陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

570.源田実海軍大佐(30)源田中佐は「バターン」と大きな音を立てて、人事局別室を出て行った

2017年02月24日 | 源田実海軍大佐
 猪原少佐は、すぐには承知しなかったが、そのうちに源田中佐の熱弁に負けた。「そこまで言われるなら、しょうがありません」。

 近くで聞いていた別室長・大井篤(おおい・あつし)中佐(山形・海兵五一・九番・海大三四・三番・第二遣支艦隊作戦参謀・海軍省軍務局調査課・中佐・海軍省人事局第一課先任局員・第二一特別根拠地隊参謀・軍令部第一部戦争指導班長・海上護衛隊総司令部作戦参謀・大佐・兼連合艦隊参謀・終戦・GHQ歴史課嘱託・著書多数)が源田中佐に声をかけた。

 「ちょっと待った。それを取られたら、あとが続かないよ」。

 大井中佐は海軍兵学校でも、海軍大学校でも源田中佐の一期上だった。その上、人一倍の理屈屋で、納得できなければテコでも動かないような男だった。源田中佐はそれを知っているので、大井中佐のところへは行かずに、猪原少佐のところへ行ったのだ。

 だが、鼻っ柱の強い源田中佐は、反発した。

 「そんなことありませんよ。今度やったら、後はみないらんようになるんだから、次の戦争とか、計画なんていらんのですよ」。

 大井中佐は、その源田中佐の言葉にあきれて、次の様に言った。

 「いやあ、次のパイロットや整備員を養成しなくちゃだめだよ」。

 すると源田中佐は、次の様に答えた。

 「そうですか。人事局が聞かないと言うなら、私はこれから航本(海軍航空本部)教育部に行って交渉してきますから」(大西瀧治郎少将が航空本部総務部長だった)。

 そう言い終わると、右手の中指と親指で「パチッ」と音を立て、入り口に向かい、ドアを引っ張り、源田中佐は「バターン」と大きな音を立てて、人事局別室を出て行った。

 その源田中佐の態度を見て、大井中佐は「ドアが軽いこともあったかもしれないが、こんな風に驕っていたらダメだろう」と思った。

 連合艦隊司令部も第一航空艦隊司令部も自信過剰になっていた上に、ミッドウェー攻略作戦中は米機動部隊が出現しそうもないと判断される情勢になったため、南雲機動部隊全体が弛んだ気分で出撃準備を進めていった。

 ハワイ奇襲作戦の場合とは雲泥の差だった。幕僚ばかりか、総帥である、連合艦隊司令長官・山本五十六大将でさえも、「今度はたいした獲物はないだろう」と口にした。

 昭和十七年五月二十七日、南雲機動部隊は瀬戸内海、岩国沖の柱島から出撃した。その前日の五月二十六日、柱島泊地の旗艦「赤城」で作戦計画の説明と打ち合わせが行われた。

 二航戦司令官・山口多聞少将は、機動部隊司令部計画の索敵では不十分であると主張した。索敵機の数が少ないと言うのである。

 だが、同司令部は計画を改めなかった。索敵計画を立案した航空乙参謀・吉岡忠一(よしおか・ただかず)少佐(静岡・海兵五七恩賜・海大三九首席・第一航空戦隊乙航空参謀・第三艦隊参謀・横須賀航空隊飛行隊長・海軍大学校甲種学生・第二六航空戦隊首席参謀・兼第一航空艦隊参謀・中佐・横須賀鎮守府附・ルソン島で捕虜・戦後吉岡商会創業)は次のように説明した。

 「これまでの敵情からすれば、ミッドウェー攻略作戦中に、敵艦隊がミッドウェー方面に出現することは、ほとんど考えられません」

 「索敵を厳重にするのがよいことはわかりますが、それには艦攻を使わなければならないので、攻撃兵力が減ることになります。この際は司令部案(南から東、北にかけて七機の索敵機を出す)でよいと思います」。

 この索敵計画に対して、源田実は戦後、「海軍航空隊始末記・戦闘篇」(源田実・文藝春秋)次の様に述べている。

 「私は、いちどミッドウェーの東北方面に出て、東半円に対する索敵をやり、東正面に対する不安を除いた後に南西方面に進撃して、ミッドウェー空襲をやりたかった」

 「しかし、時日の関係で、それができなかった。結局、ミッドウェーの西北方から予定の日に空襲を実施すると言う平凡なものになってしまった」

 「計画を終わってからも、自分ながら自信が持てなかった。『攻撃計画には自信がない』などとは誰にも言わなかったが、内心の不安は打ち消せなかった」
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569.源田実海軍大佐(29)当時、機動部隊を源田艦隊と評した者さえあった

2017年02月17日 | 源田実海軍大佐
 草鹿少将は無刀流剣道を修業していたが、その流儀にある金翅鳥(きんしちょう)王剣を特に好んだ。金翅鳥が羽根を天空一面に広げたような心で、太刀を上段にとって敵を追い詰め、ただ一撃で打ち落とし、そのまま上段に返る戦法という。

 宇垣少将はそれに相当の不安を感じて、次の様に述べた。

 「移動性が多く、広い海面に作戦する海上兵力に対して、事前に十分な調査を行い、索敵を完全にするなどは容易ではない。状況の変化に即応する手段こそが肝要なのだ」

 「山口多聞(宇垣と海軍兵学校同期)は、一航艦の思想にあきたらず、作戦実施中もしばしば一航艦司令部に意見具申をしたが、同司令部が計画以外に妙機をつかんで戦果の拡大を計ったり、状況の変化に即応する処置を講じたりすることは絶無だったと、俺に三回も語っていた」

