源三位頼政の挙兵を考えるたびに、何ゆえこの老人は兵を挙げなければならなかったのかを思う。院政の時代から平氏の世までしっかりと生き延び、知行国も持ち、武士としての清和源氏としては破格の従三位まで昇進し、子供たちも栄進し満ち足りた晩年であったはずである。少なくとも客観的に見ればそうだ。
埋もれ木の花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ哀しかりける
この辞世から思うと、内心は無念の思いを秘めて生きてきた人のようにも見える。最後にひと花咲かせようとしたのだろうか。それにしても70歳後半である。なにもここまで来て大博打を打たなくてもよさそうなものであるのに。
摂津源氏の棟梁である頼政は清和源氏の嫡流であると言っていい。頼朝が鎌倉幕府を成立させたため、清和源氏の嫡流は頼朝であると考えられがちだが、祖を辿ると清和源氏は、例の平将門の乱で逃げた源経基(清和天皇の孫)の子、源満仲(安和の変で有名)が武士として摂津に土着したことが始まりであり、摂津源氏が本流である。
(尤も、清和源氏の嫡流は言い過ぎかもしれない。源経基の父貞純親王は六男であった。経基流清和源氏とすべきか。陽成源氏という説もあるが深入りしない。)
源満仲には三人の息子が知られ、嫡男の源頼光(酒呑童子討伐や、部下に渡辺綱や金太郎さんがいたことで高名)は摂津を継ぎ、次男の源頼親は大和源氏、三男の源頼信は河内源氏の祖となった。この河内源氏が八幡太郎義家を生み頼朝に繋がるのでこっちが本流のようにも見えるが、あくまで形としては頼政が筋目である。
争乱の時代のさきがけとなった保元の乱では後白河天皇方に付き、平治の乱では平清盛方に付いた。清盛方と書くのは正確ではないかもしれない。あくまで頼政は天皇方に付いたのであり(もっと言えば美福門院方)、源平という枠をはめるとややこしいことになる。そうして、平家全盛の時代にも当然の如く頼政は生き残った。これを遊泳術と呼ぶのはどうも当たらないようにも思う。頼政は筋目を通し、天皇方に立ち地位を向上させていったと見るべきであると思うのだが。源氏なのに平氏にすり寄り生き残ったとしては気の毒にも思える。
こうして紆余曲折はあったものの頼政は摂津源氏の棟梁として、従三位まで上り安定した余生であったはず。その頼政が何故、突然に兵を挙げて平氏政権に噛み付いたのか。武家であるとはいえ兵力も十分ではなかったのに。
これについては、様々なことが言われている。曰く、頼政の嫡子仲綱所有の名馬を平宗盛が強奪し、さらにその馬に「仲綱」という名を付けてムチを与え侮辱したことに端を発すると。しかしこれは平家物語であり史実かどうかはわからない。
挙兵の主体は仲綱であったかもしれない。この挙兵の正当性を示すものとして「以仁王の令旨」があり、その令旨による全国蜂起の呼掛け人は仲綱である。しかし親父の頼政は無謀であると止められなかったのか。
通説では、反乱を起こそうとした頼政が以仁王を担いだとされる。
以仁王は、後白河の第三皇子。第二皇子である上の兄が出家したため二条天皇の次にあたる。だが、二条、そしてその子の六条天皇の後継として、清盛は憲仁親王(清盛の妻平時子の異母妹平滋子が母。二条、以仁王の弟)を推奨した。これは滋子を寵愛する後白河との共謀である。以仁王は親王宣下もされていない。しかし後白河と敵対していた美福門院系の天皇親政派は、美福門院の娘子内親王(八条院)が以仁王を自らの猶子として(六条天皇の養子という形か)次期天皇に擁立しようとした。が、敗れた。憲仁親王が高倉天皇となる(中宮は清盛の娘、建礼門院徳子である)。
以仁王は出自のこともあるが、平氏によって即位も叶わず親王にもなれず弟が即位である。ボンクラであればしょうがないがどうも有能であり血気盛んな人物であったらしい。バックには後白河~清盛ラインに対する、膨大な荘園を持つ美福門院~八条院ラインがある。二条、六条と続いた天皇親政派の応援もある。
