陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

587.桂太郎陸軍大将(7)この怪物と闘い続けること数刻、壽熊は遂にこの怪物を討ち取った

2017年06月23日 | 桂太郎陸軍大将
 母はこれに答へて、誰も我が家に刀を遺れたる者なしと云ひたまひしかど、其刀は貴家に在るに相違なしと、使の云ひて已まざれば、母は、我が児の塾より帰りしとき、一口の刀を携へ帰りしが、誰が来り請ふとも、決して返したまふなと託し置きて、我が児は出で行きたり、其刀は今我手に在れド、そはもとより我が家に人の遺れたりしものにはあらずと答へられたり。

 然るに、やがて其家より再び使して云はしめて曰く、前に遺れたりと申しゝは、全く豚児の虚言なりき、実は途中にて甚だしき不都合の所為ありて、令息の為に刀を奪はれたるゆ由申し出でたるにより、厳に豚児を懲らし戒め候ひぬ、但し刀を奪われたりといふこと、世の聞こえも如何なれば、枉げて還したまはんことをひたすら請ひ申すなりと、懇ろに頼み聞えければ、母は、曩には、遺れたる刀など申さるればこそ、還すことを拒みたるなれ、世話にも武士は相見互いと云はずや、不都合を詫びて返付せよと求めらるゝ上は、還し申すべし、再びかゝることなきやう戒められよとて、其刀を返し与へ、我が帰るに及びて其顛末を告げたまへり。

 「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文藝春秋・平成27年)によると、壽熊(桂太郎)は、隣家の農業、末松の倅、権六と終日泥まみれになって戯れるのを常としていた。末松は農事を手伝わないのを怒り、権六をひどく叱った。

 権六は父から叱られたのを怒り、壽熊と共に、自分の家の積藁(つみわら)に火をつけ、燃やそうとした。だが、ボヤの段階で、日は消し止められ、大事にはならなかった。

 父の末松は、権六と壽熊を捕らえ、罰を加えようとした。すると、壽熊は、たちまち謝ってしまった。詳細は不明だが、壽熊は、手をつき泣きながら許しを乞うたのであろうと言われている。

 当時、武士たるものの子が、百姓のおやじに、手をついて謝るとは、よくよくのことだった。この恥ずかしさは、桂太郎は終生忘れなかった。

 後に、桂太郎が出世して、郷里に帰省した際、当時まだ生きていた末松を招き、「あの時、お前が許してくれなかったら、俺も今の地位に進まなかったろう。今日あるは、お前のお陰だ。お互い長命でめでたい。まあ、一杯いこう」と言って盃をさしたと言われている。
 
このことが、彼の故郷では、故郷に錦を飾った成功美談として、伝えられている。だが、川島村には、もう一つ、次の様な桂太郎の美談伝説が語られている。

 村に山王の社があった。樹木がこんもり茂って、ものすごい環境だった。ある日、壽熊が村の子供たちと境内で遊んでいると、空が突然曇りだし、何が何だか分からないうちに暗くなった。

 たちまち、社殿が振動し、天地も傾くかと思っていると、一個の怪物が、拝殿の下に墜ちてきた。二尺(約六〇センチ)あまりの髪の毛を振り乱し、灰皿のような眼玉をいからし、牙をかみ、襲いかかってきた。

 恐れて、子供たちは散り散りになって逃げ去ってしまった。だが、壽熊だけは、逃げずに、その場に踏み止まり、腰の刀を抜き放った。

 この怪物と闘い続けること数刻、壽熊は遂にこの怪物を討ち取った。急を聞いて駆け付けた村人達が、恐る恐るこの怪物の死骸を調べてみたら、世にも珍しいアカシャグマという怪獣だった。

 それ以来、これを「桂の若様のアカシャグマ退治」といって、その地方に言い伝えられている。桂太郎は後にこの社地を買収、記念碑を建てた。

 記念碑の碑文は、桂太郎自らが次のように記しているのだが、アカシャグマ退治のことは全く記していない。

 「郷人社址ノ湮滅ヲ恐レ相議シテ其地ヲ挙ゲ之ヲ予ニ賜リ保存ノ事ヲ委セントス余実ニ川島ニ生レ家社址ニ近シ垂髫ノ時常ニ此ニ嬉遊セリ老蒼ノ樹清冽ノ淵祠宇ヲ囲繞スルノ光景今尚眼底二在リ」。

 慶応二年当時、長州藩の藩主は毛利敬親(もうり・たかちか・家督を相続し長州藩藩主となる・侍従・左近衛権少将・従四位上・左近衛権中将・参議・禁門の変で朝敵となる・敬親父子の蟄居の幕命・幕府と交渉決裂・第二次長州征伐=四境戦争・従四位上参議に復位復職・維新後従三位・左近衛権中将・従二位・権大納言・明治四年薨去・従一位・正一位)だった。

 また、藩主の世子(せいし)は毛利元徳(もうり・もとのり・徳山藩第八代藩主毛利広鎮の十男・毛利敬親の養子となる・禁門の変で兵を率い京に向かう・幕府により官位剥奪・維新後議定に就任・父敬親の隠居で跡を継ぐ・従三位・参議・版籍奉還で知藩事に就任・廃藩置県で免官・上京・第十五国立銀行頭取・貴族院議員・公爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・国葬)だった。

 慶応二年、桂太郎は世子・毛利元徳の御前詰となり、御小姓を命ぜられ、近侍としての任務にあたった。だが、桂は密かに有為の志を抱いていたので御小姓の務めに満足しなかった。
 
