陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

609.桂太郎陸軍大将(29)山縣元帥は「現職の首相は政党を組織するべきではない」と反対した

2017年11月24日 | 桂太郎陸軍大将
 十月十二日、桂中将は、松方首相宛てに、台湾総督の辞職願を提出した。だが、辞表は受理されないまま、宙に浮いていた。

 遂に、桂中将は、海軍大臣・西郷従道大将に立ち合いを頼み、共に官邸に行き、松方首相と会見した。桂中将は、「台湾総督就任は受けられない」と言ったが、松方首相の返事ははっきりしなかった。

 そのあと、桂太郎中将は、高島陸軍大臣を訪ね、台湾総督の留任はしない旨を告げた。すると高島陸軍大臣は「分かった。辞表は受理するよう取り図るが、今後、台湾統治について助言を頼む。また、後任の台湾総督を推薦してくれ」と言った。

 この言葉で、桂太郎中将は、表情を和らげ、了承した。後任については、第二師団長・乃木希典中将に内定することに決めた。

 明治二十九年十月十四日、桂太郎中将は、東京防禦総督に就任した。この官職は、明治二十八年一月、日清戦争に伴い、防務条例が公布され、東京の衛戍司令官とともに首都防衛の為に設置された。だが、平時は閑職だった。

 第二次松方内閣は、地租増徴法案を次年度予算案の中に入れて提出しようとしたため、与党の進歩党が離反して、内閣総辞職となった。

 明治三十年十二月二十九日、伊藤博文に組閣の大命が下った。伊藤首相は、中国情勢が緊迫している状況で、挙国一致の体制を作るため、進歩党、自由党の両党との提携を実現して、日清戦争後の経営を乗り切ろうとした。

 だが、大隈重信も、板垣退助も入閣を断り、挙国一致構想は出足から崩れた。

 伊藤博文首相は、入閣交渉に桂太郎中将を帯同し、また、桂中将自身にも入閣交渉をやらせた。桂中将は西郷従道海軍大将に海軍大臣留任の要請をし、成功した。桂中将は、伊藤首相の組閣参謀であった。

 明治三十一年一月十二日、第三次伊藤内閣が発足した。桂太郎中将は陸軍大臣に就任した。

 伊藤内閣には、井上馨が大蔵大臣、西園寺公望が文部大臣として入閣したが、有力な与党はなく、国民協会だけを与党とした官僚内閣であった。
 
 伊藤内閣は、前内閣に引き続き地租増徴法案を提出したが、法案は否決されたため、政府は衆議院を解散した。

 板垣退助率いる自由党と、大隈重信率いる進歩党も、共に藩閥内閣打倒を叫んで、ことごとく、政府と対立したのである。

 伊藤首相はこうした事態に対処するため、国策を遂行できる政党を結成して対抗する以外はないと考えた。だが、元老・山縣有朋元帥は政党結成に反対した。

 山縣元帥は、自分の息のかかった、陸軍大臣・桂太郎中将、内務大臣・芳川顕正(よしかわ・あさまさ・徳島・徳島藩士・維新後大蔵省・東京府知事<四十歳>・文部大臣・宮中顧問官・司法大臣<五十一歳>・内務大臣・逓信大臣・子爵・逓信大臣・内務大臣・伯爵・枢密院副議長・南洋協会初代会頭・伯爵・勲一等旭日桐花大綬章)ら山縣系閣僚にも、反対の意を伝えた。

 こうした伊藤首相の新党結成の動きに対応して、地租案反対で歩調を一致していた自由党と進歩党は、この際一挙に両党合同して、六月二十一日、憲政党を結成した。

 首相として政党結成に挫折した伊藤首相は、首相を辞任して、野に下って、政党結成を目指す考えを、陸軍大臣・桂中将に意見を問うた。

 これに対して、桂中将は、「戦後経営は是が非でも実現しなければならない。政党結成は断念して、諸元老を入閣させ、内閣を強化し、反対する衆議院を再三解散する覚悟で収拾すべきだ」と進言した。

