陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

559.源田実海軍大佐(19)分散配備という固定観念にとりつかれているから駄目なんだ

2016年12月09日 | 源田実海軍大佐
 ある日、東京市内の映画館に入り、ニュース映画を観ていると、アメリカ海軍の正規空母「レキシトン」「サラトガ」「エンタープライズ」など四隻が単縦陣(一列縦隊)で航行する場面が出て来た。

 空母は分散するものとされている日本海軍では、空母が単縦陣で航行するのは出入港以外にはなく、それも二隻止まりだった。

 「米海軍は変わったことをやる。航空母艦を戦艦のように扱っている」と源田少佐は異様に思った。数日後、源田少佐は、ハッと思いついた。それは次のような着想だった。

 「なんだ母艦を一か所に集めればいいじゃないか。それなら空中集合も問題ない。分散配備という固定観念にとりつかれているから駄目なんだ」。

 源田少佐は、数日間、この着想を検討・研究し、次の様な結論を導き出した。

 「飛行機隊の空中集合は、各母艦が視界内にいるから、いかに大編隊でも問題ない。集中配備の最大欠陥は、敵索敵機に発見された場合、全母艦がその位置を露呈し、敵襲によって全戦闘力を失うことだ」

 「しかし、『赤城』『加賀』『蒼竜』『飛竜』の四隻を集中配備すれば、各艦が搭載戦闘機一八機のうち半数を攻撃隊援護にまわしても、残る三六機で母艦四隻を護衛することができる。さらに二隻の母艦が加われば、五四機で護衛できる」

 「対空砲火も、周囲に配した巡洋艦、駆逐艦などの火器を合わせれば、一〇〇ないし二〇〇門の高角砲と、三〇〇門以上の二〇ミリ機銃によって、厳重な防火網を構成できる。集中配備をやるべきだ」。

 昭和十五年十一月一日、源田実少佐は第一航空戦隊参謀に就任し、十一月十五日、中佐に進級した。この間、「空母集中配備」の思想をますます強めていった。

 太平洋戦争中の批判も少なくない源田実海軍大佐だが、海軍軍人としては、先見の明のある参謀型の人物であり、合理性に富んだ思考形態は天性のものであったが、同時に奇想天外の発想を好んだ。

 昭和十六年一月下旬、連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、真珠湾攻撃の研究を第一一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将に依頼した。

 二月、鹿屋航空基地の参謀長室で、源田中佐は、第一一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎少将から、ハワイ奇襲作戦の構想を打ち明けられた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将の発案であり、山本大将からの手紙も見せられた。大西少将は源田中佐に作戦計画案を早急に作成するよう依頼した。源田中佐は二週間で仕上げ提出した。

 三月中旬、大西少将がその素案に手を加えて山本大将に提出した。雷撃の修正はあったものの、これが真珠湾攻撃の作戦計画の発端であった。

 昭和十六年四月十日、第一航空艦隊が編成され、源田実中佐は、第一航空艦隊甲航空参謀に補され、空母「赤城」乗組となった。三十六歳だった。

 第一航空艦隊司令長官は南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(山形・海兵三六・八番・海大一八・軍令部第一部第二課長・一等巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・第三戦隊司令官・水雷学校校長・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面艦隊司令長官・戦死・大将・功一級)だった。

 第一航空艦隊が編成された後に、瀬戸内海に碇泊中の連合艦隊旗艦「長門」に、第一航空艦隊の幹部が呼ばれた。

 長官公室の中央には連合艦隊司令長官・山本五十六大将が控え、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将ら艦隊指揮官の将星、連合艦隊参謀が顔を揃えた。第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐も出席していた。

 その中には第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)もいた。



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558.源田実海軍大佐(18)「シバ、同じ飛行機なら、俺の方が貴様より体重が軽い分だけ、空戦に強いぞ

2016年12月02日 | 源田実海軍大佐
 そもそもこの源田少佐と柴田少佐の論争は、前回の一月十七日、十二試艦戦計画要求書についての官民合同研究会終了後の、帰り道、肩を並べて歩いていた源田少佐と柴田少佐の話題は、おのずと空戦性能の問題になったのだ。

 初めのうちは穏やかな話し合いだったが、源田少佐が「空戦性能を強くするには、機体の重量を軽くし、翼面荷重を少しでも小さくすべきだ」と主張した。

 すると、柴田少佐が「原則的にはその通りだが、必ずしも翼面荷重だけでは決められない。他の要素も合わせて考える必要がある」と反論した。

 二人のやり取りは次第にエスカレートし、感情的になっていった。

 源田少佐「シバ、同じ飛行機なら、俺の方が貴様より体重が軽い分だけ、空戦に強いぞ」。

 柴田少佐「何を言うか、ゲン。少しくらい重くたって、俺は勝てるさ」。

 当時源田少佐は柴田少佐より十キロほど体重が軽かった。少佐とはいえ、二人ともまだ三十歳を少し過ぎたばかりの血気盛んな年頃だったが、この時の論争が、四月十三日の審議会まで尾を引き、激しい論戦の展開となった。

 昭和十三年三月上旬、源田少佐は江田島の海軍兵学校で、中国中部における航空戦の話を全校生徒に対して行った。

 海軍兵学校の生徒に対して、航空用兵の講話や海軍軍備のあり方等、多分に高等用兵に属する事項を話しても意味はあまりないし、弊害が伴うことも予想せられるので、源田少佐は前線における航空部隊の将兵が、どんな気持ちで戦闘を遂行しているかを話した。

