郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。フランス、イギリスを主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには映画、読書、旅行の感想も。

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楠本イネinミステリアス宇和島

2016年05月18日 | シーボルトの娘

 楠本イネとイギリス医学の続きです。

 この5月、宇和島へ泊まりがけで史料撮影に行くことは、早くから計画していました。
 イネさんの宇和島での活躍について、財団法人・伊達文化保存会さんに史料があり、事前に許可願いを出し、出向いていって写真撮影するしかない、とわかったものですから、ついでに、評判の木屋旅館に泊まれたらなあ、と思ったんですね。



 ちょうど、山本栄一郎氏も、大村益次郎の宇和島時代の史料を撮影なさりたい、と言っておられましたので、お誘いし、いつものように中村さまもお誘いしました。なにしろ木屋旅館さんは、一棟貸し切りで、最高10人泊まれる広さです。人数は多い方がいいと、妹も誘いました。
 なんとか2泊、木屋旅館を押さえることができまして、となれば、ついでにイネさんが住んでいた場所がわかればなあ、と、なにげに検索をかけたんです。

 

 その結果、宇和島に「オランダおイネの三角屋敷跡」という看板があるということを知ったことが、すべての始まりでした。
 立てられたのは平成24年。4年前ですから比較的新しく、宇和島市観光協会が立てたもののようでした。
 おイネさんが「三角屋敷」に住んでいた、なんて、聞いたことがなく、私、まずは宇和島市観光協会に電話して、「看板の典拠はなんなんでしょうか?」と聞いてみました。
 最初、電話に出られた女性は、「テンキョ? なんのことですか?」と、なにを問われているのかわからない様子だったのですが、押し問答の結果、「南予文化会館の館長にお聞きになってください」との返答が得られました。

 さっそく、電話をかけましたところが、「呉秀三の『シーボルト先生 其生涯及功業』に出てきます」とのお答え。
 「えっ?」驚きでした。
 呉秀三は、母親が箕作阮甫の娘、父が広島藩支藩新田藩の御殿医で、明治、東京大学で医学を学び、ドイツ留学を果たして、東京大学医学部精神科の教授だった人です。シーボルトの息子たち、アレクサンダー、ハインリッヒと親交があり、明治29年、シーボルトの生誕百周年に、『シーボルト先生 其生涯及功業』という小冊子を出版しました。大正になってその改訂版の発行が、渡来百周年記念ということで企画されたのですが、関東大震災で遅れ、大正15年に発行されました。
 そして、その大正版そのままの体裁で(だと思います)、昭和54年に復刊されたのですが、このときはなんの記念だったのか、私は存じません。

 
シーボルト先生 其生涯及功業
呉 秀三
柳原書店


 ともかく、この大層な装丁の本は、シーボルトに関します基本文献でして、現在、内容の誤りもちらほら、発見されてきてはいるのですけれども、イネさんの伝記を書こうと思えば、絶対、目を通しておくべき本なんですね。
 よっこらしょと、重たい本を取り上げ、見返してみましたところが、館長さんのおっしゃる通りに、ありましたっ!(P540)

 (イネは)毎年宇和島に赴きて侯夫人の湯薬に侍したりといふ。この時富澤町の三角屋敷に住まひたり。 

 
 「この館長さん、ただ者じゃない!」と、私、いろいろと質問をさせていただきまして、新資料で変わる楠本イネ像で書きました新資料、「卯之町に約7カ月間滞在していたことを示す書翰」の件を教わりました。
 こちらにつきましては、西予市卯之町の講演で発表された資料ですので、卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 前編の最後に出てまいります先哲記念館で詳しいことを聞かせてもらえるとのこと。電話しましたところ、「来ていただければ資料を差し上げます」と いう話でした。
 結局、宇和島へ行く初日、西予市に寄りまして、中村さまを案内しがてら、先哲記念館で資料をいただき、お話もうかがったような次第です。