 藩主・毛利敬親、その子である元徳の桂に対する信は厚く、桂もよくその任務を果たした。小姓の勤めは、主君の食膳の給仕、髪結い、さかやき剃り、その他身の回りの一切の世話だった。



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586.桂太郎陸軍大将(6)負けてなるものかと、壽熊はさらに二十四枚張の紙鳶を作った

2017年06月16日 | 桂太郎陸軍大将
 「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂太郎は、桂家の先祖を次のように記している。

 我が桂家の遠祖は、参議従三位大江朝臣音入なり。音入十代の孫を前陸奥守正四位下広元とし、広元十代の孫を桂左衛門尉広澄とす。広澄は桂家の祖にして、我は広澄十一代の孫なり。

 また、「桂太郎」(小林三千彦・ミネルヴァ書房・平成18年)では、次の様に述べられている(要旨)。

 桂家の遠祖は鎌倉幕府の政所別当・大江広元だと伝えられている。広元の第四子が毛利氏の祖、季光(すえみつ)である。つまり、桂家と毛利家は大江氏を同祖としているのだが、その後分かれて主従関係を結ぶに至っている。

 桂家は代々、武勇の誉れ高い家柄で、元祖廣澄は毛利広元から元就に至る四代に仕え、各地の戦役に従っている。

 廣澄の長子、元澄は、陶晴賢との戦いで大いに軍功を挙げ、天文二十三年(一五五四年)五月櫻尾城主に封ぜられた。

 元澄には男子が七人あったが、桂家は、第五子である廣繁の嫡流であり、代々毛利家に仕え、桂太郎の祖父、繁世は、馬廻役(一二五石)だった。
 
 萩藩では、録一五〇石以上の者でなくては、物頭、使番などの表役には就けなかった。従って、桂の父、与一右衛門は、祐筆に始まり、世子(元徳)の所帯をつかさどる御用所で終わっている。

 だが、伊藤博文(貧農)、山縣有朋(下級士族)の出自に比べれば、毛利家の家臣団における位置は、はるかに高い。

 「桂太郎」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎の父、与一右衛門は、祐筆、検疫、大検疫、軍艦製造用掛、海防用掛、世子の御用所、船木の代官などを勤めた。
 
 桂太郎は、少年の頃から負けず嫌いの気性だった。壽熊(桂太郎の幼名)は、紙鳶(たこ=凧)あげをして遊ぶのが大好きだった。

 ある日、広折六枚張の紙鳶を作った者がいた。すると、壽熊は負けぬ気を起こして、その倍の十二枚張の紙鳶を作って揚げた。

 今度は、それを真似て、同じく十二枚張のものを作った者があったので、負けてなるものかと、壽熊はさらに二十四枚張の紙鳶を作った。とうとうそれにはかなわないと、もう誰も壽熊に真似る者はいなかった。

 当時の人々は、壽熊の負けず嫌いは、「川島の三勇女」の一人である、壽熊の母・喜代子の気質を受け継いだものだと評していた。

 「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文藝春秋・平成27年)によると、桂太郎の母、喜代子は長州藩、中谷氏の娘で、やせ形の四尺(約一二一センチ)そこそこの小柄の女で、現存する写真によると、髪が薄く、眼が凹(くぼ)み、奥の方に瞳が光っていた。

 鼻筋が通り、キリッと口元が締り、美人ではないが凄味があった。表情の如く、意志が強く、負け嫌いだった。萩の人々は、赤川、江木両家の女房と、喜代子とを併せて、「川島の三勇女」と言った。

 川島村とは、桂太郎が成長した萩城下の、一部落である。川島村には士族屋敷と農家とが、アイ接して居住していた。

 「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂太郎は、母、喜代子について、次の様に記している。

 我が幼き頃、母の常に語りたまひけるやう、汝が両親たる我等は、かくてこそ世を終ふるべきなれ、我が児等は何とぞ人らしき人となれかしとは、我等の希ふ所なり、わけて汝は嫡子にて桂家を嗣ぐべきなれば、及ぶだけの教育を施さゞるべからず、汝を十分に教育する上は、弟妹は汝自らこれを教養すべき手だてをなせよ、我が深く心を費すべきにあらずと宣へり。

 また、同書で、桂太郎は、幼少時に起きた、ある事件における、母の思い出を、次のように書き記している。

 我が母の端正にておはせし一例を記せば、或時学塾よりの帰途、或友と争ひしに、其友は刀を以て我に向ひければ、我は其刀を奪ひ取りてこれを家に持ち帰れり。
 
 既にしてまた出でゝ遊泳せんとするに臨み、母にこれを渡して、若し人の来りて請ふことありとも、決して此刀を返し与へたまふなと話し置きたるが、果たして我の未だ帰らざるに、前の友なる家より使して、今日自家の子が刀を遺れたれば、返付せらるべしと云はしめたり。
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585.桂太郎陸軍大将(5)ニコニコ笑いながらポンと背中を叩くと、誰もがぐにゃとなって

2017年06月09日 | 桂太郎陸軍大将
 「桂太郎―予が生命は政治である」(小林道彦・ミネルヴァ書房・平成18年)の「あとがき」で、著者の小林道彦は、次のように述べている(一部抜粋)。

 「桂太郎の評伝を書くことになった」とある大学の教員に話したら、彼は事もなげに「ああ、あのニコポン宰相ですか」と応えた。

 おいおい君は専門的研究者なんだろう、とその紋切り型の反応に内心やや唖然としながらも、わたしは、桂に対する特定のイメージが牢固として存在していることをあらためて痛感させられた。

