郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。フランス、イギリスを主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには映画、読書、旅行の感想も。

大河『西郷どん』☆3話にして半次郎登場

2018年01月30日 | NHK大河「西郷どん」

 「天皇のダイニングホール」☆皇室の西洋近代で予告しましたように、NHK大河『西郷どん』について、定期的に感想を書いていくことにいたしました。
 いまのところ、 大河「花燃ゆ」と史実シリーズほど、克明に史実を追うつもりはないのですが、そこは私のことですから、どうなるかわかりません。

西郷どん 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)
クリエーター情報なし
NHK出版


 ともかく、第3話にして、中村半次郎(桐野利秋)登場!です。

5分で分かる「西郷どん」第3回『子どもは国の宝』


 まだごらんになっていない方は、上の5分で分かる「西郷どん」を、どうぞ。
 けっこうたっぷり出てくるんですが、子役の中村瑠輝人くん!!! かわいい上に芸達者!!!
 えー、太刀さばきに見惚れてしまって、文句を言う舌が鈍ります。

 彼に文句はないんです。先を見る気にさせてくれました。
 しかし。
 NHKは貧しい=汚いだと、勘違いしてやしませんか?
 いくら流罪人の子で貧しいとはいえ、あそこまで泥だらけで髪ぼうぼうのこ汚さは、ないと思うんですのよ。

 そういえば、一話目をいっしょに見ていました妹が、「西郷家が貧しい貧しいって、土佐の岩崎弥太郎の家より貧しいことはないでしょう?」と聞くんですね。
 「いや、西郷家の方が貧しいと思うよ」と私は、イギリスVSフランス 薩長兵制論争に載せました中岡慎太郎の手紙の話をしました。
 つまり「薩摩のれっきとした士族は土佐の足軽より貧しい者が多く、ほんの少しの給料で歩兵になる」と中岡は故郷への手紙に書いています。
 実際、薩摩士族の数は異常に多かったわけですし、いくら岩崎家が郷士株を売った地下浪人だとはいえ、岩崎弥太郎には、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に書きましたように、江戸の超一流漢学塾に遊学するだけの経済的余裕がありました。

 ところが、です。妹がNHK大河「龍馬伝」で見ました岩崎弥太郎の生家は、超ボロボロでこ汚かったそうでして、その汚さにおいて「西郷どん」の西郷家を上回っていたんだそうなんですのよ。
 視覚に訴える印象は強烈ですからねえ。花のお江戸の安積艮斎塾で学んだ俊才が、泥まみれの貧民だったと、一般には印象づけられてしまったようなんですね。
 私、あの「龍馬伝」は、「龍馬伝」に登場! ◆アーネスト・サトウ番外編スーパーミックス超人「龍馬伝」に書きましたように、あまりにばかばかしくて、ほとんど見てません。

 成長期の半次郎のエピソードにつきましては、あまり資料がなく、明治32年出版の春山育次郎著『少年読本第十一編 桐野利秋』くらいではないかと思うんですね。
 春山育次郎は薩摩出身で、子供の頃、桐野に頭を撫でてもらった思い出があったそうですし、桐野の甥(妹の子)と親しく、身内にいろいろ話を聞かせてもらったと同時に、幕末からの桐野の友人・中井桜洲(中井桜洲と桐野利秋)にも話を聞いて書いておりますので、かなり信憑性があろうかと思います。

 で、『少年読本第十一編 桐野利秋』によりますと、半次郎(桐野)の父は単身赴任の江戸詰であったため、最初の手習いは実兄に、次いで近所に住む外祖父(母の父)の別府四郎兵衛に、学問を教わった、というんですね。
 別府家には、半次郎の従兄弟になる別府晋介がおりまして、幼なじみのはずですが、晋介は後年、城山で西郷隆盛の介錯をしたと伝わります。
 普通に考えて、晋介は出してしかるべきではないか、と思ったのですが、話がややっこしくなりますし、もしかしてこのドラマは晋介の存在を消して、半次郎が介錯をしたことにするのかもね、と思い、林真理子の原作の最後の部分だけ、本屋で立ち読みいたしました。
 原作では一応、通説通り、晋介が介錯しておりました。
 しかしこのドラマ、かなり原作離れしているらしく、そもそも、子供の半次郎は登場しないらしいんですね。
 まあ、いいんですけどね。おかげで、かわいい半次郎を見ることができまして。

 半次郎の父親が流罪になった年は、はっきりしないのですが、およそ、彼が10歳の頃であったようです。
 私、これは、確証があることではないのですが、中井桜洲と桐野利秋に、以下のように書きました。

 えーと、ですね。海老原穆という薩摩人がいます。
 明治6年政変の後、東京で評論新聞という政府批判紙を立ち上げるんですが、「西南記伝」によれば、非常に桐野を信奉していた人だ、というんですね。
 司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」においては、なにをもとに書かれたのか、調所笑左衛門の親族であるような書き方をされているのですが、私は、証拠はつかんでないのですが、海老原清熙の親族だったのではないか、と思っています。
 海老原清熙は、調所笑左衛門の優秀なブレーンだった人です。

 で、この海老原清熙、「中村太兵衛兼高の二男で、文化5(1808)年、海老原盛之丞清胤の養子となった」ということを知りまして、もしかして、桐野の親族では? と調べてみたのですが、これもわかりませんでした。
 しかし、ふと、思ったんです。
 桐野の父親の遠島は、海老原清熙がらみだったのではないかと。


