陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

140、宇垣一成陸軍大将(10) 宇垣を抑える空気は軍部外にあった。山下将軍と同じだ 

2008年11月28日 | 宇垣一成陸軍大将
 その日の午後には、寺内陸相が組閣本部に現れ、

 「陸軍三長官(陸相・参謀総長・教育総監)の正式会合の結果、陸相候補として、杉山元、中村孝太郎、香月清司の三中将に交渉した。だが、みな自信がないと断ってきた。ほかに適当な人物がいない。よって陸相候補の推挙はできない」と宇垣に正式に通告した。

 宇垣は腹立たしさを通り越して、あきれ果てた。これほどまでも陸軍の反対が強いとは、宇垣も思っていなかった。

 宇垣が陸相時代に信任し、また彼に忠実だった当事の軍務局長・小磯国昭が、今は中将となり朝鮮軍司令官をしている。

 宇垣は自分でソウルの小磯に長距離電話をかけた。

 「陸相をやってくれぬか。相当に空気が悪いから君は僕と一緒に討ち死にする覚悟でやってくれぬか」と小磯軍司令官に頼んだ。

 小磯は「三長官の同意は得ましたか」と問うた。

 「その同意が得られぬから僕は君に直接頼んでいるのではないか」

 すると小磯は「今私が承知しても朝鮮海峡を渡る頃、三宅坂(陸軍省)から予備役編入の電話一本でだめになります」と言って逃げた。

 宇垣は電話口で「そうか。困ったな」と言って電話を切った。

 宇垣は、軍の長老に陸相を説得させようとしたり、さまざまな努力をしたが、陸軍の高い壁は破れなかった。

 宇垣はついにあきらめ、1月29日午前11時50分、参内して、これまでの経過を述べ、組閣の大命を拝辞した。その辞表は陸軍を露骨に非難したものだった。

 「陸軍に裏切られた陸軍大将」(芙蓉書房)によると、戦後、著者の額田坦元陸軍中将が巣鴨の監獄の庭を散歩していたとき、橋本欣五郎元陸軍大佐が、陸軍が宇垣の組閣を排斥したことについて、次のように言った。

 「宇垣を抑える空気は軍部外にあった。山下将軍と同じだ」

 額田坦元陸軍中将は、この謎めいた言葉の真意を、橋本欣五郎元陸軍大佐に問うたが、彼はそれ以上説明しなかった。

 宇垣の組閣流産のあと、林銑十郎内閣が組閣されたが、わずか四ヶ月で倒れた。その後を継いで近衛文麿が首班に指名された。

 戦後、宇垣は昭和28年4月の参議院選挙に出馬した。八十五歳だった。

 その年の1月8日、額田坦元陸軍中将が四谷の宇垣邸に呼ばれて行くと、宇垣は「この春の参議院選挙に出るから頼むぞ」と言った。

 額田元中将は1月下旬、安井誠一郎(東京都知事)から帝国ホテルに招かれ、宇垣立候補の披露を受けた。

 だが、その後、宇垣は伊豆長岡で来客と対談中、火鉢の炭火中毒で倒れた。そこで出馬中止となり、安井氏も了承した。

 ところが3月になり、吉田首相の「バカヤロー解散」の頃から、再び宇垣の出馬の呼び声が上がった。だが、安井氏は「いまさら」と消極的だった。

 3月24日、大村清一衆議院議員から額田元中将に「宇垣先生は出馬することになった」と電話があった。額田元中将は知事公舎に安井氏を訪ね確認したが、安井氏はやはり否定的だった。

 3月30日、額田元中将は長岡に直行した。すると宇垣は悠然たるもので、「安井までが、そう言うなら、止めてもよい」との返事だった。

 それで宇垣と額田元中将は共に上京し、3月31日、四谷邸で、安井氏ら側近を集めて協議していた。

 ところが4月1日、岡山から、宇垣松四郎氏らが押し寄せ、「岡山では駅前に事務所を作って選挙活動を始めている。いまさら~」と鼻息が荒かった。

 宇垣は出馬を決意した。選挙事務局長には額田元中将が就任した。若い軍人たちも手弁当でかけつけた。親交のあった落語家・柳家金語楼も応援に来た。運動方針は「宇垣は年をとっても、まだ元気だ」に決まり、それを宣伝した。

