陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

527.永田鉄山陸軍中将(27)陸軍では、非常な秀才が出ると、ライバル意識が出てくる

2016年04月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田鉄山少将は、参謀本部第二部長時代に、「新軍事読本」という本を編著して出している。多忙な時間を縫ってまで書き綴った永田少将の胸に激しく燃えていたのは、「良兵ヲ養ウハ即チ良民ヲ造ル所以」という理念であり、「軍人である前に人間であれ」という痛烈な叫びであり、訴えだった。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、永田鉄山少将、小畑敏四郎少将を両軸にした統制派と皇道派の対立の、陸軍省、参謀本部の陸軍中央内部の実態について、記している。

 当時、陸軍大臣秘書官だった有末精三(ありすえ・せいぞう)少佐(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・在イタリア大使館附武官・航空兵大佐・軍務局軍務課長・北支那方面第四課長・北支那方面参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・終戦直後対連合国陸軍連絡委員長・日本郷友連盟会長・勲二等)は戦後次のように証言している(要旨抜粋)。

 永田さんは合理主義的な考えを持っており理想もある。その理想を着々と実行して行くという、合理適正な方で、しかも非常な包容力を持っている。

 どういう訳で派閥の形になって来たか。陸軍では、非常な秀才が出ると、ライバル意識が出てくる。そういう空気がある。

 当時の派閥の一番の根源は小畑さんと永田さんの仲たがい、意見が合わんということではないか、という風にみんなは見ていた。

 永田さんと小畑さん、参謀本部の第二部長、第三部長の意見の相違がある。その時の参謀次長は、真崎甚三郎中将でしたが、真崎さんはなぜ、ちゃんと恰好をつけないか。

 永田さんと小畑さんは別に切り合いをしたわけでもなければ、殴り合いをしたわけでもない。結局、対ソ情勢判断についての論争に端を発した。

 永田さんは、今は対ソ作戦はやるべきではない、国内体制や満州問題を固めるべきだという意見。小畑さんは作戦畑の出身ではあるし、対ソ作戦準備第一主義というか、要するに北進論だ。

 それが実際問題として現れたのが、北満鉄道買収の問題だ。小畑さんは第三部長、鉄道関係の部長として、北満鉄道なんてそのうちに転げ込んでくる、下手に買収すると、ソ連の経済状態をよくし、その情報募集を容易にするという主張だった。

 これに対し永田さんの方は、それは買った方がいい。買えば満州国国内の治安維持は非常に楽になるというのが、狙いだという。

 最終的に、北満鉄道は買収してしまったが、満州国国内の治安維持には確かによくなったが、ソ連の対日工作を容易にした不利があった。

 結局、北進だ、南進だ、といわれ、それが後に、皇道派が北進、統制派は南進ということになった。後に統制派が南進して支那事変から大東亜戦争にまで発展したんだと言われているが、それは少し飛躍している。

 参謀本部の第二部長は全般の情勢分析をして情勢判断をする。第三部長は運輸・通信の関係から、また作戦部関係の者はその観点から情勢を判断しがちだ。

 だから参謀本部ではしょっちゅう、第二部長の意見は全部蹴られてしまう。私も第二部長をやったが、第二部長案というものは、それはもう情けないほど通らない。

 昭和二年、濃尾平地での大演習で、私は演習課主任部員で、部長が荒木貞夫(あらき・さだお)少将(東京・陸士九・陸大一九首席・ロシア出張・歩兵大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部支那課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・勲一等・従二位)だった。

 審判官の割振りをした時に、陸軍省軍事課高級課員・永田鉄山中佐と参謀本部作戦課長・小畑敏四郎中佐の両雄を対抗してやってもらった。当時は派閥など思いもよらぬ事で、いわば、良い意味での好敵手だった。

 これは、参謀本部演習班長・阿南惟幾(あなみ・これちか)中佐(東京・陸士一八・陸大三〇・十八番・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監・陸軍大臣・自決・正三位・勲一等旭日大綬章・功三級)の起案によるものだった。今から思えば無量の感慨にふけらされる。