 で、南予文化会館の館長さんには、いろいろと情報をいただきましたし、宇和島で合流しました山本氏も誘い、中村さまもご一緒に、伊達文化保存会での資料撮影をすませた後に、御礼に出かけました。
 そのとき、名刺をいただいたのは、私一人です。
 で、私、名刺の裏を返してみることをしませんで、すっとしまいこみました。

 

 伊達文化保存会は、上の伊達博物館のすぐそばにあります。パークス来航150周年の旗がひるがえっておりますが、パークス宇和島来航時には、おイネさんの娘の高子さんも宇和島にいて、伊達家の奥の夫人や姫君方とともに、一行を迎えました。
 
 

 これまたそのそばにあります伊達家の幕末の庭園、天赦園です。やはり、もう少し早く、藤の季節に来たかったなあ、と。

 翌日、私と妹と山本氏は、午前中のバスで帰途へ。
 中村さまは、お一人、「せっかくここまで来たからもう一泊して、愛南町の紫電改展示館へ行きたい」ということだったんですね。
 そしてその翌日、松山空港から夜の飛行機で東京へ帰られる中村さまが、わが家に寄ってくださいました。

 前日の夕方、もう一度、宇和島の街を見物していらした中村さまは、偶然、南予文化会館の館長さんにお会いしたんだそうです。
 「えーと、なんてお名前でしたっけ? ちょっと、あんまり聞いたことのない名字の方ですよね」とおっしゃる中村さまに、「そうです。名刺をいただきましたので、お見せします」と私。
 取り出した名刺を、中村さまはひっくり返し、「あら、作家でいらしたんですか!」
 「えっ? えええええっっっ!!!」と、仰天しましたのは、私です。

 名刺の裏には、「宇神幸男」というペンネームに、代表作まで印刷されていまして、そのときまで気づかなかった自分に呆然としながら、検索をかけました。

宇和島藩 (シリーズ藩物語)
宇神 幸男
現代書館


 もともと、「郷土史家の館長さん」と思い込んでいたほどですので、上の「宇和島藩」には驚きません。しかし。

神宿る手
宇神 幸男
講談社


 30年ほど前に出版されました処女作は音楽ミステリー。デジタル版が出ていましたので、さっそく読んで見ました。
 ミステリー、というよりも、個性的で、世に入れられないピアニストをなにより浮き彫りにしたかったのでは、と思われる作品なんですが、最近、小説嫌いになった私が、いっきに読んでしまったほど、熱意が満ちていました。
 アマゾンのレビューに書いている方がおられますが、現実に「宇神幸男」氏が、同時進行で、「幻のピアニスト」エリック・ハイドシェックを宇和島に迎え、南予文化会館でのコンサートを成功させ、ライブ録音して、名盤の誉れ高いCD発売にまで関係しておられたんです。

伝説の宇和島ライブ1 テンペスト・版画
クリエーター情報なし
キングレコード


 上の盤のテンペストは名演として有名だそうですが、下の「月光」もすばらしいです。

月光 ハイドシェック 1989年宇和島市ライブ公演


 宇和島は、四国の端の小都市で、伝説のライブが行われた当時、人口10万そこそこ。現在は、86000人ほどです。
 にもかかわらず、迎え入れる文化の輝かしさは、いったい、なんなんでしょうか。
 イギリス公使パークスが来航した150年前にも、わずか10万石ながら、奥の侍医としてイネさんを迎え入れ、奥の女性たちは自由闊達にイギリス人に話しかけ、殿様と家老がスコットランド・ダンスを踊って宴席を盛り上げたわけですが、こんな藩は他にありませんでした。