 海老原穆が海老原清熙の親族であったことは、確かなことだとわかりました。
 しかし、それ以外はいまだに雲をつかむような話なのですが、私は、島津斉彬が藩主になってのちに、父親は流罪になったのではないか、と思っております。

 それと、ですね。薩摩では士族の流罪はよくあったことでして、少なくとも桐野家の場合、自家で開墾した土地まで取り上げられたりはしておりません。
 もともとの石高はわずか五石でして、これとともに、父親が役職についてもらっていたお手当が、なくなったわけです。
 しかし開墾地では狭すぎまして、新たに開墾すると同時に、近隣の農民から土地を借りて耕していた、と伝わります。

 まあ、そんなこんななんですが、第4話にも、かわいい半次郎が登場しましたねえ。
 見ていると、批判する気も失せるのですが、次回、西郷とか大久保とか、もっと全般的なことについて、遠慮なく感想を書くつもりでおります。
コメント (4)
この記事をはてなブックマークに追加

「天皇のダイニングホール」☆皇室の西洋近代

2018年01月22日 | 幕末東西

 去年は災難続きでした。ほとんどなにも書けないままに年は去り、新年。
 本日は、本の紹介です。
 なんの続きと言うことはないのですが、関係が深い記事を上げるならば、宮廷料理と装飾菓子『春の雪』の歴史意識あたりでしょうか。
 シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」へ出かけましたら、会場ロビーで思文閣出版さんが本の紹介をしていて、この本のパンフレットが目を引きました。

天皇のダイニングホール―知られざる明治天皇の宮廷外交―
山﨑鯛介,メアリー・レッドファーン,今泉宜子
思文閣出版


 「天皇のダイニング」という題名そのままに、明治宮廷の晩餐会について、舞台となった建築、使われた食器、饗された料理、出席した人々の服装について、詳細に描かれた本です。
 欲をいえば、もっとカラー写真を多用したムック版で見たかったかなあ、という気がします。
 とはいえ、この手頃なお値段からしますと、巻頭グラビアに掲載されました16ページのカラー図版は、嬉しい限りです。

  なによりもまず、びっくりしましたのは、明治、外交の舞台ともなりました赤坂仮皇居御会食所の建物が、「明治記念館」となって神宮外苑に残り、披露宴やパーティだけでなく、普段の食事でも、一般人が使える、という事実です。今度東京へ行ったときは、ぜひ、たずねてみたいなあ、と。
  本館ラウンジ、上部の壁の模様は、京都御所紫宸殿・北庇の間に使われていた花鳥模様をそのまま使ったそうで、とても魅力的な和洋折衷の装飾です。現在は、その模様にちなんでラウンジ「kinkei(金鶏)」と名づけられ、貸し切りの時以外は、個人でランチやディナー、ティータイムに利用できるみたいなんです。

 明治天皇は、明治元年に京都から東京へ御幸されましたが、最初に住まわれたのは、江戸城の西の丸御殿です。しかし明治6年、御殿は失火により焼失し、紀州徳川家の江戸屋敷があった赤坂に、仮御所が造られます。このときから明治22年までのおよそ16年間、天皇は仮御所に住まわれたわけなのですが、後半は、ぴったりと鹿鳴館外交の時期と重なりまして、宮中儀礼におきましても、洋式化が行き着くとこまでいきまして、少々滑稽なまでになっていた時期なんですね。


 

 上の錦絵は、明治初期の伝統的な女官の服装なんですが、皇后を筆頭に、これが洋装に変わります。
 明治時代、前半期は、写真よりもむしろ錦絵で、天皇、皇后両陛下の姿が世間にひろまり、したがいまして、下のような洋装の皇室錦絵が数多く残っております。
 揚州周延と桐野利秋でご紹介しました周延のものです。
 


 この当時の女性の洋装は、バッスルスタイルでして、スカートの後ろにコブのようなバッスル(腰当て)を入れています。幕末当時のクリノリン(二人の皇后とクリノリン参照)のような、ゴージャスな復古調お姫様スタイルとはちがい、なんとなく貧乏くさい感じがするのですが、それなりにびらびらひらひらですから、乙女心がときめかないわけでもありません。
 普仏戦争を経て、ヨーロッパ文化はしだいに、殺風景な近代に近づいていたわけでして、しかし、第1次世界大戦後のように、さっぱり、すっきりしたわけではなく、要するに中途半端なスタイルです。
 明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol1で、私は、以下のように書きました。

 明治、上流婦人が洋装を取り入れました鹿鳴館時代もコルセットが必需品でして、来日していましたドイツ人医師・ベルツ博士などは、「コルセットは女性の健康に害を与える。ばかげた洋装を日本女性が取り入れる必要はない」と、言っていたほどです。また西太后は、西洋帰りの外交官の娘がコルセットをしているのを見て、「それは、漢族の纏足に匹敵する拷問ですね」と言ったそうです。
 つまるところ、当時の女性の洋装は活動的なものではなく、上流婦人のドレスなどは、他人の手を借りなければ着付けも難しく、鹿鳴館が一時のあだ花で終わりましたのは、あまりにも当然の結果でした。


