郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.8

2012年11月23日 | 尼港事件とロシア革命
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.7の続きです。

 私、最初に尼港事件の賠償問題を知りましたとき、「これって、拉致事件と似てない?」と思ってしまいました。
 1925年(大正14年)1月、日本はソビエト社会主義共和国と日ソ基本条約を結び、国交正常化をするに至ったのですが、このとき、北樺太の石油利権と引き替えに、尼港事件の賠償問題を、事実上、棚上げにしたんですね。

 当時、軍艦の動力が石炭から石油へ転換していまして、イギリス、フランスは中東の産油地帯を押さえておりましたし、第一次世界大戦開戦前、ロシアと良好な関係を築いておりました日本が、共同開発を計画しておりました北樺太の石油を、あきらめきれなかった事情はわからないでもないのですけれども、しかし。
 尼港事件を人権問題、ソビエト・ロシアの国家犯罪として、きちんと世界に訴えきれていなかったのではないか、という思いは残ります。

 拉致事件は、起こりましてから長らく、北朝鮮の策動でなかったことにされ、国交正常化交渉において、ようやく北朝鮮が事実関係のみはを認めた、というちがいはあるのですが、しかし、尼港事件におきますソビエト・ロシアの犯罪性もずっとソ連は認めてこなかったわけですし、拉致事件もまた経済的な利権と引き替えに、棚上げにされかねない可能性は、今なお消えていないわけです。

 しかも、ですね。
 双方、日本国内の左翼インテリ層によりまして、「悪いのは日本政府の方!」といわんばかりの叫びがあがり、「共産主義体制が生み出したテロル」である、という認識が、日本においてさえ、希薄なんです。結果導かれますのが、「国交正常化のために棚上げを!」という、いわゆる識者(!)の論調です。

 1920年(大正9年)、尼港事件直後に発行されました中央公論7月号に、吉野作造の論評が掲載されているのですが、吉野はまず、「日本は対ロシア関係において、シベリアでさらなる困難を背負い込むことになってしまった」とし、その原因を以下のように記しています。

 第一西伯利(シベリア)に出兵した事、第二セミヨノフとかコルチャックとかいふ民間に人望の無い反動的保守階級を対手としたことが原因である。

 そして、尼港事件。

我々は、一部為めにする所あるものの罠にかかって不当に興奮するの極、本件に関する本当の責任者を見損なってはならない。しかしてそのいわゆる真の責任者は明白に(日本)政府、ことに軍事当局者にあるのであるが、ここにまた在野政客の一部の間には、得たり賢しと之を政争に利用せんとするものがある。
 
 い、いや……、言っていることが嘘だと言うわけではないのですけれども、ソビエト・ロシア、ボルシェビキ政権の責任は、どうなっているのでしょうか。
 いわゆるインテリ評論家って、大正の昔からこうだったんですね。
 百年の後のロシアで、レーニンの像が倒され、コルチャークの像が建ったことを、教えてあげたい気がします。

 
世界をゆるがした十日間〈上〉 (岩波文庫)
ジョン リード
岩波書店


 アメリカの左翼ジャーナリスト、ジョン・リードが、ボルシェビキ革命の始まりと同時にロシア入りし、まったくロシア語を知りませんでしたにもかかわらず革命を取材し、アメリカで出版しました「世界をゆるがした十日間」は、今なお名著とされておりますが、現在読みますと、「人間はここまで、自分の見たいものしか見ないでいられるんだ!」と不思議ですし、北朝鮮を地上の楽園と報じたかつての日本のマスメディアと知識人を思い出します。

ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム
セルゲイ・ペトローヴィッチ メリグーノフ
社会評論社


 「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」は、アナトリイ・ヤコフレビッチ・グートマンの「ニコラエフスクの破壊」(ロシア語)が出版されましたと同じ1924年、場所も同じベルリンで出版されました。
 著者のセルゲイ・ペトローヴィッチ・メリグーノフは、旧貴族出身のインテリで、人民社会主義党(エヌエス)の活動家であり、社会民主主義者だったため、10月革命以降、ボルシェビキ政権からたび重なる弾圧を被りました。一度は死刑判決を受けもしましたが、クロポトキンなど、古参活動家のおかげで、減刑、釈放され、1922年に国外へ亡命します。

 社会主義政党連合の熱烈な支持者でしたメリグーノフは、エヌエス国外委員会を立ち上げ、ボルシェビキ独裁政権批判の言論活動をはじめます。その中で出版されました代表作が、この「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」です。
 おそらく、なんですが、グートマンとも知り合いで、「ニコラエフスクの破壊」も読んでいたのではないでしょうか。

 メリグーノフは、「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」の前書きで、次のように言っています。

 ボリシェヴィキがなした以上に人間の血を流してはならない。ボリシェヴィキのテロルで具体化された以上に破廉恥な形を想像することはできない。これは自分のイデオローグを見つけ出すシステムである。これは暴力を計画的に実施するシステムであり、これは世界中のいかなる権力もまだ到達したことがないような、権力が持つ武器として殺人を公然と礼賛することである。これは内戦の心理状態にあれこれ説明を求めることができるような過剰行為ではない。
 「白色テロル」は別の秩序の現象であり、まずは放埒な支配と復讐に基づく過剰行為である。いつ、どこで、政府政策の条文やこの陣営の政治評論に、諸氏は権力のシステムとしてのテロルの論理的根拠を見いだすであろうか。いつどこで組織的で公的な殺人を呼びかける声を聴いただろうか。いつどこでデニーキン将軍やコルチャーク提督やヴラーンゲリ男爵の政府にこれが見られたか。


 つまりメリグーノフは、例えばコサックのアタマンに見られたような白色テロルは、むしろ政治権力の弱さ、内戦の混乱が生み出した過剰行為だったけれども、赤色テロルは、権力が武器として意図的に殺人を礼賛するシステムである、と言っているんです。そして、こうつけ加えています。

 わが民主的ジャーナリズムがシベリアの反動の責任をコルチャーク提督に負わせるなら、ロシアで過去にも現在にも起こっていること(赤色テロル)の責任は誰が取るのか。

 吉野作造はもちろん、メリグーノフの著作は、読まなかったものと思われます。
 いえ、吉野作造など、日本の知識人だけではありませんで、欧米の知識人にも、基本的に「世界をゆるがした十日間」のロマンを信じる者は多かったのです。

 メリグーノフは、国際連盟の難民高等弁務官としてロシアの大飢餓救済に活躍したフリチョフ・ナンセンにも、抗議の声を上げています。ナンセンは、「ロシアの政治的抑圧は専制政治であった旧体制下でも同様に存在した」とし、どうも「革命という非常時であることを理解して許そう」というような論文を書いたらしいのですね。

 そもそもロシアの大飢餓が、ボルシェビキ政権の人為的災害であったことが、ナンセンにはわからなかったのでしょうか。
 いえ……、わかったからといって、どうしようもないことだったから非難しなかっただけなのでしょうか。
 メリグーノフは訴えます。

 「黙っていられない」というトルストイの言葉を、なぜ、われわれはヨーロッパで聴かれないのか。ごく最近、革命時には平時以上に倫理的価値を守ることが必要であると見たロマン・ロラン(フランスの作家)は、レフ・トルストイに近いと思われるのに、なぜ、「人間的良心の神聖な要求」の名の下に声を挙げないのか。なぜ、国際連盟は人間と市民の権利に沈黙しているのか。

 メリグーノフは、ドイツの社会民主主義者で、ソビエト・ロシアのボルシェビキ独裁を痛烈に批判しておりましたカール・カウツキーに心酔していたようでして、けっして白色テロルに同調する立場にいたわけではありません。
 グートマンもまた、反共と言いましても、反ボルシェビキ独裁であったと、理解するべきでしょう。
 グートマンの「ニコラエフスクの破壊」を英訳しましたエラ・リューリは、1993年に至ってなお、こう述べています。

 読者の中には、著者のグートマンが、自らの強烈な反共精神に基づいて、パルチザンが犯した残虐行為を、大幅に誇張して記述している、と感じる人もいるだろう。また、当然のことながら、ソビエトの文筆家達は、グートマンが、パルチザンを血に飢えた犯罪者達と位置付けていることに対して、強い抗議の声を上げている。ブージン・ビッチ、アウッセムは、それぞれの回顧録の中で、行き過ぎた行為があったことは認めているが、トリャピーツィンと数人の腹心達、特にラプタがやったことだ、と非難している。その一方で、個々の出来事に関する彼らの記述を見ると、本書の付録に収録しているものも含めて、他の目撃者の証言と一致しない。指揮した者達を許そうが許すまいが、このニコラエフスクの話は、スターリンがソビエト政権下では日常茶飯事と化すずっと以前に、ボルシェビキが無差別テロを実行した事実の、明白な証拠である。




 中央の白衣の人物が、ニコラエフスクを襲いました赤色パルチザンの中心人物、赤軍司令官ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンです。
 この写真は、1920年3月の日本軍決起以降、4月ころのものと推測されています。
 といいますのも、参謀長だった隻腕(片腕)のナウモフ(日本軍の襲撃で死亡)の姿がなく、背後には、日本居留民から掠奪した屏風が見えるからです。
 トリャピーツィンの左の女性が、ニーナ・レペデワ・キャシコ。ナウモフの後を継いで、参謀長になりました。
 ニーナの左隣、椅子にすわって足を組んでいます人物が、副司令のラプタ。

 ニコラエフスクの日本人居留民皆殺しの情報は、すでに3月、それを指令しましたトリャピーツィンの宣伝電文によって、日本軍もあらましをつかんではいたのですけれども、港が氷で閉ざされ、アムール川の氷が不安定な間、救援隊を出すことができませんで、ようやく5月、日本軍救援部隊がニコラエフスクに迫りました。
 ここへ来てトリャピーツィンたちは、「日本軍の保護の下で政権ができることを妨げるために」町を徹底的に破壊し、数千人を虐殺し、残った住民を強制的に引き連れて逃げたのですが、ただ一人ラプタのみが、救援日本軍を待ち伏せて戦いを挑み、戦死しました。

 追い詰められました赤軍パルチザン部隊は仲間割れを起こし、トリャピーツィンとニーナは処刑されますが、残った赤軍パルチザンは、町の破壊にも虐殺にも掠奪にも、異議をはさむことなく実行に参加していたくせに、です。トリャピーツィンとニーナ、そしてラプタにのみ、罪をかぶせて残りの人生を生きた、というわけです。

 
 
 ハバロフスク上空ですけれども、シベリアに飛ぶ日本軍の飛行機です。
 
 救援に向かいました日本軍は、「戦闘を前提にそちらへ向かっているわけではない。捕らえられた日本人(100人あまりです。事情がわかっていなかったハバロフスクの山田旅団長の停戦命令に従い、武装解除の上、投獄された軍人がほとんどで、一般居留民は、虐殺を逃れて日本軍兵営に逃げ込むことができた十数名のみ)の解放交渉に応じる用意がある」と、飛行機でビラを蒔くなどして呼びかけていましたにもかかわらず、全員が惨殺され、そればかりか町は破壊するは、住民を殺しまくるはのあげくに、犯人たちは逃げ去ったのです。

 日本の救援隊指揮官の談話などは、むしろ、真っ正面から戦いを挑んできて戦死しましたラプタにのみは、好意的です。写真で見る通りのいい男ですし、スタイリッシュでもあったそうです。
 また、このラプタが率いていました部隊の装備が、ですね。外套や毛布、缶詰などの食料に至るまで、すべて日本軍から掠奪したもので、最初、救援部隊は「日本のものをなぜ?」と首をかしげたそうなのですが、すぐに事情を察し、無念の思いに歯ぎしりをすることとなりました。

 私、この事件について、もう一度詳しく書く気にはとてもなりませんで、ぜひwiki-尼港事件をご覧になってみてください。
 ただ、つけ加えますならば、ハイパーインフレが起こり、ルーブルが紙くずになりまして、日本人の島田元太郎が発行しました紙幣の方が、信用を得ていました内戦期のシベリアです。
 指導層のロシア人にはユダヤ系が多く、日本人やイギリス人、アメリカ人が経済をささえていましたニコラエフスクには、金鉱もありまして、掠奪するにはおいしい都市だったでしょうし、そのわりには駐留日本軍の数が少なく、交通が途絶されて救援部隊が容易には派遣できません冬期を狙えば、赤軍支配が簡単に実現できる、と見られていたのでしょう。
 また、これは私の憶測でしかないのですが、パルチザン部隊は中国砲艦に事前にアプローチして、味方についてもらえる約束ができていた可能性が高いのではないでしょうか。

 ニコラエフスクの白軍守備隊の数は、多いときでも500人くらいだったそうでして、それくらいの数ならば、給料を払いえた、ということなんですが、それが、10倍近い4000人もの赤軍パルチザン部隊と入れ替わったわけです。掠奪をしなければ、とうてい、食べさせていける数ではありません。
 また、どうしてそれだけの人数を集めることができたか、ですが、勢力を得てからは強制動員をかけたにしましても、当初、ほとんど経済的基盤のありませんでしたパルチザン部隊が、雪だるま式に増えたにつきましては、ニコラエフスクへ至るまでにそうとうな掠奪を行い、またニコラエフスクでのおいしい掠奪がえさにされていたらしい、と、推測できる証言も多々あります。

 結果、ニコラエフスクでなにが起こったのか、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5でご紹介しました、エラ・リューリと同じ年の女の子、石田虎松副領事の遺児、石田芳子が記しました「敵を討って下さい」の続きを、溝口白羊の「国辱記」から引用します。

 三月の末でしたお家の新聞に
 ニコラエフスクの日本人が、
 一人残らずパルチザンに殺されたと書いてあったので
 あたしビックリして泣き出しました
 おばあ様もおどろいて、これはうそだ
 何かのまちがひだと云ひました
 さうよ、きっと何かのまちがひよ
 けれども何やら心配で、その晩
 こわいこわい夢を見ました。
 これが嘘であればいい、まちがひであればいい
 お父様やお母様はご無事でせうかしら
 今頃綾ちゃんや赤ちゃんはどうしてるかしら

 うそだと思っていたことが、ほんとうでした
 大変大変まあ、どうしたらいいでせう
 お父様もお母様も、
 綾ちゃんも赤ちゃんもみんな殺されてしまいました。
 仲のよかったお友達も
 近所に住んでいたおばさんも小父さん達も彼も
 みんな殺されてしまひました
 槍でつかれたり、鉄砲でうたれたり
 サーベルで目の玉をえぐられたり
 八つ裂きにされたりして殺されたのです
 まあ何と云ふむごいことをするのでせう
 にくらしい狼の様なパルチザン

 お家は焼かれるし、お金はとられるし
 はだかにされて、なぶり殺しにされる時
 まあどんなにかうらめしかったでせうね
 死ぬる時には、日本の方を伏し拝んで
 どうかお国の人達よ、この敵を討って下さいと
 きっと涙をこぼして願ったでしょう
 敵を討ってくれる人は
 お国の人よりほかに無いのですもの
 敵を討って下さい、どうか敵を討って下さい
 そしてうらみを晴らしてやって下さい
 もしもこのうらみが晴れなかったなら
 殺された人たちは、死んでも死ねないでせう

 
 女子供も容赦なくなぶり殺された中で、わずかに命が助かった子供の話を、したいと思います。

 中華民国の砲艦は、白軍に攻撃され、日本軍の関与も疑っていましたので、赤軍に共感を抱いていたのですが、基本的に中華民国は、日本と同じく連合国側なのです。公然と日本軍や日本人攻撃に加わりますことは、外交上、非常な問題をかかえた行為だったのですが、パルチザン部隊に300人の中国人が加わっていたことも手伝い、やってしまいます。

 そのため、ニコラエフスクの2000人の華僑の安全は守られたともいえ、そして華僑たちの多くは、決してニコラエフスクの知識人や指導者、富裕層、そして日本軍と日本人に反感を持っていたわけではありませんで、個人的なつながりのある人々を、なんとか助けようとしました。
 日本人で、中国人にかくまわれて助かりましたのは、主に、中国人や中国人と親しいロシア人の内縁の妻になっておりました十数名の女性にすぎないのですが、その中に、三人の親子が、まじっていました。
 佐藤さきとその幼い二人の子供、ツユと杢之助です。

 さきの夫・佐藤林吉は、長崎出身の仕立て職人で、1914年、第一次世界大戦開戦の年に、ニコラエフスクへ渡ってきました。
 林吉は、義勇兵として日本軍に加わって早くに戦死してしまい、日本人虐殺がはじまって、さきは二人の子供をかかえてふるえているしかなかったのですが、知り合いの日本人女性の夫が中国人で、中国人たちにかくまわれ、一度は捕まったのですが、中国領事の尽力で釈放され、最後は中国砲艦に乗せてもらって、逃げることができたのだそうなのです。
 日本人の子供で、生き延びることができたのは、この二人だけでした。

 次に、子供ではありませんが、生き延びました不思議な日本人夫婦のお話を。

 ニコラエフスクを破壊し、アムグン川上流のケルビ村に逃れてなお、トリャピーツィンたちは虐殺を続けていました。
 日本の救援軍がニコラエフスクに入って20日、6月23日になって、ロシア人二人が日本海軍の部隊に「日本人の夫婦がトリャピーツィンたちの迫害を受けそうだ」と言ってきました。さっそく救出に向かいましたところ、親日家のギリヤーク人に助けられた二人に行き会い、無事保護することができました。

