フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2012年10月①

2012年10月01日 | しゃちょ日記

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2012年10月1日(月)/その1165◇自我爺さん

 11月号校了。

 来年一杯の編集整理と並行しながらの締切作業だったので、
 さすがに今回はシンどかった。
 若い頃のつもりで仕事量を段取りすると、
 えらいことになることがわかった。

 土曜と日曜に一本ずつインタビューを仕上げたので、
 今日は若干見通しがいい。
 今週の原稿ノルマは、12月号con flamenco有田圭輔のみ。
 圭輔のデモテープ(ソロアルバム)が届き次第、即書くつもり。

 さて、先ほど最終校正を終えた11月号。
 表紙とコンフラは、フラメンコ星人・屋良有子。
 しゃちょ対談はプーロの華・渡部純子。
 特集は、来春来日のスペイン国立バレエを十倍楽しむ方法。
 川島浩之のフラメンコ写真館は、熱きスペイン公演を記録する
 鍵田真由美&佐藤浩希フラメンコ舞踊団の『崇高なる日々』。

 ショージキ自画自賛したい出来栄えだが、
 57歳なので、「自我爺さん」程度にとどめておくか。

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2012年10月2日(火)/その1166◇ヘンテコ舞い

 来年新年号の新連載のレイアウトが、
 ジャカジャカ上がって来る。
 その合い間に、社長業、営業、執筆なんかもやるので、
 のんびり世界一周の豪遊に出掛けるヒマもない。
 床屋に出掛けるヒマもないので、明日は美容院に行こうと思う。 

 マエストロ・カニサレスの自伝『探しものは私の内に』
 カリスマ・バイラオーラ大沼由紀のカムバック・エッセイ
 ガチンコ・ヒデノリの新連載『フラメンコの前後左右』
 ヨランダの漫画『よらめんこ』
 ギタリスト山まさしのファルセータ楽譜
 さとうなつこの『食卓のフラメンコ』
 バイラオール佐藤浩希の『カンテを踊れ!』
 ハビエル・プリモのCDエッセイ『聴くならコレだ!』

 などなど、新連載は10本以上あるから、
 その原稿整理にテンテコ舞い状況だが、ドタバタと社内を駆け回る
 その作業風景はヘンテコ舞いに近い。

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2012年10月6日(土)/その1167◇原因はアンタの性格

 ※来年4月号のチャチャ手塚(心と技)記事の後記草稿

「マイクを通さない生の声が、豊かな幅と遠くに飛ぶ響きによって、
 ギターの音さえも凌駕してしまう。
 観客ひとりひとりに狙いを定めて指さしながら呼びかけるように歌う姿は、
 まるでヨーロッパ映画のワンシーンのよう。
 賑わう酒場で色気を滲ませながらも、
 たむろする男たちをあしらっていくような粋な歌手を演じる女優。
 そんな場面を想像する私は、すっかりチャチャ・ワールドに惹きこまれている。
 チャチャさんの声には、ボリュームに加え艶やかさがあり
 伸びやかに耳に届いてくる。
 その歌唱力が、横顔を見せているときでも、
 後ろを向いているときでも、まったく変わることなく伝わってくる。
 歌って踊るということの凄さに改めて気付かされる。
 彼女の背中の張りが、発声の鍛錬の積み重ねを物語っていた」

 近頃のチャチャ手塚について描かれた本誌公演忘備録(井口由美子)の一節だが、
 それは四半世紀前の彼女の印象とほとんど変わらない。
 当時から現在に至るまで業界男子による「フラメンコないい女ベスト3」
 に必ずランクインするチャチャ手塚は、
 今も歌って踊るわが国最高峰のルンベーラとして君臨し続ける。

 いつだったか仲良し連中の呑み会で、
 業界の迷惑野郎をコテンパにやっつける話題となった時、
 独り異議を唱えその彼を擁護したのがチャチャだった。
 幾度も煮え湯を飲まされてるはずの彼女なのに
 「それはそれとして、これこれこういういいところもあるのだから」と
 本気で彼を庇うのだ。
 そうしたリベラルな公平さが彼女の母親の影響だったことを
 この取材で初めて知った。

