陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

565.源田実海軍大佐(25)どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない

2017年01月20日 | 源田実海軍大佐
 「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)によると、著者の源田実は、ハワイ作戦の北方航路進撃決定について、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 昭和十六年九月中旬、ハワイ奇襲作戦の図上演習が行われたが、その後、この図演の研究会が行われた。

 第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将は、ハワイへの進出航路について、「図演では海はシケないが、実際はそうはいかんよ」と北方航路に反対した。

 これに対し、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は次のように反論した。

 「長官にお考え願いたいのは、そのことです。どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない。事前に発見されれば、全滅しかねない」

 「絶対奇襲を考えるならば、兵術常識を外れなければ、成功の道はありません。米海軍将校は、日本海軍の艦艇の性能、平素の教育、演習実施の状況などから考えて、まさかハワイを航空母艦で攻撃するとは思っていないでしょう」

 「ことに北方航路は、彼ら自身が海がシケるために演習をやっていないくらいだから、船乗りが冬場この海面を使用することは考えていないだろうし、備えもしていないに違いありません」

 「鵯越が馬の通れるところなら、平家の軍勢は裏側からの攻撃にも応じる備えをしたでしょうが、馬は通れないと思っていたからこそ、備えをしていなかった」

 「その“虚”を義経の騎馬隊は衝いた。“鹿が降りられるところを馬が降りられないはずは無い”とさか落しに敵本陣になだれ込んだのです」

 「北方航路は確かに困難でしょう。しかも、そこは私らの努力によって切り開かなければならないと思います」。

 この源田中佐の意見が述べられた時、九州南方海面で大型艦艇に対する洋上補給の試験を繰り返していた空母「加賀」から電報が届いた。

 艦長・岡田次作(おかだ・じさく)大佐(石川・海兵四二・六十三番・空母「加賀」飛行長・中佐・館山空副長・航空本部教育部員・大佐・海軍大学校特修学生・第二三航空隊司令・水上機母艦「能登呂」艦長・空母「龍驤」艦長・艦政本部総務部第一課長・空母「加賀」艦長・戦死・少将)からのもので、「洋上補給成功」というものだった。

 さらに源田中佐の意見具申を聞いていた連合艦隊の佐々木航空参謀が、助言をした。「北方航路以外をとるようなら、この作戦はやめた方がよい」。

 源田中佐は、第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)に対して、「どう思われますか?」と聞いた。

 すると、山口少将は「そりゃあもう、北方航路だよ」と賛成した。それで、南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた。

 以上が「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)で、源田実が述べている「北方航路」決定のいきさつである。

 ところが、「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)で、著者の生出寿は、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 だが、この(源田実の)説明には事実と違っているところがあるようである。「加賀」の洋上補給が成功したのは十月十日で、この時は南雲中将も「加賀」に乗っていたはずである。

 『南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた』と言うが、この当時の南雲は、まだハワイ奇襲作戦そのものに反対で、十月二日(あるいは三日)、山本五十六が大西、草鹿の「ハワイ奇襲作戦中止」意見を却下してから、自分も反対をとり止めた。

 そして十月十日、「加賀」の燃料洋上補給が成功して、北方航路進撃の肝を固めたのであった。南雲は源田の分り切った意見より、省部の研究や、草鹿、大石の意見を尊重したはずである。
 
 以上が、生出寿氏の回想である。

 昭和十六年十二月八日未明、ハワイオアフ島の真珠湾に停泊していた、アメリカ海軍の太平洋艦隊に対して日本海軍は航空機及び特殊潜航艇による攻撃を行った。真珠湾攻撃である。

 真珠湾への奇襲攻撃は成功した。午前七時五十二分、水平爆撃隊九七式艦攻に乗っている、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐は第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」に、トラ連送「トラトラトラ」(ワレ奇襲に成功セリ)を打電した。







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564.源田実海軍大佐(24)日本海軍は米国のハドソン河で観艦式など絶対にできない

2017年01月13日 | 源田実海軍大佐
 当時、第一航空艦隊司令長官は、南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(山形・海兵三六・五番・海大一八・次席・海軍大学校教官・大佐・軽巡洋艦「那珂」艦長・第一一駆逐隊司令・軍令部第二課長・支那事変軍事調査委員会委員・重巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・第八戦隊司令官・海軍水雷学校校長・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面司令長官兼第一四航空艦隊司令長官・自決・功一級金鵄勲章・大将)だった。

 昭和十六年九月二十九日、南雲司令長官は、草鹿参謀長、大石首席参謀、源田航空甲参謀、吉岡忠一航空乙参謀(海兵五七・恩賜・海大三九首席・第二三航空戦隊参謀・第一航空艦隊航空乙参謀・横須賀航空隊飛行隊長・海軍大学校三九期学生・第二六航空戦隊首席参謀・兼第一航空艦隊参謀・中佐・横須賀鎮守府附・ルソン島で捕虜・戦後吉岡商会創業)を引きつれ、鹿屋基地に行った。

 南雲司令長官は、鹿屋基地で第一一航空艦隊の次の二人とハワイ作戦反対の打ち合わせを行った。

 司令長官・塚原二四三(つかはら・にしぞう)中将(山梨・海兵三六・二十番・海大一八・軽巡洋艦「大井」艦長・ジュネーヴ会議全権随員・空母「赤城」艦長・少将・第二航空戦隊司令官・第一連合航空隊司令官・中将・鎮海要港部司令官・第一一航空艦隊司令長官・航空本部長・兼軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官・大将)。