 そして、源田少佐は話の締めくくりとして、次の様に述べた。
 
 「航空隊は、上は司令から下は一整備兵に至るまで、航空作戦の推移が戦局全般を支配する最大要素であるとの信念を持って、任務の遂行に当たっている」

 「この思想が全航空部隊に一貫して流れ、かつ徹底していることが、我が海軍航空部隊に赫々(かくかく)たる戦果をもたらせているのである」。

 ところが、この話が気に障った、海軍兵学校教頭・角田覚治(かくた・かくじ)大佐(新潟・海兵三九・四十五番・海大二三・砲術学校教官兼水雷学校教官・上海特別陸戦隊参謀・大佐・二等巡洋艦「木曾」艦長・一等巡洋艦「古鷹」艦長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・海軍兵学校教頭・戦艦「山城」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・佐世保鎮守府参謀長・第三航空戦隊司令官・第四航空戦隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・第一航空艦隊司令長官・テニアン島で戦死)は、全校生徒に向けて次の様に訓示した。

 「只今の話は、お前たち生徒の生涯を通じて、血となり肉ともなるものである。しかし、改めて注意しておくが、我々は飛行機がなくても戦闘をやるのである。航空部隊の協力は望ましいけれども、それに頼るわけにはいかないのである」。

 当時、この思想は海軍の砲術関係者や水雷関係者等の中に、相当根強くはびこっていた。源田実は戦後次の様に述べている。

 「飛行機の協力が単に望ましい程度のもので、制空権なるものが戦闘の勝敗に対し二次的要素を占めるに過ぎないものでしかなかったかどうかは、太平洋戦争の経過が最も雄弁に物語っている」

 「角田覚治大佐は、後に第一航空艦隊司令官として、マリアナ列島攻防戦に臨み、遂にテニアンで壮烈な最期を遂げた人である」

 「武将としては最も尊敬すべき性格、すなわち、見敵必戦、ネルソン的闘将であった。その最期なども見事なもので、数ある海軍の闘将の中でも、山口多聞中将や、大西瀧治郎中将にも匹敵すべき攻撃精神の持ち主であった」

 「これらの人々がもっともっと早く航空が海軍戦略戦術の上に占めうる位置を認識して、軍備の改変に努力していたならば、戦争はもっと変わった経過をたどったであろうことを思うと、惜しまれてならない」。

 昭和十五年十月、駐英国日本大使館附武官補佐官の勤務を終えて帰国した源田実少佐は、第一航空艦隊参謀に予定されていた。

 「航空作戦参謀・源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、当時、源田少佐は、海軍兵学校一期上の飛行将校・平本道隆中佐(広島・海兵五一・海大三四・第一航空艦隊参謀・大佐・第三南遣艦隊参謀)から「来年度の艦隊では母艦群の統一指揮が重要な研究項目になる」と言われ、分散配備の空母部隊の統一指揮を考えた。




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557.源田実海軍大佐(17)二人の間のただならぬ雰囲気に、出席者は論争の行く末を見守っていた

2016年11月25日 | 源田実海軍大佐
 会議はこの戦闘機の三菱側の設計主務者である堀越二郎(ほりこし・じろう)技師(群馬県藤岡市・東京帝国大学工学部航空学科を首席で卒業・三菱内燃製造入社・欧州と米国派遣・九六式艦上戦闘機を設計・十二試艦上戦闘機(後の零式艦上戦闘機)を設計・技術部第二設計課長・戦後YS-11国産旅客機の設計に参加・新三菱重工業参与・東京大学宇宙航空研究所講師・東大工学博士・防衛大学校教授・日本大学生産工学部教授・従四位・著書「零戦―その誕生と栄光の記録」(講談社文庫)など)の設計内容についての説明で始まり、質疑応答に移った。

 質疑応答が一段落したところで、堀越技師が立ち上がって、次のような質問を行った。

 「計画要求にあるような速力、格闘性、航続力の全てを一様に満たすことは困難だから、重要性の順序について海軍側の考えを伺いたい」。

 テーブルをはさんで丁度柴田少佐の真向かいの席にいた堀越技師は、病み上がりの姿も痛々しく、緊張した時の癖である、目を忙しくしばたたせながらの発言は、そのまま技術者たちの苦悩を現わしていた。

 その堀越技師の質問に対し、まず立ち上がったのは源田実少佐だった。源田少佐は、前回と同様に、中国大陸での実戦の様子とそれに基づく戦訓について、手ぶりを交えながら強い口調で語り、列席者の関心を充分に引き付けた後、結論を言った。

 「……というわけで、戦闘機、特に単座戦闘機にあっては、敵戦闘機にまさる空戦性能を第一に要求する。そのために速力や航続力が多少、減ったとしても止むを得ない」。

 この源田少佐の意見に、横須賀航空隊側委員をはじめ、ほとんどの出席者が同調するムードに傾きかけた。

 その時、「意義あり!」の声と共に憤然として立ち上がったのは、航空技術廠実験部の柴田武雄少佐だった。柴田少佐は、次の様に源田少佐に対する反論を述べた。

 「源田君は、空戦性能を第一にしろ、と主張しているが、日本の戦闘機の格闘性は、諸外国の戦闘機に比べて今のままでも強すぎる位だから、ことさらそれを強調する必要などない」

 「それなのに、空戦性能を強要すれば、堀越技師が言うように、今度の計画に盛り込まれている色々な要求を満たすことはできない」

 「戦訓でも明らかなように、敵戦闘機による我が攻撃機の被害は予想以上に大きい。これを援護するには、一部に言われているような双発の複座あるいは多座戦闘機では、航続性能では要求が満たされるかも知れないが、空戦性能で敵の単座戦闘機にかなわないから、どうしても単座戦闘機でなければならない」

 「従って、本機に大航続力は絶対欠かすことはできない。速度についても、逃げる敵機をつかまえて格闘戦に引き込むには、一ノットでも早い方がよく、速度も不可欠の要素だ」

 「いかに技量優秀、攻撃精神旺盛な操縦者といえども、その飛行機に与えられた性能以上にはどうにもならない速度や航続力、特に航続力を優先し、空戦性能は訓練によって劣勢をカバーできる程度の強さでよろしい」。