 この二人、埼玉出身の山本粂太郎と島根県出身の日高たつのは、内縁関係だったらしいのですが、ニコラエフスクの西方200キロの山の中に住んでいたんだそうなんです。粂太郎が30、たつのが40くらいの年齢だった、というような記事もありまして、そうだったとすれば、妻の方が十歳年上、ということですよねえ。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3で書きましたが、ニコラエフスクには、出稼ぎをしている水商売の女性が、100名近くいました。想像のしすぎかもしれませんが、たつのさんは水商売の女性で、粂太郎はたつのさんに惚れて、年季が明けるのを待っていっしょになった、とか。
 しかし、それにいたしましても、シベリアの山の中で二人っきりで暮らしていた、というのが、なんだかすごいですよねえ。

 エラ・リューリのいとこたち、7歳の男の子と5歳の女の子ソフィヤも、ともにアブラハム・リューリ(エラの父メイエルの弟)の子供なんですが、両親と日本人の乳母を失いながらも、祖母に守られて生きのびることができました。

 ニコラエフスクにパルチザンが押しよせましたとき、アブラハムは兵役で白軍に加わっていて、近郊のマリンスコエ村に出かけていて留守でした。
 アブラハムの母アンナと妻エステル、そして二人の子供達だけの家にパルチザンは上がり込み、ついには接収して、一家は裏庭の小屋へ追い出されます。
 金目のものはすべて掠奪され、エステルは身につけていた指輪とブローチまで、その場で奪われました。
 3月9日、ですから日本軍決起より前の話なのですが、エステルは理由もなく逮捕され、監獄で殺されてしまいます。

 ニーナ・レベデワは、殺したエステル・リューリの毛皮のコートを奪い、堂々と公衆の面前に着て出ていたそうでして、私、臆面もないのはニーナの個人的資質なのだとばかり思っておりましたら、何で読んだのだったか、そもそもソヴィエト・ロシアのボルシェビキ政権が、毛皮のコート没収令を出していたんだそうです。毛皮は労働者にこそ必要なものだ、といいますので、片っ端から毛皮のコートを没収し、しかし結局は、役得、というんでしょうか、政権の中枢にいる者が恣意的に自分のものにしたり、気に入った人物に与えたりしていたそうでして、ニーナが特別恥知らずなわけではなく、ボルシェビキ独裁政権下では、あたりまえのことだったんです。

 アブラハムがいつ捕まったのかはわからないのですが、妻のエステルと同じく処刑されます。
 日本軍が決起したときには、二人の子供の日本人の乳母が殺されました。
 アンナ・イリニシュナ・リューリの証言です。

 「うちの御者がやって来ました。その男は、孫達の乳母が日本人で、私たちと一緒にいることを知っていました。彼は、私に言いました。『ばば様、お前さまもつらいだろうが、日本人のうばさんに今すぐ出てってもらった方がいい』 そして、彼女の方を向くと、言いました。『さあ、出て行きな』 すがり付くすべもなく、彼女は外に出ました。そして、裏庭から通りへ、突き出されました。彼女はそこで殺されました」

 アンナは、知り合いの中国人や朝鮮人などに助けられ、なんとか孫を守って生き延びました。
 6月、日本の救援部隊がニコラエフスクに入った後、エラの父メイエルは、船をチャーターし、日本海軍の許可を得てニコラエフスクに向かい、他の人々とともに、母のアンナと幼い甥、姪を救出しました。
 救出された人々が、日本へ着いたときのことを、エラは70年の後にも鮮明に覚えていて、次のように記しています。
 「人々は、まるでボロきれのようで、皮膚病に苦しんでおり、見ていて悲惨だった」

白系ロシア人と日本文化
沢田 和彦
成文社


 アンナ・リューリとエラの両親の墓は、横浜の外人墓地にあるのだそうです。
 わずか5つで、尼港事件に遭遇し、両親を亡くしましたソフィヤは、メイエル・リューリに引き取られてエラと姉妹のように育ち、沢田和彦氏によりますと、「白系ロシア人と日本文化」の「漁業家リューリ一族」が書かれました時点(2007年ころ)では、東京に健在でおられたとのことです。

 エラは、ソ連崩壊後の1993年、80を超えて、故郷の惨劇の記録であります「ニコラエフスクの破壊」を英訳出版し、2005年、96歳にして、その生涯を閉じました。遺灰はハワイから日本に運ばれ、横浜外人墓地の両親や最初の夫、娘の墓の傍らにまかれました。

 貨幣研究者の齊籐学氏が、生前のエラから許可を得られ、2001年、「ニコラエフスクの破壊」を和訳出版されましたことは、日本におきます尼港事件の研究に、大きな光をもたらしたのではないでしょうか。
 
 このシリーズ、一応、これで終わりたいと思います。
 実は、最近、近藤長次郎の妹さんのご子孫の方にお会いしまして、ちょっとユニオン号事件に帰るつもりでおります。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.7

2012年11月20日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.6の続きです。

 お話を、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4で書きましたドクトル・ジバゴにもどします。

ドクトル・ジバゴ アニバーサリーエディション [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ワーナー・ホーム・ビデオ


 
ドクトル・ジバゴ (新潮文庫)
江川 卓,ボリス・パステルナーク,Boris Leonidovich Pasternak
新潮社


 パルチザン部隊から脱走しましたユーリ・ジバゴと、夫パーシャ(ストレルニコフ)が失脚しましたラーラと、ボルシェビキ政権から要注意人物視され、逮捕の危険にさらされました二人を、ラーラの昔の愛人コマロフスキーが、極東に誘います。
 そのときのコマロフスキーの台詞が、原作小説では、以下のようなのです。

 「いま沿海州、太平洋沿岸地域ではですね、顛覆された臨時政府や解散させられた制憲会議に依然として忠誠を誓う政治勢力の結集が進行しているんです。旧国会(ドゥーマ)議員、社会活動家、元地方自治機関(ゼムストヴォ)の有力者、実業家、工場主といった人たちが同地に集まってきています。白系の義勇軍部隊の将軍たちも、あそこに残存兵力を集結させています。
 ソヴィエト政権はですね、この極東共和国の成立を見て見ないふりをしているのです。辺境地帯にこういうものができるのは、赤色シベリアと外の世界との間の緩衝地帯になるわけです。ソヴィエト政権にとっても好都合なんですな。この共和国の政府は連立政権ということになるはずです。閣僚の椅子の過半数は、モスクワの要求で共産党員に留保されることになりましたがね、モスクワは、その過半数にものを言わせて、その機が熟したら、クーデターを起して、共和国を手中におさめようと狙っているわけです。この狙いは見えすいたことでしてね、ですから、問題はただ一つ、残された時間をいかに有効に活用するかなんです」


 極東共和国樹立宣言が1920年4月6日、つまり尼港事件の最中のことでして、としますと、ドクトル・ジバゴの映画におきまして、ユーリとラーラがベリキノの氷の宮殿で最後の時を過ごしましたのは、ちょうど尼港事件のころであり、コルチャーク政権の時代、ユーリはほとんど、パルチザン部隊に連れ回されていた、ということになるのでしょうか。
 ちなみに、ユーリはラーラ一人をコマロフスキーとともに極東へ逃がし、自分はモスクワへ帰ることになります。ラーラは極東でユーリの子を産むのですが……。

 激動のロシア。
 コルチャーク政権の崩壊は、すさまじい悲劇を引き起こしました。
 なんで読んだのか忘れてしまいまして、個人の方のサイトに「バイカル湖の悲劇」と題して載っているのですが、典拠がわかりません。
 ともかく、赤軍に追われました125万人の白軍関係者が東をめざしたのですが、そのほとんどが途中で凍死してしまい、やっとのことでイルクーツクまでたどり着きました人々の前に、ひろがっておりましたのが凍りついたバイカル湖です。
 25万の人々が氷上を進むうち、吹雪におそわれて全員が凍死し、遺体はそのまま凍りついて湖上の彫像となってしまったのだそうなんです。

 この人々の中には、女、子供がたくさんいたわけなのですが、これは、赤軍が人質制度(!)をとり、政敵の妻子、親族、友人を連座させたからです。
 コルチャークの愛人だったアンナ・ヴァシリエヴナ・チミリョーヴァが長年ラーゲリーに放り込まれたのも、夫が失脚してラーラが逃げなくてはならなくなったのも、そのためです。

 
ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル(1918~23)―レーニン時代の弾圧システム
セルゲイ・ペトローヴィッチ メリグーノフ
社会評論社


 この「ソヴェト=ロシアにおける赤色テロル」に、イギリス領事ロッカートが1918年11月10日に記した文章が引用されています。
 「ボルシェビキは人質を取るという忌まわしい慣例を復活させた。さらにひどいことに、彼らは政敵を撃ち殺し、彼らの妻に復讐した。最近ペトログラードで多数の人質名簿が公表されたとき、ボルシェビキはまだ逮捕されていない者の妻を捕らえ、夫が出頭するまで彼女らを監獄に抑留した」

 抑留されるだけでしたらまだしも、なのですが、チェーカー(ボルシェビキの秘密警察)は拷問を許容していましたし、惨殺にいたることもしばしば、でした。
 この連座制は「復活させた」といいますより、ソビエト・ロシア共産党独裁政権の発明ともいえるものでして、以降、各国に伝搬しまして、現在でも北朝鮮で行われていることですし、中国でもまだ、廃止されたとは言えない状態です。

 ロシア革命の亡命者は、全部あわせますと百万をはるかに超えます。
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5で書きました皇太后マリア・フョードロヴナのように黒海経由、ペテルスブルグ生まれの日本学者セルゲイ・エリセーエフがたどったフィンランド経由が、主なヨーロッパ・ルートでして、この場合は、大方、最終目的地がフランスです。
 なにしろ、貴族やインテリ層のロシア人は、フランス語が自国語のように話せました。

 とはいいますものの、子供のころ、一家で黒海経由、パリに亡命し、フランスの小説家となりましたアンリ・トロワイヤの祖母はコーカサス生まれで、チェルケス語を母語とし、フランス語どころかロシア語もろくに話さなかったのだそうです。

 ドクトル・ジバゴのラーラは、コマロフスキーと極東へ行き、極東共和国の終焉とともにコマロフスキーはモンゴルへ逃れ、映画では、ラーラは幼い娘(ユーリの子)とモンゴルではぐれたことになっています。
 モンゴルというのは、現在の内モンゴル、中東鉄路(東清鉄道)が通っています満州里なども含みますし、シベリアの農民やコサック、ブリヤートなどが、村ごと集団で亡命したケースが多かったでしょう。ボルシェビキはあらゆる宗教を弾圧しましたから、信仰のためにそうしたケースもけっこうあります。

 個人ルートとしましては、コルチャーク政権の崩壊前後、そして、日本軍がシベリアから撤退し、極東共和国が崩壊しました1922年を中心としまして、主には、シベリア鉄道から中東鉄路を乗り継ぎ、鉄道付属地で、ロシア人の自治が行われていましたハルビンへ行くか、そこからさらに、天津や上海など中華民国の租界へ行くケースと、ウラジオストク経由船便、あるいは鉄道で朝鮮や日本の港に渡り、さらに上海やアメリカに渡るケースが多かったのではないでしょうか。

 1919年10月、ニコラエフスクは平和で、政変の予兆などまったくありませんでしたことは、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3でご紹介しました、人類学者・鳥居龍蔵の「人類学及人種学上より見たる北東亜細亜. 西伯利,北満,樺太」で、うかがい知ることができます。

 オムスクはシベリアの西の端で、極東のニコラエフスクからは遠いですし、その遠いオムスクで、チェコ軍団の引き上げが決まり、コルチャーク政権が崩壊し、それによってニコラエフスクまでが赤軍パルチザンに襲われようとは、予想もできなかったことだったのでしょう。

 ただ、鳥居龍蔵は、「中国の砲艦が自国民保護のためにニコラエフスクで越冬するというのに日本の軍艦は引き上げてしまったと、在留邦人は残念がっている」というようなことを、述べています。
 ニコラエフスクには、2000人あまりの華僑がいたのですけれども、中国の砲艦は別に、華僑保護のために越冬しようとしていたわけではありません。
 CiNiiに有料でありますが、伊藤秀一氏の『ニコラエフスク事件と中国砲艦』(ロシア史研究23 収録)に詳しく、概略はwiki-尼港事件にまとめてありますので、ご参照ください。
 要するに、中華民国の北京政府(北洋軍閥政府)は、ロシア革命の混乱に乗じ、アムール川の通行権を拡張しようと砲艦4隻を送り込んだのですが、白軍のアタマン・カルムイコフ軍の砲撃を受け、やむなく引き返して、ニコラエフスクで越冬することとなりました。

 しかし結局、この砲艦が赤軍パルチザンの味方になりましたことから、ニコラエフスクの日本軍は敗北を喫し、在留邦人は皆殺しになったとも言えるわけでして、在留邦人たちが中国砲艦の船影に不吉なものを感じていたのだとしましたら、その予感は、まさにあたっていました。
 事後の「たら」話は意味がないものではあるのですが、もしかしてこうしていたら尼港の惨劇はふせげたのではないか、ということの一つが、日本海軍も砲艦数隻をニコラエフスクで越冬させていれば、ということです。
 日本軍が中国艦隊を上回る砲艦を持っている、といいますそれだけのことで、赤軍パルチザンの暴虐は、押さえることができた可能性があります。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3で書きましたが、冬のニコラエフスクの人口は12000人。
 その半分以上、6000人を超える住民が惨殺され、日本軍守備隊と在留邦人、あわせて731名も、老若男女の別なく皆殺しとなりました尼港事件について、尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1ですでに引用いたしましたが、井竿富雄氏は、『尼港事件と日本社会、一九二〇年』において次のように書いておられます。

 軍人が武装解除されて殺害、民間人のみならず国際法上保護されているはずの外交官まで殺害されるという、これまでに日本が経験したことのない大惨事であった。この事件で邦人殺害を指揮したパルチザン部隊のリーダーたちはのちにボリシェヴィキ政権によって処刑された。機密文書である参謀本部の『西白利出兵史』ですら「千秋ノ一大痛恨事録シテ此ニ至リ悲憤ノ涙睫ニ交リ覚エス筆ヲ擲ツ」と感情的な一節を書き記している。

 エラ・リューリも、80を超えて「ニコラエフスクの破壊(原題:Gibel Nikolaevska-na-Amure 米題:THE DESTRCTION OF NIKOLAEVSK-ON-AMUR)」を英訳し、その書の前文に、次のように書いています。

 本書の翻訳は、私にとって、大変心の痛む作業であった。この惨劇に、私の家族が巻き込まれていたから、というだけでなく、テロ行為を行った人間のおぞましさが、事細かに記述されているからである。

 事件からすでに100年の歳月が流れているのですが、生々しい当時の証言を読みますと、「ふせぐことができていたならば!」と、痛切に思わずにはいられません。

 ロシア内戦では、バイカル湖の悲劇のような大規模な惨劇があたりまえのように生じ、数の上から言いますならば、6000人の惨殺も、たいしたものとは言えないのかもしれません。
 人道の港 敦賀ムゼウムにポーランド孤児の話が載っておりますし、外務省の「外交史料 Q&A 大正期」にも概略が載っておりますが、多くのポーランド人が内戦にまきこまれ、あるいは祖国独立のために白軍に参加し、ボルシェビキによる迫害を受け、シベリアでは孤児がさ迷っておりました。
 もちろんそれは、ポーランド人だけではなく、ドクトル・ジバゴのラーラとユーリの子供が孤児になりましたように、多くのロシア人孤児たちもいたわけです。

 あるいは、尼港事件の翌年、1921年から1922にかけましてのロシアの大飢餓は、梶川伸一氏の「幻想の革命―十月革命からネップへ」に詳細が載っておりますが、人肉食があたりまえになったほどにすさまじいもので、伝染病も手伝い、死者は500万人とも3000万人とも言われております。

幻想の革命―十月革命からネップへ
梶川 伸一
京都大学学術出版会


 もっとも飢餓が深刻でしたヴォルガ地方のサマラ県(現在のサマラ州)において、1921年12月16日のソビエト大会で述べられました報告の最後は、次の言葉で結ばれていたのだそうです。

 「状況は非常に苦しい。このことについて、われわれは全ロシアと外国に語らなければならないし、援助は十分ではないとの農民の声に耳を傾けて欲しい。もしこの援助が近い将来に増えないなら、何万もの農民は死滅し始めるであろう。今や彼らは何千となって死滅しつつある。人間の死体が掘り起こされて食べられ、飢餓で正気を失って、肉を食べるために自分の血を分けたわが子に襲いかかるとの情報を、われわれは持っている」

 「ポヴォーロジエ(Povolzhye)飢饉」で検索してみてください。おぞましい写真がいくつも出てくるのですけれども、これは決して、捏造ではないんです。

 この飢餓は、天災も手伝ってはいるのですけれども、人為的、構造的なものでもありまして、人類史上初のロシア共産主義革命は、目のくらみますような大量虐殺を巻き起こしながら、壮大な実験を続けていきます。やがてこれは中国に受け継がれ、北朝鮮に、ベトナムに、カンボジアに、世界中に飢餓と虐殺の赤い嵐が巻き起こることになっていくわけでして、尼港事件は、規模としましてはささやかなんですけれども、おぞましい、典型的な赤色テロルであったことに、まちがいはありません。

 長くなりましたので、続きます。次回で終われるのではないかと、思っています。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.6