次に、以仁王は高倉天皇の次を望んだ。しかし、高倉天皇譲位後、後継として徳子の生んだ安徳天皇が即位することになる。完全に以仁王は皇位の望みを絶たれたのだ。
こうして考えると、クーデターの主体は以仁王と八条院周辺(閑院流藤原氏など)ではなかったのか。平家打倒ではなく後白河院政から天皇親政へ皇統を戻すことが主目的ではなかったのか。
実際は、このすぐ直前に清盛がクーデターを起こして後白河を幽閉し平氏全盛の時世を築き、後白河と清盛の蜜月時代ではなくなっている。しかし後白河はこのとき失脚状態にあるが、八条院系が盛り返したわけでもない。実権を握るには清盛以下の平氏を排除しなくてはならない。そのための頭目として、ずっと天皇親政派を担ってきた武家勢力の頭目的存在の頼政、そして仲綱を以仁王が担いだのではないだろうか。
こう考えると頼政はもしかしたら気の毒であったかもしれないとも思う。しかしながら、頼政も摂津源氏の棟梁であり源氏嫡流の矜持もあっただろう。そして、幾多の戦いを切り抜けてきた頼政が全く勝ち目の無いことを始めるとは思えない。仲綱が煽動したにせよ、ある程度の勝算はあったと見るべきであると思う。
頼政単独の戦力では、とても太刀打ち出来ないことはわかっている。しかし、八条院は膨大な荘園を所持し、武士も多く抱えている。これは戦力としてかなり大きかったのではないか。彼らは後白河院政に不満を募らせていた。また、地方勢力の平氏政権への不満も蓄積していたであろう。日本のかなりの部分が平氏の知行国になり、それまでの既得権益を失った者も多い。それこそ坂東武者達はその先鋭である。また寺社勢力。高倉上皇の厳島御幸によって、本来最初にすべき石清水八幡宮や春日大社、日枝大社は虚仮にされた。当然興福寺や延暦寺は怒る。清盛クーデターで藤原氏は冷や飯を食わされ、氏寺の興福寺は怒っている。
これらを束ねようと頼政はしていたのではないか。そうして十分に準備を重ねて一気に蜂起する。それなら勝ち目はある。そのための「令旨」であっただろう。であるから、令旨が全国に行き渡るまでは絶対に極秘の計画でなければならない。令旨を源義盛(行家)に持たせ連絡係とするのに、八条院の蔵人としたのはバックが八条院派であることの証明だろう。
しかし、この計画は露顕する。
このことは、熊野の別当湛増から知られたとされる。熊野と言えば源新宮十郎行家であり、この名誉欲の強かった人が相手を吟味せず漏らしたのか。真相はわからない。行家を悪者にするにはちょっと証拠が足らないが、いずれにせよ事前計画段階で平氏の知るところとなる。
準備不足だよなぁ…。
以仁王謀反の露顕時には、頼政が参画していることはまだ知られていなかった。討手には頼政の次男兼綱も命じられているのである。極秘裏に進められていたことの証だろう。
結果、以仁王は園城寺に逃げ、頼政も手勢を率いて合流。抵抗を試みるがいかんせん戦力が少なく、以仁王を興福寺に逃がすことにして頼政以下は宇治で平氏の軍勢と対峙し討ち死にもしくは自害。以仁王も途中捕らえられ討たれた。
結局小規模の乱で終わってしまったが、もしも計画がしっかりと水面下で遂行されれば、様相は少し違っていた可能性もある。情報漏れは源行家であると断定は出来ないが、このことは都ではなく熊野で露顕したとすれば、相当の情報統制が行われていたとみなす事は出来る。
もしも、以仁王と頼政が十分に準備が整った上で挙兵していたとしたら。
