇神の仕掛け
きのう木曜。
突然の雪による水曜午前中ズル休みの余波を解消すべく、
22時まで編集デスクにへばりつき、
6~7月号の骨格を組み終えたのち、
二十年の歴史を有する高円寺エスペランサ木曜会へ直行。
いつクタバってもおかしくはないことを自覚する連中の集まりだから、
屈託なく際限のないバカっ話に興じることとなる。
例によって私が下ネタを始めると、
バイラ●ーラの鈴●眞澄さんなどはアンコールを叫ぶ。
26時帰宅。
キリッと冷えた白ワインを呑みながら、
日曜午後に渋谷タワーで仕入れたバッハ新譜数枚を部分チェック。
タロー弾くキーボード協奏曲が図抜けて素晴らしい。
ああ、こういう手もあったのか!
レガートな躍動感にはゾクゾクするような色気がある。
下ネタというのも際限のないものだが、
同様に、アートの可能性には限界というものがない。
表面的には天地の開きがあるが、案外と根っ子はいっしょだったりする。
そこに社会道徳を確立することの難しさを痛感したりもするのだが、
そういう困難そのものが、人間を退屈から解放させるのかもしれない。
───────────────────────────────
2012年3月3日(土)/その974◇目クソ鼻クソを叱る
意地の悪いモノ云いをする、
おせっかいなオバサンみたいなオジサンがいる。
それは仕事まわりでも私事まわりでも同様だ。
自己顕示もやり方を誤れば、不愉快以外の何ものでもない。
老いた私が軽く受け流すのはワケもないことだが、
あまりに周囲の苦情や被害の度が過ぎるので、
年上と年下、同時期に二人ほど、柄にもなく説教をかました。
年齢的にも、まあそういう順番だから仕方ない。
対私というだけではなく、
どちらの所業も若干は改善されたようで、
そういう周囲の空気はさり気なく私にも伝えられる。
もっとも、生来気弱な私がそんなことをするのも、
基本的に彼らが好きだからだ。
だからこそ喧嘩沙汰にはならずに済むわけで、
そうした絶対前提が無ければ、どんだけ命があっても足りやしない。
だとするなら、人間を好きになることは善きことか。
詐欺にあうのはコリゴリだが、基本はやはりそこに置くべきということか。
まあ、すべては自己責任。
ともかくも、自分の直観と心中する覚悟はいつでも必要ということだろう。
ならば磨くべき何かは明らかとなる。
ならばやはり、このままフラメンコということか。
───────────────────────────────
2012年3月4日(日)/その975◇ソウル飯
「ねえ、小山さんのソウル飯って何?」
どう好意的に見てもヤクザかプロレスラーにしか見えないマーちゃん。
彼にはまるで釣り合いの取れないマッコちゃんという超美女の連れ合いがいる。
ある晩の秀、その心優しい凄腕料理人(つまり食通)マーちゃんが唐突にこう問うた。
「鯛の刺し身。湯引き皮付きのやつね。
それとハマグリの味噌汁。
あとは炊き立ての銀シャリとタクアン二枚」
私の好みを知る彼がなるほどとうなずくところへ、
じゃあ、あんたのソウル飯は?と逆に問う。
「彼女と二人でね、銀シャリをツナ缶で食うの。
ツナにマヨネーズと醤油かけてね。おかずはそれだけ。
で、最後の一切れを食う人が、
『これ食べちゃっていい?』って相手に聞くの」
・・・な、何なんだよソレ?
ノロケというかヘンタイというか一杯のかけ蕎麦かよっと云うか、
凄腕料理人のあんまりの実態に愕然とする。
洗い物をしながらこのやりとりを聴いてたマッコが、
ゲラゲラ笑いながらこう云った。
「最後の一切れ、必ず相手にお伺い立てるよね。
ソウル飯には礼儀が必要ってことかな」
・・・うっ、さっぱりわからん
───────────────────────────────
2012年3月5日(月)/その976◇信念の人
7月号しゃちょ対談のゲストは、
株式会社イベリア代表取締役、ギタリストの蒲谷照雄さん。
これから出社し記事をまとめて、
夕方から恵比寿のサラ・アンダルーサで、
写真家・北澤壯太を伴ない撮影取材。
「信念の人」
撮影コンセプトはそう振ってある。
蒲谷氏の震災後のファルキート招聘には、
団塊世代の気迫と凄みを感じた。
先輩たちのいいところは躊躇なく見習うべきだ。
後輩の中にもリーダーシップを取る者が現れつつある。
もちろんそこも躊躇なく見習いたい。
過保護社会のツケを若い連中に丸投げしてはいけない。
───────────────────────────────
2012年3月6日(火)/その977◇ボチボチ
日本文化。
両親や学校やバイト先や社会から否応無く影響を受けた。
いいなと思うものもあれば、そうでないものもある。
特にいいと思うのは日本料理と文学全般と囲碁将棋や、
「先輩におごってもらったら後輩におごり返す」慣習など。
私の少年時代の日本というのは、欧米化に忙しい時代だった。
アメリカのプラグマティズム(現実主義)は仕事上大いに役立ったし、
ヨーロッパのアートには心底憧れた。
バッハやサルトル実存主義などは青春のバイブルだったが、
それでも足りなくて、フラメンコにたどり着いた。
フラメンコは変化することによって、あらゆる時代を生きる。
なのに伝統が実際的な役割を顕著に果たすところが素晴らしい。
まるでここ40年の「バッハ演奏」の変遷の如しだ。
時代や地域を超える国際路線の音楽が育ち辛い現代にあって、
バッハとフラメンコは未来の二大コア音楽だと私は予言したいが、
当たらないことには定評のある私の予言なので、こりゃ撤回しておくか。
フラメンコは国際的にはまだまだマイナーだが、
あのバッハだって、その死後は長いこと表舞台に登場しなかった。
逆にメジャーな流行というのは、旬が終わればあっという間に忘れ去られる。
その意味では、バッハ同様ボチボチ往くのも悪くない。
───────────────────────────────
2012年3月7日(水)/その978◇水と油
占い好きな芸能人をめぐる過熱報道が痛い。
そこまで芸人を追い詰める資格はマスコミにはないと、私は考える。
だが、彼らの多くはこう云う。
視聴率が上がる、雑誌が売れる、仕方ないんだ。
バカな大衆が相手なんだから仕方ないんだ、そういうものなんだ。
自分が食うために芸人を食い物にすることは、ほんとに仕方ないことなのか?
全部が全部、同じ角度から芸人をイジメるってのは、一体どういう了見なんだ?
君らにはメディアに携わることのプライドというものは無いのか?
いや、だから、そういうものだから仕方ないんだ。
バカな大衆と云うが、そう仕向けてるのは君らだろう?
そういう構造を自分らで改善するつもりはないのか?
無茶云うな、そんなことをすれば首が飛ぶ。
ここ数年、マスコミ関連の知人数名としくじった。
彼らにとって、私の位置づけは「世間知らず」ということになるだろう。
現代はメディアの矜持さえ語れない時代なのかもしれないが、
まあ、私は私で好きにやらせてもらおう。