陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

530.永田鉄山陸軍中将(30)次官がそんなに気に入らないのなら、代わられたらいいでしょう

2016年05月20日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田さんが柳川次官のところへ行って話をしていると、なかなか通りにくそうで、とにかく柳川次官の方でも理屈が多く、屁理屈を言っている。永田さんも負けずに屁理屈を言っている。

 山下軍事課長が柳川次官のところへ行くと、すぐ通る。また、新聞班長・鈴木貞一大佐が行くとすぐ通ってしまう。実際、そうだった。

 私(有末少佐)は、永田さんと柳川さんとのこういう関係を見ていると、ああこれはなかなか難しいなと感じた。柳川さんは永田さんにはそういう状況であるし、林陸軍大臣に対してもしっくりしていなかった。

 私は柳川次官に、「本気で大臣閣下を御補佐下さい」と訴えた。すると柳川次官は「俺だってやっているぞ。荒木大臣の時とちっとも違わない」と言われた。

 そこで私は「荒木さんの時には、蚊が喰うのを、ウチワでパタパタやりながら、もういいじゃないかと思うまでお話になっておられた。その姿は見ていて楽しかったのです。しかし、林さんの時には、不動の姿勢でちょっと話をしてすぐ帰られる。次官、もう少し努めてやってください」とお話しした。

 すると柳川次官は「実は私は林大臣を人格的に承服、尊敬できないので、荒木閣下の時のようにいきかねるよ」と率直に言われた。

 それで私は柳川さんに「次官がそんなに気に入らないのなら、代わられたらいいでしょう」と言った。すると柳川さんが「いや、しかしね、真崎さんが、おれ、と言うからな」と言われた。それで結局八月まで次官をしていることになった。

 以上が、永田鉄山少将が軍務局長になった頃までの陸軍中央内部の実態について、当時、陸軍大臣秘書官だった有末精三少佐が証言した内容である。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、歩兵第一旅団長時代、永田少将は、一人で群馬県の川原温泉に滞在したことがあった。宿泊していた「敬業館」の主人の話では、次の様なエピソードがあった(要約・抜粋)。

 朝食が済むと永田鉄山少将は、毎日決まって、カンカン帽に浴衣がけ、懐に本を入れて、下の河原に出掛けた。河原の入り口に「河原公園」というのがあり、そこの親父が一風変わっており、河原へ下る入り口に柵を作っており、その柵を開けて下りる人に幾分かの茶代をもらうことにしていた。

 ところが永田少将は、その茶店の前を通っても、一言の挨拶も無く素通りしていた。ある日、その親父が、どうも怪しからぬ人だ、一つ今日は文句を言ってやろうと思った。

 この親父は多少洒落っ気のある男だったので、半紙を短冊型にして歌を書き、それを永田少将に、「お客様!御返歌を」と差し出した。その歌は次の通り。

 「日々にわが園見舞う君こそは 神と思ひて末頼むらん」。

 すると永田少将は、「俺はこういうことは余りうまくない。今日は駄目だから、明日まで待ってくれ」と言った。

 その翌日、やって来た永田少将は、茶店に腰をかけ、「親爺さん、紙を貸してくれ」と言って次のような歌を書き、「ほい来た」と親爺に差し出した。

 「非常時を乗り切らむ糧の魂と身を 鍛へまほしと君が園訪ひぬ 昭和八年菊月上浣 鉄山」。

 この歌を見た親父は、「どうせ大した人でもない、歌も、俺位なものだ」と思って木箱の引き出しにしまっておいた。

 ところが、後に、軍務局長惨殺事件が新聞で報道され、大見出しで「永田鉄山」とあるのを見て、どうも聞いたことのある名だと、そこで木箱の引出しを開けて、短冊の歌を見た。

 すると、「鉄山」と同じ字だった。それで、そんな偉い人だったのか、失礼な事をして申し訳なかったと思った。それからその親爺は、その永田少将の歌を台紙に貼り付けて、壁に掛け、朝夕冥福を祈った。

 また、当時永田少将の私宅に公用で出入りしていた人の話では、地位権勢名望飛ぶ鳥を落とすほどの境遇にありながら、客間の飾り付けがいかにも質素だった。床の間には年中変わらぬ一軸が掛けられており、身分相応な四季それぞれの軸物位は揃えたらいいのにと思われた。

 また、永田少将が唯一揮毫したという、在郷軍人会の班旗の揮毫を願いに永田邸を訪ねたという田中氏は、次のように述べている。

 「今をときめく将軍の御屋敷には、あまりにも質素だ、二階に座敷が三つ、階下に室が三つか、四つらしい、庭も狭くて往来に添っている、御屋敷を出て振り返れば、非常時の日本の今、傑材と讃えられる名将軍の邸とも思われぬ」
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529.永田鉄山陸軍中将(29)あんな奴、大臣になっちゃって、俺は、もう知らん!

2016年05月13日 | 永田鉄山陸軍中将
 山岡さんは誠に立派な武人ではあるが、政治的なこの職務の任用については、一部部内では意外とされていた。この時、永田さんを軍務局長にしたら良かったのじゃないかという噂を耳にした。

 おそらく、小畑さんが山岡さんを推されたのではないかと思うのだが、山岡さんは直情怪行な立派な人だから、きれいな性格の荒木さんと、よく合う。

 しかも山下奉文大佐が軍事課長に出てきたのは、同県の高知県出身で山岡さんが使いやすいということもあったし、部内ではすこぶる好評だった。

 一番大きな問題は、荒木さんの一の乾分(こぶん)の小畑さんが軍務局長にならずに第三部長になり、山岡さんが軍務局長になった。

 それで実際は非常に大事な時ではあるし、いろいろ大きな手を打たねばならぬ時であるから、逸材の小畑さんが軍務局長になればよかった。

 しかし、小畑さんは荒木さんの真のブレーントラストとして、参謀本部から直接陸軍大臣官邸へ出入りして補佐していた。

 閑院宮が参謀総長になられたのは、荒木さんが陸軍大臣になられた後、満州事変勃発の後で、真崎甚三郎中将を台湾軍司令官から参謀次長に持って来た。

 荒木さんは、ああゆう人であるから、若い者とどんどん鷹揚に話をされる。真崎さんは真崎さんで西郷隆盛みたいな恰好をして、含蓄あるものの言い方をされるから若い者は親分のように慕う。