 それにしても、「ニコポン」とは何とも軽い表現である。それは、ニコニコ笑ってポンと肩をたたくという、桂一流の人心掌握術に対する揶揄的表現であるが、いったん面と向かってこれをやられると、桂に対して敵意を持っていた人間すらも、何となく和んだ気分になってしまったという。

 もっとも、桂は若い頃から「ニコポン」であったわけではない。明治一九年陸軍紛議の頃の桂は、四将軍派を打倒した得意満面の軍官僚であり、その自信過剰ぶりに不快感を催す者も多かった。

 ところが、その後の左遷人事と弟二郎の借財による桂家存亡の危機が彼を変えたようである。桂がこの危機的状況を乗り切れたのは、もちろん第一義的には桂本人の努力の賜物であるが、井上馨や品川弥次郎、児玉源太郎といった郷里の先輩・友人の物心両面にわたる支援によるところも大きかった。

 そしてこの頃から桂の自信過剰ぶりは蔭をひそめ、むしろ「ニコポン」的な人当たりのよさが前面に出てくるのである。

 人は一人で生きていけるものではないということを痛感させられた時、桂の内面でなんらかの変化が生じたのであろう。そしてそれは、桂が軍官僚から政治家へと転身する、その過程を精神的に支えたのであった。
 
 【千葉功(ちば・いさお)】昭和四十四年生まれ。千葉県出身。平成五年東京大学文学部国史学科卒業。平成十二年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、文学博士。昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科准教授を経て、平成二十三年から学習院大学文学部史学科教授。専攻は日本近現代史。歴史学者。

 著書は、「旧外交の形成―日本外交1900-1919」(勁草書房・平成20年)、「桂太郎―外に帝国主義、内に立憲主義」(中公新書・平成24年)など。

 「桂太郎―外に帝国主義、内に立憲主義」(千葉功・中公新書・平成24年)の「はじめに」で著者の千葉功は、次のように述べている(一部抜粋)。

 桂のあだ名は大きく二つに分かれる。一つは、桂のおおきさにちなむものである。「福助」「才槌」「臼」「巨頭翁」「大顔児」「大きな赤ん坊」などがそれである。

 桂は原子物理学者の仁科芳雄に破られるまで日本人脳髄の重さの最高記録を持っていたという。

 もう一つは、桂の政治スタイルにちなむものである。たとえば、いちばん有名なものに「ニコポン」がある。これは、次のような光景に由来するものであった。

 応接室へ通され、しばらくというので、茶をすすりながら、待っていた。やがて廊下にあし音がしたと思う間に、公(公爵、すなわち桂のこと)は微笑満面、不断着に、兵古帯をぐるぐると巻きつけた無雑作な姿で、「やあ、おはよう」と、そのまま私の前へ、坐り込まれた。

 そうして着物の上から臍下を、ごしごし掻きながら、「君、年をとるといかんぞ、昨夜も、夜ふかしをしょったが、どうもひどく体にこたえてね」と、爆発するような大笑。

 それから「一しょに飯でも。食おうじゃないか。君と議論すりゃ負けるから、勝はまず、君に譲っておくとして、まあゆっくりしたまえ。別にさしつかえないんだろう」と、早くも公は、私のしかみっつらを一瞥して、事面倒と感ずくや得意の一手で、みごと先を越されたのだ。

 こういう加才ない公の長子にかかっては、何人がどんなに激しても、しょせん、切り込みようはあるまい。(片岡直温『回想録』)

 このように、「ニコポン」とは、桂が相手を説得するとき、ニコニコ笑いながらポンと背中を叩くと、誰もがぐにゃとなって、丸めこまれたことにもとづく。

 片岡直温(かたおか・なおはる)は、高知県出身。滋賀県警部長、内務省を経て、日本生命保険会社副社長、同社社長、都ホテル社長を歴任。その後衆議院議員、桂太郎の立憲同志会に参加。商工大臣(加藤内閣)、大蔵大臣(若槻内閣)を務めた。実業家、政治家。

 桂太郎は弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)、長州萩平安古町、川島村の士族屋敷で、桂与一右衛門の長男として生まれた。幼名を壽熊(ひさくま)、のち太郎と改めた。
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584.桂太郎陸軍大将(4)桂こそ近代日本最大の国難、日露戦争を成功裏に処理した最高的功労者

2017年06月02日 | 桂太郎陸軍大将
 【宇野俊一(うの・しゅんいち)】昭和三年十二月二十日生まれ。香川県出身。東京大学文学部国史学科卒業。千葉大学教授。千葉大学名誉教授。歴史学者。平成二十四年七月二十六日死去。享年八十四歳。

 著書は、「日本の歴史26・日清・日露」(小学館・昭和51年)、「明治国家の軌跡」(梓出出版・平成6年)、「桂太郎(人物叢書)」(吉川弘文館・平成18年)、「明治立憲体制と日清・日露」(岩田出版・平成24年)など。

 「桂太郎(人物叢書)」(宇野俊一・吉川弘文館・平成18年)の「はしがき」で著者の宇野俊一は、次の様に述べている(一部抜粋)。

 桂は、大きな頭と、ふとった体躯にふっくらとした顔付から、俊敏という外見はなく、いつもニコニコと笑顔で接し、肩をポンと叩いて親しみを表現することから「ニコポン」宰相とあだなされた。

 確かに、その外貌や対人スタンスは柔和で円満そうであったが、ドイツを範型とする明治陸軍を確立し、陸軍大臣を長く勤め、明治後半期の困難な時代の首相として、三度にわたり政局を運営した人物を、幸運と凡庸という評語で規定することはできない。

 【渡部由輝(わたなべ・よしき)】昭和十六年生まれ。秋田県出身。東京大学工学部卒業。予備校数学教師。教師をしながら、数学関係の参考書・問題集・啓蒙書等の著述に従事。また、戦史も研究、著書もある。