 司馬遼太郎や吉村昭も泊まったという老舗、木屋旅館は、平成24年、ハイセンスに生まれ変わりました。



 玄関です。



 一部、透明のアクリル板なのが、なんとも新鮮です。




 洗面所、お風呂などの水回りは、モダンで、使い勝手も悪くありません。



 司馬さんが好きだったという2階の部屋は、居心地のいいライブラリーに。



 朝食のパンは日替わりです。この日はサンドイッチでした。
 夕食はついていなくて、食べに出るのですが、すぐ近くの桃太郎という割烹の魚介料理が、超美味でした。

 みなさまもぜひ一度、宇和島へお越しください。

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楠本イネとイギリス医学

2016年04月26日 | シーボルトの娘

 新資料で変わる楠本イネ像の続きです。

 最近、「井上武子」の検索で、アクセスが急増していまして、どうも、NHKBSプレミアム「英雄たちの選択 明治トップレディーたちの華麗なる変身~条約改正に挑んだ女たち」に井上武子が登場したから、ではないか、と思うのですが、いや、鹿鳴館外交はものの見事な失敗でしたのに、よくやりますねえ、NHK。
 実のところ、武子さんに関しましては、ほとんど史料がないんです。
 数冊にわたります大層な井上馨の伝記「世外井上公伝」に、ですね。外交で活躍したはずの武子夫人が、ほとんど、まったく、登場しません。

 えー、これ、けっして普通じゃありません。
 薩摩川内出身の外交官・園田孝吉は、井上馨の世話で、外交官夫人として活躍できそうな二度目の妻・けいを娶るのですが、大正15年発行の「園田孝吉傳」は、けい夫人の記述に一章、かなりなページをさいています。
 詳しくは、広瀬常と森有礼 美女ありき4をご覧ください。

 まあ、それでなのか、どーなのか、井上武子のことをブログに書いている人もあまりいなくて、ものすごく古い記事なのですが、このブログがヒットしたようです。いまさらですが、ついでに読んでいただけないものかと、「生糸と舞踏会」 のカテゴリーを新設しました。いや、なにしろ、生糸とモンブラン伯爵とフランスと小栗上野介とバロン・キャットと井上馨の汚職は、ひとつながりで、私がこのブログで追求していますテーマです。

 それは、ともかく。
 今回は、おイネさんとイギリス医学のお話です。
 おイネさんは、父・シーボルトの弟子たちから医学を学び、再来日したシーボルトからも直接教わっていますから、ドイツ医学の人です。
 にもかかわらず、その晩年、楠本家の跡取りに決めました孫の周三を、慈恵医科大学に進学させようと、精力を傾けたようなのですね。

 えーと。
 慈恵医科大学の創立者は高木兼寛。
 薩摩藩郷士だった高木兼寛は、同藩の蘭方医・石神良策に師事し、石神とともに戊辰戦争に従軍。
 帰藩後、藩の開成所洋学局で学んでいました。

 石神良策は、戊辰戦争で、薩摩藩の要請を受けて派遣され、従軍していたイギリス公使館の医官・ウィリアム・ウィリスがに出会い、心酔します。
 このときの功績により、明治新政府は、ウィリスを東京医学校(後の東大医学部)教授として招くのですが、当時、西洋医学を学んだ大方の日本人医師は蘭方医で、イギリス医学になじみがありません。
 蘭方、といいましても、オランダ医学とは、イコールドイツ医学なわけでして、結局、ドイツから教授を招いた方がいい、という話になったんですね。
 ウィリスは、自発的に退職し、かねてからイギリス医学を取り入れようとしていた薩摩藩に招かれて、鹿児島医学校長となります。
 もちろん、石神はウィリスとともに鹿児島へ帰るのですが、まもなく石神は、中央の海軍病院に呼び返されます。

 薩摩閥が中心となりました海軍は、全面的にイギリス式を取り入れようとしていまして、病院だけドイツ式では、なにかと不自由だったんですね。
 陸海分離が議論されていた時期でして、同時に医学も分離し、ドイツ医学が東大、陸軍を席巻します中で、海軍だけはイギリス式にしようと石神は奮闘し、それを成し遂げます。
 そのころ、高木兼寛は、鹿児島医学校でウィリスに認められ、教授になっていたのですが、石神に呼ばれて中央の海軍病院に移り、イギリス留学を果たして、結果的に西南戦争の時期、日本にいませんでした。

