陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

49.石川信吾海軍少将(9) 石川少将に太平洋開戦の責任がある

2007年02月23日 | 石川信吾海軍少将
昭和15年11月、石川大佐は海軍省軍務局第二課長に発令された。このときから開戦をはさんで17年6月南西方面艦隊参謀副長に就任するまで、軍務局勤務が続いた。

 「日本海軍指揮官総覧」(新人物往来社)によると、石川大佐は第二課長就任後、日独伊三国同盟に伴う政策指導機関の第一委員会の中心メンバーとなった。

 以後主要な海軍政策はすべて同委員会を経由する事になり、石川大佐は海軍の南方政策を実質的にリードし、その方針に従って海軍首脳は南部仏印進駐にも同意したといわれる。

 「日本海軍、錨揚ゲ!」(PHP研究所)によると、阿川弘之と半藤一利の対談で、半藤は石川少将に太平洋開戦の責任があると主張しており、阿川も同意している。

 ところが、半藤が高木惣吉元海軍少将に戦後あって話を聞いたときに、高木は石川少将の役割を頑として認めなかった。「あんた方が思うほどこの第一委員会が力があったわけじゃありません」と、どういう訳か、この一点だけは頑固に認めなかったという。

 昭和15年9月5日、吉田善吾に代わって及川古志郎が海軍大臣に親任された。

 及川大佐は、山本五十六が誠意をもって推薦した井上成美中将の次官起用を排して、自主性のない沢本頼雄中将を次官にし、10月15日海軍省と軍令部のレポーターに適した岡敬純少将を軍務局長に任命した。

 こういう状況下、対米強硬派の軍令部とウマの合う主戦派の中堅が軍務局課長のポストを占めた。第一課長に高田利種、第二課長に石川信吾大佐が11月15日着任した。

 これら強硬派を中心に第一委員会が組織された。メンバーは高田、石川大佐のほかに、軍令部作戦課長・富岡定俊大佐、軍令部作戦部長直属・大野竹二大佐が加わった。

 また幹事として、柴勝男中佐(軍務局)、藤井茂中佐(同)、小野田捨二郎中佐(軍令部作戦課)が就任した。

 この第一委員会は昭和16年6月5日付けで「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度」という驚くべき報告書を提出する。

 それは三国同盟の堅持、仏印占領を主張。その結果米英蘭の対日石油禁輸の際には武力行使を決意するというものであった。

 「課長級が一番良く勉強しているから、その意見を採用する」と放言した永野修身軍令部総長、及川海相も、この第一委員会の強硬路線に抵抗をせずに支持した。その責任は免れない。

 「真珠湾までの経緯」(時事通信社)によると、そのころ石川大佐は松岡外相を私邸に訪ねて考えを拝聴していた。石川大佐は松岡が満鉄総裁時代に知り合い、同郷のよしみもあって、よく松岡を訪ねていた。

 石川大佐は松岡をもって日米開戦の首謀者であるかのように言うのは、事実とははなはだしく相違している。松岡の外交理念は「力による平和維持」であり、「国際間の力の働きを巧みに利用する外交」であったと思う、と述べている。

 ドイツがソ連に宣戦布告したとき、海軍でも「ドイツがソ連と開戦したのでは、三国同盟の攻略的意義が失われてしまうから、三国同盟は破棄した方が良い」という意見もあったが、これを海軍首脳部の考えまで盛り上げなかった。

 松岡外相はリッペントロップ・ドイツ外相に独ソ戦を中止するように個人的な勧告を行ったが、同外相からは「対ソ戦は数週間、長くて数ヶ月のうちに、ドイツの完勝で片付くから安心をこう。ドイツとしては対ソ戦に日本の援助を求めるつもりはない」と返事が来た。

 独ソ戦開戦後、軍務局長から石川大佐は「松岡外相が対ソ開戦説を唱えているから、良く話をしてくれ」と言われた。

 松岡外相の私邸を訪れた石川大佐が「ソ連と戦争すれば、アメリカが出てこないと言うわけではないでしょう。支那事変をこのままにして戦争をすれば、アメリカが適当な時期をつかんで攻めてくるのは知れきったことです。海軍はアメリカに備えるだけで精一杯なのに、ソ連を相手にせよと言われてもできるものじゃありません。対ソ開戦などとバカげた話はしないで下さい」と言った。 

 この日の松岡外相は、一つ二つ質問しただけで、大変におとなしかった。

 その後昭和16年7月7日に御前会議が開かれ、日本は独ソ戦に参加しないと決まり、同時に南部仏印進駐が決定された。


48.石川信吾海軍少将(8) 及川大将では駄目だと言ったら、選考しなおすと言う事なのですか

2007年02月16日 | 石川信吾海軍少将
 喜多少将が尋問口調で口を差し挟んできたので、石川大佐は「青島海軍戸特務部は第四艦隊長官の完全な指揮下にあるのだから、ご意見は海軍特務部と第四艦隊長官に言って頂きたい」と答えた。