 参謀長・大西瀧治郎(おおにし・たきじろう)少将(兵庫・海兵四〇・二十番・佐世保航空隊司令・大佐・横須賀航空隊副長・航空本部教育部長・第二連合航空隊司令官・少将・第一連合航空隊司令官・第一一航空艦隊参謀長・航空本部総務部長・中将・軍需省航空兵器総局総務局長・第一航空艦隊司令長官・軍令部次長・自決)。

 打ち合わせの結果、ハワイ奇襲作戦はとりやめ、第一航空艦隊を南方作戦に使うべきであるという意見に、全員が一致した。

 大西参謀長は最後に次のように発言した。

 「私は、ハワイ攻撃は絶対に反対だ。日本海軍は米国のハドソン河で観艦式など絶対にできない(日本が米本土を攻略・占領することは不可能)。したがって、長期戦争になるならば、ある程度で講話を結ばなければならない」

 「そのためにも、ハワイ攻撃のような米国民を強く刺激する作戦は避けるべきである。太平洋で戦って、真っ先に米空母をつぶすべきだ」。

 この大西少将の合理的な判断は、後に的中した。さすがに強気の源田航空甲参謀も、一同の理のある意見に反論できず、大西参謀長までも反対の状況では、従うほかなかった。

 十月二日朝、大西少将、草鹿少将、源田中佐、吉岡少佐の四人は、大分県の佐伯基地に行った。それから大西少将、草鹿少将の二人が停泊中の連合艦隊旗艦・戦艦「陸奥」に山本司令長官を訪ねた。

 大西少将と草鹿少将は、山本司令長官にハワイ作戦中止を訴えた。だが、山本司令長官は、二人の進言には応えず、「両艦隊とも幾多の困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦はぜひやるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」などと、一方的にハワイ作戦決行を命令口調で力説した。

 山本司令長官の強い決意を知った、大西、草鹿両少将は、さすがに反対意見を取り下げずにはいられなかった。もしこれ以上反対したら、職を辞する以外になかったのである。

 大西少将、草鹿少将が「陸奥」を退艦する時、山本司令長官は二人を舷門まで見送り、後ろから、草鹿少将の肩をたたき、次の様に言った。

 「君の言うこともよく分った。しかし、真珠湾攻撃は僕の固い信念だ。これからは反対意見を言わず、僕の信念を実現することに全力を尽くしてくれ。その計画は君に一任する。南雲長官にもその旨伝えてくれ」。

 草鹿少将は、感動して「全力を尽くして長官のお考えの実現に努力します」と答えた。草鹿少将は、航空のエキスパートで、中堅士官時代から山本司令長官が目をかけており、秘蔵っ子ともいえる関係だった。

 大西少将は、真珠湾攻撃に承服したものの、やはり不本意ではあった。一年後の、昭和十七年九月末、ガダルカナル島攻防戦で日本軍が悪戦苦闘している時、海軍航空本部長であった大西少将は、兵庫県の柏原中学校の同級生、徳田富二に会った。

 その時、徳田が大西少将に「真珠湾は、あれでよかったのか?」と質問すると、大西少将は「いかんのだなあ」と答えて、続けて次の様に言った。

 「あれはまずかったんだよ。あんなことをしたために、アメリカ国民の意志を結集させてしまったんだ。それがこの頃の海戦にあらわれてきているよ」。






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563.源田実海軍大佐(23)誰が会議をやってくれと頼んだか。戦は自分がやる

2017年01月06日 | 源田実海軍大佐
 九月十六日、十七日の二日間、海軍大学校で実施されたハワイ奇襲作戦の図上演習では、基地航空部隊がジャワ島の線に進出するまでに、ゼロ戦が六〇パーセント、陸上攻撃機が四〇パーセント消耗するという、厳しい結果となり、南方作戦においては航空兵力の不足が示された。

 九月二十四日、軍令部作戦室で行われた、ハワイ奇襲作戦の採択についての討議では、次の様な発言がなされた。

 第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将は次のように発言した。

 「成否のカギは敵の不意に乗じて奇襲できるかどうかにある。南方作戦兵力が足りない。むしろ南方に母艦兵力を集中して、すみやかに南方を片付けるのが大局的に有利である」。

 だが、第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐は、ハワイ作戦に消極的な上司の草鹿少将と異なる意見を述べた。源田中佐は、ハワイ作戦には極めて積極的であり、次のように述べた。

 「敵艦隊が真珠湾に在泊する場合、飛行場制圧には艦爆八一機を振り向ける必要があり、空母に対しては、艦爆五四機を当てるが、それで三隻は大丈夫撃沈できる」

 「艦攻全機に水平爆撃をやらせれば、戦艦五隻、あるいは戦艦二、三隻と空母三隻はやれると思う(雷撃は不可能という前提)」

 「企画秘匿のため、内地に残る飛行機によって、わが母艦部隊が内地で訓練中であるかのようにカモフラージュをする必要がある。第一、第二航空戦隊は攻撃には自信を持っている」。

 航海将校である、第一航空艦隊首席参謀・大石保中佐は、ハワイに至る航海上の難点を、次の様に述べた。

 「敵機の哨戒が三〇〇海里(約五五六キロ)ならば航路選定は楽だが、四〇〇海里(約七四〇キロ)以上となると、苦しくなる(飛行機隊発進前に発見される)」

 「洋上燃料補給は風速一一メートル以上になると、駆逐艦に対しても困難となり、戦艦や空母への補給はいっそう困難である」。

 連合艦隊航空参謀・佐々木彰中佐は、強気そのもので、次の様に主張した。

 「南方航路をとるようなら本作戦はやめたほうがよい(機密保持が不可能)。奇襲を論じたらきりがない。むしろ断行すべきである」。

 軍令部第一部長・福留繁少将は、ハワイ作戦の成功を危ぶみ、次の様に発言した。

 「開戦日は十一月二十日ごろが望ましい(準備のため大幅な延期を希望する連合艦隊側に対して、その後の作戦を考慮して反対した)。巧妙な奇襲は望みがたい。南方地域はどうしても早く手に入れる必要が絶対にある」。