 頼りになる〝鉄火肌の姐さん〟というのがチャチャに対する
 我らフラメンキスタのイメージだが、彼女は笑ってこれを否定する。
 「確かに気は強いけど、同時に気は小さい(笑)。
  ただしビビリをエネルギーに変えることはフラメンコから学んだわ。
  ビビってるだけじゃ、第一お客さまに失礼だし、
  そんなつまらない人生なんて生きたくない」

 取材打ち上げで、すでに一升近く呑む彼女は
 まるでシラフな美声でこうつぶやく。
 「裕福だったり出来る子だったりしたら、
  フラメンコに巡り合えてなかったかもしれない。
  すべての宿命に心からありがとう!って感謝したいわ。
  劣等感のカタマリだった私に、やりたいことが見つかって、
  やりたいことが出来て......」

 それを"運"のおかげにするであろうチャチャの機先を制し、
 「そりゃアンタの性格が原因だ」とすかさず茶々を入れる私。


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2012年10月11日(木)/その1168◇プーロな記憶

「よくああ無造作にノミを使って、
 思うような眉や鼻が出来るものだな」

「なに、あれは眉や鼻をノミで作るんじゃない。
 あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、
 ノミと槌の力で掘り出すまでだ。
 まるで土の中から石を掘り出すようなものだから
 決して間違うはずはない」


 おなじみ夏目漱石の『夢十夜』第六夜のハイライトシーンだ。
 経験のないロングインタビューを本誌でチャレンジし始めた頃、
 なぜか唐突に思い起こしたのがこの名人運慶の話だった。

 インタビューも執筆もド素人だった私が、
 数日の猶予で8頁にも及ぶ記事をまとめることなど
 元からして無茶な設定なわけだが、
 早速に古ぼけた漱石の文庫本を引っ張り出し、この話を神妙に読んだ。

 「そうか、創り込むのではなく、掘り出すのか?!」

 何だか随分と気持ちが軽くなったことをはっきり覚えている。
 思い込みの激しい性格の私は、まるで啓示を賜ったかのように
 そうした作業にのめり込み、
 ほんの一晩で原稿を仕上げることになるのだが、
 あの宝探しのような楽しげな気分は今なお健在である。

 平安末期から鎌倉初期に活躍した仏師・運慶の作風は、
 平安貴族の好みとは異なり、
 男性的な力強い表情と量感に富む力強い体躯などを特徴としている。
 教科書にも載ってた運慶作の仏像には、
 なぜかプーロなフラメンコを連想させる迫真迫力がある。
 そうした奥底の記憶が、何とかフラメンコを描こうとする私を
 助けてくれたのだと思い当たった時の驚きも忘れ難い。

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 さて、漱石の物語は続く。
 彫刻とはそんなものかと思った主人公は、
 急に仁王像を彫ってみたくなって、
 ノミと金槌で家にある薪を片っぱし端から彫ってみる。
 だが、いくら彫っても出てくるはずの仏像は出てこない。

 そうした哀しい展開と私の原稿の出来具合が酷似していた事実は、
 各種事情により、ここでは触れないものとする。

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2012年10月12日(金)/その1169◇何をやっても

 今晩は日本橋で、石井智子さんのリサイタル。
 あさって昼は新宿エルフラで、萩原淳子さんのリサイタル。

 この不況にも関わらず、今秋はリサイタルが多い。
 しかも初リサイタルの多いことには、さわやかな吉兆を感じる。
 
 規模がどうあれ、大赤字が必然のリサイタル。
 やれば大変だが、やらなければ道は拓けない。

 けれどもそれは、どんな職業にも共通することのようにも思える。
 自らの意志で、敢えてエポックを打ち出すことを選ぶ。

 何をやっても一生は一生。
 

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2012年10月15日(月)/その1170◇プレッシャーに負けないやり方

 本日午前中、
 ぶっこわれたノートパソコンに代わって、
 新しいデスクトップのパソコンが自宅に入った。

 わーい、ようやく今晩から家でも仕事が出来る!