 あだ花といえばあだ花だったのですが、しかし、少なくとも宮中の礼服は、『春の雪』の歴史意識で書きましたように、洋装が定着します。

皇族女性の礼服が、お雛様のような袿袴姿から洋装に変わったのは、明治19年、鹿鳴館の舞踏会が華やかなりしころです。これを推進したのは、長州の志士だった伊藤博文と井上聞多の元勲コンビ。二人とも、幕末には火付け暗殺にかかわり、聞多などは刺客に襲われて一命をとりとめ、全身に刀傷が残っていました。
明治の時代に、「宮廷と新華族とのまったき親交のかたち」として、「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」として、伝統の宮廷衣装は、マント・ド・クール、ロープ・デコルテ、ロープ・モンタントといった洋装に、とってかわられたのです。
つまり、下級武士に担がれた天皇家は、公卿の長であった伝統を捨てて、近代日本にふさわしく、西洋的な皇室となったのであり、三代目の清顕にとっては、それはもう、自明の現実なのです。


 しかし、これを言い換えますと、文明と白いシャツ◆アーネスト・サトウ番外編に書いた、以下のような状況でもあったわけです。

 たしかに、不平等条約を解消するにあたって、近代的な法整備は必要なことでしたし、軍の近代化なくして西洋列強に対抗することはできず、また産業育成も必要なことではあったでしょう。
 しかし、似合わない洋服やら鹿鳴館のダンスパーティやらが、なんで必要だったのかは、ちょっと理解に苦しみます。
 いえ……、私はけっこう、このなんとも珍妙な鹿鳴館風俗が、好きではあるんですけれども。………けれども、です。いとも簡単に伝統文化を投げ捨て、うわべをなぞっただけの洋服着用やら建築やらダンスやらは、「日本人にはオリジナリティがない」という西洋での評価を、決定的なものにしたのではなかったでしょうか。

 明治維新は革命でした。
 明治の指導者は、大多数が元は貧しい下級士族でしたし、洋化官僚もそうでした。
 服装ひとつをとっても、伝統文化の中にあるかぎり、成り上がり者の彼らには、威厳をもって着こなす自信がなく、西洋文化を模倣して新しい権威体系を作りあげなくては、国の指導者としての尊厳に欠ける、ということだったのでしょう。
 

 事態を一変させたのは、第1次世界大戦です。
 大戦後、西洋近代の女性の洋装が、簡便で、活動に適したものとなり、西洋近代の仲間入りをしようとする他文化圏でも、受け入れやすいものとなり、日本においても、庶民の間で洋装が広まっていったのです。
 こうなってきますと、頂点の皇室が洋装であることも、安定感をもって受け入れられます。

 「天皇のダイニングホール」では、外交儀礼の必要上からの女性の洋装を描いてくれていますが、ただ、この点については、どうなのかな、と思います。
 明治13年、イタリア公使となって赴任しました鍋島直大夫人・栄子は、イタリアでの外交儀礼に和装で臨んだ、というような話があったと思います。民族衣装は、現在でも普通に、外交儀礼で認められているわけですし。
 とはいえ、栄子夫人はとても美しい洋装の写真も残しておりまして、鹿鳴館の華でもありました。

 この本で、なによりも楽しかったのは、西洋料理導入のお話しです。
 使われた洋食器にも詳しく、ミントンやセーブルなど海外に特注されたもの、有田など、国内で製作されたものなど、カラー写真が載っているのが嬉しい限りです。

 なにより興味深いのは、明治期の午餐・晩餐メニューが紹介されていることです。味の素食の文化センターの所有のメニューカードを解説してくれているのですが、いまひとつイメージがひろがらず、できればこれ、再現料理をカラー写真で見たかったなと。
 私、タイタニック号レストランの料理再現本とか、大好きなんです。
 
 幕末日本のおもてなし料理につきましては、宮廷料理と装飾菓子白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理に書いているんですが、それが明治になって、本格的フランス料理導入となっていった様子が、この本には克明に描かれています。
 こちらも、もちろん、西洋外交の定番だったフランス料理そのものの変遷、ということも当然ありまして、そしていまや、和食は欧米においても高級料理店が出現し、宮中晩餐会の和テイストも当然になってきましたのは、日本人として喜ばしいかぎりです。
 現代人としましては、和洋のコラボは、心地よいかぎりなんですよね。

 最後に、この本では、明治外交の裏で活躍しましたおイネさんの異母弟たち、アレクサンダー、ハインリッヒのシーボルト兄弟が大きく取り上げられています。
 それほど目新しいことは書かれていなかったのですが、あまり世間に知られていません兄弟の活躍が描かれているのは、嬉しい限りでした。

 シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」のコメント欄で書きましたが、西郷隆盛とおイネさんは半年違いで、ほぼ同世代です。
 3回目にして、超かわいらしい中村半次郎も出て来たことですし、私、次回からNHK大河「西郷どん」の感想を、定期的に書くことにいたしました。