 連合艦隊参謀長・宇垣纒少将は、山本五十六司令長官の意を体して、次の様に反論した。

 「開戦日を一か月遅らせても、ハワイ作戦をやった方が全般の作戦を進捗させることにならないか」。

 結局、作戦採択の決定権を持つ軍令部側は、確信を持てず、ハワイ奇襲作戦採択の決定はなされなかった。

 源田実は、この時の討議を、戦後、振り返って次の様に回想している。

 「連合艦隊は積極的なのに、第一航空艦隊は消極的、むしろ反対の空気があり、また軍令部は極めて慎重で、意見は一致しなかった。会議後、黒島亀人参謀から『軍議は戦わずですよ』言われたことが、印象深く記憶に残っている」。

 だが、討議後、宇垣少将は、福留少将に「山本長官は職を賭してもハワイ作戦を決行する決意だ」と言ったことから、軍令部側は、山本長官の固い決意を知った。

 討議が終わり、宇垣少将、黒島大佐、佐々木中佐らが瀬戸内海、岩国沖の柱島泊地のブイに係留されている連合艦隊の旗艦、戦艦「長門」に帰り、山本五十六長官に報告すると、山本長官は、彼らにバクダンを落とした。

 「だいたいお前たちはハワイ攻撃をやらないで南方作戦ができると思っているのか。誰が会議をやってくれと頼んだか。戦は自分がやる。会議などやってもらわなくてよろしい」。



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562.源田実海軍大佐(22)うむ。あの淵田か。知っている。あれならやれる

2016年12月30日 | 源田実海軍大佐
 「源田参謀」。突然山本大将が声をかけた。「はい」。源田中佐は、長官を見つめた。すると山本大将は「空襲飛行隊の総指揮官に、私案があるか?」

 意外な問いに、源田中佐はちょっと口ごもっていたが、「淵田ならば、やれると思います」と答えた。「淵田?」山本大将が聞き返した。

 すると南雲中将が「はあ、赤城の飛行隊長をしていた男ですが、今三航戦の参謀をしております」と源田中佐の代わりに答えた。

 「うむ。あの淵田か。知っている。あれならやれる」。山本大将は、大きくうなずいた。

 昭和十六年九月十六日、十七日の二日間、品川区上大崎の海軍大学校で、連合艦隊司令長官・山本五十六大将が主張するハワイ奇襲作戦の図上演習が「ハワイ作戦特別図上演習」とされて、極秘裏に実施された。

 「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)によると、海軍大学校での図演後の九月二十四日、軍令部作戦室で、ハワイ奇襲作戦の採択についての討議が行われた。

 この討議に、軍令部からは、次の四名をはじめ六名が出席した。

 第一部長・福留繁(ふくとめ・しげる)少将(鳥取・海兵四〇・八番・海大二四首席・連合艦隊首席参謀・軍令部第二課長・軍令部第一課長・支那方面艦隊参謀副長・戦艦「長門」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・連合艦隊参謀長・海軍乙事件・第二航空艦隊司令長官・第一三航空艦隊兼南遣艦隊司令長官・第一〇方面艦隊司令長官)。

 第一課長・富岡定俊(とみおか・さだとし)大佐(東京・海兵四五・二十一番・海大二七首席・海軍大学校教官・軍令部第一課長・巡洋艦「大淀」艦長・南東方面艦隊参謀副長・少将・南東方面艦隊参謀長・軍令部第一部長・終戦・第二復員大臣官房史実調査部長)。

 第一課部員・神重徳(かみ・しげのり)中佐(鹿児島・海兵四八・十番・海大三一首席・第五艦隊司令部参謀・軍令部第一部第一課兼大本営参謀・大佐・第八艦隊司令部参謀・軽巡洋艦「多摩」艦長・海軍省教育局第一課長・連合艦隊司令部参謀・第一〇航空艦隊参謀長・終戦後青森県津軽海峡で飛行機事故により殉職・少将)。

 第一課部員・佐薙毅(さなぎ・さだむ)中佐(愛媛・海兵五〇・海大三二・連合艦隊航空参謀・軍令部第一部第一課・軍令部第一課作戦班長・大佐・南東方面艦隊参謀兼第一一航空艦隊参謀兼第八方面軍参謀・南東方面艦隊首席参謀・戦後航空自衛隊入隊・航空幕僚副長・第二代航空幕僚長・水交会会長)。

 連合艦隊司令部からは次の三名が出席した。

 参謀長・宇垣纒(うがき・まとめ)少将(岡山・海兵四〇・九番・海大二二・連合艦隊参謀・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・中将・第一戦隊司令官・第五航空艦隊司令長官・沖縄方面へ特攻・行方不明)。

 首席参謀・黒島龜人(くろしま・かめと)大佐(広島・海兵四四・三十四番・海大二六・第九戦隊参謀・大佐・海軍大学校教官・連合艦隊首席参謀・軍令部第二部長・少将・終戦後大東亜戦争調査委員会幹事)。

