陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

200.東條英機陸軍大将(20) 天皇は「そうか」と言った。その一言だけだった

2010年01月22日 | 東條英機陸軍大将
 さらに、木戸自身もすでに重臣見解支持の態度を打ち出している以上、内大臣は辞任しなければならないということだった。

 木戸内大臣の忠告に天皇は「よくわかった」とうなずいた。

 オープンカーで宮城入りした東條首相が、宮殿に入り、拝謁室に向うと、取次ぎの侍従が少し待ってくれと止めた。今、内大臣が拝謁中だというのである。

 東條首相は「こっちは約束の時間通りに来たのに、どういうことか。また木戸が~」と思った。休所でひとり、案内を待っていると、政務室から退出してきた木戸内大臣が前を通りかかった。

 木戸内大臣は、挨拶すると東條に、これから上奏する内容を聞いた。東條はぶっきらぼうに言った。「内閣総辞職を決意し、内奏に参ったのです」。

 木戸は大変喜ばしかったが、そんな様子はおくびにも出さなかった。木戸はつとめて事務的にきいた。

 「円満に政変を収拾するため、私のふくみとしてお尋ねしておきますが、後継首相についてお考えがありましょうか?」

 東條は、自分の暗躍をとぼけている木戸に、皮肉をぶつけた。

 「今回の政変には重臣の責任が重いと考えます。従って、重臣に既に腹案がおありのことと思うので、あえて自分の意見は述べません。ただ、皇族内閣などを考えられる場合には、陸軍の皇族をお考えなきよう願います」

 これは、陸軍としては含むところがあるぞ、という凄みをきかせた、捨てぜりふであった。陸軍の皇族と東條が言ったのは、東久邇宮のことである。重臣たちが東久邇宮を首相に奏請して陸軍を押さえ、親しい近衛と組ませて和平にもっていく危険を東條は感じていた。

 木戸に釘をさすと東條首相は拝謁室に向った。天皇のご意見次第で、まだわからんぞ。東條首相は自分に言い聞かせた。天皇は東條に首相を続行させるかもしれない。

 いつものように、天皇は無表情で現れた。

 「諸般の実情にかんがみ、総理大臣の辞職をお許し願いたいと考えて参りました」

 東條首相が言うと、天皇はちょっと思案する様子だったが、すぐに天皇は「そうか」と言った。その一言だけだった。東條首相は、しばらく次の言葉を待ったが、天皇はなにも言わなかった。

 東條には訴えたいことが沢山あったが、この日は「椅子」の声もかからなかった。東條首相はじっと立っている天皇を見ていた。そこからはなんの感情も読み取れなかった。

 やがて、東條首相はうやうやしく最敬礼をし、天皇は、静かに退室して行った。東條の思惑は実現しなかった。東條首相は総辞職するもやむなしと決心した。東條内閣は昭和十九年七月十八日に総辞職した。

 この日七月十八日午後五時、サイパンの日本軍玉砕が、大本営から発表された。東條内閣総辞職が国民に発表されたのは七月二十日であった。

 一切の地位から退いた東條英機は、以来、終戦の昭和二十年八月十五日まで、東京世田谷区用賀の自宅に引きこもっていた。

 昭和二十年九月初めから、連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーは、日本人戦争犯罪人の呼び出しを始めた。大日本帝国最後の陸軍大臣・下村定大将(陸士二〇・陸大二八首席)は、東條英機が自決を決意していると耳に挟んだ。

 九月十日、下村大臣は東條に陸軍省へ来るように要請した。東條はやって来た。下村大臣が「閣下は自決を決意されていると聞きましたが」と言うと、東條は「自分は国民と皇室に重大な責任がある。死をもってお詫びする以外ない」と答えた。

 下村大臣が「いや、閣下にはぜひ東京裁判に出てもらわなければなりません」と言うと、

 東條は「自分には自決しなければならないもう一つの理由がある。それは戦争中に公布した戦陣訓の中に「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。これを守って多くの将兵が死んだ。これを自ら破ることはできぬ」と答えた。

 だが、下村大臣は一時間以上に渡って東條を説得した。東條は「一応考え直してみる」と言って帰っていった。

 翌九月十一日午後四時、米軍の憲兵が東條の自宅にやって来た。東條はピストルで胸を打って自決を図るが失敗した。

 回復した東條は東京裁判では、開戦の責任が天皇にないことを主張した。昭和二十三年十一月に東條英機は絞首刑の判決を受け、その年の十二月二十三日未明、巣鴨刑務所で処刑された。六十四歳だった。

(「東條英機陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山本五十六海軍大将」が始まります)

199.東條英機陸軍大将(19)この国内での戦いに勝てなくて、どうして敵との戦争に勝てましょうか

2010年01月15日 | 東條英機陸軍大将
 昭和十九年六月三十日、高木惣吉海軍少将(海兵四三・海大二五首席)は、海軍の現役・予備役大将招待会の前に、米内光政海軍大将(海兵二九・海大一二)と自宅で面会した。そのとき、米内大将は次の様に言った。

 「細かなことは知らぬが、戦争は敗けだ。確実に敗けだ。だれが出てもどうにもならぬ。老人は昼寝でもするほかはあるまい」

 大将会では末次信正大将(海兵二七・海大七恩賜)からサイパン奪回に関し鋭い質問が出された。このため、海相兼総長・嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)と作戦部長・中沢佑少将(海兵四三・海大二六)は、答弁に大いに苦慮した。

 そこで形勢不利と見た軍務局長・岡敬純中将(海兵三九・海大二一首席)は、食事の準備ができたことを口実に、助け舟を出した。

 この様子を見ていた米内大将は、食事後、「あれ(嶋田)ではだめだな」ともらした。

 それから海相更迭工作は表面では内閣強化のための改造工作と称しながら、裏面では内閣更迭の工作に変わっていた。そして海相の更迭、重臣の入閣が決定された。

 海相としては野村直邦海軍大将(海兵三五・海大一八恩賜)がまず親任された。入閣する重臣には陸軍側は安部信行大将(陸士九・陸大一九恩賜)、海軍側は米内大将がほぼ決まり、安部大将は承諾したが、米内大将は就任を保留した。

