郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

中村半次郎(桐野利秋)がいた! 映画「オトコタチノ狂」ほか

2013年08月01日 | 桐野利秋

 えーと。
 いろいろと書きかけているのですが、ちょっと忙しく、まとまって書く時間がとれません。

 久しぶりに桐野です。
 中井桜洲と桐野利秋桐野利秋と伊集院金次郎の続きでしょうか。
 実は、桐野に関しまして、ちまちまと情報が見つかり、それをメモしますついでに、Wiki-桐野利秋に大幅に加筆しておりました。
 
 きっかけは、しばらくお休みしておりましたヤフオクに復帰し、アラートで桐野利秋、中村半次郎にかかわる出品を、チェックし始めたことです。
 書とかゲームとか映画とか、それなりの情報を得ることができ、そこから話がひろがっていったのですが、wikiには書けなかったことをまとめて、こちらにメモしたいと思います。
 まずは、映画「オトコタチノ狂」から。こんな映画があったとは、存じませんでした。

オトコタチノ狂 [DVD]
クリエーター情報なし
インターフィルム


オトコタチノ狂



 これ、俳優たちの映画制作集団・石井組が自主制作のような形で作った映画だそうでして、低予算ですが、制作者の熱意は感じられます。
 しかし、一言で言いまして、熱意が空回り気味。残念な映画!!!です。

 どういう映画なのか、ごく簡単に言ってしまいますと、現代の東京で一人暮らしをする青年のアパートに、突然、幕末から、長州の久坂玄瑞、土佐の中岡慎太郎、薩摩の中村半次郎、新撰組の土方歳三の四人が、時を超えて現れた!!!、という設定です。なんでこの四人だったのか、なんの脈略もないんですが、魅力的な人選です。
 なにしろ低予算ですし、つっこみどころもまた満載です。
 薩摩藩士の中では突出して長州よりの中村半次郎が、なんでお友達だったと思われる久坂に斬りかかるのか、あげく中岡慎太郎ごときに(笑)押さえつけられるって、なんなんでしょ??? いや、慎太郎よりは、半次郎の方が力があると思うんですけどねえ。畑仕事で鍛えていますから。

 しかしね、制作者の熱意は十二分に感じられまして、もうちょっと、どうにかならなかったの?という意味で、残念だったんです。
 途中、幕末の四人が、一人の赤ん坊を囲んでいる映像が幾度か挟まれるのですが、赤ん坊は、近代国民国家としての日本を象徴しているのだろう、とは、容易に察しがつきます。
 これ、ですね。パゾリーニ監督のイタリア映画「アポロンの地獄」[DVD]を、ちょっと思い出す場面でした。
 「アポロンの地獄」はギリシャ悲劇『オイディプス王』を題材にしているんですが、 やはり突然、19世紀末か20世紀初頭と思われる衣装を身につけた若夫婦と赤ん坊の映像が、はさまれるんです。それが、とても印象的に、オイディプス王の悲劇が、時を超えた、普遍的な人間の業であることを、訴えてくるんです。

 私、もともとタイムトリップものは好きなんですが、時を超えた人々の思いが、もう少しこう、じんとくるように上手く描けなかったものなのでしょうか。終わり方も変でしたし。
 一番時の流れを感じましたのが、10年前の東京を描きました現代の場面の風俗が、とても古びて見えたことだった、と言いますのが、なんとも。

 次いで、桐野の雅号について、です。
 ヤフオクに、桐野が書いたもの、とされる書が一点出ていまして、雅号が鴨溟でした。どなたか、落札されたようですが、私には、桐野が書いたものとは、ちょっと思えません。しかし、他にも鴨溟、または鴨瞑という雅号で、桐野が書いたとされる書が複数存在することは、wikiに書きました通りです。

