陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

62.南雲忠一海軍中将(2) おいっ、井上!貴様みたいな、物分りの悪い奴は殺してやる

2007年05月25日 | 南雲忠一海軍中将
 軍令部の海軍省に対する態度は、俄かに強硬になった。軍令部長が皇族であることを背景に、高橋軍令部次長は大角岑生海軍大臣に圧力をかけてきた。

 昭和8年3月、軍令部長から海軍大臣宛てに「軍令部令及び省部事務互渉規定改正」の商議が廻ってきた。その要求の内容は次のようなものであった。

 一、統帥に関する事項の起案、伝達等の権限は、すべて軍令部に移管すること。

 二、警備、実施部隊の教育訓練、編制、兵科、将官及び参謀の人事の起案権を軍令部に移管すること。

 以上のものであった。旧来の海軍の伝統や習慣を無視し、天皇直属をよいことに、一切の権限を軍令部に集約しようとした、部内の叛乱にも匹敵する傍若無人の要求だった。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、当時、海軍省軍務局で制度改革に関する業務は河野千万城中佐の主務であった。

 だが、内容の重大さを読み取った、軍令部第一課長・井上成美大佐が、軍令部との折衝役を買って出た。海軍部内で叛乱ともいえる不埒なことがまかり通ってしまうことは断じて許されないという気迫だった。

 軍令部からは毎日のように「省部事務互渉規定改正案」を起草して捺印せよと使者が押しかけてきた。

 井上が起草して上級者に廻さなければ改正案は陽の目を見ない。判を押せということは、起草せよと迫るに等しかった。

 押しかけてくる使者は毎日変わらない。「米沢の海軍」のひとりである軍令部第二課長・南雲忠一大佐だった。

 南雲忠一大佐は海軍兵学校36期、井上大佐の1期先輩である。艦隊経験が長く、実戦派であった。

 そのため、前線から遠い建物の中で事務をとる士官たちを頭から軽蔑していた。判例を盾にしてしか行動できない輩として、南雲たちは「諸例則ども!」と呼んでいた。

 その南雲大佐が海軍省軍務局第一課長・井上大佐の部屋に日参した。

 靴音も荒く飛び込んでくると、井上の机の前に椅子を引き寄せて対峙した。せりふは毎回「井上!早く判を押さんか!」だった。

 しかし、いくら南雲大佐が険しい表情で声も荒げて、時には机を叩いて迫っても、井上大佐は南雲大佐を静かに見据えるだけだった。

 苛立った南雲大佐が、立ち上がって机をひっくり返さそうと下日もあったが、井上大佐は机から離れて腕を組んだまま言葉一つ発しようとはしなかった。

 容易に井上大佐の信念が曲げられないと知った南雲大佐は、遂に「おいっ、井上!貴様みたいな、物分りの悪い奴は殺してやるっ!」と詰め寄った。

 山形なまりまるだしの言葉だけに迫力があり、室内の課員たちは思わず一瞬息を詰めた。

 井上大佐は椅子から立ち上がろうともせず、「殺されるのが怖くてこの職務がつとまるか。いつも覚悟しておる。脅しにもならんことを口にするな!」と言った。

 さらに「海軍大臣に反旗をひるがえすようなことはつつしめ!」と怒鳴り返した。そして静かに机の引き出しをあけると遺書を取り出した。

 さすがの南雲大佐も井上大佐の捨て身の態度に大きくたじろいだ。井上は「南雲!よく聞け、おれを殺したとしても、おれの精神は曲げられないぞ」と浴びせかけた。

 井上大佐に対する非難攻撃は日に日に増していった。ある日、軍令部長・伏見宮邸で恒例の園遊会が開催された。

 官邸の庭園は江戸時代から残された見事な庭園であった。井上大佐も招かれて、出席した。宴も終わりに近づき、退席しようとした井上大佐は、「おい、井上!」と呼び止められた。