 小畑さんは私(有末少佐)の陸軍大学校時代の教官だった。小畑さんは独特のいい考えを持っている人で、当時ロシアのヤヌシュケウイッチ少将の回想録を入手され、それを基礎にして、東方戦場の戦史を講義した。

 小畑さんは、非常に作戦的、独創的で徹底した考えもありながら、なかなかまた政治的な素質があった。

 小畑さんは、元田肇(もとだ・はじめ・大分・東京帝国大学法科卒・弁護士・衆議院議員・衆議院副議長・逓信大臣・鉄道大臣・衆議院議長・枢密顧問官・勲一等瑞宝章)のお婿さんだった。
 
また、船田中(ふなだ・なか・栃木・東京帝国大学法科卒・内務省・東京市長代理・衆議院議員・防衛庁長官・自民党安全保障調査会長・衆議院議長・自民党副総裁・旭日桐花大綬章・従二位)と義兄弟でもあった。

 第一次世界大戦の時、小畑さんは荒木貞夫さんと一緒に従軍しており、荒木さんは小畑さんの性格や能力を識っていた。

 荒木さんが参謀本部第一部長(作戦)の時に、まだ中佐であった小畑さんを作戦課長に抜擢した。荒木さんは思想に置いてもその能力に於いても、小畑さんを信任していた。




526.永田鉄山陸軍中将(26)廊下で出会っても口もきかないほどの険悪な仲になった

2016年04月22日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田は軍事課長を経験して、軍政部門(陸軍省)の卓越した資質を自他ともに認めていたが、軍令部門(参謀本部)は初めての経験だった。

 一方、小畑の方は、軍令部門を歩き続けて、その資質を高く評価されていた。徹底した「戦うタイプ」の小畑は、軍事に専念するのが軍人本来の使命であり、行政や財政に深入りすべきではないとする。まして、永田のように、政官財と親交を深めるのは、軍人として邪道中の邪道であると忌嫌する。

 だが、永田の考えは全く違う。時代が大きく変化してきて、国政、外交、社会の全てが多様化し多難の時を迎えている現在、陸海軍部が役割を果たすには、従来の軍人感覚だけだは通用しないとする。

 二人の激突は、この時期、ソ連から申し込まれた北満鉄道の買収問題を巡って頂点に達した。永田第二部長は、次のように主張した。

 「ソ連が持つ北満鉄道の利権を日本と満州で買収した方がいいと考える。その方がソ連と政略的に接触できる。これからの戦争は一国対一国の戦争ではなく、いくつかの国が連合しての戦いになる可能性が強い」

 「日本が国際的に孤立している現状からしても、関東軍の満州国に対する内面指導は早く打ち切り、満州国を育成して、日本の国力を充実させなければ、陸軍が伝統的に仮想敵国としてきたロシア(ソ連)とは戦えない。ソ連を敵対視するだけでなく、硬軟両用の眼を配るべきだ」。

 これに対して小畑第三部長は、次のように主張した。

 「北満など、いざとなったら、バイカル湖付近まで軍を出しさえすれば、いつでも手に入る。ソ連が極東経済五カ年計画を着々と推進させている現状からして、もう一度、日露戦争を起こすぐらいの気概が必要である。ソ連に利益を与えることはない」。

 「ソ連の年間軍事費は、五年前の四億一千ルーブルから、年々増えて、十九億ルーブルに膨れ上がってきた。それに対し、日本の軍事費は、年々削減され続け、大正十年の二億一千万円が、今や一億八千万円である」

 「ソ連に支払うくらいなら、陸軍費を増やすべきだ。(永田に向かって)新官僚や財界人と酒を飲んでばかりいないで、その工作でもしたらどうだ」。

 これに対して、永田第二部長は「それと、これとは、問題が違う」と猛然と反論したが、結論は出なかった。

 そうなると、派閥の力学が作動し出した。当時は、皇道派の巨頭、荒木貞夫中将が陸相になって、皇道派全盛の時代だった。

 皇道派の将軍たちは、軍の要職を占め、永田第二部長の眼から見れば、国を憂える青年将校等を甘やかし、中堅将校等をさらに甘やかし、下剋上の風潮を軍人の間に広がらせている。