2012年11月18日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5の続きです。

 日本におきまして、ロシア革命の本はけっこう多いのですけれども、ロシア内戦の本は、あまり出されていないように思います。
 「ロシア革命の本」といいますのは、基本的には、1919年10月のボルシェヴィキ革命を肯定している場合が多く、自然の流れとしまして、それに抵抗しました勢力の大方を反革命勢力と規定し、多大な死者と亡命者を出しました内戦の実体を、きっちり描いてくれてはいないように思うんですね。
 それでまあ、冒頭から映画の紹介になりますが。

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"Адмиралъ" (The Admiral) - Trailer B (English subtitles)


 いや、映画として、決しておもしろいわけではないんですけれども……、なにしろコルチャーク提督の伝記の和訳がありませんで。
 なにがおもしろくないって、映画の制作者もどう描けばいいかとまどっていたのでしょうか。コルチャークがなにをめざして行動していたのかがよくわからない描き方ですし、かといいまして、話の中心になっています不倫の愛に感情移入できるかといいますと……、これがまたさっぱりでして。

 しかし、それにしても、ですね。
 コルチャークの愛人だった、といいますのは、日本でいいますならば、桐野利秋の愛人だった、といいますのとあまり変わらないと思うのですが、アンナ・ヴァシリエヴナ・チミリョーヴァは、それが理由で長期間ラーゲリー入りしたそうでして、ほんと、共産主義って怖いですねえ。

 アレクサンドル・コルチャークは、日露戦争にも参加経験がありますロシア海軍の提督でして、第一次世界大戦では、バルト海最奥のフィンランド湾で、対独戦に活躍しておりました。
 映画がどこまで事実を描いているのかさっぱりわからないのですが、ケレンスキーとの関係は悪くなかったようでして、1917年2月革命の後、臨時政府によりましてアメリカに派遣され、映画では出てきませんけれども、その後、日本にも来ていたんだそうなんです。

 ロシア内戦期、連合国の支持のもと、白軍を指揮しまして、オムスクを中心とし、ウラル以東、シベリアに政権を樹立していましたが、赤軍に敗れ、銃殺されました。
 したがいまして、ソ連におきましては長らく、反動的な帝国主義の反逆者でしかなかったわけなのですけれども、ソ連が崩壊し、ロシアの時代になりまして、映画の主人公となって肯定的に描かれ、2003年、イルクーツクに銅像が建てられているそうです。



 一橋大学機関リポジトリで、細谷千博氏の「シベリア出兵の序曲」が公開されております。その二章「ボルシェビキ革命と日本の最初の反応」に出てまいりますが、10月革命直後の1917年11月21日、ボルシェヴィキ政権の外務人民委員トロツキーは、ペトログラード駐在の連合国外交代表に、新政権の成立を通告し、同時に、「ドイツなどの同盟国側と即刻に停戦し、単独講和協議をはじめるので了承してくれ」と要望しました。

 えーと。西部戦線で、イギリス、フランスは国家の総力を傾けて苦戦中です。
 アメリカは参戦を表明しましたが、まだ、フランスの戦線には加わっていません。
 ロシアが、「一ぬけたっと!!!」と叫ぶのを、黙って見ているはずがないんです。
 しかし、ボルシェビキ政権が国民多数の支持を得るには、停戦を実現させるしか、道はありませんでした。

 ボルシェビキ政権の中心にいますのは、ドイツが送り込み、莫大な資金を提供されたとまで噂されましたレーニンです。
 正真正銘、10月革命以降のロシアには戦う気がないとわかっていましたドイツは、休戦が終わりました1918年2月、大きく攻勢に出て、ペトログラードまで攻めよせてきそうな勢いでした。
 そのため、ボルシェビキ政権は、講和交渉で譲歩の上にも譲歩を重ねまして、現在のバルト三国、ベラルーシ、ウクライナにまたがります広大な領土をドイツに割譲することで、1918年3月3日、ようやく、ブレスト=リトフスク条約を結び、単独講和にこぎつけました。

 しかし、ですね。
 ベラルーシ、ウクライナの穀倉地帯、バルト三国の資源、工業地帯を失い、ロシアの飢餓はますますひどいものとなります。当然のことですが、連合国からは敵視はされますし、ボルシェビキ政権は求心力を無くして、ロシアは内戦に突入します。
 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4に追記しておりますが、1918年、ブレスト=リトフスク条約の後にこそ、飢餓も鉄道輸送の麻痺も、より深刻なものとなり、人々は食料を求めて地方への移住を開始しします。

飢餓の革命―ロシア10月革命と農民
梶川 伸一
名古屋大学出版会


 梶川伸一氏の「飢餓の革命―ロシア10月革命と農民」によりますと、10月革命以降の飢餓は穀倉地帯を失ったためとよくいわれますが、かならずしも、それだけが原因では、なかったみたいなんですね。
 戦争が終結しましたことによって、復員がはじまります。
 都市の戦時労働者も、多くは職を無くして、農村に帰る者も続出します。

 ボルシェビキ政権は、臨時政府のときからの穀物買い取り価格を、そのまま固定したのですが、これが異常なまでに安いものになっていまして、例えば衣料など、他の生活必需品の値段は高騰していますから、そんな価格で穀物を売り渡したのでは、農民は生活できません。
 そんなわけでして、農民自身や、復員兵や戦時労働者だった貧民などが、いわゆる担ぎ屋になりまして、闇で売買することになったんですね。
 そうできなかった穀物は、多く、サモゴンカ(密造発酵酒)に化けてしまったのだそうです。

 ところがなにしろボルシェビキ政権にとりましては、「農民が生産する穀物は国家資産であり人民資産」でして、「穀物の国家専売」が正義です。やがて、それは暴力的に実行されていき、内戦末期の1921年から1922年にかけましては、ポヴォーロジエ(Povolzhye)と呼ばれますすさまじい飢饉が起こり、人肉食もあたりまえとなって、大戦の戦死者を上回ります500万人(一説には3000万人)が餓死したといわれます。
 これにつきましては、下の「幻想の革命―十月革命からネップへ」に詳しく載っています。

幻想の革命―十月革命からネップへ
梶川 伸一
京都大学学術出版会


 復員がはじまり、また都市部の飢えで、農村回帰をする労働者が増え、一人あたりの農地面積は少なくなって、とても暮らしていけなくなりましたロシア西部、中央部から、シベリアへの移住希望者が激増します。
 戦時中のロシアでは、農民の他村への移住は禁じられていました。しかしそれが解禁され、1918年の4月からは、一月に2万人を超える移住者が、シベリアに向かったんです。農民だけではなく、ドクトル・ジバゴ一家のように、モスクワでは飢え死にするしかないと見極めて、東へ向かう人々も多かったのでしょう。

 ところがそのシベリア鉄道は、戦時中にもまして、運行が麻痺しておりました。
 とりあえず戦時輸送は終わりを告げたのですが、復員の混乱が始まり、さらにシベリアとウラルの収容所にいました100万にのぼりますドイツ・オーストリア・ハンガリーの捕虜を帰国させるため、西へ輸送しておりました。
 そこへもってきまして、ケレンスキー攻勢で大活躍をしました数万のチェコ軍団が、反対に東へ向かうこととなったのです。

 なにしろロシアは、ドイツ・オーストリア・ハンガリー・トルコなど同盟国と単独講和を結びました。
 オーストリア国民でありながら、独立を志し、敵対して戦っておりますチェコ軍団は、同盟国側に捕まりました場合、その場で銃殺されても文句は言えない立場です。
 フランスの画策もあり、結局チェコ軍団は、シベリア鉄道で極東ウラジオストクへ出まして、太平洋を渡ってアメリカを経由し、大西洋を越えフランスへ行き、西部戦線に参加する、という計画が立てられました。

 ところがこれが、スムーズに進まなかったんですね。
 シベリア鉄道では、飢えた国民が、大挙して東に向かっている最中です。
 1918年5月、チェコ軍団の一部は、すでにウラジオストクに到着していましたが、いまだ大部隊が西部ヴォルガ地方、ペンザ市、シベリア鉄道の起点チェリャビンスク(ニコライ2世一家が殺害されましたエカテリンブルクのすぐ南です)に残り、ノヴォシビルスクなど、シベリア沿線途中にいる部隊もある状態で、完全に停止してしまいました。
 
 いったいいつになればロシアを出国できるのか、チェコ軍団は苛立ちを募らせていたのですが、そこへもってきまして、各所で西へ向かっておりますオーストリア・ハンガリーの帰還捕虜たちと遭遇して小競り合いを起こし、ついにチェリャビンスク駅で殺傷事件が起こります。
 
 ボルシェビキ政権は慌てました。
 ドイツを拝み倒すようにして結びました講和条約です。なにがなんでも迅速に、捕虜を帰国させなくてはならず、その障害となりますチェコ軍団は、やっかいなだけでした。
 そこで、軍事人民委員で最高軍事会議議長のレフ・トロツキーは、チェコ軍団輸送にかかわります鉄道沿線のすべてのソビエトに、なにを血迷ったのか、「チェコ軍団を武装解除し、逆らえばその場で銃殺しろ」というとんでもない命令を発しました。

 馬鹿ではないのでしょうか。
 ロシア国内に、チェコ軍団を武装解除できるほどの健全な軍隊が残っていれば、屈辱的な譲歩を重ねてまで、ドイツと講和条約を結ぶ必要もなかったでしょう。

 命令に従い各地ソビエトはチェコ軍団を武装解除しようとし、当然のことですが、チェコ軍団は怒って反撃に出ました。
 結果、ヴォルガ地方、ウラル、シベリアの各地で、チェコ軍団はソビエトを倒し、ボルシェビキ党と軍事コミッサールの指導者の方が、銃殺されることになったんです。
 喜んだのは、ロシアの反ボルシェビキ勢力です。

 反ボルシェビキ勢力といいましても、これが多種多様でして、ケレンスキーが所属しておりました社会革命党やメンシェビキなど、社会民主主義的な勢力から帝政派(帝政派といいましてもここまできますと立憲君主主義者がほとんどなのですが)、地域分離主義(例えばシベリア独立派)などさまざまで、まとまりのつきようがなく、その点、一党独裁で強固に一本化しましたボルシェビキに負けておりました。

 ボルシェビキの軍隊が赤軍を自称しておりましたために、これら反ボルシェビキの軍事勢力を白軍と呼びますが、最近では、社会民主主義的な勢力の軍であった場合、ピンクなどと呼ぶこともあるようです。ちょっとこれは、馬鹿馬鹿しい気がしまして、反ボルシェビキであれば、すべて白軍としておきます。



 上は1914年、世界大戦開戦の年のニコライ2世一家ですが、一家が、監禁されておりましたエカテリンブルクにおいて、1918年7月17日、ボルシェビキのチェーカー(秘密警察)指揮で惨殺されましたことも、チェコ軍団の蜂起と関係がなくはありません。
 なにしろ近くのチェリャビンスクで、チェコ軍団によってソビエトが倒され、白軍が勢いを得ていましたので、元皇帝一家が白軍に奪われ、反ボルシェビキ運動にさらなる拍車がかかることを、ボルシェビキは、怖れずにいられなかったわけなのです。

 フランス・イギリスを中心とします連合国は、ボルシェビキ政権が、連合国側の秘密外交文書を暴露しましたあげくに単独講和し、帝政ロシアの多大な債務を放棄すると宣言したことで怒り心頭に発しておりまして、しかも、ロシア側の事情を考慮して、シベリア・アメリカ経由でのチェコ軍団ロシア退去となったにもかかわらず、です。「武装解除に応じなければ銃殺!!!」なんぞと、馬鹿げたことをわめくボルシェビキ政権を、なんとかできないものかと嘆息しておりました。

 とはいいますものの、国家の総力を傾けてドイツと戦っておりますフランスとイギリスに、ロシアの内政に干渉する兵力の余裕が、ありえようはずもなく、日本とアメリカを誘っていたのですが、これがなかなか、調整がつきませんでした。
 そこへ、僥倖のようなチェコ軍団の活躍です。
 フランスの西部戦線は遠いですし、これでロシアの白軍が勢いづき、ボルシェビキ政権が倒れてくれたとすれば、儲けものです。

 シベリア出兵をしぶっておりましたアメリカに、「独立を志すけなげなチェコ軍団が、シベリアでいじめられているんだぜい! あいつら(ボルシェビキ)は、ドイツを引き込んで、シベリア鉄道を支配させてしまうかもしれない。ぜひ日本といっしょに、チェコ軍団救出のために出兵してくれ」ともちかけます。

 そんなわけで、アメリカは出兵の決心をしますと同時に、日本にも共同出兵を提案し、1918年8月、チェコ軍団の蜂起からわずか3ヶ月足らずで、日本のシベリア出兵は実現したのですけれども、その経緯に関しましては、私、まだ文献をあさっている最中でして、またの機会に譲ります。

 

 上は、シベリア出兵を描きました当時の日本の画帳『救露討獨遠征軍画報』のうち、ウラジオストク上陸を描いたものです。
 ものすごくりっぱなイラスト集みたいなのですが、いったい、どのくらいの部数出版されて、どのくらい売れたのでしょうか。
 
 さて、ニコラエフスクです。
 1918年、ニコラエフスクにおきましても、エラ・リューリによりますと「住民の多数派から支持を受けたわけでもないのに」、短期間ながら、ボルシェビキのソビエトによる支配が強行されました。しかし、当時の赤軍はサハリン州(以前に書きましたが、この当時のサハリン州は北樺太+アムール川下流域です)全体でわずか300人でして、ボルシェビキは行政権は得ましたものの、経済全体を統制することはできませんで、鉱山と河川輸送を国有化しただけで、他の私企業はそのままでした。
 しかし、このおだやかな政策はボルシェビキからは非難を受け、そのことが、尼港事件直前、再来しましたときの暴政につながっていったようです。

 ただ、ですね。
 1917年(大正6年)12月9日付けですから、最初のボルシェビキ政権下の話として、大阪朝日新聞が島田元太郎の談話を、次のように伝えています。(神戸大学電子図書館 新聞記事文庫 大阪朝日新聞 1917.12.9(大正6) 在露邦商陳情

 私の店でも従来七名の露国人を使役して居ましたが例の雇人組合から増給せよとか主人の権力を認めないと云う様な通牒がありましたので出発前に全部解傭し現在では日本人許りを使用して居ます斯う云う時にそれが露西亜人であると解傭ところでは済みません反対に被傭人の方から非道い目に遇います西伯利亜随一の大商店たるチウリン等も滅茶々々になりました

  つまるところ、島田元太郎は、「ニコラエフスクの私の店でもロシア人7名を雇用しておりましたが、組合から『給料を増やせ、主人の権力は認めない』と言ってきましたので、日本へ帰る前に全部解雇して、使用人は日本人のみにしました。しかし、経営者がロシア人であれば解雇してすませるわけにもいきません。西シベリア一の大商店だったチューリン商会も、それで、めちゃくちゃになってしまいました」と言っているわけです。

 島田はまた、ウラジオストクの状況についても、以下のように述べています。

 烏港(ウラジオストク)は割合に能く治安が維持されて交通機関も平常の如く運転し小学校等も開校して居ますがそれでも過激派の勢力は此の地にも及び労働者や義勇兵等は皆其の群に投じ上長の命令等少しも行われず労働者や兵士は遊んで居ても一箇月一千留から一千五百留迄の収入があって官吏や士官は却て夫れ以下の収入に泣いて居る先月米国の軍艦が一隻入港しましたが烏港の治安は寧ろ同艦の入港によって維持される観がある夫は露国人自身が自国の混乱に困り心ある人は外国の干渉を竢って過激派を押えんと思って居る矢先きなので米艦の入港により陸戦隊が上陸するとか甚だしきは日本の軍艦が数隻港外に居ると云う様な風説を流布したので流石の連中も縮み上って居ります

 「ウラジオストクの治安は割合によく、交通機関も平常に動いていて、小学校(日本人小学校と思われます)も開校しています。しかしやはり、過激派(ボルシェビキ)の勢力はおよんでいて、労働者や義勇兵などは、命令をきかずに遊んでいても、1000ルーブルから1500ルーブルのお金をくれることになっていて、士官や役人の収入の方が少ない状態です。先月、アメリカの軍艦が一隻入ってきましたが、これによってウラジオストクの治安は維持されているとさえいえます。ロシア人自身が自国の混乱に困っていましてね、心ある人々は、外国が干渉をはじめてくれたら過激派を押さえることができるだろう、と思っている矢先のことで、陸戦隊が上陸するとか、日本の軍艦が数隻港外にいる、というような噂を流したので、さすがに過激派連中も怯えて、おとなしくなった次第です」

 実はソビエト側の資料によりますと、「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を招聘した」とあり、日本側の資料にも、尼港市民と内外居留民(イギリス人、アメリカ人などもいました)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願したとありますが、1918年には、島田元太郎を中心としまして、そういう請願が行われたとしましても、おかしくない状況だったようです。

 そして1918年9月、ニコラエフスクに日本海軍陸戦隊が上陸し、ボルシェビキのソビエト政権は追われました。
 以降、詳しくはwiki-尼港事件を見ていただきたいのですが、日本海軍陸戦隊は陸軍と交代します。
 同時に、ニコラエフスクも、ウラジオストクとともに、オムスクに成立しましたコルチャーク政権下の白軍が駐屯することとなり、治安が維持されて、にぎわいがもどってまいりました。

 しかし、ですね。
 簡単に言ってしまいますと、コルチャーク政権の樹立は、チェコ軍団の活躍にささえられたものだったんです。
 日本がシベリア出兵を実行しましたのは1918年の8月ですが、それからわずか3ヶ月後、ドイツで革命が起こり、11月11日、ドイツは連合国との休戦に応じます。
 オーストリア・ハンガリー帝国は崩壊し、連合国はチェコスロバキア共和国の建国を承認していましたが、1919年9月10日、サン=ジェルマン条約によりまして、建国は正式なものとなります。