 今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

シンポジウム「パリ万博と薩摩藩」

2017年09月12日 | 幕末薩摩

 唐突ですが、告知です。

 9月30日(土曜日)、鹿児島市民文化ホールにおきまして、「明治維新150周年記念シンポジウム パリ万博と薩摩藩」が開催されます。
 1967年のパリ万博につきましては、これまで幾度となく書いてきたような気がするのですが、実のところちゃんとは書いていないみたいです。
 プリンス昭武、動乱の京からパリへ。に、初期のころの記事はまとめてあります。
 以降となりますと、アーネスト・サトウと龍馬暗殺に、以下。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で詳しく書きましたが、薩摩藩は、モンブラン伯爵にフランスの地理学会で「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という発表をさせ、しかもちょうどこの時期にパリで開かれています万博で、琉球王を名目に、独立国然と交易の意欲を示し、おそらくはモンブランの地理学会演説をアーネスト・サトウに提示する形で「英国策」を書かせて、それをまた和訳して、「英国は天皇を頂く諸侯連合政府を認めるだろう」という感触を、ひろめていました。
 

 薩摩ボタンはだれが考えたのか???の、以下。

 SATUMAの名がヨーロッパに知れわたったのは、どうも、慶応3年(1867年)のパリ万博において、つまりモンブラン伯爵がプロデュースして、薩摩琉球国名義で幕府に喧嘩を売ったパリ万博、ですが、朴正官作の白薩摩錦手花瓶を出品して、好評を博してからのようです。 

 以上、断片的にしか触れてないのですが、私がこのブログを継続的に書き始めました最大の動機が、モンブラン伯爵ですから、1967年のパリ万博の様相は、このブログに通底していますテーマの一つです。
 下の動画で、わかりやすく、かつ、かなり正確にまとめてくれていますので、ご覧になってみてください。
 
 
 「パリ万博・鹿児島紡績所操業開始・異人館完成」解説映像


 このときの薩摩藩の外交につきましては、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編をご覧ください。
 
 
日本近世社会と明治維新
高木不二
有志舎


 高木不二氏の「日本近世社会と明治維新」は、大胆な推論をなさっていて、目から鱗、でした。名著と思います。
 簡単には、薩摩武力倒幕勢力とモンブラン伯爵に以下のようにまとめてあります。

 これまで幾度も述べてきましたように、この慶応3年の春、薩摩は岩下方平を「欧州使節並仏国博覧会総督」としてパリに派遣し、モンブランを外交顧問にして、幕府と派手な外交合戦をくりひろげていたんです。高木氏によれば、薩摩は、フランス、ベルギーだけではなく、イギリスとも、琉球国名義で、和親条約を結ぶつもりでいたんです。それには失敗しましたが、ともかく幕府のフランスでの借款はつぶしました。
 幕府全権公使・向山栄五郎外国奉行は、モンブランが作った薩摩琉球国の勲章がフランス要人にばらまかれていましたのを憂い、「薩摩が勝手に条約を結ぶような事態になりかねない」と上申書を日本へ送っていますし、四候会議瓦解直後の京にまで、その話は伝わっていました。慶喜の腹心だった原市之進は、訪ねてきた越前藩士に、薩摩琉球国勲章の図案を示して、「これが薩摩の討幕論の証だ。あまりに憎らしい仕業だ」と言ったというのです。
 

パリ万国博覧会とジャポニスムの誕生
寺本 敬子
思文閣出版


 最近、上の寺本敬子氏の著作が出版されたようでして、さっそく注文したのですが、まだ届いてません。高価ですが、おもしろそうです。

 追記  届きました! シンポジウムで講演されます著者の寺本敬子氏は、フランス近代史、日仏交流史がご専門で、日本史の方ではないようです。それだけに、フランスの史料をしっかり読み込んでおられて、非常に興味深い著述が多く、特に、今現在の私にとりましては、徳川昭武の通訳を務めました、おイネさんの異母弟、アレクサンダー君の動静に詳しいのが、嬉しい限りです。まだ、とばし読んだだけですが、モンブラン家のことも、かなり詳しく、正しく書かれておりました。ただ、幕府とフランス(ロッシュ公使個人)の独占交易と、薩摩藩の政治的思惑につきましては、あまり踏み込んではおられませんので、そこらあたりに物足りなさはありましたが、画期的な研究書、と思います。



 

 

 幕府のパリ万博一行の写真ですが、これ、昔の大河「獅子の時代」で、印象的に再現してくれています。

獅子の時代 第01回「パリ万国博覧会」






 日本の民間業者が開いた茶屋は、大きな評判をよび、ジャポニズムの呼び水となります。
 見出しの写真はナポレオン3世妃・ウジェニー皇后で、篤姫やエリーザベト皇后より、10歳ほど年長です。パリ万博の中枢で咲き誇った、シンデレラでした。
 二人の皇后とクリノリンに書きましたが、ウジェニー皇后がひろめたともいえます巨大なクリノリンのドレスは、しかし、このパリ万博直前に、流行の最先端ではなくなります。普仏戦争前、幕末も押し詰まった日本が最初に参加した万博は、この時代のパリの最大にして最後の華やぎ、でした。

 9月30日のシンポジウムは、申し込み受付9月20日まで。
 無料ですし、まだ少しは空きがあるそうですので、ぜひ。
 同時に黎明館では、企画展・1867年パリ万博150周年記念「薩摩からパリへのおくりもの」が催されます。
 私は、なんとかかんとか都合をつけまして、参加する予定でおります。
コメント (10)
この記事をはてなブックマークに追加

