アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

ジョササンとコロナ禍不登校

2020年06月14日 | Weblog
 「かもめのジョナサン」、おっ、懐かしや!と思われる方が多いと思います。1974年に五木寛之の訳で新潮社から出版され、120万部も売れた本ですから。
 なぬ?「なんでいまごろ『かもめのジョナサン』か」って?
 深刻な話なのですがぁ、緊急事態宣言が解除され、子どもたちが学校へ通うようになりました。テレビのニュースで取り上げられるのは、「学校が始まり、お友達と会えるので楽しい!」という側面。
 しかし、ところによっては、2か月もの休校でしたから、「学校へ行けるので楽しい」という子どもたちだけじゃないのです。数の把握はできませんが、「学校へ行きたくない」という子どもがいる。おそらくかなり多数いると感じます。
 「うちの子が、学校へ行きたくないと言うんですが…」と、私が知れるだけで、1クラスに2~3人の不登校児がいる。大変な状態なのです。これまであった不登校とは違う部分が多く、「コロナ禍不登校」とも言うべき不登校です。

 「久しぶりにアレを出さないのか」って?催促されると、出しづらいですがね。「なにしろ私は、『心理学の大家』でしてぇ、『大過』ではありませんよ」…出しちゃいました。
 心理学の大家は、「コロナ禍不登校」から、「かもめのジョナサン」を思い浮かべました。

 ほとんどのカモメが、集団の一員として生きおりまして、「かもめらしい生き方とは」などという面倒なことは考えません。ところが、ジョナサンだけは、「飛行に執着し、技術の習得に集中」し続けました。餌をとるために飛ぶのではなかったのです。
 つまりジョナサンは、「集団行動からは距離を置き、『個』であり続けた」わけです。しかし、集団行動を前提とした群れにおいて個を貫くということは、それは当然「軋轢」につながっていきます。「軋轢」は、いじめの根源です。ですから、ジョナサンは孤立した。それでも我が道を進み続けた…。

 コロナ禍不登校の子たちは、休校中、学校という集団からは距離を置き、「個」で過ごしていました。「個」で、過ごす中で、新たな発見があり、思考・行動が集団での暮らしとは別のものへと進化した。個で居ることに、居心地の良さを感じた子もいるでしょう。集団は、煩わしい。以前は、何の疑問も持たず、当たり前のことだと思って学校へ行っていたけど…個(一人)が、いい。
 かもめのジョナサンと酷似しています。

 コロナ禍不登校はどうしたらいいかって?個々によって引き金になっているものが違いますから、一概なことはいえません。
 従来型の不登校の子については、「登校刺激(学校へ行きなさいと口やかましく言うなど)」は慎重に行わなければなりません。コロナ禍不登校の場合は、「積極的登校刺激」で、簡単に通学することがあります。「怠学傾向」がある場合に特に有効です。
 「集団が苦手」と、気づいた子についても、もともと「学校は行かなければならないところ」という意識を持っていたわけです。苦手なものを我慢しながら学校へ向かっていた。長い休校期間中に、その我慢する力が消えたわけではありません。背中を押してあげるのがいいです。
 問題はその先です。登校刺激で芳しい反応がない場合、対応を模索しなければなりません。

 かもめのジョナサンは、「周囲を意識しなければ生きていけないからこそ、自分の意思を最優先して飛行訓練に集中した」。
 コロナ禍不登校の子どもたちには、自分の意思を最優先するのは、しばらく(義務教育終了ぐらいまでは)我慢してもらいたい。その先に、青い海、緑の大地、青い空があるのだから、そこで、思いっきり羽ばたけば良い。…のですが…。