凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも源頼朝が流されたのが伊豆でなかったら

2007年03月22日 | 歴史「if」
 源頼朝が鎌倉幕府を立ち上げ、日本の「中世」と言うべき時代の幕を開くことが出来たのにはいくつかの要因がある。
 むろん頼朝の卓抜した政治力と「貴種」であったということ、平氏の金属疲労、そして以仁王の令旨のタイミングなど様々な事が重なって、頼朝が関東を統一し武士の世の幕開けとなったのだが、まず第一に頼朝が「伊豆」に流人として居た事が大きな、いや最大の要因であったと考えられる。頼朝は伊豆に流人として居たからこそ、政子を介して北条氏と結びつき、これを初期設定として旗揚げ、そして関東武士団と結びついて膨れ上がり幕府へと繋がっていくのである。頼朝がもしも伊豆を流刑地とされなかったとしたら、また違った歴史が当然広がったはずである。

 頼朝は河内源氏の嫡流である。頼朝は三男であるのだが、長男義平、次男朝長は母親の出自が卑賎であると言われ、頼朝が嫡男とされた。頼朝の母は熱田大宮司家の娘である。
 余談になるが、この熱田大宮司家というのは藤原氏である。しかし本流ではない。どこかといえばそれは南家である。辿れば、あの藤原武智麻呂の四男である巨勢麻呂の流れであり、巨勢麻呂は藤原仲麻呂の弟にあたる。頼朝が藤原南家の血を引いているというだけで僕は大いなるドラマを感じるのだが、さらに言えばもともと熱田大宮司家というのは、古代の大豪族であった尾張氏なのである。尾張国造を祖に持つ尾張員職の娘職子が、藤原南家の季兼と婚姻して季範を生んだ。この藤原季範が外孫でありながら熱田大宮司家を継ぎ、その娘と源義朝との間に生まれたのが頼朝である。そういう背景を見るとこれは貴種中の貴種だと僕なんぞには思えてしまうのだが、それは後世の見方である。ここでは、河内源氏の嫡男であるということが重要。

 さて、平治の乱によって父義朝、兄義平、朝長は死に、頼朝は囚われの身となる。頼朝13歳、当然嫡男であり死罪となるところを、罪一等を減ぜられて流刑となる。
 これは、当時の律令制における「律」の部分による。律とは刑法だ。刑には教科書にも出てくる「笞・杖・徒・流・死」がある。ムチや杖で叩かれたり強制労働であったりなかなか厳しい罰だが、「流」というのは死刑の次に重い。だから罪一等を減ぜられて流刑なのだが、この流刑にも段階がある。それは近流・中流・遠流であり、近流は越前・安芸、中流は信濃・伊予、そして遠流は伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐と決められていた。当然頼朝は遠流であり、上記6国のいずれかに配流されるのだが、ここで何故か伊豆が選ばれているのである。

 何故伊豆が配流先となったのか。それがよくわからない。ご存知の方がいらっしゃればご教授願いたい。六分の一の確立であるから、当時の官僚が機械的に振り分けたのかもしれないが、それにしては場所が良すぎる。律令制が定められた当時は、それは伊豆と言えば畿内からは遥か遠い場所ではあったが、それから何百年と経ち、伊豆もずいぶんと開けた土地になっている。何か裏工作があったのかと勘繰る。これが隠岐や佐渡であったならどうなっていたか。頼朝の後の挙兵はちょっと考えにくくなる。現に頼朝の同母弟である源希義は土佐へ流されているのである。希義は土佐で成人して、やはり頼朝の挙兵を知り自分も旗揚げを目指したが、西日本であり地盤が無く平氏の手によって討たれている。やはり西日本である土佐では無理だったのだ。
 伊豆は当時どういう勢力図であったのだろうか。この国は平治の乱後、源頼政の知行国となっている。知行国であること長きにわたり、頼朝挙兵の段階でまだ伊豆は頼政の勢力圏である。国司は嫡男である仲綱。流罪の頼朝を伊豆へと護送したのは頼政配下の者であったとも言う。やはり何か裏があったとも思えてくる。もちろん当時は頼政は平清盛と繋がっていて、以仁王と兵を挙げることなど予想されていない。しかし既にこの時頼政には何か含みがあったのではないだろうか。