 航空参謀・佐々木彰中佐(広島・海兵五一・海大三四・海軍大学校教官・連合艦隊航空参謀・大佐・第三航空艦隊首席参謀)。

 第一航空艦隊からは次の三名が出席した。

 参謀長・草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)少将(東京・海兵四一・十四番・海大二四・航空本部総務部第一課長・空母「鳳翔」艦長・支那方面艦隊参謀・軍令部第一課長・空母「赤城」艦長・少将・第四連合航空隊司令官・第二四航空戦隊司令官・第一航空艦隊参謀長・第三艦隊参謀長・南東方面艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・中将・兼海軍総隊参謀長・第五航空艦隊司令長官)。

 首席参謀・大石保(おおいし・たもつ)中佐(高知・海兵四八・海大三〇・砲艦「嵯峨」艦長・第一航空戦隊参謀・第一航空艦隊参謀・海軍大学校教官・大佐・航海学校教頭・横須賀突撃隊司令・終戦・佐世保地方復員局艦船運航部長)。

 甲航空参謀・源田実(げんだ・みのる)中佐(広島・海兵五二・十七番・海大三五・次席・第一航空艦隊甲航空参謀・軍令部第一部第一課・海軍航空技術委員会委員・大佐・第三四三海軍航空隊司令・兼第三五二海軍航空隊司令・戦後航空自衛隊入隊・航空幕僚監部装備部長・航空団司令・臨時航空訓練部長・航空集団司令・航空総隊司令・航空幕僚長・参議院議員・従三位・勲二等)。

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561.源田実海軍大佐(21)万一失敗すれば、全作戦を台無しにして我が艦隊勢力もその半分を失う

2016年12月23日 | 源田実海軍大佐
 その時、「南雲長官」と、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将が突然、声をかけて、次のように言った。

 「それでは、長官は、どうゆう風にやったら良いとおっしゃるのですか?」。

 「南方作戦一本鎗だ」。南雲中将は、間髪を入れずきっぱりと言い切った。そして次の様に南雲中将は論じた。

 「ハワイと南方に空母、飛行兵力を二分するときは、どちらも兵力不足になる恐れがあるし、真珠湾攻撃は何といっても投機的な支作戦にしか過ぎない」

 「成功すれば成る程良いが、それにしても南方作戦が安心してやれる程度で、攻略を企図するのではないから、颱風一過の感じで爾後の戦局への戦果拡充が伴わぬ」

 「万一失敗すれば、全作戦を台無しにして我が艦隊勢力もその半分を失う心配があり爾後、彼我の勢力の均衡は破れる。得るところよりも失うところの方が多かりそうで、開戦の作戦指導としてはまことに危なっかしい気がする」

 「それよりも、南方作戦に全力を傾注して作戦目的を達し、速やかに不敗の態勢を確保した上で、アメリカ太平洋艦隊の撃滅を策する法が手堅いと思われる」

 「我が海軍の全勢力を上げて南方作戦に従事するならば、太平洋艦隊の多少の牽制などはさして介意するに足らないと思う。以上のような理由で、本職は真珠湾作戦に反対である」。

 このような南雲中将の主張を聞いて、連合艦隊の幕僚たちは顔を見合わせた。南雲中将の言にも一理はある。ことに軍令部ではだいたい南方作戦一本鎗の方針だった。

 真珠湾を主唱するものは連合艦隊司令長官・山本五十六大将であるが、南雲中将は、当の真珠湾作戦の最高指揮官たるべき人である。幕僚たちが顔を見合わせたのも無理はなかった。

 だが、山本大将は、相変わらず黙然と、目を閉じたままだった。

 「本職は、真珠湾作戦に全面的に賛成であります」。一座の視線がサッと声の主に注がれた。第二航空戦隊司令官・山口多聞少将だった。山口少将は、やや上気持した顔をこわばらせて、次の様に論じた。

 「南雲長官の言われる通り、真珠湾作戦には、多分に投機的な性格はあります。しかし、南方作戦を前にして、太平洋に重圧を加えている米国艦隊をほっておくということはない」

 「アメリカ海軍は闘志極めて旺盛である。必ずや太平洋艦隊は英蘭豪の艦隊をも糾合して、我が南方作戦へ反撃してくることは必至であります」

 「たとえ上陸に成功しても、補給線を攪乱され、もしくは艦隊の虚に乗じて本土を脅かされるような事態が生じたならば、作戦は収拾のつかないものになる恐れがあります」

 「ゆえに、真珠湾への一撃は、作戦上まずなさなくてはならぬことと認めます。しかも我々の主敵はアメリカ海軍であります。兵力二分の不利を言われるならば我が艦隊の空母勢力はむしろ全部を上げて真珠湾に指向するのが至当です」

 「私のみるところでは、南浦作戦など無防備に等しい地域だから、海軍の全勢力を注ぎ込むほどの事は無い、むしろ緒戦の主作戦はハワイに指向するのが本筋ではないかと思います」

 「以上のような理由から、本職は真珠湾作戦に全面的に賛成で、この成功に、万全の方法を講ずることを望みます」。

 一座は急に騒然とした。賛否両論が確然として対立したのである。南雲中将の所見に賛同の意を表す者と、山口少将の考えを是なりとする者とがはっきり分かれたのである。

 だが、そこまで来ても山本大将は、黙って一座の議論に耳を傾けていた。そして、みんなの議論が出尽くした頃、山本大将は厳然として、次のように言った。

 「真珠湾作戦に対する諸官の見解はよくわかった。しかし、本職の見解は、あくまで真珠湾はたたかねばならぬと思う。

 それは激しい口調だった。一座はしんと静まった。山本大将はきっと一座を見まわして次のように続けた。
 
 「諸官は、本職が連合艦隊司令長官の職にある限り、この作戦は決行するものとお含み願いたい。そして万全の措置を研究しおかれたい」。

 一座の者は、山本大将の固い決意を改めて感じた。




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560.源田実海軍大佐(20)この作戦は、作戦自体に内蔵する投機的な要素が多すぎる