重要なのは後白河院の確保であったろう。もちろん高倉上皇、安徳天皇も同時に確保出来れば問題はないが、まず治天の君(に成りえる実力者ということ。実際はこの時点の治天の君は高倉上皇であるが、これは傀儡である)。後白河はこの後、安徳天皇が神器を持っているにも関わらず退位ということにして後鳥羽天皇を即位させた人物である。融通無碍だ。後白河院は流れで簡単に誰の味方にもつく。状況判断には長けているので、本当に全国が蜂起すれば、の話であるが。自ら院政を復活させ、治天の君に返り咲くだろう。
そうした上で以仁王を即位させる。そしてその時点で後白河は用済み。武力を持ってでも院政を停止させなければならない。ここがこのクーデターの肝である。タヌキ政治家後白河のさらに上前を撥ねなければならないのはかなり難しいが、天皇親政としなければ八条院系の力が発揮できないのでは、と考える。二重クーデターであるが、そうしないと八条院系の荘園に属する武士たちは寝返ってしまう。頼朝は坂東武者をバックにしたが、頼政・仲綱は八条院系の武士たちを基盤にせねばならないのだから。
以仁王の令旨にはその配慮が欠けていたようにも思われる。「仍って吾は一院第二の皇子たり」と後白河の皇子であることに皇位の正当性を謳っている。不満が鬱積している者達は、平氏とともに後白河院政にも虐げられてきているのだ。両方を倒さねばならないのである。八条院の猶子、六条天皇からの流れを大切にした方がいいのに。そして主体を「然れば則ち源家の人、籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、勇士に堪うる者」と源氏と藤原氏とその他という扱いにしている。伊勢平氏でないものは全て味方に付けなければならないのに。坂東武者で清盛政権に不満を持つものは平氏が多いのであるから(平氏と言っても地方豪族だが、プライドもあるだろう)。
細かな点かもしれないが、この令旨には少し不備があると言ってもいい。自らを天武天皇、聖徳太子に擬えているのは格好いいのだが。
この令旨のせいであるかどうかはわからないが、畿内の勢力は結集したとは言えなかった。頼政の挙兵は準備不足のイレギュラーであったが、いったん挙兵すればもう少し戦力は集まってもよかったのに。
ここをうまくやっておけば、畿内勢力は雪崩をうって以仁王側についた可能性があった。さすれば戦争状態は長引く。そうして後白河院を手中にして以仁王即位までいければ、全国の鬱屈した武士団は次々と蜂起したかもしれない。ちょうど北条政権末期に護良親王と楠木正成が踏ん張ったおかげで鎌倉の御家人がどんどん寝返ったように。こうなれば、とりあえず頼朝の必要性もなくなるのである。
頼朝があそこまでなれたのは、いわば「後出しじゃんけん」のようなものに思える。最初に不発にせよ花火を打ち上げた頼政らが居てこそ、頼朝の出番が生じた。
実際の歴史の流れとしては、関東を中心とした武士団の鬱積は八条院・以仁王・頼政仲綱の政権では解消されなかった可能性も高い。以仁王は、天武天皇ではなく後醍醐天皇のような短期政権になってしまう可能性もある。やはり最終的には、関東を中心に労働組合的政権の樹立を目指す動きが生じたやもしれない。さすれば鎌倉幕府は歴史の必然とも思えるが、そこに頼朝の姿はあったかどうか。頼朝・北条氏・大江広元の政治力と行政能力は卓越しているとは思うが、歴史の流れが少しでも変わると、その姿を現すことが出来なかった可能性がある。頼朝は先に頼政蜂起時の一武将として使い減らされ、後に興る関東政権は別の人間が束ねていたことも考えられるのである。
源氏の棟梁たる嫡流の頼政・仲綱そして嫡男宗綱はここで滅んだ。仲綱の次男有綱は伊豆に居たおかげで逃げ遂せたが、結局頼朝の蜂起に飲み込まれ、義経の与力として活躍はしたものの義経の失脚と共に消えた。この摂津源氏と頼朝の河内源氏の立場は、入れ替わっていた可能性もゼロではない。
埋もれ木の花咲くこともなかりしに 身のなる果てぞ哀しかりける