 4月27日参議院議員全国の開票結果が発表された。宇垣は最高点513、765票で当選していた。

 (「宇垣一成陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「小沢治三郎海軍中将」が始まります)

139、宇垣一成陸軍大将(9) 組閣を命ず。組閣の自信ありや

2008年11月21日 | 宇垣一成陸軍大将
 中島憲兵司令官は続けて言った。

 「だめだ。君らがそんな弱気じゃいけない。いま宇垣に出られては、粛軍がむだだ。あのぶんでは、とても大命拝辞はのぞめない。われわれが一致団結して排撃しなければ、歴史はあともどりする」

 宇垣は皇居に入り、湯浅内大臣に挨拶した。湯浅内大臣は

 「軍部の反対強烈なるが如し、組閣は困難と想像されることを天皇にも申し上げてある。充分慎重に考慮の上お受けするように」と宇垣に言った。

 午前1時40分頃、天皇に召された。

 天皇は

 「組閣を命ず。組閣の自信ありや」

 と言ったと、宇垣の随想録にある。

 天皇が組閣を命じるとともに、「組閣の自信ありや」と問うことは普通には考えられないことであって、これに類する先例もない。

 木戸幸一の1月25日の日記にある、湯浅内大臣の話では

 「卿に組閣を命ず。しかし不穏なる情勢一部にあると聞く。その点につき成算ありや」

 との意味の言葉だったという。宇垣はそれを聞かされた。

 ところが宇垣はたんに内大臣は軍の内情を心配してくれているな、たいしたことはあるまいと思っていた。

 宮中を退出すると、宇垣はただちに組閣にとりかかった。25日午後、宇垣みずから寺内陸相を訪れ、組閣の方針及び抱懐する政策を述べ、陸軍大臣の推薦をもとめた。

 ところが寺内陸相は

 「中島中将から伝えていただいたように、陸軍部内の情勢から見て組閣を拝辞していただきたい」と言った。

 また「陸軍は敢えて組閣を阻止するにあらざるも、陸軍は政策等に関する反対ではなく、粛軍の見地から閣下個人に反対している」とも言った。

 26日午前には、宇垣が陸相のとき次官に登用した杉山元中将(教育総監)が組閣本部に宇垣を訪ねてきた。そして次のように言った。

 「大局から見れば閣下のご出馬が国家のため最善と思っている。しかし、何分にも若い者が粛軍工作が破壊されるとか軍の統制が乱れるとか騒ぐから、ご考慮願いたい」

 これには宇垣も怒った。

 「大局の発動を阻止する行為の如きは、粛軍の精神にもとり、軍の統制の乱れることはなはだしいではないか。軍首脳の地位に居らるるあなた方は組閣を是なりと考えるならば、それらの異論をおさえ部内をまとめていけるわけではないか」

 杉山中将は弱弱しい声で

 「微力とうてい私どもの力では押さえ切れませぬ」と言ってうつむいたままだった。

138、宇垣一成陸軍大将(8) 私がもし大命をお受けすれば、再び二・二六事件のように軍隊が動くのか

2008年11月14日 | 宇垣一成陸軍大将
 上京する列車には、新聞記者たちが乗り込んできて、うるさく質問するが、宇垣は一言も発しなかったという。横浜駅に着くと、駅長室で東京から息子が持ってきたフロックコートに着替え、神奈川県知事差し回しの自動車で東京へ向かった。そのあとを、五十台余の車が追った。

 六郷橋を渡り、蒲田に近づいたとき、道路上に一人の軍人が大手を振って宇垣の車をとめた。東京憲兵司令官・中島今朝吾中将(陸士15期)であった。

 中島は、丁重に挨拶し、「寺内陸軍大臣からの伝言があるので、恐縮ながらしばらく同乗させていただきたい」と言った。

 中島中将は車に乗り込むとすぐ「今夜、閣下に大命が降下されると聞き及んでおりますが、寺内大臣よりの伝言として、部内の反対が多く容易ならぬ情勢でありますので、閣下に大命を拝辞していただきたいとのことでございます」と切り出した。