 著書は、「数学は暗記科目である」(原書房・昭和59年)、「数学はやさしい」(原書房・昭和61年)、「コンピュータ時代の入試数学」(桐書房・平成25年)、「数学者が見た二本松戦争」(並木書房・平成23年)、「宰相桂太郎」(光人社NF文庫・平成27年)など多数。

 「宰相桂太郎」(渡部由輝・光人社NF文庫・平成27年)の「はじめに」で著者の渡部由輝は、次の様に述べている(一部抜粋)。

 国家の最高指導者としてその“辛勝”を主導したという一事だけをもってしても、桂の功績は大きい。その意味では、近代日本における最高的功労者といってもおかしくないのではないか。

 にもかかわらず、今日、桂の評価はあまりかんばしいものではない。「ニコポン首相」が通り名になっている。元老たちに媚へつらい、阿諛追従的態度で接したりして権力の座に昇りつめた二流的人物ということである。

 だが、そのていどの小人物に史上最長期間、しかも近代史上もっとも重要な時期に、国家のかじ取りを託すほど、日本民族はおめでたい人種なのだろうか。桂にそれだけの器量があったということではないのか。

 さらに、「宰相桂太郎」(渡部由輝・光人社NF文庫・平成27年)の「あとがき」で著者の渡部由輝は、次の様に述べている。

 今日、わが国のあるレベル以上の知識人で、桂太郎の名を知らない人はまずいないでしょう。近代日本史関係の著作物には、山県有朋率いる軍閥族や藩閥族の一員、さらに日露戦争時の首相として、必ず登場します。

 ただし、それ以上のこと、桂がその山県閥の一構成分子としていかなる活動を行なったのか、日露戦争の遂行にあたりどのような役割を果たしたのかまで知悉している日本人も、あまりいないのではないでしょうか。

 せいぜい「“ニコポン首相”ていどの認識ではないかと思われます。幇間的態度で元老たちを懐柔したりして政界や軍界を遊泳し、首相の座まで登りつめた“二流的人物”ということです。

 実をいうと、数年前まで私もそうでした。桂に対するそういった認識が改めさせられたのはあるきっかけからでした。

 先般、私は「数学者が見た二本松戦争(並木書房)を上梓しました。そのさい、戊辰東北戦争という“無用の戦争”の早期終結にあたり、桂が重要な役割を果たしていることを知り、あらためてその事績を調べているうち、桂こそ近代日本最大の国難といえる日露戦争を成功裏に処理するにさいしての、最高的功労者としておかしくないとの結論に至り、本稿の誕生となった次第なのです。

 【小林道彦(こばやし・みちひこ)】昭和三十一年生まれ。埼玉県出身。中央大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。京都大学博士(法学)。北九州市立大学法学部教授。同大学基盤教育センター教授。専門は日本政治外交史。歴史学者、政治学者。

 著書は、「日本の大陸政策1895―1914」(南窓社・平成8年)、「桂太郎―予が生命は政治である」(ミネルヴァ書房・平成18年)、「児玉源太郎―そこから旅順は見えるか」(ミネルヴァ書房・平成24年)など多数。
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583.桂太郎陸軍大将(3)廣太郎氏は「祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね」と言っている

2017年05月26日 | 桂太郎陸軍大将
 だが、主としては彼の生まれつきによるのである。これが世渡り最大の武器になった。特にこれぞといって、常人に傑出した才能があるのでもなく、元老内閣の後を受け、元老以上の政治勢力を持つまでにノシ上がったのは、ニコポンの効験によるのだった。

 【川原次吉郎(かわはら・じきちろう)】明治二十九年五月十九日生まれ。石川県金沢市出身。東京帝国大学政治学科卒業。中央大学講師、フランス・ドイツ・イギリス・アメリカに留学。中央大学教授、経済部長。一橋大学講師。日本学術会議会員。憲法調査会専門委員。日本政治学会理事。政治学者。昭和三十四年十二月八日死去。享年六十三歳。

 著書は、「政治学序説」(松本書房・昭和2年)、「エスペラントの話」(日本評論出版部・大正12年)、「桂太郎(日本宰相列伝4)」(時事通信社・昭和34年)などがある。

 「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)の<まえがき>で、著者の川原次吉郎は次のように述べている(一部抜粋)。

 桂太郎は、軍政家として公的生活の出発をした。けれども後には、政治家になりきっていたようである。長い外国生活は、桂に外交的識見を与えたことはいうまでもない。

 そのうえ桂には、財政家としての立派な見識もあった。しかし、さすがの桂も、議会においては、在野政党の反対や攻撃には、だいぶまいったらしい。

 持ち前のまけぬ気を、微笑で包みながら、粘り強い政党対策をやって相当の成功はおさめたとはいえ、ついにはみずから新政党を創立する気になったのも、政党の力によらなければ、議会政治の運営は不可能と考えたからであろう。

 【古川薫(ふるかわ・かおる)】大正十四年六月五日生まれ。山口県下関市出身。宇部工業高校機械科卒業、航空機会社入社。召集されるも終戦。戦後山口大学教育学部卒業、教員を経て山口新聞入社。山口新聞記者、編集局長。作家活動。「漂泊者マリア」で直木賞。山口県芸術文化振興奨励特別賞。郷土作家。小説家。