2016年12月16日 | 源田実海軍大佐
 「真珠湾攻撃」(淵田美津雄・PHP文庫)によると、真珠湾奇襲作戦の作戦計画案の概略が述べられた後、山本五十六大将が次の様に述べた。

 「作戦計画の概要は以上のとおりである。南方作戦の完遂を期するには、どうあっても、真珠湾作戦がなくてはならぬのであるが、いわば投機的なところもあって、失敗すると全作戦を台無しにする危険がある。この点に関して、当の作戦部隊である諸官の、忌憚のない意見を聞きたい」。

 山本大将はじろりと一座を見渡した。誰も一言も発しなかった。軽々しくは言葉が出ないのだった。しばらくして、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将が第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐に声をかけた。南雲中将と源田中佐のやりとりは次の通り。

 南雲中将「源田参謀」。

 源田中佐「はい」。

 南雲中将「貴官は飛行機だけで、この攻撃がやれる考えか」。

 源田中佐「はい。敵艦隊が在泊してさえおれば、飛行機だけで充分やれると思います」。

 南雲中将「どのくらいの兵力でやるか」。

 源田中佐「第一航空艦隊の全航空母艦の搭載兵力があれば、成功すると思います」。

 南雲中将「護衛の艦隊は……」。

 源田中佐「出撃途上、敵水上艦艇との遭遇にそなえて戦艦に巡洋艦、各二隻程度と警戒用の駆逐艦が少々あればいいと思います」。

 南雲中将「攻撃の主目標は……」。

 源田中佐「第一に空母、次に戦艦をねらいます」。

 南雲中将「未然に敵に企図を察知され、激撃された場合は……」。

 一座の視線が、期せずして源田中佐の上に集まった。一番の問題が、それであった。真珠湾まで、マーシャルからでも、二〇〇〇浬(カイリ=三七〇四キロ)余りある。これを往復するには、大型軍艦はともかく、足の短い駆逐艦を連れて行く以上、当然給油戦が必要になる。

 足ののろい給油船を引っ張っているところを、逆に米艦隊から攻撃でもかけられたら、ひとたまりもない。それでも果たして勝算があるのか。一座の視線が源田中佐に集まったのも当然であった。

 源田中佐「洋上に雌雄を決するほかありません。しかし、その場合、我に圧倒的航空兵力がありますから、洋上での敵艦隊との会敵はさして心配はありません。むしろ思う壺かも知れません。問題は敵の基地航空兵力であると思います。優勢な航空基地を相手としての強襲は相当な犠牲を覚悟せねばならないと思います。したがって企図は、あくまで敵に察知されぬようにすることが肝要であります」。

 南雲中将「ふむ。つまり奇襲だな」・

 源田中佐「はい……攻撃時期は、夜明け前がいいと思います」。

 南雲中将「ふむ。しかし……」。

 南雲中将の追及は急だった。

 南雲中将「いよいよ事態緊迫を告げ、開戦の危機迫るとなった暁に、アメリカ艦隊がべんべんと真珠湾に碇泊しておるだろうか。また、洋上の諸島嶼の基地からは哨戒機が飛び、おそらく厳重な警戒網が張られるだろう。この警戒網を脱過するということは、ほとんど不可能にも等しい」。

 南雲中将は、そこで言葉を切り、軽い興奮さえみせながら続けた。
 
 南雲中将「もし敵の哨戒機の一機または潜水艦一隻にでも発見されるならば、激撃を受けるのは必至であり、作戦挫折せんやも測りがたい。そうなれば累を南方作戦に及ぼすばかりか、爾後の全戦局を破局に導くことは明らかである」。

 源田中佐は、それに答えず、沈黙したままだった。すると、南雲中将は、今度は山本大将の顔を見上げ、次のように言った・

 「本職は、この作戦は、作戦自体に内蔵する投機的な要素が多すぎると思います」。

 山本大将も、なんとも答えなかった。軽く目を閉じ、腕を組んで、耳を傾けているだけだった。



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559.源田実海軍大佐(19)分散配備という固定観念にとりつかれているから駄目なんだ

2016年12月09日 | 源田実海軍大佐
 ある日、東京市内の映画館に入り、ニュース映画を観ていると、アメリカ海軍の正規空母「レキシトン」「サラトガ」「エンタープライズ」など四隻が単縦陣(一列縦隊)で航行する場面が出て来た。

 空母は分散するものとされている日本海軍では、空母が単縦陣で航行するのは出入港以外にはなく、それも二隻止まりだった。

 「米海軍は変わったことをやる。航空母艦を戦艦のように扱っている」と源田少佐は異様に思った。数日後、源田少佐は、ハッと思いついた。それは次のような着想だった。

 「なんだ母艦を一か所に集めればいいじゃないか。それなら空中集合も問題ない。分散配備という固定観念にとりつかれているから駄目なんだ」。

 源田少佐は、数日間、この着想を検討・研究し、次の様な結論を導き出した。

 「飛行機隊の空中集合は、各母艦が視界内にいるから、いかに大編隊でも問題ない。集中配備の最大欠陥は、敵索敵機に発見された場合、全母艦がその位置を露呈し、敵襲によって全戦闘力を失うことだ」

 「しかし、『赤城』『加賀』『蒼竜』『飛竜』の四隻を集中配備すれば、各艦が搭載戦闘機一八機のうち半数を攻撃隊援護にまわしても、残る三六機で母艦四隻を護衛することができる。さらに二隻の母艦が加われば、五四機で護衛できる」

