郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

広瀬常と森有礼 美女ありき4

2010年09月07日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき3の続きです。

 えーと、開拓使女学校における、広瀬常の災難なんですけれども、そのもとになった常の美貌なんですが、「美しい」とは、アーネスト・サトウとかクララ・ホイットニーとか、同時代のさまざまな人物が証言していますが、具体的な描写はなく、写真がなければ、いまひとつイメージがわきませんよねえ。
 鹿鳴館のハーレークインロマンスで書いておりますが、私が以前に広瀬常のものだと思っていた写真は、実は園田孝吉夫人・けい(金偏に土二つ)のものだったと、下の本ではされています。

明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム
犬塚 孝明,石黒 敬章
平凡社


 実はですね。もっているはずなんですが、この本、出てきません。で、記憶が曖昧になっているかもしれませんので、不正確な記述になるかもしれませんが、お許し下さい。
 私が、大昔に常夫人だと信じて、想像をふくらませた写真は、これです。森有礼の遺品のアルバムにあったんだそうなのですね。



 同じアルバムに、あと二枚、同一人物と見られる写真がありました。そのうちの一枚が、これです。



 で、この2枚の写真の胸元のアクセサリーに注目してください。明治18年(1885)、山本芳翠がロンドンで描いた園田けい像が、同じアクセサリーをしているんです。



 というわけで、上の2枚の写真は、常のものではなく、園田けいではないか、というわけです。
 確かに、アクセサリーは同じに見えますし、幼児を抱いた方の写真は、髪型や顔の角度も似ていて、言われてみればそうかな、という気がします。
 しかし、ですね。私、国会図書館で、大正15年に発行されました荻野仲三郎編「園田孝吉傳」を全編コピーしてきまして、ちょっと疑問に思ったんです。これには、ちゃんと章を設けてけい夫人の記述があり、写真も載っているのですが、有礼のアルバムにあった三枚の婦人像は、ないんですね。
 下は、その「園田孝吉傳」に載っています、明治15年(1882)、渡英直前の園田夫妻の写真です。



 このけい夫人の写真は、確かに芳翠の肖像画とそっくりです。で、くらべてみますと、有礼のアルバムにあった婦人像は別人に見えませんか?

 「秋霖譜―森有礼とその妻」において、森本貞子氏は、有礼アルバムの婦人像をやはり常のものだとなさって、「磯野家に残っていた妹の福子の写真がよく似ている」ともされています。下が、その写真です。



 確かに、森本氏のおっしゃる通りなんですよね。
 じゃあ、アクセサリーはどうなのか、ということなんですが、「園田孝吉傳」に、明治17、8年ころ(鹿鳴館がオープンした当時です)の話として、次のようなことが載っているんです。
 日本で宝石の装身具が流行し、ロンドン領事の園田氏のところへ日本から、「買ってくれ」という依頼が多く舞い込んだんだそうなんです。しかし宝石は、とてつもなく高価です。外国の貴婦人たちは、先祖代々伝えているわけでして、日本人がそれと競って高価な宝石を輸入したのでは、国家財政上、おもしろくないと園田は考え、応じなかったんだそうです。で、「我国は古来美術の国、金銀細工物の妙技を誇つてゐるのに何を好んで他国の宝石を羨むことがあろうか。寧ろ我特有の装飾品に相当の美術的加工を施して宝石の代用に用いたならば、一には経済の一助ともなり一には国産奨励の意にも叶ふであらう」ということなんです。

 どうやら、園田けい像の独特のアクセサリーは、宝石の代用に、日本の工芸品を加工した可能性が高そうです。
 で、外交官夫人にとって、宝石をどうするかという問題は、なにも鹿鳴館時代にはじまったことではないんですよね。
 常は、渡英前にも、公使夫人として北京へ行っていますし、森家でアメリカ元大統領を迎えての晩餐会を催したり、ともかく、夜会服を着てつける宝石に困った経験は、早くからしていたはずです。いくら有礼の給与が高額でも、元大名家じゃないですし、また有礼は潔癖性で、実業家から貢いでもらうようなこととも無縁ですから、常の宝石にまでまわるお金は、あまりなかったでしょう。
 とすれば、工芸品アクセサリーを身につけたのは、園田夫人よりも常の方が先だったかもしれないんです。