 中島中将は「部内の反対」を長々と説明した。宇垣はだまって聞き、中島中将の話が終わると短く一言だけ言った。

 「私がもし大命をお受けすれば、再び二・二六事件のように軍隊が動くのか」

 思いがけぬ問いと、それ以上に宇垣の気迫に中島中将はうろたえた。

 「いいえ、そういうことはございますまい」

 「よし、それだけ聞いておけばよい」と言ったまま宇垣はまた口をきりっと結んで前方を見つめたままだった。中島中将はいたたまれなくなって泉岳寺付近で車を降りた。

 この中島中将を差し向けたのは、宇垣に大命が降下されるのを知った陸軍省軍務局の中堅幕僚達であった。彼らは宇垣の組閣阻止に向けて動き出した。

 彼らの宇垣排斥の理由は、要約すると、三月事件に関与したこと、宇垣が陸相時代に軍縮を行ったことなどであった。

 1月24日午後9時頃、石原莞爾作戦課長、田中新一兵務課長らが陸軍大臣官邸を訪れた。そこには寺内陸相、梅津美治郎次官、阿南惟歳兵務局長、中島憲兵司令官がいた。

 石原莞爾作戦課長の強烈な説得により、寺内陸相と梅津次官はしぶしぶ軍内粛正のために宇垣の組閣阻止に納得したといわれる。そこで中島中将が説得に行くことになり、宇垣の車を止めたのであった。

 「陸軍に裏切られた陸軍大将」(芙蓉書房)によると、戦後の佐藤賢了氏は著書の「大東亜戦争回顧録」の中で次のように述べている。

 宇垣の車から降りた中島憲兵司令官は大臣官邸に帰ってきて言った。

 「参った、参った。宇垣というやつは偉いやつじゃ」

 「そんなに偉いのなら、反対せずに(首相を)やってもらったらどうだ」

 だれかが冗談半分で言うと、中島憲兵司令官はあわてて手を振った。

137、宇垣一成陸軍大将(7) 陛下は時局重大の折から、深夜でも差し支えないと仰せられております 

2008年11月07日 | 宇垣一成陸軍大将
 「宇垣一成」(朝日新聞社)によると、宇垣は、首相の座に付くことに執着心があったことは事実である。昭和11年8月、宇垣は朝鮮総督を退いた。

 その理由は、宇垣自身の語るところによると、「2.26事件について、自分は現役ではないが、軍の首脳の一人として、責任をとるのと、あまりに長く在職したので、後進に座を譲りたい。そして自分は自由の身で大いに青年の教育にあたりたい」と述べている。

 ところが、それから一ヵ月後もたたない、9月12日の随想録には、「政界出馬の機到る」との心境を素直に書いている。

 昭和12年1月24日の夜、宇垣一成は伊豆長岡温泉の別荘で、いつものように、近くの旅館「さかなや」の主人池田春吉を相手にゆっくりと晩酌を楽しんでいた。

 この夜もそろそろ盃をおいて寝る支度にかかろうとしていたとき、「宮内庁から電話でございます」と家人がとりついだ。

 さては、と宇垣は緊張して座を立ち受話器をとった。相手は百武侍従長であった。

 「陛下のお召しであります。ただちに参内されますよう」

 午後8時45分、今日はもう東京行きの列車はない。沼津から10時発の横浜行きがあるだけだ。横浜から自動車でも東京着は深夜になる。

 宇垣はそのことを侍従長に告げ、

 「深夜の参内は恐れ多いので、明朝一番の列車で上京、参内したいと存じますが、いかがでございましょうか」と答えたという。

 侍従長は「それもやむをえないだろう」と言った。

 ところが午後9時過ぎ、再び侍従長から電話がかかってきた。

 「陛下は時局重大の折から、深夜でも差し支えないと仰せられております。10時の横浜行きで御上京できないでしょうか」

 宇垣はとっさに時間をはかって決断した。「かしこまりました。今夜中に参内いたします」

 実は宇垣はお召しの電話があることを予期して、それとなく身辺の用意をするのはもとより、列車の時刻表も頭に入れていたと言われている。

 広田内閣が総辞職をしたあとを受けて、後継首相の候補に宇垣が上がっているのを、西原亀三が東京から宇垣を訪ねてきて、詳しい事情を話していた。

 宇垣は西原亀三と池田春吉をともない、自動車を沼津駅に走らせた。長岡の町中がほとんど総出で「宇垣閣下万歳」とさけびながら見送った。

136、宇垣一成陸軍大将(6) きれいさっぱりと、やったらいいじゃないか

2008年10月31日 | 宇垣一成陸軍大将
 宇垣陸相は「この件の取調べを続けるには、組閣に関りを持った有松枢密院顧問、西原亀三、福原俊丸男爵など部外者にも及ばせねばなりませぬ。これらを証人として引き合いには出せません。また部内長老の争いを部外にさらけ出すことも忍びませぬ」と答えた。

