郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。フランス、イギリスを主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには映画、読書、旅行の感想も。

幕末維新はエリザベートの時代 vol2

2017年01月28日 | 幕末東西

 幕末維新はエリザベートの時代 vol1の続きです。

 子供のころ、ディズニーアニメを見て、シンデレラの王子さまがなぜ軍服を着ているのか、不思議に思っていました。
 戦前でしたら、日本でも皇族方の正装は軍服で、妃殿下はロープデコルテでしたから、なにも不思議がることはなかったんでしょうけれども、なにしろ私は、戦後生まれです。

Cinderella 2015 - The Ball dance


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 上の「シンデレラ」は、一昨年公開されたディズニー実写版なんですが、王子様の軍服がおとぎ話風に装飾され、勲章も肩章もありません。1950年公開のもともとのアニメの方は、上着が白でズボンが赤。肩章つきで、いかにも軍服なんです。
 ディズニーアニメに遅れること4年、若き日のロミー・シュナイダーがシシィを演じて大ヒットしたオーストリア映画があります。「プリンセスシシー」です。
 
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 この映画のフランツ・ヨーゼフ皇帝の衣装、ディズニーアニメ「シンデレラ」の王子さまの軍服によく似ているんですよね。

[Trailer]エリザベート 愛と悲しみの皇妃


 「エリザベート 愛と悲しみの皇妃」は、2009年、イタリア・ドイツ・オーストリア共同製作のテレビドラマだそうですが、ここでもフランツは、白い上着に赤いズボンの軍服を着ていますから、オーストリア皇帝の軍服が、史実としてこの色だったんでしょうか。

 そして、どの場合も、二人が手をとって舞踏会で踊るのはワルツです。
 私、確か以前にも、19世紀とおとぎ話とワルツについて書いたような気がしたのですが、思い出しました! 19世紀の舞踏会とお城です! なんと10年以上前の記事で、モンブランの情報が欲しくて書いてたころですね。モンブランのことも、このときの疑問はほとんど解けたのですが、以下の部分。

 老夫婦が、貧相な屋根裏部屋で、時代遅れの王朝風の鬘をかぶってメヌエットを踊り、それを月が影絵として映し出す、といった情景だったと記憶しているんですが、なにに書かれていたのか思い出せなくて、しばらく考えあぐねて、ふと、あれはアンデルセンの『絵のない絵本』ではなかったかと思ったのですが、記憶ちがいでしょうか。 

 私の記憶ちがいでした! モーパッサンの短編「メヌエット」だったんです。
 19世紀、フランス革命も昔話となったパリのリュクサンブール公園で、前世紀の亡霊のように、優雅にメヌエットを踊る老夫妻を描いた、影絵のようなお話です。
 
 そして、以下の部分。

舞踏会もまたそうでして、男女が抱き合った形で踊る円舞曲(ワルツ)は、王朝文化から見るならば、近代的で野卑なものであったわけなのですが、イメージからするならば、シンデレラが王子さまと踊るのはワルツですね。結局のところ、「玉の輿」は身分制度が崩れてこそ成り立ちますので、ここは『山猫』のように、ワルツでいいんでしょう。 

 実はこれを書きました前日、映画『山猫』の円舞曲を書き、古典舞踏を解説してくれていたサイトさんを紹介していたのですが、現在、消えています。
 ワルツが近代的で野卑だといいますのは、言い換えれば、19世紀ヨーロッパはブルジョアの時代であり、ワルツはそれを代表する舞踏であって、決して王朝文化の産物ではない、ということです。

Luchino Visconti’s 1963 classic “Il Gattopardo” (The Leopard)


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 さて、その映画「山猫」のワルツです。
 バート・ランカスター演じるシチリアの大貴族・サリーナ公爵が、クラウディア・カルディナーレ演じる成り上がりのブルジョア娘・アンジェリカに誘われて、ワルツを踊ります。
 アンジェリカは、サリーナ公爵の甥・タンクレディ(アラン・ドロン)の婚約者なのですが、タンクレディは、「変わらずに生き残るためにこそ、変わらなければならない」というモットーのもと、貴族階級に属しながら、イタリア統一運動の先頭に立ち、旧支配打破の戦闘に身を投じて、しかもほどのいいところで身を引き、新興ブルジョアの娘と婚約します。
 サリーナ公爵は、甥の、あまり貴族的とはいえない、ぎらぎらとした変革と保身のエネルギーを容認し、伝統を壊すその婚約を擁護して、シチリアの貴族社会を黙らせるために、あえてアンジェリカと踊るのですが、それが、前世紀の貴族の価値観からすれば野卑な、しかし流行の最先端の感覚でいえば優美な、ワルツなのです。