 南雲大佐であった。かなり酒に酔っているらしかった。「この腰抜け奴、貴様はいつまで反対を続ける気か。戦争がこわいのか、何の為に海軍に入ったのだ」と井上大佐の前に立ちふさがって罵倒し始めた。

 場所柄もあり、とりあわずに立ち去ろうとする井上大佐に「井上の馬鹿!貴様なんか殺すのは何でもないんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやれば、貴様なんかそれっきりだ」そこには南雲大佐の激しい殺気が感じられた。

 背を向けて立ち去る井上大佐の背に、さらに南雲大佐の罵声が飛んだ。「腰抜け!いくじなし!死ね!」

 「米沢海軍」の総帥・山下源太郎の遺志を継ぎ、天皇直属の軍令部の統帥権を確立し、強い海軍をつくろうとする南雲大佐の意思の激しさをさまざまと見せ付けられたのだった。

 しかしこれは南雲大佐個人の意思ではなく軍令部全体の意思であった。

61.南雲忠一海軍中将(1) 艦隊派と条約派は5.15事件の処分をめぐっても対立した

2007年05月18日 | 南雲忠一海軍中将
 昭和5年1月21日ロンドン軍縮会議が始った。補助艦艇対米比率を巡って会議は紛糾した。

 だが、結局補助艦合計の対米比率0・697で、日本政府は閣議決定し、ロンドンの若槻礼次郎全権に回訓を発した。

 4月22日、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿で五カ国全権により調印、ロンドン軍縮条約は成立した。

 このとき、海軍省はロンドン条約に不満はあるがひとまず協定すべきという意見が大半であった。

 財部彪海軍大臣は、全権でロンドンにいたし、海軍省に残っていた山梨勝之進次官、堀悌吉軍務局長ら首脳も条約派で、ロンドン条約に賛成だった。

 ところが、軍令部は、加藤寛治軍令部長、末次信正軍令部次長ら、ワシントン会議以来の艦隊派の首脳だったので、ロンドン条約に猛反対した。

 ロンドン条約成立の二日前の4月20日、末次軍令部次長は条約派に「ロンドン条約には不同意である」旨の覚書を山梨海軍次官に送りつけた。

 このようにして当時の軍令部と海軍省、つまり艦隊派と条約派の対立はロンドン条約を契機に一気に噴出した。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、昭和7年5月15日午後5時25分、海軍士官6名、陸軍士官学校生徒11名、農民同志らによる集団テロが決行された。

 犬養毅首相をピストルで射殺、牧野伸顕邸と警視庁と政友会本部に手りゅう弾を投げ込んだ。5.15事件である。

 この5.15事件をめぐって、海軍部内は批判、同情二つの意見に割れた。当時海軍大学校教官であった井上成美大佐は徹底した5.15事件批判論者であった。

 井上大佐と意見を異にして、5.15事件を起した海軍青年士官に同情の立場をとっていた側に軍令部第二部長・南雲忠一大佐がいた。

 南雲大佐は「五・一五事件の解決策」という一文を草し、強力なる海軍を実現して国を救おうと決起した青年士官らの行動を高く評価した。その内容は次のようなものであった。

 一、判決の公正。イ、死刑又は無期は絶対に避けること。ロ、被告の至誠報国の精神を高揚し、その動機を諒とすること。

 二、検察官の論告に対し、責任ある者に対しては、適当の処置をとること。

 三、ロンドン条約に関連し、軟弱にして統帥権干犯の疑義を生ぜせしむに至った重要責任者に対して、適当なる処置をとること。

 四、右一、二の処置は、速やかにとるほど効果大なり、而して、その処置をとるとともに、軍紀を刷新するを要す。

 付、青年将校の念願は、要するに強力なる海軍を建設するにあり。部内統制の見地においても、明年度大演習の施行、第四艦隊の編制、訓練等術力練磨に寄与する方策の実現は絶対に必要なり。