 真崎さんは若い者の意見を直ちに取り入れて、人事とか何とかにある程度動かれた。そのために、永田さんが出てくるまで、人事が偏っているという空気があったのは事実だが。

 むしろ、かつて参謀本部での永田第二部長と小畑第三部長の対立の方が問題だったが、これを真崎参謀次長は押さえてまとめきれず、結局、喧嘩両成敗で二人とも旅団長に出したのじゃないかと、穿った噂が飛んでいた。

 昭和七年八月、陸軍次官・小磯国昭中将が関東軍参謀長に転出、騎兵監・柳川平助中将が陸軍次官に抜擢された。

 九月五日に私(有末少佐)は陸軍大臣秘書官に任命された。当時憲兵司令官は秦真次中将で、憲兵情報というのが毎日秘書官室に届けられた。その中に宇垣一成大将攻撃に関するものが相当にあった。

 昭和九年一月二日に荒木陸軍大臣が御病気(急性肺炎)で、一月十九日大臣更迭で、林銑十郎教育総監と柳川陸軍次官と私は、小田急線で小田原の閑院宮邸へ向かった。

 小田急線は満員ではなかったが、近くの客に気兼ねしたのか、林大将と柳川中将はほとんど一言も話をされず、私は実に重苦しい気分でお伴した。

 閑院宮に会われると、林大将は真崎参謀次長を陸軍大臣の後任に推薦された。ところが、閑院宮は、突然大声で「君たちは私に真崎を押し付けるのか。私は真崎を次長に使ってよく知っている。林君、君やりたまえ」と言われた。

 林大将は「それでは真崎君を教育総監にお願いします」と返事をして、柳川中将も同意見で、閑院宮もそれには同意した。

 この十九日の閑院宮邸における会議の時の空気を、柳川中将から後で聞いた話によると、林さんのあの言い方には、どうも伏線があるような風であったらしいとのことだった。だが、私が隣の部屋で聞いたところでは、林さんは真崎さんを執拗に押しておられた。だが、柳川さんとしては、そういう風に感じたのだろう。

 このいきさつが一番、林さんと真崎さんの仲が悪くなってきた始まりじゃないかと思う。つまり事前に閑院宮の方に裏から根回しが行われたとの憶測があった。ライバルとして権力闘争の兆しがあったのではないか。

 こういう形で大臣が決まった時に、私は、私の前任の、荒木陸相専任秘書官・前田正実中佐と二人で寿司を食ったことがあった。その時、前田さんは一口も食べず、ハシで寿司を混ぜくり返して怒っていた。そして言った。「あんな奴、大臣になっちゃって、俺は、もう知らん!」。

 その頃は、陸軍大臣は代わっても、秘書官は代わらないのが通常だった。ところが、林さんが陸軍大臣になった時に、前田さんは代わってしまった。

 昭和九年三月に林陸軍大臣は永田さんを軍務局長に呼んだわけです。山岡さんは整備局長になった。柳川次官は真崎教育総監の要望もあり、留任となった。山下軍事課長も留任だった。
 
 永田さんが軍務局長になった時、永田軍務局長と柳川次官のとの間は、なんだかうまくいっていないと心配され、その片鱗が出ていた。






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528.永田鉄山陸軍中将(28)陸軍省が横暴で、参謀本部は押さえつけられている感じがあった

2016年05月06日 | 永田鉄山陸軍中将
 その当時(昭和二年初頭)、参謀本部第一部(作戦)では、次の三人の課長が、荒木貞夫部長の隣の部屋に、三人とも同室の配置だった。

 作戦課(第二課)課長・小畑敏四郎(おばた・としろう)中佐(高知・陸士一六・陸大二三恩賜・ロシア大使館附武官・歩兵中佐・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・従三位・勲一等瑞宝章)。

 要塞課(第三課)課長・河村恭輔(かわむら・きょうすけ)大佐(山口・陸士一五・砲工高一五・陸大二七・陸軍大学校兵学教官・砲兵中佐・参謀本部要塞課長・砲兵大佐・野戦砲第二二連隊長・少将・津軽要塞司令官・野戦重砲兵第四旅団長・陸軍重砲学校長・中将・第一六師団留守師団長・第一師団長・従三位・勲一等旭日大綬章)。

 演習課(第四課)課長・柳川平助(やながわ・へいすけ)大佐(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・陸軍大学校兵学教官・北京陸軍大学教官・騎兵中佐・陸軍大学校兵学教官・騎兵大佐・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・陸軍騎兵学校長・騎兵監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章)。

 陸士卒業の期と陸大卒業の期は、おおよそ、十期の差があるといわれている。河村大佐は陸士一五期、陸大二七期で、十二期の差である。柳川大佐も陸士一二期、陸大二四期恩賜で、十二期の差だ。

 だが、小畑中佐は陸士一六期、陸大二三期恩賜で七期の差でしかない。しかも陸大は恩賜である。小畑中佐は、陸士は河村大佐より一期、柳川大佐より四期も後輩だが、陸大は河村大佐より四期、柳川大佐より一期早く卒業している。若くして難関の陸大に合格しているのだ。

 なお、当時陸軍省整備局動員課長・永田鉄山中佐は、陸士一六期、陸大二三期次席で、小畑中佐と同じ七期の差である。ちなみに、陸大二三期の首席は、当時、参謀本部編制動員課長・梅津美治郎大佐(陸士一五期)だった。

 陸士一六期の同期生で最初に陸大二三期に合格し入学したのは、この永田中将、小畑中将と、藤岡萬蔵少将、谷実夫少将の四人である。なお、陸大二三期には、陸士一八期の酒井鎬次中将(恩賜)と稲葉四郎中将がいる。