 「俺も山口と同じ考えだ。『一航艦司令部は誰が握っているのか』と尋ねると、山口は『長官はひと言も言わぬ。参謀長(草鹿)、先任参謀(大石)など、どちらがどちらか知らんが、億劫(面倒で気が進まない)屋ぞろいだ』と答えた。今後、千変万化の海洋作戦において、果たしてその任に堪えられるかどうか」。

 さらに、宇垣少将は、草鹿少将に次のように質問をした。

 「艦隊戦闘において敵に先制空襲を受ける場合、あるいは陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をつかれた場合はどうするか」。

 これに対して、草鹿少将は「かかることのないように処置する」と、あっさり答えた。

 さらに追及すると、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐(広島・海兵五二・十七番・海大三五次席)が代わって次の様に答えた。

 「艦攻に増槽(追加の燃料タンク)をつけ、四五〇カイリ(約八三三キロ)先まで飛べる偵察機を各母艦に二、三機ずつ配当できるので、これと巡洋艦の零式水偵を使用して、側面哨戒に当たらせる。敵に先んぜられた場合は、現に上空にある戦闘機によって対処する以外に策はない」。

 宇垣少将は、これを悲観的自白と受け取った(以上宇垣纒著「戦藻録」参照)。ところが、源田中佐は、機動部隊の航空戦にかけては、過剰と言えるほど、自信満々だった。

 源田中佐は、空母を集団使用すれば、防空戦闘機を多数配備できるので、敵飛行機隊を撃退できると確信していた。

 軍令部第一部作戦課航空主務部員・三代辰吉(みよ・たつきち)中佐(茨城・海兵五一・海大三三・空母「加賀」飛行隊長・第四航空戦隊参謀・第二艦隊参謀・中佐・軍令部第一部作戦課航空主務部員・第一一航空艦隊参謀・第七三二海軍航空隊司令・大佐・横須賀航空隊副長兼教頭)は次のように語っている。

 「昭和十七年四月二十日頃、軍令部がミッドウェー作戦において、我が空母に損害が出るのではないかと不安を抱いていたとき、源田参謀は、空母を集団使用し、上空警戒機(防空戦闘機)を多数集中すれば、敵の航空攻撃は阻止できると断言し、軍令部を安心させた」。

 当時、源田実航空甲参謀は、「艦爆と雷撃機の大兵力を集中すれば、一挙に敵を撃滅できるし、上空警戒機を多数集中すれば、敵の航空攻撃は阻止できる」という用兵思想に徹していた。

 また、「戦史叢書・ミッドウェー海戦」には、次の様に記されている。

 「南雲長官は、少なくとも航空作戦の計画や指導などには、ほとんどイニシアチィーブをとることはなく、幕僚の意見を『うんよかろう』と決裁していたようである」

 「草鹿参謀長もまた、ほとんど口を出さなかったようである。その上大石首席(先任)参謀は航海専攻の人で、航空に関する経験が少なかった」

 「勢い航空作戦の計画も指導も、源田航空参謀の意見がほとんど全部通っていた。……当時、機動部隊を源田艦隊と評した者さえあった」
 
 「従って一航艦司令部の航空作戦指導は、源田参謀の用兵思想に影響されるところが絶大であったといえよう」。

 昭和十七年五月半ばの頃だった。海軍省人事局別室に、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐が入って来て、航空機整備員を担当する猪原武雄少佐に次のように談判を始めた。

 「今度は実に大事な作戦だ。いい整備員が多くいる。整備員の学校から、教官でも教員でも、うんといいのを、できるだけよこしてくれ」。

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568.源田実海軍大佐(28)日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した

2017年02月10日 | 源田実海軍大佐
 大石中佐「ああ、そう言うけどだめなんだよ。ウチじゃそういうこと言ったって、源田君がわれわれの言うことを聞いてくれやしないよ。源田君はもっぱら母艦を集めて、戦闘機だけで守っていれば大丈夫、向こうはぜんぶ落とせる、攻撃は受けないと言って、自信満々なんだ」。

 中島少佐「そう言ったって、大型機に夾叉されたでしょう。運よく命中しなかったけれど、当たれば怪我しますよ」。

 大石中佐「そうなんだが、いくら言っても聞かなくて困るんだ」。

 中島少佐は、大石中佐の口ぶりから、これが源田と他の幕僚の関係をあらわしている、と思った。

 昭和十七年四月二十八日から三日間、連合艦隊は、戦艦「大和」に各司令長官、幕僚を集め、「連合艦隊第一段作戦戦訓研究会」を行なった。

 だが、この研究会について、連合艦隊作戦参謀・三和義勇大佐は、四月二十八日の日記に次のように記している。

 「勝ち戦の研究会は愉快なれども余り身(実)はなし、皆、勇者にして皆智者の如し。失敗も相当多かるべきに」。

 この研究会は、真珠湾で第二撃をやらなかったこと、米空母を捕捉できなかったこと、インド洋で英機動部隊を逸したこと、英爆撃機に奇襲されて「赤城」が危なかったことなども、真剣に検討されず、ほとんど通り一遍のものだったようである。

 それでも、二、三は注目すべきことがあった。

 第二航空戦隊司令官・山口多聞少将は、連合艦隊を再編して、空母を中心とする機動部隊三群にすべきであると主張した。

 これに賛成した、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は、「秦の始皇帝は阿房宮(あぼうきゅう)を作り、日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した」と公言した。

 続けて、源田中佐は「即刻航空主兵の思想に結集し、一切をあげて航空中心の軍備に徹底すべきだ」と論じた(淵田美津雄大佐の戦後の回想)。

 山本五十六大将が、この両人と同意見であることを知っている一同は、誰も反論しなかった。

 当時、第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」飛行隊長だった淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐(奈良・海兵五二・海大三六・空母「龍驤」飛行隊長・佐世保鎮守府参謀・空母「赤城」飛行隊長・第三航空戦隊参謀・空母「赤城」飛行隊長・中佐・横須賀航空隊教官・兼海軍大学校教官・第一航空艦隊参謀・連合艦隊航空甲参謀・大佐・海軍総隊兼連合艦隊航空参謀・戦後キリスト教伝道)は、次の様に考えていた。