 そして「ついでながら、ご参考のため意見を申し上げると、支那事変をどう始末するかの根本問題で、国家の腹が本当に決まっていないから、現地で色々ごたつくのだと思う」と言った。

 続いて第二次大戦に進む危険性、陸軍の北支の統治体制への批判などを述べたら、それでその場の話は終わってしまった。

 帰り際に、武藤大佐が今夜一席設けてあるから、是非出てくれと言った。

 石川大佐が「おい、毒殺されるんじゃあるまいね」と冗談を飛ばしたら、武藤大佐も「ばかをいうなよ」ということで、その夜は大いに飲み、歓談した。

 昭和14年9月、石川大佐は東京の興亜院本庁の政務部第一課長に転任になった。

 特務部長は陸軍の鈴木貞一中将で、石川大佐と鈴木中将は満州事変以来の知り合いだった。

 第二次近衛内閣が組閣されて間もない頃、三国同盟に関する海軍の態度がはっきりしないので、政府は当惑していた。

 ある日鈴木特務部長から「海軍大臣の腹はどうなのだろうか」といった打診があった。

 石川大佐は個人的に9月3日、吉田海軍大臣に面会した。

 石川大佐は吉田大臣に「もし大臣の腹が三国同盟に反対と決定しているのなら、陸軍を向こうに回して大喧嘩をやりましょう」と言った。

 吉田大臣は「この際、陸軍と喧嘩をするのはまずい」と洩らした。

 石川大佐は、「それでは三国同盟に同意するのですか」と尋ねた。

 すると吉田大臣は「しかし、対米戦争の準備がないからなあ」と言った。

 石川大佐がさらに「ここまでくれば、理屈ではなくて、いずれをとるかという大臣の腹一つだと思います」と言うと

 吉田大臣は「困ったなあ」と言った。

 たまたま、軍令部第三部長の岡敬純少将が傍にいて、石川大佐にもう帰れと目配せしたので、石川大佐は退出した。

 その夜、吉田大将は疲労も加わって、倒れた。

 その後日、内閣書記官長から石川大佐に「海軍大臣に及川大将という話があるのだが、及川大将で海軍は大丈夫か」と電話があった。

 近衛首相の内意を受けて電話したとのことだった。

 このころ新聞等によく海軍の派閥争いを取材した記事が掲載され、軍政派と艦隊派というように書き分けられ、世間にはやしたてられていた。

 石川大佐も加藤・末次直系の青年将校ということで、何度もリストに載せられた事があった。

 確かに海軍には重要な問題をはさんで、軍政上の立場と、用兵上の立場とがあり、ずい分激烈な議論や、時には闘争的な場面さえ展開したことがあるが、組織的な派閥というものはなかった。

 石川大佐自身そういう雰囲気を感じたことはなかった。石川大佐は米内大将、及川大将とか、世間のリストでは軍政派であるべき先輩のところへも気軽に出入りしていた。

 そういう背景があるから、首相が海軍大臣の後任について、そういう問題に関与すべきでない立場の石川大佐の意見を、書記官長に電話できかせるなどとは、海軍の統制を乱す軽率な振る舞いであると思った。

 そこで石川大佐は「もし、私が、及川大将では駄目だと言ったら、選考しなおすと言う事なのですか。それを先に承りたい」と答えた。

 そしたら「ちょっと待って下さい」と、しばらく待たされてから「それではよろしいですから」と言って電話が切れた。

 石川大佐は及川大将が大臣候補に確定していることを知ったので、横須賀鎮守府に電話した。

 及川大将に「明日近衛総理から呼ばれておいでになるようですが、問題は三国同盟をどうするかにあるので、それについて海軍の腹をお決めになった上でないと、大臣をお引き受けになってもまずい事になると思います」と言った。

 さらに「近衛総理にお会いになる前に、二十分で結構ですから、私の知っている事の限りをお話した方がよいかと思います」と言った。

 及川大将は「それでは明朝東京へ着いたら電話するから、海軍省へ来てくれたまえ」ということであった。

 翌朝興亜院で電話を待っていたが、ようやく正午頃に電話で「海軍省に来てくれ」とのことだった。

 石川大佐は及川大将に会うと「大臣を引き受けておいでになったのでしょう」と言うと、肯定的なジェスチャーであった。

 石川大佐は「それでは別に申し上げる事もございません」と言って引き下がった。

 大臣を引き受けたと言う事は三国同盟に同意したという事に了解すべきであったからである。こうしてその後三国同盟は締結されるに至った。




47.石川信吾海軍少将(7) どちらにも怪我人を出さないよう始末するから、おれにまかせておけ

2007年02月09日 | 石川信吾海軍少将
石川大佐は「あなたは統帥事項だから陸軍大臣の指示は受けないと言うが、陸軍大臣は、大臣の所管事項だと考えているから訓令を出したのだと思う」と伝えた。