 山猫のアンジェリカは、新興ブルジョアの娘が旧貴族の御曹司と正規の結婚をするという意味において、18世紀にはありえなかったシンデレラですし、意識してかどうか、「プリンセスシシー」のシシィのドレスに似た、白いふわふわとしたクリノリンスタイルの衣装をまとっています。
 実のところをいえば、シシィもシンデレラでしょう。

 シシィの実家は、バイエルン王家の傍系です。
 バイエルン王国誕生の話は、普仏戦争と前田正名 Vol7普仏戦争と前田正名 Vol8に書いておりますが、バイエルン王国は、フランス革命とナポレオンの中欧席巻の中で生まれた、いわば新興国でした。
 初代バイエルン王となりましたマクシミリアン1世は、当初、ナポレオンに協調して領土をひろげ、ナポレオン没落後も懸命の外交で、王国を保ちます。
 またマクシミリアンには多くの子女があり、王女たちの結婚を、うまく外交に役立てることができました。

 長女アウグステは、ナポレオンの養子・ウジェーヌ・ド・ボアルネと結婚。
 三女カロリーネ・アウグステは、オーストリア皇帝フランツ1世の四度目の妃。
 四女エリーザベト・ルドヴィカは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃。子はできませんでしたが、およそ20年王妃の座にあり、シシィの名付け親となりました。
 五女アマーリエ・アウグステは、ザクセン王ヨハン妃。
 六女ゾフィが、オーストリア大公フランツ・カールの妻。姉の義子に嫁ぎ、皇帝フランツ・ヨーゼフを産みました。
 七女マリア・アンナは、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世の再婚の妃。つまり、姉の義兄に嫁いだわけです。
 そして
 八女マリア・ルドヴィカはバイエルン公爵マクシミリアンに嫁いで、シシィを産みました。

 バイエルン公爵家は、日本でいえば明治時代の宮家のようなものでして、バイエルン王家からは数代血筋が離れていますが王位の継承権はあり、ルドヴィカは王女でありながら、いわば明治天皇の皇女たちが宮家に嫁いだと同じように、対等の身分とはいえない分家に嫁いだわけです。
 若くして皇帝になりましたフランツ・ヨーゼフの母ゾフィは、数多い姉妹の嫁ぎ先から嫁をさがしていて、本命はプロイセン王家の娘でした。
 しかし、ドイツ統一の盟主の座をオーストリア帝国と競っていましたプロイセンは、王族の婚姻関係でしばられることを嫌い、またプロイセン王妃エリーザベト・ルドヴィカには政治力が無く、断られました。
 次善の候補が、シシィの姉・ヘレーネだったのですが、フランツ・ヨーゼフは、15歳のシシィの方を気に入り、結婚の運びとなります。
 シシィとフランツ・ヨーゼフは、母方からいえばいとこで、本来ルドヴィカの思惑では、シシィはフランツの弟カール・ルートヴィヒにどうだろうということだったようでして、それならばつり合いがとれていたのですが、なにしろ相手は皇帝ですから、保守的なオーストリアの大貴族たちには、王女ではなく公爵家の娘では、と批判するむきもあり、シンデレラといえば確かにシンデレラ、でした。

 しかし、映画「山猫」に即していうならば、です。
 イタリア統一戦争当時の若きシシィは、その若さにもかかわらず、アンジェリカではなく、サリーナ公爵でした。
 自分たちの滅びを見通し、「変わらずに生き残るためにこそ、変わらなければならない」とわかっていながら、保身のための転身には怖気をふるい、身の置き所に窮していたのではないかと、思えます。

 「山猫」の舞台は、イタリア統一戦争時のシチリア。幕開けの1960年といえば、万延元年。横浜開港の翌年で、桜田門外の変が起こった年です。明治維新まで、あと8年。 と 映画『山猫』の円舞曲で書いたのですが、シシィは23歳、篤姫は24歳。
 ともに激動をくぐりぬけました二人のシンデレラは、ともに滅びの側に身を置いていました。
 直接、二人の人生がまじわることはありませんでしたけれども、30代、美貌を誇ったシシィは、宮中午餐会の席で、さる日本人の隣に座し、ちょっとびっくりするような問いを発しています。