この辞世から思うと、内心は無念の思いを秘めて生きてきた人のようにも見える。最後にひと花咲かせようとしたのだろうか。それにしても70歳後半である。なにもここまで来て大博打を打たなくてもよさそうなものであるのに。
摂津源氏の棟梁である頼政は清和源氏の嫡流であると言っていい。頼朝が鎌倉幕府を成立させたため、清和源氏の嫡流は頼朝であると考えられがちだが、祖を辿ると清和源氏は、例の平将門の乱で逃げた源経基(清和天皇の孫)の子、源満仲(安和の変で有名)が武士として摂津に土着したことが始まりであり、摂津源氏が本流である。
(尤も、清和源氏の嫡流は言い過ぎかもしれない。源経基の父貞純親王は六男であった。経基流清和源氏とすべきか。陽成源氏という説もあるが深入りしない。)
源満仲には三人の息子が知られ、嫡男の源頼光(酒呑童子討伐や、部下に渡辺綱や金太郎さんがいたことで高名)は摂津を継ぎ、次男の源頼親は大和源氏、三男の源頼信は河内源氏の祖となった。この河内源氏が八幡太郎義家を生み頼朝に繋がるのでこっちが本流のようにも見えるが、あくまで形としては頼政が筋目である。
争乱の時代のさきがけとなった保元の乱では後白河天皇方に付き、平治の乱では平清盛方に付いた。清盛方と書くのは正確ではないかもしれない。あくまで頼政は天皇方に付いたのであり(もっと言えば美福門院方)、源平という枠をはめるとややこしいことになる。そうして、平家全盛の時代にも当然の如く頼政は生き残った。これを遊泳術と呼ぶのはどうも当たらないようにも思う。頼政は筋目を通し、天皇方に立ち地位を向上させていったと見るべきであると思うのだが。源氏なのに平氏にすり寄り生き残ったとしては気の毒にも思える。
こうして紆余曲折はあったものの頼政は摂津源氏の棟梁として、従三位まで上り安定した余生であったはず。その頼政が何故、突然に兵を挙げて平氏政権に噛み付いたのか。武家であるとはいえ兵力も十分ではなかったのに。
これについては、様々なことが言われている。曰く、頼政の嫡子仲綱所有の名馬を平宗盛が強奪し、さらにその馬に「仲綱」という名を付けてムチを与え侮辱したことに端を発すると。しかしこれは平家物語であり史実かどうかはわからない。
挙兵の主体は仲綱であったかもしれない。この挙兵の正当性を示すものとして「以仁王の令旨」があり、その令旨による全国蜂起の呼掛け人は仲綱である。しかし親父の頼政は無謀であると止められなかったのか。
通説では、反乱を起こそうとした頼政が以仁王を担いだとされる。
以仁王は、後白河の第三皇子。第二皇子である上の兄が出家したため二条天皇の次にあたる。だが、二条、そしてその子の六条天皇の後継として、清盛は憲仁親王(清盛の妻平時子の異母妹平滋子が母。二条、以仁王の弟)を推奨した。これは滋子を寵愛する後白河との共謀である。以仁王は親王宣下もされていない。しかし後白河と敵対していた美福門院系の天皇親政派は、美福門院の娘子内親王(八条院)が以仁王を自らの猶子として(六条天皇の養子という形か)次期天皇に擁立しようとした。が、敗れた。憲仁親王が高倉天皇となる(中宮は清盛の娘、建礼門院徳子である)。
以仁王は出自のこともあるが、平氏によって即位も叶わず親王にもなれず弟が即位である。ボンクラであればしょうがないがどうも有能であり血気盛んな人物であったらしい。バックには後白河~清盛ラインに対する、膨大な荘園を持つ美福門院~八条院ラインがある。二条、六条と続いた天皇親政派の応援もある。
次に、以仁王は高倉天皇の次を望んだ。しかし、高倉天皇譲位後、後継として徳子の生んだ安徳天皇が即位することになる。完全に以仁王は皇位の望みを絶たれたのだ。
こうして考えると、クーデターの主体は以仁王と八条院周辺(閑院流藤原氏など)ではなかったのか。平家打倒ではなく後白河院政から天皇親政へ皇統を戻すことが主目的ではなかったのか。