さらに「占領地行政が統帥事項か否かについて、陸軍大臣と現地軍とが考えが違うのでは、海軍としてはやりようがないから、海軍大臣から陸軍大臣に話してもらい、本件が統帥事項か否かについて陸軍側の考えを一本にしてもらわなければならない」と言った。

 また、「その上で、もし統帥事項というなら参謀本部と話をしなおすまでだし、また、大臣所管事項だということになれば、陸軍大臣から君が大臣の指図に従うようにしてもらう他はない」と相手に伝えた。

 いよいよ東京へ出発の一時間前、再び石川大佐に電話があって、中央協定に準拠して現地協定が成立して、青島における陸海軍の紛糾も解決した。

 だがこの紛糾の裏にはある状況があった。石川大佐は東京に出発する前に豊田第四艦隊長官から一通の手紙を見せられた。

  その手紙は山本五十六海軍次官から豊田長官宛ての半公半私のものであった。

 その内容は「青島占領に当たっては、同地は海軍として極めて重要だから、海軍の勢力下にこれを収める様努力されたし」というものであった。

 だがその筆跡は、明らかに特徴のある前軍務課長・H大佐のものであった。

 石川大佐は上京した時、海軍部内では青島の陸海軍紛糾は豊田艦隊長官の不手際によるものだという空気が濃厚であった。

 青島に帰る前に石川大佐は、大臣、次官が同席の場で、青島の状況を説明した。

 そのあと、「豊田長官は、私信ではあるが、山本次官のご指示に添って万事を処理してこられたと思いますが、このような問題は中央で大綱を決定され、現地に指示されるのが適当と思われます」と付け加えた。

 すると山本次官は色をなして「そんな指示をした覚えはない」とのことだった。

 石川大佐は首脳部の意向を承って退出したが、すぐに大臣室に引き返し、米内光政大臣に「山本次官の指示について、次官は知らないとの事だったが、これは海軍の統制上遺憾な問題だ」と言った。

 さらに「私は長官から示されてその手紙を見ているし、その筆跡も覚えがあるので、執筆者が誰であるかも分かっている」と述べた。

 そして、「山本次官が執筆者に指示を与えたのか、執筆者の独断であるのか分からないが、豊田長官がこれを尊重して行動された事は当然であるし、今になって青島の陸海軍摩擦が豊田長官の責任であるようにお考えになるのは大変な間違いであると思う」ときっぱり言った。

 続けて石川大佐は「このまま長官に中央の空気を報告するわけにはいかないので、青島に帰る前に黒白を明らかにしていただきたい」と言った。

 米内大臣は「事情はわかった。どちらにも怪我人を出さないよう始末するから、おれにまかせておけ」と言ったので、石川大佐は引き下がった。

 その頃、北支における陸軍の総元締めとして北京に駐在する喜多陸軍少将から、北京駐在の須賀海軍少将を通じて、石川大佐に北京陸軍特務機関に出頭するよう要望してきた。

 石川大佐は艦隊長官指揮下にあるのでその申し入れには応じなかった。

 だが間に立った須賀海軍少将から「北京にいて、陸軍との協調上困るからぜひに」と言ってきたので、石川大佐は艦隊長官の許しを得て、北京の陸軍特務機関長を訪ねた。

 案内された部屋に入ると、なんとなく異様な空気が漂っていた。喜多少将を中心に、少将、大佐など数人が泰然と正面の安楽椅子に構えていて、ほかにも数人の佐官級が両側に立ち並んでいた。

 そして石川大佐に勧められた椅子はその前にポツンと一つ置かれて、取調べを受ける被告席みたいだった。

 石川大佐は窓際に立っている将校の中に北支方面軍参謀副長の武藤章大佐をみつけたので、「武藤さん、これではまるで、被告席みたいだね。今日は儀礼的に訪問したんだが、これでは、ちょっと腰はかけられないじゃないか」と笑ってみせた。

 武藤大佐は「いや、そんなわけじゃなかったんで。失敬、失敬」とさっそく、椅子を円座に並べ替えてくれたので、石川大佐はようやく挨拶して腰を降ろし、北京の感想などを話し始めた。