 ウィーン宮廷には、シーボルト一族も大きく関係していますし、もう少し、シシィの生涯を追ってみたいと思います。
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幕末維新はエリザベートの時代 vol1

2017年01月08日 | 幕末東西

 桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 前編で書いたのですが、SS席で観劇するために、私たちは宝塚ホテルに泊まりました。
 で、ホテルのテレビには、宝塚チャンネルがありまして、無料で見ることができます。「桜華に舞え」に関する番組もけっこうありましたので、つけっぱなしにしていました。
 と、ちょうどそのとき、東京宝塚劇場で上演していました宙組の「エリザベート」の宣伝も、流れたんですね。


CM エリザベート 宙組2016



 私、うかつにも、エリザベート皇后が主人公のミュージカルがあるとは、存じませんでした。
 およそ11年前に書いた二人の皇后とクリノリンにエリザベートを出していますが、「この時代、オーストリア帝国にも、美しい皇后がおられました。ババリアの狂王ルートヴィヒ二世の従姉妹で、ヴィスコンテの映画『神々の黄昏』ではロミ・ーシュナイダーが演じていた、皇妃エリザベートです」と、昔の映画をあげています。


Ludwig - Trailer



 古い映画ですが、今なお私は、ルキノ・ヴィスコンティのこの映画のルートヴィヒ二世が好きですし、出番は少ないのですが、ロミー・シュナイダー演じるシシィ(エリザベート)も強く印象に残っています。
 『オペラ座の怪人』と第二帝政にも、以下のように記しています。

 「ルキノ・ヴィスコンティの映画「神々の黄昏」で知られるババリアの狂王ルートヴィヒ2世は、フランスの太陽王ルイ14世に憧れ、ワーグナーの描く中世に酔いしれ、その過去への夢を書き割りのような築城に託したことで、身を滅ぼします」 

 基本的に、昔から私は、シシィよりもルートヴィヒ2世の方に関心をよせておりましたが、それでもシシィの伝記は一応読んでおりましたし、それなりの関心は抱いていました。にもかかわらず、ミュージカルの存在は知らなかったのです。

 ホテルの宝塚チャンネルでなにげに見た時点では、それほど気にかかったわけではありません。なにしろ頭の中は「桜華に舞え」でいっぱいでしたし、おしゃべりをしたり、荷物を片付けたりしながら、テレビの音を流していただけなんです。
 「宝塚だから恋愛ものよねえ。不倫? シシィの恋の相手は、ハンガリー貴族かなんかなのかなあ。それにしても変わった恰好だけど、世紀末風の扮装?」なんぞと、宙組男役トップ、朝夏まなとさん演じる闇の帝王・トート閣下をちらりと流し見ながら、見当外れな推測をして終わりました。
 ところが帰宅して後、宝塚の動画をYouTubeでいろいろさがしていまして、これを見つけました。


 宝塚xSMAPコラボ「闇が広がる」



 いや、もう、夢中になってしまいました。
 もちろん、SMAPに、ではありません。花組男役トップ、明日海りおさんが歌うエリザベートの劇中歌「闇が広がる」に、です。

宝塚歌劇 花組 ミュージカル『エリザベート-愛と死の輪舞(ロンド)-』 明日海 りおさんからメッセージ


 2014年の花組「エリザベート」は、皇帝フランツを北翔海莉さんがなさっていた、ということも手伝い、迷わずDVDを購入。

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 この「エリザベート 愛と死の輪舞」は、1996年の宝塚初演以来、再演を重ね、2014年の花組公演で観客動員200万人を突破。現在では、「ベルサイユのばら」をしのぐほどの人気演目となっているようです。

 さて、「闇が広がる」です。
 宝塚xSMAPコラボを見たときから、「これはもしかして、マイヤーリンクで自殺した皇太子ルドルフ(シシィの息子)の心の葛藤を表現した歌?」とは、推測していました。
 その通りでした。「エリザベート」は、およそ、私が持っていました宝塚のイメージを覆すミュージカルで、シシィが恋をするのは、ハンガリー貴族などではなく、闇の帝王・トート閣下、タナトス、つまりは擬人化された死なのです。