 この柴田少佐の整然とした反論は、当然ながら源田少佐にとって面白くなかった。今度は、源田少佐が、やや興奮気味に立ち上がって、次の様に応じた。

 「只今の柴田君の発言は、もってのほかである。速度や航続力を重視するあまり、空戦性能を低下させてもよい、などとは絶対に承服しかねる」。

 あとは、源田少佐の持論を、とうとうと展開し、終わると椅子が壊れるのではないかと思われるほどの勢いで座った。二人の間のただならぬ雰囲気に、出席者は論争の行く末を見守っていた。すると再び、柴田少佐が立ち上がり、次の様に述べた。

 「自分は空戦性能が弱くてもいいと言っているのではない。我が国の戦闘機が外国の戦闘機に比べて空戦性能が強すぎるから、それを少し減らして、強い程度にとどめ、その分を速度や航続力の向上にまわせと言っているのだ」。

 この柴田少佐見に対して、すかさず、源田少佐が立ち上がって、次の様に応酬した。

 「空戦性能が強過ぎるとか、強いとかいうのは、極めて曖昧な表現だ。柴田、貴様は何を持って、その判断の基準にしようとするのか」

 「もちろん、速度も航続力も大きいに超したことはない。しかし、これ等の全てのバランスの最後の部分において、やはり空戦性能を優先すべきことを横空としては要求する」。

 あとから考えれば、明らかに柴田少佐の主張の方が正しいことが分かるのだが、源田少佐にしても、メンツがあるから、この場に及んでは、たとえそれを理解したとしても、認めて引き下がるわけにはいかなかった。

 このような場合、誰かが数段高い視点から判断を下すしかないが、源田少佐、柴田少佐ともに戦闘機に関しては第一人者であり、その上、個性も自信も人一倍の、この二人を納得させることのできる戦闘機操縦畑の先輩がいなかった。




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556.源田実海軍大佐(16)研究会は源田少佐の弁舌に引きずられ、ほとんど彼の独演会の様相だった

2016年11月18日 | 源田実海軍大佐
 後日、源田大尉が、大西大佐にこの事を聞いたら、大西大佐は次のように答えた。

 「うん、一泊させてもいいんだ。ただ、新田の奴が、疲れるとか何とか、もっともらしい屁理屈を並べないで、大村には前にもいたことがあるし、飲み友達もいることだから、一泊させてくださいと頼めば、一も二もなく許してやったんだよ」。

 大西大佐という人は、そういう人であった。「こやつはやるぞ」と信頼を寄せていた新田大尉が、柄にもない屁理屈をこねたので、怒りが爆発したのであろう。

 昭和十二年八月十六日、台北基地の鹿屋隊の攻撃部隊(指揮官・新田慎一少佐)は、句容に向かい、空中制圧を行なった。

 この攻撃で、指揮官機は被弾し不時着した。新田少佐は不時着後、搭乗員全員の自決を自分で見届け、最後に腹掻き切って果てたそうである。日本武士らしい立派な最期だった。
 
 新田少佐が中国中部の空から帰ってこなかったとき、大西大佐は最も悲しんだ一人であったし、また、その最期の状況を微に入り細を穿ち調べ上げたのも大西大佐だった。

 昭和十三年一月、中国戦線から帰国した源田実少佐は、横須賀海軍航空隊飛行隊長兼戦術教官に任命された。戦闘機及び艦爆分隊からなる飛行隊長だった。

 源田少佐は海軍大学校の学生時代から論議していた「戦艦無用論、航空主兵主義」は、支那事変という実戦の洗礼を受けて、さらに頭を持ち上げて来た。

 兼務として航空戦術教官に任命された源田少佐は、砲術学校、水雷学校等の教官も兼務したが、学校においての講義は必然的に源田少佐自身の用兵思想を展開したので、これに反対する教官と論争になり、学生そっちのけで大論争を繰り広げることになった。

 昭和十三年一月十七日、十二試艦戦計画要求書についての官民合同研究会が、横須賀市追浜の海軍航空廠会議室で開かれた。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、航空本部から技術部長・和田操(わだ・みさお)少将(東京・海兵三九・四番・海大選科学生・東京帝国大学工学部・航空本部技術部部員・大佐・航空本部出仕・欧米出張・航空本部技術部長・少将・航空技術廠長・中将・航空本部長)以下関係者が出席した。

 また、航空技術廠から航空技術廠長・前原謙治(まえばら・けんじ)中将(山口・海兵三二・十四番・艦政本部部員・大佐航空本部総務部長・少将・横須賀工廠造兵部長・航空技術廠長・中将・予備役・第二軍需廠長官)以下関係者が出席した。

 これに試作に参加する三菱、中島両社の技術者も含めて三十人余りの出席者があった。また、横須賀海軍航空隊飛行隊長・源田実少佐、海軍航空技術廠飛行実験部陸上班長兼戦闘機主務・柴田武雄少佐ら海軍関係者も出席した。

 だが、この研究会での主役はなんといっても、第二連合航空隊参謀として活躍した中国大陸の前線から、数日前に帰国したばかりの源田実少佐だった。
 
 源田少佐は、まだほとぼりの覚めやらぬ実戦の体験(といっても彼自身は直接戦闘には参加していないが)について熱っぽく語り、新戦闘機に対する要求のどれもが絶対に欠かせないものであることを強調し、要求性能の緩和にかすかな望みを抱いていた会社側の技術者たちを、さらに憂鬱にさせた。

 昭和十二年十二月一日から航空技術廠に着任していた柴田少佐も、この研究会に参加していたが、研究会は源田少佐の弁舌に引きずられ、ほとんど彼の独演会の様相だった。柴田少佐はこの事を、苦々しく思っていた。柴田少佐は次のように思った。