 すると上原元帥は「きれいさっぱりと、やったらいいじゃないか」と答えたと言う。

 「国軍の名誉、社会の大局にかんがみて閣下のご反省を願いたく、この問題はこれで打ち切りたいと存じます」

 宇垣陸相は「田中大将を予備役にせよ」と言う上原元帥の要求も断った。上原元帥と宇垣陸相の対立もこれで顕著になった。

 「橋本大佐の手記」(みすず書房)によると、大正時代になり、薩摩の大山巌元帥(西郷隆盛の従弟)が死ぬと、長州派が軍の実権を握り、山県有朋、田中義一が陸軍を支配した。

 この間、薩摩の上原勇作元帥が失地回復を狙ったが田中義一に押さえられて失敗した。

 宇垣一成は田中義一の引きで長州派に随身して陸軍大臣になった。だが宇垣は田中義一が死ぬと長州派に反旗を翻し長州閥を粉砕した。

 陸軍の出世方式は人物本位でなく学校本位であった。軍中央の要職に就くのは陸軍大学校の卒業者に限るから、派閥を粉砕する妙手は陸軍大学校に入れないことだ。

 宇垣一成陸軍大臣は、長州出身者はどんな秀才であろうとも身元を調べ上げてすべて落第させた。こうして長州の勢力を削いだが、この結果、新たに宇垣グループができた。

 宇垣一成を筆頭に、鈴木荘六、白川義則、南次郎、金谷範三、二宮治重、畑英太郎、畑俊六、阿部信行、杉山元、小磯國昭、建川美次らである。

 この宇垣グループに対抗したのが佐賀の宇都宮太郎大将を中心に、真崎甚三郎、村岡長太郎、武藤信義、柳川平助、荒木貞夫、渡辺錠太郎らの、いわゆる真崎グループである。

 宇垣は陸相を通算四期以上続け、四個師団を削減する宇垣軍縮を断行し、力量手腕は抜群といわれた。だが、宇垣には欠点がある。それは政権に対する強欲だ。

 さらに四期も陸相をやった結果人物が驕慢無礼となってきて、宇垣は陸軍部内で人気が下降してきた。

 そこで昭和6年3月、小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長らは宇垣勢力の強化案を検討していた。

 ちょうどこういう時期に橋本欣五郎大佐、大川周明らの宇垣政権を狙ったクーデター案が浮上してきた。三月事件である。

 ところが、途中で宇垣は変心して、このクーデターから抜けた。濱口雄幸(おさち)首相の容態がはかばかしくなく、濱口内閣は総辞職を決意、次期政権担当の総裁に宇垣一成を迎える工作が、内相安達謙蔵らが盛り上げていた。

 こうなれば宇垣は何もクーデターをやる必要はない。そこで宇垣は「東京撹乱を認めたることなし」と言い出したのであろう。ところが、宇垣首班工作は失敗して若槻儀礼次郎が首相になった。

135、宇垣一成陸軍大将(5) 福田大将を推挙した君の面目を潰したわけでもありますまい

2008年10月24日 | 宇垣一成陸軍大将
 翌日1月8日上原元帥は青山の田中大将邸を訪問して意見を述べた。「内閣の首班者がその政綱に基づいて陸海軍大臣を推薦することを妨げるものではない」

 さらに「三長官合同で陸相候補者を推薦するがごときは、職権を超えた官紀の紊乱であり、これに軍事参議官が連なるのは徒党的陰謀をもって国政を掣肘するものである」と述べた。