 著書は、「走狗」(柏書房・昭和42年)、「高杉晋作 戦闘者の愛と死」(新人物往来社・昭和48年)、「十三人の修羅」(講談社・昭和52年)、「松下村塾 吉田松陰と門弟たち」(偕成社・昭和54年)、「幻のザビーネ」(文藝春秋・平成元年)、「漂泊者のマリア」(文藝春秋・平成2年)、「軍神」(角川書店・平成8年)、「毛利一族」(文藝春秋・平成9年)、「山河ありき」(文藝春秋・平成11年)、「斜陽に立つ」(毎日新聞社・平成20年)など多数。

 「山河ありき」(古川薫・文藝春秋・平成11年)の「拾遺―あとがきにかえて」によると、著者の古川薫氏は、執筆に先立って、桂太郎の孫にあたる桂廣太郎氏に会って取材している。

 桂廣太郎氏は、東京帝国大学医学部薬学科卒で、古川氏が会った当時は、戦後自分で設立した桂化学株式会社の会長だった。

 「拓殖大学七十年外史」(拓殖大学・386頁・昭和45年)に、祖父桂太郎の思い出として、桂廣太郎氏の談話が所収されている。それによると「ニコポン」について、桂廣太郎氏は次のように述べている。

 日露開戦直前、頭山満さんと神鞭知常さんらから対露強硬態度を迫られた時、祖父の国家の安危のためには、あなた達と同じく首をかけていると、来るべき開戦の決意をほのめかしたということは、これも後日色々な方から承りました。

 よく世間では桂はニコポンといってニコニコ笑ってポンと肩をたたく、八方美人の懐柔策みたいに噂する人がありましたが、かつて貴族院議員だった中山太一氏(中山太陽堂の社長だった人)が予算委員会で時の東條首相に、日露戦争の時、時の首相桂太郎は戦争の切り上げの時機というものを計算して結びをつけたが、あなたはこの戦争(大東亜戦)の潮時をどう考えて居られるかと迫ったことは、御記憶の方も居られるかと思います。

 この引用を見ても祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね。伊藤博文、井上馨といった人々とはふだん仲が良かったが、これが一旦国事に関したことになると、一歩もゆずらず直ぐ喧嘩腰になったそうです。

 以上が、桂廣太郎氏の記述の一部だが、著者の古川薫は、桂廣太郎氏の記述について、次の様に述べている(一部抜粋)。

 ここで廣太郎氏も祖父のあだ名について触れている。この「ニコポン」は、桂太郎の人物像をよく言い当てているのだが、いくらかの揶揄をこめて使われることもあるので、廣太郎氏は「祖父は決してニコポンだけではなかったと思いますね」と言っている。同感である。

 「広辞苑」には「にこぽん にこにこして相手の肩をぽんと叩き、親しそうにうちとけて人を懐柔する態度。明治後期の首相桂太郎の政党懐柔策に対する評価に始まる」とある。

 桂太郎の闊達な親和力を底でささえているのは、ひとつの目的を見据える宰相としての強靭な信念であったといえよう。






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582.桂太郎陸軍大将(2)桂太郎は、当時、世間からは、「ニコポン宰相」と呼ばれていた

2017年05月19日 | 桂太郎陸軍大将
 「明治陸軍の三羽烏」とは、川上操六大将、桂太郎大将、児玉源太郎大将の三将軍である。

 川上操六(かわかみ・そうろく)大将は、嘉永元年十一月十一日(一八四八年十二月六日)生まれ。鹿児島県出身。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争に薩摩藩十番隊小頭として従軍。維新後陸軍歩兵中尉<二十三歳>。近衛歩兵第三大隊長、参謀局出仕。少佐<二十八歳>、歩兵第一三連隊長心得、中佐<三十歳>、歩兵第一三連隊長。明治十五年歩兵大佐<三十四歳>、近衛歩兵第一連隊長。明治十八年少将<三十七歳>、参謀本部次長。明治二十三年中将<四十二歳>、参謀本部次長。明治二十八年征清総督府参謀長。明治三十一年参謀総長、大将<五十歳>。明治三十二年死去。享年五十一歳。従二位、勲一等旭日桐花大綬章、功二級、子爵。

 桂太郎(かつら・たろう)大将は、弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれ。山口県出身。四鏡戦争では中隊長、戊辰戦争では第二大隊司令として従軍。維新後ドイツ留学、陸軍歩兵大尉<二十七歳>、少佐<二十七歳>、ドイツ公使館附き武官、中佐<三十歳>。明治十五年歩兵大佐<三十四歳>、大山巌欧州派遣随行。明治十八年少将<三十七歳>、陸軍省総務局長兼参謀本部御用掛。陸軍次官。明治二十三年陸軍中将<四十三歳>、第三師団長。台湾総督。明治三十一年陸軍大臣、陸軍大将<五十歳>。明治三十四年内閣総理大臣。明治四十一年内閣総理大臣。大正二年内閣総理大臣、十月死去。享年六十五歳。従一位、大勲位菊花章頸飾、功三級、公爵。

 児玉源太郎(こだま・げんたろう)大将は、嘉永五年二月二十五日(一八五二年四月十四日)生まれ。山口県出身。函館戦争に下士官として従軍。維新後陸軍権曹長<十八歳>。明治四年四月陸軍歩兵准少尉<十九歳>、八月歩兵少尉<十九歳>、九月歩兵中尉<十九歳>。明治五年七月歩兵大尉<二十歳>。大阪鎮台、熊本鎮台、少佐<二十二歳>。熊本鎮台参謀副長、中佐<二十八歳>。明治十六年歩兵大佐<三十一歳>、参謀本部第一局長、陸軍大学校長。明治二十二年少将<三十七歳>、陸軍次官兼陸軍省軍務局長。明治二十九年中将<四十四歳>、第三師団長。台湾総督。明治三十三年陸軍大臣。内務大臣。文部大臣。参謀本部次長。明治三十七年大将<五十二歳>、満州軍総参謀長。台湾総督、陸軍参謀総長。明治三十九年南満州鉄道創立委員長。七月死去。享年五十四歳。正二位、勲一等旭日大綬章、功一級、子爵。