幕末維新はエリザベートの時代 vol2

2017年01月28日 | 幕末東西

 幕末維新はエリザベートの時代 vol1の続きです。

 子供のころ、ディズニーアニメを見て、シンデレラの王子さまがなぜ軍服を着ているのか、不思議に思っていました。
 戦前でしたら、日本でも皇族方の正装は軍服で、妃殿下はロープデコルテでしたから、なにも不思議がることはなかったんでしょうけれども、なにしろ私は、戦後生まれです。

Cinderella 2015 - The Ball dance


シンデレラ MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー(クラウド対応)+MovieNEXワールド] [Blu-ray]
クリエーター情報なし
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社


 上の「シンデレラ」は、一昨年公開されたディズニー実写版なんですが、王子様の軍服がおとぎ話風に装飾され、勲章も肩章もありません。1950年公開のもともとのアニメの方は、上着が白でズボンが赤。肩章つきで、いかにも軍服なんです。
 ディズニーアニメに遅れること4年、若き日のロミー・シュナイダーがシシィを演じて大ヒットしたオーストリア映画があります。「プリンセスシシー」です。
 
SISSI IMPERATRICE Valse


 
エリザベート ロミー・シュナイダーのプリンセス・シシー [DVD]
クリエーター情報なし
東宝


 この映画のフランツ・ヨーゼフ皇帝の衣装、ディズニーアニメ「シンデレラ」の王子さまの軍服によく似ているんですよね。

[Trailer]エリザベート 愛と悲しみの皇妃


 「エリザベート 愛と悲しみの皇妃」は、2009年、イタリア・ドイツ・オーストリア共同製作のテレビドラマだそうですが、ここでもフランツは、白い上着に赤いズボンの軍服を着ていますから、オーストリア皇帝の軍服が、史実としてこの色だったんでしょうか。

 そして、どの場合も、二人が手をとって舞踏会で踊るのはワルツです。
 私、確か以前にも、19世紀とおとぎ話とワルツについて書いたような気がしたのですが、思い出しました! 19世紀の舞踏会とお城です! なんと10年以上前の記事で、モンブランの情報が欲しくて書いてたころですね。モンブランのことも、このときの疑問はほとんど解けたのですが、以下の部分。

 老夫婦が、貧相な屋根裏部屋で、時代遅れの王朝風の鬘をかぶってメヌエットを踊り、それを月が影絵として映し出す、といった情景だったと記憶しているんですが、なにに書かれていたのか思い出せなくて、しばらく考えあぐねて、ふと、あれはアンデルセンの『絵のない絵本』ではなかったかと思ったのですが、記憶ちがいでしょうか。 

 私の記憶ちがいでした! モーパッサンの短編「メヌエット」だったんです。
 19世紀、フランス革命も昔話となったパリのリュクサンブール公園で、前世紀の亡霊のように、優雅にメヌエットを踊る老夫妻を描いた、影絵のようなお話です。
 
 そして、以下の部分。

舞踏会もまたそうでして、男女が抱き合った形で踊る円舞曲(ワルツ)は、王朝文化から見るならば、近代的で野卑なものであったわけなのですが、イメージからするならば、シンデレラが王子さまと踊るのはワルツですね。結局のところ、「玉の輿」は身分制度が崩れてこそ成り立ちますので、ここは『山猫』のように、ワルツでいいんでしょう。 

 実はこれを書きました前日、映画『山猫』の円舞曲を書き、古典舞踏を解説してくれていたサイトさんを紹介していたのですが、現在、消えています。
 ワルツが近代的で野卑だといいますのは、言い換えれば、19世紀ヨーロッパはブルジョアの時代であり、ワルツはそれを代表する舞踏であって、決して王朝文化の産物ではない、ということです。

Luchino Visconti’s 1963 classic “Il Gattopardo” (The Leopard)


山猫 [DVD]
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


 さて、その映画「山猫」のワルツです。
 バート・ランカスター演じるシチリアの大貴族・サリーナ公爵が、クラウディア・カルディナーレ演じる成り上がりのブルジョア娘・アンジェリカに誘われて、ワルツを踊ります。
 アンジェリカは、サリーナ公爵の甥・タンクレディ(アラン・ドロン)の婚約者なのですが、タンクレディは、「変わらずに生き残るためにこそ、変わらなければならない」というモットーのもと、貴族階級に属しながら、イタリア統一運動の先頭に立ち、旧支配打破の戦闘に身を投じて、しかもほどのいいところで身を引き、新興ブルジョアの娘と婚約します。
 サリーナ公爵は、甥の、あまり貴族的とはいえない、ぎらぎらとした変革と保身のエネルギーを容認し、伝統を壊すその婚約を擁護して、シチリアの貴族社会を黙らせるために、あえてアンジェリカと踊るのですが、それが、前世紀の貴族の価値観からすれば野卑な、しかし流行の最先端の感覚でいえば優美な、ワルツなのです。

 山猫のアンジェリカは、新興ブルジョアの娘が旧貴族の御曹司と正規の結婚をするという意味において、18世紀にはありえなかったシンデレラですし、意識してかどうか、「プリンセスシシー」のシシィのドレスに似た、白いふわふわとしたクリノリンスタイルの衣装をまとっています。
 実のところをいえば、シシィもシンデレラでしょう。