 こうなるとどうしても閣僚のポストが一つ不足してしまう。誰か閣僚を辞めてもらわなければならなくなった。そこで東條首相は国務大臣の岸信介に辞めてもらうことにした。

 星野直樹官房長官が首相の命により使いに立ち、岸に「内閣を強化するため退いてくれ」と言った。岸は「返事は直接総理にする」と星野を返した。

 岸は首相官邸に行くと、東條首相に対してキッパリと辞職勧告を断った。東京憲兵隊長・四方諒二大佐(陸士二九・東京帝国大学法学部)がやってきて、岸をおどしたが、岸は辞任を承諾せず、辞表を出すことを拒否した。

 岸は木戸幸一内務大臣と同郷の長州出身者であり、相協力して、内々に東条内閣打倒を打ち合わせていた。当時は閣僚の中で一人でも辞表を出さぬ場合は首相が命ずることができず、内閣は総辞職することになっていた。

 東京に事情に疎い呉鎮守府司令長官・野村直邦大将は、後任海軍大臣の交渉を受け、東條にだまされたような形で、七月十七日親任式に臨んだ。

 だが、その日、平沼邸では重臣が集まり、重臣はひとりも入閣しないことを決め、東條内閣不信任の態度をはっきり表明した。

 赤松秘書官は東條首相に「閣下! 強い手段をとって、国を救ってください。こんなことでは日本はだめになります。この国内での戦いに勝てなくて、どうして敵との戦争に勝てましょうか」と叫んだ。

 さらに「決戦体制をつくることに邪魔する者は、断固厳しい処分で除いてゆかなければなりません」と、暗にクーデターをほのめかす発言をした。

 涙を流して訴える赤松秘書官に、東條首相は優しく言葉をかけた。

 「馬鹿、お前の考えは甘い。日本は天子様の国だ。すべて天子様のお考え通りにするのが、日本人の長所であり、本分ではないか」

 木戸内大臣は、当初は東條英機を首相に推薦し、東條内閣に協力していたが、末期になると、木戸内大臣と重臣の間で早期和平を実現させようと、東條内閣の倒閣を画策していた。

 東條は自分の意見が通らない時は、木戸内大臣に対しても脅迫的な言動をとった。さすがに、木戸は東條を快く思わなくなっていた。天皇に対しても、東條の批判を告げた。もう東條は辞めさせるべきだと思っていた。

 昭和十九年七月十八日、木戸幸一内務大臣は、東條首相が天皇に拝謁を申し込んでおり、それが午前九時半の第一番に設定されていると聞いて、あわててその前に拝謁する手配をした。重臣会議の上奏を、東條より前に天皇に伝えておかなければならなかった。

 「東條英機暗殺の夏」(吉松安弘・新潮社)によると、九時十五分に拝謁した木戸内大臣は天皇に平沼邸での重臣会議の結果を話し、次の様に述べた。

 「首相がこれから上奏される内容は存じませんが、いま言上致しました重臣の動向によく御配慮の上、輿論のおもむく所と背反しないよう、お話されますように、特に御注意お願い申します」

 木戸内大臣が天皇に述べた、この意味は、重臣たちが、あからさまな東條不信任の上奏を出した以上、天皇が東條支持の態度を明らかにした場合は、国家の重臣が上意と逆の見解を具申したとして、その地位や位階勲等などを拝辞するといった騒ぎにもなりかねないということだった。

198.東條英機陸軍大将(18)嶋田は替えたほうが良いと思う。このままでは海軍は収まらぬ

2010年01月08日 | 東條英機陸軍大将
 赤松大佐の申し出に、岡田大将はあわてて、大いに恐縮したような素振を見せ、「ああそうか、そりゃ悪かったなあ。大変申し訳ないことをした、もうしないよ」と言った。

 赤松大佐が「そうですか? それじゃ、総理のところへ行って、ちょっと謝ってください」と言うと、岡田大将は「わかった、そう取り計らってもらえれば、会いにいこう」と答えた。

 さらに赤松大佐が「今後自重して策動のような行動はしないと、はっきり総理に申し述べていただけますね?」と念を押すと、「よしよし、承知したよ」と岡田大将は、その場を取り繕うような感じで答えた。

 東條首相との会見時間はその日の午後二時に決まった。この朝、東條首相は宮中の定例閣議に出席し、「最近、日本にもパドリオが横行し始めたようだから、諸君も充分ご注意願いたい」と発言し、閣僚達をにらんだ。

 東条英機暗殺計画(工藤美知尋・PHP研究所)によると、昭和十九年六月二十八日、高木惣吉海軍少将(海兵四三・海大二五首席)が、重臣の岡田啓介海軍大将を訪問した。

 そのとき、岡田大将は前日の二十七日に、首相秘書官の赤松大佐が、首相官邸へ来訪の要請があり、首相官邸で東條首相と岡田大将の対決になったことを高木少将に話した。

 その模様が「高木資料~岡田大将との会見秘録」に次の様に記されている。

 六月二十七日午後一時過ぎ、首相官邸二階の応接室で、岡田と東條は会見した。両者は、一応会釈はしたものの、すぐ沈黙してしまった。しばらくして東條から口火を切った。

 東條「あなたが色々動いておらるると聞いているが、私はそれを、はなはだ遺憾に思っています」

 岡田「総理から私の行動について遺憾に思うとの言葉を聞いて、私はむしろ意外である。私は海軍の現状を見聞して、嶋田では収まらぬ。いくさもうまくできぬ。総理の常に言われる陸海の真の提携もできなくなると考えるからこそ心配しているのであって、総理のためとこそ考えている」

 東條「もしあなたが言葉どおりでおるのならば、何ゆえ陛下や宮殿下までをも煩わせるか。さようなことはまことに不穏当ではないか」(いらだちながら、言葉荒く言った)