 当時私(有末少佐)は第四課の庶務将校であった。柳川課長は、何とかして作戦課長だけには一室を与えたいといって、私に第四課の室割を考えて無理をして(四期も)後輩の小畑さんの為に独立した室を準備させた。

 御自分の課はしのんでも、作戦課長の小畑さんの仕事(構想)をしやすく、考えられていた程であった。しかも、一番古参の御自分と十五期の河村大佐と二人は同室にして、中佐の小畑さんを一人の単独の室で執務させられた。こんな美しい話があった。

 当時(大正末期)は、いわゆる太平時代であり、金を持っている陸軍省が横暴で、参謀本部は押さえつけられている感じがあった。

 永田さんが動員課長になって、東條さんが陸大教官から軍事課の高級課員になられた時、何かの話の折りに栄転だといって羨ましがった人がいた時、柳川課長は「統帥の大学教官から軍政の仕事に就くのを栄転というそういう時代になったことは誠に嘆かわしい」と嘆息された。

 柳川さんという人はこのように、よく筋を通す人だった。こういう人柄を買って荒木さんは、柳川さんを同期の小磯さんに代えて次官にされたのだろう。

 これは永田さんの関係ではないが、陸軍省と参謀本部の間にはいろいろと軋轢や不満もあり、それが後の派閥(?)の関係にも影響したのではなかろうか。

 例えば皇太子殿下に対する軍事の御前進講という軍事学に関する御教育、御養育係りというのは参謀本部の仕事だった。

 それを阿部信行少将(後の大将・首相)が総務部長から軍務局長に代わった時に一緒に持っていかれた。そういう問題が参謀本部、特に作戦系統で問題になって喧しいことがあった。阿部さん(陸士九・陸大一九恩賜)と、荒木さん(陸士九・陸大一九首席)は同期で、ライバル意識が相当にあった。

 当時荒木さんが第一部長、小畑さんが第二課長の時でも、いろいろな要求を出すが陸軍省がなかなか承知しない。山東出兵をやるにしても、陸軍省と参謀本部では出兵理論が違うのではないが、いわゆる統帥と政治の関係、政府の予算がものを言うので、参謀本部が圧迫されがちだった。

 私(有末少佐)は昭和七年九月十八日、満州の大隊長から陸軍大臣秘書官に転任した。満州事変後の昭和六年、十月事件の後に荒木貞夫中将が陸軍大臣になり、軍務局長には教育畑の山岡重厚少将を抜擢された。




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527.永田鉄山陸軍中将(27)陸軍では、非常な秀才が出ると、ライバル意識が出てくる

2016年04月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田鉄山少将は、参謀本部第二部長時代に、「新軍事読本」という本を編著して出している。多忙な時間を縫ってまで書き綴った永田少将の胸に激しく燃えていたのは、「良兵ヲ養ウハ即チ良民ヲ造ル所以」という理念であり、「軍人である前に人間であれ」という痛烈な叫びであり、訴えだった。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、永田鉄山少将、小畑敏四郎少将を両軸にした統制派と皇道派の対立の、陸軍省、参謀本部の陸軍中央内部の実態について、記している。

 当時、陸軍大臣秘書官だった有末精三(ありすえ・せいぞう)少佐(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・在イタリア大使館附武官・航空兵大佐・軍務局軍務課長・北支那方面第四課長・北支那方面参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・終戦直後対連合国陸軍連絡委員長・日本郷友連盟会長・勲二等)は戦後次のように証言している(要旨抜粋)。

 永田さんは合理主義的な考えを持っており理想もある。その理想を着々と実行して行くという、合理適正な方で、しかも非常な包容力を持っている。

 どういう訳で派閥の形になって来たか。陸軍では、非常な秀才が出ると、ライバル意識が出てくる。そういう空気がある。

 当時の派閥の一番の根源は小畑さんと永田さんの仲たがい、意見が合わんということではないか、という風にみんなは見ていた。

 永田さんと小畑さん、参謀本部の第二部長、第三部長の意見の相違がある。その時の参謀次長は、真崎甚三郎中将でしたが、真崎さんはなぜ、ちゃんと恰好をつけないか。

 永田さんと小畑さんは別に切り合いをしたわけでもなければ、殴り合いをしたわけでもない。結局、対ソ情勢判断についての論争に端を発した。

 永田さんは、今は対ソ作戦はやるべきではない、国内体制や満州問題を固めるべきだという意見。小畑さんは作戦畑の出身ではあるし、対ソ作戦準備第一主義というか、要するに北進論だ。

 それが実際問題として現れたのが、北満鉄道買収の問題だ。小畑さんは第三部長、鉄道関係の部長として、北満鉄道なんてそのうちに転げ込んでくる、下手に買収すると、ソ連の経済状態をよくし、その情報募集を容易にするという主張だった。

 これに対し永田さんの方は、それは買った方がいい。買えば満州国国内の治安維持は非常に楽になるというのが、狙いだという。

 最終的に、北満鉄道は買収してしまったが、満州国国内の治安維持には確かによくなったが、ソ連の対日工作を容易にした不利があった。

 結局、北進だ、南進だ、といわれ、それが後に、皇道派が北進、統制派は南進ということになった。後に統制派が南進して支那事変から大東亜戦争にまで発展したんだと言われているが、それは少し飛躍している。

 参謀本部の第二部長は全般の情勢分析をして情勢判断をする。第三部長は運輸・通信の関係から、また作戦部関係の者はその観点から情勢を判断しがちだ。

 だから参謀本部ではしょっちゅう、第二部長の意見は全部蹴られてしまう。私も第二部長をやったが、第二部長案というものは、それはもう情けないほど通らない。

 昭和二年、濃尾平地での大演習で、私は演習課主任部員で、部長が荒木貞夫(あらき・さだお)少将(東京・陸士九・陸大一九首席・ロシア出張・歩兵大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部支那課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・勲一等・従二位)だった。