 田中大将はこれを聴くだけにとどめたと言われている。

 宇垣中将の陸相就任後も紛糾は続いた。3月11日、上原元帥は清浦首相を訪ねて宇垣陸相就任の経緯を改めて訊いた。

 清浦首相は「田中陸相には上原元帥ともよく相談して三人の候補者を選定して提出していただきたいと頼んだのです」

 「では何ゆえ、第三位の候補者を選定されたのですか」

 「人にはおのおの能・不能、適・不適があり、第三位者が適任であると考えたのです。また陸軍部内の折り合いも考えて決めました」

 すると上原元帥は「今回のことでは、面目を潰されました」と憮然と言った。

 清浦首相は「僕は陸軍部内のことは良く知らぬから君に参考までに訊いたまでで、福田本人にも内交渉はしていない。だから他のものを選んだからとて本人に義理を欠いたわけでもなく、福田大将を推挙した君の面目を潰したわけでもありますまい」

 「それでは訊ねますが、私は田中大将への回答に第三者の者ならびにこれと等しい年少者を任用しないことが国軍のためであるとの但し書きを附けましたが、それはお聴きでしょうか」

 「いや、そのことは聴いておりませぬ」

 上原元帥と清浦首相の会談はこれで終わった。

 その日の午後、清浦首相は田中大将の来邸を求めた。

 清浦首相は田中大将に「上原元帥は君への回答に但し書きを附けたことに執着されていたが」と言った。

 「但し書きについては、上原元帥の田中に対する注意と考え、閣下には伝えませんでした」と田中大将は平然と言ってのけた。

 上原元帥は宇垣陸相にも談じ込んだ。その会見は3月から4月にかけて四回にも及んだ。

 その大半は、ああ言った、こう言った、それは聞かぬたぐいの蒸返しで、田中大将への中傷・批判であった。さらに「ぜひ貴大臣の厳正なるお調べによって、公平なる処断を仰がねばならぬ」と言った。

134、宇垣一成陸軍大将(4) 石光中将は身の潔白を証するため、手記をものして、各方面に発送した

2008年10月17日 | 宇垣一成陸軍大将
 田中大将が福田大将起用に反対したので、仕方なく清浦子爵は「それならば、上原元帥と田中大将が協議の上、三名の候補者を推薦して貰いたい。その中から僕が指名しよう」と提議すると田中大将も同意した。

 田中大将は陸相候補として福田雅太郎大将、尾野実信大将、宇垣一成中将の三人を順に挙げ、これを書き物にして。秘書官に鎌倉の上原元帥へ届けさせた。宇垣一成中将は当時陸軍次官だった。

 上原元帥は「ここに記された選定人名とその順序は自分の意見と齟齬しない。ただし、ここにある第三者の名前の者(宇垣)とこれに等しい年少者は、政局に顧みて、これを任用しないことが国軍のために有利である」という意見を付箋にして田中大将に返した。

 1月6日、田中大将は清浦子爵を訪問し、上原元帥と協議の上決定したとして、陸相候補者名簿を提出した。そして「自分としては第三位にある宇垣中将を採用してもらいたいのです」と言った。

 清浦子爵は「順位からいけば第一位を採らぬとすれば、第二位の尾野大将ではないか」と答えた。

 すると田中大将は「尾野大将には就任の意思がありません。交渉しても辞退します。就任の意思のないものに交渉するのは時間の無駄です。宇垣中将を採用するのがよろしい」と強引に言った。

 尾野大将は陸士、陸大をともに主席で卒業し、児玉源太郎に認められて、日露戦争では満州軍参謀に抜擢された。その後陸軍次官、関東軍司令官、軍事参議官になっていた。大器と言われた人物だが、事実陸相就任の意思はなかった。

 田中大将は前日の1月5日、教育総監・大庭二郎大将(山口)、参謀総長・河合操大将(大分)を招いて「石光中将が清浦内閣組閣にあたり、軍隊指揮官の身にありながら、福田大将を陸軍大臣候補に推し、自らはその次官たらんと狂奔しているのは実に不謹慎。このような運動によって福田大将の就任を見るがごときは将来に悪例を残す。また福田大将が我々に一言の相談もなくこれを内諾したことは、われわれの面目を踏み潰すものであるから、厳にこれを糾弾しなければならぬ」と述べた。両大将はこれに同意した。

 また、田中大将は、山梨半造大将、尾野実信大将、町田経宇大将を招いて同じ趣旨を話、賛同を得た。

 そのあと町田大将が、福田大将を訪ねて清浦子爵から内交渉を受けていたかどうか糺すと「今日までなんらの交渉を受けていない」とのことだったので、町田大将は他の大将連に伝えた。町田大将は鹿児島出身で上原元帥閥であった。