 あ、いや、"仕事が出来る"人ではないので、
 人によっては仕事の出来る環境が整備されたと、
 より正確に書きとめておこう。

 「しばらく休んだから書く能力が落ちた」
 幸いなことに、私の場合、そういう心配はない。
 落ちるためには、それだけの能力の蓄積が必要だが、
 幸いにして私にはそれがない。
 明日からボチボチ日課の日記を再開するつもりだが、
 余分な蓄積がなくて、ほんとうによかった。

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2012年10月16日(火)/その1171◇萩原淳子/鮮やかなリサイタル

 日曜午後、バイラオーラ萩原淳子の、
 鮮やかな初リサイタルを観る。

 カンテス・デ・レバンテ、アレグリアス、ソレア。
 バイレはこの三曲だけで、合い間にギター&カンテ(ブレリアとルンバ)。
 ド真ん中、ストレート勝負!
 ノンストップ60分、ゆるむところは一瞬もなかった。
 
 技術もアイレも、各ヌメロの味わい深い踊り分けも申し分なし。
 伝統ベースに仄かに薫る革新のひらめき。
 重厚なほんまもんのプーロフラメンコを堪能した。

 それにしても、このシンプルなプログラム構成はどうだ。
 実力・自信・センスが万全でなければ、思いもつかない斬新さ。
 バイレソロ・リサイタルのひとつの理想形に数えられるだろう。

 各部分に鮮烈な記憶を刻みながら、ライヴ全体は優れた一貫性に充ちている。
 スペインのロンダ・コンクールで外国人として初優勝した萩原淳子。
 その真価を余すところなく示した日本における初のリサイタル。
 う~ん、と思わず感嘆のため息がもれちまったよ。
 
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2012年10月17日(水)/その1172◇相棒

 待ちに待った『相棒』。

 その新シリーズが先週から始まり、
 放映日の水曜夜はなるべく仕事を入れないようにしている。
 リアルタイムを好む傾向の私としては、
 録画したものを観るのが好きではないからだ。

 尚、それ以前に録画の方法がわからないことは、
 ここでは触れないものとする。

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2012年10月18日(木)/その1173◇ある輪郭

 数年ぶりとなる藤沢周平の全作読み返しも中盤に差し掛かった。
 この時期は、他の作家にまったく興味が持てなくなり、
 周平ワールドにどっぷりと浸かる。

 なぜ、こう何度も何度も繰り返し読みたくなるのだろう?
 読まなければならない理由はひとつもない。
 ただひたすら、読みたいから読む。
 結局は、好みやら相性やらが最大の理由なのだろう。

 ただ、こうした永い歳月の反復の中で、
 そんな期待はほとんどなかったにも関わらず、
 僅かながらある視点を獲得しつつあることを薄々感じる。

 そうした視点の詳細について、
 今は性急に突き詰めるつもりはないのだけれども、
 ぼんやりながらその輪郭だけは視えている。
 本日一気に書き上げる予定の短文(12月号/有田圭輔)には、
 微かにそれが反映されるような予感はある。

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2012年10月19日(金)/その1174◇おやぢトリオ例会

 昨晩はおやぢトリオ例会。

 メンバーは、プリメラのチコさん、SIEの林さん、そして私。
 すでに三十年以上の付き合いになるギターつながりの業界仲間だ。
 目的は"無目的"にあるが、三人が順番で勘定を持つため、
 一回奢ると二回奢ってもらえるというメリットがある。

 きのうはチコさんが勘定主なので、
 プリメラのある新大久保駅に集合し、彼の馴染みの焼肉屋で呑む。
 あれ以来、レバ刺し・牛刺しが食えなくなったのは何とも残念だが、
 代わりに久々の焼肉を食いまくった。

 チコさんは10歳年長、林さんは8歳年長。
 よって私は若手ホープということになる。
 近ごろは自分の子みたいな世代と呑むことが多いので、
 何やら気分は新鮮である。