 審判官の割振りをした時に、陸軍省軍事課高級課員・永田鉄山中佐と参謀本部作戦課長・小畑敏四郎中佐の両雄を対抗してやってもらった。当時は派閥など思いもよらぬ事で、いわば、良い意味での好敵手だった。

 これは、参謀本部演習班長・阿南惟幾(あなみ・これちか)中佐(東京・陸士一八・陸大三〇・十八番・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監・陸軍大臣・自決・正三位・勲一等旭日大綬章・功三級)の起案によるものだった。今から思えば無量の感慨にふけらされる。

 小畑さんは私(有末少佐)の陸軍大学校時代の教官だった。小畑さんは独特のいい考えを持っている人で、当時ロシアのヤヌシュケウイッチ少将の回想録を入手され、それを基礎にして、東方戦場の戦史を講義した。

 小畑さんは、非常に作戦的、独創的で徹底した考えもありながら、なかなかまた政治的な素質があった。

 小畑さんは、元田肇(もとだ・はじめ・大分・東京帝国大学法科卒・弁護士・衆議院議員・衆議院副議長・逓信大臣・鉄道大臣・衆議院議長・枢密顧問官・勲一等瑞宝章)のお婿さんだった。
 
また、船田中(ふなだ・なか・栃木・東京帝国大学法科卒・内務省・東京市長代理・衆議院議員・防衛庁長官・自民党安全保障調査会長・衆議院議長・自民党副総裁・旭日桐花大綬章・従二位)と義兄弟でもあった。

 第一次世界大戦の時、小畑さんは荒木貞夫さんと一緒に従軍しており、荒木さんは小畑さんの性格や能力を識っていた。

 荒木さんが参謀本部第一部長(作戦)の時に、まだ中佐であった小畑さんを作戦課長に抜擢した。荒木さんは思想に置いてもその能力に於いても、小畑さんを信任していた。



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526.永田鉄山陸軍中将(26)廊下で出会っても口もきかないほどの険悪な仲になった

2016年04月22日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田は軍事課長を経験して、軍政部門(陸軍省)の卓越した資質を自他ともに認めていたが、軍令部門(参謀本部)は初めての経験だった。

 一方、小畑の方は、軍令部門を歩き続けて、その資質を高く評価されていた。徹底した「戦うタイプ」の小畑は、軍事に専念するのが軍人本来の使命であり、行政や財政に深入りすべきではないとする。まして、永田のように、政官財と親交を深めるのは、軍人として邪道中の邪道であると忌嫌する。

 だが、永田の考えは全く違う。時代が大きく変化してきて、国政、外交、社会の全てが多様化し多難の時を迎えている現在、陸海軍部が役割を果たすには、従来の軍人感覚だけだは通用しないとする。

 二人の激突は、この時期、ソ連から申し込まれた北満鉄道の買収問題を巡って頂点に達した。永田第二部長は、次のように主張した。

 「ソ連が持つ北満鉄道の利権を日本と満州で買収した方がいいと考える。その方がソ連と政略的に接触できる。これからの戦争は一国対一国の戦争ではなく、いくつかの国が連合しての戦いになる可能性が強い」

 「日本が国際的に孤立している現状からしても、関東軍の満州国に対する内面指導は早く打ち切り、満州国を育成して、日本の国力を充実させなければ、陸軍が伝統的に仮想敵国としてきたロシア(ソ連)とは戦えない。ソ連を敵対視するだけでなく、硬軟両用の眼を配るべきだ」。

 これに対して小畑第三部長は、次のように主張した。

 「北満など、いざとなったら、バイカル湖付近まで軍を出しさえすれば、いつでも手に入る。ソ連が極東経済五カ年計画を着々と推進させている現状からして、もう一度、日露戦争を起こすぐらいの気概が必要である。ソ連に利益を与えることはない」。

 「ソ連の年間軍事費は、五年前の四億一千ルーブルから、年々増えて、十九億ルーブルに膨れ上がってきた。それに対し、日本の軍事費は、年々削減され続け、大正十年の二億一千万円が、今や一億八千万円である」

 「ソ連に支払うくらいなら、陸軍費を増やすべきだ。(永田に向かって)新官僚や財界人と酒を飲んでばかりいないで、その工作でもしたらどうだ」。

 これに対して、永田第二部長は「それと、これとは、問題が違う」と猛然と反論したが、結論は出なかった。

 そうなると、派閥の力学が作動し出した。当時は、皇道派の巨頭、荒木貞夫中将が陸相になって、皇道派全盛の時代だった。

 皇道派の将軍たちは、軍の要職を占め、永田第二部長の眼から見れば、国を憂える青年将校等を甘やかし、中堅将校等をさらに甘やかし、下剋上の風潮を軍人の間に広がらせている。

 皇道派の有力な一人である小畑第三部長は、直属上司である参謀本部次長の真崎中将や、荒木陸相の篤い支持を受けて、交通部門担当という第三部の地味な職責を遥に越え、その発言力は強かった。

 そのような状況で、永田第二部長は面白くなかった。だが、永田第二部長は自説を曲げなかった。精力的に奔走して、北満鉄道の買収決定にこぎつけた。

 昭和八年六月十九日、真崎甚三郎中将は参謀次長の職を退き、大将に昇進して、軍事参議官になった。これは、参謀総長・閑院宮載仁親王・元帥が真崎次長を嫌っていたのである。

 真崎中将は、もちろん次長を辞める意志はなかったが、参謀総長・閑院宮元帥が「おまえも、もうこのへんでよかろう」と言ったので、やむなく引き下がった。さすがの真崎中将も相手が皇族であり、参謀総長とあっては、従わざるを得なかった。

 真崎次長は八月異動で小畑を第一部長に据え、永田を旅団長にして地方に出す予定だったが、次長を退任させられたため、それが実現できなかった。

 結局、昭和八年八月、永田第二部長と小畑第三部長は、喧嘩両成敗ということで、わずか一年半で、参謀本部を去った。永田少将は第一師団の歩兵第一旅団長に、小畑少将は、近衛歩兵第一旅団長に、それぞれ転出した。