 シシィの実家は、バイエルン王家の傍系です。
 バイエルン王国誕生の話は、普仏戦争と前田正名 Vol7普仏戦争と前田正名 Vol8に書いておりますが、バイエルン王国は、フランス革命とナポレオンの中欧席巻の中で生まれた、いわば新興国でした。
 初代バイエルン王となりましたマクシミリアン1世は、当初、ナポレオンに協調して領土をひろげ、ナポレオン没落後も懸命の外交で、王国を保ちます。
 またマクシミリアンには多くの子女があり、王女たちの結婚を、うまく外交に役立てることができました。

 長女アウグステは、ナポレオンの養子・ウジェーヌ・ド・ボアルネと結婚。
 三女カロリーネ・アウグステは、オーストリア皇帝フランツ1世の四度目の妃。
 四女エリーザベト・ルドヴィカは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃。子はできませんでしたが、およそ20年王妃の座にあり、シシィの名付け親となりました。
 五女アマーリエ・アウグステは、ザクセン王ヨハン妃。
 六女ゾフィが、オーストリア大公フランツ・カールの妻。姉の義子に嫁ぎ、皇帝フランツ・ヨーゼフを産みました。
 七女マリア・アンナは、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世の再婚の妃。つまり、姉の義兄に嫁いだわけです。
 そして
 八女マリア・ルドヴィカはバイエルン公爵マクシミリアンに嫁いで、シシィを産みました。

 バイエルン公爵家は、日本でいえば明治時代の宮家のようなものでして、バイエルン王家からは数代血筋が離れていますが王位の継承権はあり、ルドヴィカは王女でありながら、いわば明治天皇の皇女たちが宮家に嫁いだと同じように、対等の身分とはいえない分家に嫁いだわけです。
 若くして皇帝になりましたフランツ・ヨーゼフの母ゾフィは、数多い姉妹の嫁ぎ先から嫁をさがしていて、本命はプロイセン王家の娘でした。
 しかし、ドイツ統一の盟主の座をオーストリア帝国と競っていましたプロイセンは、王族の婚姻関係でしばられることを嫌い、またプロイセン王妃エリーザベト・ルドヴィカには政治力が無く、断られました。
 次善の候補が、シシィの姉・ヘレーネだったのですが、フランツ・ヨーゼフは、15歳のシシィの方を気に入り、結婚の運びとなります。
 シシィとフランツ・ヨーゼフは、母方からいえばいとこで、本来ルドヴィカの思惑では、シシィはフランツの弟カール・ルートヴィヒにどうだろうということだったようでして、それならばつり合いがとれていたのですが、なにしろ相手は皇帝ですから、保守的なオーストリアの大貴族たちには、王女ではなく公爵家の娘では、と批判するむきもあり、シンデレラといえば確かにシンデレラ、でした。

 しかし、映画「山猫」に即していうならば、です。
 イタリア統一戦争当時の若きシシィは、その若さにもかかわらず、アンジェリカではなく、サリーナ公爵でした。
 自分たちの滅びを見通し、「変わらずに生き残るためにこそ、変わらなければならない」とわかっていながら、保身のための転身には怖気をふるい、身の置き所に窮していたのではないかと、思えます。

 「山猫」の舞台は、イタリア統一戦争時のシチリア。幕開けの1860年といえば、万延元年。横浜開港の翌年で、桜田門外の変が起こった年です。明治維新まで、あと8年。 と 映画『山猫』の円舞曲で書いたのですが、シシィは23歳、篤姫は24歳。
 ともに激動をくぐりぬけました二人のシンデレラは、ともに滅びの側に身を置いていました。
 直接、二人の人生がまじわることはありませんでしたけれども、30代、美貌を誇ったシシィは、宮中午餐会の席で、さる日本人の隣に座し、ちょっとびっくりするような問いを発しています。

 ウィーン宮廷には、シーボルト一族も大きく関係していますし、もう少し、シシィの生涯を追ってみたいと思います。
コメント (9)
この記事をはてなブックマークに追加

幕末維新はエリザベートの時代 vol1

2017年01月08日 | 幕末東西

 桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 前編で書いたのですが、SS席で観劇するために、私たちは宝塚ホテルに泊まりました。
 で、ホテルのテレビには、宝塚チャンネルがありまして、無料で見ることができます。「桜華に舞え」に関する番組もけっこうありましたので、つけっぱなしにしていました。
 と、ちょうどそのとき、東京宝塚劇場で上演していました宙組の「エリザベート」の宣伝も、流れたんですね。


CM エリザベート 宙組2016



 私、うかつにも、エリザベート皇后が主人公のミュージカルがあるとは、存じませんでした。
 およそ11年前に書いた二人の皇后とクリノリンにエリザベートを出していますが、「この時代、オーストリア帝国にも、美しい皇后がおられました。ババリアの狂王ルートヴィヒ二世の従姉妹で、ヴィスコンテの映画『神々の黄昏』ではロミ・ーシュナイダーが演じていた、皇妃エリザベートです」と、昔の映画をあげています。


Ludwig - Trailer



 古い映画ですが、今なお私は、ルキノ・ヴィスコンティのこの映画のルートヴィヒ二世が好きですし、出番は少ないのですが、ロミー・シュナイダー演じるシシィ(エリザベート)も強く印象に残っています。
 『オペラ座の怪人』と第二帝政にも、以下のように記しています。