 大好きな先輩たちと呑むことで、
 後輩たちとの呑み方がわかってきたりもする。
 引き継ぎたくなる文化(下ネタなど)も多少はある。

                            
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 2012年10月20日(土)/その1175◇別れぬ理由

 冬の江戸小噺(こばなし)にこんなのがある。

 「あんないい加減な男と、どーしておめえは別れねえんだっ?」
 「あら、だって、寒いんだもんっ」

 暑い夏が去り、この季節になると、
 ジェーが私の布団にもぐり込んで来る。
 ふと、彼が家出をしない理由が腑に落ちたりする。

             
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2012年10月20日(土)/その1176◇ウエストサイズ物語

 本日発売、パセオフラメンコ最新号。

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 ま、まけた。

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2012年10月21日(日)/その1177◇淘汰

 パセオ新年号の表紙を飾る大沼由紀さん。
 同じく本文カラー8頁の『con flamenco』に
 無くてもいい、又は無いほうがいいという評判の
 私の短文をつけるわけだが、
 このあと出社してイッキに書き上げる予定。

 つい先日、由紀さんは目黒における小ライヴでソレアを踊った。
 すでに高き極みに達している大沼由紀は、一層の成長深化を続けていた。
 まったくこの人には、アルテに対する妥協というものがない。

 穴のあくほどステージを見つめながら、
 手元は見ずに書きなぐったメモがあるので、
 それらも参考に短文を書くつもりなのだが、
 例によってそれらは、書いた本人でさえ解読不能の代物だ。

 では、なぜメモをとるのか?
 ステージから眼を離すことは不可能だから、
 前を向いたまま、次々とひらめく単語をあえて手書きすることで
 それらを脳裏に記憶させようとする手法である。

 ただ、ひとつ問題は、寄る年波による記憶力の鈍化である。
 脳裏に刻みつけたはずの霊感豊かな(はずの)メモ群を、
 ライヴ終演時の大感動とほぼ同じくして、
 きれいサッパリ消去してしまうことの抜群な忘却力。

 まあしかし、付け焼刃では何も書けないものだし、
 ほとんど飛んでしまう記憶の中から、
 それでも忘れ得ぬ、心に染み抜いた事柄のみを頼りに書くことが、
 案外本当に書きたかったことの現れのようにも思えるのだ。


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2012年10月22日(月)/その1178◇ブルーマウンテン

 向島の百花園
 駒込の六義園
 小石川の後楽園
 白河の清澄庭園
 王子の名主の滝公園

 ここらあたりが、ここ二十年ほどのお気に入りスポットで、
 多忙な時ほど、これら庭園の懐深いたたずまいが恋しくなってくる。
 移動には片道30分から60分ほどかかるが、諸経費はトータルで千円未満。
 費用対効果や時間対効果にも優れる呑気なリフレッシュ。

 優しく好ましいベルデ(緑)に囲まれながら、
 小鳥たちのさえずりやそよ風と木々のハーモニー、
 あるいは懐かしい音楽・落語を聴きながら美しい庭内をブラついたり、
 馴染みのベンチに腰掛け、お気に入りの文庫やパセオを読んだり、
 ただそれだけの、いかにも年寄り好みの気ままな気晴らしなんだが、
 三十代からこんなシンプルな道楽が続いていることは意外でもある。

 今年に入ってからは月一ペースがやっとのところだったが、
 この秋から年末にかけては若干ヒマが出来そうな模様なので、
 週に一度は出掛けて、深まる秋を心おきなく楽しもうかと決めている。

 「人間いたるところ青山あり」

 パセオの最新しゃちょ対談で、プーロの華・渡部純子もそう結論していた。
 それが風景であれ、趣味であれ、人であれ、何であれ、
 ささやかなくつろぎに歓びを見い出せる心というのは、
 さまざまな変化にフレキシブルに対応するしなやかな感性でもあり、
 案外とそれは、磨いてゆく甲斐のあるバランス感覚なのかもしれない。