 「日本艦隊の主戦兵力は、空母六隻を基幹とする南雲部隊だ。柱島に在泊している戦艦七隻は、もはや中核ではない。無用の長物的遊兵だ」

 「南雲部隊は、やらずもがなの南方作戦に使うべきではなかった。戦艦部隊は柱島に遊ばせておくべきではなかった」

 「これらを合体させて一つの有力な機動部隊を編成し、東方海面で、米国機動部隊と決戦すべきだった」。

 一方、連合艦隊参謀長・宇垣纒(うがき・まとめ)少将(岡山・海兵四〇・九番・海大二二・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・連合艦隊参謀・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・中将・第一戦隊司令官・第五航空艦隊司令長官・戦死)は、南雲機動部隊を次のように見ていた。

 「ハワイ海戦にせよ、ポートダ-ウィン、あるいはセイロン方面攻撃にせよ、多くは据物切りと言うべきで、敵に大海上航空部隊がいなかったから、多大の成果が得られたのだ」。

 これに対して、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)少将(石川・海兵四一・十四番・海大二四・装甲巡洋艦「磐手」副長・大佐・航空本部総務部第一課長・空母「鳳翔」艦長・支那方面艦隊参謀・軍令部第一部第一課長・空母「赤城」艦長・少将・第四連合航空隊司令官・第二四航空戦隊司令官・第一航空艦隊参謀長・第三艦隊参謀長・横須賀航空隊司令・南東方面艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官)は次のように述べた。

 「海上航空部隊の攻撃は、十分な調査と精密な計画の下に切り下ろす一刀の下にすべてを集中すべきであり、そうしてきた」。


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567.源田実海軍大佐(27) なぜ初めに、『意見具申した』と言ったかということだ

2017年02月03日 | 源田実海軍大佐
 ブランゲ博士の「トラ トラ トラ」では、源田中佐や淵田中佐は、積極的に再攻撃の意見具申をしたように書かれている。

 だが、源田中佐と淵田中佐が南雲司令長官や草鹿参謀長に、第二撃(再攻撃)の意見具申をしたということは、実際には、無かった。

 「真珠湾作戦回顧録」(源田実・文春文庫)の「序」で、著者の源田実は次のように記している。

 「私に合点できない一つの例は、第二撃の問題である。私自身は前日まで、連続攻撃の必要性を長官に具申し続けたことを覚えているが、長官には絶対にその意思がないことを見定め、それ以後は一言半句もこれに触れてはいないのである」

 「著書などで、赤城の艦橋で私が二次攻撃を主張したとなっているのもあるが、これは事実に反する。私だけではない。他の何人からも強い二次攻撃に関する意見具申はなかった」。

 また、「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)でも、源田実自身、次のように記している。

 「ハリウッド映画『トラ トラ トラ』などで、淵田中佐が私に『もう一度攻撃させろ』と言ったことになっているが、あれはウソである。また私が南雲長官や草鹿参謀長に対して、再度出撃を迫ったというのも、これまたウソである」

 「淵田中佐は、もう一度出撃するつもりで、士官室で腹ごしらえをしていたし、第二航空戦隊の山口多聞少将は『われ、第二出撃準備完了す』と催促の信号を送って来た」

 「また、第三戦隊司令官・三川軍一中将からも、もう一度攻撃を加えるべきである旨の意見具申があったことは事実である」

 「だが、そのころは、朝から悪かった天候が一層悪化し、夜間攻撃を終えて帰って来る飛行機の収容は、不可能な状態にあった。それは敵の潜水艦よりも危険だった」。

 こうなると、ブランゲが「トラ トラ トラ」でデッチ上げを書いたか、源田がブランゲにデッチ上げを言ったか、どちらかになる。

 「トラ トラ トラ」を翻訳したのは、千早正隆(ちはや・まさたか・海兵五八・八番・海大三九・第四南遣艦隊作戦参謀・連合艦隊作戦乙参謀・兼海軍総隊参謀・終戦時中佐)だ。

 ブランゲが淵田や源田にインタビューしたとき通訳をした千早は、次の様に断言している。

 「ブランゲは源田氏や淵田氏にインタビューしていた時、なぜ第二撃をやらなかったかを、非常に聞いている。源田氏は『第二撃の意見具申をしたんだが、採用にならなかったんだ』と、はじめの時言った」

 「ブランゲの『トラ トラ トラ』では『意見具申した』となっている。そこで私が感じた事は、なぜ初めに、『意見具申した』と言ったかということだ。ああいう重大な問題について明言したことを、後になって言った事は無かったと言うのは、おかしいと思う」

 「淵田氏はイマジネーション(想像力)が強い。ブランゲと私が感じた事だ。攻撃から最後に帰り、すぐ艦橋に上がり、二撃を力説したと言っていた。実際はそういうことをやっていない。意見具申すべきだと思っていたのが、意見具申したになったようだ」。

 『トラ トラ トラ』の単行本や映画に出てくる淵田や源田はカッコいい。両人ともそうありたいと切望し、ブランゲに対して、ないこともあったように話したというのが、真相のようである。

 昭和十七年四月二十二日、機動部隊本隊の空母「赤城」「蒼龍」「飛龍」は、それぞれ内地の母港に、四ケ月余ぶりに帰港した。

 「航空作戦参謀 源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、四月末、瀬戸内海西部の柱島泊地に在泊する第二艦隊(南方部隊本隊)旗艦・重巡洋艦「愛宕」で、インド洋作戦までの作戦研究会が開かれた。

