陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

585.桂太郎陸軍大将(5)ニコニコ笑いながらポンと背中を叩くと、誰もがぐにゃとなって

2017年06月09日 | 桂太郎陸軍大将
 「桂太郎―予が生命は政治である」(小林道彦・ミネルヴァ書房・平成18年)の「あとがき」で、著者の小林道彦は、次のように述べている(一部抜粋)。

 「桂太郎の評伝を書くことになった」とある大学の教員に話したら、彼は事もなげに「ああ、あのニコポン宰相ですか」と応えた。

 おいおい君は専門的研究者なんだろう、とその紋切り型の反応に内心やや唖然としながらも、わたしは、桂に対する特定のイメージが牢固として存在していることをあらためて痛感させられた。

 それにしても、「ニコポン」とは何とも軽い表現である。それは、ニコニコ笑ってポンと肩をたたくという、桂一流の人心掌握術に対する揶揄的表現であるが、いったん面と向かってこれをやられると、桂に対して敵意を持っていた人間すらも、何となく和んだ気分になってしまったという。

 もっとも、桂は若い頃から「ニコポン」であったわけではない。明治一九年陸軍紛議の頃の桂は、四将軍派を打倒した得意満面の軍官僚であり、その自信過剰ぶりに不快感を催す者も多かった。

 ところが、その後の左遷人事と弟二郎の借財による桂家存亡の危機が彼を変えたようである。桂がこの危機的状況を乗り切れたのは、もちろん第一義的には桂本人の努力の賜物であるが、井上馨や品川弥次郎、児玉源太郎といった郷里の先輩・友人の物心両面にわたる支援によるところも大きかった。

 そしてこの頃から桂の自信過剰ぶりは蔭をひそめ、むしろ「ニコポン」的な人当たりのよさが前面に出てくるのである。

 人は一人で生きていけるものではないということを痛感させられた時、桂の内面でなんらかの変化が生じたのであろう。そしてそれは、桂が軍官僚から政治家へと転身する、その過程を精神的に支えたのであった。
 
 【千葉功(ちば・いさお)】昭和四十四年生まれ。千葉県出身。平成五年東京大学文学部国史学科卒業。平成十二年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、文学博士。昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科准教授を経て、平成二十三年から学習院大学文学部史学科教授。専攻は日本近現代史。歴史学者。

 著書は、「旧外交の形成―日本外交1900-1919」(勁草書房・平成20年)、「桂太郎―外に帝国主義、内に立憲主義」(中公新書・平成24年)など。

 「桂太郎―外に帝国主義、内に立憲主義」(千葉功・中公新書・平成24年)の「はじめに」で著者の千葉功は、次のように述べている(一部抜粋)。

 桂のあだ名は大きく二つに分かれる。一つは、桂のおおきさにちなむものである。「福助」「才槌」「臼」「巨頭翁」「大顔児」「大きな赤ん坊」などがそれである。

 桂は原子物理学者の仁科芳雄に破られるまで日本人脳髄の重さの最高記録を持っていたという。

 もう一つは、桂の政治スタイルにちなむものである。たとえば、いちばん有名なものに「ニコポン」がある。これは、次のような光景に由来するものであった。

 応接室へ通され、しばらくというので、茶をすすりながら、待っていた。やがて廊下にあし音がしたと思う間に、公(公爵、すなわち桂のこと)は微笑満面、不断着に、兵古帯をぐるぐると巻きつけた無雑作な姿で、「やあ、おはよう」と、そのまま私の前へ、坐り込まれた。

 そうして着物の上から臍下を、ごしごし掻きながら、「君、年をとるといかんぞ、昨夜も、夜ふかしをしょったが、どうもひどく体にこたえてね」と、爆発するような大笑。

 それから「一しょに飯でも。食おうじゃないか。君と議論すりゃ負けるから、勝はまず、君に譲っておくとして、まあゆっくりしたまえ。別にさしつかえないんだろう」と、早くも公は、私のしかみっつらを一瞥して、事面倒と感ずくや得意の一手で、みごと先を越されたのだ。

 こういう加才ない公の長子にかかっては、何人がどんなに激しても、しょせん、切り込みようはあるまい。(片岡直温『回想録』)

 このように、「ニコポン」とは、桂が相手を説得するとき、ニコニコ笑いながらポンと背中を叩くと、誰もがぐにゃとなって、丸めこまれたことにもとづく。

 片岡直温(かたおか・なおはる)は、高知県出身。滋賀県警部長、内務省を経て、日本生命保険会社副社長、同社社長、都ホテル社長を歴任。その後衆議院議員、桂太郎の立憲同志会に参加。商工大臣(加藤内閣)、大蔵大臣(若槻内閣)を務めた。実業家、政治家。

 桂太郎は弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)、長州萩平安古町、川島村の士族屋敷で、桂与一右衛門の長男として生まれた。幼名を壽熊(ひさくま)、のち太郎と改めた。