 だが、伊藤博文首相は、六月二十四日、諸元老と会談して、新政党を結成して反対党と闘うと主張して、元老らの意見を求めた。

 山縣元帥は「現職の首相は政党を組織するべきではない」と反対した。すると伊藤首相は「首相を辞任する」と言い切った。

 さらに山縣元帥が、「元老の身分になっても、不可である」と言うと、伊藤首相は「官職・勲爵を辞して実行する。元老会議にはかる必要はない」と強弁した。


608.桂太郎陸軍大将(28)このような首相の下で、命を懸けて台湾総督などできない

2017年11月17日 | 桂太郎陸軍大将
 明治二十九年六月二日、桂太郎中将は、台湾総督に任命された。

 伊藤首相と、西郷従道海軍大臣が台湾の状況を視察することになり、桂太郎中将もこれに加わり、軍艦「吉野」に乗組んで出港、六月十二日台湾に到着した。視察後、六月二十七日長崎に帰着した。

 台湾総督に就任した桂中将は、現地に赴任前に、台湾統治計画を意見書として起草している。この意見書は、民生移管に伴う不可欠な施策を網羅しており、行政官としての資質を十分に示したものだった。

 だが、桂中将の台湾総督就任の期間は、結果として短期間で、任地に赴任できないまま終わった。これは、第二次伊藤博文内閣が、内閣改造に失敗して、伊藤博文が内閣を投げ出し、総辞職したためだ。

 明治二十九年九月十日、後継の内閣首班に薩摩閥の代表として、松方正義に大命が降下した。組閣に移り、陸軍大臣として、桂太郎が推挙された。

 この第二次松方内閣は、松隈(しょうわい)内閣とも呼ばれた。組閣が順調に進まず、進歩党との連携を余儀なくされたのだ。山縣有朋大将や薩摩閥はこれに反対していた。

 だが、進歩党からは、大隈重信(おおくま・しげのぶ・佐賀・長州藩に協力・尊皇派・維新後大蔵大輔<三十一歳>・参議兼大蔵卿<三十五歳>・大蔵大臣・立憲改進党結成・東京専門学校<現・早稲田大学>開設・伯爵<四十九歳>・外務大臣・憲政党結成・首相・早稲田大学総長・首相・侯爵・貴族院議員・侯爵・従一位・菊花章頸飾)のみが、松方内閣の外相に就任することで、合意した。

 そこで、山縣有朋大将が、進歩党を与党とする、この松隈(しょうわい)内閣に、桂中将が陸相として入閣することが必要であると、推薦したのだ。大隈らが軍政に関与するのを防ぐためだった。

 「軍人宰相列伝」(小林久三・光人社・平成15年)によると、山縣有朋大将は、長州藩の先輩で、桂太郎中将より九歳年上だった。

 山縣大将は、長州藩では、いわば足軽の子ではあったが、権力欲と、その政治的駆け引きには天性のものがあった。明治維新後、大久保利通の構想にそって陸軍を創設したのだ。

 軍政をドイツ式に変えることに成功した山縣大将は、フランス式に固執する反対派を陸軍内部から放逐して、現人神で大元帥の明治天皇を頂点とする軍隊を作り上げることに成功した。

 その一方で、政治の世界にも進出した山縣大将は、陸軍省と内務省を長州閥で支配し、政治の世界にも君臨してきた。山縣大将と、桂中将は、二人三脚を組んで軍政家の道を歩んできた。

 山縣大将は、桂中将を招いて、「国家経営上、最も困難な状況である」と述べ、「陸軍大臣になる者は、陸軍一般の成規及び行政に慣熟していなければ、目下の困難を処理することはできないのだ。貴公が陸軍大臣に就任しなければ、内閣ができないのだ」と桂中将を説得した。

 これに対し、桂中将は、「自分は台湾総督就任の際も、自信がなくその器ではないと固持しましたが、強い要望に屈して、これを受けました。受けた上は、台湾総督として、全力で経営に当たる決心でありますのに、今、それをひるがえすことはできませぬ」と応じなかった。

