陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

544.源田実海軍大佐(4)こんな成績を実戦でも上げることが出来ると思ったら大間違いである

2016年08月26日 | 源田実海軍大佐
 源田と柴田は、終戦に至るまで、ことごとく対立して、その海軍人生を終えた。さらに、その対立は戦後も続き、和解は無かった。

 このような特異な経過から、柴田は、源田実批判の書、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)を発行した。

 昭和四十四年三月、源田実参議院議員は、佐藤栄作首相の下で、自民党国防部会長であったが、アメリカ軍の核持ち込みを是認する発言で、国防部会長を辞任した。

 この二年後の昭和四十六年一月二十六日に、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)は発刊された。当時は源田実参議院議員の「核武装論」などタカ派的言動が世間から注目されていた時期だった。

 なお、源田実と柴田武雄について書いた「鷹が征く」(碇義朗・光人社)は、著者の碇義朗(いかり・よしろう)氏が生前の二人に会って、直接取材をして書きあげた書だが、こちらは平成十二年四月十三日に発刊された。

 源田実は平成元年、柴田武雄は平成六年に、死去している。

 源田実と柴田武雄の間に、根本的な思想の相異が生じたのは、生まれ育った環境の相異や、軍歴の相異というよりは、むしろ生来の性格の相異であったと思われる。

 ちなみに、源田と柴田の幼少期、および軍歴の概略を比較してみる。

 源田実は明治三十七年八月十六日生まれ、広島県出身。柴田武雄は明治三十七年二月二十日生まれ、福島県出身。二人とも生まれ年は同じである。

 源田は次男で、幼少時は小柄で運動が得意ではなかったが、身体は頑丈だった。柴田は長男で、幼少時は身体が小さく、ひ弱な感じで、軽度の言語障害があった。

 大正十年、二人とも海軍兵学校(五二期)に入学するが、大正十三年七月二十四日、卒業時の成績は、二三六名中、源田が十七番、柴田が四十六番だった。

 源田は昭和四年十二月第一九期飛行学生を戦闘機専修として首席で卒業、恩賜の銀時計を拝受した。昭和十二年海軍大学校甲種学生(三五期)を次席で卒業。

 柴田は昭和三年十二月第一八期飛行学生を戦闘機専修として卒業。昭和九年第四期高等科飛行学生を次席で卒業。海軍大学校は卒業していない。

 源田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十五年十一月中佐、昭和十九年十月大佐。

 柴田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十六年十月中佐、昭和十九年十月大佐。

 昭和八年夏、海軍で航空戦技が行われた。航空戦技は、個別の航空機の操縦者が持つ戦闘技術のことで、航空戦の戦術にも当然重要な要素となる。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の「第一章・ミッドウェー大敗の実質的最大の責任者は誰か」所収の「第三節・第二の責任者は山本五十六大将である」の中で、柴田武雄は、この航空戦技について、次のように述べている(要旨抜粋)。

 雷撃は、例によって、目標艦にぶっつかるほど接近して魚雷を発射するので、いつものとおり全部命中(戦技では艦底通過)である。

 その時、若い士官の間から、「こんな成績を実戦でも上げることが出来ると思ったら大間違いである。もっと実践的にやらないと大変なことになる。堂々と意見を発表すべきである」という気運が盛り上がった。

 その急先鋒が、雷撃機分隊長・日高実保大尉(海兵五〇・殉職・中佐)だった。

 海軍航空本部技術部長・山本五十六少将ら、関係幹部が出席して、横須賀航空隊で行われたこの航空戦技の研究会で、日高大尉が意見を発表した。意見の要旨は次の通り・

 「毎年航空戦技で、雷撃機隊が目標艦にぶっつかるほど接近して発射するので、いつもほとんど全部命中という成績を上げているが、実戦ではこんなことはとてもできない」

 「いや、文字通り艦底を通過するだけで無効になるのが相当あるだろう。いや、その前に、途中で敵戦闘機に撃墜されるものが多数出るだろうし敵の防御砲銃火によって撃墜されるものも相当あって、例年戦技でやっているように敵艦にぶつかるまでに接近しようとするならば、全部撃墜されてゼロになる可能性もある」

 「そこで、敵戦闘機が接近してきて、あと数秒で撃墜されるかもしれないというのに、のうのうと(いや勇敢に)敵艦に接近を続けるよりは、たとえ多少距離が遠くても魚雷を発射するを有利とする場合がる」

 「しかし、発射距離が延びれば、敵の回避が容易であるということと相まって、当然命中率が低下する」

 「ここに、実戦場において発射前の被害を最小限にとどめ、多少の遠距離からでも命中率を上げるための対策、すなわち、発射法(高高度高速発射法および、それに適応するような魚雷の発明、改善等)や、雷撃用測距儀や射点測定器等の兵器の発明や、実戦的な訓練法等を、抜本的に研究する必要がある」。

 以上のように、日高実保大尉は意見を発表したのだ。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

543.源田実海軍大佐(3)柴田武雄は、この著書「源田実論」で全般に渡り源田実を批判した

2016年08月19日 | 源田実海軍大佐
 この海軍の定期異動について、著者の源田実は次のように述べている。

 旧海軍の方式では、毎年、根こそぎ人の組み合わせが変わるので、チームが解体せられ、新人を持って新しいチームを作らねばならない。

 以心伝心を重要視する戦闘機パイロットは、この点、はなはだ不便だった。戦闘機の編隊各機相互の支援協力は、空中戦闘上最大の要点だった。

 従って、源田実中尉は、自分が転勤する場合、前年度に自分の列機として使った下士官パイロットを連れて転勤したことが数回あった。

 しかし、反面、次の様な大きな利点もある。指揮官たる上司も部下たる下僚も、共に人間である。従って、合性というものがある。個人の性格の相異が、この合性に大きく影響する。

 組織の上の鉄の規律で縛られているから、一応服従はするものの、どうしても心底から、尊敬の念を持ち得ないような指揮官も上司もいる。

 その人が個人的にどうということはなくても、いわゆる、虫の好かない人間がいることは事実である。源田中尉自身にもそんな経験があるし、また、源田中尉の下の者で、上司たる源田中尉に対して、同様な感情を抱いた者もいる。

 こんな状態で、上司と部下との関係を、数年間も続けて行くことは、上司はともかく、下にいる者にとっては、たまらないことである。

 こんな場合、「どんなに嫌で苦しくても、一年間の我慢で足りる」となれば、部下としても辛抱し易く、下手をすれば、せっかく伸びる英才を腰折れにさせるようなこともなくて済むのである。