 いったい、どういう意味の雅号なんだろう、と検索をかけていまして、私、頼三樹三郎の雅号が、wiki-頼三樹三郎にもありますように、鴨崖だったことを知りました。そして、その漢詩集に北溟遺珠があるんです。
 いうまでもなく頼三樹三郎は、安政の大獄で処刑された漢詩人でして、なにしろ頼山陽の息子ですし、幕末の志士たちにとっては英雄だったでしょう。
 とすれば、都に出て、長州寄りの思想に目覚めました半次郎が、憧れて当然でしょうし、あるいは、漢詩を作ったのは有馬藤太か中井桜洲で、実は桐野の雅号を考えたのも彼らなのかもしれず、そうだったにしましても、どっちみち、鴨崖の北溟遺珠にちなんだ雅号の可能性は高そうだな、と思ったりしたのですが。

 で、「少年読本 桐野利秋」を読んでいましたら、著者の春山育次郎が、桐野の話を聞くために京都の中井桜洲を訪ねるんですが、この中井の住居を、鴨崖の家と書いているんです!!!
 「ええっ??? もしかして、頼三樹三郎が住んでいた家に、後年、中井が住んだとか???」と謎は深まりまして、もうこれしかない!と、中井にお詳しい某さまにお電話を。
 某さまのお話によりますと、中井が京都府知事時代に住んでいました家は、荒神橋のすぐ北で、鴨川のほとり(右岸)にあったから鴨崖と呼ばれていたんだそうなんです。
 「ええっ??? 鴨崖って、鴨川のほとりって意味だったんだっ!!!」と、ここではじめて気づいた、馬鹿な私でした。
 言われてみましたら、頼三樹三郎が育ちました山陽の山紫水明処は、荒神橋の南数百メートルのところにあり、やはり鴨川の右岸、なんです。位置関係は、下の地図に示しておりますので、どうぞ、ご覧になってみてください。

 Googleマップー幕末の京都

 えーと。
 つまり、です。
 中井が頼三樹三郎の号にちなんで、自宅を鴨崖の家と呼んでいたのではないか、ということは、あっておかしくないでしょう。若き日の中井が師としていた大橋訥庵は、刑死した頼三樹三郎の遺骸を引き取った人です。
 しかし、鴨崖の鴨が鴨川を意味するとしましたら、鴨溟って、鴨川の海、ですか? 相当、頓珍漢な雅号になるのではないだろうか、と思うのですが、鴨溟の意味について、他に考えられる解釈があれば、どうぞ、ご教授くださいませ。

 最後に、桐野利秋の子孫について、です。
 これね、私と中村太郎さまとの間に見解の相違がございまして、長らくお電話で、言い争いをさせていただいております。
 どういうことかと申しますと、伝えられています戸籍、あるいは大正5年に桐野が贈位されましたときの新聞記事などでは、「桐野利秋には子供がいなかったので、実弟・山内半左衛門(山内家に養子)の長男(幼名栄熊、利義と改名。明治3年生まれ)が跡を継いだ」となっているんですね。

 ところが、です。
 桐野の孫(利義の娘)にあたります桐野富美子氏のインタビュー記事には、利秋の正妻だった久(富美子には義祖母)の語った言葉として、以下のようにあるんです。歴史読本「子孫が語る幕末維新人物100」から、引用です。

 「栄どん(栄熊、利義)は妾(私)が生んだ子じゃないが、おじいさん(利秋)の若い時、自分の母方に弟の子として預けて、京など奔走したのだけど、籍は、私より先に入っていたね。むかしの結婚は、やかましかったで、その頃はおじいさんはもう軽輩じゃなかったでなあー」

 少なくとも桐野富美子氏は、このように信じていたようでして、直系のご子孫の間では、「利義は利秋の実子だった」と言い伝えられているようなのですね。

 桐野利秋本人のファンであります私にとりましては、ご子孫が桐野の直系か弟の血筋か、まあどちらでもいいことでして、気にもとめてなかったんです。
 ところが、ところが。

 美少年と香水は桐野のお友達に書いておりますように、この富美子氏談話に、以下の一節がありますことを再認識することとなりまして。

 生前の祖父と親交があり国士として世界中を旅していた前田正名翁が帰国して訪れ、私の兄利和に、「お前は顔も気性も、利秋によく似ている」と嬉しそうにみつめ、「この子は俺に食いかけの芋をくれた、うまかったなあ!」と言われたので、皆大笑いしました。
 この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。