 「対空砲火も、周囲に配した巡洋艦、駆逐艦などの火器を合わせれば、一〇〇ないし二〇〇門の高角砲と、三〇〇門以上の二〇ミリ機銃によって、厳重な防火網を構成できる。集中配備をやるべきだ」。

 昭和十五年十一月一日、源田実少佐は第一航空戦隊参謀に就任し、十一月十五日、中佐に進級した。この間、「空母集中配備」の思想をますます強めていった。

 太平洋戦争中の批判も少なくない源田実海軍大佐だが、海軍軍人としては、先見の明のある参謀型の人物であり、合理性に富んだ思考形態は天性のものであったが、同時に奇想天外の発想を好んだ。

 昭和十六年一月下旬、連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、真珠湾攻撃の研究を第一一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将に依頼した。

 二月、鹿屋航空基地の参謀長室で、源田中佐は、第一一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎少将から、ハワイ奇襲作戦の構想を打ち明けられた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将の発案であり、山本大将からの手紙も見せられた。大西少将は源田中佐に作戦計画案を早急に作成するよう依頼した。源田中佐は二週間で仕上げ提出した。

 三月中旬、大西少将がその素案に手を加えて山本大将に提出した。雷撃の修正はあったものの、これが真珠湾攻撃の作戦計画の発端であった。

 昭和十六年四月十日、第一航空艦隊が編成され、源田実中佐は、第一航空艦隊甲航空参謀に補され、空母「赤城」乗組となった。三十六歳だった。

 第一航空艦隊司令長官は南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(山形・海兵三六・八番・海大一八・軍令部第一部第二課長・一等巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・第三戦隊司令官・水雷学校校長・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面艦隊司令長官・戦死・大将・功一級)だった。

 第一航空艦隊が編成された後に、瀬戸内海に碇泊中の連合艦隊旗艦「長門」に、第一航空艦隊の幹部が呼ばれた。

 長官公室の中央には連合艦隊司令長官・山本五十六大将が控え、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将ら艦隊指揮官の将星、連合艦隊参謀が顔を揃えた。第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐も出席していた。

 その中には第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)もいた。



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558.源田実海軍大佐(18)「シバ、同じ飛行機なら、俺の方が貴様より体重が軽い分だけ、空戦に強いぞ

2016年12月02日 | 源田実海軍大佐
 そもそもこの源田少佐と柴田少佐の論争は、前回の一月十七日、十二試艦戦計画要求書についての官民合同研究会終了後の、帰り道、肩を並べて歩いていた源田少佐と柴田少佐の話題は、おのずと空戦性能の問題になったのだ。

 初めのうちは穏やかな話し合いだったが、源田少佐が「空戦性能を強くするには、機体の重量を軽くし、翼面荷重を少しでも小さくすべきだ」と主張した。

 すると、柴田少佐が「原則的にはその通りだが、必ずしも翼面荷重だけでは決められない。他の要素も合わせて考える必要がある」と反論した。

 二人のやり取りは次第にエスカレートし、感情的になっていった。

 源田少佐「シバ、同じ飛行機なら、俺の方が貴様より体重が軽い分だけ、空戦に強いぞ」。

 柴田少佐「何を言うか、ゲン。少しくらい重くたって、俺は勝てるさ」。

 当時源田少佐は柴田少佐より十キロほど体重が軽かった。少佐とはいえ、二人ともまだ三十歳を少し過ぎたばかりの血気盛んな年頃だったが、この時の論争が、四月十三日の審議会まで尾を引き、激しい論戦の展開となった。

 昭和十三年三月上旬、源田少佐は江田島の海軍兵学校で、中国中部における航空戦の話を全校生徒に対して行った。

 海軍兵学校の生徒に対して、航空用兵の講話や海軍軍備のあり方等、多分に高等用兵に属する事項を話しても意味はあまりないし、弊害が伴うことも予想せられるので、源田少佐は前線における航空部隊の将兵が、どんな気持ちで戦闘を遂行しているかを話した。

 そして、源田少佐は話の締めくくりとして、次の様に述べた。
 
 「航空隊は、上は司令から下は一整備兵に至るまで、航空作戦の推移が戦局全般を支配する最大要素であるとの信念を持って、任務の遂行に当たっている」

 「この思想が全航空部隊に一貫して流れ、かつ徹底していることが、我が海軍航空部隊に赫々(かくかく)たる戦果をもたらせているのである」。

 ところが、この話が気に障った、海軍兵学校教頭・角田覚治(かくた・かくじ)大佐(新潟・海兵三九・四十五番・海大二三・砲術学校教官兼水雷学校教官・上海特別陸戦隊参謀・大佐・二等巡洋艦「木曾」艦長・一等巡洋艦「古鷹」艦長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・海軍兵学校教頭・戦艦「山城」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・佐世保鎮守府参謀長・第三航空戦隊司令官・第四航空戦隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・第一航空艦隊司令長官・テニアン島で戦死)は、全校生徒に向けて次の様に訓示した。

 「只今の話は、お前たち生徒の生涯を通じて、血となり肉ともなるものである。しかし、改めて注意しておくが、我々は飛行機がなくても戦闘をやるのである。航空部隊の協力は望ましいけれども、それに頼るわけにはいかないのである」。

 当時、この思想は海軍の砲術関係者や水雷関係者等の中に、相当根強くはびこっていた。源田実は戦後次の様に述べている。

 「飛行機の協力が単に望ましい程度のもので、制空権なるものが戦闘の勝敗に対し二次的要素を占めるに過ぎないものでしかなかったかどうかは、太平洋戦争の経過が最も雄弁に物語っている」