 「要求性能は高いことにこしたことはない。ただし、それは実現の可能性があっての話で、勢いに任せてあれもこれもの無理強いは決して実際的ではない」

 「源田少佐は速力、航続力と共に、いやそれ以上に空戦性能の強化をしきりに強調しているが、我が国の戦闘機の現状からすれば、空戦性能は特に強調する必要はなく、問題はむしろ敵機に出会い、それを捕捉するに必要な航続力と速力、特に航続力の大きさにあるのではないか……」。

 柴田少佐は、この日は、反論は差し控えた。せっかく源田少佐によってつくりだされた緊迫したムードに水を差すことは適当ではなかったし、発言するには自分の意見ももっと煮詰める必要があると思ったのだ。

 二ケ月後の、四月十三日、再び航空技術廠会議室で十二試艦戦の計画説明審議会が開催された。出席者は前回とほぼ同様だったが、競争二社のうち、中島飛行機が、エンジンを除き試作を辞退したので、民間からの出席者は三菱の四名だけだった。中島の辞退により審議は三菱案だけとなった。






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555.源田実海軍大佐(15)新田大尉は大西大佐の前に来て「副長は血も涙もない冷血動物だ」と叫んだ

2016年11月11日 | 源田実海軍大佐
 七月二十日過ぎ、源田少佐は長崎県の大村航空隊にある第二連合航空隊司令部に着任した。当時の第二連合航空隊司令官と先任参謀は次の通り。

 司令官・三並貞三(みつなみ・ていぞう)大佐(大阪・海兵三七・三十番・海大二〇・海軍大学校教官・大佐・給油艦「能登呂」艦長・空母「鳳翔」艦長・航空廠総務部長・空母「加賀」艦長・第二連合航空隊司令官・少将・第二戦隊司令官・艦本造船造兵監督長・予備役・充員召集・軍令部出仕)。

 先任参謀・小田原俊彦(おだわら・としひこ)少佐(鹿児島・海兵四八・十九番・第二連合航空隊参謀・大佐・霞ヶ浦航空隊副長兼教頭・鹿屋航空隊司令・第七五一航空隊司令・航空本部第一部第一課長・第一航空艦隊参謀長・第一航空艦隊参謀副長・戦死・少将)。

 八月十三日、第三艦隊司令部は、先制攻撃によって中国空軍を一挙に制圧するため、八月十四日に南京、杭州、広徳、南昌、虹橋を空襲する命令を出した。

 だが、東シナ海に猛烈な台風があり北方に進行中だった。この台風で、空襲作戦を決行することは困難だった。第三艦隊司令部から「天候の回復するまで空襲を見合わす」との命令が出された。

 ところが、突然、中国の戦闘機、攻撃機、爆撃機が来襲、上海特別陸戦隊や第八戦隊(軽巡洋艦二隻)、旗艦「出雲」などに、攻撃を加えた。損害は軽微だったが、中国側に先制空襲をされたのだ。

 先制攻撃、制空権の獲得の重要性を認識した、第二連合航空隊参謀・源田実少佐は、戦闘機で広域制空を行う「制空隊」を考案した。戦闘機を主体的に運用する画期的な戦術構想だった。

 また、中国奥地への攻撃には戦闘機の航続距離が不足だったが、源田少佐は、中継地点を利用する方法を考案して解決した。

 この戦術構想により、九月から南京方面の空襲作戦を実施、十一回の空襲で、中国空軍戦闘機隊を壊滅させ、日本軍が制空権を獲得した。

 当時、第三艦隊司令長官から、「第一連合航空隊はただちに進発、杭州、広徳を攻撃せよ」という命令が発せられた時、源田実少佐は、鹿屋航空隊飛行隊長・新田慎一(にった・しんいち)少佐(山口・海兵五一・鹿屋航空隊飛行隊長・戦死・中佐)の面影が浮かんだ。

 新田慎一少佐は、海軍兵学校は源田少佐の一期上で、源田少佐が海軍兵学校一年の時、同じ分隊の二学年生徒で、入校早々、毛布のたたみ方とか、自習室の掃除のやり方とか、色々指導を受けた。

 昭和九年源田大尉が空母「龍驤」の戦闘機分隊長をやっていた時、新田大尉は攻撃機分隊長だった。翌十年、源田大尉が横須賀航空隊の戦闘機分隊長の時は、新田大尉は同じく横空の攻撃機分隊長だった。

 新田少佐は大型攻撃機論者で、急降下爆撃を主張する源田少佐とは論敵の間だった。時には激しい口調と態度で論戦を交えることもあった。

 だが、共に航空主兵論者であることに変わりはなく、個人的関係は極めて良好だった。新田少佐は大西瀧治郎中将の知遇を受けた一人でもあった。

 横浜航空隊時代(昭和十年頃)、ある艦上攻撃機の航続力実験で横須賀、大村の往復夜間飛行を行うことになった。

 往路はちょうど午前零時頃、横空を離陸して、午前三時頃、大村に就く予定だった。攻撃機分隊長・新田大尉は次のように、副長兼教頭・大西瀧治郎大佐に申し出た。

 「夜間飛行を三時間もやると相当疲れるので、大村に一泊して、翌朝帰ることにしたい」。

 すると、大西大佐は、次の様に言って、新田大尉の申し出を、一喝の上に退けた。

 「何を言っているんだ。僅か三時間ぐらいの夜間飛行で疲れるような奴に、いくさが出来るか。一泊などとんでもない。着いたらすぐ折り返して帰って来い」。

 新田大尉は、ぷんぷんしながら教頭室を退いたが、飛行作業は教頭の言うように、折り返し飛行で即日帰って来た。

 数日後、ある料亭で横空の会が設けられたと際、多少酔いのまわった新田大尉は大西大佐の前に来て「副長は血も涙もない冷血動物だ」と叫んだ。

 すると大西大佐は、「何を、この野郎」と、鉄拳を新田大尉の頭に飛ばせた。翌日新田大尉は出勤しなかった。大西大佐は、「あの位のことで、休むやつかな」と、不審そうな顔をしていた。