実際は、このすぐ直前に清盛がクーデターを起こして後白河を幽閉し平氏全盛の時世を築き、後白河と清盛の蜜月時代ではなくなっている。しかし後白河はこのとき失脚状態にあるが、八条院系が盛り返したわけでもない。実権を握るには清盛以下の平氏を排除しなくてはならない。そのための頭目として、ずっと天皇親政派を担ってきた武家勢力の頭目的存在の頼政、そして仲綱を以仁王が担いだのではないだろうか。
こう考えると頼政はもしかしたら気の毒であったかもしれないとも思う。しかしながら、頼政も摂津源氏の棟梁であり源氏嫡流の矜持もあっただろう。そして、幾多の戦いを切り抜けてきた頼政が全く勝ち目の無いことを始めるとは思えない。仲綱が煽動したにせよ、ある程度の勝算はあったと見るべきであると思う。
頼政単独の戦力では、とても太刀打ち出来ないことはわかっている。しかし、八条院は膨大な荘園を所持し、武士も多く抱えている。これは戦力としてかなり大きかったのではないか。彼らは後白河院政に不満を募らせていた。また、地方勢力の平氏政権への不満も蓄積していたであろう。日本のかなりの部分が平氏の知行国になり、それまでの既得権益を失った者も多い。それこそ坂東武者達はその先鋭である。また寺社勢力。高倉上皇の厳島御幸によって、本来最初にすべき石清水八幡宮や春日大社、日枝大社は虚仮にされた。当然興福寺や延暦寺は怒る。清盛クーデターで藤原氏は冷や飯を食わされ、氏寺の興福寺は怒っている。
これらを束ねようと頼政はしていたのではないか。そうして十分に準備を重ねて一気に蜂起する。それなら勝ち目はある。そのための「令旨」であっただろう。であるから、令旨が全国に行き渡るまでは絶対に極秘の計画でなければならない。令旨を源義盛(行家)に持たせ連絡係とするのに、八条院の蔵人としたのはバックが八条院派であることの証明だろう。
しかし、この計画は露顕する。
このことは、熊野の別当湛増から知られたとされる。熊野と言えば源新宮十郎行家であり、この名誉欲の強かった人が相手を吟味せず漏らしたのか。真相はわからない。行家を悪者にするにはちょっと証拠が足らないが、いずれにせよ事前計画段階で平氏の知るところとなる。
準備不足だよなぁ…。
以仁王謀反の露顕時には、頼政が参画していることはまだ知られていなかった。討手には頼政の次男兼綱も命じられているのである。極秘裏に進められていたことの証だろう。
結果、以仁王は園城寺に逃げ、頼政も手勢を率いて合流。抵抗を試みるがいかんせん戦力が少なく、以仁王を興福寺に逃がすことにして頼政以下は宇治で平氏の軍勢と対峙し討ち死にもしくは自害。以仁王も途中捕らえられ討たれた。
結局小規模の乱で終わってしまったが、もしも計画がしっかりと水面下で遂行されれば、様相は少し違っていた可能性もある。情報漏れは源行家であると断定は出来ないが、このことは都ではなく熊野で露顕したとすれば、相当の情報統制が行われていたとみなす事は出来る。
もしも、以仁王と頼政が十分に準備が整った上で挙兵していたとしたら。
重要なのは後白河院の確保であったろう。もちろん高倉上皇、安徳天皇も同時に確保出来れば問題はないが、まず治天の君(に成りえる実力者ということ。実際はこの時点の治天の君は高倉上皇であるが、これは傀儡である)。後白河はこの後、安徳天皇が神器を持っているにも関わらず退位ということにして後鳥羽天皇を即位させた人物である。融通無碍だ。後白河院は流れで簡単に誰の味方にもつく。状況判断には長けているので、本当に全国が蜂起すれば、の話であるが。自ら院政を復活させ、治天の君に返り咲くだろう。