 日本のシベリア出兵によりまして、治安はかなり保たれるようになりましたし、チェコ軍団には、早期帰国を望む声が満ちておりました。しかしそれでも、フランスの策動で、シベリア鉄道沿線の治安維持にあたっていたのですが、ついに1919年の暮れには、帰国が実行されます。
 これによってコルチャーク政権は崩壊に追い込まれ、1920年1月には、コルチャークはボルシェヴィキ側に引き渡され、処刑されることとなりました。

 ニコラエフスクもパルチザンが押し寄せる事態となり、再度、ボルシェヴィキ政権に支配されるのですが、長くなりましたので、次回に続きます。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.5

2012年11月10日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4の続きです。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3で書きましたけれども、第一次世界大戦が始まった後にも、ニコラエフスクではそれほど、食料不足にはならなかったのではないか、と推測されます。

 1919年(大正8年)の10月、人類学者の鳥居龍蔵が訪れた時、ロシア資本の百貨店には商品が無く、島田元太郎の店の方が品揃えがよかった、ということを書いたのですが、1914年(大正3年)の開戦以来、ヨーロッパからの商品がまったく入らなくなり、さらにはロシアの鉄道輸送が滞って、ロシア西方・中央部との商品の流通は、スムーズにいかなくなっていたんですね。
 しかし、ニコラエフスクは、船舶によって日本との通商が可能でしたし、アムールの河川交通によって、満州からの食料品輸入も、順調に行われたものと思われます。
 ただ、贅沢品はどうだったのでしょうか。

 私、エラ・リューリと同じ年、1909年(明治42年)生まれの日本人ってだれがいるのかな、と思ったのですが、有名どころでは太宰治ですね。
 女性で、幼少期のことを書き残している人は? とさがしましたところ、森鴎外の次女・小堀杏奴がそうでした。
 もっとも、小堀杏奴は父・鴎外のことは詳しく書き残していますが、自分の子供時代について、それほど詳しく時代相を描写してはいませんで、六つ年上の姉・森茉莉の方が、明治末から大正にかけましての子供時代を、生き生きと書き残してくれています。

父の帽子 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)
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 この「父の帽子」に、ドイツのカタログ通販で、鴎外が茉莉の洋服を取り寄せる様子が記されているんですね。

 どれも私の気に入ったが、九つ位の頃だった。夏の始めに独逸(ドイツ)から箱が届いて、中から真白な、雪のようなレエスの夏服が出て来た時の嬉しさは大変だった。細い、絡み合ったレエスで、布と布の間が縛がれている。複雑な飾りの、ひどく美しい白いレエスだった。

 茉莉さんは1903年(明治36年)生まれですから、九つの年といえば1912年(明治45年・大正元年)。
 ベルエポックのファッションでは、子供服にも白いレースが多用されています。
 しかし、なぜパリではなく、ドイツの通販だったのでしょうか。やはり、鴎外がドイツ留学していたために、なにかと勝手がわかってドイツの方が便利だったんでしょうか。

ベル・エポックの百貨店カタログ―パリ1900年の身装文化
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 森鴎外は、陸軍軍医総監にまでなっていますから、ロシアの基準でいえば貴族ですし、華族になってはおりませんが、娘たちにも、上流に近いアッパーミドルの暮らしをさせていた、とはいえるでしょう。
 しかし、エラが生まれたころには、リューリ家はかなりの富を築いていたようですので、開戦前の幼い頃には、上のようなカタログで、パリのデパートから白いレースの子供服を取り寄せて、着せてもらっていたかもしれません。

 実は、子供のころ、ニコラエフクスにおいて、もしかしますとエラと遊んだこともあったかもしれません、同い年の日本人の女の子がおりました。
 尼港事件で殉難しました石田虎松副領事の長女、石田芳子です。

 

 事件の時、エラと同じく日本にいまして、虐殺をまぬがれました芳子は、「敵を討って下さい」という詩を作っております。以下、溝口白羊の「国辱記」から、最初の部分を引用です。

 寒い寒いシベリアの、ニコラエフスク
 三年前の今頃は、
 あたしも其所(そこ)にをりました
 お父様とお母様と、妹の綾ちゃんと
 それからなつかしい沢山の日本人と
 お国をはなれて、海超えて
 遠い外国に住んで居る日本人は
 誰でも親類の様に、又兄弟の様に
 行つたり来たりして、仲よく暮らして居ります
 日本からつれて来たのなら、
 一匹の犬でも皆でだいて可愛がります
 寒い寒いシベリアに居ても、
 日本人同志の心と心の交りは、
 いつもいつもあたたかです


 事件(1920年)の三年前、といいますから、1917年(大正6年)、ロシア革命が起こった3月には、ニコラエフスクにいた、ってことなんですね。

 すでに故人となられているようですが、石田芳子さんの娘さん、つまり石田虎松副領事のお孫さんになられます櫻井美紀さんのホームページの「桃の節句、雛の月」に、芳子さんが父から贈られましたロシアの人形の写真が載せられています。
 故人の方のHPですので、いつ消えるのかちょっと不安でして、以下、引用させていただきます。

 これは1914年にモスクワの祖父から東京の母(当時5歳)に送られたロシア人形。祖父は明治大正期の外交官でした。

 このお人形が祖父の手で日本に送られてから90年経ちました。そのあとロシア革命がおこり、その機に乗じて日本政府はシベリアに7万人もの兵を送りました。いわゆる「シベリア出兵」です。シベリア出兵のことは別のページに書きますが、1920年にニコラエフスクという小さな町でパルチザンと日本軍の衝突事件がありました。これが「尼港事件」といわれる事件です。そのときの死者はロシアの市民約4000人、日本人約600人でした。領事だった祖父は家族(当時38歳の祖母、7歳だった叔母、3歳だった叔父)とともにその地で亡くなり、東京に帰っていた母(事件当時11歳)だけが生き残りました。遺児として育った母はやがて結婚し、私たち姉妹と弟たちをもうけ、母として、妻として愛に満ちたおだやかな日々を送り、2001年に92歳で亡くなりました。
 これは母、石田芳子の愛と哀しみのこもった形見のロシア人形です。


 

  前列左の女性が、石田副領事夫人うらき。中央が芳子の四つちがいの妹・綾子。前列右が石田虎松副領事、その後ろが島田元太郎(ピョートル・ニコラエビッチ・シマダ)、後列左の男性が誰なのかは、わかりません。
 
 「国辱記」などによりますと、石田虎松副領事は、母子家庭に育って苦学をしたそうでして、東京のニコライ神学校から東洋協会露語学校に転じ、明治31年外務省留学試験に合格してウラジオストク留学、明治35年(1902年)外務書記生に任じられ、大正6年(1917年)ニコラエフスク赴任。翌年副領事に任じられた、ということです。

 しかし、鳥居龍三の本に、モスクワに留学していたことが語られていますし、お孫さんのHPにも「1914年にモスクワの祖父から」とありますから、第一次世界大戦開戦前後には、モスクワにいたようです、そしてアジ歴の書類では、大正5年(1916年)から領事館事務代理としてニコラエフスクに赴任していたようなんですね。

 なにに書いてあったのか、ちょっといまさがし出せないのですが、確か、1917年、ロシア革命の年にうらき夫人はお産のために日本へ帰り、男の子を産んで、芳子は日本の学校に通わせるために虎松副領事の母親に預け、綾子と生まれたばかりの男の子を連れて、再びニコラエフスクへ赴いた、ということだったと思います。
 しかも、事件が起こりました1920年には、また妊娠していまして、5月の初めに出産予定。その後の7月には、日本へ帰り、綾子も日本の学校へ通わせることにしていた、ということでした。
 石田虎松副領事を「文学者ともいふべき面影があった」と評しております鳥居龍三は、石田副領事との忘れがたい会話にうらき夫人も加わったことを、以下のように記しています。

 今夜の話は実に後まで長く印象さるべき話であらうと思った。余も談話中、ハバロフスクの本屋に於てモスコーの芸術座の大きな写真画帖を買ったことや、尚ほ露西亜(ロシア)の文芸に関する書物を買ったといふようなことを話して、実に愉快に過した晩であった。今夜の話は寧ろ人類学の話よりもロシアの文学芸術、あるいはロシア人の性格などに関する話であった。この話を夫人も傍らでよく聞いておられた。而して時々自分の考えなども述べて興を添へられた。夫人もよほど趣味に富んだ人で、よく夫君を助けられたことがわかる。副領事には七歳になる女の子と漸く三歳になってヨチヨチ歩けるやうな男の子があって、余の往く毎に出て来られて、傍につき切つているのが常であった。家庭が円満に共同に楽しんでおられる様子がよく分かる。

 日本と大きな取り引きをしておりますリューリ一家です。教養豊かで、社交的でした副領事一家とのつきあいは、当然、あったと思われますし、1916年から1917年の初頭にかけて、7、8歳のエラと芳子はニコラエフスクの町で、ともに遊んだことがあったのではないでしょうか。

 その1917年、ロシアは混沌としていました。
 芦田均の「革命前夜のロシア」 (1950年)によりますと、2月革命の後、一切の皇室財産は没収され、退位しましたニコライ2世一家は、ツァールスコエ・セローに監禁されます。

 アレクサンドル3世の皇后で、ニコライ2世の母親でした皇太后マリア・フョードロヴナは、ラスプーチンを遠ざける必要など、ニコライ二世と皇后アレキサンドラに常に忠告をしてきておりましたが、革命となり、すべての財産を無くして、年に1200ポンドの手当で、クリミアの小住宅に移りました。
 しかしそこで、黒海艦隊の水兵が寝室にまで乱入し、寝間着のままで連れ出されて、暴虐の限りをつくされたんだそうなんです。……って、この話は、芦田均の本でしか見たことないのですが、ほんとうなのでしょうか。



 右端がマリア・フョードロヴナ、中央が姉でイギリス王妃のアレクサンドラ・オブ・デンマーク、左端はアレクサンドラの娘でイギリス王女、ヴィクトリアです。
 マリア・フョードロヴナとアレクサンドラの姉妹は、デンマークの王女だったんですけれども、よく似てますよねえ。
 
 アレクサンドラは、リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォードに出てまいりますが、幕末日本へ来て活躍しましたイギリス外交官バーティ・ミットフォードの親友で、放蕩者ともいわれましたエドワード七世の妃となり、国王ジョージ5世の母となりました。
 したがいまして、ジョージ5世とニコライ2世は母方の従兄弟で、これまた、とてもよく似ております。

 臨時政府で、ケレンスキーが権力を握っています時期に、ニコライ2世一家のイギリス亡命話が持ち上がるのですが、大使の打診に、イギリス政府の回答は拒否でした。これは、ロイド・ジョージ首相の意向であるとも伝えられていたのですが、実は現在、そっくりの従弟ジョージ5世が拒否したのだと、はっきりわかっております。
 未曾有の総力戦で、イギリス国内にも反王室気運が強くなっていまして、専制君主として、イギリスではあまり評判の芳しくありませんでしたニコライ2世を身内として迎えますことに、ジョージ5世が多大な危惧を持った結果のようです。

 しかし、アレクサンドラ王太后は、妹の救出に必死でした。
 第一次世界大戦の終わりました1919年、ジョージ5世も母の願いを入れて軍艦を派遣し、マリア・フョードロヴナは説得されてロシアを脱出し、故国デンマークに亡命することになります。

 話が先走りましたが、芦田均によりますと、革命の功労者ケレンスキーは、皇帝一族に代わりまして宮殿に住み、帝室用の自動車を使い、宮廷の酒蔵のシャンパンを飲み、饗宴を催し、妻を捨てて有名な女優と同棲して、人目をそば立てるような生活を送っていたのだそうです。

 革命が起こりますと同時に、物価はさらに上昇し、生活費は5倍になりました。
 兵卒の給料のみは10倍になったそうですが、首都の兵舎では毎晩のように饗宴が行われ、いくらあっても足りません。そのため、無賃で鉄道を利用し、フィンランドへ行って、煙草の闇商売をはじめる者が多数。乗り物はすべて兵卒であふれ、窓かけなどの装飾品は奪われ、食堂車では無銭飲食があたりまえとなり、機関車だけではなく客車も破損し、交通機関は混乱を極めました。

 1917年の7月1日、英仏の期待に応えまして、ボルシェヴィキの反対を抑えましたケレンスキーは、対オーストリア・ドイツ戦線で、攻勢をかけます。緒戦、オーストリア相手に一時の勝ちを得るのですが、それもつかの間。ドイツ軍との本格的な交戦になりますと、たちまち総崩れとなり、大敗を喫します。

 それもそのはずです。
 革命以来「兵卒の権利宣言」なるものがありまして、上官に懲罰権はなく、軍が軍として機能しなくなっておりました。
 そのため、芦田均によりますと、ケレンスキーは政治委員に機関銃を持たせて、部隊を監視させたのだそうです。
 それでも兵卒は動かず……、といいますか、政治委員が兵卒には甘かったのでしょうか。突撃するのは将校のみで、将校のみが全員戦死した部隊もあったそうです。
 開戦以来、ロシアの戦死者は300万にのぼっていたそうですので、兵卒の厭戦気分も、もっともではあったのですけれども。

 実はこのケレンスキー攻勢で、緒戦を勝利に導きましたのは、チェコスロバキア狙撃旅団でした。
 チェコとスロバキアはオーストリア帝国の一部でして、彼らは独立を望み、オーストリア兵としてロシアと戦うことに積極的ではない者も多かったのですけれども、徴兵で戦線にかり出されます。
 捕虜になった後、まあ……、ただでさえ食料が足らなくなりましたロシアです。捕虜の待遇がよかろうはずもありませんで、飢え死にするよりは、ということもあったのかもしれませんが、祖国独立のために、多数が、オーストリアと戦うロシアの義勇軍募集に応じました。

 捕虜となった者が、敵国側に立って戦いました場合、捕まったら即銃殺です。
 したがいまして、彼らは死にものぐるいで戦い、しかも祖国独立のためという大義に、将校も兵卒も燃えて、一体となっております。ケレンスキー攻勢のしんがりを務めたのも、彼らだといわれます。
 チェコ軍団はこの後、シベリアで大活躍をするのですが、それはまた次回。

 ケレンスキー攻勢の大失敗は、ケレンスキーの権威を落としまして、コルニーロフ将軍との齟齬もあり、結局は10月革命が起こり、ボルシェヴィキが権力を握ります。

 いや、ですね。
 軍規がぐだぐだのままで、戦争を続けることは、できようはずもないですし、戦争のために飢餓が起こり、どうしようもなくなって革命が起こったのですから、まあ、「戦争をやめよう!!!」と叫ぶ方に人心がなびくのは当然のことですし、それで飢餓がなくなるわけでもなかったのですが、とりあえず「戦争をやめよう!!!」と叫んでおいて、新たに軍律厳しい赤軍を創設して政敵を倒し、ボルシェヴィキが独裁政権を確立しましたのは、仕方のないことだったのかもしれません。
 
 1917年、2月革命直後の3月、エラ・リューリは、母親と下の兄と女中とともに、アムール川の氷上を馬橇で、西へ向かっておりました。上の兄さんは、年度末まで学校に通うために、とりあえずニコラエフスクに残っていたのだそうです。
 エラは「ニコラエフスクの破壊」米訳者前文で「当時、大多数のロシア人もそうであったが、社会民主主義が、皇帝による専制政治に取って換わって当然だ、と考えていた。その後に続く恐怖のことなど、誰一人として予測していなかった」と言っています。

 ましてリューリ一族は、ユダヤ人です。
 実際、1917年4月、ケレンスキーの臨時政府は、ユダヤ人にロシア人と平等な権利を与えました。そのことを世界のユダヤ人は決して忘れず、長年にわたりましたケレンスキーの亡命生活は、ユダヤ人たちにささえられていたといいます。(「レーニンの秘密〈上〉」p226)

 エラの父親、メイエル・リューリは、仕事のために毎冬何ヶ月かをペトログラードで過ごしていまして、1917年には、一家でペトログラードに引っ越そうと計画していました。革命は、自分たちにとりいいことなのだと、最初は解釈していたわけです。

 しかし、エラたちがハバロフスクからシベリア鉄道でチタへ行き、ペトログラードからやって来ました父親と落ち合いましたところ、父親は、政治的動乱が激しいので、今のところペトログラードへの引っ越しはやめた方がいい、と判断し、チタで夏を過ごしました。その後、事務所がありましたウラジオストック行き、1919年の遅くまで暮らして、どうやら尼港事件の直前に、ボルシェビキ政権の支配が確立してしまいそうなロシアに見切りをつけ、日本へ移住することとなったようです。

 次回、いよいよ尼港事件です。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.4

2012年11月06日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3の続きです。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2で書きました、キーラ・ナイトレイ主演のテレビドラマ版「ドクトル・ジバゴ」。
 見ました。

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 デイヴィッド・リーン監督の1965年版「ドクトル・ジバゴ」のリメイク、というだけに、大方の筋立ては似ています。
 その「大方の筋立て」を簡単に述べますと。