宙伊魯豆腐


 
 1998年の宙組公演です。トートが姿月あさとさん、ルドルフが朝海ひかるさん、フランツは和央ようかさん。エリザベートは花總まりさんです。歌のうまさでは、有数のメンバーではないかと思い、これもDVDを買いました。

 ルドルフ皇太子の自殺は、昔の映画「うたかたの恋」(見てはいませんが、クロード・アネ著の原作小説は読みました)では、男爵令嬢マリー・ヴェッツェラとの身分ちがいの悲恋の末の心中として、ロマンティックに描かれています。
 私の従来のイメージからすると、「うたかたの恋」の方が宝塚らしい感じがしていまして、調べましたところ、1983年に宝塚は「うたかたの恋」を独自のミュージカルに仕立てていました。こちらも、幾度となく再演されているようなのですが、YouTubeで断片を見ますかぎり、歌が演歌調で、どうにもしっくりきませんでした。

 くらべて、「闇が広がる」は、ロック調です。ミュージカル「オペラ座の怪人」の「The Phantom Of The Opera」がロック調で、ナイトウィッシュはじめ多くのロックグループがカバーしていますように、この歌も歌詞が英語であれば、カバーされていてもおかしくないでしょう。個人的には、日本語で、BABYMETALに歌ってもらいたいかんじ、なんです!

 ともかく、ミュージカル「エリザベート」は、シシィ&ルドルフ母子を、滅びゆく帝国の重みにひしがれ、あらがい、タナトスに魅せられる時代の子、として描いていまして、おおよそ、私が抱いていた宝塚のイメージからは遠いんです。
 それもそのはず、でした。
 「エリザベート」は、1992年初演のウィーンミュージカルだったんです。元は、ドイツ語です。

 その初演からまもなく、宝塚の演出家・小池修一郎氏がその楽曲に惚れ、ご自身のオリジナルミュージカル「ロストエンジェル」で、使われたんだそうです(もちろん許可を得て、です)。
 さがしたらあったんですが、やっぱり曲がいいですわ、これ。

 ロストエンジェル07


 1995年、雪組のプロデューサーが、「ロストエンジェル」で使われた曲から「エリザベート」に関心を持ち、一路真輝さんの退団公演にどうだろうかと、小池氏に話をもちかけ、宝塚向けに大幅に変更を加えた上で、小池氏がウィーンへ交渉に行かれたのだとか。
 一番大きな変更点は、なにしろ宝塚は男役が主役ですから、エリザベートではなく、黄泉の帝王・トート閣下を主役に据え、出番を大幅に増やしたことです。
 そもそも、元のウィーン初演版では、トートは、エリザベートとルドルフにしかからまず、わずか30分しか出番がなかったそうですが、黄昏のハプスブルグ家の二人の心の中の死の誘惑を擬人化したものなのですから、そんなものだったのでしょう。
 その他、オーストリア=ハンガリー二重帝国の事情を、日本人にわかりやすくするするためにハンガリーの革命家を出し、トートとルドルフを革命家にからませたり、さらには、作曲担当のリーヴアイ氏に「愛と死の輪舞」という新曲を作ってもらうなど、驚くほどの変更依頼をしましたところが、オーストリア以外でまだ上演されたことがなく、初めての他国からのオファーが日本の女性だけの謎の劇団だった、というので、すべてOKになったと言います。

 宝塚の半年後に、ハンガリーでも上演され、そのとき、宝塚版改変のハンガリーの革命家のシーンや「愛と死の輪舞」が取り入れられ、そしてついには2012年のウィーン再々演では、宝塚から里帰りの形で「愛と死の輪舞」が取り入れられたんだそうなんです。

ウィーン版 エリザベート 愛と死の輪舞 日本語字幕



 なお、日本では、宝塚版と同じく小池氏の演出で、東宝版「エリザベート」も上演され、2000年の初演以来再演を重ねて、チケットが手に入らないといわれる人気です。
 初演の時は、宝塚でトートを演じた一路真輝さんがエリザベート、トートを山口裕一郎さんと内野聖陽さんが役代わりで演じ、余談ですが、これが縁で一路真輝さんと内野聖陽さんがご結婚なさったのだとか。