 一方、石光中将は身の潔白を証するため、手記をものして、各方面に発送した。だが大勢は田中大将に軍配が上がり、1月7日、清浦内閣が成立、宇垣一成中将が陸軍大臣に就任した。

 内閣成立後の1月7日午後、田中大将は上原元帥を東京大井鹿島谷の私邸を訪問した。

 田中大将は「陸相候補者は首相の単独意思で専決せしむべきではないと思います。将来は前陸相が後任者を推薦し、三長官の同意と軍事参事官の協議を得る必要があると思います」と述べた。

 上原元帥は「自分は全く反対である。将来研究の余地がある。しかし、熟考の上、明八日、貴邸を訪問して自分の意見を述べたい」と答えた。

133、宇垣一成陸軍大将(3) 君と僕は山県有朋傘下の者として親交のある間柄ではないか

2008年10月10日 | 宇垣一成陸軍大将
 12月29日、上原元帥は河合操参謀総長に対して、「今次の政局に対してはお互いに控えておこう」と語った。ところが、12月31日、上原元帥は清浦子爵を訪ねて「大命が降下したら拝辞するな」と勧告した。河合を抑えて自分は動いたのだ。

 大正13年1月1日夕方、清浦子爵は石光真臣中将を上原元帥のところへ行かせ、陸軍大臣候補者の推薦を依頼した。

 上原元帥は「陸相候補者としては福田雅太郎大将と尾野実信大将が挙げられるが、この際は福田大将が適当である」と返事した。

 福田大将は長崎出身。参謀次長、台湾軍司令官、関東戒厳司令官を歴任し軍事参議技官の職にあった。福田大将も尾野大将(福岡)も上原元帥閥であった。

 石光中将は上原元帥の回答をもって、清浦子爵邸に行き、上原元帥の意向を伝えた。

 ところが、清浦子爵は「実は田中義一大将(陸相)から西原亀三を介して、陸軍大臣の後任は、参謀総長、教育総監と協議の上適任者を推薦したい、との申し込みがあった」と石光中将に伝えた。

 清浦子爵は困惑気味であった。田中陸相(田中義一大将は当時山本権兵衛内閣の陸軍大臣であった。総辞職は1月7日)からの申し入れは闇の中でいきなり短刀を突きつけられた感じであった。

 上原元帥は、福田大将を呼び、「清浦子爵から、貴官に陸相の内交渉があろうから、そのときはすぐに回答せず、先輩・同僚と協議したいので時間を頂きたいと述べよ。そして田中陸相に相談し、その結果によっては軍事参議官の会同を求めるか、あるいは個別に訪問し同意を求める。また元帥も個別に訪問せよ」と至れり尽くせり、手を取り足を取り教えている。

 1月4日貴族院議員・福原俊丸男爵(山口県出身)が清浦子爵を訪ね「陸軍大臣候補者は、現陸相田中大将の推薦する者を採用してほしいのです。もしそうしなければ研究会は動揺するでしょう」と告げた。

 これは一種の脅迫であった。清浦子爵は貴族院研究会を基礎にして組閣する決心でいたのだ。福原男爵は上原元帥の動きを察知していた。

 清浦子爵は田中大将とじかに話し合う必要があると思い、来訪を促した。

 清浦子爵は「陸相候補については、上原元帥に推薦を依頼し、福田大将を起用することにした。福田大将は前内閣のときも陸相候補になり、相当手腕のある人だと聞いた。福田大将は君とも親善の間柄と信じていたので、君にも異議はないと思っていた」と田中大将に言った。

 続けて「君と僕は山県有朋傘下の者として親交のある間柄ではないか。今、陸相問題に紛糾を生じることになれば、僕の組閣を困難に陥れることになり、おもしろくないではないか」と言った。

 清浦子爵は山県有朋内相の下で警保局長を勤めたのを皮切りに第二次山県内閣の司法大臣、以後農商務大臣、内務大臣などを歴任していた。

 田中大将はしかし清浦子爵に反発した。「福田大将は関東大震災の際、甘粕正彦大尉の大杉栄殺害事件の責任を取って辞任した。陸相には不適である」と。

 さらに「陸相候補は陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三者が意図を一致させなければ、部内の改善進歩はできません」と福田大将起用に反対した。