 岡田「お上や宮殿下がいかようのことを遊ばれたかは、私は全然関知せぬところで、私を引き合いに出されるのは当たっておらぬ」

 東條「海軍の若い者どもが、嶋田のことでかれこれ言うのは、けしからぬことではありませぬか。あなたはそれらの若い者を抑えて下さることこそ至当ではないか」

 岡田「海軍の若い者が、上司のことをかれこれ言ったならば、それはけしからぬことで、あなたの言われるとおりだ。しかし嶋田ではいかぬと考えたのは私である。今の海軍の状況を見たり聞いたりしてこれではいかぬ、これは嶋田では収まらぬと考えたので、若い者には罪は無い」

 東條「嶋田海軍大臣を替えることは、内閣が更迭となるから、私は海軍大臣を替えることはできません」(岡田がなかなかしぶとく、東條はますます激昂した)

 岡田「私は、嶋田は替えたほうが良いと思う。このままでは海軍は収まらぬ。戦もうまくいかぬ。また世間も収まらぬ。結局東條内閣のためにならぬから、ぜひ考慮されたがよろしい」

 東條「それは意見の相違で、私はできぬ。戦争のことを言われるが、サイパンの戦いは五分五分と見ている」

 岡田「これ以上はただ繰り返すことになるが、重ねて私は、嶋田は替えたほうが良いと思っている。ぜひ考慮されたがよろしい」

 こう言い切ると、岡田は席を立った。東條は岡田を玄関まで送りながら、怒るようにして言った。「考慮の余地はありません」。会見は三十分で終わった。

 「東條英機」(上法快男編・芙蓉書房)に東條首相の秘書官・赤松貞雄大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)の手記が掲載されている。岡田と東條首相の対決会見後の様相を記している。

 それによると、岡田が首相官邸を辞した後、赤松秘書官は東條首相に重臣の岡田海軍大将との会見結果を尋ねたら、東條首相は不機嫌だった。

 東條首相は「赤松は確実に当日の会見趣旨を岡田氏に伝達したのか」と詰問された。岡田氏は嶋田海相排斥等の策動については、一応は簡単に陳謝したが、それだけに止まり、後の会見時間の大部分は海相に対する海軍部内の不評を縷々首相に陳述したに過ぎなかったとの事だった。

 赤松秘書官は岡田氏に対し事前に、首相に会ったらよく陳謝した上、今後自重して策動と疑われる行動はしない旨をはっきり申し述べる様にとお願いしたのに拘らず、そして岡田氏も「よしよし承知したよ」といわれながら事実はこれと反対に会見の機会を逆用したことを知った。

 赤松秘書官はやはり岡田氏は狸爺だなと思わざるを得なかった。赤松秘書官としても使者の任務を全うしえぬ結果になり、誠に遺憾と感じた。

197.東條英機陸軍大将(17)「大臣をやっつければよいだろう」と放言してはばからなかった

2010年01月01日 | 東條英機陸軍大将
 三笠宮は陸軍士官学校四十八期、津野田元少佐は五十期で先輩・後輩の間柄でもあった。当時津野田元少佐は電源開発株式会社秘書役で民間人だった。

 その民間人が天皇の弟宮である三笠宮と一対一で会うことは、常識からいって考えられなかった。別邸の応接間で津野田元少佐は三笠宮と会った。

 しばらく二人は、世間話をした。そのあと、三笠宮は「私も君には迷惑をかけた。済まなく思っている」と言って低頭された。

 津野田元少佐は「殿下、そのことは、一切、水にながしましょう。世間にも、発表はしません」と答えた。だが、津野田元少佐が昭和六十二年に死去した後、「秘録東條英機暗殺計画」(津野田忠重・河出文庫)が出版され、全て明らかにされた。

 「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によるとサイパン戦前後から、政府統帥部の戦争指導に不満を持つ海軍中堅層の間に、東條政権を倒すためには合法的手段をあきらめ、テロによって倒すしかないという、せっぱ詰まった空気が出てきた。

 「細川日記」(近衛文麿の秘書官、細川護貞の日記)によると、昭和十九年五月一日、海軍懇談会が開かれ、席上、テロによる東條政権倒壊工作に話が集中した。

 中山貞義海軍中佐(海兵五四恩賜・海大三六、戦後海上幕僚長)の回想によれば、海軍省内においても、大臣室の前に番兵が立つようになった。

 中山の部下の橋本睦男主計大尉などは、嶋田繁太郎海軍大臣(海兵三二・海大一三)に対するテロを半公然と口にしており、翻意させるのを非常に苦労したと中山は述べている。

 神重徳大佐(海兵四八・海大三一首席)などは、「大臣をやっつければよいだろう」と放言してはばからなかった。海軍部内の空気は一触即発の状況だった。

 事ここに至って、それまで神大佐らの計画に再三ブレーキをかけてきた教育局長の高木惣吉少将(海兵四三・海大二五首席)も「私の納得できる確実な具体的方法を研究してみせろ」と、全責任を背負う覚悟で命じた。

 高木少将と神大佐らが中心となって東條首相暗殺の具体的方法を検討した結果、数台の自動車を使って作為的に交通事故を起こし、併せて拳銃でとどめをさすという方法が、最も確実性があるということになった。

 決行日は七月二十日(木)と決まった。東條が宮中での閣議から官邸に帰る途中を狙うことにした。決行場所は海軍省の手前の四つ角ということにした。

 ここだと海軍省内や大審院、内務省側に車を待機させておき、はさみうちにできる。東條首相のオープンカーが四つ角にさしかかるところで、前と両側から進路を押さえて襲撃できる。