 主人公のユーリ・ジバゴは子供の頃に両親を亡くし、両親の知人だったモスクワの医学者に引き取られ、その家の一人娘のトーニャと兄妹のように育てられます。長じて、医学を学びながら詩人となり、自然な成り行きでトーニャと結婚。
 同じモスクワで、洋裁店を経営する未亡人の一人娘として育ったラーラは、母親の愛人で、腕利きの弁護士コマロフスキーに反発しながらも惹かれ、ついに誘惑に乗り、それを知った母親は自殺未遂。
 ラーラは一方で、革命家を志す貧しい学生のパーシャと愛を育んでいて、コマロフスキーへの思いを断ち切るために、パーティの席で発砲する、という事件を引き起こします。

 映画でパーシャが参加したことになっています流血の抗議行動は、原作小説でははっきり、ペテルブルグで血の日曜日事件が起こった1905年の末に、モスクワで起こったプレスニャ蜂起、と書かれています。そして、ラーラの母親の自殺未遂、発砲事件には、原作ではかなりの間がありますし、ユーリ・ジバゴはラーラを目撃して印象にとどめはしますものの、直接のかかわりは持ちません。

 しかしまあ、映像の場合、それでは緊迫感がなくなる、ということなのでしょう。
 映画とドラマでは、事件はたてつづけに起こり、ユーリ・ジバゴは、育て親の博士の供で、自殺未遂をしたラーラの母親の手当をし、ラーラおよびコマロフスキーと言葉をかわしますし、狙撃事件でも、狙ったラーラと狙われたコマロフスキーと、双方とかかわり、すでにこの時点で、お互いが相手に魅せられるものを感じます。

 ユーリ・ジバゴがトーニャと結婚して間もなく、第一次世界大戦が始まり、ユーリは軍医となって従軍します。
 ラーラはパーシャと結婚し、モスクワを出てウラルの町にいましたが、従軍して行方不明となったパーシャをさがすため、志願して看護婦となり、戦場に向かいました。
 ユーリとラーラは戦場で再会し、いっしょに働くこととなりますが、二人が戦場にいる間に革命が起こり、それでも戦争は続いていますので、そのまま二人は後方の病院で傷病者のめんどうをみて、たがいに強く惹かれ合うようになります。

 結局、戦争が終わるまで二人は病院にいたように描かれていますので、1917年の10月革命でボルシェヴィキが政権を握り、翌1918年の3月、ブレスト=リトフスク条約でドイツとの講和がなるまで、ユーリがモスクワに帰ることはなかったことになるんでしょうか。

 ボルシェヴィキが支配するモスクワは、殺伐としていました。
 妻トーニャが待っていた屋敷は、接収され、多数の赤の他人が合法的に入り込み、元家主トーニャ一家の方が、肩身の狭い間借り人状態。ユーリは新しい秩序になじめず、しかもモスクワは極度の食糧、燃料不足です。
 一家はモスクワを出て、ウラル地方ベリキノにありますトーニャの実家の別荘へ行く決心をします。

 ユーリ一家がウラル行きの列車に乗り込んだのは、どうやら、1918年の春から初夏、という設定のようです。といいますのも名作映画の方において、なのですが、ベリキノに着いてしばらくして「ニコライ2世一家が銃殺された」という記事が新聞に出ていたことになっていまして、これは1918年の7月の事件だからです。
 
 1918年は、ロシア内戦の最中ですから、まず、ウラルへ向かう列車自体が、家畜運搬車かアウシュビッツ行きの囚人列車かという感じの殺伐としたものとして描かれています。ちょっとやりすぎかなあ、という気がしないでもないのですけれども。
 鉄道沿線がこれまた、めちゃくちゃな戦乱状態。家が焼かれ、処刑されたらしい死体がぶらさがっていたりします。

 後年政治家になりました芦田均が、実はペトログラードの日本大使館に外交官補として赴任していてロシア革命を目撃し、後に「革命前夜のロシア」 (1950年)という回想録を書いています。
 この回想録の最後が、1918年(大正7年)の1月、真冬に、ペトログラードを離れて、シベリア鉄道から満州鉄道に乗り継いで帰国する話なのですが、確かに、シベリア鉄道は復員する兵士の数の多さに機関車が足らず、普通列車は何日も待たされて混雑をきたしていて、芦田均たちは外交官として特別仕立ての急行列車に乗っていましたから、恨まれて、途中で兵隊たちに力づくで機関車を奪われる、という大騒動もあったそうですし、満州へ入ったとたん、食料が豊富になり、襲撃されます不安も消え、だれよりも同乗していたロシア人たちが大喜びした、と書いてあります。
 しかしバイカル湖へ出るまで、ですから、ウラル山脈へ至るあたり、と思われるのですが、鶏肉やスープを売る駅の売店の描写もあり、3、4ヶ月後のこととはいえ、映画やドラマが描くほどひどい、家畜列車状態だったのかな、と疑問です。

 (追記) ひーっ! たったの3、4ヶ月で、状況は変わっていたみたいです。梶川伸一氏の「飢餓の革命―ロシア10月革命と農民」(P98-99)によりますと、春になるにつれ飢餓は深刻になり、ウラル地方ペルミ鉄道を経由してのシベリアへの移住民の登録者数は、芦田均が帰国しました1918年1月にはたったの2人、2月に43人、3月に4194人でしたが、4月に22687人、5月にも25696人と急激し、ペルミ鉄道からは、「鉄道での食糧不足のために14車両に閉じ込められている移住民と乗客の状態はきわめてひどい。飢えた母親は自分の子供が列車で陥っている運命を恐れて、一粒の穀物を求めて隣接の村をさまよっている」と報じられているんだそうです。い、いや、さすがデビット・リーン監督。よく調べていたんですねえ。

 ここらへんからちょっと、映画は寓話じみてまいりまして、戦場で行方不明になったラーラの夫・パーシャが実は生きていて、ストレルニコフと名乗り、赤軍の冷酷な指揮官となって、列車を根城にウラルで恐怖政治を行っています。
 ラーラは、それを知らないままベリキノの近くの町ユリアチン(架空の地名ですがペルミがモデルだといわれています。ニコライ二世一家が惨殺されたエカテリンブルクの近くで、シベリアへ向かいます入り口あたりです)に住んでいます。
 ユーリ一家はベリキノに到着しますが、母屋は封鎖されていまして、付属した門番小屋だかに落ち着きます。
 ユリアチンを訪れたユーリはラーラに再会し、ついに関係を持ってしまいます。

 内戦は続いていまして、ユーリはパルチザン部隊に捕まり、医師としての従軍を強制されます。
 ユーリが行方不明になった後のベリキノで、妻のトーニャは出産します。トーニャはユリアチンのラーラに夫への手紙を託して、父親と子供とともに、映画ではフランスへ亡命、ドラマではモスクワへ帰ることとなりました。

 ユーリはようやく脱走し、ラーラのもとへたどり着きますが、そこへ現れたのが、ラーラの昔の愛人コマロフスキー。
 ラーラの夫だったストレルニコフ(パーシャ)が失脚し、ラーラの身にも危険がおよぶと、コマロフスキーは二人に告げ、「極東のウラジオストクに地位を約束され、これから行くので、同行しないか?」と誘います。

 いったんそれを断った二人は、危険をさけるためにベリキノに向かいました。
 ここで二人は、ベリキノの母屋の方の封鎖を破って入るのですが、これが映画の方では、ロシア独特のたまねぎドームの館ですし、おとぎ話の氷の宮殿のようで、実に印象的なんです。
 テレビドラマでは、なんでもない、ごく普通の広い屋敷でしかないのですけれども。
 
 Doctor Zhivago Trailer 1965


Zhivago Trailer


 上は、1965年の映画、下が2002年のテレビドラマの予告編です。
 
 映画とテレビドラマの筋立てには、多少のちがいがあるのですが、どちらが話がわかりやすいかといいますと、テレビドラマの方です。ただ、スケールのちがいは仕方がないとしましても、2002年、ソ連崩壊後に制作されているから、なんでしょうか。テレビドラマの方では、飢餓から人肉も食べたといいますロシア内戦期の身も蓋もない現実が、むきだしに感じられる気がします。

 そうなんです。冷戦期に西側で作られた映画なんですが、デビット・リーン監督は、革命のロマンといいますか、世界中の人々がロシア革命に託しましたロマン、そしてそのロマンが裏切られたせつなさと、それでも残る希望を、描いている気がします。

「ドクトル・ジバゴ」 (新潮文庫)
江川 卓,ボリス・パステルナーク,Boris Leonidovich Pasternak
新潮社


 原作は、実はテレビドラマや映画よりも、はるかに寓話じみています。
 その原作で、人々が革命に託したロマンを具現しますのは、ユーリ・ジバゴの異母弟、エフグラフ・ジバゴです。
 エフグラフは、ユーリの父親が放浪の中、シベリア西端のオムスクで、キルギス系貴族の女性を愛人にしてつくった子供です。
 ボルシェヴィキの指揮官となり、革命によって有力者になりますが、一方で異母兄ユーリの詩をこよなく愛し、影のようにユーリの窮地に現れて、救いの手を差し伸べます。

 映画の方は、物語の要となる人物としてエフグラフ(字幕は義兄、異母兄としていますが異母弟です)を描いていますが、テレビドラマの方には、まったく出てきません。ソ連が崩壊して、革命のロマンの化身であるエフグラフ・ジバゴは、消えちゃったんでしょうね。最近ロシアで作られたテレビ・ドラマにも、エフグラフは出てこないんだそうです。

 1917年のロシア革命がなぜ起こったかといいますと、首都ペトログラード(ペテルブルグ)を中心とします都市部の極端な食料、燃料不足です。

 第一次世界大戦が始まって以来、1500万人の農民が、兵士として戦線に送られていました。
 穀物生産量は激減する一方、この膨大な数の兵士を食べさせなければなりません。
 そして戦時増産のために、ペトログラードには40万近い労働者が流れ込み、その数は270万人に膨れあがっていました。

 通常でも満足に運営されていたとはいえない鉄道が、兵員、兵站輸送で麻痺状態。
 そこへもってきまして、ペトログラードの工業地帯にバルト海から入っていました安い輸入炭が、ドイツによります封鎖で入らなくなり、ウクライナから石炭を汽車輸送しなければならなくなりました。

 鉄道酷使の結果、開戦時にロシアが有した機関車2万台あまりが、1917年の初めには、半分以下の9千台そこそこまで減りました。
 ロシア全土で工業生産が止まり、製粉工場も稼働しません。
 ペトログラードへの輸送も滞り、物価は4、5倍にまではねがります。

 とどめは、1917年2月の寒波でした。
 1200台の機関車のボイラーが氷結して爆発し、通行止めの鉄道線路が続出。5万7千台の車両が立ち往生し、ペトログラードの小麦粉、石炭、木材は、姿を消してしまったのです。

 ロシアではユリウス暦を使っていたために、通常の西暦とは13日のずれがあります。
 1917年3月8日(ロシアでは2月末)、零下39度の厳寒のペトログラードで、パンの配給を待つ長い行列の人々が、ついに爆発しました。暴徒と化した人々は、パン屋に勝手に押し入ってパンを手にしました。

 ペトログラードの労働者たちは、石炭不足で大方の工場が閉鎖され、職がない状態。
 これらの労働者と、家庭を預かる主婦たちによります、職よこせ、パンよこせデモがはじまりましたが、この日はまだ、平和的なものでした。
 翌9日、多くの人々が市内になだれこみ、食料品店の略奪がくりひろげられました。
 とりしまるはずのコサック部隊が、とりしまろうとはしませんで、これを見逃します。

 そして10日、労働者たちは大規模なストライキをくりひろげ、ペトログラードの交通機関は、すべて停止します。
 デモ行進のスローガンは、次第に政治的なものとなり、「ドイツ女を倒せ! 内閣を倒せ! 戦争をやめろ!」と、人々は叫びました。

 ドイツ女とは、アレクサンドラ皇后のことです。
 ドイツ諸国の一つヘッセン=ダルムシュタットの公女だったために、第一次世界大戦がはじまり、ドイツが敵国となりますと、皇后が怪僧ラスプーチンに傾倒していたことも手伝い、格好の憎まれ役に仕立て上げられてしまいます。
 皇后の母親はロシアと同じ連合国側のイギリスのヴィクトリア女王の娘で、この母親が早くに死んで、皇后はイギリスの祖母のもとで過ごした期間が長く、ドイツ語よりも英語の方によりなじんでいたにもかかわらず、です。

 「敵国出身の皇后を倒せ」と「戦争をやめろ」が同時に叫ばれるとは、矛盾もいいところなんですけれども、多くの人々が飢えて、凍え死にしそうになり、工業生産もとまってしまうロシアの惨状は、第一次世界大戦が原因なのですから、戦争が終わらないことには、どうにもなりようがなかったでしょう。

 結局、この2月革命が立憲君主制でとどまらず、即ニコライ二世の退位につながりました原因としましては、アレクセイ皇太子が血友病で、そのためにアレクサンドラ皇后がラスプーチンに傾倒して、皇族や貴族たちからさえ反感を持って見られていたことがあげられたりすることもありますが、どうなのでしょうか。
 人々の飢えは戦争が原因ですし、第一次世界大戦が国がつぶれるような総力戦になろうとは、結局、開戦前には、ほとんどの人々にとって想定外のことだったんです。



 1916年に、ペトログラード郊外の離宮ツァールスコエ・セローで撮られました写真です。
 右がニコライ2世、左がアレクサンドラ皇后、中央がアレクセイ皇太子です。

 首都ペトログラード市内には、常時20万近い精鋭部隊が配置されていました。平時、その精鋭部隊の指揮官は主に貴族出身の将校で、兵卒は、ロシア各地から選抜されてきていました。
 ところが開戦以来、ロシア陸軍の正規軍精鋭の大多数は、対独戦にかり出されて戦死し、生き残った人々も前線に貼りつけられています。
 ペトログラード守備隊も例外ではなく、中身は予備軍、後備軍に入れ替わっていました。

 陸軍幼年学校の貴族出身者の割合も、膨大な戦死者補充のために数が必要で、激減していました。歩兵学校では40パーセントから30パーセントに減った程度ですが、騎兵学校では95パーセントから35パーセントにまで低下していました。
 伝統的に皇帝に忠実だったコサック兵も、前線での戦死がつのり、極貧地帯のクバンやドン地方出身で、一番下積みの兵が増えていました。
 そして、ペトログラード守備軍の兵卒から、地方の農民は減っていて、もともとペトログラード在住の労働者で、それもストライキに参加した罰として強制的に入隊させられた者の数が、急増していました。

 ニコライ2世は前線にいまして、首都ペトログラード騒乱の報告を受けます。
 そして、あまりよく状況がわからないままに、気軽に鎮圧を命じるのですが、おかげで3月11日(日曜日)には、デモ隊側200人に死者が出ます。しかし、発砲を拒否した部隊もありまして、首都の行政機能は麻痺状態。

 3月12日、ペトログラードの守備隊の一部は、兵卒が帝政に忠実な士官を殺したり追放したりの反乱を起こし、しかもそういう部隊が雪だるま式に増えて、次々に革命を支持する側にまわりました。軍隊はデモ隊に協力し、兵器庫、内務省、軍司令部ビル、保安警察(オフラナー)司令部、警察署が襲われ、刑務所が開放されて、囚人が全員解放されました。
 当初、革命側にまわった兵士は2万5千でしたけれども、夕方には6万6千にふくれあがります。

 ラ・マルセイエーズを歌います労働者と兵士の大集団が国会を占拠し、内閣は倒壊します。
 この守備隊の反乱は、自然発生的に起こったことでして、全体の指導者がおらず、統制がとれていたわけではありません。そこで、社会革命党員で国会議員でしたケレンスキーが中心となり、この日のうちに、第二の国会、労働者と兵士の代表者会議でありますソビエトを成立させます。

 芦田均の「革命前夜のロシア」より、以下、3月12日の状況について、引用です。

 この朝は激しい銃声と騒擾とをもって明けた。「近衛の一部が革命軍に荷担した」と道行く人が、口から口へと伝えた。リチェネーの砲兵工廠へは、革命派の兵隊が午前十時頃から押寄せて、之を鎮圧に来たセメョーノフスキー聯隊や警察官と銃火を交へている。赤旗を立て銃を構へた兵卒を満載した自動車が縦横に飛び違ふ。かしこの町角、ここの橋で、官革両軍が火花を散らす。某将軍が死んだ、何聯隊が蜂起したという様な流言飛語が間断なく伝はる。しかし正確なことは誰一人知る者もない。電話も通じなくなつた。ただ混乱と砲火と物狂ほしい半日がくれた。午前十一時半頃日本大使館に程近いリチュネー通の砲兵工廠で高田商会の牧瀬氏が銃弾に当たって死んだ。「遺体を引き取ることもできない」と、同僚の関根君が大使館へ飛び込んで来た。軍需品の注文の件で今朝早く牧瀬、関根の両君が砲兵工廠へ行って交渉中に革命軍が乗込んで来て、小銃や弾薬を掠奪し、発砲し始めた。その時に牧瀬君がやられたのである。

 首都の騒乱は続き、3月15日には、国会の求めに応じてニコライ2世が退位し、あっけなく帝政は終わりを告げます。
 成立した臨時政府の指導者は、当初は立憲民主党(カデット)員などもいて、穏健で、自由主義的な改革で落ち着くのではないか、とも見られておりました。
 
 なにしろ、大戦の最中です。
 イギリス、フランス、イタリアの連合国にとりましては、ともかく、これまで通りロシアが東部戦線で戦ってくれることこそが、切なる望みです。
 ロシア臨時政府首脳は、帝政期の外交をそのまま引き継ぐと表明し、しかもちょうどこの1917年3月、アメリカが連合国側で参戦する見透しが強くなっていまして、一応、これまで通りに戦いを続ける方針ではいました。

 しかし、革命は軍規の崩壊によって起こりました。
 国会と二重構造になっていますソビエトを数で支配していますのは、上官を追放したり、殺したりして蜂起し、首都を制圧した兵士たちの集団であり、彼らは武装したまま、首都に居座りを決め込み、臨時政府はそれを、どうにもできないでいました。
 物資の欠乏と輸送の混乱は、革命以前にも増してひどいものとなり、現地にいた外国人たちは、果たしてロシアに戦争を続ける能力があるのかどうか、悲観的になりました。

 しかし、芦田均によれば、「ロシアの内政に通じない連合国の大衆は、革命によって親独的な単独講和派が潰え、戦争の遂行が有利になると考えた。それが連合国の新聞に現れた論調であった」ということでして、ロシア革命に対します連合国、特にアメリカの誤解は、後々までもはなはだしいものがあったように思われます。

 そういうわけでして、3月、アメリカは真っ先に、単独で臨時政府を承認し、次いで、イギリス、フランス、イタリアの三国が、共同歩調をとり、3月24日に承認しました。連合国の一員であります日本も、少し遅れましたものの、それに同調します。

 4月6日、アメリカはドイツに宣戦布告し、いよいよ参戦したのですが、その直前の4月4日ペトログラード着の列車で、ドイツはとんでもないプレゼントを、ロシアに送りつけていました。
 ウラジーミル・イリイチ・レーニンです!