 けい夫人は園田の二度目の妻で、結婚したのが明治13年(1880)4月。有礼と常が渡英して後のことです。
 園田孝吉は薩摩川内、北郷家の私領士の家に生まれまして、北賴家重臣園田家の養子に入ります。最初の妻は養家の娘です。明治4年に大学南校(東大の前身)を卒業し、外務省に奉職して、翌年、婚約していた養子先の娘と結婚。
 明治6年に、妻を日本に置いて単身英国に赴任し、明治12年の7月まで帰国していませんから、有礼と常の結婚式には出席していません。しかし帰国直後、アメリカ元大統領グラント将軍を迎えての一連の歓迎行事には、外務省の一員としてかかわり、常夫人の活躍は目の当たりにしたはずです。
 園田の渡欧中に、最初の夫人は死去していまして、薩摩の養家からは先妻の妹との結婚を勧められるのですが、園田は「外交官夫人として活躍できる妻を娶りたい。その方が園田家の名をあげることにもつながる」と断り、翌年、富永けいを娶るんです。
 けいの父親は、遠州横須賀(現在の静岡県掛川市)にあった小藩の家老でしたが、佐幕派であったため、維新後苦労します。山口県に官吏の職を得て赴任後、けいの教育に困っておりましたところが、井上馨が帰省中、けいを見込んで、東京での教育を引き受けるんですね。けいは洋学を学び、井上馨の世話で、園田と結ばれました。
 つまり、先輩有礼の伴侶、常の外交官夫人としての活躍を見て、園田がけいとの結婚を選んだ可能性は、高いんです。

 早くから、外交官の間で、夫人のアクセサリーは共通の悩みになっていたでしょう。日本の工芸品をアクセサリーにする、というのは、だれが考えついたことかはわかりませんが、園田孝吉が、有礼や鮫ちゃんや、寺島宗則や上野景範や(この二人が、夫人を伴って社交的外交をやったかどうかは確かめてないんですが)、もっとも早く日本人公使として海外に赴任した薩摩の先輩たちと、つきあいがなかったわけがありません。

 私は、常が園田夫人に、アクセサリーを贈った可能性が高いのでは、と思うのです。
 園田夫妻は、明治15年2月に日本を発ち、有礼が公使として滞在しているロンドンへ赴任しています。そして、有礼と常は、明治17年の初頭に帰国しているわけでして、別れに際して、常が園田夫人に愛用のアクセサリーを贈ったり、したかもしれないじゃないですか。

 というわけでして、今、私は、有礼のアルバムの三枚の婦人像は、やはり常夫人のものだったのでは、と思い直しています。
 なにやら話がそれましたが、次回、かならず二人が出会うところまでは、行き着くつもりでおります。

 
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2 コメント

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Unknown (とり)
2011-06-01 12:09:19
はじめまして、飛鳥美術の鳥海と申します。
東京で古美術商を営んでおります。

2010年9月7日のこの記事を拝見して、大変感動いたしました。
私はあなたが国会図書館までいらっしゃって、
コピーをなさった園田孝吉伝と園田けいが若いころ(結婚して間もないころ?)の、
未発表の木炭画と晩年の写真を所有しております。
よろしければ、木炭画と写真をデジカメで撮影したものを
メールで送らせていただきたいと思うのですがいかがでしょうか。
下記までお返事お待ちしております。
webmaster@asuka-art.info
半年遅れとなりますが (郎女)
2012-01-05 18:50:11
残っておりますでしょうか?(笑) 明日にでも、メールさせていただきます。ありがとうございました。

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