そうした上で以仁王を即位させる。そしてその時点で後白河は用済み。武力を持ってでも院政を停止させなければならない。ここがこのクーデターの肝である。タヌキ政治家後白河のさらに上前を撥ねなければならないのはかなり難しいが、天皇親政としなければ八条院系の力が発揮できないのでは、と考える。二重クーデターであるが、そうしないと八条院系の荘園に属する武士たちは寝返ってしまう。頼朝は坂東武者をバックにしたが、頼政・仲綱は八条院系の武士たちを基盤にせねばならないのだから。
以仁王の令旨にはその配慮が欠けていたようにも思われる。「仍って吾は一院第二の皇子たり」と後白河の皇子であることに皇位の正当性を謳っている。不満が鬱積している者達は、平氏とともに後白河院政にも虐げられてきているのだ。両方を倒さねばならないのである。八条院の猶子、六条天皇からの流れを大切にした方がいいのに。そして主体を「然れば則ち源家の人、籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、勇士に堪うる者」と源氏と藤原氏とその他という扱いにしている。伊勢平氏でないものは全て味方に付けなければならないのに。坂東武者で清盛政権に不満を持つものは平氏が多いのであるから(平氏と言っても地方豪族だが、プライドもあるだろう)。
細かな点かもしれないが、この令旨には少し不備があると言ってもいい。自らを天武天皇、聖徳太子に擬えているのは格好いいのだが。
この令旨のせいであるかどうかはわからないが、畿内の勢力は結集したとは言えなかった。頼政の挙兵は準備不足のイレギュラーであったが、いったん挙兵すればもう少し戦力は集まってもよかったのに。
ここをうまくやっておけば、畿内勢力は雪崩をうって以仁王側についた可能性があった。さすれば戦争状態は長引く。そうして後白河院を手中にして以仁王即位までいければ、全国の鬱屈した武士団は次々と蜂起したかもしれない。ちょうど北条政権末期に護良親王と楠木正成が踏ん張ったおかげで鎌倉の御家人がどんどん寝返ったように。こうなれば、とりあえず頼朝の必要性もなくなるのである。
頼朝があそこまでなれたのは、いわば「後出しじゃんけん」のようなものに思える。最初に不発にせよ花火を打ち上げた頼政らが居てこそ、頼朝の出番が生じた。
実際の歴史の流れとしては、関東を中心とした武士団の鬱積は八条院・以仁王・頼政仲綱の政権では解消されなかった可能性も高い。以仁王は、天武天皇ではなく後醍醐天皇のような短期政権になってしまう可能性もある。やはり最終的には、関東を中心に労働組合的政権の樹立を目指す動きが生じたやもしれない。さすれば鎌倉幕府は歴史の必然とも思えるが、そこに頼朝の姿はあったかどうか。頼朝・北条氏・大江広元の政治力と行政能力は卓越しているとは思うが、歴史の流れが少しでも変わると、その姿を現すことが出来なかった可能性がある。頼朝は先に頼政蜂起時の一武将として使い減らされ、後に興る関東政権は別の人間が束ねていたことも考えられるのである。
源氏の棟梁たる嫡流の頼政・仲綱そして嫡男宗綱はここで滅んだ。仲綱の次男有綱は伊豆に居たおかげで逃げ遂せたが、結局頼朝の蜂起に飲み込まれ、義経の与力として活躍はしたものの義経の失脚と共に消えた。この摂津源氏と頼朝の河内源氏の立場は、入れ替わっていた可能性もゼロではない。
「宗盛ってバカじゃん」って誰もが感じる馬の名前仲綱命名、、このエピソードって本当なんだろうか?ってずっと思っています。
如何にも挙兵の理由を押し付けたような気がするのはへそ曲がりの私だけでしょうか?
理由も定かでなければあんな計画のまま挙兵したこともあり得ない…と私も思います。
やはり子内親王が以仁王を養子としていたことからも凛太郎さんが書かれたことが想像できますし、
<頼政はもしかしたら気の毒であったかもしれないとも思う←このお言葉に清き1票を入れたいです!
たぶん、頼政のことは以仁王をどう解釈するかで見方が変わってきそうですよね~。
PS 頼政の話をすると義家も登場しなくちゃダメですね!