 昭和七年、霞ヶ浦航空隊操縦教官・源田実大尉は、上海に派遣された。第一次上海事変における二月二十二日の、空中戦闘の模様を調査し、報告するためであった。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)第三章<源田とはこういう人間だ―その奇怪な性格と能力―>によると、この時のことを、著者の柴田武雄は、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 この空中戦闘は、航空母艦「加賀」の小谷進大尉率いる攻撃機隊三機と、生田乃木次大尉率いる戦闘機隊三機とが協力して、アメリカ軍、ロバート・ショートの操縦するボーイング戦闘機を撃墜したものだった。

 帰って来た源田大尉は、霞ヶ浦航空隊の士官室で、得意のゼスチャーで、模型飛行機をあやつりながら、空中戦闘の模様を説明した。

 著者の柴田武雄は当時、源田大尉と同じく、霞ヶ浦航空隊の操縦教官だった。柴田大尉も源田大尉の説明を聞いていたが、大して上手ではないと思った。

 源田大尉の説明が終わり、司令、教官をはじめ、学生たちがぞろぞろ士官室を出始めた。ところが、不思議な現象が起きた。

 学生の集団の中から、異口同音に、“源田さんは偉い”という、感極まったような言葉が、一斉に出て、ため息のようなものが混じって、異様な雰囲気を醸成した。

 海軍兵学校時代から哲学や宗教に興味を持ち、研究し、行(ぎょう)のようなこともやっていた柴田大尉は、次の様に思った。

 「一体これはどういう訳だ。ボーイングを撃墜したのは源田ではないし、たとえ源田の説明が学生たちには大変上手に聞こえたとしても、“源田さんは偉い”という言葉は、一体どこから出るのだ」。

 そして、柴田大尉は、源田には不思議な力(一種の魔力)があるのだ、ということが、ハッキリわかった。魔力とは、その人の持っている純粋な力とはほとんど無関係なものに、意識的または無意識裡に転換して、人を感服・敬服させるような力である。

 たとえば源田大尉の話術が相当優れたものであるとしても、それそのものをもって人を純粋に感服させるものではなく、それらとはほとんど無関係な、軍人としての(あるいは人間としての)偉さに転換して、人を敬服させるような不思議な力(一種の欺瞞力、その背景には、俺は偉いんだと思っている強い信念力等がある)を意味する。

 驚くべきことに、柴田武雄は、この著書「源田実論」で全般に渡り源田実を批判した。中には、批判を通り越して、悪口、誹謗中傷とも、いえる激しく辛辣な論調で、詳細に記している。

 勿論、これには、相当の理由があるのだが、基本的には、ともに海軍パイロットとしての道を歩みながら、その航空戦術思想の違いであった。さらに、戦術思想のみでなく、日常的な思考、物事のとらえ方まで、異なっていた。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

542.源田実海軍大佐(2)源田と柴田は、空中戦闘思想の相異から深く対立するようになる

2016年08月12日 | 源田実海軍大佐
 源田実の著書は、「海軍航空隊始末記・発進編」(文藝春秋新社)、新版「海軍航空隊始末記、戦闘篇」(文藝春秋新社)、「指揮官 人間掌握の秘訣」(時事通信社)、「真珠湾作戦回顧録」(読売新聞社)、「源田実 語録」(善本社)、「統率力 源田実の経営戦略」(読売新聞社)、「敗中勝機を識る」(善本社)、「風鳴り止まず」(サンケイ出版)、「海軍航空隊 発進」(文春文庫)などがある。

 「海軍航空隊 発進」(源田実・文春文庫)によると、広島県広島市水主町の県立病院の裏には、立派な庭園があった。庭園の中央には大きな池があった。

 海軍兵学校合格通知を受けた直後の、大正十年七月の初め、源田実は友人と二人で、この池のまわりを歩きながら自分の将来の道について考えた。

 海軍兵学校を志したのは小学生時代からであったが、いよいよ海軍に入るとなると、源田実は「何をやったらよいであろうか」と次の選定の問題にぶつかった。

 現実問題としては、何もこの時期に決定する必要はなかった。海軍兵学校に入ってからでもよいし、海軍兵学校を卒業後、遠洋航海を済ませ、海上勤務の実際に携わってからの方がむしろよいだろう。

 この時期、二十歳から二十五歳位の成人の域では自分の希望する職業に適しているか、あるいは思いもかけなかった方向に自分の適性を見出すかもしれない。

 海軍兵学校入校前の、いわゆるティーン・エィジャーの間は、正確なことは判らない。しかし、当時の源田には、そんな思慮はなかった。

 “速やかに方針を定め、その方針に従って、驀進する”という方法が、最も効果的であると源田は考えていたので、海軍に入ってからの専門について深く考えた。
 
「海軍に入りたい」という熱意は強いものだった。「海軍がダメなら陸軍とか、高等学校を受ける」あるいは「今年駄目でも、来年がある」という代案は源田には全くなかった。

 ほのかに頭の一角にあった考えは「もし駄目だったら、同文書院にでも行こうか」というようなものだった。源田の兄弟は、ほとんど高等学校から大学という途を歩いている。

 従って、源田がそういう途を希望しても、源田の父は、そうしてくれただろう。だが、源田は海軍兵学校受験を一本勝負として取り組んだ。「もし駄目なら、大陸にでも行こう」という考えだった。

 源田は病院の裏の大きな庭園で池の周りを歩きながら、ふと頭に浮かんだことがあった。イギリスから来た飛行将校の一群が、霞ヶ浦の海軍飛行場で、日本海軍の飛行将校達に、操縦教育をやっている、ということだった。

 新聞を通じて、源田の脳裏に残っていたのである。このことが電光のように源田の頭を走ると同時に、「そうだ、飛行機だ、飛行機にしよう」「これから最も将来性のあるのは飛行機だ」という着想と決心が即座にまとまった。

 源田が実際に飛行機関係に入るのは、それから七年後であるが、その間、この時決心して定めた目標を、ただの一度も変更したことは無かった。
 
 昭和五年二月源田実中尉は、空母「赤城」乗組になった。その前の昭和五年一月、源田実と海兵同期の柴田武雄中尉(海兵五二・大佐)が空母「加賀」乗組みになっている。

 「赤城」の源田中尉と、「加賀」の柴田中尉、二人はともに若き有為な戦闘機乗りだった。この二人にとって、向こう一年間に及ぶ母艦生活は、彼らの人生でも最も充実した楽しい時期であった。
 