 実行後、現場から脱出できた者は、連合艦隊司令部の作戦参謀・神大佐により、厚木航空隊から台湾かフィリピンに高飛びさせることも計画していた。

 だが、六月十九日、マリアナ沖海戦に伴い、部内の人事異動があり、同志が転任したため、テロ計画は縮小せざるを得なかった。

 さらに、この東條暗殺計画は決行予定日の前日、昭和十九年七月十九日に、東條内閣が総辞職したため、未遂に終わった。

 戦後、この計画に関して、半藤一利(文藝春秋編集委員長)から質問を受けた時、高木元少将は次の様に述懐した。

 「後で知って、驚きましたね。われわれが決めた七月二十日には、ドイツではヒットラー暗殺未遂事件(ワルキューレ作戦)が起こっているんですね。かりに決行して、殺さないまでも、怪我でもさせていたら、いくら陸軍部内に反東條派が多くいるといっても、そこはそれ、海軍が手を出したとなると、その後の終戦工作にもヒビが入って、日本は果たしてどうなっていたかと、それを思うと、やはり若気の至りというほかはないですね」

 「東条英機 暗殺の夏」(吉松安弘・新潮社)によると、昭和十九年六月二十七日午前、東條首相の秘書官、赤松貞雄陸軍大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)が重臣の岡田啓介海軍大将の自宅に国民服姿でやってきた。

 挨拶をすますと、赤松大佐は用件を切り出し、「大将が嶋田さんのことなどを工作されるので、総理は怒っておられます。海軍の長老として、海軍大臣を補佐すべき地位にあるにもかかわらず、伏見宮殿下や高松宮殿かを煩わし、また宸襟を悩まし奉るが如きは、甚だ不都合ではありませんか。そのような陰険な謀略はやめていただきたい」と言った。

196.東條英機陸軍大将(16)暗殺の決行日は昭和十九年七月二十五日に決まった

2009年12月25日 | 東條英機陸軍大将
 津野田中尉との激論の後、武藤軍務局長は隣の席にいた東條航空総監に「東條閣下、此奴の親父も生意気だったそうですが、此奴も生意気な奴ですな」と言った。

 津野田中尉は、カッときて「何を言われるんです。私の父が存命中は、閣下はまだひよっこであったではありませんか。ろくに知りもしないくせに、いい加減なことは言わんでください」と言った。

 それまで、やや蒼ざめた表情で、むっつりと口を噤んでいた東條航空総監は、武藤軍務局長を見返ると、とりなすように「武藤君。津野田の言い分にも一理ある。それにな、この津野田の親父さんは、俺の陸大当時の教官だったんだよ」と言った。

 武藤軍務局長は、ばつの悪そうな顔をして、視線をそらしたままである。

 東條航空総監は、津野田中尉に「俺はな、津野田、教官中で貴様の親父さんが一番好きだった。いい教官だったぞ」とポツリと言った。

 津野田中尉は、後に東條を暗殺する計画を立てるが、この時は、東條に悪感情は抱いていなかった。東條のその無表情な眼鏡越しの目でさえ、優しさが漂っていると感じた位だ。

 だが昭和十九年六月、前線から大本営参謀本部第一部第三課へ戻った津野田少佐は、戦局の現状に危機感を痛切に感じ、このままではいけないという考えから「大東亜戦争現局に対する観察」と題する意見計画書を書き上げた。

 その文章中に「東條総理大臣を速やかに退陣せしめ、以ってこれに連なる軍の適正を期すること」と述べており、東久邇宮内閣による政局担当の必要を主張していた。また、状況によっては東條首相を暗殺する趣旨も付け加えられていた。

 津野田少佐は、意見計画書を仲間の牛島辰熊に見せ意見を聞き、山形県鶴岡に隠棲中の石原莞爾中将、予備役の小畑敏四郎中将らに見せ、ほぼ同意を得た。

 東久邇宮を動かすため、津野田少佐は親交のある三笠宮を訪れ、意見計画書を見せた。三笠宮は現内閣に不満を抱いてはいたが、この意見計画書を一読して、さすがに顔色を変えた。

 後日、津野田少佐は三笠宮から、来訪するよう要請を受けた。三笠宮邸に着いた津野田少佐に対して、三笠宮は「あの日、貴官が帰ったあと、東久邇宮と電話で話し合った」と言い、「自分も東さんを首班にするのは同意である」と告げた。

 そして「ただし、最後に書き加えられた項目を除いては、である。かりそめにも、東條は、一国の総理大臣である。その人物を処断に訴えるのは、好ましくない。これは、秩父さんも、高松さんも、同意見であった」と付け加えた。

 これを聞いて津野田少佐は、息を呑んだ。三笠宮が、二人の兄、秩父宮と高松宮に相談したとは思いもよらなかったことであった。だが、三笠宮は大体において、津野田少佐の意見計画書には同意見だった。

 だが、石原莞爾中将は「皇族方を信じすぎてはいかん。皇族方は、大事を命がけでやるような教育は受けていない。当てにすると、とんだ思惑はずれになるぞ。心しておくことだ」と津野田少佐に忠告した。

 津野田少佐は、決行する牛島辰熊と東條首相を暗殺する武器について話し合った。短刀、ピストル、手榴弾などは、いずれも失敗する確率が高かった。

 ついに津野田少佐は、習志野の陸軍ガス学校が戦車攻撃用に開発した「茶瓶」を提案した。「茶瓶」はガラス製の容器で、中に青酸入りの毒ガスが詰められている。威力は、風下五十メートル四方の生物をことごとく死滅させるというものだった。

 津野田少佐は「だがあんたも心中することになるかもしれないぞ」と言った。それを聞くと牛島は、「よし、知さん、それを使おう。必ず入手してくれ」と言った。暗殺の決行日は昭和十九年七月二十五日に決まった。

 だが、東條内閣は七月十八日に総辞職した。これにより、津野田少佐らは、東條暗殺の決行の必要がなくなった。

 ところが、その後、津野田少佐は憲兵隊に逮捕された。昭和二十年三月二十四日、免官、位階勲等一切剥奪の上、執行猶予付きではあったが禁錮二年の刑を言い渡された。

 これは津野田少佐が記した東條暗殺計画を盛り込んだ極秘文書「大東亜戦争現局に対する観察」が、同志であった、三笠宮の動揺により、憲兵隊に洩れたからだった。

 戦後、昭和三十二年八月、四十歳になった津野田元陸軍少佐は、軽井沢の別邸に避暑に来ていた三笠宮と対面した。二人は十数年ぶりだった。

195.東條英機陸軍大将(15)おい、津野田。戦争の何たるかを知らぬ貴様ら若い将校が、何を言うか!