 そのうち喜多少将が話しの合間をとらえて「ところで君は青島特務部長として、」という尋問口調で口を差し挟んできた。




46.石川信吾海軍少将(6) おれはやるといったことは必ずやるのだからよく覚えておけ

2007年02月02日 | 石川信吾海軍少将
 「厳島」は命令どうり青島港内に進入した。その翌朝、石川大佐は、陸軍のおそらく予備役で召集を受けたらしい、老大佐の訪問を受けた。

 用件は「自分の部隊は済南から強行軍で昨夕青島に到着したが、市内の建物はほとんど海軍が占領していて、部隊を宿舎に入れることも出来ず、野営した。なんとか宿舎を割愛してもらいたい」との申し入れであった。

 石川大佐は「それはご難儀なことでしたでしょう。宿舎の割り当ては艦隊司令部のすることで管轄外ですがとりあえず、どこか休息できるところへご案内します」と答えて、学校建物のあいているところに案内しておいた。石川大佐は艦隊司令部へ連絡し善処を要望した。

 もともと青島市に突入する時期は陸海軍同時にするという協定があった。ところが、海軍陸戦隊が、陸軍より先に青島市を占領し、めぼしい建物はおおむね海軍が占拠してしまったので、陸軍は憤慨していた。

 港湾管理部の石川大佐の部屋に参謀肩章をつけた陸軍少佐ほか二三の陸軍将校がやってきて、石川大佐に詰め寄るように言った。

 「自分は参謀本部の参謀ですが、青島の桟橋、倉庫は陸軍が管理するから、さようご承知願いたい」。

 石川大佐は「陸軍も桟橋、倉庫を使うということは当然だから、その事について陸海軍の使用協定を決めたいと言うなら、今からでもやろうじゃないか。しかし、陸軍で管理するから海軍は退けということでは、私が第四艦隊長官から受けている命令に違反するから応じるわけにはいかない」と答えた。

 彼らは軍刀をがちゃつかせて、一喝するように「同意を得られなければ、軍は実力を持って占領します」と叫んだ。

 ここにいたって石川大佐もかんしゃく玉を破裂させ「俺も陸軍の若い参謀におどかされて、長官の命令に違反するわけにはいかん。実力で占領なら、実力でお相手しよう。無断で桟橋に上陸してみろ。岸壁に繋留してある俺の艦からすぐに大砲をぶっぱなすぞ。おれはやるといったことは必ずやるのだからよく覚えておけ」といって参謀達を帰らせた。

 石川大佐は艦隊司令部を訪ねて事の経過を報告しておいた。だが、このことは、当時誇張して宣伝され、青島で陸海軍が今にも実力を持って衝突する勢いであるかのように伝えられた。

 その後間もなく石川大佐は、突然青島特務部に転任を命じられ、暗礁に乗り上げたような陸海軍間の問題解決の任務を命じられた。

 石川大佐は第五師団のS参謀長と交渉する事になったが、S少将は陸軍でも一徹者で通った人だった。

 当時青島にきていた第五師団長・板垣征四郎中将とは石川大佐は満州事変以来いささか面識があったので、先に板垣中将に石川大佐の考えを話し、S少将への橋渡しをお願いした。

 数日後、板垣中将から「私からも参謀長に話しておいたから、あとは直接話し合えばよかろう」ということで、石川大佐は軍参謀長のS少将を訪ねた。

 ところがS少将は「海軍は海上へ去ってくれ。陸上の事は一切陸軍が処理する。港湾施設は鉄道の末端を構成している施設であって、当然陸軍がこれを管理すべきである」との主張を繰り返すのみで、一歩も譲らぬという構えであった。

 打開の策が見出せないので、石川大佐は交渉を打ち切り、中央で一刀両断の解決をするほかはないと考え、すぐに飛行機で東京へ飛んだ。

 東京では海軍省軍務局第一課長のO大佐と打ち合わせの後、陸軍省軍務局のS軍務課長を訪ね、三人で話し合った結果、海軍と陸軍の管轄線引きを決め陸海軍大臣から現地に電報指令が打たれた。

 石川大佐は青島に帰ったが、現地陸軍部から「陸軍省からの指示は来たが、軍は東京協定には不同意である」とのにべもない返事であった。

 石川大佐は「現地軍としては不同意であっても、中央で成立した協定だから、現地で協定を行うべきである」と主張した。

 だが、S参謀長は「占領行政は統帥事項に属するので、陸軍大臣の指示は受けない」とつっぱねてきた。

 このままではらちのあきようもないので、石川大佐は再び上京する事にした。

 すると翌朝済南にいるS参謀長から電話があり「君はまた東京へ行くそうだが、何をしに行くのか」と言ってきた。