 だが、その後、この二人、源田と柴田は、空中戦闘思想の相異から深く対立するようになる。

 空母「加賀」には、戦闘機操縦の達人と言われた、先任分隊士・岡村基春(おかむら・もとはる)大尉(高知・海兵五〇・岡村サーカス・試験飛行中<左手の中指・薬指・小指>を根元から切断・第一二航空隊飛行隊長・中佐・第三航空隊司令第二〇二海軍航空隊司令・第五〇二海軍航空隊司令・神ノ池航空隊司令・大佐・第三四一航空隊司令・上層部に特攻を進言・特攻兵器桜花部隊である第七二一海軍航空隊(神雷部隊)司令・戦後鉄道自殺)がいた。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によれば、この岡村大尉を一番機に、霞ヶ浦の操縦学生課程で一番と二番の成績を分かち合った、柴田武雄中尉と井上勤中尉(神奈川・海兵五二・少佐)を列機とした豪華メンバーの士官小隊は空母「加賀」の華だった。

 息の合ったこの三人は、普段の飛行訓練中はもちろん、戦技などでも常に行動を共にして、その水際立った編隊飛行ぶりに磨きをかけ、世に「岡村サーカス」の別名で呼ばれた、編隊特殊飛行の基礎を作り上げた。

 昭和五年十二月一日、海軍の定期異動が行われた。「海軍航空隊発進」(源田実・文春文庫)によると、当時空母「赤城」飛行隊の戦闘機パイロットであった源田実中尉も横須賀航空隊附に移動した。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

541.源田実海軍大佐(1)大楠公や上杉謙信公は、横須賀航空隊の高等科学生を卒業していませんね

2016年08月05日 | 源田実海軍大佐
 昭和七年、霞ヶ浦航空隊で源田大尉は操縦教官をしていた。「海軍航空隊、発進」(源田実・文春文庫)によると、海軍将校が例外なく受験する高等科学生の試験を、源田実大尉は受けなかった。

 源田大尉は戦闘機操縦者(戦前はパイロットという名称は使われなかった)として大成することのみを考えていた。

 当時、霞ヶ浦航空隊の飛行長は千田貞敏(せんだ・さだとし)中佐(鹿児島・海兵四〇期・百四十一番・霞ヶ浦航空隊飛行長・給油艦「神威」副長・舞鶴航空隊司令・大佐・大村航空隊司令・第一三航空隊司令・航空本部出仕・逓信省航空局技術部乗員課長・鹿児島航空隊司令・霞ヶ浦航空隊司令・少将・第一四連合航空隊司令官・第二八根拠地隊司令官・戦死・中将・正四位・勲二等)だった。

 ある日、飛行長・千田中佐は操縦教官・源田大尉を呼んだ。千田中佐は源田大尉に高等科学生を受けるように説得するためだった。

 千田中佐「君はどうして、横須賀航空隊の高等科学生を受けないのだ」。

 源田大尉「受ける必要はないと思います」。

 千田中佐「いや、受けたほうが良い。ぜひ受けたまえ」。

 源田大尉「横空の高等科学生は、一体、何を学ぶのですか」。

 千田中佐「それは君、判り切ったことではないか。戦略戦術の勉強だよ」。

 源田大尉「ハア―、そうですか。では聞きますが、大楠公や上杉謙信公などという人は、大用兵家ではありませんか」。

 千田中佐「それは君、もちろん大兵術家だ。それがどうしたというのだ」。

 源田大尉「大楠公や上杉謙信公は、横須賀航空隊の高等科学生を卒業していませんね」。

 千田中佐「判ったよ。もうよろしい」。

 結局、源田大尉は、高等科学生を受験しなかった。

 <源田実(げんだ・みのる)海軍大佐プロフィル>
明治三十七年八月十六日、広島県山県郡加計町(現・安芸太田町)出身。源田春七(酒造・農業)の次男。
大正十年(十七歳)三月広島第一中学校(現・県立国泰寺高校)卒業。パイロットに憧れて、八月二十六日海軍兵学校入校。
大正十三年(二十歳)七月二十四日海軍兵学校(五二期)卒業(成績は二三六名中一七番)、少尉候補生。
大正十四年(二十一歳)十二月海軍少尉。
昭和二年(二十三歳)四月砲術学校普通科卒業。七月水雷学校普通科卒業、装甲巡洋艦「出雲」乗組。十二月中尉。
昭和三年(二十四歳)十二月霞ヶ浦航空隊入隊、飛行学生。
昭和四年(二十五歳)十二月第一九期飛行学生修了(首席で恩賜の銀時計拝受)、横須賀航空隊附。
昭和五年(二十六歳)二月空母「赤城」乗組。十二月大尉、横須賀航空隊附。
昭和六年(二十七歳)六月空母「赤城」乗組。十二月霞ヶ浦航空隊分隊長。
昭和七年(二十八歳)十二月横須賀海軍航空隊附。
昭和八年(二十九歳)十二月空母「龍驤」分隊長(兼横須賀海軍航空隊附教官)。
昭和九年(三十歳)十一月横須賀海軍航空隊分隊長。源田大尉率いる三機編隊による曲技飛行を奉納機式典上空など日本各地で行い、「源田サーカス」と呼ばれた。
昭和十年(三十一歳)「単座機による急降下爆撃の教育訓練に就いて」で昭和九年度恩賜研学資金受賞。十月三十一日海軍大学校(甲種学生)入学。
昭和十一年(三十二歳)十一月少佐、第二連合航空隊参謀。
昭和十二年(三十三歳)七月海軍大学校(三五期・次席)卒業、第二連合航空隊参謀。九月上海勤務。十二月南京勤務、横須賀海軍航空隊教官。
昭和十三年(三十四歳)一月横須賀海軍航空隊飛行隊長兼教官。四月兼海軍砲術学校教官兼海軍通信学校教官兼海軍航海学校教官。十二月英国在勤帝国大使館附武官補佐官兼海軍航空本部造兵監督官。
昭和十五年(三十六歳)九月命帰朝。十一月第一航空戦隊参謀(空母「加賀」乗組)、中佐。
昭和十六年(三十七歳)四月第一航空艦隊甲航空参謀。空母「赤城」乗組。十二月八日真珠湾攻撃。
昭和十七年(三十八歳)六月ミッドウェー海戦、乗組空母「赤城」など空母四隻撃沈される。七月空母「瑞鶴」飛行長。十月軍令部出仕、臨時第一一航空艦隊参謀。十二月軍令部第一部第一課部員兼海軍技術会議銀。大本営海軍参謀。
昭和十九年(四十歳)七月陸海軍航空技術委員会委員。八月兼陸軍参謀本部部員、大本営陸軍参謀。十月大佐。
昭和二十年(四十一歳)一月第三四三海軍航空隊(松山)司令兼副長。六月兼第三五二海軍航空隊司令。八月十五日終戦。十月佐世保鎮守府附。十一月予備役。
昭和二十一年十二月(四十二歳)極東軍事裁判で第二連合航空隊参謀として爆撃に関する基本方針(支那事変)、及び第一航空艦隊参謀として真珠湾攻撃の立案と実施について供述。川南工業入社。
昭和二十八年(四十九歳)六月東洋装備株式会社取締役社長。
昭和二十九年(五十歳)防衛庁入庁、航空幕僚監部装備部長。
昭和三十年(五十一歳)十二月航空自衛隊航空団司令。
昭和三十一年(五十二歳)七月臨時航空訓練部長、空将。ジェット戦闘機の操縦資格取得。
昭和三十二年(五十三歳)八月航空集団司令。
昭和三十三年(五十四歳)八月航空総隊司令。
昭和三十四年(五十五歳)七月十八日第三代航空幕僚長。八月FX機種選定の調査団団長として渡米。十二月第三十三国会に委員外の出席者として出席。
昭和三十七年(五十八歳)レジオン・オブ・メリット勲章(米国)受章。四月航空幕僚長辞任、退官(空将)。七月第六回参議院通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補、第五位で当選。以後四期二十四年(~昭和六十一年七月)参議院議員を務める。日本飛行連盟名誉会長就任。
昭和三十八年(五十九歳)十一月赤十字飛行隊初代隊長(~昭和六十一年三月)。
昭和四十三年(六十四歳)自民党政調会国防部会長。
昭和四十九年(七十歳)勲二等瑞宝章受章。
昭和五十六年(七十七歳)従三位、勲二等旭日重光章受章。
昭和五十九年(八十歳)裁判官弾劾裁判所裁判長。
昭和六十三年(八十四歳)七月永年在職議員表彰、引退。
平成元年八月十五日松山市の病院で脳血栓のため死去。享年八十四歳。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