2009年12月18日 | 東條英機陸軍大将
 さらに、東條首相はこれからの統帥についても次の様に語った。

 「つまらん情報よりも、将来の施策・作戦はどうすべきか、といった点が最重点でなければならない。今まではどうも少佐くらいがやる統帥事務に引きずられていたようだ」

 四月六日、東京市内で雑炊食堂が新設されつつあったので、閣議後のこの日の午後に雑炊を供した。ところが、東條首相は次の様に言った。

 「雑炊も結構だが、閣議後の食事は十分ご馳走をして閣僚が楽しみに集まり、和やかに懇談できるように心掛ける方がよりいいのだ」。

 東條首相がゴミ箱のふたを開けて歩いたという話がある。それは批判の対象になったりしており、有名な話である。東條首相は人の好き嫌いが激しく、人間的に嫌っていたという軍人の一人に山下奉文陸軍大将(陸士一八・陸大二八恩賜)がいる。

 その山下大将が新聞記者に語ったという、次の言葉は注目に値する。

 「そんなチッポケなことは、それ、あのゴミ箱を開けている男に聞きたまえ」

 これは、二人の将軍の関係をよく語っているエピソードだ。

 ところが、実はそれが山下大将のいうような「チッポケなこと」ではなかったと、東條首相の秘書官・赤松大佐は次の様に強調している。

 「ゴミ箱を見てまわったことについては、一部から強い非難などがあったが、その際に東條さんが言ったことは、報告によると魚はこれこれ、野菜はこれこれ配給されているはずだが、事実はその通りになっておらないようである」

 「これらに対する不平の声も耳にするので、真に報告通りなら魚の骨も野菜の芯などもゴミ箱に捨てられてあるはずだと、この目で確認したいと思ったからである、と言った」

 さらに東條首相は、赤松秘書官に「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と語った。

 「秘録東條英機暗殺計画」(津野田忠重・河出文庫)によると、大本営参謀、津野田知重陸軍少佐(陸士五〇次席・陸大五六次席)は、昭和十九年、東條英機暗殺を計画した。

 だが、三笠宮の心の動揺により、暗殺計画が憲兵隊に洩れ、津野田少佐は昭和二十年三月二十四日、陸軍衛戍刑務所に収監され、免官、位階勲等一切剥奪の上、禁錮二年(執行猶予付き)の刑を言い渡された。

 昭和十五年、津野田知重中尉は、歩兵第一連隊出身の将校たちが集まる会「歩一会」に出席した。会には当時中将で、航空総監の東條英機を初め、軍務局長・武藤章少将、軍務課長・佐藤賢了大佐ら、将星が綺羅星のごとく並んでいた。

 この席上で、津野田中尉は、武藤軍務局長と激論を闘わせた。帝国陸軍において、一介の中尉が少将の軍務局長に噛み付くことなど、当時は考えられず、上官侮辱罪に問われても仕方がないほどであった。

 だが津野田中尉は、思うことをズバズバ言った。「軍人は、政治に関与すべからず」というのが、父と同様に津野田中尉の信念だった。

 津野田中尉の父、津野田是重(陸士六・陸大一四恩賜)は、乃木大将を崇拝し、フランス大使館付武官を勤め、フランス語にも堪能な優秀な軍人だった。だが、四十九歳で陸軍少将に昇進した後、程なく、予備役に編入された。

 津野田是重は「軍人は政治に関与すべからず」を信条としていた。そんな津野田是重は、当時の参謀総長・上原勇作元帥との軋轢で、少将で首になったと言われている。

 「歩一会」の席上、津野田中尉が武藤軍務局長と言い争いになったのも、この「軍人は政治に関与すべからず」が原因だった。

 津野田中尉は武藤軍務局長の盃に酒を注ぎながら次の様に言った。

 「閣下、私たち若い連中が支那大陸において、生命を賭して戦っているのに、軍のお偉方は政治に関与されてばかりいて、戦争の何たるかを弁えておられません。実際、けしからんことじゃありませんか」。

 武藤軍務局長は飲みかけていた盃を置くと、きっとなって津野田中尉を見据えて言った。

 「おい、津野田。戦争の何たるかを知らぬ貴様ら若い将校が、何を言うか! 貴様は頭がいいというから、若い将校を代表して、天皇陛下の御前で、戦局に対する意見を述べたらどうだ」

 津野田中尉も負けてはいなかった。

 「申し上げましょう。閣下から天皇陛下の御前に出られるように、取り計らって下さい」。

 すると武藤軍務局長は

 「何を言うか。そんなことが、一軍務局長の身でできるはずがなかろう」と言った。

 これに応じて津野田中尉は

 「では、軽々しく口には、なさらんでください」と応酬した。

 これを聞いて武藤軍務局長は

 「生意気なことを言うな!」と怒鳴った。

 売り言葉に買い言葉で、二人は激論を交わした。

194.東條英機陸軍大将(14)中野さんが自殺したですね、世間では閣下が殺したと言っていますが

2009年12月11日 | 東條英機陸軍大将
 十月二十四日夜、東條首相は秘書官・赤松貞雄大佐に命じて、首相官邸に、岩村法相、安藤紀三郎内相、松坂広政検事総長、町村金吾警保局長、薄田美朝警視総監、四方東京憲兵隊長らを集めた。

 会議で東條首相は、中野を起訴することを主張したが、法律上できないという結論になった。次に中野をこのまま留置して議会に出させないようにしたいと主張したが、それも難しいことが分かった。