 だが、粘り強い山縣大将の勧めに、遂に桂中将は、台湾総督を辞任することにして、これを受諾した。松方正義首相もこれを受けて、桂太郎中将の陸軍大臣就任を内定した。

 ところが、その後、拓殖務大臣・高島鞆之助中将が陸軍大臣の地位を懇望し、松方首相に強引に働きかけてきたのだ。

 松方首相と高島中将は、共に薩摩藩出身の薩派である。松方首相は、桂中将の内定を取りやめ、高島中将の要求を受け入れてしまった。

 桂中将に対して、松方首相は、これまで通り台湾総督の任に留任することで、事態を収拾しようとした。だが、桂中将は、これに反発した。以前にも、第一次松方内閣の時、高島中将が陸相に就任し、桂中将は第三師団長に出されたいきさつもあった。

 松方首相は、長州閥の元老・井上馨(いのうえ・かおる・山口・第二次長州征伐・維新後大蔵省入省・大蔵大輔<三十五歳>・外遊・参議兼工部卿・外務卿<四十三歳>・伯爵・初代外務大臣<四十九歳>・農商務大臣・内務大臣・朝鮮公使・大蔵大臣・元老・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・大韓帝国李花大綬章等)に依頼して桂中将を説得してもらった。

 井上馨は、桂中将を訪ねて、台湾総督に留任してもらいたいと、説得したが、桂中将は「このような首相の下で、命を懸けて台湾総督などできない」と納得しなかった。


607.桂太郎陸軍大将(27)病床の桂太郎中将は、「三浦の、馬鹿野郎が……」と、苦々しく言った

2017年11月09日 | 桂太郎陸軍大将
 田庄台占領後、四月に入り、第三師団は第二期作戦のため、金州(きんしゅう)に集結したが、四月十七日、下関で日清講和条約が締結された。

 その後、四月二十三日、ロシア、ドイツ、フランスの三国が、日清講和条約の内容に干渉して来て、日本は遼東半島を放棄せざるを得なかった。だが、台湾は清国から割譲した。

 明治二十八年六月二十日、桂太郎中将は御用船で大連港を出港、帰国の途についた。六月二十三日、広島の宇品に到着、六月二十五日、名古屋に凱旋した。第三師団の残りの部隊も次々に帰還し、七月二十三日には全部隊が帰着した。

 桂太郎中将は、日清戦争の軍功により、功三級金鵄勲章を授与され、子爵を授けられた。一挙に華族に列せられた。

 だが、その後、七月下旬、桂中将は腹部の不調を感じ始めた。診察を受けると、医師は、肝臓炎だが、不治の病だと診断した。激痛が続き、遂に上京して、九月十一日、東京の日本赤十字病院に入院した。

 やがて重体となり、陸軍関係者、知人、友人たちも心配した。陸軍次官・児玉源太郎少将も見舞いに来たが、意識不明の桂中将を見て驚いた。児玉少将は三日間病床の桂中将に付き添った。

 四日目から、桂中将は意識が戻り、奇跡的に回復していった。肝臓炎は誤診で、胆汁下痢と診断されたが、病名ははっきりしなかった。

 明治二十八年十月八日、朝鮮で、閔妃が暗殺された。日清戦争後、閔妃がロシアと共謀して、日本の朝鮮単独支配に抵抗していると見た、駐韓国特命全権公使・三浦梧楼中将(予備役)が手をまわして暗殺した。大院君による親日政権樹立のためだった。

 暗殺の内情を知った、病床の桂太郎中将は、「三浦の、馬鹿野郎が……」と、苦々しく言った。日清戦争後、国際社会が、日本の一挙一動に注目している中で、無謀なことを断行した三浦の無知かげんに腹が立ったのだ。