540.永田鉄山陸軍中将(40)石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った

2016年07月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 そして私は「閣下とは今日初めて御会いしたのですが、私は以前から考えていた通り、国体観念の乏しい人だから、軍務局長をお罷めになったらよろしいでしょう」と言うと、これに対しては何も言われませんでした。

 それからしばらく話していると課員が入って来て話が切れましたが、永田閣下は「兎に角今日初めて君に会ったのでゆっくり話す訳には行かぬから、この次の機会に会って話すか、又は手紙で往復して話をしよう」と言われました。

 私は「それでは今度上京した時に御会いします」と言って、最後に「あなたは十一月事件に関係して、而もその責任者として処理するに付いて不届きなやり方じゃないか」と言うと、永田閣下は、カラカラと笑って、「あれは私に関係も責任もない、その様な事をよく言う人があるので、会ってよく話をしている。君もその様に思っているのなら、今度会った時によく話をする」と言われ、午後五時頃別れました。

 以上が、相沢三郎中佐が岡田予審官に話した内容である。

 「片倉参謀の証言・叛乱と鎮圧」(片倉衷・芙蓉書房)によると、昭和十年七月末、当時陸軍省軍務局軍事課満州班に勤務していた片倉衷少佐は、永田軍務局長に「大分閣下を狙っている奴がいますので、護衛を常時つけられたら如何ですか」と言った。

 すると、永田軍務局長は「片倉、人間死ぬときは死ぬ。殺される時はやられる。すべては運命だ。私は運命に従う。俺は覚悟しているよ」とはっきり答えた。

 昭和十年八月十二日午前九時四十五分頃、軍務局長・永田鉄山少将は、陸軍省の局長室で、机に座り、東京憲兵隊長・新見英夫(にいみ・ひでお)大佐(山口・陸士一九・憲兵大佐・東京憲兵隊長・相沢事件・京都憲兵隊長・予備役)の所管事務報告を受けようとしていた。

 新見大佐の側には、兵務課長・山田長三郎(やまだ・さぶろう)大佐(宮城・陸士二〇・陸大二八・砲兵大佐・野砲兵第二二連隊長・陸軍省軍務局兵務課長・相沢事件・陸軍兵器本廠附・自決)が席についていた。

 山田大佐が隣室の軍事課長・橋本群(はしもと・ぐん)大佐(広島・陸士二〇・砲工高一八恩賜・陸大二八恩賜・参謀本部動員課長・陸軍省軍務局軍事課長・相沢事件・鎮海湾要塞司令官・少将・第一軍参謀長・参謀本部第一部長・中将)呼びに席を立って隣室に行った。

 その瞬間、眼光の鋭い中年将校が、抜身の軍刀を手にして迫って来た。新見大佐は、初めは、その男が何か冗談を仕掛けてきたように思われたので、それで笑おうとした。

 だが、次の瞬間、その中年将校は、永田軍務局長に近づき、「天誅!」と声をあげ、逃げる永田軍務局長の右肩あたりに白刃をサッときらめかせた。袈裟がけに切りつけたのである。

 新見大佐は、阻止するためその中年将校の腰あたりに抱き付いたが、次の瞬間斬られて尻餅を突き意識を失った。

 逃げる永田軍務局長の背後からブスリと軍刀を突き刺し、よろよろ逃げるが、遂に仰向けにバッタリ倒れた永田軍務局長の頭部から頸動脈にかけて、中年将校はもう一太刀打ち下ろした。とどめを刺したのである。永田軍務局長は息絶えた。

 この中年将校は、先月永田軍務局長に面会した、あの相沢三郎中佐だった。相沢中佐は憲兵隊に拘束された。

 軍務局長・永田鉄山少将は、享年五十一歳だった。死後陸軍中将に昇進した。永田鉄山は東條英機より大局を見る眼があり、“カミソリ東條”より、なおよく切れた。

 片倉衷は、永田鉄山と石原莞爾をコンビにして、国軍の刷新強化を図ろうとしていたのだが、石原莞爾は、事務系の人として永田鉄山を余り高く評価しなかった。

 永田鉄山が斬殺された時も、片倉衷に、石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った。そう言われて、片倉衷は面白くなかった。

 戦後、片倉衷は、永田鉄山、石原莞爾の二人が一緒に仕事を始めていれば、支那事変は拡大せず、さらには大東亜戦争も防止し得たのではないか。日本の命運も違ったものになっていただろうと述べている。

 この相沢事件は、翌年の二・二六事件の引き鉄となった。相沢三郎中佐は、昭和十一年五月七日第一師団軍法会議で死刑の判決を受け、七月三日、銃殺刑に処された。

 (今回で「永田鉄山陸軍中将」は終わりです。次回からは「源田実海軍大佐」が始まります)



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

539.永田鉄山陸軍中将(39)気違いみたいな奴だが、それにしては、トボけた気違いだ!

