凛太郎の徒然草

別に思い出だけに生きているわけじゃないですが

もしも足利義満が天皇家簒奪に成功していたら

2006年03月08日 | 歴史「if」
 時事的なことは書かないようにはしているけれども、今(2006/3月現在)皇位継承問題は秋篠宮家のことがあって一時棚上げ状態に置かれている。なので少しはかまわないだろう。
 ただ、秋篠宮家に男児が誕生する保証はなく、いずれ皇室典範改正問題は登場してくるはずである。

 もしも皇室典範が改正されて女系天皇を容認することに決定すれば、そのことによって、「もう天皇家は終わった」と見てもいいのではないか。
 これはあくまで歴史的な見方でそう言っているのであり、「男女同権」や「時代の要請」といった視点ではない。詳細はこちらに書いたことがあるが、歴史的裏付けが取れない古代はともかくとして、正史に確認できる限りは女系天皇は今までに存在していない。女系天皇を成立させる、すなわち天皇家からの皇位簒奪を意味するからだ。
 具体的には、女系天皇が認められれば、権力者が皇女を配偶者として、生まれた子供にも皇位継承権が存することになる。皇族以外で、皇女或いは皇姉妹(そんな言葉あったっけ)を娶っている人物は歴史上に存在する。しかしその子供が皇位に就くことはない。例えば皇女和宮が徳川家茂と結婚したが、もしも二人の間に子供が居たとしても、その子に皇位継承権はない。もしもそうなったら、それは徳川家が皇位を簒奪したということになる。

 この「皇位簒奪」を歴史上一人だけやろうとした人物が居る。
 「皇位簒奪」ということ自体は、古代史上では本当は何例もあった可能性があるが、当然万世一系を謳う史書には出てこない。上代史書に示されている人物としては一応道鏡がいる。道鏡は自ら皇位につこうとしたとされる。あくまで史書によれば、だけれども。
 他にも、織田信長がもしも本能寺で斃れていなければ天皇位に手をつけていた可能性は確かにあったと考えられるが。もちろんあくまで可能性の話。
 ただ、この「女系天皇」による簒奪を試みた人物は一人しかいない。それは足利義満ということになる。

 足利義満。室町幕府の三代将軍であり、南北朝合一を成し遂げた凄腕の政治家である。南北朝については以前に言及したことがあって(これこれこれ)、それはもうややこしい時代なのだがそれを豪腕で無理やりまとめ上げたのが義満である。その後義満の勢いは衰えることを知らず、太政大臣となって位を極め、御所のすぐ隣に相国寺を建立し七重塔をおっ建てて内裏を睥睨し、北山第(金閣)を作って政務を執った。敵はなく、「日本国王」として日明貿易を行い、威光を天下に知らしめた。この義満が、唯一自分よりも上の存在とされている天皇家をも手中に収めようとしたらしい。
 日本の三大幕府の中で最も安定感がなく弱かったとされる室町幕府であるが、鎌倉幕府も江戸幕府もここまでのことはしていない。南北朝の事があって武士の拠点である関東に幕府を置けなかったことが室町幕府の弱さに繋がっているのだが、この京都に幕府を置いたことによって、天皇家に目を向けることが出来たのではないか。近くに自分より権威を持つ機関があるということは非常に目障りなものであったであろう事は想像に難くない。

 具体的には、朝廷に求め藤原摂関家と同格、さらには上位の扱いとなり、官の人事権を徐々に奪っていった。将軍、太政大臣を歴任し出家した後は、上皇待遇を求め僧職の人事を奪った。天皇家のバックボーンである寺院門跡(ここには親王が入ることになっている)に自分の息子達を得度させ送り込む(その中には青蓮院門跡・天台座主義円~後の六代将軍義教も居る)。さらには天皇継承問題にまで介入する。
 祭祀権までも奪った。当時は神道だけでなく仏教の祭祀も天皇中心で行われていたが、陰陽師の地位を破格に引き上げ、これを自分の邸内(北山第)で行うこととしたのだ。こうして、徐々に外堀を埋めていく。残るは天皇位である。
 これについて、義満は妻の日野康子を国母に准ずる「准母」とすることに成功した。後小松天皇の母が病弱であったことから無理やり押し込んだものだが、それによって「准母」の配偶者である義満は必然的に「准上皇」という待遇になる。
 そもそも、義満は天皇家とさほど遠い間柄ではない。清和源氏を源流とするということであれば確かに天皇家の血筋ではあるけれども、これは遠すぎる(清和天皇からすれば550年くらいか)。
 しかし母系が近い。後光厳天皇の后である崇賢門院仲子と、義満の母紀良子とは姉妹だった。この姉妹は順徳天皇の血筋である。したがって義満は女系による天皇の血筋ということになる。また後光厳天皇の皇子の後円融天皇と義満は従兄弟同士になり、次の後小松天皇にとって義満は父の従兄弟(これは何て言うんでしょ? 叔父さんでもなし)となる。遠い間柄ではない。
 いくら清和源氏とは言え 男系として考えれば遠すぎる。ほとんど他人である。しかし、順徳天皇からすれば女系5世であり、後円融天皇とは従兄弟である。ここで、義満は天皇家簒奪を考えたのではなかったか。既に自分は上皇待遇であり妻は国母待遇である。義満には目に入れても痛くない義嗣という子供がいる。この義嗣を皇位に就けようと計画したとされる。