 「まっ!!! 正名くんが、利和はおじいさんの利秋に似ていると言ってなつかしんだのなら、これは、実孫だった方が絵になるよねえ」と、俄然、富美子氏談話を信じる気になったんですね。

 これを信じて、利義が利秋の実子だったとしますと、利秋の若いころの話ですから、利義の母親は、桐野の京都時代の愛人だった村田さとさんの可能性が、高いんですね。
 しかし、だとすれば、利義が明治3年生まれ、というのは、ちょっとおかしな話にはなるんです。
 まあ、ですね。利秋の足跡がすべてわかっているわけではありませんから、明治2年に京都に立ち寄ったことがなかったとも言えず、だとすれば、さとさんが明治3年に出産した可能性が、これまたなきにしもあらず、なんですけれども。

 中村太郎さまは、利義は甥だとする戸籍の方を信じたい、とのお考えで、富美子氏談話になんらかの裏付けがあるわけではありませんから、ごもっともではあるんです。
 結局、おたがいに、私はこう信じたい、ということにつきまして、話は平行線にしかなりません。

 それは一応、置いておきまして、最近、検索をかけておりましたら、tondenwikiという、屯田兵の歴史を調べておられるサイトさんに行き着きまして、そこに、以下のようなことが書かれてあったんです。

 野幌屯田兵の名簿の中に「桐野利春」という名前が載っています。 西南戦争で戦死した西郷軍総司令・桐野利秋(中村半次郎・1838~1877)と名前が1字違い。 屯田兵名簿によると、利春は明治元(1868)年生まれで、原籍地は鹿児島郡清水馬場町(現・鹿児島市清水町)番外地となっています。 

 私がどびっくりいたしましたのは、桐野利秋と伊集院金次郎のコメント欄に来られた北村典則氏のご先祖のお話が、あったからです。
 さっそく、江別市役所発行の「野幌屯田兵村史」を買い込みました。

 これによりますと。
 江別の野幌への屯田入植は、明治18年と19年の2回行われまして、すべて士族です。
 鹿児島からの入植は、明治18年入植の30戸のみ。この中に、18歳の桐野利春がいたわけです。
 なにしろ、明治7年に桐野利秋は清水馬場に屋敷をかまえましたので、利春の原籍が清水馬場ということであれば、利秋の遠縁にあたるかなにか、関係があった可能性はありそうなわけでして、妄想をたくましくしますと、利秋が外で作った実子を遠縁の籍に入れてもらったり、もあり??? とか、つい、思ってしまったりするわけなのです。

 実は、栄熊が利義として、利秋の死後養子になりました時期が、奇妙なことに明治18年でして、桐野利春が野幌に屯田入植しました年と同じなんです。
 明治10年の西南戦争で、桐野利秋も実弟の山内半左衛門も戦死し、その時点で、山内家の長男となっていました栄熊が山内家を継ぎ、子供がいませんでした桐野家は妻の久さんが戸主になった、というのは、わからないでもないのですが、それから明治18年まで数年ありまして、養子に迎えるタイミングが、ちょっと遅いのではないのか、という気がしてしまうんです。ここでまたまた、妄想をたくましくしますと、利春と利義はともに利秋の実子かもしれず、遠縁に養子に出していました利春を跡継ぎに迎えようと考えていましたところが、養家先の事情で、利春は屯田入植することとなり、結局、利義が跡を継いだ、とか。

 妄想は横へ置いておくにしましても、北村典則氏のお話に、野幌に屯田入植しました桐野利春を重ねますと、あるいは、北村氏の曾祖母・桐野ヒロさんが、桐野利春の娘、ということも考えられるのではないんでしょうか。利春が利秋の遠縁だったとしまして、男の子が生まれず、屯田兵は世襲だったそうですから、故郷の鹿児島から、娘の婿として、利義の次男、三男を養子に迎えたのだとしましたら、話がぴったりとあうんですけれども。

 いずれ、もう少しちゃんと調べてみるつもりではいるのですが、なにかご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授くださいませ。


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コメント (54)
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