 それで、以前にも書いたような気がするのですが、高木兼寛の最大の功績は、海軍における脚気の撲滅です。
 原因がわかっている現在、脚気は恐ろしい病気ではありませんが、当時は死者も多く、和宮さまもその夫の将軍家茂も、若くしての死因は脚気です。
 高木兼寛は、観察の結果、栄養の偏りによるものと見て、兵食を白米から麦飯に転換することで、劇的に海軍の脚気を減らします。
 ところが陸軍と東大医学部は、脚気細菌原因説をとって、日清、日露戦争で、膨大な脚気による戦病死者を出すんですね。
 
新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)
吉村 昭
講談社


新装版 白い航跡(下) (講談社文庫)
吉村 昭
講談社


 高木兼寛の活躍につきましては、吉村氏の「白い航路」が詳しいのですが、なぜかこの本、石神良策のことはほとんど出てきませんし、なぜ日本がドイツ医学一辺倒になってしまったのか、という点も、詳しくは書かれていません。

胡蝶の夢(一)~(四) 合本版
司馬 遼太郎
新潮社


 司馬遼太郎氏の「胡蝶の夢」も、幕末から明治初期にかけての西洋医学導入の物語なのですが、石神良策については、あまり出てきません。
 石神は明治8年に病没しているのですが、実は、おイネさんと二人並んで映った写真があるんですね。おそらくは石神の晩年、海軍病院時代、と思われ、二人ともかなり年がいった感じです。
 その写真と石神良策の生涯について、太田妙子氏が論文を書いておられるのですが、発表の場が、「医譚」といいますあまり一般の目に触れない雑誌なんです。
 このたび、中村さまがそれを、国会図書館で見つけてくださったような次第で、私は、イネと石神の交友関係に目を開かれました。

 おイネさんの異母弟、アレクサンダー・フォン・シーボルトは、在日イギリス公使館に、通訳官として勤めていまして、ウィリアム・ウィリスとは、とても仲が良かったようなんです。なにしろウィリスは、イギリスへ渡ったアレクサンダーが訪ねていくから歓迎してやってくれと、兄嫁に手紙を書いているほどです。
 さらには、イネさんが宇和島で、パークスイギリス公使とともに来訪してきました弟のアレキサンダー、そしてウィリスと会っている記録もあります。
 当初私は、そこらあたりからのみ、おイネさんとイギリス医学の関係を考えていたのですが、なるほど石神良策の線もありか、とびっくりです。

 ところで、太田妙子氏によりますと、アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」下巻p223に、「石神はシーボルトの娘イネを娶った」という明らかなまちがいがある、とのことで見てみましたら、本当にそう書いてありました。
 サトウは、これ以前、長崎でおイネさんに会っていますし、アレクサンダーから、かなり立ち入った話を聞いていた可能性も高いんですね。
 私は、サトウが石神に会って、高子さんの父・石井宗賢と勘違いしたのではないか、と思います。

一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)
アーネスト サトウ
岩波書店



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新資料で変わる楠本イネ像

2016年04月13日 | シーボルトの娘

 『オランダおいね』と戦後民主主義の続きです。

 みなもと太郎氏の「風雲児たち」に、おイネさんが出てくることは、オランダおイネと楠本イネで書きました。


風雲児たち 幕末編 (8) (SPコミックス)
みなもと 太郎
リイド社


 上の8巻は宇和島の話でして、イネはオランダ語解読を深く教わるために、大村益次郎と同居しておりましたところが、あらぬ噂がたつんですね。これは、大村益次郎の伝記でそんなことを書いているものもありますので、まあ、いいんですが、その対策として大村はイネに、「卯之町の二宮敬作のところに住まわせてもらって、宇和島まで通ってこい。卯之町は近い」と言い、イネは毎日通った、というんです。
 「卯之町から宇和島まで毎日通ったなんて、ありえん!!!」と、私、のけぞりました。