 東宝版は、宝塚版よりはウィーン版に忠実であるそうなんですが、宝塚版のトートの役割の拡大は、結局、タナトスにとりつかれていたのは、シシィとルドルフだけではなく、ハプスブルグ帝国そのものだったのだ、ということを端的に現すこととなり、「エリザベート」というミュージカルの発展につながったように思うんですね。ただ、宝塚版で私が違和感を感じますのは、ラストのエリザベートと死神トートのハッピーエンドシーンでして、ルドルフとちがって、戦い抜いた末のエリザベートの死は安らぎだった、という解釈はわかるのですが、二人がニコニコあんまりにも嬉しそうなのが、何回見ても変です。エリザベートの死とともに、ハプスブルグ帝国の崩壊を暗示して、闇の帝王トートが、長くつきあったエリザベートを通じて、人の世の栄枯盛衰に哀惜の念を持ってしまった、といった壮大さが欲しいところです。

 宝塚の「エリザベート」は、ラストの後にフィナーレが続きます。
 いくつかの版のフィナーレを見たのですが、これは、明日海りおさん&蘭乃はなさんの花組のものが、まるでクリムトの絵のようで、最高だと思うんですね。

もっと知りたい世紀末ウィーンの美術―クリムト、シーレらが活躍した黄金と退廃の帝都 (アート・ビギナーズ・コレクション)
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東京美術


 まずは北翔海莉さんのフランツが「愛と死の輪舞」を独唱。ロケットと呼ばれるラインダンスの後に、クリムトの「エミーリエ・フレーゲの肖像」(上の本の表紙の絵)のような青く耀く衣装をまとった明日海トートと娘役の群舞、続いて、クリムトがよく使った黄金色の衣装で、「闇が広がる」をバックに、明日海さん、北翔さん、望海風斗さん(ルッキーニ役)、芹香斗亜さん(皇太子ルドルフ役)がリードしての男役群舞、そして明日海さん&蘭乃さんのデュエットダンスは、名画「接吻」そのもののようで、見飽きません。


 さて、主人公のシシィ、エリザベートです。
 実は、1937年生まれで、天璋院篤姫より一つ下。二人はほぼ同じ世代です。
 そして、楠本イネは1927年生まれで、シシィより10ほど年上なのですが、実はシーボルトは、シシィの実家がありましたバイエルンにも、嫁ぎましたハプスブルグ帝国にも、深い縁がありました。

 普仏戦争と前田正名 Vol9に、私、以下のように書いております。

 フランツ・フォン・シーボルトは、1796年、ヴュルツブルク司教領で、ヴュルツブルク大学医学部教授を父に、生まれました。
 そうなんです。フランス革命戦争のただ中に、神聖ローマ帝国領邦に生まれたわけなんです。
 ヴュルツブルクは、1803年に一度、バイエルン選帝侯領となりましたが、1805年の仕分けではヴュルツブルク大公国となり、1815年のウィーン会議で、再びバイエルン王国領となりました。
 

 ペーター・パンツァー氏の「国際人としてのシーボルト」によりますと、シーボルトはヴュルツブルク生まれということで、最初はバイエルン王国のパスポートをもって国を出ましたが、結婚してプロイセン国籍をとりましたし、おまけにシーボルトの「フォン」という貴族の称号は、祖父がフランス革命戦争で神聖ローマ帝国軍の負傷兵を治療し、ハプスブルク家の皇帝よりもらったものでしたので、オーストリア貴族ということも、できるんだそうです。

 おイネさんの異母弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトは、オーストリア=ハンガリー帝国の在日公使館に長年勤務し、1891年(明治24年)、オーストリアで男爵の地位を得ています。シシィの死の7年前のことです。

 幕末維新は、すっぽりとエリザベートの時代に重なっていまして、もう少し、シシィのことなどを書いてみたいと思います。
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楠本イネと大村益次郎

2017年01月02日 | シーボルトの娘
 あけましておめでとうございます。

 昨年、桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録で躓きまして、ブログを書くのがおっくうになり、肝心のことを書きそびれました。
 防府の山本栄一郎氏が、大村益次郎の伝記を出されました。



 上は、東京都世田谷区の松陰神社のお祭りで、本が売られていた様子です。
 発行者は以下ですので、読んで見られたいと思われましたら、お問い合わせください。

 大村益次郎没後一五〇年事業実行委員会
 TEL050-5207-1118
 Eメール:suzenjik@c-able.ne.jp
 〒747-1221 山口市鋳銭司5435-1