2016年07月22日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、相沢中佐は永田少将のそういう様子にはかまわず、別な方向に話をもって行った。「では、閣下は、尊皇絶対の精神を、どうお考えですか」と切り出し、元の連隊長の名前を持ち出し、その連隊長の尊皇絶対の精神について、聞き取りにくい仙台訛りで、くどくどとならべたてた。

 永田少将が耳を傾けてみると、別に傾聴に価する所説でも何でもなく、ごく素朴な尊皇精神を回りくどく言っているに過ぎなかった。

 永田少将は相沢中佐の言葉の区切りを待って、「初めて会ったので、君の思想はよく分らんが、もし言う事があれば、手紙か、今度上京された時、くわしく聞こう」と言って、立ち上がった。

 それにつれて、相沢中佐も腰を上げたが、次の様に言った。「では、もう一つだけ最後に伺います。十一月事件は、あれはどうして起こったのですか。辻大尉が士官候補生をスパイに使って、でっち上げた芝居に過ぎませんが。しかし、辻の背後で糸を引いていたのは、世間では閣下だと言っておりますが」。

 相沢中佐の余りにも飾り気のない直截な聞き方が、とぼけた滑稽味をおびていたので、永田少将は声をたてて笑って、次の様に答えた。

 「世間はどう見てもかまわん。自分はあれについては何も知らん、責任もない……それにあれはもう済んだことだし、何もいまさら……どうでもいいじゃないか」。

 相沢中佐は、まだ何か物足りない様子だったが、それでも丁寧に敬礼をして、局長室を出て行った。

 永田少将は、相沢中佐が出て行ったあとの扉を見つめていたが、そのうちに笑い出した。どうにもおかしくて、我慢できないといった笑いだった。「気違いみたいな奴だが、それにしては、トボけた気違いだ!」。

 だが、一瞬後には、永田少将は生真面目な顔に戻った。「あいつらは俺を憎んでいる。何もかも俺の仕業で、俺が元凶だと思い込んでいる」。

 永田少将はじっと宙を見つめて、思いを凝らした。すると刺客が四方八方から自分一人を狙っているような感じに襲われた。

 永田少将は、部下の幕僚に、「相沢によく言って聞かせてやったら、おとなしく帰ったよ」と言った。

 一方、「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、昭和十年七月十九日の、陸軍省軍務局長・永田鉄山少将と相沢三郎中佐のやり取りを、相沢公判における岡田予審官による第三回被告人訊問調書で、相沢中佐自身は次のように述べている。

 (上略)それから私は改まって「一寸申し上げます」と言って「閣下はこの重大時局に軍務局長としては誠に不適任である。軍務局長は大臣の唯一の補佐官であるのに、その補佐が悪いから、何卒自決されたらよろしかろうと思います」と申しました。

 すると永田閣下は腑に落ちない様で「一体君は今日初めて会うのだが、君の心持ちもよく判らないが、一体自決とはどういう事か」と聞かれたので、「早速辞職しなさい」と言ったように思います。

 すると永田閣下が「君のように注意してくれるのは非常に有り難いが、自分は誠心誠意やっているが、もとより修養が足りないので、力の及ばないところもあるが、私が誠心誠意、大臣に申し上げても採用にならない事は仕方がない」と言われたので、これは誰でも言う事でありますから、この人は普通一般の人だと思いました。

 そして私は「あなたの御考えは下剋上である」と言いますと、永田閣下は、「君の言う事は違う。下剋上というのは下の者が上の者を誣いる事だ」と言われたので、私は「一体大臣は輔弼の重職にあられるもので、その大臣に対して間違った補佐をするのは、これは大御心を間違えて下万民に伝えるのであるから、あなたは下剋上だ」と言いました。

 永田閣下は「話が込み入って来たから腰掛よ」と言われたので、腰を下ろすと「君は私が悪いと言うが、具体的に言え」と言われましたので、そこで私は「真崎大将が交代したというのは間違った補佐である」と申しますと、永田閣下は「人は各々見方があるが、自分は情を以って取り扱わない、理性を以って事をする」と言われた。

 私は「情という事は日本精神の方から言うと真心即ち至情で最も尊いものだが、あなたの言われる情というのは感情の事か」と言いましたところ、永田閣下は返事もせずに「自分は漸新的にこの世の中を改革する」と言われたので、私は「それは良い事だ」と言ってから“至情”ということに就いて説明しました。

 この時私は永田という人は、以前から考えていた通り薄っぺらな人だと思いました。至情という事に就いて村岡中将という人は軍を厳粛に統率された非常に立派な人で至情について確固たる信念をもっておられると感じた事を話すと、永田閣下はそれに対して何も言わずに「自分は罪を憎むが人を憎まない」と言われたので、私は何の事か判らなかったが「私もその様に考えております」と言いました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

538.永田鉄山陸軍中将(38)真崎総監は、大臣や閣下の私情をもって追われたのでありますか

2016年07月15日 | 永田鉄山陸軍中将
 相沢少佐は、昭和六年青森歩兵第五連隊大隊長。昭和七年歩兵第一七連隊附。昭和八年歩兵中佐、福山歩兵第四一連隊附。相沢三郎中佐は皇道派の将校で、剣道四段、銃剣道の達人でもあった。

 昭和十年七月十九日、陸軍省軍務局長・永田鉄山少将に面会した相沢三郎中佐は突然、永田少将に辞職を迫った。「叛乱」(立野信之・ぺりかん社)によると、その時の二人の対談が次の様に記されている。

 局長室で永田少将が引見すると、相沢中佐は突っ立ったまま田舎者の愚直な鄭重さで、義弟の浜野井少佐が世話になった礼を述べた。仙台訛りがひどく聞き取りにくかった。

 「ハマノエ?」。永田少将は、はじめ誰のことか思い当らなかったが、それが慶応大学配属将校の浜野井少佐のことだと分ると、別に取り立てて世話をした覚えもなかったので、「ああ、いや……」と、あいまいに肯き返した。