              
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2012年10月23日(火)/その1179◇実証主義

 「ブスは使えないわね」

 時たま遅いランチを食う、パセオ隣りのカフェの女主人。
 テレビの就活関連のニュースを観ながら、そうつぶやく。

 男でも女でも、綺麗な子は素直でよく働く子が多いけど、
 ルックスのせいにして夢も希望もあきらめてしまった子は、
 自発性が弱くて挨拶も働きも悪いと云うマダムに、
 そりゃ少々極論すぎねーかと、突っ込む私。

 「でもさ、顔はブスでも表情のステキな子って、よくいるじゃん?」
 「あっ、そういう子はすでにブスじゃないから」
 「やっ、そーゆーフトコロの深い話なのか」
 「顔の造作なんて、気持ち次第でいくらでも変わるの。
  あたしの顔見りゃわかるじゃない(笑)」


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2012年10月24日(水)/その1180◇フラッシュバック

 君のステージには、プロフェッショナルとしてしっかり帳尻を合わせる、
 まるで勝負師のような一面があるよね。

「その場の雰囲気は感じとっています。
 ここはドカーンと欲しいだろうなっていう局面では迷わず行きます」

 ああ、やはり、勝ちに行くんだね。
 客席からすると、そういう心意気とそれを鮮やかに実現する技量に、
 思わずオレ!が出るんだ。

「客席とバックの反応を感じてさえいれば、
 その時自分に何が求められているかはわかります。
 いろんな経験といろんな試行錯誤の末に、
 それは誰にでも可能なことなんです」

 そういうのって自分に合ってた?

「合う合わないというより、毎日毎日その必要に迫られました」


 永らくスペイン・バルセロナのタブラオ第一線で活躍し、
 帰国後もその圧倒的な実力を爆発させるバイラオーラ渡部純子。
 上記はパセオ最新号"しゃちょ対談"からの抜粋だが、
 このやりとりが妙に印象深い。

 合う合わないというより、毎日毎日その必要に迫られる。

 誰しも経験のあることだ。
 ただ流されるよりやりようのない状況もあるだろう。
 別の選択肢を選べる場合もあるだろう。
 踏みとどまりながら大切な何かをつかむ場合もあるだろう。
 状況は気まぐれであり、誰しもいろんなケースを経験する。

 対談中、次々と若き日のいろんなことを思い出して困った。
 だが、その前夜に観た純ちゃんのフラメンコの断片を想い起こした途端、
 その毅然と開き直る意志を反映するフラッシュバックに呼応するように、
 聴きたいことが山ほど湧いてきた。


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2012年10月25日(木)/その1181◇幸いにも

 今日から三日間、
 市ヶ谷のセンバンテス文化センターで、
 「クンブレ・フラメンカ・エン・ハポン」開催。
 本誌忘備録仲間・総勢七名で、以下のライヴを取材する。

 25日(木)Ⓑ屋良有子/鈴木敬子/高橋英子 【ギターソロ】石井奏碧
 26日(金)Ⓑ萩原淳子/森田志保/AMI  【ギターソロ】沖仁
 27日(土)Ⓑ松丸百合/石井智子/小島章司 【ギターソロ】徳永健太郎
 

 業界地図をご存じの方には、何ともたまらん内容だろう。
 ギターソロまでこの充実ぶりである。
 しかも入場料は無料だから、さすがに満席らしい。

 それにしても、この秋以降のフラメンコ公演の充実ぶりはすばらしい。
 来年の招聘公演も、2月にはスペイン国立バレエ、5月にはカニサレス、
 ファルキートら出演のフェスティバル、マリア・パヘス、
 そして来秋には大きなフェスティバルも予定されている。

 世の中が元気のない時にはフラメンコが脚光を浴びる。
 幸いにもこの法則はまだ健在のようである。


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2012年10月26日(金)/その1182◇フラメンコに手を出すな

 創作フラメンコの構成振付演出にも抜群のセンス・クオリティを発揮する、
 私の大好きな人気バイラオール佐藤浩希。
 その彼がパセオ11月号で「創作フラメンコ」についてガチで語っている。