 しかし伊豆が頼政の知行国であり仲綱が国司、そして現地には仲綱の次男である有綱が在住しているとはいえ、実際は地元の豪族が強い。地盤を築いているのは地元武士団である。ここに北条氏が居たことが頼朝にとっては幸運であったということである。
 当時の伊豆の勢力分布はどうなっていたのか。伊豆においても北条は絶対的存在ではない。むしろ勢力としては小さい。伊豆の武士団の中でやはり勢力が大きいと考えられるのは伊東氏である。伊東氏は当時祐親が頭領で、頼朝を監視下においていた。
 そこで頼朝は、この伊東氏と北条氏両方にちょっかいを出すのである。祐親の娘である八重姫と、北条時政の娘である政子両方と契り、二人とも子供を儲けることになる。結果、伊東氏は平氏の目を恐れてその子千鶴丸を亡き者にする。北条時政は受け入れ、政子の婿として頼朝を庇護下におく。ここにも分かれ目がある。
時政はものすごい先物買いをしたことになる。このことによって後に鎌倉幕府執権となり、その後150年にわたる北条家繁栄を築く礎となるのだから。
 時政は頼朝が天下を取ることを見越した、千里眼を持った政治家だったのだろうか。歴史を見ればそうも思えてくる。ただし正史は北条氏の視点で描かれている。その北条史観においても、時政はビビッたらしい。隠蔽して政子を平(山木)兼隆の下に嫁にやろうとする。ここは政子の胆力を評価すべきであるかもしれないし、後付けの理屈だが子供が大姫であったこともある。男の子であればどう考えたか。また、時政が平頼盛(助命嘆願をした池禅尼の子)と関係が深かったという説もあるがよくわからない。とにかく時政は頼朝に乗ったのである。
 ifを考えるとすれば、伊東氏も北条氏になりえた可能性があったということだろう。不運は千鶴丸の誕生が大姫より早かった。刻々と情勢は変わる。頼朝が通じたのがもう少し遅ければ、平氏に陰りが見えた時代であればこれはどう祐親が判断したかはわからなかっただろう。伊東祐親は後に頼朝に捕らえられ、命は取り留めたものの自害して果てた。思うのは、伊東氏も藤原南家の流れであるということである。歴史の糸は縺れていく。