 相沢中佐は、儀礼的な挨拶がすむと、改まって次の様に言った。

 「閣下、自分は本日、陸軍大臣ならびに軍務局長閣下に辞職を勧告に参りました。自分は、ただそれだけの用事で、福山から出てきたのであります」。

 相変わらず不動の姿勢で、突っ立ったままだった。くぼんだ眼は大きく見開いて、ピカッと薄気味の悪い光をおびていた。狂信者によくある眼である。

 「まあ、何か……立ったままでは固苦しくていかんから、お掛けなさい」。永田少将は椅子を差し出した。

 「失礼します」。相沢中佐はしゃちこ張った礼をして、傍らの椅子へ腰をおろした。相沢中佐は、腰かけても、状態をまっすぐにのばし、まじろぎもせずに永田少将を見つめている。

 「どういう理由で、陸軍大臣と私が辞職をしなければならんのですか」。永田少将はキョトンとした顔を相沢中佐に向けて、相変わらずものやわらかな態度できいた。永田少将も相沢中佐に負けないくらい色が黒かった。

 「理由を申し上げます」と、相沢中佐は切り出して、「最近の皇軍は実に憂うべき状態にあります」と言って次のような内容を永田少将に論じた(要旨)。

 「天皇機関説問題を徹底的にやり尊王絶対主義を皇軍に叩き込まなければならない。機関説とは何だと農民に教えてやらねばならない。日清戦争のとき明治天皇は幼年学校に対して天皇絶対の思想をお諭しになった。石原大佐が満州で活躍したのも、この幼年学校の影響だ」

 「私も郷里仙台で石原大佐が民衆指導に尽力されているのに感激した。今の士官学校教育は徹底していない。軍人の堕落は士官学校教育が悪い。しかるに軍当局は、腐敗した政府や外部の旧勢力と結託して皇軍を紊乱させている」

 「そのいい例が、真崎教育総監更迭問題だ。なぜ真崎総監を勇退させたか。真崎閣下は至誠尽忠の人だ。陸軍大臣閣下は軍の統制だという。真崎閣下を無理やり勇退させるのが軍の統制なのか。皇軍を腐敗堕落させる元を大臣自ら作っている。それゆえ、陸軍大臣ならびに大臣補佐の地位にある閣下の辞職を勧告する」。

 以上が相沢中佐の話の要旨だが、その理論はあっちへ飛び、こっちに飛び、棒を置きならべたようで、その間に何の脈路もないようでいて、不思議に一貫した強い意志的なものが感じられた。

 だが、相沢中佐の理屈は、皇道派の連中が口にしたり、怪文書に書いたりしている理論を、舌足らずに述べているだけだった。いささか滑稽でもあった。

 永田少将は相沢中佐の話が終わったのを見て、さとすように、「君の忠告は有難いが……、自分も誠心誠意大臣を補佐しているんです。決していい加減な気持ちでやっているんじゃない……君の御意見は、大臣に伝えるが、しかし、大臣がそれを聞き入れられるかどうかわからない」と言った。

 「それでは伺いますが、真崎総監は、なぜ勇退させられたのでありますか」。相沢中佐は永田少将からキラリと眼を離さないで言った。

 「さあ、それは今ここでは言えない。新聞に理由みたいなものが出ていたが、もちろんあれが全てではない。ただ僕がここで言えることは……人事は理性をもって行い、情で行うべきものでないということです。それが僕がここで言える総てです」と永田少将はいくぶん迷惑そうに答えた。

 「情とは、わたくしの情でありますか……それでは真崎総監は、大臣や閣下の私情をもって追われたのでありますか」と相沢中佐は生真面目な顔で聞き返した。

 「私情ではない…だから僕は、人事は情では行わない、と言ったはずだ」。永田少将の顔にはイライラした表情が浮かんだ。もう話は分かったから、いい加減に打ち切りたいという態度がありありと見えた。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

537.永田鉄山陸軍中将(37)軍事参議官会同は、林陸軍大臣、永田軍務局長らの勝利に終わった

2016年07月08日 | 永田鉄山陸軍中将
 荒木大将「具体的に言えば永田は一日も現役にとどまっておられないと思えばこそ、抽象的に言ったのである。よろしい、では、陸軍大臣がご希望とあれば申し上げよう」(荒木大将は、永田の三月事件における策謀を述べた)。

 真崎大将「これを見てもらいたい」(真崎大将は一握りの書類を持ち出した。当時永田軍事課長が小磯軍務局長に頼まれて作成したクーデタープランだった)。

 真崎大将「これは貴官の執筆と思うが、間違いはないか」(末席に控えていた永田軍務局長を呼び寄せて見せた)。

 永田軍務局長「その通りであります」。

 真崎大将「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇に葬られているが、かような大それた計画を当時の軍事課長自ら執筆起案しながら時の当局者はこれを不問に付している。軍規の頽廃これよりも甚だしいものがあろうか。その者をこともあろうに陸軍軍政の中枢部たる軍務局長の席につかせているとは何事であるか」。

 渡辺教育総監「只今の書類はたしかに穏やかならざることが書いてある。書いた者が永田であることも間違いない。けれども、これは永田個人の作案で、陸軍省として責任を負うべき書類ではないように思うが、その点はいかがなものか」。

 真崎大将「普通の書類とは違う非合法なクーデター計画書だ。大臣、次官の決裁印がなくとも実質は立派な公文書である」。

 渡辺教育総監「真崎参議官の見解では、公文書、つまり軍の機密文書だとの御意見である。列席の諸官は果たしてどう認められるか」。

 荒木大将「念を押すまでもなく、これは立派な軍の機密書類である」。

 渡辺教育総監「よろしい。一歩譲って機密公文書と認めよう。それなら、軍の機密文書を一参議官が持っておられるのは、どういう次第であるか。機密文書が外部に漏れたとすれば軍機漏えいである。真崎参議官はどうしてこれを持参されたか、御返答によっては所用の手続きをとらねばならぬ」。

 機密文書を勝手に持ち出せば軍法会議ものであった。さすがの真崎大将も巻き返しができず、荒木大将と共に、絶句し、沈黙した。

 阿部信行大将が「この書類に関する限り、この辺で打ち切り、同時に陸軍大臣の手元に返還されては如何なものであるか」と、とりなして、真崎大将も荒木大将もほっとして引き下がった。