 よくは知らないのですが、旧道でいえば片道20数キロ、あるはずです。しかも、法華津峠というとんでもない難所を通ります。私、車でですが、旧道の峠の展望台に行ったことがあります。
 西村清雄という松山藩士の息子が、クリスチャンになっていまして、明治37年、宇和島へ宣教に行った帰り道、この法華津峠を通って、日も暮れかかり、あまりの心細さに、自分を励まそうと、「山路こえて、ひとりゆけど、主の手にすがれる身はやすけし」という賛美歌を作ったことで、有名な峠です。

法華津峠パノラマビユ-


 往復すれば、十分マラソンの距離。しかも、狼でもでかねない山道です。毎日通うって、はあ。
 いや、これにあきれたあとで、吉村昭氏の「「ふぉん・しいほるとの娘」を読みかえしていましたら、すっかり忘れていたのですが、実はこれに、卯之町から宇和島まで毎日通った、というようなことが書いてあったので、どびっくりです。ただ、吉村氏は、イネ一人ではなく、三瀬周三を用心棒にして二人で通ったような書き方で、まあ、昔の人ならば、十分に歩ける距離ではあるのでしょうけれども、それにしても、毎日というのは、ねえ。ありえません。
 
吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」(長崎県観光)



 まあ、ですね。そういった創作部分は置いておきましても、現在、吉村昭氏のイネ像も、相当な変更を迫られているように思います。
 実は、ですね。ブランデンシュタイン家所蔵シーボルト関係文書、という史料群がドイツにあります。
 シーボルトの男系の血筋は、ドイツでは絶えているのですが、シーボルトの末娘がグスタフ・フォン・ブランデンシュタインと結婚しまして、その息子のアレキサンダーが、ヘレネ-・フォン・ツェッペリン伯爵令嬢と結婚し、子孫を残しました。結局、シーボルト家の多くの史料が、この末娘の血筋に引き継がれ、残っているのですが、長く未整理のままに置かれ、現在まだ、研究者の方々が解読中、なんですね。

 ブランデンシュタイン家所蔵シーボルト書簡の調査解読研究

 上のリンクにもありますように、シーボルトがフリーメーソンだったことがはっきりしましたし、まあ、私としましては、モンブラン伯爵とシーボルトの接点はそれなのではないかな、と興味が尽きませんが、この史料の中には、滝さんの手紙など、イネさんに関する情報も含まれ、これまで伝えられてきたことが、ちがっていたり、するんですね。

 楠本イネの卯之町滞在裏付け 新史料の手紙発 2016年01月17日(愛媛新聞オンライン)

 愛媛県西予市などは16日、日本初の産科女医、楠本イネ(1827~1903年)が、18歳の時に同市宇和町卯之町に約7カ月間滞在していたことを示す新史料が見つかったと発表した。イネの母タキがシーボルトへ送った手紙をシーボルト研究者の石山禎一さん(79)=相模原市=が読み解いた。イネは13~18歳の5年間、医学を志して卯之町にいたとされてきたが、公文書などの記録はなかった。西予市は「(新史料は)定説を大きく改める」としている。
 市などによると、手紙は1845年11月1日付。オランダ語で表記され、タキが口答したものを通訳者が記述したとみられる。手紙には「45年2月におイネは伊予国へ1人で旅立ちました。その国はあなた様の門人二宮敬作がおります」とあり、続けて「備前国の(産科医師の)石井宗謙に会いに行き、確か60日滞在している」と書かれていることから、45年2月ごろから約7カ月間、卯之町にいたことがうかがえるとしている。
 

 まあ、そんなこんなで、来月、宇卯之町と宇和島に、史料さがしに出かける予定です。

 
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『オランダおいね』と戦後民主主義

2016年03月20日 | シーボルトの娘

 オランダおイネと楠本イネの続きです。

 「まんが日本絵巻」の「おらんだおいね」を見つけました!