 さて、最初に戻るが、もしも頼朝の配流先が伊豆でなかったとしたら。
 前述したように、佐渡、隠岐ではまず可能性は針の穴のように小さくなってしまう。鎌倉幕府は関東武士団の労働組合であり、その上に乗っかったことが頼朝の成功であるのだから。同様に土佐では、弟の希義が駄目だったように歴史の闇に消えていただろう。
 では、残る常陸、安房であればどうだったか。ここであれば可能性がある。
 常陸であればそれは佐竹氏の地盤である。佐竹氏はかなり有力だ。佐竹氏は源氏であるが(それも河内源氏で新羅三郎の流れ)、当時は平氏側にいた。頼朝の挙兵には敵対し、後に攻撃されて敗れている。しかし歴史の流れを考えれば、絶対にありえなかったとは言えまい。佐竹氏が、自分が関東を宰領出来るチャンスであると思い定めれば頼朝を旗頭にしないとも限らない。関東武士団の機運は高まっていたのであり、安達盛長も頼朝の乳母であり支援者であった比企尼の指示で常陸の頼朝の下へ通っていただろう。同じく比企尼の娘婿である平賀義信も河越重頼も同様である。比企能員も然り。三浦義澄や千葉胤頼といった有力武士団の長もはせ参じるだろう。ただし北条時政がどういう立場に出るかは微妙である。北条も関東武士団の流れに乗ったとしても、それはワン・オブ・ゼムでありいくら政治力を発揮しても執権までは到達しまい。
 安房ではどうか。ここでは安西氏が庇護者になった可能性がある。頼朝は、石橋山の合戦で敗走し海に逃れて房総にたどり着いた。そこに安西氏が居て頼朝を迎え入れた。安西氏と三浦氏は姻戚関係にある。三浦氏は最初から旗幟を鮮明にしており頼朝派だった。安房にいたもうひとつの勢力、長狭氏は頼朝を攻撃し、三浦氏に掃討されている。安西氏を北条氏、長狭氏を伊東氏に置き換えることも考えられるのである。
 さらに房総半島には平広常が居る。上総権介広常。房総では圧倒的な勢力である。この平広常と言えば、祖に平将門の叔父である村岡五郎良文を擁し、第二の将門とも言われ房総に乱を起こした平忠常も祖に数えられる。広常は義朝の郎党としても活躍した。広常は頼朝の旗揚げに二万騎をもって参じた。この広常の勢力が無ければ、頼朝の旗揚げは成功したかどうか。それまでの頼朝の勢力は三浦、千葉を合わせた三千騎であったとも言われ、広常の圧倒的勢力によって鎌倉幕府が成立したとも言える。
 広常は旗揚げに遅参して頼朝になじられたとも言われる。しかしもともと頼朝が房総から出たとすれば、そんなことはなかったはずだ。広常は洞ヶ峠をやったのだとも言われるが、そもそも関東独立を目指した将門や忠常の流れである。人一倍視線は確かだっただろう。当初から広常の後ろ盾で頼朝が世に出ていたら、鎌倉幕府の勢力図はガラリと変わってしまう。北条氏は相当の政治力は所持していたとしても、とても出てはこれまい。北条氏は、頼朝の姻戚であり初期勢力であったという値打ちがあって政治力を発揮出来たのだから。

 北条氏は、鎌倉幕府成立の後、トップに立たんとして他氏を滅ぼしにかかる。上総広常の謀殺は頼朝の時代だが、後に比企氏を筆頭に、梶原氏、畠山氏、和田氏、と次々に滅ぼし、ついには三浦氏や安達氏までも倒して独裁政権を築く。もちろん時政、政子、義時の卓越した能力があったのは間違いないが、それも全て頼朝が伊豆に配流されたことから始まったのだ。

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6 コメント

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Unknown (さがみ)
2007-03-24 01:55:42
はじめまして
私は源平の頃が好きで、その時代に関するブログを書いています。

さて、頼朝の伊豆流刑に関しましては
私は「機械的に振り分けられた」ということに賛同します。(この権に関しては色々と調べましてみたのですが、結局決定的な説にはめぐり合えませんでした)

結果を知っている後世の人から見れば、彼の成功の要因が挙兵時伊豆にいたことが大きいということがわかりますが
平治の乱の直後は、誰もが、頼朝自身すらも挙兵するということ自体想像も付かなかったことだと思います。
(このあたりに関しては私のブログでも個人的意見を散々書き込んでいます。よろしければお読みください)

また、源頼政が知行国主だったからという説ですが
これも決定的ではないと思います。
というのは平治の乱の頃頼政が知行国主であったかどうか、はっきりと判らないのです。(1156年頃までは上西門院側近が伊豆守だったので上西門院が知行国主だったと推定できます)

さらに、時政と平頼盛との関係説も賛否両論あり決定的ではないようですね。

というわけで、私は「特になにも考えずに伊豆に流した」説支持です。
個人意見の書き込みで何の答えにもなっていない書き込みで失礼しました。

ifシリーズ面白いので楽しみにしています!
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面白い! (jasmintea)
2007-03-24 17:45:44
これは以前に考えたことがあるんです。
もちろん凛太郎さんのように突き詰めて考えてはいませんが。
平家にとって頼朝を生かしてしまったことが失敗なら伊豆に流したことはもっと大きな失敗だったような気がして。
もし他の地だったら?と想像すると後の頼朝はないわけでどうして伊豆に?と思っていたのですが(これは北条氏贔屓の私の発想ですね)横resになって申し訳ありませんがさがみ様のコメントを興味深く拝見しました。
歴史って不思議な意図で紡がれているんだなぁ、と思いを新たにしました。
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>さがみさん (凛太郎)
2007-03-25 10:37:50
はじめまして。ご丁寧なコメント本当にありがとうございます。