 この事と次第は今谷明氏の「室町の王権」に詳しい。この皇位簒奪計画は教科書に明確に書いてあるかどうかは確認していないが、一般的にはよく知られている事柄だろう。僕が子供の頃に読んでいた学習漫画にも既に出ていた。
 「かわいい義嗣を天皇にすることだってできるぞ」という満面の笑みを浮かべた義満の漫画を子供の頃読んで、強く印象には残ったが、これは歴史の転換点だなぁとまではその時はさすがに思い及ばなかった。
 なお、少し話は逸れるが井沢元彦氏が「天皇になろうとした将軍」という書籍を出されている様であるが、正確には義満は天皇となろうとしていない。息子の義嗣の即位の可能性を創出したのである。ちょっとセンセーショナルな表題にしすぎではないかと思う。(と言いつつ、井沢元彦氏の著作を読んでいないので申し訳ないのだがブログという気安さで許してもらう。そもそも井沢氏の著作はどうもそのイデオロギーが鼻についてページを捲るのが億劫になりなかなか読めない。「逆説の日本史」も同様に疲れてポスト連載記事でさえ最後まで読めない。すんません)
 義満は上皇になろうとしていた。この当時は上皇は「治天の君」として院政を執り行い権力を実際に持っていたポストである。ただ、義嗣を天皇にするということはすなわち「足利家による天皇位簒奪」であることは間違いない。

 義満は、後小松天皇を北山第に招き、15歳の息子義嗣に天皇から天盃を与えてもらうこと等の「お披露目」を執り行う。そしてすぐに義嗣を宮中において「立太子」の礼において元服させるのである。これで義嗣親王だ。形式は皇位継承出来るところまで手がかかった。
 しかして、義満は義嗣立太子から10日後、発病し突然死するのである。

 この義満の死は暗殺説が強い。つまり一服盛られたのだと。これは立証出来ないが、確かにその可能性は考えられるかもしれない。その死のタイミングが絶妙すぎる。
 おそらく朝廷側が行ったことだろう。公家側はこの立太子には従順の姿勢を示していたが、最終的には古代に定められた日本書紀の掟~万世一系の決まりに逆らうことへの畏れが生じたのだろうと思う。この掟はかつて藤原不比等が定めたものだ。この豪腕政治家義満も、ついに不比等がかけた魔法には勝てなかったのだ。
 かくして万世一系は保たれ、義嗣は天皇になることなしに終わる。

 もしも義満が(例えば毒を盛られることを回避し)さらに存命であったなら。確実に後小松天皇に譲位を迫り義嗣は天皇に、そして義満は「治天の君」として君臨することになったか。天皇家簒奪は成功したと考えられる。
 ただし、この「足利天皇家」がその後も続いたかどうかは疑問だ。いずれ義満は死ぬ。その後、足利のバックボーンである幕府はこれを継承する手段はとるまい。四代将軍義持は自分の弟義嗣が自分より上位にいくことは望んでおらず、武士団は足利家が突出して睥睨することもまた望んでいない。義嗣に器量がなかったことから、彼一代で簒奪が終わった可能性が高い。次代天皇はまた皇統に戻るだろう。しかしながら、全く「足利天皇」が続いた可能性がないとは言えない。義満が長命し、義嗣がその後に見られるようなだらしなさを呈示することなく帝王学を学んだとしたら、どうなっていたかはわからない。

 それよりももっと重要なことは、このことが男系相続である天皇家における「女系」の前例になるということ。この手をつけてはいけない聖域に前例が出来たとしたら。
 その後の時の権力者は挙って皇女を配偶者とし、自分の子孫を天皇にしようとするだろう。そうすることで権力とともに権威も手中に出来る。もはや万世一系など望むべくもなく、また天皇の価値も下がるに違いない。天皇の価値はそのアマテラス以来の「血統」にのみ存在意義があったのであるから。だれでも天皇になれる状況となれば、これは歴史の大きな転換点である。豊臣天皇も徳川天皇も出るだろう。尊皇攘夷も統帥権もどこに行くかわからない。「玉を奪う」のではなく「玉になりたがる」という状況が生じれば、日本の歴史はよっぽど変わったものになってしまう。それほど「万世一系」の天皇制は日本史の根幹を成していたのだ。

