夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

鰯 熊谷守一筆

2024-02-13 00:01:00 | 掛け軸
母の実家には熊谷守一が描いた「あやめ」の水彩画があったのですが、思文閣の鑑定では、印章に違和感があり、真作とは断定されませんでした。その以降いつかは熊谷守一の筋の良い作品が欲しいと思っていたのですが、なかなか筋の良い作品や当方の予算と見合う金額の作品がありませんでした。



もちろん素人判断ですが、ようやく筋の良さそうな作品を入手できましたので紹介します。



鰯 熊谷守一筆
紙本淡彩 軸先陶器 共箱
全体サイズ:縦1180*横540 画サイズ:縦280*横405



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熊谷守一:(くまがい もりかず)日本の画家
1880年〈明治13年〉4月2日 ~1977年〈昭和52年〉8月1日)
日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。

*昭和42年に「これ以上人が来てくれては困る」と文化勲章の内示を辞退した。また1972年(昭和47年)の勲三等叙勲も辞退した。

**生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人の子を失った。4歳で死んだ息子・陽(よう)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたもの(「陽の死んだ日」1928年/大原美術館)、結核を患い2年も寝込んでいた長女・萬(まん)の病床の顔を描いた作品、その萬が21歳の誕生日を迎えてすぐ亡くなり野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」1948-55年/岐阜県美術館)、仏壇に当時は高価であったタマゴをお供えした様子(「仏前」1948年/豊島区立熊谷守一美術館 寄託作品(個人蔵))なども絵に残している。子煩悩で大変に子供をかわいがった。

***「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていました。下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、と、そういっていました。」「結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。自分にないものを、無理になんとかしようとしても、ロクなことにはなりません。だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといっていました。」と言っている。

****晩年は自宅からほとんど出ることがなく、夜はアトリエで数時間絵を描き、昼間はもっぱら自宅の庭で過ごした。熊谷にとっての庭は小宇宙であり、日々、地に寝転がり空をみつめ、その中で見える動植物の形態や生態に関心をもった。晩年の作品は、庭にやってきた鳥や昆虫、猫や庭に咲いていた花など、身近なものがモチーフとなっている。

*****熊谷様式とされる下絵デッサン(線)が塗り残された作品で、山々や海・風景が描かれたものについては、若い頃のスケッチブックを広げて油絵にしていた。同じ下絵で描かれた作品も多く、構図の違いや色使いを変えたりと熊谷自身が楽しみながら描かれたであろう作品が展開される。面と線だけで構成された独特な画風による作品は、現在も高い評価を得ている。

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豊島区にある社宅に居た頃に豊島区立熊谷守一美術館 を訪れたことがありました。亡くなった家内との訪問でしたが、懐かしい思い出です。



熊谷守一にしては、「うまい!」と思わせる作品です。

なお箱の誂えもしっかりしていますが、それほど上等というものではありません。本来なら保管上は題字カバーとか二重箱に納まるようにした置くべきでしょう。



落款と印章は違和感がありません。

  

ともかく模倣作品やら贋作やらの多い画家です。



画風が単純明快な点、非常に高価な作品ということからそのような状況を生んだのでしょうが、とても素人の手を出せる範疇の作品群ではありません・・。
































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