 この様にして、軍事参議官会同は、林陸軍大臣、永田軍務局長らの勝利に終わった。だが、これは一応の勝利であった。この後に、さらなる重大なる危機が迫っていたのである。

 ところで、真崎甚三郎教育総監罷免の第一は永田鉄山軍務局長であるということが、通説のように伝わっている。だが、永田軍務局長が真崎教育総監罷免の張本人であることを否定するものとして、昭和のフィクサー・矢次一夫(佐賀・統制派の幕僚池田純久と組んで国策研究会同志会を創立・国策研究会として戦時国策の立案に従事・大政翼賛会参与・戦後岸信介首相の顧問)が証言している。

 「昭和動乱私史」(矢次一夫・経済往来社)の中で、矢次は次のように記している。

 「私もまた、真崎、柳川と共に佐賀県出身でいろいろ関係もあり、この説をおかしいとし、随分調べてみたのだが、その限りでも、永田が真崎を追い出すべく策動した、という確証は一つも見つからぬのである」

 「岡村寧次のような荒木、真崎とも親しく、永田とも親友で、斬られたあと葬儀万端の世話をした人や、同じ時代に参謀本部の課長をして永田と交渉の多かった今村均、河辺正三等、及び永田時代のたくさんの後輩軍人たちの話を総合しても、全て否定する人物ばかりであることだ」

 「軍務局長という地位と権限には、省部の人事、特に将官人事に対していささかの発言権も、したがって発言力も無く、それに永田は典型的な合理主義者で軍秩序維持主義者であり、だからこうした策動をする人ではないと異口同音している」。

 昭和十年七月十九日、軍事参議官会同が開かれてから、四日後の午後のことである。陸軍省軍務局長・永田鉄山少将は、一人の見知らぬ中年将校の訪問を受けた。

 中年将校は色が黒く、頬がこけていて頬骨が高く、目はくぼんでいて、口が大きかった。容貌魁偉な男であった。福山の連隊附中佐で、相沢三郎と名乗った。陸軍大臣秘書官・有末清三少佐の紹介だった。

 相沢三郎中佐は、宮城県仙台市出身で、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校卒(二二期・卒業成績は歩兵科五〇九名中九十五番)。明治四十三年歩兵少尉任官、歩兵第四連隊附。陸軍戸山学校卒(卒業成績は一〇五名中三番)。大正二年歩兵中尉。

 大正七年台湾歩兵第一連隊附。大正九年歩兵大尉、陸軍戸山学校剣道教官。大正十四年陸軍士官学校剣道教官。大正十五年歩兵第一三連隊中隊長。昭和二年歩兵少佐、歩兵第一連隊附、日本体育会体操学校剣道教官(配属将校)。





コメント
この記事をはてなブックマークに追加

536.永田鉄山陸軍中将(36)永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか!

2016年07月01日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和十年七月十日林陸軍大臣は真崎教育総監と再び会談をして、八月人事の話し合いを行ったが、真崎教育総監は林陸軍大臣の人事案に同意しなかった。林陸軍大臣と真崎教育総監のやり取りは次の通り(要旨・概略)。

 林陸軍大臣「君がどうしても不同意というなら、軍の統制の必要から、この際、部内の総意に従って、教育総監を勇退してもらいたい。そもそも君が派閥の中心になって軍の統制を乱している」。

 真崎教育総監「君は統制、統制というが、一体軍をどう統制するのか。それに俺が派閥を作っているというが、何を指してそう言うのか」。

 林陸軍大臣「総監部に七田大佐あり、参謀本部に牟田口大佐あり、補任課長に小藤大佐あり……そういう部内の輿論(よろん)だ」(しどろもどろの言い方だった)。

 真崎教育総監「何を言うか。七田はおれが総監就任前からの第二課長だ。実はあまり役に立たんから、代えようとさえ思っている位だ。牟田口は永田局長が推薦した男だ。小藤に至っては顔も知らん……秦中将を退職させて、三月事件に関係の深い小磯中将を航空本部長に栄転させるようなことは、正に道理転倒で、俺はこの案に賛成し難い。一体そういう輿論作成の根源は誰だ」。

 林陸軍大臣「実は……これは南大将と永田軍務局長以下の幕僚たちの主張で、自分としては統制上どうにも致し方のない案なのだ」。

 それを聞いた真崎教育総監は、青白く、苦々しい表情をして、「とにかく、この案には同意できない」と、林陸軍大臣の人事案を一蹴した。

 翌日、七月十一日、閑院宮参謀総長、林陸軍大臣、真崎教育総監による、三長官会議が開かれたが、真崎教育総監が案の討議に入ることを拒否したので、結論は出なかった。

 七月十五日、二回目の三長官会議が開かれた。この会議では、真崎教育総監が「今次の異動は不純な動機でなされたものだ」「大元帥陛下に直隷する教育総監の職をけがすものだ」「永田らの統制派の連中こそ三月事件、十月事件で軍の統制を乱したではないか」などと強硬意見を長々と主張した。

 これに対し、閑院宮参謀総長が「総監は、それでは陸軍大臣の事務を妨害するのか」「この案でゆけば、あるいは何事か起こるかもしれんが、その時はその時で、陸軍大臣にも適切な処置があるだろうから、今回はこの案でいこう」との強い意向を示した。

 これにより、真崎教育総監の罷免が決定した。

 七月十七日、軍事参議官会同が行われた。この軍事参議官会同は、教育総監の更迭があった場合は、恒例として、新任の渡辺錠太郎教育総監と、真崎甚三郎旧教育総監の挨拶程度で開かれるものだった。永田軍務局長も出席していた。

 ところが、この会同では、真崎大将が教育総監罷免の、林陸軍大臣の措置を、長々と非難した。荒木貞夫大将も同様に「統帥権干犯ではないか」と林陸軍大臣を非難した。以下、軍事参議官会同での永田軍務局長に関するやりとりは次の通り(要旨抜粋)。

 林陸軍大臣「教育総監が辞任を承知しない時は、陸軍大臣、参謀総長合議の上、辞任させて差し支えないという結論を得ている」。

 荒木大将「陸軍大臣は軍の統制うんぬんと言われ、真崎大将がその統制を乱したようなお話であるが、それはそもそもどういう事であるか」。

 林陸軍大臣「真崎大将は派閥的行動があり、それが軍の統制上すこぶるおもしろくない影響を与えている」。

 松井石根大将「派閥は確かにある。それは自分もおもしろくないと思っていた」。

 川島義之大将「同感である」。

 真崎大将「派閥とか何とか言われるが、それなら永田軍務局長はどうであるか。永田は宇垣陸相の時三月事件に関与し、陸軍の統制を乱したのみならず、その後の行動は、永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか! こういう者を側近に置いて自分らを責めるのは順逆を誤ってはいないか」。