 皇道派の有力な一人である小畑第三部長は、直属上司である参謀本部次長の真崎中将や、荒木陸相の篤い支持を受けて、交通部門担当という第三部の地味な職責を遥に越え、その発言力は強かった。

 そのような状況で、永田第二部長は面白くなかった。だが、永田第二部長は自説を曲げなかった。精力的に奔走して、北満鉄道の買収決定にこぎつけた。

 昭和八年六月十九日、真崎甚三郎中将は参謀次長の職を退き、大将に昇進して、軍事参議官になった。これは、参謀総長・閑院宮載仁親王・元帥が真崎次長を嫌っていたのである。

 真崎中将は、もちろん次長を辞める意志はなかったが、参謀総長・閑院宮元帥が「おまえも、もうこのへんでよかろう」と言ったので、やむなく引き下がった。さすがの真崎中将も相手が皇族であり、参謀総長とあっては、従わざるを得なかった。

 真崎次長は八月異動で小畑を第一部長に据え、永田を旅団長にして地方に出す予定だったが、次長を退任させられたため、それが実現できなかった。

 結局、昭和八年八月、永田第二部長と小畑第三部長は、喧嘩両成敗ということで、わずか一年半で、参謀本部を去った。永田少将は第一師団の歩兵第一旅団長に、小畑少将は、近衛歩兵第一旅団長に、それぞれ転出した。

 大正十年、「バーデン・バーデンの密約」で、理想に燃えるエリート将校として共に陸軍改革を誓い合った盟友も、あれから十二年、戦略思想の相違、軍政畑と軍令畑、統制派と皇道派など様々な要因により、分裂してしまった。廊下で出会っても口もきかないほどの険悪な仲になったという。


525.永田鉄山陸軍中将(25)しかし、永田亡き後、統制派などというものは無かったのである

2016年04月15日 | 永田鉄山陸軍中将
 出席する者、陸軍省側、柳川平助次官、山岡重厚軍務局長、山下奉文軍事課長、また、参謀本部側は真崎次長、梅津美治郎総務、古荘幹郎第一、永田鉄山第二、小畑敏四郎第三の各部長といった大会議であった。

 会議の目的は、国防上の見地から最も脅威を感ずる相手国を想定し、これに対して完全な自衛方法を考究するにあった。

 当時の国際情勢、ことに満州国が独立して、これと共同防衛の責任を負った我が国としては、その危険と脅威はむしろソ連にあった。これには何人も異論はなかった。

 しかしソ連を仮想敵国とすることには異存はないが、軍事技術的な見地から見ると問題があり、永田鉄山第二部長は次のように強く主張した。

 「これまで排日抗日の支那に一撃を与えた後で、ソ連に備えるべきで、満州国独立の基礎を確立するためには、まず支那を抑えなくてはならぬ」。

 この案を起草したのは、その頃永田のもとにあった武藤章中佐だった。これに対し、真っ向から反対したのが小畑敏四郎第三部長だった。小畑第三部長は次のように主張した。

 「ソ連を目標とする自衛すら、今日のところ困難が予想されるのに、さらに支那をも敵とすることは、現在の我が国力をもってしては極力避けねばならない」

 「支那と全面的に戦う事は、我が国力を極度に費消するのみならず、短期間でその終結を期待することは困難である。むしろ支那とはことを構えずにもっぱら和協へ途を求めるべきである」。

 この意見には同調者が多かった。第二回の会議では、永田は旅行中で欠席したので、おおむね小畑案に決まったが、永田と小畑の意見の対立は、その後、あとを引いて、両者の間に深い溝ができてしまった。

 それだけではない、小畑が、真崎、荒木につながり、皇道派の首脳をもって任じ、一方、永田がその後、林陸相に迎えられて軍務局長となり、いわゆる統制派幕僚の中心となると、皇道派、統制派という二つの派閥の対外策の相違として、いつの間にか、統制派は対ソ容共派、皇道派は対ソ強硬派と言われていた。