 「近代日本軍人伝」(松下義男・柏書房・昭和五十一年)によると、軍令の川上操六大将に併称される者は、軍政の桂太郎大将である。

 川上操六大将の陸軍軍令界における功績は卓越して大きく、桂太郎大将の陸軍軍政界における功績は川上操六大将に比肩する程度には至らないにしても、他に彼に優る者の無いほど大きい。

 川上操六大将は、終生軍人として国家に尽くしたが、桂太郎大将は、その半生を、政治家として国家に尽くした。

 その桂太郎は、当時、世間からは、「ニコポン宰相」と呼ばれていた。命名者は東京日日新聞の記者、小野賢一郎だった。

 小野賢一郎(おの・けんいちろう=俳人「小野蕪子」)は、一八八八年七月二日生まれ。福岡県出身。十六歳で小学校準教員検定試験合格。代用教員、毎日電報社記者、東京日日新聞社記者、同社社会部長。日本放送協会文芸部長、同協会業務局次長兼企画部長。高浜虚子らに師事、俳人。日本俳句作家協会常務理事一九四三年二月死去。

 桂太郎が、ニコニコ笑って、ポンと肩を叩き、政治家や財界人を手なずけるのに、巧みだったため、小野賢一郎記者が新聞にそう書いたのが始まりだと言われている。

 だが、桂太郎の、この「ニコポン宰相」については、少し掘り下げて、その人物像を論評している、次のような知識人、作家、文化人がいる。

 【阿部眞之助(あべ・しんのすけ)】明治十七年三月二十九日生まれ。埼玉県出身。少年時代は群馬県富岡市で過ごす。東京帝国大学文学部社会学科卒業。東京日日新聞入社。東京日日新聞主筆。ジャーナリスト、政治評論家、随筆家。NHK会長に就任。昭和三十九年七月九日NHK会長在職中に急死。享年八十歳。富岡市名誉市民。

 著書は、「戦後政治家論―吉田・石橋から岸・池田まで」(文春学藝ライブラリー・平成28年)、「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(文春学藝ライブラリー・平成27年)、「新世と新人」(三省堂・昭和15年)など。

 「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文春学藝ライブラリー・平成27年)所収「桂太郎」の冒頭で、著者の阿部眞之助は次のように記している(一部抜粋)。

 この頃の青年の間には、ヒロポンの使用が広く行われているそうだが、これに似たニコポンという言葉を知っているものは、割合に少ないようである。

 明治から大正にかけて、盛んに用いられた流行語で、毎日の新聞や月々の雑誌などに、出ていないことがなかった。

 この言葉は桂太郎から始まった。彼の妥協的懐柔政策を称して、ニコポン主義といった。

 花柳界の女が、遊客を懐柔するに、「ねえ、あなた」とか何とかいいながら、ニコリと笑って、肩をポンと叩くと、客はたちまちグニャグニャになって、女の意のままに操縦されるようになる。

 桂は、この操縦術の名人だった。彼の一生はニコポン主義をもって終始した。時の勢いが妥協的態度を、余儀なくしたということもあろう。








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581.桂太郎陸軍大将(1)公の晩年は政争の最も劇甚なりし時にして、然も公は其の中心的人物たりし

2017年05月12日 | 桂太郎陸軍大将
 「公爵桂太郎伝・乾巻」(徳富蘇峰・故桂公爵記念事業会・大正6年)の第一編、第一章、緒言の冒頭で、徳富猪一郎(蘇峰)は次のように述べている(一部の分かりにくい旧字体は、新字体に変換またはカッコ内で説明しています)。

 現時に於いて、公爵桂太郎の伝記を編述せんことは寧ろ大膽(大胆)の業なり。何となれば公の先輩たる伊藤公(伊藤博文)、山縣元帥(山縣有朋)、井上侯(井上馨)等の伝記、未だ世に出でず。

 すなわち維新回天の偉業に於ける防長出身者の巨擘(きょはく=巨頭)木戸孝允(きど・たかよし=桂小五郎)の伝記さえも纔(わずか)に著手(ちゃくしゅ=着手)せられたるを聞くも、其の詳なるを知る可からず。

 されば山廻り渓轉(けいてん=谷を巡る)し流れに棹(さおさ)して下るの便宜(良い機会)は到底即今(そっこん=只今)に期す可からず。

 且つ今日は余りに桂公の在世と接近し、精厳なる歴史的乾光(けんこう→威光)に照らして、其の人物、軍功を品隲(ひんしつ=品定め)するは、頗る困難の業たり。

 加うるに公の晩年は政争の最も劇甚なりし時にして、然も公は其の中心的人物たりし看あり。されば蓋棺(かいかん=棺に蓋をする➡人の死)の後と雖も、其の餘焔(よえん=残り火)は尚ほ公の遺骸を取り巻き、未だ容易に消散せず。

 此の最中に於いて彼の政友、政敵の両者をして、興(とも=共)に倶(とも=共)に首肯(しゅこう=うなずく)、甘心(かんしん=納得)せしむる公の伝記を編せんとは、若し絶対的不可能の事にあらずとせば、少なくとも之に隣すと云わざるを得ざるべし。