 渡辺教育総監「只今は永田軍務局長の行動を議題としているのではない。永田君のことはまた別に論議する機会があろう」。

 菱刈隆大将「そうかも知れないが、三月事件は、小耳にはさんだことはあるが、こういう席ではまだ聞いたことがない。ついでに事情を聞いてみてはどうか」。

 真崎大将「陸軍大臣は永田と三月事件の関係は御承知のことと思うが、どうか」。

 林陸軍大臣「荒木前陸軍大臣から何らの引き継ぎも受けていないから分らない」。

 荒木貞夫大将「それでは申し上げよう」(荒木大将は三月事件の概要を話し、それに当時の永田軍事課長が関与していたことを述べた)。

 林陸軍大臣「只今のお話だけでは、永田を辞めさせなければならぬほどの事実が良く了解できない。ことに、それだけ悪いことをしているなら、なぜ、君が陸軍大臣のときに永田を罷免しなかったのか、今頃になってその話を持ち出されることは、頗る迷惑である。また、永田を非難されるが、抽象的な攻撃ばかりだ。具体的な事実を示されたい」。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

535.永田鉄山陸軍中将(35)真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させた

2016年06月24日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、昭和天皇は、天皇機関説に賛同していた。昭和天皇は、侍従武官長・本庄繁(ほんじょう・しげる)大将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・参謀本部付・張作霖顧問・少将・歩兵第四旅団長・在支那公使館附武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・侍従武官長・大将・男爵・功一級・予備役・軍事保護院総裁・枢密顧問官・終戦・戦犯指名・自決・正三位・勲一等)に、次のように意見を述べた。

 「軍の配慮は、自分にとって精神的にも迷惑至極だ。機関説の排撃が、かえって自分を動きのとれないものにするような結果を招く。だから、それについては慎重に考えてもらいたい」

 「私自身は、天皇主権説も天皇機関説も、帰するところは同一であると思っているが、労働条約その他債権問題のような国際関係についての事項は、機関説に従う方が便利ではないかと思う」

 「憲法第四条による『天皇は国民の元首』という言葉は、いうまでもなく機関説である。もし機関説を否定することになれば、憲法そのものを改正しなければならぬ」

 「機関説は皇室の尊厳を汚すという意見は、一応もっとものように聞こえるが、しかし事実は、このようなことを論議することこそ、皇室の尊厳を冒涜するものだ」。

 当時の岡田啓介首相は、この宮中方面の思召しと、軍部を先頭とする機関説排撃―国体明徴運動との板挟みにあって、態度を決しかねていた。

 真崎甚三郎教育総監は、陸軍三長官協議の結果、陸軍の立場を表明する必要があるとして、教育担当である教育総監・真崎甚三郎の名において、天皇機関説排撃の声明書を発表した。

 最終的に、政府は陸軍の要求をのみ、議会終了後に美濃部議員の取調べを警察に指示、美濃部議員の出版物三冊を発禁処分とした。その後、美濃部議員は貴族院議員を辞職した。

 ところが、真崎甚三郎教育総監が天皇機関説排撃の声明書を発表したことが、元老・重臣をはじめ、機関説を盲信する官僚・政治家たちをして、「真崎恐るべし」として、真崎排撃に拍車をかけることになったのである。

 昭和十年八月の異動がやってきた。林大将が陸軍大臣になって以来、昭和九年三月から三回の陸軍定期異動をおこなっているが、人事問題については、ことごとく真崎教育総監の横やりがあった。

 「二・二六事件 第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、林大将は、部内から皇道派分子の一掃をめざしていたが、その都度真崎教育総監の抵抗に遇い、その大半の意図がつぶされていた。また、林大将が何か気に入らないことを言えば、真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させたものである。

 林陸軍大臣は、この八月の異動で思い切った人事案を出した。秦真次第二師団長を待命、柳川平助第一師団長を予備役編入、山岡重厚整備局長を第九師団長、山下奉文軍事調査部長を朝鮮に転出、鈴木率道作戦課長を地方に、堀丈夫航空本部長を第一師団長に移動させるという徹底した皇道派の壊滅案だった。

 林陸軍大臣がこのような思い切った異動案を決意した背景には、天皇機関説問題をはじめとする、真崎教育総監の強硬な姿勢に、宮中も政府も政党も財界も不安を持っていることがあった。

 また、軍事参議官・渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう)大将(愛知・陸士八・陸大一七首席・オランダ公使館附武官・少将・歩兵第二九旅団長・参謀本部第四部長・陸軍大学校兵学教官・中将・陸軍大学校長・第七師団長・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・教育総監・二二六事件で暗殺)の援助があった。

 林陸軍大臣は事前に渡辺大将を訪ねて、この人事案を巡る部内皇道派の猛烈な抵抗を報告し、協議した。

 渡辺大将は、「もはやこの場合は断の一字あるのみ」だと林陸軍大臣を激励した。そして真崎教育総監があくまで反対するなら「その教育総監を解任すべし」と意見を言った。

 林陸軍大臣が今回の異動案を真崎教育総監に内示したところ、はたして真崎教育総監は、「軍事参議官・菱刈隆大将、軍事参議官・松井石根大将、関東軍司令官・南次郎大将、軍事参議官・渡辺錠太郎大将、軍事参議官・阿部信行大将を待命にせよ」と、迫った。

 さらに、「第五師団長小磯国昭中将、第一〇師団長・建川美次中将もクビにしろ」と、真崎教育総監は言い出した。また、「秦真次第二師団長の待命、柳川平助第一師団長の予備役編入には絶対反対」と、言い出した。

 また、この人事案が真崎教育総監の口から皇道派の将校等に洩れたので、彼らは騒ぎ立て、この林陸軍大臣の人事案の粉砕に躍起となった。

 この様な状況から、林陸軍大臣もいよいよ、真崎教育総監と袂を別つ決心をした。その支柱となったのは、参謀総長・閑院宮元帥だった。

 それに、参謀次長・植田謙吉(うえだ・けんきち)中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・浦塩派遣軍参謀・騎兵大佐・浦塩派遣軍作戦課長・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・関東軍司令官・予備役・戦後日本戦友団体連合会会長・日本郷友連盟会長)だった。

 さらに渡辺錠太郎大将と永田鉄山軍務局長ら統制派幕僚の後押しもあった。







コメント
この記事をはてなブックマークに追加