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554.源田実海軍大佐(14)大西大佐の鉄拳が顔面に飛び、柴田大尉の上体が横に揺れた

2016年11月04日 | 源田実海軍大佐
 そんな中で悠然と酒杯を傾けていた大西大佐は、ふと宴席の中ほどに座っている柴田大尉に目を止めた。その柴田大尉は、この夜の宴会を苦々しく次の様に思っていた。

 <何だ。どいつもこいつも威勢のいいことを言っているが、まるでなっておらん。そんなにいい意見があるなら、シラフの時に報告書なり、論文なりにまとめて出せばいい。酒の勢いを借りて自分を売り込もうなどもってのほかだ>。

 だから酒の味は苦く、普段の酒席ではけっこう陽気にはしゃぐ柴田大尉だが、この夜はどうもそんな気分になれず、ひとり黙然と機械的に杯を口に運んでいた。

 そんな柴田大尉の姿に気づいた大西大佐は、つと立ち上がると柴田大尉の前にやってきて、どっかとあぐらをかいた。そしてじっと見据えるようにして、次のように言った。

 「おい、みんながあんなにいろいろ意見を言って愉快にやっているのに、貴様はなぜ黙っているんだ。何も言うことはないのか」。

 柴田大尉は答えなかった。意見がない訳ではない。それどころか、意見は論文にして、これまで山ほど提出してある。だから今更この場で言うようなことはないし、また、そのことについて、弁解がましく言いたくもなかった。

 柴田大尉は押し黙ったまま大西大佐の顔を見ていたが、たちまち、その目に凶暴な色が宿るのを見て、ハッとした。<やられる!>と思ったとたん、大西大佐の鉄拳が顔面に飛び、柴田大尉の上体が横に揺れた。

 突然の出来事に、満座の視線がいっせいに大西大佐と柴田大尉に注がれた。柴田大尉は唇が少し切れて血がにじんだが、その痛さよりも多くの人前で殴打された屈辱と怒りで、身体が震えた。柴田大尉は次の様に思った。

 <理の通った叱責ならいくらでも受けよう。だが、今までに提出した論文には何の反応も示さずにおきながら、酒の席で意見を言えとは何事だ。大西とはそんな人間だったのか>。

 これまで柴田大尉は上官に殴られた事は無かった。海軍兵学校ですら、宮様と同期だったために殴られずにすんでいた。

 戦国の武将織田信長は、明智光秀の才を誰よりも認めていながら、気が合わず、しばしばひどい仕打ちをした。それが本能寺の変のきっかけとなった。この夜の柴田大尉の心境はまさにそれだった。

 大西大佐とて普段ならけっして殴ったりしなかったろう。たまたま酒がまわっての仕打ちで、それほど深い意があったわけではないだろう。

 柴田大尉にしても、大西大佐の偉いところは認めないわけではなかったが、悪いところばかりが目につき、どうしても尊敬する気になれなかった。

 それにしても、この夜の大西大佐の仕打ちは、柴田大尉には解せなかった。なるほど、大西大佐は源田実大尉らが主唱する「戦闘機無用論」を支持してはいるが、それに反論する柴田大尉を責めるほどの腹の小さい人物ではないはずだ。

 ではなぜだろうか。するとやっぱり……。<源田だ。きっとあいつが俺のことを、大西教頭に悪く吹き込んだに違いない>。そう思った柴田大尉は、ひどく悲しい気分になった。

 昭和十二年七月の盧溝橋事件を発端として、支那事変が勃発した。八月の第二次上海事変以後、次第に戦火は中国全土に飛散していった。

 昭和十二年七月源田実少佐は、海軍大学校(三五期)を恩賜(次席)で卒業し第二連合航空隊参謀に任ぜられた。

 「海軍航空隊、発進」(源田実・文春文庫)によると、第二連合航空隊は、第一二、第一三航空隊から成っていたが、いずれも艦載機をもって編成した小型機の部隊だった。

 第一二航空隊は、佐伯海軍航空隊を基盤とし、九五式艦上戦闘機十二機、九四式艦上爆撃機十二機、九二式艦上攻撃機十二機で編成されていた。

 第一三航空隊は、大村航空隊を基盤とし、九六式艦上戦闘機十二機、九六式艦上爆撃機十八機で編成されていた。



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553.源田実海軍大佐(13)戦艦、高速戦艦等の現有主力艦はスクラップするか、繫留して桟橋の代用とすべし

2016年10月28日 | 源田実海軍大佐
 戦艦の大口径の大砲は、敵の戦艦や巡洋艦、駆逐艦などの艦艇に対しては一激必殺の威力を発揮する。また、防御力も大きいので海戦には絶対的に有利である。

 だが、対象が飛行機や潜水艦など、全然質を異にした戦力を有するものには当てはまらない。大口径の大砲は飛行機や潜水艦には、極めて効率の悪い、非経済的な兵器である。

 例えば、日本海軍が、飛行機と潜水艦のみで海軍戦略を構成した場合、日本海軍の頭痛の種である、米海軍の主力艦十五隻は、一体何を目標にして行動するのか。

 攻撃すべき目標はなくなるではないか。攻撃すべき目標がないということは、日本の戦艦の代わりに、日本軍の飛行機や潜水艦が待ち構えているだけということになる。つまり、これらの戦艦はただ、日本海軍の飛行機や潜水艦に攻撃されるため存在するということにならないだろうか。

 源田実大尉の決心を左右したものは、大西瀧治郎大佐の「高効率の軍備」という思想だった。そこで、源田大尉は、海軍大学校の「対米作戦遂行上、最良と思われる海軍軍備の方式に関して論述せよ」という趣旨の対策課題に対して、次の様な趣旨の論文を提出した。