おらんだおいね/他一編



「まんが日本絵巻」は、1977年(昭和52年)から1978年(昭和53年)、TBSの放送だそうでして、前回ご紹介しました1970年(昭和45年)のポーラテレビ小説、実写版「オランダおいね」に似ているといえば似た感じです。
 どこからどー思いついたものなのか、見当もつきませんが、両方とも、幼いイネは自分の父がだれなのか知らず、オランダ人であることも知らず、しかし、容姿が普通の日本人とはちがうので、他の子供たちから「あいのこ」と呼ばれ、いじめられたりします。
 もしかして、「あいのこ」が差別用語のような使われ方をしはじめたのは、敗戦後の米軍占領期からのような気がするのですが、ちがうのでしょうか。
 どうも、幕末の日本が混血児いじめ蔓延の封建社会のように描きますTBSのまんがとドラマは、占領期のコンプレックスとウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムから生まれた、現代的で通俗的な混血児像をもとに、幕末の物語を作っているような気がします。

 双方、シーボルト事件で長崎払になっていたはずの二宮敬作が、長崎に住んでイネのめんどーをみていたりのどっびくり設定が多いのですが、案外案外、ちゃんと調べている、かもしれない部分もありまして、「中山作之進」通詞を出してきているのには、びっくりです。

 えーと。
 シーボルト記念館館長・織田毅氏の論文によりますと、長崎の通詞・中山作三郎(1785年の生まれなので、シーボルトより十ほど年上です)は、シーボルトと相当に深いつきあいがあり、二宮敬作とも懇意だったみたいなんですが、シーボルト事件にはかかわっていません。
 一方、小通詞並の堀儀左衛門は、シーボルト事件にかかわって、押し込め、免職となるんですが、作三郎の五男・達之助(文政6年・1823年生まれで、イネより四つ年上)が堀儀左衛門の養子になって、堀達之助と名乗るんです。

開国と英和辞書 評伝・堀達之助
堀孝彦
港の人


 上がちゃんとした評伝ですが、ちょっと高価です。
 読みやすくて、手頃な堀達之助の伝記といえば、小説ですが、吉村昭氏の「黒船」でしょうか。


黒船 (中公文庫)
吉村 昭
中央公論社


 
  実は私、堀達之助、ちらっとですが、以前、モンブランがらみで書いたことがあります。
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編下です。
 
 モンブランが短時間なりとも函館に滞在したとしましたら、おそらく、堀達之助に会ったでしょう。
 堀達之助は、長崎通詞の家に生まれ、ペリー来航時に活躍しました洋学者で、慶応元年(1865年)から箱館奉行所で通訳を務め、そのまま新政府に奉職。明治2年には開拓使権少主典として、函館にいました。彼の次男・堀孝之は五代友厚と親しく、薩摩藩士となって、幕末留学生を伴いました五代の渡欧に同行し、通訳を務めて、モンブランのインゲルムンステル城に滞在したんです。
 

 堀家は、薩摩とのつながりが深くて、分家が薩摩藩士になっているくらいでして、堀達之助の次男・孝之も薩摩藩士になっているというわけです。

 おイネさんが、中山作三郎および、その実子の堀達之助と知り合いだった可能性は、相当に高いのですが、証拠はありません。

 幕末の長崎におきまして、オランダ人との混血でありますことは、それほど珍しいことではなく、いじめられる幕末の混血児像は、戦後民主主義が生んだ幻のように、私には思えます。


