倭は国のまほろば 畳づく青垣 山籠れる 倭しうるはし
ヤマトタケルの絶唱は今も心を打つ。以来2000年、奈良はずっと日本の「まほろば」で在り続けた。古代の栄耀栄華を秘め、日本人のふるさととして確固たる位置を占めている。桓武天皇の平安京遷都によって日本の都市としての発展を止め、主として興福寺の門前町としての機能でしかなくなり、土地開発が進まなかったことが幸いしたのだろう。いにしえの空気をそのまま残している。京都がその後も都市として発展し、現在かつての面影を見るのに相当の想像力を必要とするのとは対照的である。平城京遺跡を見るにつけ、この広大な土地の上にビルが乱立することなく保存されたことは誠に僥倖であったと思う。ホントよかったですよ。
ただ、奈良は近年やはり都市開発がどんどん進んでいる。大阪のベッドタウンとして開発の魔の手が伸びている。とにかく奈良が好きな人は直ぐに行くべきだ。その面影を残しているうちに。僕が知っているだけでも、昔の奈良と今の奈良は違う。日本中が金太郎飴のように同じ景観になっていく状況が奈良にも降りかかって来ている。急いで奈良へと走り、記憶に留めておいたほうがいい。
僕は古代史好きでまた仏像好きなので、とにかく奈良には足しげく通う。何度も何度も行っている。全く飽きない。その度に新しい発見がある。
初めて行ったのは幼稚園の頃だったと思う。社会見学だったか遠足だったか、とにかく園児達がバスを連ねて奈良へとやってきた。今考えれば奇特な幼稚園だったと思う。東大寺に行って鹿と遊んだ。大仏殿の柱に穴があり、それは大仏の鼻の穴と同じ大きさだということから「目から鼻に抜ける大人になれるように」と全員でその穴をくぐった。今見ればよくこんな小さな穴を通り抜けられたものだと思う。
その頃はまだ奈良に興味を示す子供ではなかったが、学校へ行くようになり、そして歴史に興味を持ち始めて以来、奈良に行きたくてたまらない子供になった。
やはり飛鳥は最高である。行ったきっかけは、TV番組「ペルセポリスから飛鳥へ」という松本清張プレゼンツのドキュメンタリーを見てゾロアスター教と「益田の岩船」の関係を知ったことと、手塚治虫の「三つ目がとおる」を読んで酒船石その他の飛鳥の謎の石造物に興味を持ったからである。松本清張と手塚治虫と同時期に吸収していたとは、いったい僕はどういう子供だったのだろうと理解に苦しむが、既にその頃は田辺昭三の「古墳の謎」も読んでいた。様々な好奇心が溢れ、親父にねだって飛鳥へ連れて行ってもらった。
初めて行った飛鳥は衝撃的だった。もう謎・謎・謎! 石舞台も猿石も亀石も見るもの全てがたまらない。夢心地で飛鳥に何度も行った。それはもう夢中だった。
当時の飛鳥は、本当にいい意味で「田舎」だった。農村風景の中に史跡が点在している。自治体としての考え方がしっかりしていたのであろう。食事をする場所も少なく、いつも弁当持参で行った。まだまだ「まほろば」の空気が残っていた。現在は高松塚古墳周辺などすっかり整備されて当時の面影は薄いのが残念だが、それでも他県の観光地と比べればまだまだ良心的とは言えるだろう。華美な建造物は目立たない。この風景をとにかく保存してもらいたいと思う。
奈良盆地南部は日本にとっては宝のような場所で、葛城の竹内街道から入る奈良の風景は本当に文化遺産だ。生活に疲れたりすると、金曜の夜中に車を走らせて、阪神高速を堺で降り、東に向って山を越えて夜道を行く。当麻寺の近くの道の駅に車を止めてそこで一眠り。そして夜明けを迎えると、早朝の靄に霞んだ奈良盆地が浮かび上がってくる。コーヒーを沸かして飲みながら見るその風景が僕はたまらなく好きだ。古代へと気持ちがタイムスリップする。そして、一言主神社、高鴨神社へと参詣。もう古事記の世界だ。ここから、橿原、飛鳥を挟んで三輪山へ、そして山之辺の道へと続く「古代の国道一号線(司馬遼太郎)」は何度行ってもいい。その終着、布留の里石上神宮のなんと荘厳なことか。
これらの地が日本の主役を担っていた時代はいまだに謎ばかり。様々な解釈が渦巻く中、その中に身を置いてあれこれ思うことは本当に至福と言える。