 東條首相は「戦争に勝つためだ。なんとかしろ」と皆に言ったが、相手が国会議員だけに慎重になっていた。

 そのとき、四方東京憲兵隊長が「総理、私のほうで、何とかします」と言った。

 十月二十五日午前四時半、中野は、警視庁の独房十号から、憲兵隊に移された。それぞれの独房にいた三田村と天野は、ほの暗い裸電球の下を、中野が不自由な足で去っていくのを見送った。それが、二人がこの世で見た中野の最後の姿だった。

 中野が釈放されて、代々木の自宅に戻ったのは十月二十五日午後二時であった。憲兵隊は中野に「ある青年に、日本は負けると言った」と自白させていた。その上、「明日からの議会には出席しない」と中野に承知させた。

 中野が自白し議会欠席を承知したのは、今後の取調べで、皇族、重臣に迷惑を及ぼしてはならないと考えた。同時に自決の決意をしたのだった。

 十月二十六日深夜、自宅一階の書斎で、中野正剛は割腹自殺を遂げた。五十八歳だった。隣の部屋には憲兵二人が見張っていた。

 自殺の前に、常に居間に飾っておいた写真を取り外していた。それは、自分とヒトラーが並んで写っている写真だった。

 かつては日独伊三国同盟の推進者で「米英撃つべし」の主唱者、中野正剛も、死の前にはリベラルの政党人に戻っていた。

 自決の具体的な理由は不明だが、一説には徴兵されていた息子を前線に送るぞ、と憲兵に脅迫されていた。息子の安全と引き換えに自殺させられたという。

 「昭和の将帥」(高宮太平・図書出版社)によると、中野正剛が自殺してしばらくして、軍事評論家の高宮太平が東條首相に会ったとき、高宮と東條首相の間で次の様な会話が交わされた。

 高宮「中野さんが自殺したですね、世間では閣下が殺したと言っていますが」

 東條首相「ふん」

 高宮「何かあったのですか」

 東條首相「君は福岡だったね。中野と何か関係があるのか」

 高宮「先輩として尊敬しています。ことに犬のことでは特別に懇意に願っていました」

 東條首相「犬のことなど聞いているんじゃない。君は中野の家来か」

 高宮「家来ではありません、家来ということならむしろ緒方さんの家来と言ったほうがよいでしょう」

 東條首相「それならやっぱり中野の家来じゃないか」

 高宮「そういうことにはならないのです」

 東條首相「どんなことになるにしてもだね」。

 東條首相はじっと高宮の顔をみて、

 東條首相「中野のことで俺に文句をつけようというのなら、面倒になるぞ。中野は国賊だ。国賊の片棒かつぐ気か。まあ、よそう。君との友情をここで打ち切りたくない。もうこの話はよせ、いつか話すこともあろう」

 昭和十九年三月二日、「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、東條首相は久しぶりの、秘書官たちとくつろいだ夕食を共にした。そのとき東條首相は戦争指導の困難さを次の様に語った。

 「世間では自分が何も知らずにいると思っているようだが、我慢ができないと思うときもある。何も知らずに、大切な仕事はできるものではない。本日の両統帥部情報交換でも、自分がすでに三度も聞いたようなことを、二時間近くもしゃべられて、実に閉口したよ。自分なら、十分も聞ければ充分だった。というよりは、これからはむしろ、こちらから不審の点を質問した方がよっぽどましだ」。

193.東條英機陸軍大将(13)米内は卑怯だ。予定通り口を切らなんだ

2009年12月04日 | 東條英機陸軍大将
 華族会館で食事が始まり、会は幕を開けた。だが、米内光政はいつまでたっても、フォークとナイフを使うきりで、予定通りの東條批判をやろうとしなかった。いさかいを好まない米内は「いま、やらんでも他日がある」と自ら、妥協したのだ。

 ようやく若槻が「戦局が思わしくないと聞いているが、政府は景気の良い話ばかりだ」と皮肉を言った。東條首相は形式的な戦況報告をしてすましこんでいた。結局気まずい雰囲気で、みなが食事をしただけに終わってしまった。

 中野、三田村たちは東方会本部に集まって、吉報いまかと、重臣会議の終わりを待っていた。だが午後二時になっても約束の近衛からの連絡は入らなかった。

 「話がこじれているのかな。華族会館に電話をしてみい」と中野は秘書の進藤一馬に言った。電話すると「その会合は、とうに終わりました」という返事だった。

 あせった中野は荻外荘に電話をかけた。「公爵はお戻りにならずに、そのまま軽井沢にまいりました」とのむなしい回答が返ってきた。中野は悄然と肩を落とした。

 後日、三田村が近衛に電話をかけると、「米内は卑怯だ。予定通り口を切らなんだ」と近衛は答えた。東條の暴力的弾圧を恐れて、米内に代わって東條批判をするだけの勇気が岡田にも近衛にもなかった。

 三田村武夫が警視庁に逮捕されたのはそれから一週間後の九月六日だった。

 松前重義は、その時は、逮捕はされなかったが、一年後の昭和十九年七月十九日次の様な電報を受け取った。「召集令状発せらる。七月二十二日、西部軍二十二部隊に入隊せられたし。熊本市長」。

 松前は一瞬、これは何かの間違いだろうと考えた。だが、八方手を尽くしても召集解除にはならなかった。いろんな方面に探りを入れたが行き着くところすべて、東條の腹心、陸軍次官・富永恭二中将に突き当たった。

 松前は当時、電子科学の第一人者で、少将待遇の逓信省工務局長であったにもかかわらず、東條に反対したという理由で、四十二歳で二等兵として前線に出ることになったのだ。

 松前は入隊し、部隊と共に千トン足らずの爆薬を積んだ海軍の傭船でマニラに向った。マニラに到着すると、寺内南方軍総司令官がいた。

 寺内大将は松前が二等兵でいることに驚き、早速命令を出した。「陸軍二等兵松前重義南方軍司令部付を命ず」というものであった。

 さらに松前は軍政顧問にされた。さらに寺内大将は松前に「勅直任官を持って待遇し、平服着用を許可す」という命令まで出した。

 だが、東條が退陣し、小磯内閣になっても松前の召集は解除されなかった。松前が最終的に召集を解除されたのは昭和二十年五月二十日であった。松前は日本に帰り、通信院総裁を命じられ、そのまま終戦を迎えた。