132、宇垣一成陸軍大将(2) 清浦内閣の陸軍大臣をめぐる陸軍首脳の熾烈な抗争に火がついた

2008年10月03日 | 宇垣一成陸軍大将
 「宇垣一成~政軍関係の確執」(中公新書)によると、明治時代以降、内閣首班を事実上決めるのは元老であった。元老はもともと維新の元勲で、これが明治天皇の後継首班決定の相談にあずかった。

 大正天皇即位のときには、山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨、桂太郎の四人が「卿宜シク朕カ意ヲ体シ朕か業ヲ輔クル所アルヘシ」との勅語を賜った。大正2年桂太郎死去後西園寺公望が元老に加わった。

 大正4年井上馨、大正5年大山巌、大正11年山県有朋、大正13年松方正義がそれぞれ死去すると、以後は、後継首班を奏請する元老は西園寺公望一人となった。

 大正12年8月25日加藤友三郎死去に伴い、薩摩の海軍大将(大正2年退役)・山本権兵衛が首班に指名された。ところが9月1日関東大震災が起こり、死者・行方不明者14万2800人を出した。その翌日9月2日山本権兵衛内閣が組閣された。

 ところが、その年の12月27日に、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助(山口県光市立野出身)に狙撃された虎ノ門事件が起こった。山本権兵衛内閣はこの事件の責任をとり、翌大正13年1月7日に第二次山本権兵衛内閣総辞職した。当時の陸軍大臣は田中義一大将であった。

 元老西園寺公望と松方正義は清浦奎吾子爵を後継首班に据えるのが無難であるとの意見が一致しており、清浦奎吾に翌大正13年1月1日大命が降下した(大正天皇は病のため摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が政務を執っていた)。そして清浦内閣の陸軍大臣をめぐる陸軍首脳の熾烈な抗争に火がついた。

 明治から大正に至る日本帝国陸軍の派閥は二系列に分かれていた。長州閥と薩摩閥である。

 長州閥の系列は山県有朋元帥(山口)、桂太郎大将(山口)、寺内正毅元帥(山口)、田中義一大将(山口)、大庭二郎大将(山口)、宇垣一成大将(岡山)、南次郎大将(大分)、金谷範三大将(大分)、河合操大将(大分)、寺内寿一元帥(山口)、建川美次中将(新潟)、二宮治重中将(岡山)、小磯国昭大将(山形)、杉山元元帥(福岡)。

 薩摩閥の系列は、大山巌元帥(鹿児島)、野津道貫元帥(鹿児島)、上原勇作元帥(宮崎)、武藤信義元帥(佐賀)、福田雅太郎大将(長崎)、宇都宮太郎大将(佐賀)、真崎甚三郎大将(佐賀)、荒木貞夫大将(東京)。

 清浦内閣の陸軍大臣の就任をめぐって、上原勇作元帥派と田中義一大将派の間で熾烈な抗争が行われ、それは後々まで陸軍を二分する勢力争いに発展した。

 当時長州閥は、山県有朋元帥(大正11年没)、桂太郎大将(大正2年没)、寺内正毅元帥(大正8年没)は死去しており、田中義一大将が領袖であった。

 一方、薩摩閥は、大山巌元帥(大正5年没)、野津道貫元帥(明治41年没)が死去しており、上原勇作元帥が領袖であった。


131、宇垣一成陸軍大将(1) 重要局面では陸軍を揺るがすほどの大紛争が湧き起こった

2008年09月26日 | 宇垣一成陸軍大将
「宇垣一成」(朝日新聞社)によると、宇垣一成は1868年(明治元年)、岡山県の東部、吉井川のほとり、赤磐郡潟瀬村の農家の末っ子(五男)に生まれた。

 親がつけた名前は「杢次」であったが、宇垣はこの百姓らしい名前が気に入らす、28歳の、陸軍中尉で最初の結婚をしたとき、「精神一到何事か成さざらん」の意味からとって「一成」と自ら改名したと言われている。

 もう一つ説があり、「日本一に成る」という心意気からつけたという説もある。

 宇垣一成陸軍大将の生家は、宇垣纏海軍中将の隣である。宇垣姓は多いが、両者は血の繋がりは無く親戚ではない。だが宇垣纏海軍中将は、終生宇垣一成陸軍大将を尊敬していたと言われている。