 「角田覚治大佐は、後に第一航空艦隊司令官として、マリアナ列島攻防戦に臨み、遂にテニアンで壮烈な最期を遂げた人である」

 「武将としては最も尊敬すべき性格、すなわち、見敵必戦、ネルソン的闘将であった。その最期なども見事なもので、数ある海軍の闘将の中でも、山口多聞中将や、大西瀧治郎中将にも匹敵すべき攻撃精神の持ち主であった」

 「これらの人々がもっともっと早く航空が海軍戦略戦術の上に占めうる位置を認識して、軍備の改変に努力していたならば、戦争はもっと変わった経過をたどったであろうことを思うと、惜しまれてならない」。

 昭和十五年十月、駐英国日本大使館附武官補佐官の勤務を終えて帰国した源田実少佐は、第一航空艦隊参謀に予定されていた。

 「航空作戦参謀・源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、当時、源田少佐は、海軍兵学校一期上の飛行将校・平本道隆中佐(広島・海兵五一・海大三四・第一航空艦隊参謀・大佐・第三南遣艦隊参謀)から「来年度の艦隊では母艦群の統一指揮が重要な研究項目になる」と言われ、分散配備の空母部隊の統一指揮を考えた。




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557.源田実海軍大佐(17)二人の間のただならぬ雰囲気に、出席者は論争の行く末を見守っていた

2016年11月25日 | 源田実海軍大佐
 会議はこの戦闘機の三菱側の設計主務者である堀越二郎(ほりこし・じろう)技師(群馬県藤岡市・東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業・三菱内燃製造入社・欧州と米国派遣・九六式艦上戦闘機を設計・十二試艦上戦闘機(後の零式艦上戦闘機)を設計・技術部第二設計課長・戦後YS-11国産旅客機の設計に参加・新三菱重工業参与・東京大学宇宙航空研究所講師・東大工学博士・防衛大学校教授・日本大学生産工学部教授・従四位・著書「零戦―その誕生と栄光の記録」(講談社文庫)など)の設計内容についての説明で始まり、質疑応答に移った。

 質疑応答が一段落したところで、堀越技師が立ち上がって、次のような質問を行った。

 「計画要求にあるような速力、格闘性、航続力の全てを一様に満たすことは困難だから、重要性の順序について海軍側の考えを伺いたい」。

 テーブルをはさんで丁度柴田少佐の真向かいの席にいた堀越技師は、病み上がりの姿も痛々しく、緊張した時の癖である、目を忙しくしばたたせながらの発言は、そのまま技術者たちの苦悩を現わしていた。

 その堀越技師の質問に対し、まず立ち上がったのは源田実少佐だった。源田少佐は、前回と同様に、中国大陸での実戦の様子とそれに基づく戦訓について、手ぶりを交えながら強い口調で語り、列席者の関心を充分に引き付けた後、結論を言った。

 「……というわけで、戦闘機、特に単座戦闘機にあっては、敵戦闘機にまさる空戦性能を第一に要求する。そのために速力や航続力が多少、減ったとしても止むを得ない」。

 この源田少佐の意見に、横須賀航空隊側委員をはじめ、ほとんどの出席者が同調するムードに傾きかけた。

 その時、「意義あり!」の声と共に憤然として立ち上がったのは、航空技術廠実験部の柴田武雄少佐だった。柴田少佐は、次の様に源田少佐に対する反論を述べた。

 「源田君は、空戦性能を第一にしろ、と主張しているが、日本の戦闘機の格闘性は、諸外国の戦闘機に比べて今のままでも強すぎる位だから、ことさらそれを強調する必要などない」

 「それなのに、空戦性能を強要すれば、堀越技師が言うように、今度の計画に盛り込まれている色々な要求を満たすことはできない」

 「戦訓でも明らかなように、敵戦闘機による我が攻撃機の被害は予想以上に大きい。これを援護するには、一部に言われているような双発の複座あるいは多座戦闘機では、航続性能では要求が満たされるかも知れないが、空戦性能で敵の単座戦闘機にかなわないから、どうしても単座戦闘機でなければならない」

 「従って、本機に大航続力は絶対欠かすことはできない。速度についても、逃げる敵機をつかまえて格闘戦に引き込むには、一ノットでも早い方がよく、速度も不可欠の要素だ」

 「いかに技量優秀、攻撃精神旺盛な操縦者といえども、その飛行機に与えられた性能以上にはどうにもならない速度や航続力、特に航続力を優先し、空戦性能は訓練によって劣勢をカバーできる程度の強さでよろしい」。

 この柴田少佐の整然とした反論は、当然ながら源田少佐にとって面白くなかった。今度は、源田少佐が、やや興奮気味に立ち上がって、次の様に応じた。

 「只今の柴田君の発言は、もってのほかである。速度や航続力を重視するあまり、空戦性能を低下させてもよい、などとは絶対に承服しかねる」。

 あとは、源田少佐の持論を、とうとうと展開し、終わると椅子が壊れるのではないかと思われるほどの勢いで座った。二人の間のただならぬ雰囲気に、出席者は論争の行く末を見守っていた。すると再び、柴田少佐が立ち上がり、次の様に述べた。

 「自分は空戦性能が弱くてもいいと言っているのではない。我が国の戦闘機が外国の戦闘機に比べて空戦性能が強すぎるから、それを少し減らして、強い程度にとどめ、その分を速度や航続力の向上にまわせと言っているのだ」。