 昭和十八年九月六日に三田村が逮捕された後、中野と天野は近衛とはかって、今度は重臣ではなく皇族に働きかけていた。

 近衛が木戸内大臣の侍立なしで単独で天皇に東條退陣を上奏し、東條を宮中に呼び、監禁する。近衛師団に下命し、妨害を防ぎ、宇垣内閣を実現させるという構想だった。

 だが東條首相が一歩早く手を打った。昭和十八年十月二十一日午前六時、警視庁の特高約百名を動員して、中野の東方同志会、天野の勤皇まことむすび、それに勤皇同志会の三団体の幹部約百数十名を検挙した。

 中野の逮捕容疑は、倒閣工作を謀ったことと、ある青年に「日本は負ける」と話したことが名目上の理由だった。

 中野正剛が収容されたところは、桜田門にある警視庁の留置場・独房十号だった。中野は以前、三田村や楢橋渡代議士に「ぼくは片足がない。投獄されれば、苦痛は常人に倍するだろう。面倒くさいから、腹を切って死ぬ」と言っていた。

 中野を検挙したことに東條首相は大満足だった。だが、警視庁の取調官は、証拠となるべき自白も傍証も得られなかった。行政執行法では二日以上検束してはならないとなっていた。

 だが、東條首相は自分の権力で内相を通じ、二十四日まで検束して取調べを行わせた。それでも、中野は自白もせず、傍証も得られなかった。

 中野の逮捕を知った鳩山は大木操衆議院事務総長とはかり、「二十五日には臨時国会が召集される。ただちに中野を釈放しろ」と内務省に抗議した。徳富蘇峰も釈放運動に動き出した。

 東條首相は焦ったが、とりあえず釈放するしかなかった。だが中野を議会に出席させたら何を仕出かすか分からなかった。

192.東條英機陸軍大将(12)つまらんことを、せんように、近衛を脅かしておけ

2009年11月27日 | 東條英機陸軍大将
 中野正剛は「いかに東條を倒すか」、その思いが脳裏を離れなかった。最終的に中野は、重臣を動かして、東條を退陣に追い込み、そのあとに、宇垣一成陸軍大将(陸士一・陸大一四恩賜)の政権をつくることを考えていた。

 中野は、この策謀を盟友の天野辰夫に打ち明けた。天野も大賛成で、大川周明を代々木の中野邸に招いて参加を求めた。

 ところが「おれは、御免こうむる」と大川はにべもなかった。「東條を退陣させるのは大賛成だが、そのあとに、宇垣政権をつくるというのが、気に入らん」。

 大川がそういったのは、昭和六年の三月事件で、大川、橋本欣五郎(陸士二三・陸大三二)、建川美次(陸士一三・陸大二一恩賜)たちのクーデター計画に、ときに陸相だった宇垣は、いったんは賛成し、乗りながら、最後には裏切ったという過去があった。

 中野は、今度は逓信省工務局長・松前重義(戦後社会党参議院議員・東海大学学長)を、同志に加えた。

 松前は近衛文麿たち重臣や、海軍首脳の間を歩いて、「東條体制では戦争に勝てない。退陣させるべきだ」と説いてまわった。

 「中野や、近衛たちの動きがくさい」。東京憲兵隊長・四方諒二大佐(陸士二九・東京帝国大学法学部)はすでに嗅ぎ付けていた。

 四方大佐から報告を受けた東條は「つまらんことを、せんように、近衛を脅かしておけ」と、吐いて捨てるように言った。四方の意向を受けた憲兵司令部の某大佐が、近衛を荻外荘に訪ねた。

 「最近、公爵は、中野、天野たちと、よくお会いになっていると、うかがっております。それも倒閣運動であるという流説を、耳にしております。もしそうであれば、これはおやめになったほうがよろしい。でないと、私のほうでも考えなければならない」。

 近衛はその怒り心頭に発した。「いよいよもって、東條は独裁者だ。われわれ重臣まで、脅迫するのか」。近衛は腹を決めて東條おろしにとりかかった。

 ところが、七月三十日の重臣会議に出席した東條首相は怒気を全身にみなぎらせて、

 「あなた方は、中野正剛の弁舌に踊らされて、倒閣運動をやっておられるようですが、国民の九九パーセントは本職を支持しておりますぞ。戦中のことは、戦争の専門家が担当します。無益な策動はやめていただきたい。それでも尚継続されるならば、明らかな利敵行為として本職にも考えがありますぞ」と恫喝した。

 重臣たちは、この一喝にあって、お互いに顔を見合わせるだけで一言も返すものもいなかった。

 昭和十八年八月になると、近衛文麿、宇垣一成、鳩山一郎、その他の重臣も、軽井沢の別荘に滞在し始めた。

 中野は天野や松前、企画院調査官・日下藤吾らを引き連れて、軽井沢に乗り込み、近衛や宇垣らの間を行き来するようになった。

 八月二十三日、二時間に渡る近衛、宇垣会談で、近衛は「重臣の有志が東條を呼んで退陣を勧告する。聞かなければ、私が単独で上奏をする」と言い切った。そして「中野君たちは、君が戦争終結の適任者だと言っている。私も同じ考えだ」と言った。

 宇垣は「もし、そのようになれば私も身命を賭してやるつもりです」と答えた。そのあと、閣僚人事まで話が進んだ。

 その夜、鳩山は、中野と中野の息子、泰雄、それに天野、松前、日下を軽井沢の天ぷら屋に招待した。ふだんは酒をたしなまない中野もビールを三杯飲んで愉快そうに鳩山と話をした。

 近衛文麿、岡田啓介、平沼麒一郎の三人が発起人になって、東條首相を招待することになった。その趣旨の書簡を、岡田がしたため、女婿の迫水がたずさえて、首相官邸に出向いた。