 「ルキノ・ヴィスコンティの映画「神々の黄昏」で知られるババリアの狂王ルートヴィヒ2世は、フランスの太陽王ルイ14世に憧れ、ワーグナーの描く中世に酔いしれ、その過去への夢を書き割りのような築城に託したことで、身を滅ぼします」 

 基本的に、昔から私は、シシィよりもルートヴィヒ2世の方に関心をよせておりましたが、それでもシシィの伝記は一応読んでおりましたし、それなりの関心は抱いていました。にもかかわらず、ミュージカルの存在は知らなかったのです。

 ホテルの宝塚チャンネルでなにげに見た時点では、それほど気にかかったわけではありません。なにしろ頭の中は「桜華に舞え」でいっぱいでしたし、おしゃべりをしたり、荷物を片付けたりしながら、テレビの音を流していただけなんです。
 「宝塚だから恋愛ものよねえ。不倫? シシィの恋の相手は、ハンガリー貴族かなんかなのかなあ。それにしても変わった恰好だけど、世紀末風の扮装?」なんぞと、宙組男役トップ、朝夏まなとさん演じる闇の帝王・トート閣下をちらりと流し見ながら、見当外れな推測をして終わりました。
 ところが帰宅して後、宝塚の動画をYouTubeでいろいろさがしていまして、これを見つけました。


 宝塚xSMAPコラボ「闇が広がる」



 いや、もう、夢中になってしまいました。
 もちろん、SMAPに、ではありません。花組男役トップ、明日海りおさんが歌うエリザベートの劇中歌「闇が広がる」に、です。

宝塚歌劇 花組 ミュージカル『エリザベート-愛と死の輪舞(ロンド)-』 明日海 りおさんからメッセージ


 2014年の花組「エリザベート」は、皇帝フランツを北翔海莉さんがなさっていた、ということも手伝い、迷わずDVDを購入。

『エリザベート ―愛と死の輪舞―』 [Blu-ray]
クリエーター情報なし
宝塚クリエイティブアーツ


 この「エリザベート 愛と死の輪舞」は、1996年の宝塚初演以来、再演を重ね、2014年の花組公演で観客動員200万人を突破。現在では、「ベルサイユのばら」をしのぐほどの人気演目となっているようです。

 さて、「闇が広がる」です。
 宝塚xSMAPコラボを見たときから、「これはもしかして、マイヤーリンクで自殺した皇太子ルドルフ(シシィの息子)の心の葛藤を表現した歌?」とは、推測していました。
 その通りでした。「エリザベート」は、およそ、私が持っていました宝塚のイメージを覆すミュージカルで、シシィが恋をするのは、ハンガリー貴族などではなく、闇の帝王・トート閣下、タナトス、つまりは擬人化された死なのです。


宙伊魯豆腐


 
 1998年の宙組公演です。トートが姿月あさとさん、ルドルフが朝海ひかるさん、フランツは和央ようかさん。エリザベートは花總まりさんです。歌のうまさでは、有数のメンバーではないかと思い、これもDVDを買いました。

 ルドルフ皇太子の自殺は、昔の映画「うたかたの恋」(見てはいませんが、クロード・アネ著の原作小説は読みました)では、男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとの身分ちがいの悲恋の末の心中として、ロマンティックに描かれています。
 私の従来のイメージからすると、「うたかたの恋」の方が宝塚らしい感じがしていまして、調べましたところ、1983年に宝塚は「うたかたの恋」を独自のミュージカルに仕立てていました。こちらも、幾度となく再演されているようなのですが、YouTubeで断片を見ますかぎり、歌が演歌調で、どうにもしっくりきませんでした。

 くらべて、「闇が広がる」は、ロック調です。ミュージカル「オペラ座の怪人」の「The Phantom Of The Opera」がロック調で、ナイトウィッシュはじめ多くのロックグループがカバーしていますように、この歌も歌詞が英語であれば、カバーされていてもおかしくないでしょう。個人的には、日本語で、BABYMETALに歌ってもらいたいかんじ、なんです!

 ともかく、ミュージカル「エリザベート」は、シシィ&ルドルフ母子を、滅びゆく帝国の重みにひしがれ、あらがい、タナトスに魅せられる時代の子、として描いていまして、おおよそ、私が抱いていた宝塚のイメージからは遠いんです。
 それもそのはず、でした。
 「エリザベート」は、1992年初演のウィーンミュージカルだったんです。元は、ドイツ語です。

 その初演からまもなく、宝塚の演出家・小池修一郎氏がその楽曲に惚れ、ご自身のオリジナルミュージカル「ロストエンジェル」で、使われたんだそうです(もちろん許可を得て、です)。
 さがしたらあったんですが、やっぱり曲がいいですわ、これ。