 この「愛宕」に、一航艦先任参謀・大石保(おおいし・たもつ)中佐(高知・海兵四八・十三番・海大三〇・砲艦「嵯峨」艦長・興亜院調査官・第一航空艦隊先任参謀・海軍大学校教官・特設巡洋艦「愛国丸」艦長・大佐・海軍省兵備局第三課長・第一課長・運輸本部総務課長・海軍航海学校教頭・横須賀突撃隊司令・戦後第二復員官・佐世保地方復員局艦船運航部長・死去・少将)が来艦した。

 この大石中佐に、第二艦隊通信参謀・中島親孝(なかじま・ちかたか)少佐(北海道札幌市・海兵五四・海軍通信学校高等科首席・海大三七・少佐・軍令部第四部九課・第二艦隊参謀・第三艦隊通信参謀・連合艦隊情報参謀・中佐・兼海軍総隊参謀・戦後厚生省援護局第二課長・著書「連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」)が次の様に話しかけた。

 中島少佐「ツリンコマリ攻撃の時、「赤城」は英国の大型機に爆撃されて、夾叉(きょうさ)されている(数個の爆弾が艦を挟むように弾着する)じゃないですか。危ないですから、ひと固まりの隊形を考え直して、陣容をもっと強化しなければだめですよ」。















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566.源田実海軍大佐(26)数日この付近にとどまって、敵の航空母艦をやっつけましょう

2017年01月27日 | 源田実海軍大佐
 この淵田中佐のトラ連送「トラトラトラ」は、空母「赤城」だけでなく、広島湾にいた連合艦隊旗艦・戦艦「長門」でも、東京の大本営でも直接受信した。

 七時五十三分、「赤城」は、淵田中佐に「隊長、先の発信、赤城了解」と返信した。奇襲に成功したことを知った、草鹿龍太郎参謀長は南雲忠一司令長官の手を固く握り、落涙した。源田中佐は「やはり真珠湾攻撃をやってよかった」と思った。

 損害は日本海軍が、未帰還機二九機、損傷七四機、戦死五五名。特殊潜航艇未帰還五隻、戦死九名、捕虜一名だった。

 アメリカ海軍の損害は、沈没…戦艦四隻、標的艦一隻、その他一隻。大破…軽巡洋艦二隻、駆逐艦二隻、中破…戦艦一隻、駆逐艦一隻。小破…戦艦三隻、軽巡洋艦一隻。航空機一八八機破壊、一五五機破損。戦死軍人二三四五名、民間人五七名。

 米国の歴史学者で、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で、情報部の戦史室長であった、ゴードン・W・ブランゲ博士の著書、「トラ トラ トラ」(並木書房・四四二頁)には、真珠湾攻撃終了後の様子を次のように記している(要旨抜粋)。

 第一波の最後に帰艦した淵田中佐は、その日の午後ふたたび敵に対して攻撃を加える事しか考えていなかった。次の目標として、燃料タンク、修理施設、および午前中の攻撃でうちもらした一、二隻の艦を思い描いていた。

 淵田中佐は空母「赤城」の艦橋に行き、報告を終えると、南雲司令長官が言った。「アメリカ艦隊が今から六カ月以内に真珠湾から出てくる可能性があると思うか」。

 淵田中佐は「主力が六カ月以内にでてくることはできないだろうと思います」と答えた。すると、草鹿参謀長が「次の目標は何にすべきだと思うかね」とたずねた。

 その言い回しには積極性がうかがわれたので、淵田中佐は、ほっとして「工廠、燃料タンク、機会があれば重ねて艦船に攻撃を加えるべきと思います」と答えた。

 草鹿参謀長はアメリカの反撃の可能性について質問した。源田中佐と淵田中佐は、「オアフ島とその近海の制空権はすでに日本の手中にあると思う」と答えた。

 南雲司令長官は「敵の航空母艦はどこにいると思うか」と質問したので、淵田中佐が「日本の機動部隊を探しているでしょう」と述べると、南雲司令長官は、明らかに動揺したように見えた。

 敵が傷つき、ひざを屈した今こそ、徹底的に敵をたたきふせるチャンスであると、不屈で剛毅な源田中佐は考えた。

 源田中佐は、「数日この付近にとどまって、敵の航空母艦をやっつけましょう」と力強く提案した。

 源田実は、一九六六年当時も、「攻撃後すぐアメリカの航空母艦を全力で捜索すべきだった。敵が見つかったら、たとえ夜間攻撃になっても、すぐ攻撃をかけるべきだった。……淵田中佐と私は、必要とあらば、オアフ島の附近に二、三日とどまる覚悟をしていた」と、残念がっていた。

 草鹿参謀長は「私はちゅうちょすることなく長官に引き揚げることを進言した」と述べている。南雲司令長官は、すぐにそれに同意した。

 ブランゲは、淵田、源田両氏に対して、インタビューをそれぞれ五十回以上行っている。ブランゲは、「トラ トラ トラ」に、両氏が言った通りのことを書いた。

 「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)によると、山口多聞第二航空戦隊司令官は、機動部隊の旗艦「赤城」に「第二撃準備完了!」の信号を送った。

 第二航空戦隊の旗艦「蒼竜」では、江草隆繁艦爆隊飛行隊長をはじめとする搭乗員や、鈴木栄二郎航空参謀がじりじりして、山口司令官に再攻撃の意見具申をするよう要望した。

 だが、山口司令官は「赤城」を凝視したまま、「南雲さんはやらないよ」と言っただけであった。

 山口県岩国沖の柱島泊地に在泊する「長門」の連合艦隊司令部でも、「再度攻撃を命令すべき」という議論が起こり、山本五十六司令長官に進言した。

 山本司令長官は、「南雲はやらないだろう」と言った。山本司令長官は、以前、南雲司令長官と草鹿参謀長に「ハワイ奇襲作戦は一任する」と約束していた。山本長官は「泥棒だって、帰りはこわいのだから」と付け足して言った。