「振付においてもう少し一言踏み込むと、
 スペイン人に習った振りを安易にそのまま用いるとこれまた痛い目に遭う。
 例えばエル・グイトの一振りには本人の痛みや喜びが込められているので、
 それが物語とは関係にないところで始まってしまう。
 エル・グイトの私小説がそこで語られてしまう。
 創作フラメンコで踊る時はどんなに拙くてもいいから
 その物語の心を語る振付をしなければなりません」


 まあ、これなんかは序の口なのだが、創作フラメンコに取り組む場合、
 殊に音楽と振付において、嬉しい場面ではアレグリアス、哀しい場面ではソレアみたいに、
 安易な方法論でフラメンコに手を出すと飛んでもないシッペ返しを喰らうことが、
 自身の失敗談とともに強烈な説得力で語られる。

 じゃあ、どうすればよいのか?という命題に対し、
 アルテイソレラの企業秘密とも云うべき創作秘伝が惜しげもなく
 明示されている太っ腹に、ちょっとビックリした。

 まあ、それがわかったところで、彼らのクオリティに比肩することは至難の技だが、
 創作上の戦略戦術を骨格化する為の実に有益なガイドラインとなっていることは間違いない。
 表面上のマネやパクリが、実は表現上の手カセ足カセとなってしまうことを、
 ズバリ明快に理論化した点が画期的なのである。

 この12月、そのヒロキの構成振付演出で『愛こそすべて』が再演される。
 フラメンコに不案内の知人を誘う時には、
 パコ・デ・ルシアやマリア・パヘスの公演を選ぶことが多かった私だが、
 『愛こそすべて』初演にはその領域に仲間入り出来るクオリティがあった。
 豪華出演陣の個人芸と群舞には心を射抜くものがあり、
 殊に鍵田真由美とヒロキが踊るパレハは私には絶品に思えた。
 いい女にフラれて壊れゆく男の悲哀に、私の人生の大半がオーバーラップし、
 笑えるくらいに泣けるほど、何とも身につまされたのである。

                  
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2012年10月27日(土)/その1183◇心の折り方

 ボキッッッ!

 十代の頃から、そのイヤ~な感触の音を幾たび聞いたことだろう。
 そう、ひ弱な私の心が外的ダメージによって、その心が突如として折れる爆音である。

 当初は一カ所折れれば、大人になるための洗礼はそれでおしまいかと思っていた。
 ところが十カ所ほど折れた頃に、それほど世の中は甘くないことに気づいた。
 二十代の私の心というのは、複雑骨折状態であったと思う。
 
 ところが人間の復元力というのは大したもので、
 そのあまりの骨折箇所の多さ(推定三百カ所)に、
 複雑に折れまくった心がそれぞれパーツとして独立しながら連携して、
 外からのダメージをクッションのように吸収しながら、
 まるでジャバラのように稼働できる柔軟性を獲得したのであった。

 今でもそうしたジャバラの関節がボキッと真っ二つに折れることはあるが、
 それも関節が二つに増えるだけの話で、日常生活にはまるで支障はない。
 雨に打たれるのをイヤがるくらいなら、
 面倒くせえから自分からプールに飛び込んじまえという傾向は昔からあったが、
 ヘボにはヘボの世渡りというのはあるものだと、つくづく思うわけ。

         
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2012年10月28日(日)/その1184◇一葉の写真

「掲載の写真は大森有起に一任した。
 どれも有子の美性を正確に射抜いているが、
 中でも見開き縦ショットは、
 時に静と動を一元化する稀有な有子の本質を見極めている」


 パセオ11月号『Con Flamenco/屋良有子』につけた、私の短い駄文の一部。
 その原稿は、大森から上がって来る写真のインスピレーションから、
 一筆描きで書こうと決めていた。
 被写体と写真家への信頼が確かな場合、そういうやり方が一番面白い。

 私の一番のお気に入りは、本文内の見開き縦ショットだった。
 ライヴや映像で気づけなかった事象を、一枚の写真から発見できることがある。
 「静と動を一元化する」あの鮮烈ショットはまさしくそういう一葉だった。
 一方で表紙写真のセレクトには、有子も大森も驚いたことだろう。
 編集長が率先して暴走するのは、近ごろのパセオの流行なのである。