 二月革命直後、ペトログラードのソビエトの中心にいましたのは、社会革命党とメンシェヴィキで、立憲民主党など、自由主義者との妥協も許容する柔軟性を持っていました。
 中立国スイスのチューリヒに亡命していましたボリシェヴィキの指導者レーニンにとりまして、これは気にくわないことでして、帰国を画策します。

 実はドイツ統帥部は、ボリシェヴィキを監視し、同時にひそかに資金援助をしていました。
 このときレーニンが、政権を握った場合の単独講和まで、はっきりドイツに約束していたのかどうかはわからないのですが、少なくともドイツ統帥部は、それによってロシアの交戦意欲は減退するだろうと踏んで、特別列車を仕立て、レーニンを帰国させました。
 そして1年足らずで、ボリシェヴィキは政権をにぎり、ドイツの思惑通り、単独講和が成立することとなります。

 レーニンの帰国で、、ボリシェヴィキはソビエトを根城に勢いを増しまして、となってきますと、国会に立脚しました臨時政府とソビエトの間で緊張が増し、臨時政府の穏健派は力を失います。
 結局、当面のところは、社会革命党の議員で、ソヴィエトの副議長ともなっていましたケレンスキーが臨時政府の中心となりました。

 ケレンスキーは、帝政は否定していましたけれども、いわば社会民主主義者でして、独裁政権の樹立をめざしましたレーニンやトロツキーのボルシェヴィキとは、一線を画していましたし、連合国との友好関係を保つためにも、外交の継続性は維持し、戦争を続けるしかない、としておりました。

 以下、再び、芦田均によります。
 ケレンスキーは前線兵卒代表会議とペトログラードのソビエトが攻勢を決議したことに力を得て、6月に入ってから攻勢作戦の準備を始めた。これに対してボリシェビキはあらゆる手段を用いて、作戦の実行を妨げた。その方法は陸海両軍へ手先を派遣して、将校への反抗、ドイツ軍との交歓、戦争反対の宣伝に務め、後方においては交通、生産の部門にサボタージュを示唆することであった。
 ボリシェビキの方針は故意か偶然かドイツの意図するところと全く符合したため、世間では、莫大な運動資金がドイツから出ていると談り伝えた。


 次回、再び、極東ニコラエフスクのエラ・リューリに話をもどします。
 第一次世界大戦の開戦時、5歳でしたエラは、革命が起こりました1917年、8歳になっていました。

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.3

2012年10月28日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2の続きです。

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1で書きましたが、エラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)の父、メイエル・リューリが、ニコラエフスクにおきましてリューリ兄弟商会を設立しましたのは、1901年(明治34年)、日露開戦の3年ほど前のことでした。
 
 メイエルは、やはりニコラエフスクの事業家(製材、毛皮、漁業)、ユダ・ルビンシュテインの妹、ライーサと結婚していまして、日露戦争開戦前年、1903年(明治36年)に長男アレクサンドル、日露戦争後の1906年(明治39年)に次男ロベルト、そして1909年(明治42年)に初めての女の子、エラが生まれました。

 ここまでは、主に「白系ロシア人と日本文化」の「漁業家リューリ一族」を参考にしています。

白系ロシア人と日本文化
沢田 和彦
成文社


 ここからは主に「ニコラエフスクの破壊」、米訳者(エラ)前文から。

 1914年(大正3年)、エラが5歳になった年、第一次世界大戦が始まりますが、この年、アムール河の下流域は、ウラジオストクを中心とする沿海州から分離され、サハリン州となり、ニコラエフスクはその州都になります。
 永住人口(夏期だけではなく冬もニコラエフスクで過ごす人口)は12000人。
 主な産業は、郊外の金鉱山、鮭鱒を中心とする漁業、林業、毛皮取り引きなどで、夏の出稼ぎ期には、人口は倍以上にふくれあがりました。百年後の現在、ニコラエフスク・ナ・アムーレの人口は3万人をきるそうですから、夏に限ればほとんど変わっていませんで、当時のシベリアにおきましては、かなりの都市でした。

 尼港事件の理解を助ける地図

 上の地図で、赤い炎の印がニコラエフスクです。
 間宮海峡を隔てて北樺太と向かい合っていますから、11月から5月までの半年以上、港が氷に閉ざされるほどに気候は寒冷です。とはいうものの、緯度をいうならば、アイルランドのダブリンやドイツのベルリンとあまりかわりませんで、ペテルブルクはもちろん、モスクワよりも南になります。

 幕末の樺太問題につきましては、明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 前編中編後編上後編下と書きましたが、結局、黒田清隆がイニシャティブをとりましたことから、日本は、明治8年(1875年)、ロシアと千島・樺太交換条約を結び、南樺太を放棄します。
 幕末には、ずっと幕府が、南樺太の保持に腐心してきていましたから、これは、明治新政府の敗北といってもいい条約だったのですが、日露戦争の勝利により、ようやく日本は、南樺太を取り返します。
 つまり、ですね。この当時、南樺太は日本領でしたから、ニコラエフスクは、日本にとりまして、近隣といっていいロシアの都市でした。

 ニコラエフスクの学校は、無料の市立学校が2校と工業学校。そして高等教育を望むコースとしまして、女子には7年制のギムナジウム(古典科目中心)、男子にはやはり7年制の実業学校(科学や現代語中心)があり、この2校に入るには、8、9歳で入学試験を受けなければなりませんでしたので、子供たちは、家庭教師についたり、幼稚園に通ったりして、受験に備えました。

 新聞は2紙。映画館が2軒。一軒には、ステージもあって、劇場公演が行われていました。
 アムール河を見渡せる美しい公園があり、上手く運営されている公民館、図書館もありました。
 当時、ロシアの遠隔地にはほとんどなかった電灯や電話もありましたが、上下水道はなく、一部の富裕層のみが、自家用水道と屋内水洗トイレを持っていました。

 公共交通機関はありませんでしたが、辻馬車があり、大多数の人は馬を持っていました。1919年(大正8年)には、自家用車を持つ家も、何軒かはあったようです。

 チューリン商会、クンスト・アーリベルト商会、ノーベリ商会という3軒の大きな百貨店があり、ロシア正教の洗礼を受けました日本人、ピョートル・ニコラエビッチ・シマダ(島田元太郎のことです。エラは、島田はロシアに帰化していたといっているのですが、ちょっとその点は確認できていません)が経営する日本商店もありました。他は小さな商店で、そのほとんどは中国人が経営していましたが、グルジア人の店も、2、3軒あったといいます。

  6年後の1920年(大正9年)といいますから、尼港事件の起こった年ですが、ニコラエフスクの人口は16000人に増えていました。町で一番大きな企業は、イギリス人経営のオルスク・ゴールドフィールズ有限会社です。

  ちょうど、事件前年の1919年10月、人類学者の鳥居龍蔵が、日本軍が駐留しているニコラエフスクを訪れ、滞在しました。
 近デジで、鳥居龍蔵著「人類学及人種学上より見たる北東亜細亜. 西伯利,北満,樺太」が公開されていまして、見ることができるのですが、アルベルト商館(クンスト・アーリベルト商会)などの百貨店は、大戦開戦以来、欧州からの輸出入がほとんど止まった影響を受けて商品が入荷せず、島田商会の方が日本からの輸入が順調で、繁盛していた、と言います。

 鳥居龍蔵は、日本軍守備隊長の紹介で島田元太郎の家に泊まり、半年後には尼港事件で殉難することになります石田虎松副領事にすきやきをごちそうになっています。鳥居氏いわく、「副領事は芸術趣味の極く深い人であって、寧ろ外交官といふよりも文学者ともいふべき面影があった」そうです。副領事は絵を描き、写真が上手く、ロシア文学に造詣が深く、鳥居にモスクワ芸術座の話を語って聞かせました。

 日本人では、島田元太郎は別格として、他に米、木材、雑貨、菓子パン製造など、かなり大きな商店経営者が数人いました他、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職など、個人経営の職人が多く、また医師と歯科医もおりました。
 1918年(大正7年)1月の調査で、日本人は500人ほどで、そのうちのほぼ半数が女性。多数をしめます既婚女性の他に、娼妓など水商売の女性が90人、家事労働者(乳母、家政婦、女中など)が60人ほどいます。

 女性の水商売は、1895年(明治28年)、日本人の漁業関係者が多く進出していました時代に、天草の二組の夫婦が、近在の若い女性を連れて行ってはじめたもののようです。
 なお、この当時の沿海州には朝鮮人が多く暮らしておりましたが、ロシア正教に入信し帰化してロシア国籍になっていません場合は、すべて日本国籍です。そうした朝鮮人は、およそ1000人前後いたようですが、郊外で農業を営むか、あるいは中国人や日本人の商店などに雇われて働いていました。

 東北芸術工科大学東北文化研究センターのアーカイブスに、仙台の写真館が作ったらしい「尼港在住朝鮮ノ芸妓」という絵葉書が所蔵されていますが、娼妓には、朝鮮人もかなりいたものと思われます。

 尼港事件におきまして、虐殺を行いました赤軍パルチザンは総数4000名ほど。そのうちの1000名、ですから、およそ4人に1人が朝鮮人だったわけですけれども、原暉之氏によれば、ニコラエフスク市内で編成されました部隊は、ワシリー朴率います100名ほど。残り900名は外部から来たもので、朴イリアが率いていました。
 ワシリー朴にしろ朴イリアにしろ、ロシア正教の洗礼名を持っているわけですから、帰化してロシア国籍を得ていました。ワシリー朴は士官学校を出ていて、大戦に従軍していた、というような話も伝わっておりますし。

 パルチザンに加わったサハリン州の朝鮮人は、原暉之氏の言うように、大方、鉱山労働者ではなかったかと思われ、おそらく、家族がいない単身者だったのでしょう。
 ニコラエフスク近郊の農家の朝鮮人がどうだったかと言いますと、どうやら、村によって対応が別れたようなのですね。赤軍パルチザンは強制動員をかけていましたので、帰化していた場合などは、動員に応じなければ命が危ない、などということもあったかと思われます。

 尼港事件の後に、廃墟となりましたニコラエフスクに入った日本軍が、逃げたパルチザンの行方を追い、捜査をしております最中、近在の朝鮮人の家の女の子が「生活に困っているので雇ってください」と言ってきたので、その子の家を訪れたところ、なんと事件で戦死した石川少佐の遺体から盗んだ金時計だかが見つかった、などという話もあります。
 
 井竿富雄氏の『尼港事件・オホーツク事件損害に対する再救恤、一九二六年』によりますと、尼港事件でパルチザンの被害にあった、と訴える日本国籍の朝鮮人も多数いたそうですし、実際、虐殺されるところだったロシア人一家が、近郊の朝鮮人の農家にかくまわれて助かったりもしています。

 日本女性の家事労働者につきましては、沿海州のロシア人(とはいうものの、ユダヤ系だったりポーランド系だったりしますが)富裕層において、几帳面で温厚だと評判でした。
 日本の開国以来、極東ロシアには、単身の男性が圧倒的に多く、娼妓とともに家事労働に従う女性も必要とされたわけでして、ロシア正教に改宗して帰化しないかぎり、正式な結婚はできませんから、いわゆる内縁の妻状態の日本女性も多かったようです。家政婦、女中につきましては、もと娼妓であったという場合も、けっこうあったかもしれません。

 しかし、乳母となるとちょっと話がちがってきます。結婚して極東ロシアに渡り、未亡人になった女性などが多かったようです。
 エラのいとこたち(メイエルの弟アブラハムの子供たち)の乳母は日本人でして、あるいは、エラにも日本人の乳母がいたかもしれません。
 リューリ家と似ているのですが、政治犯としてシベリア徒刑となり、ウラジオストク近郊で鹿牧場を経営して富豪になりましたポーランド貴族のヤンコフスキー家でも、日本人の乳母を雇っていました。
 
 当時のニコラエフスクは、おそらく現在のニコラエフスクよりも、はるかに国際的です。
 ロシア正教の教会が二つ、ユダヤ教会が一つ、回教寺院が一つあったと言いますから、ロシア文化が基調ではありましても、様々な文化が共存していたわけです。

 ニコラエフスクにおいて、「子供にとっては、長い冬は楽しみな季節で、私の記憶も冬のものが多い」とエラは回想します。
 夏の楽しみは、ピクニックや定期的にやってくる移動サーカスや、たまに来る劇団でしたが、冬はアイススケートや板橇、犬橇でした。スケート場や橇のすべり台が、即席で作られました。公園には、公共のすべり台が設営され、それはアムール河の岸まで続いていて、最後は氷結した河面に出られたそうです。

 冬は、ロシア正教会の行事が続く季節でした。
 クリスマスには、巨大なクリスマスツリーが飾りつけられ、仮装パーティーが開かれました。
 年が明けて2月には、謝肉祭(マースレニツァ)。ロシアでは、仮装や橇遊びを楽しむ習慣で、ごちそうは、キャビアをのせたソバ粉のパンケーキでした。



 上は、謝肉祭に橇遊びをするロシアの子供たちです。場所はまったくちがいますが、1910年の絵ですので、参考にはなります。

 冬の終わりを告げます最後の祝祭日が、イースター(ロシアではパスハ)、復活祭です。イースターエッグを贈ることが知られていますが、ロシアでは、パスハと呼ばれるお菓子や、クリーチというパン菓子を作って祝います。




 上がパスハ、下がクリーチとイースターエッグです。

 エラの家はユダヤ教でしたので、聖書の出エジプト記にちなんだ過ぎ超しの祭を、3月から4月にかけて祝います。この期間はイースト入りのパンは食べない、など、いろいろと食べ物に制限があるのですが、エラは、過ぎ超しの祭がイースターの前に終わって、ロシアの伝統料理パスハやクリーチが食べられることが嬉しかった、と言っています。
 ユダヤ教徒ではありましても、あまり教条的ではなく、ロシア正教の祝日も祝っていたのかもしれません。

 1993年(平成5年)、80を超えて、エラはこの「ニコラエフスクの破壊」米訳者前文を書いています。
 「白系ロシア人と日本文化」によりますと、 「エラはソ連を3度訪れたが、ニコラエフスクに行けないことを残念がっていた」ということなのですが、米訳者前文を見ますと、おそらくはソ連崩壊の後、つまり80歳を超えてからだと思うのですが、生まれ故郷の土を踏むことができたようです。

 冒頭に書きましたように、1914年、エラ5歳の年に、第一次世界大戦が始まります。
 第一次革命といわれます血の日曜日事件の年の騒乱から、9年の年月が流れていました。
 
ロシア革命1900-1927 (ヨーロッパ史入門)
ロバート・サーヴィス
岩波書店

 
 読みやすいロシア革命の概説書をさがしていたのですが、オックスフォード大学教授ロバート・サーヴィス著の「ロシア革命1900-1927 (ヨーロッパ史入門)」は、当時のロシアが置かれました状況も的確に解説されていて、かなり満足のいくものです。

 第一次革命の後、1906年にロシア首相となりましたピョートル・ストルイピンは、過激な革命派を弾圧する一方で、言論、出版、結社などの自由を拡大し、ゼムストヴォと呼ばれます地方議会を強化し、農村改革、労働者の生活改善、ユダヤ人の権利拡大など、自由主義的な改革を行いました。ソ連崩壊後のロシアにおきまして、彼の改革は評価されるようになってまいりましたが、彼は1911年に暗殺され、改革は頓挫します。

 とはいいますものの、1905年以降、あきらかにロシアは変わってきておりましたし、第一次世界大戦にロシアが参戦し、敗退することがなければ、果たして史上初の共産主義革命は、成り立ったのでしょうか。
 参戦にいたる事情やその結果、開戦当初のロシア国内の空気につきましては、ロバート・K. マッシー著「ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇」が、上手く描いてくれています。