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565.源田実海軍大佐(25)どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない

2017年01月20日 | 源田実海軍大佐
 「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)によると、著者の源田実は、ハワイ作戦の北方航路進撃決定について、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 昭和十六年九月中旬、ハワイ奇襲作戦の図上演習が行われたが、その後、この図演の研究会が行われた。

 第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将は、ハワイへの進出航路について、「図演では海はシケないが、実際はそうはいかんよ」と北方航路に反対した。

 これに対し、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は次のように反論した。

 「長官にお考え願いたいのは、そのことです。どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない。事前に発見されれば、全滅しかねない」

 「絶対奇襲を考えるならば、兵術常識を外れなければ、成功の道はありません。米海軍将校は、日本海軍の艦艇の性能、平素の教育、演習実施の状況などから考えて、まさかハワイを航空母艦で攻撃するとは思っていないでしょう」

 「ことに北方航路は、彼ら自身が海がシケるために演習をやっていないくらいだから、船乗りが冬場この海面を使用することは考えていないだろうし、備えもしていないに違いありません」

 「鵯越が馬の通れるところなら、平家の軍勢は裏側からの攻撃にも応じる備えをしたでしょうが、馬は通れないと思っていたからこそ、備えをしていなかった」

 「その“虚”を義経の騎馬隊は衝いた。“鹿が降りられるところを馬が降りられないはずは無い”とさか落しに敵本陣になだれ込んだのです」

 「北方航路は確かに困難でしょう。しかも、そこは私らの努力によって切り開かなければならないと思います」。

 この源田中佐の意見が述べられた時、九州南方海面で大型艦艇に対する洋上補給の試験を繰り返していた空母「加賀」から電報が届いた。

 艦長・岡田次作(おかだ・じさく)大佐(石川・海兵四二・六十三番・空母「加賀」飛行長・中佐・館山空副長・航空本部教育部員・大佐・海軍大学校特修学生・第二三航空隊司令・水上機母艦「能登呂」艦長・空母「龍驤」艦長・艦政本部総務部第一課長・空母「加賀」艦長・戦死・少将)からのもので、「洋上補給成功」というものだった。

 さらに源田中佐の意見具申を聞いていた連合艦隊の佐々木航空参謀が、助言をした。「北方航路以外をとるようなら、この作戦はやめた方がよい」。

 源田中佐は、第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)に対して、「どう思われますか?」と聞いた。

 すると、山口少将は「そりゃあもう、北方航路だよ」と賛成した。それで、南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた。

 以上が「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)で、源田実が述べている「北方航路」決定のいきさつである。

 ところが、「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)で、著者の生出寿は、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 だが、この(源田実の)説明には事実と違っているところがあるようである。「加賀」の洋上補給が成功したのは十月十日で、この時は南雲中将も「加賀」に乗っていたはずである。

 『南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた』と言うが、この当時の南雲は、まだハワイ奇襲作戦そのものに反対で、十月二日(あるいは三日)、山本五十六が大西、草鹿の「ハワイ奇襲作戦中止」意見を却下してから、自分も反対をとり止めた。

 そして十月十日、「加賀」の燃料洋上補給が成功して、北方航路進撃の肝を固めたのであった。南雲は源田の分り切った意見より、省部の研究や、草鹿、大石の意見を尊重したはずである。
 
 以上が、生出寿氏の回想である。

 昭和十六年十二月八日未明、ハワイオアフ島の真珠湾に停泊していた、アメリカ海軍の太平洋艦隊に対して日本海軍は航空機及び特殊潜航艇による攻撃を行った。真珠湾攻撃である。

 真珠湾への奇襲攻撃は成功した。午前七時五十二分、水平爆撃隊九七式艦攻に乗っている、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐は第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」に、トラ連送「トラトラトラ」(ワレ奇襲に成功セリ)を打電した。







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564.源田実海軍大佐(24)日本海軍は米国のハドソン河で観艦式など絶対にできない

2017年01月13日 | 源田実海軍大佐
 当時、第一航空艦隊司令長官は、南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(山形・海兵三六・五番・海大一八・次席・海軍大学校教官・大佐・軽巡洋艦「那珂」艦長・第一一駆逐隊司令・軍令部第二課長・支那事変軍事調査委員会委員・重巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・第八戦隊司令官・海軍水雷学校校長・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面司令長官兼第一四航空艦隊司令長官・自決・功一級金鵄勲章・大将)だった。

 昭和十六年九月二十九日、南雲司令長官は、草鹿参謀長、大石首席参謀、源田航空甲参謀、吉岡忠一航空乙参謀(海兵五七・恩賜・海大三九首席・第二三航空戦隊参謀・第一航空艦隊航空乙参謀・横須賀航空隊飛行隊長・海軍大学校三九期学生・第二六航空戦隊首席参謀・兼第一航空艦隊参謀・中佐・横須賀鎮守府附・ルソン島で捕虜・戦後吉岡商会創業)を引きつれ、鹿屋基地に行った。

 南雲司令長官は、鹿屋基地で第一一航空艦隊の次の二人とハワイ作戦反対の打ち合わせを行った。

 司令長官・塚原二四三(つかはら・にしぞう)中将(山梨・海兵三六・二十番・海大一八・軽巡洋艦「大井」艦長・ジュネーヴ会議全権随員・空母「赤城」艦長・少将・第二航空戦隊司令官・第一連合航空隊司令官・中将・鎮海要港部司令官・第一一航空艦隊司令長官・航空本部長・兼軍令部次長・横須賀鎮守府司令長官・大将)。