 本の表紙は大村神社なんですが、その案内動画がありました。

大村益次郎墓所 鋳銭司郷土館と大村神社



 私は以前、山本氏のご案内で、お参りしたことがあるのですが、車がなければ、行くのがけっこう不便な場所にあります。

 新資料で変わる楠本イネ像でも書いたのですが、みなもと太郎氏の「風雲児たち」幕末編・第8巻には、宇和島時代の村田蔵六(大村益次郎)とおイネさんが出てきます。

風雲児たち 幕末編 8巻
みなもと太郎
リイド社


 このコミックでは、同居するイネと蔵六に、あらぬ噂が立ったため、蔵六はイネを卯之町の二宮敬作邸から通わせることとし、妻のお琴さんを呼び寄せます。
 お琴さんの実像は、山本氏に言わせますと「情熱的に恋する妻」だそうなんですね。
 山本氏は、宇和島で調べた史料も加味し、「蔵六に村医者としての生活能力がなかったため、琴の実家は無理矢理離婚させたが、蔵六を愛してやまない琴は親の言うことを聞かず、宇和島まで後を追って押しかけてきた」と結論づけておられます。うーん。蔵六のどこがよかったんでしょうか? 私にはまったく理解ができません。きっと、おイネさんも理解ができなかったはず、です(笑)

 もう一つ、大村益次郎とおイネさんには、接点があります。

浅丘ルリ子vs加賀まりこ ご臨終の蔵六先生


 NHK大河「花神」の名場面です。いや、私はまったく見ていないので知りませんでしたが、加賀まりこさんがお琴さんを演じてたんですね。
 
 ところで、新資料で変わる楠本イネ像のコメント欄に書いておりますが、私は「イネが蔵六の最後を看取った」 というのは司馬遼太郎氏の作り話ではないかと思っていました。
 いや、蔵六は大阪病院に入院してボードウィンの治療を受け、その大阪病院には、イネの娘高子の夫で、二宮敬作の甥である三瀬周三が、ボードウィンの通訳として勤務していたわけですし、三瀬周三もイネとともに、蔵六に学んだことがあるわけですから、どうやら当時、神戸に住んでいたらしいイネさんは、見舞いにくらいは行ったのではないかと思われます。しかし、イネさんは産婦人科医であって、看護婦ではありません。恋愛関係が嘘なら、看護をしたことも嘘でしょう。

 ところが、山本氏によれば、昭和19年に書かれました大村益次郎の伝記には、「瀕死の蔵六のもとにイネが駆けつけ、献身的な看護に務めた」とあるのだそうです。
 で、私、いろいろ調べましたところ、どうやら、昭和3年に大洲の史家・長井音次郎が刊行しました「蘭学大家 三瀬諸淵先生」が、「イネが横浜から駆けつけ献身看護した」説の初出だったようです。長井音次郎は、高子さんにいろいろ手紙で問い合わせたりしているのですが、それは昭和3年よりあとの話ですし、現存します高子さんの語り残しや書翰で、イネさんが蔵六を看護したことを裏付けるものは、まったくありません。いえ、見舞ったということさえも、裏付けられてはいないんです。

 追記
 詳しくはコメント欄を見ていただきたいのですが、あらためて資料を検討してみました結果、イネが、宇和島から神戸経由でかけつけ、蔵六臨終の最期の3日間、大阪病院で看護した可能性は、かなり高いのでは、と思います!


 山本氏の「大村益次郎」は、これまで活用されていませんでした宇和島の史料を使うなど、非常に興味深いものなのですが、ご本人いわく、まだまだ発展途上の産物だそうでして、軍事的な業績なども、従来説に囚われないご研究が待たれます。
 私、桐野の指切断の件で、ちょっと上野戦争の史料を調べかかったんですが、ほんと、大変ですわ。

 一つだけ。上野戦争に際して、なんですが、作戦会議を仕切った蔵六が、薩摩藩を黒門口にまわしたことに対して、西郷が「薩摩藩兵を皆殺しにするおつもりか」と聞き、蔵六が「そうだ」と言ったというエピソードがあります。
「防長回天史」に出てくるもので、山本氏も引用されています。

 ただ、私、なぜこの時期、西郷隆盛が身を引いて、蔵六を立てたのか、について、最近、ある推測をするようになりました。
 「消された歴史」薩摩藩の幕末維新に書きました以下の部分。