 「古事記」「日本書紀」を編纂することによって、日本に永劫の掟を制定した藤原不比等。現在も日本はその不比等の魔法の延長線上にあると言っていい。
 僕は天皇制を守らねば、という考えではない。ただ、皇室典範を改正するという作業は、日本史における最大の転換点であるということは認識している。このことをもっと認識した上で考えてもらいたい。歴史が変わるのだ。変えるべきではない、とは主張していない。

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4 コメント

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不比等♪ (jasmintea)
2006-03-09 22:46:05
今日は自分のところでちょっとだけ不比等が登場しました♪

本当に彼の魔法は強力です。



って、不比等のことじゃなくって‥

女系天皇はやっと少しですが議論が深まりつつありますね。

女性がダメって問題ではないのですよね。



天皇家って本当に不思議な存在です。

古代は大王が何人かいたと思われるのにそれがこうやって万世一系となり脈々と継がれていく、、そんなに権力を持った武家も最終的には屈せざるえない‥

あ!そうだ!!それを家康の皇室、公家政策で書こうとしてたの忘れていました。

家康は過去の失敗を鑑み天皇家と手を携えるフリをして天皇を法の枠に当てはめようとした‥

でも結局はあの幕末の尊王運動に発展、徳川政権転覆ひいては武家政権の終焉を迎えたんですよね。



実際時の権力者は義満も含めて「天皇」の存在に頭を悩ませたでしょうね!

返信する
天皇という無意識。 (凛太郎)
2006-03-10 22:05:18
女系天皇のことでは「ムキ」になる人が必ずいます。「じゃあ絶対に女性は即位しちゃいけないってーの?!」このセリフを何度聞いたことか。こういう人には何を言ってもムダです。「女系天皇」じゃなくて「母系天皇」と言ってくれたほうが分りやすかったかもですね。マスコミも「愛子さんは果たして即位出来るのか」ばかり言ってる。困りものです。



家康も結局、藤原不比等の魔法から逃れることが出来なかったのだと思います。後に新井白石がなんとか逃れようと試みますが駄目だった。

この畏れの根源はやはり「男系」であった点にあると思います。女系に見方を変えれば、天皇制は「藤原王朝」であったということも言えるのですから。不思議です。

以前にも「天皇制とは何か?」ということについて言及したことがありましたが、もう一度書いてみたい欲求に駆られます。「畏れ」ということの原点について。
返信する
後小松天皇 (kenneth)
2012-09-25 14:00:27
井沢元彦さんの著から引用が多くなりますが・・・
実は既に義満は内々には自分の子供を天皇にしていた、
それが後小松天皇です。
後円融天皇と義満が同い年の従兄弟でそこから、皇位簒奪を思いついて・・・はよく歴史通では言われることですが、それは義嗣に継がせるところだけを焦点にしているようですが、実は、後円融天皇の後宮に義満が入り込み、後小松天皇の生母と通じ、生まれたのが後小松天皇だと言う見立てが有ります。後円融院はそのことでその生母を後小松帝誕生直後に折檻したと有るらしいのです。

義満は後小松帝実子説を元に後小松帝から義嗣に譲位させようとした(いきなり義満の血統が帝に上るのは抵抗がるが、既に義満の子で即位している後小松帝から弟への譲位で有れば、比較朝廷内の抵抗が少なくなると考えたと思われる)
ところが、その事が露見する前に毒殺されたのでは?
と思います。

後小松帝が後円融帝の子供でないとの傍証として、一休さんの存在が有ります。
彼の実父は後小松帝である点は余程の資料絶対主義者亡者でない限り、疑いませんが、
後小松帝の後継、称光帝の若死の後継者に唯一の男系血縁の一休ではなく、
八世代離れた(後小松・称光帝の家系から、後花園の家系が交わるのは高祖父です)後花園帝を朝廷は選んでいます。

この事は後小松帝に天皇家の血統に疑義ありとみた結果と考えられると言う事です。
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>Kennethさん (凛太郎)
2012-09-27 06:11:51
なるほど…。
僕は、ちょっとヘンなことを書きますが、この記事はあまり自分でも納得してないんです。当時女性天皇の論議がまわりに盛んで、今谷先生の本をちょっとかじって短時間で書いた話で、あまりにも勉強が不十分だったと自分でも思ってまして…引っ込めたい思いが強いのですがそれも卑怯だと思って放置してあるんです。
井沢氏の著作も結局読まずじまいでして。後小松天皇の出自をそう持ってこられているとは。なるほどね。
いずれにせよ、機会をみてもういちど勉強してみたいと思います。
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