これより南には聖地・吉野がひかえる。もう書ききれないので割愛するが、じっくりとこれらの地について語ってみたい欲求にかられる(誰も話を聞いてくれないので)。
現在の奈良市の市街地は、古代平城京よりもずっと東にずれている。これは、前述したように遷都後は奈良は興福寺を中心に栄えてきたからであって、その門前がそのまま都市部になっている。奈良市はまだまだ大寺の影響下にあるのかとも思う。
仏像マニアの僕にとっては、この奈良盆地北部は歩いても歩ききれないほどの見どころ満載の地だ。その中心に東大寺と興福寺がドンと聳える。以前に仏像の記事を書いたので繰り返さないが、この大寺を中心に新薬師寺や元興寺などを歩いていると実に幸せである。少しづつ西へ向って佐保、秋篠寺や法華寺、般若寺。また少し進んで西大寺、喜光寺。西ノ京へと足を進めて唐招提寺、薬師寺。そして斑鳩、法隆寺。こんなもの何度通っても見きれるものではない。春や秋は仏像の特別拝観の時期でありいつも気もそぞろである。いいなあやっぱり。
現在、僕は関西圏に住んでいてよかったと本当に思う。奈良が近くにあるからだ。思いついて行けるのが本当に有難い。この幸せを出来るだけ享受したいといつも思っている。
ヤマトタケルの絶唱は今も心を打つ。以来2000年、奈良はずっと日本の「まほろば」で在り続けた。古代の栄耀栄華を秘め、日本人のふるさととして確固たる位置を占めている。桓武天皇の平安京遷都によって日本の都市としての発展を止め、主として興福寺の門前町としての機能でしかなくなり、土地開発が進まなかったことが幸いしたのだろう。いにしえの空気をそのまま残している。京都がその後も都市として発展し、現在かつての面影を見るのに相当の想像力を必要とするのとは対照的である。平城京遺跡を見るにつけ、この広大な土地の上にビルが乱立することなく保存されたことは誠に僥倖であったと思う。ホントよかったですよ。
ただ、奈良は近年やはり都市開発がどんどん進んでいる。大阪のベッドタウンとして開発の魔の手が伸びている。とにかく奈良が好きな人は直ぐに行くべきだ。その面影を残しているうちに。僕が知っているだけでも、昔の奈良と今の奈良は違う。日本中が金太郎飴のように同じ景観になっていく状況が奈良にも降りかかって来ている。急いで奈良へと走り、記憶に留めておいたほうがいい。
僕は古代史好きでまた仏像好きなので、とにかく奈良には足しげく通う。何度も何度も行っている。全く飽きない。その度に新しい発見がある。
初めて行ったのは幼稚園の頃だったと思う。社会見学だったか遠足だったか、とにかく園児達がバスを連ねて奈良へとやってきた。今考えれば奇特な幼稚園だったと思う。東大寺に行って鹿と遊んだ。大仏殿の柱に穴があり、それは大仏の鼻の穴と同じ大きさだということから「目から鼻に抜ける大人になれるように」と全員でその穴をくぐった。今見ればよくこんな小さな穴を通り抜けられたものだと思う。
その頃はまだ奈良に興味を示す子供ではなかったが、学校へ行くようになり、そして歴史に興味を持ち始めて以来、奈良に行きたくてたまらない子供になった。
やはり飛鳥は最高である。行ったきっかけは、TV番組「ペルセポリスから飛鳥へ」という松本清張プレゼンツのドキュメンタリーを見てゾロアスター教と「益田の岩船」の関係を知ったことと、手塚治虫の「三つ目がとおる」を読んで酒船石その他の飛鳥の謎の石造物に興味を持ったからである。松本清張と手塚治虫と同時期に吸収していたとは、いったい僕はどういう子供だったのだろうと理解に苦しむが、既にその頃は田辺昭三の「古墳の謎」も読んでいた。様々な好奇心が溢れ、親父にねだって飛鳥へ連れて行ってもらった。
初めて行った飛鳥は衝撃的だった。もう謎・謎・謎! 石舞台も猿石も亀石も見るもの全てがたまらない。夢心地で飛鳥に何度も行った。それはもう夢中だった。