 「その篤姫さんが、70万石で駿府移住という決定に愕然としまして、西郷を呼びつけても逃げられ、怒り心頭に発して、仙台藩主やら輪王寺宮さまやら会津藩主などに、「悪辣な薩長を討って!」と手紙を書きまくっていましたことは、私、この安藤氏の著作で初めて知りまして、どびっくりしました」

 私、篤姫のその書翰が活字化されています天璋院篤姫展の図録(発行・2008年 NHK、NHKプロモーション)を古書で手に入れ、見てみたのですが、いやはや、もう、びっくりの2乗です。実物はすべて、仙台市博物館所蔵ですが、博物館での刊行物には載ってないみたいです。
 図録に収録されています、書翰類を利用した藤田英昭氏の論文「知られざる戊辰戦争期の天璋院」は、もっと注目されてしかるべき、です。

 あくまでも仮説ですが、篤姫の激怒に接して、西郷は、すっと身をひいたのではないんでしょうか。
 で、蔵六の遠慮の無いやり口と篤姫の間に入って、海江田信義は一人で苦労し、蔵六への怒りを募らせていった、と考えれば、当時の状況が読み解けるように思います。
 しかし……、すごいです! 篤姫。
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桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 後編下

2016年11月28日 | 桐野利秋
桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 後編上の続きです。

宝塚『カフェブレイク 礼 真琴・妃海 風』


 上のカフェブレイクには、ヒロインの大谷吹優を演じます娘役トップの妃海風さんと、これも架空の主要人物で、遊女になった姫君を慕う会津藩士を演じます礼真琴さんが出演しています。
 いや、私、最近、「わかーらない、わかーらない、帰り道がわからない〜♪」という歌がふと、頭の中をかけめぐっていたのですが、これを見るまで、ヒロインが歌った劇中歌だったということを、忘れてしまっておりましたわ。妃海さんは歌唱力がおありですし、ほんと、耳に残る歌です。

 次は妻のヒサさんについて。パンフレットにわざわざ「竹下ヒサ」と明記されているのには、呆然。中村さまは即座に「東郷隆氏の小説『九重の雲』を信じて、取り入れたんじゃないでしょうか」とおっしゃいました。

九重の雲 闘将 桐野利秋
東郷 隆
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 中井桜洲と桐野利秋のコメント欄に、中村さまと私のやりとりがございますが、戸籍では「帖佐小右衛門(鹿児島県鹿児島郡山之口馬場町士族)の二女ヒサ」となっていまして、私、まちがった知識がひろまるのも困るな、と、Wiki-桐野利秋に加筆しておきました。
 この劇のヒサさんは、実は衣波隼太郎と思い合っていて、桐野もそれを祝福していましたのに、本人たちのあずかり知らない家同士の思惑で、思いもかけず桐野に嫁ぐこととなり、結婚後もお互い遠慮がちだった、という設定でした。
 現実のヒサさんは、他所に複数愛人がいた桐野に文句もいわず、気丈に家を守った賢夫人、という感じでして、現代ではちょっと感情移入しづらいですし、劇中、桐野は妻ではなく大谷吹優に淡い思いを抱くわけですから、上手くヒサさんを位置づけたなと、その点は感心しましたので、わざわざパンフに「竹下」と書かなければよかっただけのことなのですが。

 最後に、付け加えておきます。
 中村半次郎(桐野利秋)がいた! 映画「オトコタチノ狂」ほかに書きました、「北海道野幌に屯田入植しました桐野利春と利秋の関係」について、です。実は、コメント欄にいらしてくださいました利春氏の子孫、中島美弥さまが、野幌屯田兵の兵籍簿のコピーを取り寄せられまして、書類上では、利春と利秋はまったく関係ない、とわかりました。ただ、利春氏の娘さん4人が、はるばる北海道から鹿児島まで、利秋の墓参りをした痕跡がありますし、中島さまの実家では、桐野利秋の子孫である旨、言い伝えてこられたんだそうなんです。さらには、ご親族の写真が利秋の写真に似ていたりもしまして、実は利秋の実子で養子に出たのでは?、という可能性も捨てきれません。しかし、入植以前の鹿児島の除籍簿は、すでに処分されていて、これ以上、追求のしようもなかったり、します。

 