 大正十年、「バーデン・バーデンの密約」で、理想に燃えるエリート将校として共に陸軍改革を誓い合った盟友も、あれから十二年、戦略思想の相違、軍政畑と軍令畑、統制派と皇道派など様々な要因により、分裂してしまった。廊下で出会っても口もきかないほどの険悪な仲になったという。

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525.永田鉄山陸軍中将(25)しかし、永田亡き後、統制派などというものは無かったのである

2016年04月15日 | 永田鉄山陸軍中将
 出席する者、陸軍省側、柳川平助次官、山岡重厚軍務局長、山下奉文軍事課長、また、参謀本部側は真崎次長、梅津美治郎総務、古荘幹郎第一、永田鉄山第二、小畑敏四郎第三の各部長といった大会議であった。

 会議の目的は、国防上の見地から最も脅威を感ずる相手国を想定し、これに対して完全な自衛方法を考究するにあった。

 当時の国際情勢、ことに満州国が独立して、これと共同防衛の責任を負った我が国としては、その危険と脅威はむしろソ連にあった。これには何人も異論はなかった。

 しかしソ連を仮想敵国とすることには異存はないが、軍事技術的な見地から見ると問題があり、永田鉄山第二部長は次のように強く主張した。

 「これまで排日抗日の支那に一撃を与えた後で、ソ連に備えるべきで、満州国独立の基礎を確立するためには、まず支那を抑えなくてはならぬ」。

 この案を起草したのは、その頃永田のもとにあった武藤章中佐だった。これに対し、真っ向から反対したのが小畑敏四郎第三部長だった。小畑第三部長は次のように主張した。

 「ソ連を目標とする自衛すら、今日のところ困難が予想されるのに、さらに支那をも敵とすることは、現在の我が国力をもってしては極力避けねばならない」

 「支那と全面的に戦う事は、我が国力を極度に費消するのみならず、短期間でその終結を期待することは困難である。むしろ支那とはことを構えずにもっぱら和協へ途を求めるべきである」。

 この意見には同調者が多かった。第二回の会議では、永田は旅行中で欠席したので、おおむね小畑案に決まったが、永田と小畑の意見の対立は、その後、あとを引いて、両者の間に深い溝ができてしまった。

 それだけではない、小畑が、真崎、荒木につながり、皇道派の首脳をもって任じ、一方、永田がその後、林陸相に迎えられて軍務局長となり、いわゆる統制派幕僚の中心となると、皇道派、統制派という二つの派閥の対外策の相違として、いつの間にか、統制派は対ソ容共派、皇道派は対ソ強硬派と言われていた。

 おそらく、小畑や真崎、荒木らのこの会議当時の印象が、永田攻撃というよりも、統制派攻撃の手に使われたものと思われる。こうしたことは、青年将校に伝わり、さらにこれと直結する右翼へと伝えられる。

 だが、統制派を永田の下に集まる国家改造を志した幕僚グループとするならば、このグループの国家改造はあくまで国内改革であって、戦争政策や対外政策を論議決定したものではなかった。だから、統制派が対ソ妥協の親ソ容共派であるというのは、全くの言いがかりに近い妄説なのである。

 だが、この説がまことしやかに通用して来た。ことに二・二六以後、日支戦争が起こると、統制派の対ソ親善、対支強硬派が巧みに利用された。こういう仮説に立つと、歴史の事実を説明するのに都合がいいからである。

 これだと近衛の言う、支那事変を拡大に導いたのは統制派幕僚だとする判断に、しっくり符号するからである。永田はソ連よりもまず支那を叩けと言った。だから統制派幕僚たちは支那事変を拡大から拡大へ推し進めた、と説明がつくのである。

 しかし、永田亡き後、統制派などというものは無かったのである。現に永田の腹心である池田純久中佐は、北支事変勃発当時、天津駐屯軍の作戦主任参謀だったが、彼がいかに拡大派を抑えるに腐心したかは周知の事実で、このため彼はとうとう天津軍を追われている。

 この一つの事実が示すように、統制派というグループが対外策として対ソ親善、対支強硬を主張していたなどは、およそナンセンスな判断である。

 だが、近衛および近衛一派の人々は、かたくこの仮説を信じ切っていた。勿論、それは近衛の錯覚誤認によるのだが、これをまことしやかに近衛に教えたのは、皇道派の巨頭たちであったろう。近衛のこの思想はずっと生きて、近衛上奏の内容にもつながっている。

 以上が、大谷敬二郎陸軍憲兵大佐が、「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)の中で述べた統制派と皇道派についての所見である。

 ところで、北満鉄道の買収問題について、「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、永田直系の統制派の片倉衷(かたくら・ただし)少将(福島・陸士三一・陸大四〇・関東軍第四課長・歩兵中佐・歩兵第五三連隊長・歩兵大佐・関東防衛軍高級参謀・第一五軍高級参謀・緬甸(ビルマ)方面軍作戦課長・少将・第三三軍参謀長・下志津教導飛行師団長・第二〇二師団長・戦後スバス・チャンドラ・ボ^−ス・アカデミー会長)は後年の回想として、次のように述べている。

 参謀本部の永田第二部長と小畑第二部長の意見対立の根本には、軍政型と軍令型という資質と経歴の違いがある。それは同時に、統制派と皇道派の違いでもある。


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524.永田鉄山陸軍中将(24)永田一派の対支戦争という考え方こそ、大東亜戦争の遠因であった

2016年04月08日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田は「ソ連にあたるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない。また対ソ準備は、戦争はしない建前のもとに兵を訓練しろ」という。

 これに対し私は、支那を叩くといってもこれは決して武力で片付くものではない。しかも支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる。

 また対ソ準備といっても、こちらから攻勢に出るのではないが、戦争をしない建前で訓練するといっても全く無意味で一カ月で済む訓練が一年もかかるといって反駁(はんばく)した。