そう言って、僕も空想の世界なのですが、以仁王ってどういう人なのかと考えます。粘着質っぽいのですが、以仁王も結局押されてああなったとも考えられるのです。源平じゃなく院政派と天皇親政派の対立の構図として捉えれば違った感じはするのです。
この時代、伊勢平氏と河内源氏の対立だけでとらえては矮小化のような気がしますね。
P.S. 頼政だと義家…というのが僕にはよくわかんない(汗)。勉強不足なんかなぁ…。
でも次は義家じゃなくて久々に義経登場としたいと思っていますが(笑)。
何でこういうことになっているのかいつも不思議に思います。
えっと、義家の件、すみません。
思考がすっ飛んでいます
近衛天皇の病気を「陸奥守源義家」で追っ払ったことに倣い頼政が警護にとりたてられたじゃないですか。
義家のエピソードがなかったら頼政の運命も変わっていたかな?と勝手にifを想像してしまって。
話がすっ飛んでいますよね
しかしそういう設定では平氏は滅びないのです。そこに抜け穴がなくては話が繋がらない。その抜け穴を一手に背負ってしまった感のある宗盛です。一幕の芝居とすれば、ああいう人物は必要だとは思いますけれどもね。傘職人の息子なのでそうなったと描かれていますが…。
僕は昔から宗盛に同情してきましたが、最近はそう描かれることになった裏みたいなものをいろいろ考えています。
ところで、義家と頼政の繋がりってそこですか(汗)。そこまでは考えなかったなぁ(笑)。これはjasminさんが書かれればいいのではないですか? 調べこめば面白いかもしれません。
しかし、忙しいのにそこまで手を広げられないですよね。職業がブロガーならともかく(笑)。
埋れ木の花咲くことも無かりしに 身のなるはてぞ かなしかりける
通説では、平等院の庭で自決するときに詠んだと伝わるが、頼政ほどの上手であれば
クーデター以前から、用意していた和歌であろうと思う。そしてこれは、清盛に宛てら
れていると解釈するなら、さらに味わい深いものになる。
藤原支配が弱まり、地方武士団が力をつけてきた時代 源氏が排除され、平家が取り
立てられていくのは、天皇家が源氏の台頭を押さえる為に、平家を優遇した側面があり
保元・平治の乱を経て、中央政権に影響を及ぼせる源家の頭領は頼政だけになっていた
が、のらりくらりの和歌好き爺さんを演じていた頼政の本性は、次世代の武家政権を視
野に入れていた、策略家だったのではないか?? 以仁王の乱直後 あわてて福原に都を
移すことになったのも、戦になれば、平家はひとたまりもないことを、清盛は、よく知
っていたからではないのかと推察できる。
私は埋れ木のごとく70を超える齢を重ねてきたが、源家の頭領として花を咲かせてし
まったぞ、花が咲けば実をつけること必定 私の生涯は、貴殿の生涯は さて 悲しい
ことか それとも??
頼政と清盛は仲のよい関係であり、頼政の気迫が伝わってきます。
ちょろ
従三位頼政については、いろいろな解釈ができると思うのですね。これを書いて僕もしばらく経ちますが、他にも視点を変えることが可能だなとあらためて思いました。
他でも書きましたが頼朝伊豆流刑首謀者説など、策謀家であったのかも、との思いもよぎります。
清盛系の平氏の行く末を見通して辞世を詠んだとすれば、そこに凄みが出てきますね。
花咲かば告げよといひし山守の来る音すなり馬に鞍おけ 頼政
我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間ぞなき 二条院讃岐
花咲くは、頼朝・義仲が平家に対抗できる力量のことで、山守は頼政からの指示のある工作員。
馬に鞍おくとは、頼政の出陣、クーデターを語っているのではないか??
沖の石は、仲綱か?? 頼政が時代を動かしたとみんなが認識していたのではないか??
クーデターのリーダーは仲綱だったのではないか?? あるいは仲家を指すのか??
潮干とは、頼朝を暗示しているのでは、ないか??
和歌は幾重にも意をこめますから、ないとは言い切れませんね。うーむ。
子孫で ジーサマが 45代目 党首
ジーサマの一番弟の大叔父と 風呂はいったことある 最後の孫が 俺です
今でも 伊丹の御願塚に行かれると 45代の名前書かれた 塔のような 墓あります
始祖のこと 教えていただき ありがとう御座いました
親父馬鹿にされてた たかだか15代目と
ちなみに おじさん 神武館でて神主の家
アララギ派の詩人でした