ニコライ二世とアレクサンドラ皇后―ロシア最後の皇帝一家の悲劇
ロバート・K. マッシー
時事通信社

 
 社会革命党(エスエル)員で、2月革命後のロシア臨時政府指導者となったケレンスキーは、「対日戦争は王朝間の戦争でありまた植民地戦争であったが、1914年の対独戦争では、国民はこれが自分自身の戦争、ロシアの命運を左右すると直ぐに悟ったのである」と記し、さらに「宣戦の布告と同時に、革命運動は跡形もなくなくなった。国会のボルシェヴィキ議員ですら、祖国防衛に協力するのはプロレタリアートの義務であると、しぶしぶながらではあったが、承認したのである」と続けています。国会は、政府の軍事予算を、一票の反対もなく通過させました。

 第1次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルグ家)の世継ぎフェルディナント大公がセルビア人に暗殺され、オーストリアがセルビアに宣戦布告したことに端を発します。その5年前、ちょうどニコラエフスクでエラが生まれた年なんですけれども、1909年、ロシアはオーストリアのボスニア併合を認めるかわりに、セルビアの後ろ楯になることを誓約していまして、セルビアを見捨てることは、ロシアにとって、大国としての面子を捨てることでした。

 オーストリアと同盟関係にありましたドイツは、ロシアとオーストリアが開戦すれば、これもまた面子にかけてオーストリアの味方をすることになりますが、ロシアはフランスと同盟していましたので、西のフランス、東のロシアと同時に戦うことになります。1894年に露仏同盟が結ばれたときから、ドイツはそういう事態を予想し、対処プランを立てていました。鉄道網の発達が遅れたロシアは総動員に時間がかかるとみられることから、中立国ベルギーを通過して背後から迅速にフランスを叩き、反転してロシアを討とうというのです。
 しかしベルギーを踏みにじるというこの案は、確実にイギリスの反発を買い、参戦を招く可能性が高いものでした。

 実際、オーストリアの対セルビア宣戦布告に対してロシアが総動員令を発し、ドイツがロシアに宣戦布告して開戦となりますが、ロシアの動員には多大な時間がかかり、それを見たドイツはベルギー侵犯を決断して、イギリスが参戦します。
 緒戦から危機に陥ったフランスは、ロシアの攻撃を急かしに急かし、ロシアは兵力がそろわず、兵站も追いつかないままに攻撃をしかけました。
 結果、ロシアはタンネンベルクの戦いで、9万人が捕虜となり、死傷者数万人にのぼるという大敗北を喫し、以降、3年間で1550万人というものすごい数の兵員をつぎこみ、膨大な死傷者を出して奮闘しながら、劣勢に終始します。
 しかしドイツは、東でロシアの相手をするために西のフランス戦線から兵力をまわさざるをえず、それがためにフランスは、マルヌ会戦でドイツをくいとめ、長期戦に持ち込むことができたわけでもあります。

 いずれにせよ、第1次世界大戦は、未曾有の総力戦となり、交通網も工業力も、すべてにおいて、ドイツ・フランス・イギリスからは格段に劣りましたロシアは、武器弾薬が極度に不足し、鉄道網は麻痺し、大量動員で農村の生産力も落ちて、食料がなくなります。
 ドイツによってバルチック海が、トルコによってダーダネルス海峡と黒海が封鎖され、海上交通も、凍結期間の長い北のアルハンゲリスクと極東のウラジオストク以外は不可能となり、ロシアの輸入は95パーセント、輸出は98パーセントが止まりました。

 しかし開戦当初、ほとんどのロシア人は、戦争は半年で勝って終わる、と思っていましたし、だからこそ、ケレンスキーも記していますように、大方の国民が愛国心に燃えて開戦を歓迎し、ツァーリ(皇帝)を支持していたのです。

 ニコラエフスクは、といえば、もちろん兵員の動員はありましたが、戦場ははるか彼方のヨーロッパでしたし、ごく近くに、連合国側で参戦していて、このときのロシアにとりましては心強い味方の日本があり、太平洋の彼方にはアメリカもひかえていましたから、物資の不足を心配することはなかったでしょう。
 革命に至るまで、エラの子供時代は平和でした。

 続きます。
 

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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.2

2012年10月20日 | 尼港事件とロシア革命

 尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1の続きです。

 メイエルの娘、エラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)は、1909年(明治42年)、日露戦争の5年後にニコラエフスクで生まれました。うちの祖父母と同じくらいの世代です。

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 ロシア革命から内戦の時代を描いた映画で、日本で公開されているものは、あまりないような気がするのですけれども。
 このデイヴィッド・リーン監督の「ドクトル・ジバコ」は、1965年、冷戦の時代に西側で撮られた映画です。従いまして、撮影はスペインやフィンランド、カナダなどで行われました。
 私、数年前にケーブルテレビで見まして、DVDを買ったのですが、ラブストーリーが中心にすえられ、ロシア革命の過程は非常に短縮して描かれている、とは思うのですが、名作といわれるだけのことはあるのではないでしょうか。
 最近、キーラ・ナイトレイ出演リメイク版テレビドラマのDVDが発売されているようでして、内容は置いておいても、撮影はロシアでしょうから、買ってみるつもりでおります。ロシア版テレビドラマもあって、これこそロシア国内ロケまちがいなしでしょう。見たいのですけれども、お値段がちょっと。

 ともかく。
 1965年版の「ドクトル・ジバコ」なのですが、1905年1月9日の血の日曜日事件から1917年の2月革命まで、12年の歳月が流れているとは、ちょっとわかり辛いストーリー展開になっています。

 ロシア革命の幕開け、とも位置づけられる血の日曜日事件は、ロシア帝国の首都ペテルブルクにおきまして、日露戦争の最中に起こっております。
 簡単に言ってしまえば、天安門事件のようなもの、でしょうか。
 血の日曜日事件は、体制をゆるがして12年後の革命につながりますが、天安門事件は体制側がひきしめに成功して、20年を超えた今も強権独裁政権が続いている、という点で、ちがいはするのですけれども

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 ひえーっ! YouTubeで、血の日曜日事件に関する動画をさがしていますうちに、1971年のアメリカ映画「ニコライとアレクサンドラ」に、かなり史実に近い感じで描かれていたのを思い出しました。これ、映画としてはおもしろくなくって、内容を忘れこけていたのですが、史劇ですし、そこそこ当時を思い描ける映像ではあるんですよね。
 えーと、消されなければいいのですが、下の動画が「ニコライとアレクサンドラ」の血の日曜日事件の部分です。曲は映画のものではなく、エヴァネッセンス(Evanescence)の「 All That I'm Living For」。

Bloody Sunday (1905) - Кровавое Воскресенье



 この映画で描かれていますように、軍が労働者のデモ隊に発砲し、大虐殺が起こりました主な舞台は、ペテルブルクの冬宮、現在のエルミタージュ美術館前広場です。
 ロシア帝国政府の公式発表で、死者130人、負傷者299人。誇張された報道に基づき、レーニンが想定した死傷者は4600人。歴史家が述べる妥当な線で、死傷者800人から1000人の間、だそうです。(「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」p150)
 動画の字幕は死者4000人ですから、誇張された数の方をとっておりますね。
 デモ隊の真ん中にいます僧侶は、ガポン神父。デモ隊を組織し、請願行進を主導した人物です。

 以下、主に西島有厚著「ロシア革命前史の研究―血の日曜日事件とガポン組合 (1977年)」を参考にしまして。

 このガポン神父、一応、ロシア正教会の聖職者なのですけれども、通常の僧侶の歩むコースからは大きくはずれた人でした。
 レーニンと同じ年に、ウクライナの豊かな農民の子として生まれ、ロシア正教会の神学校へ進みますが、トルストイ主義(作家トルストイは独自のキリスト教信仰を公言していまして、正教会から破門されました)の影響を受け、社会的で行動的なキリスト教を求めて、既成のロシア正教会には批判的になっていきます。

 ガポンはいったんは正教会の聖職についたものの、結婚問題もあり、挫折して、ペテルブルクで、労働組合といいますか、労働者互助会といいますか、を組織し、労働運動を主導します。
 ガポンの労働者組織の基盤には、警察が治安対策としまして、労働者を体制側に囲い込むために組織していました御用組合があり、保安警察(オフラーナ)からの資金援助を受けていました。しかし、やがて組織の幹部に社会主義者が入りこみ、かならずしも体制よりとばかりもいえないものとなってゆきます。

 とはいいますものの、ガポン神父が企てましたのは、「労働者の保護政策、日露戦争の中止、憲法の制定」などを、皇帝へ請願するために冬宮へ向けて行進しようということでして、しかも体制側は事前に、大規模請願デモになることを知っていました。
 知っていましたから、軍隊を動員し、周辺から行進してくるデモ隊を市の中心部に入れないために、各所に配しておりました。ところが、取り締まる軍と警察の間に連携はなかったようでして、労働者が多数住む地区の警察官は、なにしろ御用組合のデモですから、先頭に立って行進し、軍の銃弾をあびて死んだりもしているんですね。

 結局、数万人を集めたデモ隊が、体制側の予想を大きく超えたということなのでしょうか。
 非暴力のデモでしたけれども、万一の事態のために、ということで、武器の携帯は許可され、銃を携帯する者もあり、一部応戦したりすることもあっったのかもしれません。
 軍は、各所で流血沙汰を起こしながら、結局、冬宮へ向かう群衆を止めることができず、映画「ニコライとアレクサンドラ」で描かれました冬宮前広場の惨劇、となります。

 「ニコライとアレクサンドラ」では、この事件の裏に日露戦争があったことをも的確に描いています。
 実はガボンは、旅順陥落にあわせてこの請願デモを行った、という話もあります(「ロシア革命前史の研究―血の日曜日事件とガポン組合 」p291)。
 事件後、国外へ出たガボンには、ロシアの反政府運動を支援していました明石元次郎との接触があった形跡があり、社会革命党(エスエル)とともに、明石が工作資金を流した事件に関係します。イギリスの貨物船ジョン・グラフトン号で、ロシアの反政府勢力のために武器を密輸しようとしたのです。失敗に終わりはしたのですけれども。(「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」p174)
 ガボンが、事件前から明石工作に関係していた、という証拠はないのですが、いずれにせよ請願には、はっきりと「日露戦争の中止」と謳われていますし、事件が日露戦争と密接な関係をもって起こったことは確かです。

 日露開戦当初、大多数のロシア国民はかつてないまでに愛国心に満ちて、ツァーリ(皇帝)と戦争を支持していました(「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」p103-105)。ロシア国内が戦場になる心配はないと確信されておりましたし、戦争の相手は、大方のロシア国民には縁のない極東の異人種で、簡単に勝利が得られるはずでした。

 ところが、ロシア国民にとりましては、なんともすっきりしません状況のもと、初戦から敗退の報が届き、次第に、挙国一致の熱は冷めていくんですね。
 やがて戦場には、ロシア西部の正規軍から予備役までがかり出され、鉄道は軍事輸送のみに使われて、物価が急上昇し、実質賃金が目減りします。おまけに、開戦の1904年、ロシアの農作物は不作でした(「ロシアはなぜ敗れたか―日露戦争における戦略・戦術の分析」)。
 そうなってきますと、膨大な戦費を費やして、若者が戦場にひっぱられ、なんのために遠い異国の満州で戦っているのか、一般国民には意味が見いだせなくなっていき、一挙に不満が噴き出します。

 日露戦争の遠因に、1891年(明治24年)から始まりましたシベリア鉄道の建設があります。
 露清密約によりまして、満州での大きな権益を得ましたロシアは、東清鉄道を建設してシベリア鉄道ににつなぎます。主にフランスからの投資で進められましたこの事業は、ロシアのシベリア・満州開発に拍車をかけ、戦時の輸送力を飛躍させますことから、日本にとっては大きな脅威となり、またロシアでは、鉄道建設によります工業化効果で、農村人口が都市へ流れ込み、貧しい労働者がスラムを形成するようになります。(「シベリア鉄道―洋の東西を結んだ一世紀」 (ユーラシア・ブックレット)

 以下、主にハリソン・E.ソールズベリー著、後藤洋一訳「黒い夜白い雪 上―ロシア革命 1905ー1917年」によりますが、一方で産業の拡大により、19世紀末のロシアには、サッバ・モロゾフ、サッバ・マンモートフ(Савва Иванович Мамонтов)などの大富豪が生まれておりましたが、ロシア帝国は彼らを、体制側に取り込むことができないでおりました。

 サッバ・モロゾフの祖父は農奴で、自分と家族の自由を買い取った上で、事業の基礎を築き、次の代で繊維、工作機械、製造業などの連合企業体経営で億万長者となり、サッバはそれを受け継ぎました。
 一方、サッバ・マンモートフは父親が徴税代理人で、鉄道事業を手がけて富を築き、息子のサッバがそれを拡張しました。
 そのモロゾフもマンモートフも、ボリシェビキやメンシェビキ、社会革命党など、反政府勢力に莫大な資金援助をして、その活動をささえていたんです。彼らはまた、多数の芸術家たちのパトロンでもあり、マンモートフはモスクワ芸術座の財政を賄ったことで有名です。
 
 新興ブルジョワジーの富は、変革への期待を育み、新しいロシアの文化を大きく花開かせたわけです。チェーホフやゴーリキーの脚本による演劇。リムスキー=コルサコフなどの音楽。ニジンスキーなどのバレエ。

 またこの当時、ベルエポックの華やかなパリとペテルブルクは、豪華寝台車で結ばれ、富裕な人々や芸術家たちは、気軽に行き来してもおりました。
 アメリカのダンサー、イサドラ・ダンカンは、ヨーロッパ公演の一環でロシアを訪れ、血の日曜日事件で虐殺された人々の葬儀を目撃しています。
 そして、血の日曜日事件のよく年からは、ディアギレフを中心として、ロシア美術や音楽、そしてバレエのパリ進出が実現し、世界的に認められることともなりました。

 しかし、文化的には独自のインパクトを持つに至ったそのロシアにおいて、日露戦争開戦時には、国会(ドゥーマ)は開設されておらず、憲法もありませんでした。
 ロシアの文化人たちの多くは、血の日曜日事件に衝撃を受け、ガボンの知り合いだった劇作家のゴーリキーは、事件の夜、「われわれは、こういった種類の体制にはもう堪えられない。すべてのロシア市民に、専制に対抗して団結し、不屈の闘争に立ち上がるようよびかける」といったアピールを執筆しました。

 ペテルブルク音楽院の院長で、政治的には、決して急進的ではなかったリムスキー=コルサコフも、政府批判を行って一時職を追われます。一幕もののオペラ「不死身のカシチェイ」は、血の日曜日事件の犠牲者にささげられ、ロシアの専制政治を風刺している、といわれます。
 事件の翌年から一年をかけて作られ、コルサコフの遺作となりましたオペラ「金鶏」にもまた、専制への抗議の思いが込められていました。

 
リムスキー=コルサコフ:歌劇《コックドール(金鶏)》全曲 パリ・シャトレ座2002年 [DVD]
クリエーター情報なし
コロムビアミュージックエンタテインメント


 このDVDは、2002年、パリ・シャトレ座で上演されました、市川猿之助演出の「金鶏」です。
 「金鶏」は、プーシキンのおとぎ話を原作としていますが、オリジナルといってもいい筋立てでして、ある王国の老いた独裁者ドドン王とその王子たちが、東方の謎の王国シェマハの女王にまどわされ、滅びていきます。女王は「軍事ではなく美の力で征服しにきた」と言いますし、東方といいましても中央アジアのようではあるのですけれども、作られた時期が時期でありますだけに、シュマハの女王は日本を象徴しているのではないか、という見方もあります。

 日露戦争の前後には、川上貞奴や花子(ロダンの彫像のモデルとして知られています)がロシアで公演し、また浮世絵などの日本美術も注目をあびまして、ロシアにもジャポニズムの波は起こっていました。「美の力で征服」も、当時の日本にふさわしかった、といえば、いえなくもありません。
 
Rimsky Korsakov - Hymn to the Sun - Le Coq d'Or



 シェマハの女王のアリア「太陽への讃歌」です。

 1905年、血の日曜日事件の後も、日露戦争におきますロシアの敗退は続き、ロシアをおおいました不穏な空気は消えません。社会革命党によるセルゲイ大公暗殺事件も起こりました。
 夏になって、ロシアにとりましては有利な条件でポーツマス条約が調印され、ようやくのことで、日露戦争は終わります。
 その直前に、ニコライ二世は、さまざまな制限つきではありますが、国会開設を認可する新法を発布しました。

 しかし、事はそれではおさまりませんでした。
 亡命していた革命家たちが帰国し、ペテルブルク、モスクワで、学生たちが大規模なデモをくりひろげ、労働者がゼネストをはじめ、それが地方都市に飛び火します。

 ニコライ二世は、「人はつねに自由を求めて刻苦する。教養ある人は、自由と法、法に規制されたる自由と、彼の権利の安泰を望む」と洞察した改革派のウィッテの献策を入れ、立憲君主制への道を開く詔書を発布します。
 しかし、体制側が示しましたこの妥協は、例えばトルストイや、立憲民主党(カデット)を創設することになるパーベル・ミリュコーフなど、穏健な人々にとりましても、漸進的にすぎまして、納得がいかないものだったのです。

 騒動は収まらず、むしろ激しい反政府暴動となりまして、結局、体制側は、徹底した武力弾圧に転じました。
 ロシアでは、革命を扇動する革命家たちはユダヤ人だと見られ、騒動鎮圧の過程で、ポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こりもします。
 結局、ほぼ1905年いっぱいで争乱は収束し、12年間の間、一見、革命の芽は消えたかのようにも見えました。
 トロツキーは「1905年の革命は、1917年の革命の舞台げいこであった」と結論づけています。