 日本人による閔妃惨殺という、残忍な凶行に、世界各国は日本に対して非難を行なった。日本政府は、三浦公使らを召喚し、十月二十四日入獄させ、裁判にかけた。

 だが、明治二十九年一月二十日、全員無罪となり、釈放されたので、朝鮮民衆は騒ぎ出し、騒乱状態になり、親日政権は倒れた。結局、この事件により、朝鮮では反日感情がさらに高まった。

 明治二十九年五月、養生を続けて、病が癒えた桂太郎中将は、上京を命じられ、二代目の台湾総督に就任するよう、打診を受けた。

 初代台湾総督は、樺山資紀(かばやま・すけのり)海軍大将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍少佐<三十四歳>・陸軍中佐<三十七歳>・陸軍省第二局次長・熊本鎮台参謀長・陸軍大佐<四十一歳>・近衛参謀長・陸軍少将<四十四歳>・警視総監・海軍大輔・海軍少将<四十七歳>・子爵・海軍中将<四十八歳>・海軍大輔兼軍務局長・海軍次官・欧米出張・海軍大臣<五十三歳>・予備役・枢密顧問官・現役復帰・軍令部長・海軍大将<五十八歳>・台湾総督・伯爵・功二級・枢密顧問官・内務大臣・文部大臣・枢密顧問官・議定官・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)だった。

 当時の内閣総理大臣・伊藤博文が、樺山海軍大将の後に、本格的な植民地行政を推進できる人材として、桂太郎中将に台湾総督の就任を要請した。伊藤首相は、桂中将を、長州閥の有能な軍人政治家であると評価していた。

 ところが、桂中将は、これを辞退した。大病の後で、台湾は当時、瘴癘(しょうれい=伝染病の熱病)の地とされており、さらに依然島民の反乱が続いている状況なので、台湾総督の就任に自信が持てなかったのだ。

 だが、伊藤首相と高島鞆之助拓殖務大臣は、桂中将に就任を懇請し、健康不良ならば、内地で十分療養した後に赴任してもよいとの条件を提示した。

 桂中将はこの時の心情を、五月十八日付の伊藤内閣の野村靖(のむら・やすし)内務大臣に宛てた書簡で次のように告白している。

 「全体小生ノ希望ハ今此ノ任務ニ就くハ好ザル事ニテ、他人ニ譲タク相考申候、ナゼト申ニ、第一二小生不幸ニモ昨年大病ヲ煩ヒ、マタ一ヶ年ヲ経過セザレバ身体上如何コレアルベキヤト相考候、第二ニ此ヤリチラシノ跡始末ハ小生ノ如キ弱腕ニテハ整理コレアルベキヤ、未ダ小生等ガ出テヤル時ニモコレアルマジク、所謂名望アル元勲ノ内ヨリ此任ニ当ル事ガ当然ナラン」。

 ここには、大病の後で健康に自信がないこと。さらに、日清戦争後の放漫な台湾政策の後始末をやるのは、元勲ら責任のあるものが担当すべきであろうという批判めいた考えがあった。

だが、桂中将は、この書簡の文末には「君国のためだから、他に人がいないのなら、敢えて辞せず」という趣旨を付け加えている。





606.桂太郎陸軍大将(26)大本営の冬営方針を無視しての作戦行動は、様々な障害に直面した

2017年11月03日 | 桂太郎陸軍大将
 だが、結果的には、第三師団は第一軍の作戦の中心となり、海城(かいじょう)占領から渤海(ぼっかい)湾方面への戦闘を展開することができた。これは桂中将の功名心が全面的に示された行動ともいえる。

 いよいよ冬期を迎えたので、参謀本部は第一軍を靉河・大洋河の地域で冬営させる方針を伝えた。だが、桂中将は、「冬営よりも積極的に満州(中国東北部)の要地を制圧する作戦を行うべきだ」と提案した。

 十一月三日、第一軍司令官・山縣有朋大将は、この桂中将の提案を容れ、次の三策を大本営に建策した。

 一、山海関付近に上陸。二、遼東半島に進出し第二軍と連合、氷結しない兵站基地を確保すること。三、直ちに奉天(ほうてん)城を攻撃すること。

 だが、大本営はこれを承認しなかったので、山縣大将は、冬営の方針を指示した。ところが、清国軍が岫巌(しゅうがん)に駐屯しているという情報が入って来たので、桂中将は第三師団の一個旅団を出動させ、十一月十八日、ここを占領して しまった。