 おそらく、小畑や真崎、荒木らのこの会議当時の印象が、永田攻撃というよりも、統制派攻撃の手に使われたものと思われる。こうしたことは、青年将校に伝わり、さらにこれと直結する右翼へと伝えられる。

 だが、統制派を永田の下に集まる国家改造を志した幕僚グループとするならば、このグループの国家改造はあくまで国内改革であって、戦争政策や対外政策を論議決定したものではなかった。だから、統制派が対ソ妥協の親ソ容共派であるというのは、全くの言いがかりに近い妄説なのである。

 だが、この説がまことしやかに通用して来た。ことに二・二六以後、日支戦争が起こると、統制派の対ソ親善、対支強硬派が巧みに利用された。こういう仮説に立つと、歴史の事実を説明するのに都合がいいからである。

 これだと近衛の言う、支那事変を拡大に導いたのは統制派幕僚だとする判断に、しっくり符号するからである。永田はソ連よりもまず支那を叩けと言った。だから統制派幕僚たちは支那事変を拡大から拡大へ推し進めた、と説明がつくのである。

 しかし、永田亡き後、統制派などというものは無かったのである。現に永田の腹心である池田純久中佐は、北支事変勃発当時、天津駐屯軍の作戦主任参謀だったが、彼がいかに拡大派を抑えるに腐心したかは周知の事実で、このため彼はとうとう天津軍を追われている。

 この一つの事実が示すように、統制派というグループが対外策として対ソ親善、対支強硬を主張していたなどは、およそナンセンスな判断である。

 だが、近衛および近衛一派の人々は、かたくこの仮説を信じ切っていた。勿論、それは近衛の錯覚誤認によるのだが、これをまことしやかに近衛に教えたのは、皇道派の巨頭たちであったろう。近衛のこの思想はずっと生きて、近衛上奏の内容にもつながっている。

 以上が、大谷敬二郎陸軍憲兵大佐が、「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)の中で述べた統制派と皇道派についての所見である。

 ところで、北満鉄道の買収問題について、「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、永田直系の統制派の片倉衷(かたくら・ただし)少将(福島・陸士三一・陸大四〇・関東軍第四課長・歩兵中佐・歩兵第五三連隊長・歩兵大佐・関東防衛軍高級参謀・第一五軍高級参謀・緬甸(ビルマ)方面軍作戦課長・少将・第三三軍参謀長・下志津教導飛行師団長・第二〇二師団長・戦後スバス・チャンドラ・ボ^-ス・アカデミー会長)は後年の回想として、次のように述べている。

 参謀本部の永田第二部長と小畑第二部長の意見対立の根本には、軍政型と軍令型という資質と経歴の違いがある。それは同時に、統制派と皇道派の違いでもある。



524.永田鉄山陸軍中将(24)永田一派の対支戦争という考え方こそ、大東亜戦争の遠因であった

2016年04月08日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田は「ソ連にあたるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は、戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」という。

 これに対し私は、支那を叩くといってもこれは決して武力で片付くものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる。

 また対ソ準備といっても、こちらから攻勢に出るのではないが、戦争をしない建前で訓練するといっても全く無意味で一カ月で済む訓練が一年もかかるといって反駁(はんばく)した。

 第二回の会議では永田が旅行中で欠席していたので、当初の基本方針を満場一致で決定した。私は軍の方針が決定したので、これに基づいて内外の国策を樹立すべく、大わらわになって斎藤内閣にぶっつかって行った。

 私がこういう根本方針で、恐らく一生の中で一番精魂を傾けている時に病気になり、空しく内閣を去ることになった。

 私は全てを後任の林銑十郎大将に依頼して熱海に行って療養していたが、ようやく丈夫になって熱海から帰って来てみると、軍は私の根本計画を何もやっていなかった。私はこの時ぐらい失望したことはない。

 林陸相は軍務局長に永田鉄山を任命した。前に述べたように、永田は対支戦争を考えていたし、小畑の対ソ準備論と激しく対立していた。

 これが世間でいう皇道派と統制派の争いで、必ずしも派閥の争いではなく、国策の根本的対立であった。永田一派の対支戦争という考え方こそ、大東亜戦争の遠因であった。(『丸』昭和三十一年十二月号「日本陸軍興亡の二十年」)。