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オランダおイネと楠本イネ

2016年03月14日 | シーボルトの娘

 卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 後編の続き、ということになります。

 先年から、近藤長次郎本挫折、文さん本挫折と続きました。どちらもあきらめたわけではなく、なんとかしなければと思いつつ、前へ進まなくなりましたところで、昨年の暮れ、山本栄一郎氏から、シーボルトの娘・楠本イネに関します、あっと驚くような情報をいただきました。それがどのような情報かは、書きません。なにしろ山本氏に、「なにもかもブログに書くのはやめてください!」と戒められておりますし、さらに私、どうもブログに書きますと、それで満足して、本の原稿を書かなくなりますし(笑)
 山本氏のご指摘を受け、他にもいろいろと調べてみましたところが、近年、いままで知られておりませんでした史料も紹介され、どーやら、司馬遼太郎氏の『花神』とも吉村昭氏の『ふぉん・しいほるとの娘』とも、まったくちがう楠本イネ像を掘り起こせそうな気がしてまいりました。


花神(上中下) 合本版
司馬 遼太郎
新潮社


吉村昭歴史小説集成〈6〉ふぉん・しいほるとの娘
吉村 昭
岩波書店


 おイネさんを書くことの利点は、愛媛に関係する人物ですので、地元から出版できることです。
 これまで私、趣味の集大成として本を出そうと思っていたのですが、おイネさんならば、仕事の集大成にもなりえます。
 まずはおイネさんだわと、正月そうそう知り合いの出版社に話を持ち込み、OKをいただきました。

 えーと、それでまあ、原稿を書きかけてはいるのですが、なににとまどうって、このブログは最近、あきらかにオタク向けになっておりまして、私、幕末の一般的な出来事を説明しないですましてしまっているわけなのですが、一般向けの本を一冊書くとなりますと、きっちりと、しかもわかりやすく、時代の概要を提示しなければならないんですね。
 あらためて説明しようとしますと、知ってたような気でいて、実はよくわかっていなかった事柄も多く、自分がわかっていなければ説明のしようもありませんし、まして、臨場感をもたせるなんて至難のわざです。
 つくづく、司馬遼太郎氏はすごいですわ。

 そんなこんなで、私、書き始める前にまず、身近な女性たちに「シーボルトの娘のおイネさんについて、どんなイメージを持ってる? そのイメージのもとはなに?」と聞いてまわりました。
 それが、意外にも、ですね。『花神』も『ふぉん・しいほるとの娘』も、だれも読んではいなくって、私の知らなかったドラマが二つ、あがりました。
 一つは、宮沢りえがイネさんを演じたNHKドラマ『おいね 父の名はシーボルト』で、調べてみましたら十数年前の作品でした。
 忙しかったんでしょうか。私、さっぱりその存在自体を知らなかったのですが、妹に聞けば、相当に暗い話だったそうで、「で、あのドラマみたいに、おイネさんは本当に強姦されたの?」と聞き返されました。
 
 もう一つは、TBSのポーラテレビ小説『オランダおいね』でして、四十数年前に放送されたものです。
 この当時、松山には確かTBSがなかったはずでして、放送されていなかったのではないか、と思います。
 しかし、『オランダおイネ』という呼び方は、幾度も耳にしたような気がしまして、もしかしてこのドラマゆえなのか、とも思え、どーしても内容を知りたくなり、ノベライズの古本を手に入れました。
 これが、もう、荒唐無稽の作り話で、唖然としました。
 
 まあ、ともかく、ですね。みなもと太郎氏の『風雲児たち』にも、かなり頻繁にイネさんが登場するとは、今回、初めて知りました。

風雲児たち 幕末編 24 (SPコミックス)
みなもと太郎
リイド社

 
 「風雲児たち コスプレ美女コンテスト」というのもありまして、シーボルト・イネは一位です! いや、シーボルト・イネって‥‥‥、そんな名乗り、本人がしたことないんですけどね。
 楠本イネが、本人が望んだ正式な名です。
 イメージとしましては、『花神』と『ふぉん・しいほるとの娘』をごちゃまぜにして、しかし『花神』テイストが強い、という感じで、楽しくも強烈なイネさんです。

 これからときどき、原稿にはならないイネさん周辺の話題を、ひろっていくつもりでおります。


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