 これは軍縮条約に反対する艦隊派の終始変わらない考え方でもあったのである。

 この考え方に反対し断罪を望んでいたのが、条約派であった。艦隊派と条約派は5.15事件の処分をめぐっても対立した。そしてその溝は深まる一方であった。

 さらにこの対立に火をつけたのが、「省部事務互渉規定」であった。

 この規定は明治26年に制定されたもので、軍機・軍略を始め、軍艦、軍隊の発差(派遣)にしても、起案は軍令部でできるが、海軍大臣に事前に商議し、陛下の上裁を経て、予算を動かす海軍大臣に移すというものだった。

 これに対する軍令部の不満は、大正10年のワシントン軍縮会議、昭和5年のロンドン軍縮会議を経て、ますます高まった。

 軍令部長の権限で戦力や兵力量を決定できるようにしなければ、国を危うくするという論が軍令部内に沸騰し始めていた。

 昭和7年当時の軍令部長は伏見宮博恭王であった。この宮の威光を利用して、一気に事を運ぼうとする動きが活発になっていた。

 その中心人物が軍令部次長の高橋三吉中将であり、軍令部第二課長・南雲忠一大佐であった。

60.田中隆吉陸軍少将(10) 我も又確かに有力なる戦犯の一人なり

2007年05月11日 | 田中隆吉陸軍少将
 外務省とは別に大東亜省を設置すると主張する東條首相はこれに反対する東郷外相と対立していた。

 東郷外相は田中兵務局長に相談した。

 田中少将は「東條首相は速やかに首相を辞めて第一線に出るか、或は引退するのが国家ならびに本人のためである」と答えた。

 昭和17年9月22日田中少将は東條首相に辞表を提出した。

 東郷外相が東條に敗れたら、田中少将も辞任すると約束していたので、実行に移したと田中少将は述べているが、田中少将と東條首相との度重なる意見の相違の結果でもある。

 谷田勇中将は田中少将と広島幼年学校以来、親交を続けている仲である。

 昭和18年5月初旬、谷田中将がラバウルに赴任する前、祖先の墓参を済まし、長岡温泉の旅館「大和館」に寄った。

 その時玄関脇の帳場で、浴衣で、どかりと座り、碁を打っている入蛸坊主がいた。それが田中少将だった。

 谷田中将は、田中少将が陸軍省を追われ、国府台陸軍病院の精神病棟に入っていることは承知していたが、、長岡で会ったのは驚いた。

 その時、田中少将は「開戦を決心する時は、省部の会議は開かれなかった。東條大臣と武藤軍務局長と田中新一作戦部長との間で急遽、開戦を決した。己を知らぬ馬鹿な奴らだ」と言ったという。

 「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)によると、昭和6年3月に参謀本部の建川少将、重藤大佐、橋本中佐、長少佐を中心に計画されたクーデター「3月事件」は宇垣一成大将を首班とした組閣が立案されていた。

 「3月事件」は未遂に終わったが、その「3月事件」の民間側の指導者、大川周明博士は後に、宇垣大将を「大嘘つき」と罵倒したことがあった。

 それは宇垣大将が外務大臣当時、大川博士が推薦した白鳥敏夫氏を次官にすると約束しながら、宇垣大将がそれを実行しなかったからだ。

 昭和19年12月末、田中少将は、宇垣大将と大川博士と共に、伊豆長岡の大和屋温泉で会食した。

 その時、大川博士が、白鳥敏夫次官推薦問題を話しに持ち出した。

 すると宇垣大将は面上朱をそそいで怒って「なるほど、君から白鳥氏を次官に採用せよとの要求はあった。自分はただ承りおいたのみで、ただの一回もその実行を約束した覚えはない」と言った。

 大川博士は、これを肯定し、嘘つきとの言葉を取り消した。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和24年9月15日深夜、田中は自殺をはかったが、未遂に終わった。