 宇垣一成は明治23年、陸軍士官学校(一期)を百五十人中十一番で卒業した。

 陸士は良い成績で卒業したが、将校になってからの昇進は遅かった。宇垣は無頓着な性格で俸給を貰っても金が有る間は酒を飲み、なくなれば本ばかり読んでいた。

 軍隊の規律も一応守ることは守るが、内務などをきちんとせず、ずぼらであった。交際は下手で、上官におもねることはせず、とかく我流を押し通したので、傲慢な男であると思われた。だから三十歳まで中尉のままであった。

 当時は大尉になるまでは進級や陸軍大学校受験者の選定は連隊の将校団が中心に行われ、連隊長から毎年その結果を本省に進達する慣わしであった。

 宇垣は将校団の受けが悪く、進級も遅れた。陸軍大学校受験もなかなか認めて貰えず、明治30年、二十九歳の中尉でやっと陸大に入学できた。

 当時陸士四期で大尉になる者もいたというのに、一期の宇垣はまだ中尉で、陸大に入った翌年やっと大尉になった。宇垣自身この当時のことを後に「剛穀不屈の気性がわざわいした」と述べている。

 だが陸大の卒業成績は三十九人中三番で、天皇から恩賜の軍刀を授かった。卒業後中隊長を勤め、それ以後参謀本部、ドイツ駐在と陸軍中枢を駆け登って行った。

 そして、その駆け行く宇垣一成の周囲では、常に敵と味方が出現し、重要局面では陸軍を揺るがすほどの大紛争が湧き起こったのである。

<宇垣一成陸軍大将プロフィル>

明治1年6月21日岡山県赤磐郡瀬戸町大内に生まれる。

明治15年郷里の小学校代用教員。

明治17年御休村小学校校長。

明治23年7月陸軍士官学校卒(陸士第一期生)。成績は150人中11番。

明治24年3月陸軍歩兵少尉。歩10連隊付。

明治27年9月陸軍歩兵中尉。

明治28年陸軍士官学校生徒隊区隊長。

明治30年12月陸軍大学校入校。

明治31年10月陸軍歩兵大尉。

明治33年12月陸軍大学校卒業。成績は39人中3番で恩賜の軍刀拝受。歩33連隊中隊長。

明治34年6月参謀本部出仕。

明治35年2月参謀本部部員。8月軍事研究のためドイツ駐在。

明治37年1月陸軍歩兵少佐。

明治38年1月鴨緑江軍参謀。5月第一軍参謀。12月参謀本部部員。

明治39年2月軍事研究のためドイツ駐在。

明治40年11月陸軍歩兵中佐。

明治41年2月参謀本部部員、帰国。

明治42年8月教育総監部第一課長。

明治43年11月陸軍歩兵大佐。

明治44年9月陸軍省軍務局軍事課長。

大正2年8月歩兵第6連隊長。

大正4年1月再び陸軍省軍事課長。8月陸軍少将。陸軍歩兵学校校長。

大正5年3月参謀本部第一(作戦)部長(田中義一参謀次長の推挙)。参謀総長は上原勇作。

大正8年4月陸軍大学校長。7月陸軍中将。

大正10年3月第10師団長。

大正11年5月教育総監部本部長。

大正12年10月陸軍次官(陸相田中義一・第二次山本権兵衛内閣)。

大正13年1月陸軍大臣(清浦奎吾内閣)。6月陸軍大臣留任(第一次加藤高明内閣)。

大正14年8月陸軍大将。陸軍大臣留任(第二次加藤高明内閣)。

大正15年1月陸軍大臣留任(第一次若槻礼次郎内閣)。

昭和3年軍事参議官。

昭和4年7月陸軍大臣(浜口雄幸内閣)。

昭和6年3月、三月事件。4月陸相辞任。6月朝鮮総督。

昭和11年8月朝鮮総督辞任。

昭和12年1月組閣の大命を受けるが、五日後に拝辞。

昭和13年5月外務大臣、6月拓務大臣を兼任。9月外務大臣・拓務大臣を辞任。

昭和19年9月日支和平工作調査のため中国旅行。

昭和28年4月参議院選挙では全国区最高点で当選。緑風会入会。

昭和31年4月30日東京の自宅にて病死。享年87歳。