 この柴田少佐見に対して、すかさず、源田少佐が立ち上がって、次の様に応酬した。

 「空戦性能が強過ぎるとか、強いとかいうのは、極めて曖昧な表現だ。柴田、貴様は何を持って、その判断の基準にしようとするのか」

 「もちろん、速度も航続力も大きいに超したことはない。しかし、これ等の全てのバランスの最後の部分において、やはり空戦性能を優先すべきことを横空としては要求する」。

 あとから考えれば、明らかに柴田少佐の主張の方が正しいことが分かるのだが、源田少佐にしても、メンツがあるから、この場に及んでは、たとえそれを理解したとしても、認めて引き下がるわけにはいかなかった。

 このような場合、誰かが数段高い視点から判断を下すしかないが、源田少佐、柴田少佐ともに戦闘機に関しては第一人者であり、その上、個性も自信も人一倍の、この二人を納得させることのできる戦闘機操縦畑の先輩がいなかった。




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556.源田実海軍大佐(16)研究会は源田少佐の弁舌に引きずられ、ほとんど彼の独演会の様相だった

2016年11月18日 | 源田実海軍大佐
 後日、源田大尉が、大西大佐にこの事を聞いたら、大西大佐は次のように答えた。

 「うん、一泊させてもいいんだ。ただ、新田の奴が、疲れるとか何とか、もっともらしい屁理屈を並べないで、大村には前にもいたことがあるし、飲み友達もいることだから、一泊させてくださいと頼めば、一も二もなく許してやったんだよ」。

 大西大佐という人は、そういう人であった。「こやつはやるぞ」と信頼を寄せていた新田大尉が、柄にもない屁理屈をこねたので、怒りが爆発したのであろう。

 昭和十二年八月十六日、台北基地の鹿屋隊の攻撃部隊(指揮官・新田慎一少佐)は、句容に向かい、空中制圧を行なった。

 この攻撃で、指揮官機は被弾し不時着した。新田少佐は不時着後、搭乗員全員の自決を自分で見届け、最後に腹掻き切って果てたそうである。日本武士らしい立派な最期だった。
 
 新田少佐が中国中部の空から帰ってこなかったとき、大西大佐は最も悲しんだ一人であったし、また、その最期の状況を微に入り細を穿ち調べ上げたのも大西大佐だった。

 昭和十三年一月、中国戦線から帰国した源田実少佐は、横須賀海軍航空隊飛行隊長兼戦術教官に任命された。戦闘機及び艦爆分隊からなる飛行隊長だった。

 源田少佐は海軍大学校の学生時代から論議していた「戦艦無用論、航空主兵主義」は、支那事変という実戦の洗礼を受けて、さらに頭を持ち上げて来た。

 兼務として航空戦術教官に任命された源田少佐は、砲術学校、水雷学校等の教官も兼務したが、学校においての講義は必然的に源田少佐自身の用兵思想を展開したので、これに反対する教官と論争になり、学生そっちのけで大論争を繰り広げることになった。

 昭和十三年一月十七日、十二試艦戦計画要求書についての官民合同研究会が、横須賀市追浜の海軍航空廠会議室で開かれた。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、航空本部から技術部長・和田操(わだ・みさお)少将(東京・海兵三九・四番・海大選科学生・東京帝国大学工学部・航空本部技術部部員・大佐・航空本部出仕・欧米出張・航空本部技術部長・少将・航空技術廠長・中将・航空本部長)以下関係者が出席した。

 また、航空技術廠から航空技術廠長・前原謙治(まえばら・けんじ)中将(山口・海兵三二・十四番・艦政本部部員・大佐航空本部総務部長・少将・横須賀工廠造兵部長・航空技術廠長・中将・予備役・第二軍需廠長官)以下関係者が出席した。

 これに試作に参加する三菱、中島両社の技術者も含めて三十人余りの出席者があった。また、横須賀海軍航空隊飛行隊長・源田実少佐、海軍航空技術廠飛行実験部陸上班長兼戦闘機主務・柴田武雄少佐ら海軍関係者も出席した。

 だが、この研究会での主役はなんといっても、第二連合航空隊参謀として活躍した中国大陸の前線から、数日前に帰国したばかりの源田実少佐だった。
 
 源田少佐は、まだほとぼりの覚めやらぬ実戦の体験(といっても彼自身は直接戦闘には参加していないが)について熱っぽく語り、新戦闘機に対する要求のどれもが絶対に欠かせないものであることを強調し、要求性能の緩和にかすかな望みを抱いていた会社側の技術者たちを、さらに憂鬱にさせた。

 昭和十二年十二月一日から航空技術廠に着任していた柴田少佐も、この研究会に参加していたが、研究会は源田少佐の弁舌に引きずられ、ほとんど彼の独演会の様相だった。柴田少佐はこの事を、苦々しく思っていた。柴田少佐は次のように思った。

 「要求性能は高いことにこしたことはない。ただし、それは実現の可能性があっての話で、勢いに任せてあれもこれもの無理強いは決して実際的ではない」

 「源田少佐は速力、航続力と共に、いやそれ以上に空戦性能の強化をしきりに強調しているが、我が国の戦闘機の現状からすれば、空戦性能は特に強調する必要はなく、問題はむしろ敵機に出会い、それを捕捉するに必要な航続力と速力、特に航続力の大きさにあるのではないか……」。

 柴田少佐は、この日は、反論は差し控えた。せっかく源田少佐によってつくりだされた緊迫したムードに水を差すことは適当ではなかったし、発言するには自分の意見ももっと煮詰める必要があると思ったのだ。

 二ケ月後の、四月十三日、再び航空技術廠会議室で十二試艦戦の計画説明審議会が開催された。出席者は前回とほぼ同様だったが、競争二社のうち、中島飛行機が、エンジンを除き試作を辞退したので、民間からの出席者は三菱の四名だけだった。中島の辞退により審議は三菱案だけとなった。






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