 以上が、荒木大将の陸軍の省部合同首脳会議についての回顧談である。

 だが、一方、「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によれば、この陸軍の省部合同首脳会議について、著者の川田稔氏は、次のように述べている(要旨抜粋)。

 昭和八年四月中旬から五月上旬にかけて、今後の陸軍の戦略の基本方針を決定するため、陸軍省と参謀本部の局長、部長、課長が集まり、合同の首脳会議が開かれた。

 この省部首脳会議は、今後の政府の基本方針を定めるための五相会議(斎藤首相以下、外相、蔵相、陸相、海相)に向けて、陸軍の意志を統一するために開かれた。

 この会議で、永田少将と小畑少将は、対ソ戦略をめぐり激しい論争を行なった。その結果会議に出席した省部の幕僚たちの間では、永田少将の意見が多数の賛同を得た。

 だが、荒木陸軍大臣は、小畑少将の意見を支持し、陸軍首脳部は小畑少将の意見に基づいて、対ソ戦争準備方針を決定したのである。

 ところが、五相会議では、荒木陸軍大臣の対ソ戦争準備方針とその為の軍備拡張の主張は、高橋是清蔵相、広田弘毅外相らによって抑えられた。

 この対ソ戦略についての小畑と永田の対立は、同時期前後の日ソ不可侵条約問題や北満鉄道買収問題への対応と連動していた。

 日ソ不可侵条約の問題は、日ソ国交樹立の翌年一九二六年にソ連から提議されて以来、断続的に日ソ間でやり取りがなされていたが、満州事変後の一九三二年、あらためて提案がなされ、斎藤内閣の下で本格的に検討された。

 永田ら参謀本部情報部(情報部長直轄の総合班長は武藤章)は、条約締結に積極的で「即時応諾すべし」との意見であった。

 しかし陸軍部内では、主流の荒木、小畑、鈴木貞一ら対ソ強硬派が反対で、永田らの意見は採用されなかった。

 外務省はソ連と疎隔している米英への考慮もあり、荒木ら陸軍中枢の強い意向を押し切ってまで条約を締結する必要はないと考えていた。結局、斎藤内閣は条約締結の方向には進まなかった。

 この日ソ不可侵条約が締結されなかったことは、後に陸軍の対中国戦略にとって大きな制約要因となっていく。

 対ソ防備の必要から、常にソ満国境にはかなりの兵力を割いておく必要があり、翌年の熱河作戦をはじめとする軍事作戦に十分な兵力を投入できず、軍事的圧力が不十分なまま謀略工作に頼らざるを得なくなっていくからである。

 この陸軍の省部合同首脳会議について、「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、著者の大谷敬二郎(おおたに・けいじろう)陸軍憲兵大佐(滋賀・陸士三一・東大政治学科・京都憲兵隊長・第二五軍軍政部附・憲兵大佐・京城憲兵隊長・陸軍憲兵学校教官・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦犯で重労働十年・仮釈放)は次のように述べている(要旨抜粋)。

 荒木が陸相になったのは昭和六年十二月のことだが、彼は満州事変、その他緊急の課題が一応片付いた昭和八年六月に、省部の課長級以上の幕僚を集めて、今後の国防施策に関する国際情勢の判断を求めた。





523.永田鉄山陸軍中将(23)永田鉄山(当時参謀本部第二部長)がたった一人反対した

2016年04月01日 | 永田鉄山陸軍中将
 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、永田少将も真崎参謀次長には一目置き、親密感も捨ててはいなかった。これは、真崎参謀次長は永田少将の前妻との結婚式での媒酌人であったことや、真崎参謀次長が第一師団長当時、永田大佐が歩兵第三連隊長で、部下として、真崎師団長を崇拝し、親交があったのである。