 そしてリムスキー=コルサコフは、「金鶏」の最後をドドン王の死でしめくくり、残された王国の人々に「もう一度夜明けはくるのだろうか? 王様なくして国はどうなるのだろうか?」と嘆かせているんです。
 ロシア帝国の土台は、確実に時代の流れに削り取られていました。

 リムスキー=コルサコフが世を去りました翌年、極東のニコラエフスクに、ユダヤ人実業家の娘として生まれましたエラ・リューリ・ウイスエル。

 血の日曜日事件だけで、長くなってしまいまして、エラのお話は、次回に続きます。


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尼港事件とwikiと『ニコラエフスクの破壊』vol.1

2012年10月12日 | 尼港事件とロシア革命

 またまた、ご無沙汰いたしました。
 呉成崙について書いていますうちに、資料読みがハルピン学院から日露関係、極東ロシアの歴史へとひろがってしまい、そこに母の眼病の世話が重なったりなんぞしまして、またまた私、脱線してしまったんですね。

 尼港事件です。えーと。
 とりあえずwiki-尼港事件をご覧になってみてください。いえね、手伝ってくださる方々がいて、今の形になったのではあるんですけれども、この夏はこれで気力を使い果たしました。
 いちいち出典を明記した味気ない事実関係の精査を文章にしますよりは、たっぷりと推測、憶測をまじえてはじける方が好きな私。なにを好きこのんでこんな労苦に従ったかって……、怒り!!!です。

 原暉之という学者さんがいます。一応、ロシア極東史の専門家、ということになっているんですけれども。
 私、確か金光瑞のことを書き始めたころだったと思うんですけれど(あるいはもっと前だったかもしれません)、シベリア出兵についてまとまった本が読みたくて、この方の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」を古書で買って読みました。

シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922
クリエーター情報なし
筑摩書房


 現在、ものすごい値段になっておりますが、当時は3000円くらいだったように記憶しています。実はciniiで全文DLできるのですが、なにをとち狂ったのか、八千数百円という値段がついております。「今となっては内容が恥ずかしくて、あんまり読んでもらいたくないということかしら?」と勘ぐりたくなってしまうほどです。
 細谷千博氏の「シベリア出兵の序曲」と「日本とコルチャク政権承認問題 原敬内閣におけるシベリア出兵政策の再形成」は一橋大学機関リポジトリで無料で読めまして、古い論文ですが、私にはこちらの方が、はるかにまっとうに思えます。

 ともかく、です。「これって、参考になる部分があまりないよねえ」と溜息をつき、特に尼港事件の部分など、「いや私、小説が読みたいわけでなし、あなたの頭の中の物語はどうでもいいから。根拠薄弱な憶測が多すぎるよ。事実関係はどうなの???」と、あきれた気分でした。著者の思想にそいましてあらかじめストーリーができあがっている趣でして、「正義のボルシェヴィキ革命とそれを邪魔する悪者日本軍物語」とでもいうような印象を受けました。

 もうちょっとこう、バイアスのかかっていない文献はないものかと、ネットで検索をかけましたところ、事件当時に白系ロシア人ジャーナリストが確かな資料を入手し、4年後の1924年、ベルリンで出版しました「ニコラエフスクの破壊」(ロシア語)が、2001年に和訳されていることを知りました。ところがこれが、どうも少部数の自費出版のようでして、全国で、所蔵している公立図書館も少数なんですね。
 仕方なく、東京へ行きましたときに国会図書館で斜め読みし、「これは手に入れねばっ!!!」と決心したのですが、当時は古書が見つかりませんでした。中村さまのご助力もあり、半分はコピーしたのですけれども、その内容があまりに、原氏の「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」とちがいすぎまして、双方を精読した上で、もっと文献を集めなければならない、と悟り、目眩がして放り出していたんです。

 ところが今回、呉成崙からまた関心がぶり返し、コピーを読み返していますうちに、古書が出ているのを見つけて買いました。
 精読しました結果が、原暉之の頭の中って、いったいどうなっているのっっっ!!!!!と、怒髪天を衝く状態、です。

 といいますのも、wikiに書いておりますが、原暉之氏は『「尼港事件」の諸問題』といいます短い論文で、ロシア語版「ニコラエフスクの破壊」を貴重な文献だと絶賛し、実際、「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」でも、参考文献として使っているんです。もちろん、参考文献にしたからと言いましても、なにからなにまでその本を信用する必要はないんですけれども、「ニコラエフスクの破壊」には、事件中に組織されましたニコラエフスク市の調査委員会が、複数のパルチザンも含みます生存者から聞き取った証言集が付属しています。当然のことなのですが、ソ連時代、事件からかなりの期間が経って、ソ連政府の意向のもと、元パルチザンが残しました回想録とくらべましたら、はるかに、この証言集の方が信用できます。

 実は事件の後、ロシア・ソヴィエト政府と日本政府の間で、尼港事件の賠償問題が持ち上がっていまして、ソヴィエト政府にとりましては、当然のことながら賠償などごめんこうむりたいわけですし、非を認める気はまるでなかったんです。
 したがいまして、事件を引き起こしましたトップの赤軍司令官ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィンと参謀長ニーナ・レベデワ・キャシコ他、数人は人民裁判にかけられて処刑されていますが、事件の最中にトリャピーツィンとニーナが連名で各地に打電しました「悪いのは日本軍、自分たちはこんなにも正しい!!!」というだけの長文言い訳宣伝電報の内容が、そのままソ連政府の公式見解とでもいったものになってしまっちゃったんですね。以降長らく言論統制していた国ですから、ソ連政府の見解はそのままソ連の歴史学者の見解でもあり、元パルチザンの回想録ももちろん、ソ連の公式見解に従ったものでしかありません。

 ところが原暉之氏は、なにをどう夢想なさったものなのか、ソ連政府の公式見解、つまりは、事件主犯の言い訳が、日本人の記録よりも白系ロシア人が命がけで残した記録よりも、尊く、輝いて見えたらしいんです。
 私、子供の頃から祖父母・両親に「共産主義を礼賛する左巻き学者は、中共、ソ連など共産圏の国には言論の自由がないという現実を見ず、ダブルスタンダードで日本政府やアメリカ政府のみを批判するので、信用がならない」と言い聞かされ、乙女の頃には祖父母両親の見解に多少の反発も感じておりましたが、今思えばつくづく、戦争を経験した世代の現実感覚は、確かでした。

 原暉之氏の見解のなにが変って、白系ロシア人の証言をすべて無視し、そりゃあものすごい拷問の果てに殺されたりするわけですから、日本の史料の中に自決した日本人もいたらしいと推測できる材料もありますのを拡大解釈し、悪いのはみんな日本軍で、一般居留民はほとんどが日本軍のまきぞえ集団自殺!!!といいますような、ものすごい憶測を、まことしやかになさっておられます。心底、あきれました。ボルシェヴィキ革命の栄光!!!のためならば、日本人の命もロシア人の命もどーでもいい、というのでしょうか。思想で事実をゆがめて見てしまう殿方って、多いですよねえ。怖い話です。

 それでも、原暉之氏は北海道大学名誉教授ですし、白系ロシア人の証言って信用できるの? という原暉之信者さんもけっこうおられるわけらしいのですが、とりあえず、現在のまっとうな日本人研究者の認識では、少なくとも集団自殺かもしれない説は、顧みられておりません。以下、井竿富雄氏の『尼港事件と日本社会、一九二〇年』より、引用です。

 ロシアの町ニコラエフスク(当時の日本人は「尼港」と言った)において、パルチザン部隊と日本軍の武力衝突が発生し、日本軍は武装解除されて殺害された。同時にこの街にいた在留邦人が捕らえられて殺害された。同地駐在の日本領事石田虎松らも死亡した。その上パルチザン部隊は町に火を放って撤退したため、すべては灰燼に帰した。生命が助かっても、財産を失った者もいたのである。同地にいた中国軍の軍艦が助けを求める在留邦人を撃つという事件も同時に発生した。軍人が武装解除されて殺害、民間人のみならず国際法上保護されているはずの外交官まで殺害されるという、これまでに日本が経験したことのない大惨事であった。この事件で邦人殺害を指揮したパルチザン部隊のリーダーたちはのちにボリシェヴィキ政権によって処刑された。機密文書である参謀本部の『西白利出兵史』ですら「千秋ノ一大痛恨事録シテ此ニ至リ悲憤ノ涙睫ニ交リ覚エス筆ヲ擲ツ」と感情的な一節を書き記している。

 えーと。事実関係の表現には、わずかながら正確さを欠く部分があると私は思いますが(例えば「パルチザン部隊のリーダーたちはのちにボリシェヴィキ政権によって処刑された」という部分、パルチザン部隊のリーダーたちはボリシェヴィキ政権そのものだったのですし、処刑した側のみがボリシェヴィキ政権と受け取れるような表現はどうなのでしょうか。ボリシェヴィキ政権の内部分裂で処刑された、という方が、より事実に近いと私は思います)、しかし、井竿富雄氏が「シベリア出兵―革命と干渉 1917~1922」の描写します「尼港事件集団自殺かもしれない説」に関しましては、いっさい考慮されていないことはあきらかです。

 事件直後、極東共和国政権下の1920年8月16日、サハリン州議会が採択した「ボルシェヴィキに関する決議文」を以下に引用します。

サハリン州の住民71名から成るサハリン議会は、ロシア国家の全国民に対し、次の声明を発表する。
「1920年3月1日から6月2日にかけて、サハリン州は、ロシア社会主義連邦共和国の名の下に統治された。この間、ソビエト政府の代表者達は、全ての軍将校(偶然救助されたグリゴリエフ中佐を除いて)、ほとんどの知識階級、多くの労働者、そして農民、女性、子供、幼児を射殺し、刺し殺し、斬殺し、溺死させ、死ぬまで鞭打った。彼らは、日本領事や派遣軍兵士も含め、日本人居留民を抹殺し、また、日本人女性や子供たちを、野蛮人にしかできないような暴虐非道のもとにさらした。ニコラエフスクの町の全てを焼き尽くし、石造建築物を爆破した。無傷で残ったのは、町の外縁部に位置する、ごくわずかな小家屋だけであった。港の建物、埠頭、付属施設は焼き落とされた。カッター船、小型舟艇は、全て爆破され沈められた。町を覆う炎から逃げ場を求めて来た人たちで溢れかえっていた桟橋を、爆破した。彼らは、アムール河河口および河岸沿いに設けられていた、装備の充実した漁場施設の多数を、燃やして消滅させた。いくつかの農村を焼き払い、設備の整った金鉱事業所の多くを完全に破壊し尽くした。逮捕した女性や少女たちを陵辱した。宗教の如何を問わず、宗教的事物を冒涜した。
 ニコラエフスクの殺戮を生き延びたものの、タイガに逃げ込むことができなかった、女性や子供、わずかな男性を含む、5,000人近い人々が、ケルビもしくはアムグンに強制連行された。その途中、孤児院から連れてこられた子供たちは、バルジ船からアムール河に投げ込まれた。ケルビもしくはアムグンに連行された者の一部は、殺された。クラスニイ・クリチ紙に掲載された、ケルビに置かれたサハリン・ソビエト政府の公式発表によると、州の人口の半数がソビエト政府により抹殺された、という。ソビエト政府の同調者や構成員によって実行されていた、強制、殺人、陵辱などの行為は、日本軍のニコラエフスク地区到着によって終焉した。
 州は文字通り荒廃した。食料もなく、衣服もなく、靴さえもない。
 ロシア国民よ、ボルシェヴィズム思想の本性と、彼らを正気に立ち返らせる方法を明らかにすべき時、そして、ロシアという君主国の再建を始めるべき時ではないだろうか?」
 本声明は、満場一致で可決された。

 
 結局、この声明文は歴史の闇に埋もれ、極東はソビエト・ロシアに呑み込まれてしまいまして、虐殺の波にくり返し洗われましたソ連時代が、70年もの長い年月続きます。ソ連崩壊からしばらくして、だったと思うのですが、樺太南部を訪れた日本の取材陣が、戦前の日本の缶詰工場の設備がそのまま使われておりますことを、驚いてレポートしていました。宇宙開発や軍備に関しては、ソ連は日本を凌駕していたわけでして、戦前の日本の缶詰工場!!!は、学校教育などで、ロシア革命の栄光!!!を教え込まれておりました当時の私にとりましては、驚きのソ連の現実でした。

 声明文を収録しました「ノコラエフスクの破壊」は、1924年にベルリンで出版されて以来、尼港事件について書かれた西側世界のロシア語文献、といいます特殊な位置にありまして、例えば原暉之氏のように、ロシア語を知る西側世界のロシア近代史研究家、といった特殊な人々しか知らないものでした。
 それが、英語に訳されましたのは、ソ連崩壊の後、1993年(平成5年)のことです。
 訳したのは、ニコラエフスクを故郷としますユダヤ系のアメリカ人、エラ・リューリ・ウイスエル(Ella.Lury.Wiswell)。

 エラの祖父モイセイ・リューリは、リトアニア生まれのユダヤ人で、1863年のポーランド蜂起に参加し、25年間のサハリン徒刑になったと言います。
 幕末、押し詰まった時期にサハリンに流されたわけですから、明治2年、「明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編上」で描いておりますころに、徒刑囚として樺太にいた可能性があるわけでして、しかもかなりなインテリのようですし、モンブラン伯爵とお話していたりすれば、おもしろいんですけどねえ。

 wiki-ニコラエフスク・ナ・アムーレの方に書きましが、このときモンブラン伯爵が、ロシアにおける樺太開発の基地がニコラエフスクであることを、明治新政府に報告しています。

 ニコラエフスクは、大河アムールの河口にあり、夏は船舶によって、冬は氷結した川面を橇によって、シベリア内陸部との交通が可能で、当初は、海軍基地として整備されたんですね。間宮海峡をはさんで、北樺太は目と鼻の先です。幕末には沿海州の州都でした。しかし明治10年ころ、ほとんど氷結することのないウラジオストクへ海軍施設が移り、 ニコラエフスクはさびれます。
 明治20年(1887年)前後には、黒田清隆、アントン・チェーホフ(劇作家)が訪れて、人口2000人足らずの荒廃したニコラエフスクの様子を書き残しています。

チェーホフ全集〈12〉シベリアの旅 サハリン島 (ちくま文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房


 エラの祖父モイセイがニコラエフスクへ移住したのは、この荒れていた時期ではないかと推測されますが、文化人類学者のブロニスワフ・ピウスツキと知り合いだったと言います。ブロニスワフの弟はポーランド共和国初代元首のユゼフ・ピウスツキでして、この兄弟、ロシア皇帝アレクサンドル3世暗殺計画にかかわって、ユゼフがイルクーツク周辺へ、ブロニスワフがサハリンへ、流刑になっているんですね。
 このアレクサンドル3世暗殺未遂事件では、主犯格でレーニンの兄さんが死刑になっていて、このことが革命家レーニン誕生に大きく影響した、といわれていますが、ちょうど尼港事件が起こった1920年、ユゼフ・ピウスツキは、独立したポーランドのために、レーニンのソビエト・ロシアを相手取って、ポーランド・ソビエト戦争を戦い抜いて勝利するわけですから、めぐりあわせとは、不思議なものですね。

 なお、ユゼフは日露戦争時に来日し、ポーランド独立のための協力を求めて活動した親日家ですし、ブロニスワフは樺太アイヌの女生と結ばれて、現在子孫の方が日本にいるそうです。

 ともかく、です。モイセイは1860年生まれのアンナ・イリニシュナと結婚し、ニコラエフスクに落ち着いて、エラの父であるメイエルとその弟のアブラハムを儲けました。しかしモイセイは、ある時狩猟に出かけ、そのままいなくなったのだそうです。
 ブロニスワフ・ピウスツキがメイエルの家庭教師をしていた、とも、エラは伝え聞いているようです。

 ニコライエフスクで、漁業を事業として成り立たせましたのは、日本人です。鮭漁中心ですし、交通手段も保存方法も、現在のように発達していません。輸出先の中心は、日本でした。当初、ロシア側は日本人を歓迎し、多くの日本人漁業関係者が移り住みましたけれども、1901年(明治34年)、おそらく、日露の政情悪化を反映して、ではないかと思うのですが、日本人はしめだされ、撤退します。この翌年、メイエルとアブラハムのリューリ兄弟は、商社を設立して、漁業経営に乗り出します。
 ニコラエフスクには島田元太郎という日本人がいまして、彼はロシア正教に改宗し、ロシア人社会に溶け込んでいました。これもおそらく、なのですけれども、リューリ兄弟が漁業経営をするにあたりましては、島田元太郎との強い連携があったと推測されます。

 1904年(明治37年)の日露戦争は、一時、リューリ兄弟商会を苦境に陥らせます。しかし、それも逆手にとって、ヨーロッパ・アメリカで船と商品を仕入れ、日本海軍の封鎖突破を試み、成功して、大きな富を得ます。そして終戦後、日露関係は好転し、リューリ兄弟商会の事業も発展して、首都ペテルブルクでも事業を展開するようになりました。あるいは、ユダヤ系商人の強みといいますのは、偏見無く、世界各国の人々と商関係を築くことができたところに、あったのかもしれません。

白系ロシア人と日本文化
クリエーター情報なし
成文社


 リューリ一族の話につきましては、「ニコラエフスクの破壊」に加えまして、上の「白系ロシア人と日本文化」の中の「漁業家リューリ一族」を参照しております。
 リューリ一族は、ロシア10月革命の嵐に襲われ、尼港事件の悲劇を体験し、結局、故郷ニコラエフスクを追われることとなるのですが、長くなりましたので、次回に続きます。

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