 第二回の会議では永田が旅行中で欠席していたので、当初の基本方針を満場一致で決定した。私は軍の方針が決定したので、これに基づいて内外の国策を樹立すべく、大わらわになって斎藤内閣にぶっつかって行った。

 私がこういう根本方針で、恐らく一生の中で一番精魂を傾けている時に病気になり、空しく内閣を去ることになった。

 私は全てを後任の林銑十郎大将に依頼して熱海に行って療養していたが、ようやく丈夫になって熱海から帰って来てみると、軍は私の根本計画を何もやっていなかった。私はこの時ぐらい失望したことはない。

 林陸相は軍務局長に永田鉄山を任命した。前に述べたように、永田は対支戦争を考えていたし、小畑の対ソ準備論と激しく対立していた。

 これが世間でいう皇道派と統制派の争いで、必ずしも派閥の争いではなく、国策の根本的対立であった。永田一派の対支戦争という考え方こそ、大東亜戦争の遠因であった。(『丸』昭和三十一年十二月号「日本陸軍興亡の二十年」)。

 以上が、荒木大将の陸軍の省部合同首脳会議についての回顧談である。

 だが、一方、「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によれば、この陸軍の省部合同首脳会議について、著者の川田稔氏は、次のように述べている(要旨抜粋)。

 昭和八年四月中旬から五月上旬にかけて、今後の陸軍の戦略の基本方針を決定するため、陸軍省と参謀本部の局長、部長、課長が集まり、合同の首脳会議が開かれた。

 この省部首脳会議は、今後の政府の基本方針を定めるための五相会議(斎藤首相以下、外相、蔵相、陸相、海相)に向けて、陸軍の意志を統一するために開かれた。

 この会議で、永田少将と小畑少将は、対ソ戦略をめぐり激しい論争を行なった。その結果会議に出席した省部の幕僚たちの間では、永田少将の意見が多数の賛同を得た。

 だが、荒木陸軍大臣は、小畑少将の意見を支持し、陸軍首脳部は小畑少将の意見に基づいて、対ソ戦争準備方針を決定したのである。

 ところが、五相会議では、荒木陸軍大臣の対ソ戦争準備方針とその為の軍備拡張の主張は、高橋是清蔵相、広田弘毅外相らによって抑えられた。

 この対ソ戦略についての小畑と永田の対立は、同時期前後の日ソ不可侵条約問題や北満鉄道買収問題への対応と連動していた。

 日ソ不可侵条約の問題は、日ソ国交樹立の翌年一九二六年にソ連から提議されて以来、断続的に日ソ間でやり取りがなされていたが、満州事変後の一九三二年、あらためて提案がなされ、斎藤内閣の下で本格的に検討された。

 永田ら参謀本部情報部(情報部長直轄の総合班長は武藤章)は、条約締結に積極的で「即時応諾すべし」との意見であった。

 しかし陸軍部内では、主流の荒木、小畑、鈴木貞一ら対ソ強硬派が反対で、永田らの意見は採用されなかった。

 外務省はソ連と疎隔している米英への考慮もあり、荒木ら陸軍中枢の強い意向を押し切ってまで条約を締結する必要はないと考えていた。結局、斎藤内閣は条約締結の方向には進まなかった。

 この日ソ不可侵条約が締結されなかったことは、後に陸軍の対中国戦略にとって大きな制約要因となっていく。

 対ソ防備の必要から、常にソ満国境にはかなりの兵力を割いておく必要があり、翌年の熱河作戦をはじめとする軍事作戦に十分な兵力を投入できず、軍事的圧力が不十分なまま謀略工作に頼らざるを得なくなっていくからである。

 この陸軍の省部合同首脳会議について、「軍閥」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、著者の大谷敬二郎(おおたに・けいじろう)陸軍憲兵大佐(滋賀・陸士三一・東大政治学科・京都憲兵隊長・第二五軍軍政部附・憲兵大佐・京城憲兵隊長・陸軍憲兵学校教官・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦犯で重労働十年・仮釈放)は次のように述べている(要旨抜粋)。

 荒木が陸相になったのは昭和六年十二月のことだが、彼は満州事変、その他緊急の課題が一応片付いた昭和八年六月に、省部の課長級以上の幕僚を集めて、今後の国防施策に関する国際情勢の判断を求めた。




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523.永田鉄山陸軍中将(23)永田鉄山(当時参謀本部第二部長)がたった一人反対した

2016年04月01日 | 永田鉄山陸軍中将
 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、永田少将も真崎参謀次長には一目置き、親密感も捨ててはいなかった。これは、真崎参謀次長は永田少将の前妻との結婚式での媒酌人であったことや、真崎参謀次長が第一師団長当時、永田大佐が歩兵第三連隊長で、部下として、真崎師団長を崇拝し、親交があったのである。

 さて、当時、参謀本部第二部長・永田鉄山少将と第三部長・小畑敏四郎少将は対ソ戦略における戦略思想の見解の相違で対立が生じていた。

 「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によれば、小畑少将ら(荒木陸軍大臣・皇道派の幕僚)、の対ソ戦略に対する戦略思想は次のようなものだった(要旨抜粋)。

 現在の日本の対満州国策は崇高な目的や指導精神を持っているが、客観的本質は大和民族の満蒙支配である。ソ連から見れば、このような日本の政略は、ソ連の極東政策、北満経営を覆滅するものであり、ソ連に多大の脅威と憤懣を与えている。

 それにもかかわらず、ソ連がそれに反攻してこないのは、国内の全般的実力が許さず、対外的に列国との関係が厳しいからだ。

 従って、ソ連の国力が回復し、日本の対英米関係の悪化など国際環境が変化すれば積極的反攻にでるだろう。また、世界革命論に基づく東方外洋への発展思考から、ソ連の日本への積極的反抗行為は必定だ。

 これに対処するためには、そのような条件が整う以前に、ソ連に一撃を加え、極東兵備を壊滅させる必要がある。そのためには、ソ連の第二次五ヵ年計画完了による国力充実以前の、昭和十一年前後に対ソ開戦を行う必要がある。