 遺書には東京裁判での一連の証言が、元軍人として不当な行為であることを充分承知した上で、天皇の出廷阻止のため、あえてなしたことを記してあった。

 さらに、「既往を顧みれば我も又確かに有力なる戦犯の一人なり。殊に北支、満州においてしかり。免れて晏如たること能はず」と書かれてあった(田中稔「父のことども」)。

 田中は後日、宮内庁から下賜品を賜っている。このことは現在の宮内庁の公式書類には残されていない。

 だが、田中は涙を浮べて、元陸軍中将、谷田勇氏に下賜品を賜ったことを語ったという。田中は昭和47年、78歳で死去した。

(今回で「田中隆吉陸軍少将」は終わりです。次回からは「南雲忠一中将」が始ります)

59.田中隆吉陸軍少将(9) 東條首相は大喝一番「やめない」と怒鳴った

2007年05月04日 | 田中隆吉陸軍少将
 陸軍省の局長会報で兵務局長の田中少将は「この内閣には癌がある。それは星野、鈴木、岸の三人だ」と一矢を放ったが、東條首相は歯牙にかけない風を示した。

 それで、田中少将はさらに「一国の総理たる者がゴミ箱の中を覗いたり魚屋の兄貴の肩をたたくのは見っとも無いからよしたほうが良い」と言った。

 すると東條首相は大喝一番「やめない」と怒鳴った。

 それで田中少将は「ボヤボヤすると殺されますぞ」と言った。すると東條首相は「それは良く注意している」と穏やかに答えた。

 昭和19年、木戸内大臣と会談した田中少将は「何が故に重臣は東條を推薦せりや?」と問うた。

 木戸氏は「それは東條が陸軍大臣になってから、珍しく統制がとれたので、東條ならば陸軍部内の主戦論を抑えて、戦争の勃発を回避し得ると思ったからだ」と答えた。

 田中少将は重臣の軍の統制に対する無知に驚いた。

 昭和16年10月中旬、田中少将は下志津飛行学校幹事の中西大佐を訪れ、「米国の航空機に対して、日本の航空機の現状を持って果たして勝算があるか」と聴いた。

 中西大佐は「質、量、共に勝算なし」と極めて明白に断言した。

 また、その翌日、たまたま上京中であった石原莞爾中将から木村代議士を通して田中少将に会いたいとの伝言があった。

 会ってみると石原中将は開口一番「石油が欲しいからといって戦争をする馬鹿があるか」と言った。

また「南方を占領したって、日本の現在の船舶量では、石油は愚かな事。ゴムも米も絶対に内地にもって帰ることは出来ぬ」と一流の口調で言った。

 さらに石原中将は「ドイツはロシアに勝てぬ」とも言った。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和16年12月8日午前6時、田中少将は陸軍省から電話を受けて真珠湾攻撃が成功した事を知った。

 8日の正午宣戦の大詔が発せられた。午後1時陸軍省の大講堂で、東條首相の訓示があった。

 田中少将は武藤軍務局長と隣り合って聞いた。訓示の直前、武藤軍務局長は田中少将に「これで東條は英雄になった」と言った。

 田中少将は「国賊にならなければよいが」と言った。

 すると武藤軍務局長は「そうだ、しくじったら国体破壊まで行くから正に国賊だ。然し緒戦が巧く行ったからそんなことにはならぬ」と答えた。

 9日午後に至って、真珠湾及びマレー沖海戦の戦果が明らかになった。

 田中少将は部下に「この戦争を甘く見てはならぬ。この戦争は独ソ戦争の帰趨が決するまでは始めてはならない戦争であった。もし万一ドイツが負けたら日本は亡ぶ」と言った。

 田中少将の言葉は忽ち部内に伝わり局長として許すべからず悲観論として喧々ごうごうたる非難を受けた。

 昭和17年4月18日最初の東京空襲があった。田中少将は兵務局において作成した防空施設計画を東條陸軍大臣に提出した。だがこの案に反対した。

 田中少将は武藤軍務局長の後を継いだ佐藤賢了少将に予算の捻出を要求したが、頑として応じなかったという。