 参謀長・大西瀧治郎(おおにし・たきじろう)少将(兵庫・海兵四〇・二十番・佐世保航空隊司令・大佐・横須賀航空隊副長・航空本部教育部長・第二連合航空隊司令官・少将・第一連合航空隊司令官・第一一航空艦隊参謀長・航空本部総務部長・中将・軍需省航空兵器総局総務局長・第一航空艦隊司令長官・軍令部次長・自決)。

 打ち合わせの結果、ハワイ奇襲作戦はとりやめ、第一航空艦隊を南方作戦に使うべきであるという意見に、全員が一致した。

 大西参謀長は最後に次のように発言した。

 「私は、ハワイ攻撃は絶対に反対だ。日本海軍は米国のハドソン河で観艦式など絶対にできない(日本が米本土を攻略・占領することは不可能)。したがって、長期戦争になるならば、ある程度で講話を結ばなければならない」

 「そのためにも、ハワイ攻撃のような米国民を強く刺激する作戦は避けるべきである。太平洋で戦って、真っ先に米空母をつぶすべきだ」。

 この大西少将の合理的な判断は、後に的中した。さすがに強気の源田航空甲参謀も、一同の理のある意見に反論できず、大西参謀長までも反対の状況では、従うほかなかった。

 十月二日朝、大西少将、草鹿少将、源田中佐、吉岡少佐の四人は、大分県の佐伯基地に行った。それから大西少将、草鹿少将の二人が停泊中の連合艦隊旗艦・戦艦「陸奥」に山本司令長官を訪ねた。

 大西少将と草鹿少将は、山本司令長官にハワイ作戦中止を訴えた。だが、山本司令長官は、二人の進言には応えず、「両艦隊とも幾多の困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦はぜひやるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」などと、一方的にハワイ作戦決行を命令口調で力説した。

 山本司令長官の強い決意を知った、大西、草鹿両少将は、さすがに反対意見を取り下げずにはいられなかった。もしこれ以上反対したら、職を辞する以外になかったのである。

 大西少将、草鹿少将が「陸奥」を退艦する時、山本司令長官は二人を舷門まで見送り、後ろから、草鹿少将の肩をたたき、次の様に言った。

 「君の言うこともよく分った。しかし、真珠湾攻撃は僕の固い信念だ。これからは反対意見を言わず、僕の信念を実現することに全力を尽くしてくれ。その計画は君に一任する。南雲長官にもその旨伝えてくれ」。

 草鹿少将は、感動して「全力を尽くして長官のお考えの実現に努力します」と答えた。草鹿少将は、航空のエキスパートで、中堅士官時代から山本司令長官が目をかけており、秘蔵っ子ともいえる関係だった。

 大西少将は、真珠湾攻撃に承服したものの、やはり不本意ではあった。一年後の、昭和十七年九月末、ガダルカナル島攻防戦で日本軍が悪戦苦闘している時、海軍航空本部長であった大西少将は、兵庫県の柏原中学校の同級生、徳田富二に会った。

 その時、徳田が大西少将に「真珠湾は、あれでよかったのか?」と質問すると、大西少将は「いかんのだなあ」と答えて、続けて次の様に言った。

 「あれはまずかったんだよ。あんなことをしたために、アメリカ国民の意志を結集させてしまったんだ。それがこの頃の海戦にあらわれてきているよ」。






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563.源田実海軍大佐(23)誰が会議をやってくれと頼んだか。戦は自分がやる

2017年01月06日 | 源田実海軍大佐
 九月十六日、十七日の二日間、海軍大学校で実施されたハワイ奇襲作戦の図上演習では、基地航空部隊がジャワ島の線に進出するまでに、ゼロ戦が六〇パーセント、陸上攻撃機が四〇パーセント消耗するという、厳しい結果となり、南方作戦においては航空兵力の不足が示された。

 九月二十四日、軍令部作戦室で行われた、ハワイ奇襲作戦の採択についての討議では、次の様な発言がなされた。

 第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将は次のように発言した。

 「成否のカギは敵の不意に乗じて奇襲できるかどうかにある。南方作戦兵力が足りない。むしろ南方に母艦兵力を集中して、すみやかに南方を片付けるのが大局的に有利である」。

 だが、第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐は、ハワイ作戦に消極的な上司の草鹿少将と異なる意見を述べた。源田中佐は、ハワイ作戦には極めて積極的であり、次のように述べた。

 「敵艦隊が真珠湾に在泊する場合、飛行場制圧には艦爆八一機を振り向ける必要があり、空母に対しては、艦爆五四機を当てるが、それで三隻は大丈夫撃沈できる」

 「艦攻全機に水平爆撃をやらせれば、戦艦五隻、あるいは戦艦二、三隻と空母三隻はやれると思う(雷撃は不可能という前提)」

 「企画秘匿のため、内地に残る飛行機によって、わが母艦部隊が内地で訓練中であるかのようにカモフラージュをする必要がある。第一、第二航空戦隊は攻撃には自信を持っている」。

