凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも織田信忠が生き延びていたら

2005年07月30日 | 歴史「if」
 天正10年(1582)本能寺の変がおこり、信長は明智光秀に殺される。ここから歴史は大きく動き、天下は光秀を斃した秀吉の下へ大きく傾くことになる。
 なぜ秀吉が信長の後継者となって天下統一の覇者になれたかといえば、信長の後継者も共に光秀に討たれてしまったことによる。織田信忠である。

 信忠は織田家の正統な家督継承者だった。というか、もうこの時点では織田家の家督を譲られている。天正3年には長篠合戦、岩付城攻略などで活躍し、美濃を任されて岐阜城主となり、繊田家を継いだ。その後の信長は既に「隠居の身」だった。織田家当主は信忠である。
 もちろん実質は信長の支配が絶対であったとは考えられるが、信長ものちの憂いを無くしたかったのだろう。信忠を売り出して実績を積ませ、天下人の後継として相応しく育つよう教育をしているように思われる。信忠もよく期待に応えた。難しい雑賀攻め、松永久秀攻め。その後も信長のコントロール下にあるとは言え織田軍の総大将として播磨攻め、武田攻めを執り行う。実績も十分に積み、天下人の後継者として周囲も認める武将となっていく。もはや信長は戦場においては総帥ではなく、一歩引いた立場をとっている。
 このことは、むしろ信長を自由にさせたのかもしれない。後に秀吉が太閤、家康が大御所となったように、家督、役職から離れた立場に居た方が都合がいい、ということも信長が当主を譲った要因としてはあるだろう。が、信忠の権威を高めるという意図もやはりあったのではないか。

 だが天正10年、本能寺の変は起こってしまう。光秀は信長の宿舎である本能寺を攻め、自害に追い込む。「是非に及ばず」である。そのとき信忠はどうしていたのだろうか。
 信忠は信長とともに京都に滞在していた。信長が森蘭丸その他の手勢しか率いていなかったのに比べ、織田家の総帥である信忠には手兵がいた。約1000人とも3000人とも言われる。宿舎の妙覚寺は本能寺の少し北に位置する。
 本能寺の変の知らせをうけ、信忠は信長救出に動こうとする。しかし、時すでに遅く本能寺は陥落していた。そのとき信忠はどうしたか。
 近くにある二条御所に籠城してしまうのである。このときまだ光秀は信忠を襲ってはいない。逃げることも可能だったのだ。実に惜しい。
 落ち延びることを進言した家臣もいたらしい。しかし本能寺炎上を見て逃げてきた信長家臣村井貞勝が籠城を提案し、信忠はその通りにしてしまった。二条御所には誠仁親王その他が居る。親王らは当初「人質」という意味合いもあっただろう。が、結局親王らを内裏へ逃がし、その手間をとられているうちに明智軍が御所を囲み、自害という結末を迎えてしまった。
 信長だったら逃げていただろう。かつて、朝倉攻めで浅井長政が裏切って挟み撃ちに遭った絶体絶命の場面で、信長は疾風の如く逃げている。光秀の軍は1万2~3000ほどであり、単独犯であって他者との連携は取れていない。岐阜城までとは言わずとも山を越えて安土に行けばまず安全である。そうして光秀の追撃を何日か凌げば、秀吉が中国大返しをしてくるのである。また、信忠存命であれば大阪にいた丹羽長秀の四国討伐軍も稼動したに違いない。信長だけでなく織田家総帥の信忠も死んだということで四国軍は戦意喪失してしまったのだから。
 やはり信忠は甘かったのか、とつい考えたくなる。偉大な父親が討たれてショックだったのかもしれない、と。逃げると決めてさっさと行動に移せばよかったのに。「雑兵の手にかかりては無念なり」と自害を選んじゃったけど逃げてみないとわかんないじゃない。そこが二代目、泥にまみれるより美学を先行させたのだろうか。

 このように、信忠が逃げられた可能性は高い。同列に論じられないかもしれないが、現に三法師(信忠の子)はこの時信忠と行動を共にしていて、織田有楽斎と共に脱出したという説まであるらしい。幼児まで逃げられたのか。実際は三法師は岐阜に居たという話が有力ではあるが、有楽斎は脱出したのだろう。逃げる時間はあったとも考えられる。
 光秀は大軍勢を率いていた。これは二手に分けても十分な人数。天下をとるなら本能寺と妙覚寺を同時に攻めるべきであったのにそうしていない。これは不可解なことである。結局光秀は信長をまず標的にしていたのだ。信忠はあくまで第二目標だった。いやむしろ信忠は「ついで」のような感じさえある。だから、情報さえしっかりと取れていれば逃げられた。城に籠ったりせずに。