 以上が小畑少将らの対ソ戦略思想だった。

 これに対して、永田少将ら(参謀本部第二部幕僚・統制派幕僚)の対ソ戦略の思想は次のようなものだった(要旨抜粋)。

 第二次五ヵ年計画終了の数年後まではソ連の戦争準備は完了せず、戦争遂行の力を発現するには至らない。したがって、対ソ開戦を昭和十一年前後の時点に設定するのは妥当ではない。

 また、現在の国際情勢は日本に有利ではなく、満州国の迅速な建設が焦眉である。日本国内も政治的経済的な欠陥があり、挙国一致は表面的なもので国運を賭する大戦争を行うのは適当ではない。

 もし、対ソ戦に踏み切るとしても、満州国経営の進展、国内事情の改善、国際関係の調整などの後に実施すべきだ。

 さらに、「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)では、永田鉄山少将の対ソ戦略について、次のように記されている。

 日本がある国家と戦争を行うには、国力を遺憾なく発揮することが第一要件であって、このためには政治、経済各般にわたる不合理なる現在の国内事態を改善し、真に挙国一致の実を収める様にせねばならぬ。

 満州国はいまだ混沌としてその人心の安定を見ず、天与の資源は未開発の状態であって、なんら戦争の用に立ち得ない。

 一方国際関係は日本を全く孤立状態に立たしめているが、それは満州事変に関する世界の認識不足から来ている。

 日本は速に皇道日本の実証を国内改善によって世界に示し、満州国をして王道楽土の実を挙げ締め、世界に皇道日本の真理想を具体的に諒承せしめる必要がある。

 いたずらに独善猪突するは、現在日本の実情がこれを許さぬばかりでなく、八紘一宇の大理想を顕現するに何らの意味もなさないのみか、非常なる障碍(しょうがい)となる。

 もしそれ他の邦家(ほうか・国)にして満州国の建国を破壊し、ひいて我が理想の顕現を阻害するにおいては、断固として起たねばならぬが、しかし今(昭和7年頃)はそれほどまでに逼迫(ひっぱく)した状態ではない。

 現下日本の急務は寧ろ国内の改善、軍備の充実、満州国の開発、情勢の調整である。

 以上が、当時の永田少将の対ソ戦略に基づく、戦争観を要約したものである。

 この永田少将、小畑少将の対ソ戦略の見解の根本的相違が激突するのは、昭和八年四月から五月にかけて行われた、陸軍の省部合同首脳会議であった。

 「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、この陸軍の省部合同首脳会議について、当時の陸軍大臣・荒木貞夫大将は、戦後回顧して、次のように記している。

 昭和八年六月と思うが、私は陸軍省、参謀本部の局長、部長、課長全部を集め、「満州事変後の根本方針をどうするか」について、全幕僚会議を開いた。

 会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあった。ところが永田鉄山(当時参謀本部第二部長)がたった一人反対したのだ。



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522.永田鉄山陸軍中将(22)側にいた庶務将校は、身に冷や汗を覚えて恐縮した

2016年03月25日 | 永田鉄山陸軍中将
 第二部長時代の永田鉄山少将は、将軍になっても、その執務ぶりは、課長時代と少しも変わらなかった。

 当時、満州経済建設のため、陸軍省、参謀本部合体で編成した満蒙委員会の一人に、永田少将の部下の一部員がなっていた。

 部下の委員が「満州の経済建設は計画的に進み、国家経済の理論的建設によって日本の跛行(はこう)経済を矯正せねばならぬ」との永田少将の厳然たる指示により満州の炭業統制問題につき一案を書きあげ、委員会に臨んだ。跛行経済とは足並みの揃っていない、不釣り合いな経済状態をいう。

 ところが、委員会では、議論百出で、ついに大勢に押されて、「非常情勢に応ずるため急速に開発を要する企業は、不本意ながら財閥資本の急速入満を要す」という議案に決しそうになった。

 その日の委員会が終わると、部下の委員は直ちに第二部長室に行き、部長の永田少将に委員会の顛末を報告した。

 報告を聞き終わった永田少将は、部下の委員に、ゆっくりと、時間をかけて、その議案の不可であることを、説いた。そして最後に次のように言った。

 「一歩譲ると万歩退却の因をなす。満州の経済開発はその基本部門において、軍は厳然として素志の貫徹を期し、それによって財閥、政党を覚醒せしめ得るにあらずや」。

 永田少将のこのような考えは、政党の腐敗と財閥の横暴とは、いつかは抜本塞源(彼が常に用いた言葉)の大改革をしなければならない、との主張が含まれていた。塞源とは弊害などの生じる根本の原因をなくすことである。

 ある時、永田少将自ら、ある人物と面会を約束していたが、そのことを庶務将校に告げていなかったので、その人物が第二部長・永田少将を訪ねて来た時、取り次がれた庶務将校は「部長は要談中である」と、独断でその客を帰してしまった。

 あとで、その事を報告すると、永田少将は「それはしまった、実は……」と言ったきりだった。翌日その人物が再び面会に来た際、庶務将校のことには一切触れることなく、永田少将は「昨日は手離せない要務突発のため失礼」と挨拶した。側にいた庶務将校は、身に冷や汗を覚えて恐縮したが、同時に、自然と頭が下がった。

 公務上処することには極めて謹厳な永田少将は、敬礼においても常に極めて厳格だった。部長室に頻繁に出入りする部員に対して、永田少将はいかに繁忙な時でも、正確な答礼をした。

 また、廊下などで、給仕が敬礼しても、少しも変わらぬ立派な答礼をするのが常であった。この点は、海軍の山本五十六元帥と同様であった。

 第二部長・永田少将は、部下から提出される作業は、思い切って修正を行なった。その反面、その作業を生かすことにも苦心をし、部下の使った文字を一句でも活用するよう心掛けてはいた。

 だが、あまりの修正の多さに、また永田少将の苦心を解せない若い部員たちは、宴会の席などで、この大修正について、不平を漏らした。それを耳にした、永田少将は彼らに次のように諭した。