 <桂太郎(かつら・たろう)陸軍大将プロフィル>

弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれ。山口県長門国阿武郡萩字平安胡(現・山口県萩市平安古)川島村出身。幼名は壽熊(ひさくま)で、後に太郎に改めた。長州藩士馬廻役・桂与一右衛門(一二五石)の長男。母は、長州藩士・中谷家(一八〇石)の娘、喜代子。叔父の中谷正亮は松下村塾の出資者。

安政四年(一八五七年)(九歳)岡田玄道について和漢学を修める。安政六年(一八五九年)(十一歳)十月吉田松陰が江戸伝馬町の老屋敷で斬首刑。当時桂太郎は十一歳だったので、松下村塾では学んでいない。

文久元年(一八六一年)(十三歳)西洋銃陣隊に入る。

文久三年(一八六三年)(十五歳)長州藩大組隊に属す。十二月馬関(下関)駐屯、警備の任に就く。文久四年(一八六四年)(十六歳)第二番小隊司令。毛利元徳上京に際し、選鋒隊に属し、随行。

慶応元年(一八六五年)(十七歳)三月干城隊に入り、山口の歩兵塾で学ぶ。五月御小姓を命ぜらる。慶応二年(一八六六年)(十八歳)六月四境戦争に装条銃第二大隊第二番中隊補助長官として出征。中隊長に昇進。山口に帰り、御小姓に復す。藩校・明倫館に入り、文武の学を学ぶ。

慶応三年(一八六七年)(十九歳)十二月藩命により上京。毛利敬親父子官位復旧入洛允許の勅諚をもたらして帰藩。三条実美ら五卿について出京、薩長諸藩の観兵式に参列。

入洛(じゅらく)は、都である京都に入ること。允許(いんきょ)は、許すこと、許可すること。勅諚(ちょくじょう)は、天皇の命令、勅命。

明治元年(一八六八年)(二十歳)一月戊辰戦争の鳥羽伏見の戦いで、敵情偵察の任務につく。大阪城襲撃の勅諚を奉じて帰藩。長州藩第五大隊を率いて、世子・毛利元徳について出京。三月小姓役を辞め、第四大隊二番隊司令。その後第二大隊司令として奥州各地を転戦、秋田戦争で戦功を上げる。

明治二年(二十一歳)三月父・桂與一右衛門死去。五月家督相続。六月軍功により賞典禄二五〇石を下賜せらる。八月藩命により仏式陸軍修業のため東京留学。七月第五大隊補助長官。十月横浜語学所入校。

明治三年(二十二歳)横浜語学所を大阪兵学寮に移すため移転。まもなく病と称して退校。七月萩に帰り、海外留学の許可を得る。八月ドイツに留学。明治四年ベルリンでパリース陸軍少将に師事し軍事学を研修。明治六年(二十五歳)十月帰朝。十一月山口県萩に帰省。

明治七年(二十六歳)一月帰京、陸軍歩兵大尉。六月陸軍歩兵少佐。八月母・喜代子死去。明治八年(二十七歳)三月ドイツ駐在公使館附武官。六月弟・二郎と共に横浜出港。ベルリンで軍政を研究。

明治十一年(三十歳)七月帰国、参謀局諜報提理。八月太政官少書記官兼法制局専務。十一月陸軍歩兵中佐。十二月参謀本部管西局長心得。明治十三年(三十二歳)兼太政官大書記官。

明治十五年(三十四歳)二月陸軍歩兵大佐、参謀本部管西局長。明治十七年(三十六歳)一月陸軍卿・大山巌中将欧州派遣に随行。明治十八年(三十七歳)一月帰国。五月陸軍少将、陸軍省総務局長兼参謀本部御用掛。明治十九年(三十八歳)三月陸軍次官。明治二十三年(四十二歳)六月陸軍中将。

明治二十四年(四十三歳)六月第三師団長。明治二十七年(四十六歳)八月日清戦争宣戦の詔勅。第三師団に動員令。九月名古屋出発。明治二十八年(四十七歳)六月第三師団名古屋凱旋。

明治二十九年(四十八歳)六月台湾総督。十月台湾総督の辞表提出、東京湾防禦総督。明治三十一年(五十歳)一月陸軍大臣。六月憲政党内閣に留任。九月陸軍大将。十一月山縣(有朋)内閣に留任。

明治三十三年(五十二歳)十二月陸軍大臣辞職。明治三十四年(五十三歳)五月元老会議で首相に推薦され、組閣の大命を拝す。六月内閣総理大臣に任じ、特に現役に列せしめらる。明治三十五年(五十四歳)二月伯爵。

明治三十六年(五十五歳)四月伊藤博文、山縣有朋、小村寿太郎と京都の無鄰菴で会合し、対ロシア方針を決議。七月参内辞表捧呈、留任の命下る。内閣改造。十月内務大臣兼任。

明治三十七年(五十六歳)二月日露戦争開戦。明治三十八年(五十七歳)七月臨時兼任外務大臣。九月日露戦争終戦。十月臨時兼任外務大臣を免ず。十一月臨時兼任外務大臣、文部大臣兼任。

明治三十九年(五十八歳)一月臨時兼任外務大臣を免ず、内閣総理大臣並びに文部大臣兼任を免ず。軍事参議官。四月大勲位菊花大綬章。明治四十年(五十九歳)九月侯爵。

明治四十一年(六十歳)七月内閣総理大臣兼大蔵大臣。特に現役に列す。明治四十四年(六十三歳)四月公爵。五月拓殖局総裁兼任。八月済生会会長、内閣総辞職。

明治四十五年(六十四歳)七月ヨーロッパ訪問。八月行程を中止し帰朝、内大臣兼侍従長。十一月後備役、日本赤十字社・平井政遒病院長の診断を受ける。十二月内閣総理大臣兼外務大臣。