                     
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2012年10月29日(月)/その1185◇平富恵/夢 Ⅳ

 鮮やかな赤のバタで踊るシギリージャが際立って美しかった。

 花のお江戸の日本橋における、昨晩の平富恵(たいら・よしえ)リサイタル。
 白眉となったそのシギリージャは、華やかにカスタネットを駆使しながら
 古典的格調を醸し出す"夢"のような快演。

 近頃のマッチョでイケイケなシギリージャも好きだが、
 こういうしっとり華やかな風情の昔懐かしいシギリージャには、
 ホッと癒される安堵と憧れをともなう恍惚とがある。
 永い歳月、心と技を惜しみなく注ぎ磨き上げたであろう
 彼女だけに可能な掛け替えのない美しさは、
 観るべきものを観せてもらった感謝と好ましい充足感を残した。

 ただひとつ、休憩ナシ120分ジャストのボリューム過多の全体構成には疑問が残る。
 例えば80分程度にタイトに絞り込む引き算を決行したならば、
 公演全体はケタ違いの光彩を放ち、次回への期待をいっそう募らせたと確信するからだ。

 全15シーンの演出には、ハッと覚醒するような斬新なアイデアが点在していた。
 詩の朗読なども織り込む美しい映像の使い方には上質なセンスがキラリ光った。
 演奏陣では、もりもり進化するエル・プラテアオの大いなる熱唱が印象的。
 夢追い人・平富恵、
 その豊かな近未来ポテンシャル解放の鍵は全体を睨む"引き算"にあると、私は想う。


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2012年10月30日(火)/その1186◇時短

 「ああ、ダメダメ、いかんいかん!」
 
 あるとき突然発作的に、自分の過去にダメ出しすることがある。
 その昔、あの潔いサムライのようなギタリスト三澤勝弘さんでさえも
 そんなことは多々あると仰っていたから、きっと誰にもあることなのだろう。

 たしかに、反省や後悔や懺悔というのは甘美なものだ。
 それをやってる間は実は救われているから、道楽としても相当に優秀だ。
 ただし、それが云い訳的であり刹那的であり、しかも完結性が強いことから、
 現実の改善にはほとんど直結しないところに難点がある。

 ただ、出てしまうものを無理やり押し殺すのも体に悪そうだ。
 でもやっぱり、この先の自分にも多少は期待したいので、
 そっち方面の実践に残り少ない持ち時間を優先させるために、
 近ごろはそーゆー逃避的発作を三秒以内で済ませることを日常的に心掛けている。


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2012年10月31日(水)/その1187◇対比と平衡

 ナハーロ監督は文系の人? それとも理系?

「両方とも好きです。
 それに両方必要です。
 例えばそれは、振付と同じです。
 心の部分と技術の部分。
 どちらかひとつでは良いものは創れません」

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 折よく彼は、国際フィギアスケートの振付で来日していた。
 去る夏の三日間の熱き協会新人公演の翌日、
 スペイン国立バレエ団の新芸術監督アントニオ・ナハーロへの
 インタビュー機会(パセオ11月号)に恵まれた。
 
 文学にも数学にも強そうな彼は、
 殊に「引き算」に長けたアーティストに思えた。
 それは単なる私の願望なのかもしれないが、
 あえてそんなアタリで来年二月の来日公演に臨みたい。

 ホセ・アントニオ、アイーダ・ゴメスなど様々な芸術監督のディレクションで、
 すでに25年観てきたバレエ・ナシオナルだが、今回はなんと六年ぶり。
 監督就任以来ディレクターに徹してきた彼が、
 今回舞踊手として出演する可能性も僅かにあると云う。
 
 エレガンシア!と絶賛される彼がしきりに使った言葉は「コントラスト」と「バランス」だった。
 これら言葉が内包する深い奥行きの味わいと効能を知ったのは近頃のことだが、
 息子ほどにかけ離れた年齢のこの若く優れたアーティストが
 バレエ・ナシオナルを通して体現するであろうその世界観に、
 かつてないポジティブな期待感がふつふつと湧いてくる。


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