 桂中将は、さらに北京(ぺきん)進撃を策定するためには、遼東半島の要地、海城(かいじょう)への攻撃が必要であると考え、これを上申した。山縣大将もこれを支持し、大本営も容認することにした。

 明治二十七年十二月十二日、桂中将は、柝木(たくぼく)城を攻撃して占領、本格的な海城攻撃の戦闘に突入した。

 だが、冬期を迎えて結氷した悪路の進撃は、兵馬ともに難渋を極め、冬の軍服は間に合わず、食糧輸送も遅れ、凍傷に悩むなど、困難続きだった。

 大本営の冬営方針を無視しての作戦行動は、様々な障害に直面した。ようやく十二月十三日、海城を攻略した。
 
 この海城は、北東に遼陽(りょうよう)があり、南西に蓋平(がいへい)を経て遼東半島の渤海沿岸に通じ、さらに西南方面で田庄台(でんしょうだい)・営口(えいこう)に至るという交通の要衝であり、四方城壁に囲まれた市街地をなしていた。

 そのため清国軍にとっても、この地を奪回すべく行動を起こし、海城の南西一二キロ余りの地にある紅瓦寨(こうがさい)に滞陣する清国軍との十二月十九日の戦闘はかつてない激しい戦闘となった。

 明治二十七年十二月十九日、第五旅団長・大迫尚敏(おおさこ・なおはる)少将(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍御親兵・少尉<二十七歳>・中尉<二十七歳>・陸軍省・大尉<三十歳>・西南戦争・少佐<三十三歳>・熊本鎮台参謀・中佐<三十九歳>・歩兵第六連隊長・大佐<四十三歳>・第四師団参謀長・参謀本部第一局長・少将<四十八歳>・歩兵第五旅団長・日清戦争・男爵・功三級・参謀本部次長・中将<五十三歳>・第七師団長・日露戦争・功二級・大将<六十二歳>・子爵・学習院長・子爵・正三位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)からの急報で、午後から戦闘が開始された。

 この戦闘では、夕方になって、ようやく紅瓦寨を占領したが、日本軍の死傷者は四〇八名で、戦闘員の一割にも達した。また、凍傷患者は重軽症者を合わせて、一〇〇〇名を超え、冬期の作戦の困難さを体験することになった。

 一部の部隊を紅瓦寨に残して、第三師団の主力は海城に撤退したが、雪中における大部隊の夜間での撤収行動は困難を極め、最後の部隊が帰還したのは、十二月二十日午前十一時頃だった。さらに死傷者を収容するために三日間を費やした。

 この戦闘の報告は、明治天皇のもとにも達せられ、戦功を嘉(よみ)する勅語が下賜された。桂太郎中将は、将兵を集めて、「わが第三師団は、帝国陸軍の先頭に立った」と述べ、第三師団万歳を唱えた。

 だが、半日の戦闘で多数の犠牲を払った上、この日以後、七十日余りも海城で籠城しなければならなくなったのである。

 海城の第三師団の兵力は、一個旅団分に過ぎなかった。これに対し、包囲する清国軍は、二~三万人の大軍だった。だから、第三師団は戦闘を仕掛けることができずに、籠城を続けたのだ。

 明治二十八年二月になって、第一軍司令部は、ようやく第三師団と第五師団に出撃命令を出した。二月二十八日、第三師団は籠城から抜け出し、積雪を踏んで進撃を開始した。大きな抵抗もなく、遼陽南方の鞍山站(あんざんたん)を占領した。

 その後、牛荘(ぎゅうそう)城を攻撃し、激しい市街戦になったが、三月四日、日本軍は場内に突入、五日、清国軍は降伏した。その後、第三師団が主力となって田庄台も占領した。