おっしゃるとおり、この「伊豆流刑」については、その理由を示したものが史料として僕が知る限りはあらわれなくて、決定的なものはないのではないか、とやっぱり思います。さすれば、理由はなかった、官僚がただ振り分けた、とするのが最も考えられる理由だと僕も思います。伊豆行きは偶然であったと。
しかしながら、「伊豆」という場所が頼朝にとって良すぎる場所であり、北条氏の勃興のきっかけになったわけですから、つい「何かあったのか…」と(笑)。ここが歴史の分かれ道でしたからねぇ。
頼政の工作、北条氏の工作などは僕もうがち過ぎのように思えます(汗)。牧の方のこともありますけれども。あとひとつ言えるとすれば、この流刑先は確かに官僚が振り分けたとしても、最終的に承認したのは後白河だったのであろうなと。
後白河が、後の平氏の隆盛を懸念して頼朝を対抗手段として残すべくわざと伊豆に行かせた…とすれば面白い話になるのですが、それは後白河を買いかぶりすぎでしょうね(笑)。
しかし、伊豆流刑が後白河発案ではないとしても、僕がもしも小説を書くなら、

後白河は明法家が作成した頼朝の罪刑に関する書類に目を通した。その配流先が「伊豆」となっているのを見て後白河は思わずニヤリと笑って承認した。

と一文を入れるでしょう。

そんなことを書きながら、僕は歴史に関しては薄っぺらい知識しか持っていないただの好きものでして、ブログにも時々しか書いていません(汗)。さがみさんのブログをこれから拝見させていただいて勉強させていただこうかと思っています。
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>jasminteaさん (凛太郎)
2007-03-25 10:54:21
やはりここは歴史の分かれ目でしたよね。jasminteaさんは「後の頼朝はない」と書かれますが、僕は本文中で、伊豆でなくても常陸か安房であったなら、頼朝はやはり関東の覇者になった可能性があると書きました。北条氏贔屓である方であればこの結論はムカっとこられるかもしれませんね(汗)
しかしどうも僕は房総に頼朝が最初から居たほうが話が早かったような気もする。ただ、安房であればまず北条氏は出てこれませんねー。
ただ、北条氏がいなければ鎌倉幕府の隆盛は考えにくいわけで、伊豆以外だとどう歴史が動いたかというのはいろいろ考えられますね。
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後白河上皇 (さがみ)
2007-03-26 23:06:06
私の個人的意見の強いコメントに対して、ご丁寧なお返事をいただきましてこちらこそありがとうございました。

ところで

>後白河は明法家が作成した頼朝の罪刑に関する書類に目を通した。その配流先が「伊豆」となっているのを見て後白河は思わずニヤリと笑って承認した。

この文章ものすごく気に入りました。

余談ですが、
頼朝の助命に関して後白河上皇の意向も働いていたのではないかという説を、この一文を読んで思い出しました。

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>さがみさん (凛太郎)
2007-03-26 23:35:10
いやいやとんでもないです(汗)。こちらこそありがとうございます。
頼朝に対して後白河上皇が関わっていたのかもしれないという説もあるのですか。なるほど。考えられなくもないのですね。もしもそうであれば、あの当時は河内源氏の逆襲などまず夢想も出来なかったころですから、後白河上皇は相当したたかであったかもしれませんね。まあ可能性は低いでしょうけれども。

ところで、さがみさんのブログに飛びました。いや凄いですね。僕のように思いつきで歴史について書く人は多いと思いますが、そんなレベルではない。本当にしっかりと史料にあたられて考察を重ねられているのには敬服します。
斜め読みなど出来る読み物ではないので、今後じっくりと時間を確保して「蒲殿春秋」は拝読させていただこうかと思っています。
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