 「海軍軍備の核心を基地航空部隊と母艦航空部隊に置き、潜水艦部隊をしてこれを支援せしむる構想により、海軍軍備を再編成し、これ等部隊の戦力発揮に必要な駆逐艦、巡洋艦等の補助艦艇は、必要の最小限度保有するも、戦艦、高速戦艦等の現有主力艦はスクラップするか、繫留して桟橋の代用とすべし」。

 作業課題の研究会が行われた。源田大尉の予期した通りの波瀾が巻き起こった。他の学生の論文は、いずれも海軍の兵術常識に基づいたものであるから問題はなかった。

 源田大尉の論文は、海軍の主流であった砲術、水雷に対し、正面から挑戦するものであったから、その反撃も極めて激しいものだった。

 源田大尉の友軍たる航空陣営においても反対があり、「源田君、この案は一体何年後を目標としているのですか。五十年後ですか、百年後ですか」という者もいた。

 また、「源田少佐(昭和十一年十一月進級)は、頭が少し変になったのではないか」と発言する者さえ出た。

 だが、実際は、学生が実施する図上演習や兵棋演習において、航空部隊の上げる戦果は偉大なものだった。

 源田少佐は「図上演習や兵棋演習の審判標準は、戦技の成績を基礎として作製されたものであり、信用してしかるべきものである」「机上の演習の成果を全然度外視するならば、何を好んで毎日毎日机上演習訓練をやるのであるか」等々の議論をもって孤軍奮闘をした。

 反航空論者の中に、「航空撃滅戦は相殺に終る」というのがあった。航空機は確かに偉大なる威力を持っているが、多くの演習の結果は、彼我航空部隊は互いに攻撃しあって、両者共に斃れるのが通例である。

 従って、最後の決戦は、残存した水上部隊によって闘われることになるという論旨である。これは海軍大学校の学生間のみならず、軍令部や、艦隊の首脳においてもこの考えを抱く者が少なくなかった。

 ある日、重要な演習において、日米両軍の航空部隊はお互いに相殺して全滅し、残った水上部隊の決戦では、数が物を言って、日本軍が破れたことがあった。

 その研究会の席上で、見学者として参加していた大西大佐が、次の様な質問を投げかけた。

 「なるほど、航空部隊は日米相殺した。しかし、仮に、日本がこの演習に使用した航空兵力の倍の兵力を準備していたならば、結果はどうなったと諸官は思われるか」。

 これに対して明快なる回答を与えた人はいなかった。

 「太平洋戦争秘録・壮烈!日本海軍指揮官列伝」(宝島社・二〇〇七年六月)によると、源田実少佐は、第一航空艦隊参謀時代、「世界の三大バカとは、万里の長城と、ピラミッドと、戦艦大和だ。大和を溶かして、飛行機に作り直すべきである」と言ったそうである。

 昭和十年末、大西大佐の勧めで、源田実大尉が海軍大学校に入学した後、代わって横須賀航空隊の戦闘機第四分隊長に着任したのが、柴田武雄大尉だった。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、昭和十一年春、横須賀航空隊の宴会が、横須賀市内の料亭「魚勝」で行われた。元気者ぞろいの士官たちは、酔うほどに賑やかな酒席となった。

 中には、副長兼教頭・大西瀧治郎大佐に食ってかかる勇ましい者や、この機会に自分を認めてもらおうとゴマをする者もいた。






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552.源田実海軍大佐(12)柴田武雄は、その過ちを認めない源田実の不誠実を非難した

2016年10月21日 | 源田実海軍大佐
 「源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、昭和十二年八月十五日から、九六式陸攻の渡洋爆撃が開始されたが、中国側の戦闘機に攻撃されて、強いはずの九六式陸攻が次々と撃墜された。

 それで、さすがの大西大佐と源田大尉は、冷水を浴びせられたようになり、「戦闘機無用論」を口にしなくなった。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、「戦闘機無用論」を唱えた源田実は、この重大な過ちをどうとらえ、反省しているのか。源田実は自著「海軍航空隊、発進」の中で、次のように記している。

 「日支事変勃発前においては、中攻(九六式陸上攻撃機)の出現と共に戦闘機無用論まで一部に出ていたのであるが、実戦の結果は、この見解が完全に誤りであることが立証せられた」

 「開戦初頭の大きな損害は、悪天候に基づく低空爆撃に原因するものと考えられた。その後天候が回復して中高度ないしは高高度爆撃が実施せられるに至って、地上砲火による被害は激減したが、戦闘機による被害は、開戦当初ほどではなかったが、相変わらず高率をもって続いた」。

 この源田の釈明について、「鷹が征く」の著者の碇義朗は、「まるで戦闘機無用論は他の誰かが言ったかのような表現であり、それも“一部にあった“どころか、戦闘機の数と要員の数まで減らすという海軍軍備の根幹にかかわる決定が実施に至っているのだ」と批判している。

 また、戦後になっても、この事実を知る柴田武雄は、その過ちを認めない源田実の不誠実を非難したのである。

 昭和十年頃、源田実大尉は海軍大学校も受験するつもりはなかった。戦闘機操縦者として、大成するため、海軍大学校など入りたいとは思わなかったのだ。

 海軍大学校の入学試験は年に一回行われ、大尉になると受験資格ができる。だから、五年間大尉をやれば五回受験することが出来るが、少佐になると、最初の一年目しか受験できなかった。

 昭和五年十二月に大尉になった源田大尉は、すでに大尉五年目だったが、それまでに一回も海軍大学校を受験したことは無かった。受けようという気がなかったのである。

 ある日、横須賀航空隊副長・大西瀧治郎大佐は、分隊長・源田実大尉を呼んで、海軍大学校に入るよう説得した。

 大西大佐自身は海軍大学校出身ではなかった。海軍大尉の時、海軍大学校の学科試験は合格・通過していたが、数日前に芸者を殴ったことにより、素行不良で次の口頭試問は受験不可とされ受験できなかったのだ。