 東條首相は「ありがたくお受けするが」と答えたが、「重臣の方々から、いろいろ時局に関するご質問もあろう。わし一人では、正確にお答えできん件もあるので、二、三閣僚を同伴したい」と言った。

 すでに、東條首相は、憲兵、特高に、中野、三田村の動向を追わせ、その先にいる重臣の挙動を洗わせていた。閣僚を二、三引き連れて行けば、「わしの進退に言及できまい」と計算した。

 迫水が岡田にこのことを報告すると、岡田は東條に「一人で来れないか」と電話したが、東條は拒否した。それで、重臣側は作戦をたてた。

 岡田が幹事役で、政局、戦局の重大性を指摘し、それに関する資料を米内光政が示して、東條を批判し、近衛が辞任を勧告する。

 もし東條が居直れば、若槻礼次郎が重臣代表として参内、後継首班に宇垣を推す。以上が作戦であった。

 八月三十日、東條首相は重光葵外相、賀屋興宣蔵相、嶋田繁太郎海相、鈴木貞一企画院総裁を引き連れて、重臣の待つ華族会館に乗り込んできた。

191.東條英機陸軍大将(11) 宰相の俺を、売名家というのか!

2009年11月20日 | 東條英機陸軍大将
 この大演説の行われる日比谷公会堂に、東條首相は特高を張り込ませ、場合によっては中止、解散をさせようと思ったが、四千人の聴衆が熱狂し、手も足も出なかった。

 「東条英機と軍部独裁」(戸川猪佐武・講談社)によると、昭和十八年元旦の朝日新聞朝刊に「戦時宰相論」という囲みで十段の記事が掲載された。寄稿者は中野正剛だった。

 東條首相は自宅で酒を飲んでいたが、その記事を見つけると、「もうやめだ!」と酒を飲むのをやめた。東條首相にとって、敵である中野正剛がまた、俺にたてついたと思うと、酒の味もまずくなった。

 「戦時宰相論」の内容は要約すると次の様なものであった。

 「大日本国は、上に世界無比なる皇室をいただいておる。かたじけないことに、非常時宰相はかならずしも、蓋世(勢いある)の英雄たらずとも、その任務を果たし得るのである。否、日本の非常時宰相は、たとえ英雄の本質を有するも、英雄の名を恣にしてはならないのである」

 怒りが東條首相の顔をゆがめた。「上に天皇がおられるから、東條みたいに凡庸でも、戦時の宰相がつとめられるというのか。それに、宰相の俺を、売名家というのか!」。

 さらに「戦時宰相論」は、次の様に結ばれていた。

 「戦局日本の名宰相は、絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しかして気宇広大でなければならぬ」

 東條首相は歯ぎしりする面持ちになった。「俺が不遜だというのか。世田谷に家を新築したのが驕慢、不潔というのか。俺が反軍的人間を許さんのが、狭小だというのか」。

 東條首相は私邸から情報局総裁の谷正之を呼び出して「朝日新聞を発売禁止にしろ」と怒鳴った。すでに新聞は配達済みで効果は無かったが、その処置をとれば、朝日新聞は中野正剛への原稿を差し控えるだろう。それが狙いだった。

 この「戦時宰相論」を中野正剛に依頼したのは、当時、朝日新聞主筆だった緒方竹虎だった。緒方は中野と同じ早稲田大学出身で在学中は意気投合し、朝日新聞でも仲間だった。

 昭和十八年二月一日、東條首相は貴族院本会議で重大な発言をした。「私は戦勝についての確信は十二分にもっております」

 「しかしながら、負ける場合は二つある。一つは戦争の核心をなす陸海軍が、二つに割れる場合である。だが、真剣な戦闘をやっている両者が割れるなど、思いもよらぬことであります」。そして次の様に言った。

 「第二の場合は、国民の足並みが乱れる場合である。したがって国内の結束を乱す言動については、徹底的に今後もやっていく。たとえそのものが高官であろうと、容赦はいたしませぬ」

 これはまさに反東條勢力を恫喝する言葉だった。この演説が終わった後、政界では「中野正剛と近衛文麿のことをいってるらしい」とささやかれた。

 昭和十八年三月、第八十一議会で戦時刑事特別法改正法案の審議のために特別委員会が設けられた。中野正剛はこの時ばかりと、東條首相に挑戦した。

 この改正法案に対して、真っ向から批判の矢を浴びせかけたのが、中野正剛の門下、旧東方会の三田村武夫だった。

 江口繁、満井佐吉(元陸軍中佐)、真崎勝次(真崎甚三郎の弟・元海軍少将)らも批判した。批判の内容は「改正のねらいは、反東條の言論、政治運動の弾圧だ」「ナチスの戦時刑法同様、ファシズムそのものである」などというものだった。

 三月六日、東條首相は岩村法相に「一歩も譲ってはならん、原案通り成立させよ」と厳命した。だが、その日の午後から、代議士会が開かれ、二百七十人余りが原案反対にまわった。中野正剛はしてやったりと思った。

 東條首相は翼政会幹部、軍首脳を用いて、反対する代議士達の切り崩しにかかった。三月八日の時点で、反対する代議士は三田村武夫ただ一人になった。

 三月九日、戦時刑事特別法改正法案は衆議院本会議で可決成立した。中野正剛は歯ぎしりをした。

 昭和十八年六月十五日、東條内閣が企業整備法案を提出すると、中野はこれに反対し、三木武吉、鳩山一郎らも同調反対にまわった。

 鳩山の演説に続いて、中野は、堂々と反戦ともとれる演説を行った。この頃、政界ではひそかに、東條首相の総辞職説から始まって、梅津美治郎陸軍大将の内閣説が流れていた。

 この説を取り上げた近衛文麿は木戸内大臣に「梅津の背後には、共産主義を推進する革新派の池田純久少将がいるから、気をつけなければならない」という書面を送っている。