当時の飛鳥は、本当にいい意味で「田舎」だった。農村風景の中に史跡が点在している。自治体としての考え方がしっかりしていたのであろう。食事をする場所も少なく、いつも弁当持参で行った。まだまだ「まほろば」の空気が残っていた。現在は高松塚古墳周辺などすっかり整備されて当時の面影は薄いのが残念だが、それでも他県の観光地と比べればまだまだ良心的とは言えるだろう。華美な建造物は目立たない。この風景をとにかく保存してもらいたいと思う。
奈良盆地南部は日本にとっては宝のような場所で、葛城の竹内街道から入る奈良の風景は本当に文化遺産だ。生活に疲れたりすると、金曜の夜中に車を走らせて、阪神高速を堺で降り、東に向って山を越えて夜道を行く。当麻寺の近くの道の駅に車を止めてそこで一眠り。そして夜明けを迎えると、早朝の靄に霞んだ奈良盆地が浮かび上がってくる。コーヒーを沸かして飲みながら見るその風景が僕はたまらなく好きだ。古代へと気持ちがタイムスリップする。そして、一言主神社、高鴨神社へと参詣。もう古事記の世界だ。ここから、橿原、飛鳥を挟んで三輪山へ、そして山之辺の道へと続く「古代の国道一号線(司馬遼太郎)」は何度行ってもいい。その終着、布留の里石上神宮のなんと荘厳なことか。
これらの地が日本の主役を担っていた時代はいまだに謎ばかり。様々な解釈が渦巻く中、その中に身を置いてあれこれ思うことは本当に至福と言える。
これより南には聖地・吉野がひかえる。もう書ききれないので割愛するが、じっくりとこれらの地について語ってみたい欲求にかられる(誰も話を聞いてくれないので)。
現在の奈良市の市街地は、古代平城京よりもずっと東にずれている。これは、前述したように遷都後は奈良は興福寺を中心に栄えてきたからであって、その門前がそのまま都市部になっている。奈良市はまだまだ大寺の影響下にあるのかとも思う。
仏像マニアの僕にとっては、この奈良盆地北部は歩いても歩ききれないほどの見どころ満載の地だ。その中心に東大寺と興福寺がドンと聳える。以前に仏像の記事を書いたので繰り返さないが、この大寺を中心に新薬師寺や元興寺などを歩いていると実に幸せである。少しづつ西へ向って佐保、秋篠寺や法華寺、般若寺。また少し進んで西大寺、喜光寺。西ノ京へと足を進めて唐招提寺、薬師寺。そして斑鳩、法隆寺。こんなもの何度通っても見きれるものではない。春や秋は仏像の特別拝観の時期でありいつも気もそぞろである。いいなあやっぱり。
現在、僕は関西圏に住んでいてよかったと本当に思う。奈良が近くにあるからだ。思いついて行けるのが本当に有難い。この幸せを出来るだけ享受したいといつも思っている。
お互い惹きつけられるものがあって行き来できるんだと思うんです。
でね、歴史上の人物とか、場所とかこれも説明できないものに惹かれるんですよね。
何で自分が明日香を好きなのかなんて一言で説明なんてできませんが私もかの地とあの時代が大好きです♪
PS 昨日、今日は休めるぞ!と思った瞬間桜の明日香を見たくなっちゃって♪
そう言えば石舞台古墳に桜の木があったよなぁ!なんて。
ここから名古屋くらいの距離ならもっと足繁く行けるのになぁ‥と思ってました。
なんで明日香を飛鳥と表記するのか。いろいろな説がありますが、僕は突飛ながら飛鳥にナスカの地上絵のコンドルを連想してしまいます。共に語感が似た不思議だらけの土地。アスカとナスカ、またアステカなど、古代宇宙人の様々な痕跡があるのか…(デニケンの読みすぎ 笑)。
いまでもその名残で正月に大阪に帰省したときには(時間があれば)行きますが、あの界隈の雰囲気は今でも変わらず嬉しく思っています。
変わってほしくない土地ナンバー1ですね。
三輪山を御神体とするこの神社の荘厳さは素晴らしいですね。石上神宮の禁足地の上に本殿をおっ建てたヒドい明治という変革の時代にもその神聖さは伝承された。とにかく変わって欲しくないですね。おっしゃるとおり。
高砂の「石の宝殿」、これもまた謎が多い。あちこちの角度から覗いてみましたが、なかなか全貌を見せてくれませんね。木が茂りすぎです(汗)。
僕はゾロアスター教については、松本清張氏の著作以上のことは不勉強で全然知りませんので、なおきさんのブログでまた勉強させていただければと思います。