 ロストエンジェル07


 1995年、雪組のプロデューサーが、「ロストエンジェル」で使われた曲から「エリザベート」に関心を持ち、一路真輝さんの退団公演にどうだろうかと、小池氏に話をもちかけ、宝塚向けに大幅に変更を加えた上で、小池氏がウィーンへ交渉に行かれたのだとか。
 一番大きな変更点は、なにしろ宝塚は男役が主役ですから、エリザベートではなく、黄泉の帝王・トート閣下を主役に据え、出番を大幅に増やしたことです。
 そもそも、元のウィーン初演版では、トートは、エリザベートとルドルフにしかからまず、わずか30分しか出番がなかったそうですが、黄昏のハプスブルグ家の二人の心の中の死の誘惑を擬人化したものなのですから、そんなものだったのでしょう。
 その他、オーストリア=ハンガリー二重帝国の事情を、日本人にわかりやすくするするためにハンガリーの革命家を出し、トートとルドルフを革命家にからませたり、さらには、作曲担当のリーヴアイ氏に「愛と死の輪舞」という新曲を作ってもらうなど、驚くほどの変更依頼をしましたところが、オーストリア以外でまだ上演されたことがなく、初めての他国からのオファーが日本の女性だけの謎の劇団だった、というので、すべてOKになったと言います。

 宝塚の半年後に、ハンガリーでも上演され、そのとき、宝塚版改変のハンガリーの革命家のシーンや「愛と死の輪舞」が取り入れられ、そしてついには2012年のウィーン再々演では、宝塚から里帰りの形で「愛と死の輪舞」が取り入れられたんだそうなんです。

ウィーン版 エリザベート 愛と死の輪舞 日本語字幕



 なお、日本では、宝塚版と同じく小池氏の演出で、東宝版「エリザベート」も上演され、2000年の初演以来再演を重ねて、チケットが手に入らないといわれる人気です。
 初演の時は、宝塚でトートを演じた一路真輝さんがエリザベート、トートを山口裕一郎さんと内野聖陽さんが役代わりで演じ、余談ですが、これが縁で一路真輝さんと内野聖陽さんがご結婚なさったのだとか。

 東宝版は、宝塚版よりはウィーン版に忠実であるそうなんですが、宝塚版のトートの役割の拡大は、結局、タナトスにとりつかれていたのは、シシィとルドルフだけではなく、ハプスブルグ帝国そのものだったのだ、ということを端的に現すこととなり、「エリザベート」というミュージカルの発展につながったように思うんですね。ただ、宝塚版で私が違和感を感じますのは、ラストのエリザベートと死神トートのハッピーエンドシーンでして、ルドルフとちがって、戦い抜いた末のエリザベートの死は安らぎだった、という解釈はわかるのですが、二人がニコニコあんまりにも嬉しそうなのが、何回見ても変です。エリザベートの死とともに、ハプスブルグ帝国の崩壊を暗示して、闇の帝王トートが、長くつきあったエリザベートを通じて、人の世の栄枯盛衰に哀惜の念を持ってしまった、といった壮大さが欲しいところです。

 宝塚の「エリザベート」は、ラストの後にフィナーレが続きます。
 いくつかの版のフィナーレを見たのですが、これは、明日海りおさん&蘭乃はなさんの花組のものが、まるでクリムトの絵のようで、最高だと思うんですね。

もっと知りたい世紀末ウィーンの美術―クリムト、シーレらが活躍した黄金と退廃の帝都 (アート・ビギナーズ・コレクション)
クリエーター情報なし
東京美術


 まずは北翔海莉さんのフランツが「愛と死の輪舞」を独唱。ロケットと呼ばれるラインダンスの後に、クリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」(上の本の表紙の絵)のような青く耀く衣装をまとった明日海トートと娘役の群舞、続いて、クリムトがよく使った黄金色の衣装で、「闇が広がる」をバックに、明日海さん、北翔さん、望海風斗さん(ルッキーニ役)、芹香斗亜さん(皇太子ルドルフ役)がリードしての男役群舞、そして明日海さん&蘭乃さんのデュエットダンスは、名画「接吻」そのもののようで、見飽きません。


 さて、主人公のシシィ、エリザベートです。
 実は、1937年生まれで、天璋院篤姫より一つ下。二人はほぼ同じ世代です。
 そして、楠本イネは1927年生まれで、シシィより10ほど年上なのですが、実はシーボルトは、シシィの実家がありましたバイエルンにも、嫁ぎましたハプスブルグ帝国にも、深い縁がありました。

 普仏戦争と前田正名 Vol9に、私、以下のように書いております。

 フランツ・フォン・シーボルトは、1796年、ヴュルツブルク司教領で、ヴュルツブルク大学医学部教授を父に、生まれました。
 そうなんです。フランス革命戦争のただ中に、神聖ローマ帝国領邦に生まれたわけなんです。
 ヴュルツブルクは、1803年に一度、バイエルン選帝侯領となりましたが、1805年の仕分けではヴュルツブルク大公国となり、1815年のウィーン会議で、再びバイエルン王国領となりました。
 

 ペーター・パンツァー氏の「国際人としてのシーボルト」によりますと、シーボルトはヴュルツブルク生まれということで、最初はバイエルン王国のパスポートをもって国を出ましたが、結婚してプロイセン国籍をとりましたし、おまけにシーボルトの「フォン」という貴族の称号は、祖父がフランス革命戦争で神聖ローマ帝国軍の負傷兵を治療し、ハプスブルク家の皇帝よりもらったものでしたので、オーストリア貴族ということも、できるんだそうです。

 おイネさんの異母弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトは、オーストリア=ハンガリー帝国の在日公使館に長年勤務し、1891年(明治24年)、オーストリアで男爵の地位を得ています。シシィの死の7年前のことです。

 幕末維新は、すっぽりとエリザベートの時代に重なっていまして、もう少し、シシィのことなどを書いてみたいと思います。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加