 航海将校である、第一航空艦隊首席参謀・大石保中佐は、ハワイに至る航海上の難点を、次の様に述べた。

 「敵機の哨戒が三〇〇海里(約五五六キロ)ならば航路選定は楽だが、四〇〇海里(約七四〇キロ)以上となると、苦しくなる(飛行機隊発進前に発見される)」

 「洋上燃料補給は風速一一メートル以上になると、駆逐艦に対しても困難となり、戦艦や空母への補給はいっそう困難である」。

 連合艦隊航空参謀・佐々木彰中佐は、強気そのもので、次の様に主張した。

 「南方航路をとるようなら本作戦はやめたほうがよい(機密保持が不可能)。奇襲を論じたらきりがない。むしろ断行すべきである」。

 軍令部第一部長・福留繁少将は、ハワイ作戦の成功を危ぶみ、次の様に発言した。

 「開戦日は十一月二十日ごろが望ましい(準備のため大幅な延期を希望する連合艦隊側に対して、その後の作戦を考慮して反対した)。巧妙な奇襲は望みがたい。南方地域はどうしても早く手に入れる必要が絶対にある」。

 連合艦隊参謀長・宇垣纒少将は、山本五十六司令長官の意を体して、次の様に反論した。

 「開戦日を一か月遅らせても、ハワイ作戦をやった方が全般の作戦を進捗させることにならないか」。

 結局、作戦採択の決定権を持つ軍令部側は、確信を持てず、ハワイ奇襲作戦採択の決定はなされなかった。

 源田実は、この時の討議を、戦後、振り返って次の様に回想している。

 「連合艦隊は積極的なのに、第一航空艦隊は消極的、むしろ反対の空気があり、また軍令部は極めて慎重で、意見は一致しなかった。会議後、黒島亀人参謀から『軍議は戦わずですよ』言われたことが、印象深く記憶に残っている」。

 だが、討議後、宇垣少将は、福留少将に「山本長官は職を賭してもハワイ作戦を決行する決意だ」と言ったことから、軍令部側は、山本長官の固い決意を知った。

 討議が終わり、宇垣少将、黒島大佐、佐々木中佐らが瀬戸内海、岩国沖の柱島泊地のブイに係留されている連合艦隊の旗艦、戦艦「長門」に帰り、山本五十六長官に報告すると、山本長官は、彼らにバクダンを落とした。

 「だいたいお前たちはハワイ攻撃をやらないで南方作戦ができると思っているのか。誰が会議をやってくれと頼んだか。戦は自分がやる。会議などやってもらわなくてよろしい」。



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562.源田実海軍大佐(22)うむ。あの淵田か。知っている。あれならやれる

2016年12月30日 | 源田実海軍大佐
 「源田参謀」。突然山本大将が声をかけた。「はい」。源田中佐は、長官を見つめた。すると山本大将は「空襲飛行隊の総指揮官に、私案があるか?」

 意外な問いに、源田中佐はちょっと口ごもっていたが、「淵田ならば、やれると思います」と答えた。「淵田?」山本大将が聞き返した。

 すると南雲中将が「はあ、赤城の飛行隊長をしていた男ですが、今三航戦の参謀をしております」と源田中佐の代わりに答えた。

 「うむ。あの淵田か。知っている。あれならやれる」。山本大将は、大きくうなずいた。

 昭和十六年九月十六日、十七日の二日間、品川区上大崎の海軍大学校で、連合艦隊司令長官・山本五十六大将が主張するハワイ奇襲作戦の図上演習が「ハワイ作戦特別図上演習」とされて、極秘裏に実施された。

 「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)によると、海軍大学校での図演後の九月二十四日、軍令部作戦室で、ハワイ奇襲作戦の採択についての討議が行われた。

 この討議に、軍令部からは、次の四名をはじめ六名が出席した。

 第一部長・福留繁(ふくとめ・しげる)少将(鳥取・海兵四〇・八番・海大二四首席・連合艦隊首席参謀・軍令部第二課長・軍令部第一課長・支那方面艦隊参謀副長・戦艦「長門」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・連合艦隊参謀長・海軍乙事件・第二航空艦隊司令長官・第一三航空艦隊兼南遣艦隊司令長官・第一〇方面艦隊司令長官)。

 第一課長・富岡定俊(とみおか・さだとし)大佐(東京・海兵四五・二十一番・海大二七首席・海軍大学校教官・軍令部第一課長・巡洋艦「大淀」艦長・南東方面艦隊参謀副長・少将・南東方面艦隊参謀長・軍令部第一部長・終戦・第二復員大臣官房史実調査部長)。

 第一課部員・神重徳(かみ・しげのり)中佐(鹿児島・海兵四八・十番・海大三一首席・第五艦隊司令部参謀・軍令部第一部第一課兼大本営参謀・大佐・第八艦隊司令部参謀・軽巡洋艦「多摩」艦長・海軍省教育局第一課長・連合艦隊司令部参謀・第一〇航空艦隊参謀長・終戦後青森県津軽海峡で飛行機事故により殉職・少将)。

 第一課部員・佐薙毅(さなぎ・さだむ)中佐(愛媛・海兵五〇・海大三二・連合艦隊航空参謀・軍令部第一部第一課・軍令部第一課作戦班長・大佐・南東方面艦隊参謀兼第一一航空艦隊参謀兼第八方面軍参謀・南東方面艦隊首席参謀・戦後航空自衛隊入隊・航空幕僚副長・第二代航空幕僚長・水交会会長)。

 連合艦隊司令部からは次の三名が出席した。

 参謀長・宇垣纒(うがき・まとめ)少将(岡山・海兵四〇・九番・海大二二・連合艦隊参謀・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・中将・第一戦隊司令官・第五航空艦隊司令長官・沖縄方面へ特攻・行方不明)。

 首席参謀・黒島龜人(くろしま・かめと)大佐(広島・海兵四四・三十四番・海大二六・第九戦隊参謀・大佐・海軍大学校教官・連合艦隊首席参謀・軍令部第二部長・少将・終戦後大東亜戦争調査委員会幹事)。