 「そのことはよく判っているが、自分は幕僚だから上官に御迷惑をかけることはできないので、良心の命ずるままに君たちの作業を修正するが、自分が隊長になればまた別の態度を取るつもりだ」。

 ところで、永田鉄山少将と、小畑敏四郎少将の対立の構図と軌跡をたどってみる。昭和七年四月、永田鉄山大佐と小畑敏四郎大佐は、ともに少将に進級し、永田少将は参謀本部第二部長(情報)に、小畑少将は第三部長(運輸・通信)に、それぞれ、就任した

 この頃から、二人の間に亀裂が入って来た。「昭和陸軍の軌跡」(川田稔・中公新書)によると、当初、永田少将ら「一夕会」は陸軍主流の宇垣系に対抗して、非宇垣系である荒木貞夫中将、真崎甚三郎中将らを擁立し、陸軍の実権を把握しようとした。

 だが、昭和六年十二月荒木中将が陸軍大臣に、昭和七年一月真崎中将が参謀次長となるや、「一夕会」の土佐系(小畑敏四郎大佐、山下奉文大佐、山岡重厚大佐など)や佐賀系(牟田口廉也中佐、土橋勇逸中佐など)を一気に抱き込み、彼らを有力ポストに着けて皇道派を形成した。

 これにより、「一夕会」に亀裂が入り、永田少将ら「一夕会」主流は、荒木陸軍大臣、真崎参謀次長らをコントロールすることが困難になり、皇道派がヘゲモニーを掌握することになった。

 一方、永田少将のもとには、東條英機、武藤章、富永恭次、池田純久、影佐禎昭、四方諒二、片倉衷、真田穰一郎、西浦進、堀場一雄、服部卓四郎、永井八津次、辻政信ら中堅少壮の中央幕僚が集まっていた。

 ただ、真崎参謀次長らも、「一夕会」の完全な分裂は、自らの基盤を弱体化させることになるため、その後も強力な永田少将らとの完全な疎隔は避けようとしていた。



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521.永田鉄山陸軍中将(21)閑院宮載仁参謀総長と真崎参謀次長との間に溝が生じてしまった

2016年03月18日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和六年十二月犬養内閣成立と共に、荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・陸軍大学校兵学教官・兼元帥副官・ロシア軍従軍・中佐・参謀本部附・ハルピン特務機関大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校長・大六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・A級戦犯で終身刑・釈放・従二位・勲一等・功三級・男爵)が陸軍大臣に就任した。 

 これは、「三月事件」「十月事件」などで、重臣や政党、財界などが、中堅幕僚、青年将校層の急進的な行動に恐怖を感じ、彼らに人気のある荒木中将を登用し、行動を鎮めようとした。

 「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、荒木中将は皇道派の先頭に立っている人物であり、生来の陽気な性格から、国粋主義を吹聴していたので、青年将校たちの人気を集めるようになった。

 一方、政党や財界は、荒木中将なら部内の急進分子を抑えることが出来ると期待した。ここに荒木中将の人気の矛盾があった。この矛盾のため、結局、彼は両方とも満足させることが出来なかった。

 昭和七年一月、陸軍大臣となった荒木中将は、陸士、陸大ともに同期で、同じ皇道派、親友の真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・教育総監・従二位・勲一等・功三級)をさっそく参謀次長に据えた。

 満州事変以来、参謀総長と軍令部長には皇族を置いたが、これは内部的には派閥対立の感傷的な意味があり、外部的には軍の威信を示す象徴的な意味があった。

 だから実際の権限は参謀次長にあった。皇族に責任を負わせないという建前からも真崎参謀次長は事実上の参謀総長だった。

 このため、真崎参謀次長が自分をさし置いて権限を振り回すのを不満とした閑院宮載仁参謀総長と真崎参謀次長との間に溝が生じてしまった。

 また、昭和七年二月から八月にかけて、陸軍大臣・荒木中将は次のような陸軍人事を行なった。彼らは、やがて、荒木中将を筆頭に、皇道派を結成することになる幕僚であった。

 人事局長に同じ皇道派の松浦淳六郎(まつうら・じゅんろくろう)少将(福岡・陸士一五・陸大二四・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・歩兵第一三連隊長・教育総監部庶務課長・陸軍省副官・少将・歩兵第一二旅団長・陸軍省人事局長・中将・陸軍歩兵学校長・第一〇師団長・予備役・賀陽宮家別当・第一〇六師団長・従三位・勲一等・功五級)。

 軍事課長に山下奉文(やました・ともゆき)大佐(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍省軍事調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・陸軍航空総監・遣ドイツ視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・戦犯によりマニラで死刑)。

 教育総監部本部長に香椎浩平(かしい・こうへい)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・歩兵第四六連隊長・少将・陸軍戸山学校長・支那駐屯軍司令官・中将・教育総監部本部長・第六師団長・東京警備司令官・兼戒厳司令官・予備役)。

 憲兵司令官に秦真次(はた・しんじ)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・歩兵第二一連隊長・第三師団参謀長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・陸軍大学校兵学教官・奉天特務機関長・第一四師団司令部附・中将・東京湾要塞司令官・憲兵司令官・第二師団長・予備役)。

 参謀本部作戦課長(二度目)に小畑敏四郎(おばた・としろう)大佐(高知・陸士一六・陸大二三恩賜・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校監事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣)。

 陸軍次官に柳川平助(やながわ・へいすけ)中将(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・陸軍騎兵学校長・騎兵監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣)。

 軍務局長に山岡重厚(やまおか・しげあつ)少将(高知・陸士一五・陸大二四・歩兵第二二連隊長・教育総監部第二課長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・中将・第九師団長・予備役・第109師団長・善通寺師管区司令官)。

 この時、永田鉄山大佐は陸軍省軍務局軍事課長(昭和五年八月〜)だったが、昭和七年四月、永田鉄山大佐は少将に進級し、参謀本部第二部長に就任した。同時に小畑敏四郎大佐も少将に進級し、参謀本部第三部長に就任した。






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