 さて、当時、参謀本部第二部長・永田鉄山少将と第三部長・小畑敏四郎少将は対ソ戦略における戦略思想の見解の相違で対立が生じていた。

 「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によれば、小畑少将ら(荒木陸軍大臣・皇道派の幕僚)、の対ソ戦略に対する戦略思想は次のようなものだった(要旨抜粋)。

 現在の日本の対満州国策は崇高な目的や指導精神を持っているが、客観的本質は大和民族の満蒙支配である。ソ連から見れば、このような日本の政略は、ソ連の極東政策、北満経営を覆滅するものであり、ソ連に多大の脅威と憤懣を与えている。

 それにもかかわらず、ソ連がそれに反攻してこないのは、国内の全般的実力が許さず、対外的に列国との関係が厳しいからだ。

 従って、ソ連の国力が回復し、日本の対英米関係の悪化など国際環境が変化すれば積極的反攻にでるだろう。また、世界革命論に基づく東方外洋への発展思考から、ソ連の日本への積極的反抗行為は必定だ。

 これに対処するためには、そのような条件が整う以前に、ソ連に一撃を加え、極東兵備を壊滅させる必要がある。そのためには、ソ連の第二次五ヵ年計画完了による国力充実以前の、昭和十一年前後に対ソ開戦を行う必要がある。

 以上が小畑少将らの対ソ戦略思想だった。

 これに対して、永田少将ら(参謀本部第二部幕僚・統制派幕僚)の対ソ戦略の思想は次のようなものだった(要旨抜粋)。

 第二次五ヵ年計画終了の数年後まではソ連の戦争準備は完了せず、戦争遂行の力を発現するには至らない。したがって、対ソ開戦を昭和十一年前後の時点に設定するのは妥当ではない。

 また、現在の国際情勢は日本に有利ではなく、満州国の迅速な建設が焦眉である。日本国内も政治的経済的な欠陥があり、挙国一致は表面的なもので国運を賭する大戦争を行うのは適当ではない。

 もし、対ソ戦に踏み切るとしても、満州国経営の進展、国内事情の改善、国際関係の調整などの後に実施すべきだ。

 さらに、「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)では、永田鉄山少将の対ソ戦略について、次のように記されている。

 日本がある国家と戦争を行うには、国力を遺憾なく発揮することが第一要件であって、このためには政治、経済各般にわたる不合理なる現在の国内事態を改善し、真に挙国一致の実を収める様にせねばならぬ。

 満州国はいまだ混沌としてその人心の安定を見ず、天与の資源は未開発の状態であって、なんら戦争の用に立ち得ない。

 一方国際関係は日本を全く孤立状態に立たしめているが、それは満州事変に関する世界の認識不足から来ている。

 日本は速に皇道日本の実証を国内改善によって世界に示し、満州国をして王道楽土の実を挙げ締め、世界に皇道日本の真理想を具体的に諒承せしめる必要がある。

 いたずらに独善猪突するは、現在日本の実情がこれを許さぬばかりでなく、八紘一宇の大理想を顕現するに何らの意味もなさないのみか、非常なる障碍(しょうがい)となる。

 もしそれ他の邦家(ほうか・国)にして満州国の建国を破壊し、ひいて我が理想の顕現を阻害するにおいては、断固として起たねばならぬが、しかし今(昭和7年頃)はそれほどまでに逼迫(ひっぱく)した状態ではない。

 現下日本の急務は寧ろ国内の改善、軍備の充実、満州国の開発、情勢の調整である。

 以上が、当時の永田少将の対ソ戦略に基づく、戦争観を要約したものである。

 この永田少将、小畑少将の対ソ戦略の見解の根本的相違が激突するのは、昭和八年四月から五月にかけて行われた、陸軍の省部合同首脳会議であった。

 「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、この陸軍の省部合同首脳会議について、当時の陸軍大臣・荒木貞夫大将は、戦後回顧して、次のように記している。

 昭和八年六月と思うが、私は陸軍省、参謀本部の局長、部長、課長全部を集め、「満州事変後の根本方針をどうするか」について、全幕僚会議を開いた。

 会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあった。ところが永田鉄山(当時参謀本部第二部長)がたった一人反対したのだ。