ととろサンのひとりごと

【観たり聴いたり旅したり】からこちらへ。旅やアメリカでの話、趣味のことなどなど・・・自分の覚書を兼ねて。

晩秋の候、遠来の友と再会を果たして候。

2017-12-03 06:16:29 | 日々の中で

 楽しみにしていた「オキナワ・スズメウリ」が、今年はほんの少ししか実をつけなかったと嘆いていたら、友人(私はさっぱり駄目だが、彼女はいわゆる「緑の手を持つ人」草花を育てるのがとても上手だ)がどっさり持って来てくれた。

彼女の家で最初に見た時、余りの可愛らしさに種を貰って、ご隠居が育ててくれていたのだが。ビー玉より少し大きく縞模様の入った瓜状の実は【緑⇒赤⇒茶色】と色を変え、萎んで種を残す。垣根に這わせると、なんとも可愛くて、道行く人が「これは何ですか?」などと尋ねたものだった。頂いたのをとりあえず玄関にぶら下げて、晩秋の色を添えた。バラでもらった実は、竹かごなどに広げるとこれもまた季節の一興となる。

その晩秋の頃、思いがけず「会いたいな」とお互いにメールで話していた友人に、再開の機会が出来た。

「遠来の友じゃないよ」とTさんは笑うだろう。舞鶴在住の人だから。そうなのよね、ところが実際にはなかなか会えない。彼女は沖縄から舞鶴へ戻ったあと、3度訪ねて来てくれたのに、私はまだ一度も訪れる機会を作れないでいる。今回は11年ぶりの再会だった。

彼女とはまだ娘達が幼稚園・小学低学年の頃、ご隠居の転勤で沖縄・豊見城というところに住んだ時に親しくなって以来のお付き合いである。近くに新築の小学校はできたものの、図書室はあるが肝心の本が一冊もなく、広かった社宅の居間を使って【自宅解放子供文庫】(沖縄県や那覇市から、本は借りて)を始めた時も手伝ってくれた人である。そういえば運動場作りも父母総出で、一輪車で石ころ拾ったりして。まだ沖縄は復帰して数年しか経っていない頃だった。

今なら医療裁判ものであろう医者の診断ミスで、私が危うくなった時、子供たちの面倒などを見てくれた人、その生き方も尊敬に値する人である。母の背中を見て育った長男さんは、障害者・老齢者に関わる福祉の仕事に従事している。

 

Tサンは子供達への読み聞かせは、もう20年過ぎただろう。今も保育園などで「本読んでくれるヤコおばあちゃん」と愛され、【視覚障害者ボランティア】も30年越えただろうし、満州からの引揚げ体験者として【舞鶴引揚記念館】で語り部も続けている。個人的には長男の嫁として、6年前100歳で天寿全うした姑の世話も、T家のいわゆる日本的な家庭の在り方を支えている。なんたって暮れに衝くお餅の量も半端ではない。今でも息子たち一家、夫の弟妹たちなどが集まるお盆やお正月だから。それをこなしているから、どうやっているんだろう?と思う時がある。ご主人様は「男は黙ってなんとやら・・」の時代の方である。

舞鶴市は引揚げ港として知られている。市が所蔵する「シベリア抑留」と「引揚事業に関する資料」がユネスコ世界記憶遺産に登録されたのを契機に、全国の引揚げ者を迎えた港のある市などで展示会が開催された。

【舞鶴引揚記念館全国巡回展 in 福岡】~引揚げの記憶と平和への願いを世界へ、未来へ~

が11月23日~~28日迄、福岡市唐人町の福岡市福祉プラザ(ふくふくプラザ)で開催。23・24日ミュージアムトークにTさんの文章と、語り部仲間の人が絵を描いた紙芝居などを、引き揚げ体験とともに披露することになっての来福であった。

オキナワスズメウリをくれた友人を誘って出かけた。彼女も引揚げ体験者、ご隠居も駆逐艦【雪風】で引き揚げてきた。満州でなく京城からではあるが。子供の頃とはいえ、鮮烈に残っている記憶もあるという。

  

 

(博多港引揚げ記念碑の画像はネットから拝借しました)

福岡では福岡大空襲での被害が大きかったり、博多港は引揚げ者受け入れ期間は2年間?位と短かったのと、あくまで通過地としての役目だけだったので、舞鶴のように記念館があるとか、引揚げに対する意識が強いという傾向はないようだ。博多港近くにある記念のタワーも、タクシーの運転手さんさえ「そんなものがあるのですか?」という応対だったそうだ。この展示会をが池に投げた小石が波紋を広げるように、に少しでも関心を持ってくれる機会になったら~、戦争という愚かな行為が残して傷跡がどんなに大きなものだったかを、考えるきっかけになってくれれば・・・とTさんは話していた。

半ば公的な立場での来福だったし、舞鶴市長や仲間の方達と一緒だったので、個人的にゆっくりする時間はなく、会館内で昼食をとりながら話した程度だったが、日ごろメールが行き来しているので、お互いに不満はなかったねと笑いあった。

彼女の銀白の髪と艶々した頬、優しいまなざしや語り口、ご隠居とも「Tさん、良い年の取り方をなさっているね」と話したものだ。信念を強く持ちながらも、優しさを失わない、そんな生き方が現在のTさんを創り上げたのだろう。短い時間だったが「会えてよかったね」と手を取り合った。

残念なのは・・・貴重なこの展示会開催の場所が、市民が集まりやすいところでなかったこと。市役所内や天神界隈だったら、来庁者や買い物に来た人も、立ち寄ってくれたであろうに。それに天候が悪かったこと。今日のような小春日和だったら、明るい陽ざしだったら、近くの大濠公園くらい何とか時間を作って貰って一緒に行けたのだけど。Tさんが帰るまで雨や風の悪天候だったのも残念だった。

広島長崎の原爆にしろ、福岡の大空襲にしろ、この引揚げにしろ、語る人はだんだん少なくなり、戦争の記憶は遠くなり、世界で軍靴の響きが絶えない世の中となった。

Tさんが「身体が動くうちは」と頑張るのも【舞鶴引揚記念館】には若い世代の来場者も多く、そんな人に記憶を伝えることが大事なことだと、強い気持ちを持ち続けているからだろう。くれぐれも身体だけは、労わって欲しい!

コメント (9)
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