 航空参謀・佐々木彰中佐(広島・海兵五一・海大三四・海軍大学校教官・連合艦隊航空参謀・大佐・第三航空艦隊首席参謀)。

 第一航空艦隊からは次の三名が出席した。

 参謀長・草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)少将(東京・海兵四一・十四番・海大二四・航空本部総務部第一課長・空母「鳳翔」艦長・支那方面艦隊参謀・軍令部第一課長・空母「赤城」艦長・少将・第四連合航空隊司令官・第二四航空戦隊司令官・第一航空艦隊参謀長・第三艦隊参謀長・南東方面艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・中将・兼海軍総隊参謀長・第五航空艦隊司令長官)。

 首席参謀・大石保(おおいし・たもつ)中佐(高知・海兵四八・海大三〇・砲艦「嵯峨」艦長・第一航空戦隊参謀・第一航空艦隊参謀・海軍大学校教官・大佐・航海学校教頭・横須賀突撃隊司令・終戦・佐世保地方復員局艦船運航部長)。

 甲航空参謀・源田実(げんだ・みのる)中佐(広島・海兵五二・十七番・海大三五・次席・第一航空艦隊甲航空参謀・軍令部第一部第一課・海軍航空技術委員会委員・大佐・第三四三海軍航空隊司令・兼第三五二海軍航空隊司令・戦後航空自衛隊入隊・航空幕僚監部装備部長・航空団司令・臨時航空訓練部長・航空集団司令・航空総隊司令・航空幕僚長・参議院議員・従三位・勲二等)。

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561.源田実海軍大佐(21)万一失敗すれば、全作戦を台無しにして我が艦隊勢力もその半分を失う

2016年12月23日 | 源田実海軍大佐
 その時、「南雲長官」と、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将が突然、声をかけて、次のように言った。

 「それでは、長官は、どうゆう風にやったら良いとおっしゃるのですか?」。

 「南方作戦一本鎗だ」。南雲中将は、間髪を入れずきっぱりと言い切った。そして次の様に南雲中将は論じた。

 「ハワイと南方に空母、飛行兵力を二分するときは、どちらも兵力不足になる恐れがあるし、真珠湾攻撃は何といっても投機的な支作戦にしか過ぎない」

 「成功すれば成る程良いが、それにしても南方作戦が安心してやれる程度で、攻略を企図するのではないから、颱風一過の感じで爾後の戦局への戦果拡充が伴わぬ」

 「万一失敗すれば、全作戦を台無しにして我が艦隊勢力もその半分を失う心配があり爾後、彼我の勢力の均衡は破れる。得るところよりも失うところの方が多かりそうで、開戦の作戦指導としてはまことに危なっかしい気がする」

 「それよりも、南方作戦に全力を傾注して作戦目的を達し、速やかに不敗の態勢を確保した上で、アメリカ太平洋艦隊の撃滅を策する法が手堅いと思われる」

 「我が海軍の全勢力を上げて南方作戦に従事するならば、太平洋艦隊の多少の牽制などはさして介意するに足らないと思う。以上のような理由で、本職は真珠湾作戦に反対である」。

 このような南雲中将の主張を聞いて、連合艦隊の幕僚たちは顔を見合わせた。南雲中将の言にも一理はある。ことに軍令部ではだいたい南方作戦一本鎗の方針だった。

 真珠湾を主唱するものは連合艦隊司令長官・山本五十六大将であるが、南雲中将は、当の真珠湾作戦の最高指揮官たるべき人である。幕僚たちが顔を見合わせたのも無理はなかった。

 だが、山本大将は、相変わらず黙然と、目を閉じたままだった。

 「本職は、真珠湾作戦に全面的に賛成であります」。一座の視線がサッと声の主に注がれた。第二航空戦隊司令官・山口多聞少将だった。山口少将は、やや上気持した顔をこわばらせて、次の様に論じた。

 「南雲長官の言われる通り、真珠湾作戦には、多分に投機的な性格はあります。しかし、南方作戦を前にして、太平洋に重圧を加えている米国艦隊をほっておくということはない」

 「アメリカ海軍は闘志極めて旺盛である。必ずや太平洋艦隊は英蘭豪の艦隊をも糾合して、我が南方作戦へ反撃してくることは必至であります」

 「たとえ上陸に成功しても、補給線を攪乱され、もしくは艦隊の虚に乗じて本土を脅かされるような事態が生じたならば、作戦は収拾のつかないものになる恐れがあります」

 「ゆえに、真珠湾への一撃は、作戦上まずなさなくてはならぬことと認めます。しかも我々の主敵はアメリカ海軍であります。兵力二分の不利を言われるならば我が艦隊の空母勢力はむしろ全部を上げて真珠湾に指向するのが至当です」

 「私のみるところでは、南浦作戦など無防備に等しい地域だから、海軍の全勢力を注ぎ込むほどの事は無い、むしろ緒戦の主作戦はハワイに指向するのが本筋ではないかと思います」

 「以上のような理由から、本職は真珠湾作戦に全面的に賛成で、この成功に、万全の方法を講ずることを望みます」。

 一座は急に騒然とした。賛否両論が確然として対立したのである。南雲中将の所見に賛同の意を表す者と、山口少将の考えを是なりとする者とがはっきり分かれたのである。

 だが、そこまで来ても山本大将は、黙って一座の議論に耳を傾けていた。そして、みんなの議論が出尽くした頃、山本大将は厳然として、次のように言った。

 「真珠湾作戦に対する諸官の見解はよくわかった。しかし、本職の見解は、あくまで真珠湾はたたかねばならぬと思う。

 それは激しい口調だった。一座はしんと静まった。山本大将はきっと一座を見まわして次のように続けた。
 
 「諸官は、本職が連合艦隊司令長官の職にある限り、この作戦は決行するものとお含み願いたい。そして万全の措置を研究しおかれたい」。

 一座の者は、山本大将の固い決意を改めて感じた。




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