 大西大佐は源田大尉に次のように言った。

 「源田、貴様がよく研究会等で文句をつけるように、海軍の航空政策に修正しなければならないことは、沢山あるだろう」

 「これを修正しなければ、航空は進歩しないのだ。しかし、貴様の言うように、戦闘機だけに乗っていたのでは、航空政策の指導などはできないのだ」

 「真に高効率の軍備を作り上げてもらいたいことだ。それには、馬鹿らしいようでも、一応海軍大学校に入り、将来しかるべきポストに就けるような基盤を作って置かなければならないのだ」。

 源田大尉の尊敬する大戦略家である大西大佐の、言葉に、源田大尉は、納得して、海軍大学校を受験することにした。

 海軍大学校の試験に合格した源田実大尉は、昭和十年十月三十一日、海軍大学校(甲種学生三五期)として入学した。三十一歳だった。

 入学して半年後の昭和十一年四月頃、戦略教官から「対米作戦遂行上、最良と思われる海軍軍備の方式に関して論述せよ」という趣旨の対策課題が学生に出された。

 この対策課題を考えているうちに、源田大尉は当時の海軍軍備に対する重大なる疑問が心の中で頭をもたげて来た。源田大尉は次のように考えた。

 日本海軍は、戦艦中心主義が海軍戦略戦術思想の骨幹をなしていた。いわゆる大鑑巨砲主義である。この思想は、日清戦争、米西戦争などの海戦から逐次頭角を現し、日露戦争や第一次世界大戦の諸海戦を通じて、不動の海軍戦略思想となっていた。

 大艦巨砲主義は、敵の艦船を撃沈して敵の戦力を消滅させるという、水上艦艇のみを対象にした戦闘では、絶対防御力の小さい艦艇を多数造るより、絶対防御力の大きい戦艦を造った方が有利であるという思想である。

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551.源田実海軍大佐(11)源田が、『柴田の言うことは全部間違っている』と言いまわっていた

2016年10月14日 | 源田実海軍大佐
 日本海軍において、「戦闘機無用論」が唱えられたのは、昭和八年から十二年頃までである。

 それに先立ち、昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の結果、山本五十六少将は、飛行機により攻撃力を補おうと考え、攻撃機の増強に努めた。

 昭和十年当時、横須賀海軍航空隊戦闘機分隊長・源田実大尉は、同航空隊副長・大西瀧治郎大佐と意を通じ、「戦闘機無用論」を強く主張していた。

 また、昭和十一年十一月横須賀航空隊教官に就任した三和義勇(みわ・よしたけ)少佐(岐阜・海兵四八・三十一番・海大三一・次席・空母「加賀」飛行長・横須賀航空隊飛行長・霞ヶ浦航空隊副長・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・自決・少将)は「戦闘機無用論」に最も影響を与えた。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、横須賀航空隊教官・三和少佐は、高等科学生に対し、「戦闘機は、攻撃機が攻撃実施前に阻止できないことは実証されている。航空母艦には戦闘機の代わりに艦爆や艦攻を多く積んで攻撃力を増すべし」と力説した。

 これに対して、「戦闘機無用論」を切り崩そうと機会を狙っていた、柴田武雄大尉は次のように反論して論争を挑んだ。

 「三和教官、私にはなぜ戦闘機を無用とするのか、その根拠がさっぱりわかりませんな。そもそも艦攻や艦爆がその威力を充分に発揮するためには、まず無事に敵艦隊の上空に到達することが先決ではないですか」

 「敵は必ず直衛戦闘機を上げて待ち構えているでしょう。これを突き破るには、こちらも優勢な戦闘機の援護をつけてやらなければならない。さらに、来襲する敵の艦攻や艦爆などから空母を守るためにも、多数の戦闘機が必要です」

 「しかも残念なことに、我が海軍の空母の防御力はアメリカ空母に比べて弱いから、この欠点を補うためにも、直衛戦闘機の数を増やさなければならず、空母自体の防御力の強化と共に、これは急を要する課題だと考えますが、教官のお考えは?」。

 戦術教官の三和少佐は“攻撃”主義者だけに、柴田大尉がしきりに我が弱点や防御を力説するのが気に障ったらしく、不機嫌をあらわにして、次の様に切り替えして来た。

 「何だ、君の話を聞いていると、まるで帝国海軍の艦攻や艦爆は腰抜けで、航空母艦は弱虫だと言わんばかりじゃないか。だから攻撃隊や空母の援護の為に戦闘機を沢山配備せよだと……」

 「冗談じゃないよ。そもそも我が海軍が今日あるのは、“肉を切らせて骨を切る”という肉薄必殺の伝統的な攻撃精神にあるのだ。こちらもやられるかも知れんが、もっと多くの損害を敵に与えればいいのだ。このためには戦闘機など減らして、艦攻や艦爆を一機でも多く増やすべきだ」。

 これに対して柴田大尉は次のように再反論した。

 「いや、問題なのは艦攻や艦爆を何機揃えるではなく、実際に攻撃を実施できるのが何機あるかということではないですか。対空砲火はいざ知らず、敵戦闘機の攻撃に対抗するには、こちらも戦闘機をぶつける以外にないのです」。

 すると三和少佐は、いよいよ不機嫌になって、次の様に言い放った。

 「何を言うか。君はそれでも日本人かね。艦攻や艦爆だって、そうむざむざと敵戦闘機に食われやせん。君は戦闘機の威力を過大評価し過ぎるようだな。それとも臆病風にふかれたのか。どっちにしても、こんな議論はもうかんべん願いたいな」。