 上のように、宝塚ホテルのフロントにも、公演のポスターが飾られていました。
 北翔さんは、すばらしい男役トップで、熱心に役柄を研究され、役作りのために鹿児島にまで行かれて演じてくださったのは、感激でした。ひまわりのように明るいところは、桐野にぴったりでいらしたのですが、欲をいえばやさしすぎる感じでして、軍人としての迫力や、民主革命家としての鋭利さには欠けていたかな、と。
 単純に顔立ちだけでしたら、花組の柚香光さんが似ている感じですし、星組新人公演で桐野を演じられた天華えまさんも、まだちょっとお若いですが、雰囲気があっているかな、と。

  宝塚は、実は体育会系集団だと、今回初めて知ったのですが、中でも星組はその感じが強くて、星組の躍動する一体感は、薩摩士族の紐帯を上手く表現してくれていましたから、また星組にお願いしたいような気もします。
 再来年の大河ドラマは「西郷どん」だそうですが、なにしろ、NHKのやることですからねえ。とんでもなく悲惨なことになるのでは、といまから危惧しておりますが、一般に関心は高まるはずです。「桜華に舞え」再演もあるんじゃないのかなあ、と思ったりするのですが、今度は紅さんが桐野、というのも、あったりしませんかねえ。



 観劇翌日、朝食時にポケモンgoを立ち上げ、ミニリュウをゲット。
 宝塚に栄えあれ!!! また、きっと行きます。

 私、一週間もupできないと悩んでおりましたところが、gooサポートの方が、問題を見つけてくださいました!
 なんと、HTMLのほんのちょっとした私のミスだったんです! 
 お待たせいたしました。

クリックのほどを! お願い申し上げます。
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桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 後編上

2016年11月25日 | 桐野利秋
 桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録 中編の続きです。

 なぜ大給恒が劇に出てきたのか、中村さまのお話では、熊本県田原坂西南戦争資料館では、「西南戦争時に日本赤十字の前身・博愛社が結成されたことを大きく売り出そうとしている」ということでして、しかも北翔海莉さんが、役作りのために訪れておられたのだそうなんです。それで、「作・演出の斎藤吉正氏もシナリオハンティングに訪れて、取り入れられたのかもしれませんよ」と、劇場でパンフを見つつおっしゃっておられたのですが、しかし。
 なんで大給なんでしょ。博愛社創立のもう一人の立役者、元佐賀藩士の佐野常民だったら、まだしも、なんですけれども。佐野は明治6年のウィーン万博の事務副総裁だったんですが、このとき通訳を務めましたのが、シーボルトの長男・アレクサンダー・フォン・シーボルトで、彼は、ウィリアム・ウィリスととても親しいんですね。イギリスに留学した高木も見知っていたはずでして、佐野が直接二人を知っていたかどうかは謎ですが、そもそも佐野は、オランダ海軍伝習を受けて、佐賀海軍の中心にいた人ですし、明治初年には、海軍に関係していましたので、可能性はあると思います。

 後は細かなことになりますすが、桐野の指の欠損は、上野戦争当日の関寛斎の日記に「「刀傷右掌右指で中村半十(次)郎」」とあり、黒門口の戦いで刀傷を受けた、という推測が成り立つんですね。西南戦争時の屍体検査書には「左中指旧切痕」とありますので、日記の方は「医者から向かって右」だったんだろうと、私は勝手に思っています。
 会津戦争の砲撃による負傷、という変更は、はっきりとした証拠が残っていますだけに、ちょっとなじめない気がしたのですが、中村さまのコメントを受け、つらつら考えてみますに、私、司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」の方が、上手く料理しているという印象が強かったみたいです。

翔ぶが如く〈2〉 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋


 明治32年発行の「少年読本桐野利秋」によりますと、上野戦争のしばらく後に江戸で、「湯屋からの帰りに神田三河町で鈴木隼人ら3人の剣客に襲われ、指一本を失った」となっているのですが、司馬氏は「上野戦争の前に彰義隊の一団に襲われて斬り合った」ということにして、そのうちの一人が重傷をおって死に、それが、維新後に桐野が出会った旗本の娘・千絵の兄であり、え−、最初はどうも、この千絵と桐野がこれから惹かれ合うのか、といった感じだったんですね。
 これとくらべますと、「会津で砲撃で指がぶっとんで」は、あまりにも、不自然な気がした次第です。

 またupできませんので、分けます。

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