 これをもって、光秀の動機が信長への個人的怨恨であってあくまで発作的に思いついたことであり「黒幕」は居ない、という説が成り立つ、という人もいる。
 僕は以前「もしも本能寺で信長が斃れていなかったら」の記事で朝廷黒幕説がありうると書いた。果たしてどうだろうか。
 僕は朝廷黒幕説はそれでも成り立つ、と思っている。
 朝廷が廃したかったのはあくまで「織田家」ではなく「信長個人」であったからだと推測している。信長の野望は朝廷を飲み込もうとしていた。しかしそれはあくまで信長の思想背景がなせる技であって、信忠がそこまで出来るかと言われれば否、だったと思っている。信忠は天皇を廃するまではしないだろう。なので、信長さえ居なくなればまだまだ朝廷には打つ手はある。また、イエズス会黒幕説も然り。イエズス会も対立していたのは信長個人。
 逆に、黒幕説として他に論じられている秀吉説、家康説、足利義昭説は成り立ちにくくなる。あくまで「織田家断絶」でないと彼らに益はない。信忠が生き延びていれば、主人や同盟者が信長から信忠に移るだけのことだ。
 しかし結果として信忠は信長と同時に死んだ。こうして、天下の行方は「清洲会議」にかけられる事になる。

 信忠が清洲会議に出席していたらどうなったか。もちろん光秀を討った秀吉の発言権は強くなっただろう。しかしそれでは信忠の後見者と成りえたか、と言えばそれは難しいといえる。あくまで織田当主は26歳の信忠である。秀吉は「筆頭重役」までにしかなれなかっただろう。そして、路線はもはや天下統一へと動いている。信忠も凡庸ではなかったと言われるので、あくまで信長路線を継承して天下平定の旗頭になった可能性が高い。
 信忠では器量不足で結局反乱が起こり秀吉の天下になるさ、と言う人もいるかもしれない。しかし、それは歴史の結末を知っているからそう言えるのであって、秀吉の天下獲りなど一種の「青天の霹靂」でありハプニングだったと思う。むしろ家康の方にまだ可能性があったのではないか
 発想を飛躍させれば、信忠は征夷大将軍になっていた可能性もあるのではないかと思う。信長の「三職推任」運動を継承すれば、朝廷も「信忠なら」認可していた可能性がある。そうすれば「織田幕府」成立もありうる。織田家は平氏(と言っている)だが、源氏に簡単に姓を変えることもあるだろう(この当時、将軍=源氏という図式があったかどうかも分からない)。

 そのまま何百年かの「織田幕府」の可能性もゼロではない。場所は安土ではなく「大坂」だっただろう。大坂首都を信長は画策していたとも言われ、秀吉も信長構想を継承し大坂城を建てた可能性がある。
 しかし、三代目にあたる織田秀信(三法師)の関ヶ原予備戦でのぼっちゃんぶりを見ると、織田幕府の先行きも思いやられるが。

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4 コメント

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面白い! (jasmintea)
2005-07-30 14:47:29
私も本能寺黒幕は朝廷説です。

理論的なことは勝手に横おいてm(_ _)m光秀を動かせた人物はそれしかないし、あとの展開を見ても一番この説がすっきりですよね。



もし。織田幕府が出来てたとして、三法師で赤信号が点ったとして、そのあとの展開はどうだったでしょうかね?

やっぱり秀吉→家康と回ってくるんでしょうか?

うーん、やっぱり力のある人が最後に残るのかな?
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織田幕府の将来 (凛太郎)
2005-07-30 16:07:59
幕府はきっちりとした形が出来ていれば三法師にだって継げると思います。足利幕府もなんだかんだ言っても続いたし鎌倉幕府は将軍が居なくても続いた(笑)。そこまでいけばもう秀吉や家康の出番はないでしょう。歴史は全然違った方向に進むと思われます。黒船が来るまで織田幕府だ(汗)。しかし、山内一豊の土佐移封がないと郷士という存在がなくなって龍馬はんが出てこないのですよ…。おっとこの「if」はいずれ書こうと思っていたテーマだ。あんまり言及しないようにしよう(爆)。
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真田幸村が大阪の夏の陣で勝利を出来てたら? (真田丸)
2016-05-22 11:59:41
もし真田幸村(のぶしげ)が大阪の夏の陣で真田幸村が家康を勝利してたら幸村も新しい時代をしてたとと思います。もし幸村が生きてたら味方したい。
家康を倒す!やっぱり家康は強い。幸村も苦労してたと思います。
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真田幸村が大阪の夏の陣で勝利を出来てたら? (真田丸)
2016-05-22 12:00:22
もし真田幸村(のぶしげ)が大阪の夏の陣で真田幸村が家康を勝利してたら幸村も新しい時代をしてたとと思います。もし幸村が生きてたら味方したい。
家康を倒す!やっぱり家康は強い。幸村も苦労してたと思います。
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