 なおも食い下がろうとする柴田大尉に侮蔑の眼差しを向けて、三和少佐は言葉を切った。

 取り付く島もないその冷ややかな態度に、これ以上何を言っても無駄だと悟ったが、柴田大尉の腹はおさまらなかった。

 「戦闘機無用論」について、柴田武雄は戦後、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の中で、次の様に述べて強く反論している。

 「航空母艦の防御力の弱小であること、およびその欠点を補うには防空用の戦闘機を多数必要とされること、ならびに現有する戦艦を活用することに気付かず、一途に戦艦を無用であると断定した傲慢・独善に自己陶酔し、飛行機でも艦船でも爆撃できる、攻防装備のすばらしい有用性を持っている戦闘機のことを、すっかり(善意に解釈すれば、うっかり)忘却していた」。

 「昭和十二年から同十九年まで、源田が、『柴田の言うことは全部間違っている』と言いまわっていたが、私は、昭和十・十一・十二年にわたって、源田が主唱していた『戦闘機無用論』を大いに反駁したり、戦闘機の有用であることを大いに力説した」。
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550.源田実海軍大佐(10)柴田大尉は「戦闘機無用論」に反対し、源田大尉と激烈に争った

2016年10月07日 | 源田実海軍大佐
 中央当局の腹案の説明に対し、空技廠からは別に異見はなかった。横空の意見を求められた際、大西大佐は、「横空の所見は源田大尉をして述べさせます」と、源田大尉を指定した。源田大尉は次のような意見を述べた。

 「三菱九試単戦が速力や上昇力等、数字で現すことのできる性能について、画期的であることに異存はない。しかし、戦闘機は、上昇力や速力のみによって戦闘するのではない」

 「なるほど、爆撃機や雷撃機を攻撃する場合には、速力、上昇力は最大の要素となるのであるが、対戦闘機戦闘においては必ずしもそうではない。格闘機性能、すなわち旋回性能や微妙な操縦性が重要な要素となるのである」

 「私の考えるところ、単葉機は空戦性能があまりよくない。中島九試単戦はその一例である。三菱戦については実験未済であるが、どうも九五式艦戦の方が優秀なのではないかと思う。従って、今ここで、九五式艦戦を廃止し、三菱戦一本に絞ることは反対である」。

 源田大尉の発言に続いて、大西大佐は次のように述べた。

 「横空の意見は、唯今源田大尉の述べた通りである。中央当局は単に机上の論に頼ることなく、もっと実際に身をもって飛ぶ人の意見を尊重して方針を定められたい」。

 この日の会議は結論を得ることなく、後日に持ち越すことになった。源田大尉ら横空の実験担当者は、その翌日から、三菱九試単戦の空戦実験に取り掛かった。それまでに、射撃や航法、離着陸等の実用実験は終わっていて、いずれも三菱戦の優位を示していた。

 空戦実験の結果は、源田大尉らの予想外のものであった。格闘戦に関する限り、九五式艦戦の優位は動かないと見ていたのであるが、三菱戦と九五式艦戦対決の結果は、問題なく三菱戦に凱歌が挙った。

 先般、陸軍との共同演習で、無類の強さを示した九五式艦戦であったが、三菱九試単戦には敵すべくもなかった。

 約一週間の実験で結論を得たのち、源田大尉らは再び空技廠の会議に臨んだ。劈頭、源田大尉は次のように述べた。

 「先般の会議の席上、私は九五式艦戦が格闘戦に関して優位を持っているであろうと述べたのであるが、その後、実験の結果、三菱九試単戦は、格闘技戦においても射撃性能においても、九五式艦戦に勝っていることが判明した」

 「この飛行機は、私たちが持っている戦闘機の概念を越えたもので、全く画期的な戦闘機である。私は改めて、私の前言を取り消し、不明を謝します」。

 会議終了後、海軍は三菱単戦に“GO AHEAD”(前進)の決定をした。後に九六式艦上戦闘機として日中戦争の当初、大陸の空で縦横の活躍をなし、また有名な零式艦上戦闘機の前身をなしたのは、この三菱九試単戦だった。

 会議が終了した後、横空の士官室に戻り、教頭たる大西大佐の前で、源田大尉は、「私の意見が誤っていたために、教頭はじめ、横空の面目を失墜し、申し訳ありません」と謝った。

 すると、大西大佐は、源田大尉に向かって、次の様に話した。

 「源田、お前は何を言っているんだ。我々は、正しいことを、正しく認めることが大切なのだ。何が国家の為になり、何が国家の発展に役立つのか、それを標準としてものを考え、行動を律すべきである」

 「お前が本日の会議で言ったことは、あれで良いのだ。横空の面目など問題ではない。そんな面目などに、こだわる奴が、うようよしているから、航空の進歩が思うように運ばないのだ。我々は、国家の為に有利となれば、無節操、無定見と罵られようと、毫も意に介すべきでない」。

 源田大尉は、大西大佐の、この言葉ほど、胸を打ったものはなかった。「この人は全く底の知れない人だ」とも思った。大西大佐は、源田大尉の兵術思想、人生観に大きな影響を与えた。

 昭和十年十一月から十一年十一月まで、柴田武雄大尉は、横須賀海軍航空隊戦闘機分隊長だった。柴田大尉は「戦闘機無用論」に反対し、源田大尉と激烈に争った。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、「戦闘機無用論」を主唱したのは、戦闘機パイロットであった源田実と小園安名(鹿児島・海兵五一・第一二航空隊飛行隊長・空母「鳳翔」飛行長・中佐・台南航空隊副長兼飛行長・第二五一航空隊副長兼飛行長・第二五一航空隊司令・第三〇二海軍航空隊司令・兼横須賀鎮守府参謀・大佐・兼第三艦隊参謀・終戦・厚木航空隊事件・軍法会議で無期禁錮刑・赦免)であると記している。


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