大正二年(六十五歳)一月外務大臣兼任を免ず。二月立憲同志会宣言書発表、創立委員長就任、山本権兵衛来訪、辞職勧告。内閣総理大臣辞職、元勲の優遇を賜う。三月三浦博士の診察を受ける。六月葉山長雲閣で静養、長男・与一死去、鎌倉山下別荘に転地療養。九月帰京。

十月に入り脳血栓を起こし、十月十日午後四時死去。死因は腹部に広がっていたガンと、頭部動脈血栓。享年六十五歳。従一位、大勲位菊花章頸飾。十月十九日芝増上寺で葬儀、会葬者は数千人。墓所は、遺言により松陰神社(東京都世田谷)に隣接して建てられた。








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580.源田実海軍大佐(40)自衛隊を国防軍に改編し、隊員を軍人として処遇するとともに、国民全部が国防の義務を負う

2017年05月05日 | 源田実海軍大佐
 源田実の著書、「源田実 語録」(善本社)は、昭和四十八年に発行された。六十九歳の時である。この当時の、源田実は参議院議員で、昭和四十三年に自民党政調会国防部会長に就任、昭和四十九年には勲二等瑞宝章を受章している。

 「源田実 語録」(源田実・善本社)所収「軍人にすれば士気はあがる」の中で、著者の源田実は、次の様に述べている。

 自衛隊員に誇りを持たせ、その士気向上をはかることは、多くの人々によって唱えられ、若干その施策も行われて来た。

 私は自衛隊員の全般的な士気が、旧軍人や外国軍隊のそれに比べて、遜色のあるものとは思わないし、総合的にはむしろ、勝っているとさえ思うのである。

 自衛官の処遇改善とか、国民的支持を受けるための諸施策は、いろいろと論議されるが、その根本にメスを入れた意見は、タブーなのか見当たらない。

 根源をつく施策とは何か―それはいうまでもなく、自衛隊の存在や地位に対する憲法上の疑義を完全に払拭することである。

 この事は、憲法論文の法律技術的解釈などの小手先の業によって、解決できるものではない。もちろん、自衛権は、それぞれの国家が本質的に保存しているものであって、この存在に疑義を差しはさむことは許されない。

 しからば、憲法の条文中に、自衛権の存在に対して疑義を抱かせるような表現が使われているならば、当然これを改定して、明々白々たるものにすべきである。

 憲法前文中の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」、および第九条の「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と……うんぬん」、また同条第二項の戦力不保持、交戦権否認の表現は、疑義を持たせるに十分である。

 大体、一国の国民が祖国防衛の義務を負っていないなどということ自体が、はなはだおかしいのであって、われらは憲法にその義務がうたわれていなくとも、自衛権と同様に、本質的にこの義務を負っているものと考える。

 自衛権の存在や祖国防衛の義務などは、憲法の明文に記載するのが最も好ましい処置であり、次はなんらこれに触れることなく、自明の理として適用させることである。これに疑義を持たせるような表現を憲法に記載することは、下策中の下策である。

 すなわち、憲法を改正して、自衛隊を国防軍に改編し、隊員を軍人として処遇するとともに、国民全部が国防の義務を負うことを、はっきりと明文化すべきである。そうすれば自衛隊員の士気は、必然的に高揚するのである。

 国防や憲法に関する問題は、避けて通れるものではない。これに堂々と取り組むことこそ、国権の最高機関である国会の、そして政治家の当然の責務であると信ずる。

 以上が、旧日本帝国海軍二十四年、戦後の航空自衛隊八年、そして国会議員二十四年を勤めた源田実の、自衛官に対する思いを込めた主張である。

 だが、源田実は、自分自身を、戦闘機パイロットとしての生涯と位置付けている。源田実は五十代になって、自衛隊機のF86F(セイバー)、F104(スターファイター)、米軍機のF11(スーパータイガー)、F102、F106、F5などのジェット戦闘機を操縦している。

 晩年になっても、源田実は、「今でも自由に職業を選べるなら、また戦闘機パイロットを選ぶ」と語っている。「源田実 語録」(源田実・善本社)の中でも、次の様に述べている。

 「わたくしは元来、戦闘機のパイロットである。一九二八年、海軍のパイロットになって以来、ひたすら戦闘機の操縦においては、『技、神に入る』ことを念願して、努力してきました」

 「海軍と自衛隊を通じて、約三十年にわたる飛行生活において、一日たりともこの“希望”を捨てたことはありませんでした」。

 源田実は、国会議員を辞めて間もなく体調を崩し、二年後の平成元年八月十五日、療養先の松山市内の病院で脳血栓のため死去した。従三位、勲二等旭日重光章。享年八十四歳。

 ちょうど終戦の日、そして思い出深い、第三四三海軍航空隊「剣部隊」発足の地、四国の松山で、その波乱万丈な生涯を終えるとは、どこまでも劇的な源田実だった。

 源田実は明治三十七年八月十六日生まれだから、ちょうどぴったり、八十四年の生涯だった。死の二年前まで公職から離れられなかった源田実は、まさにその人生の全てを国に捧げた、稀有で純粋な武人だった。

 (今回で「源田実海軍大佐」は終わりです。次回からは「桂太郎陸軍大将」が始まります)









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579.源田実海軍大佐(39)きのう言ったことと、今日言っていることはとは全然違うではないか

2017年04月28日 | 源田実海軍大佐
 昭和三十四年七月十八日、グラマンを強く押していた佐薙空将から源田実空将に代わった。源田空将は第三代航空幕僚長に就任した。

 序列を無視して強行されたこの人事は、様々な憶測を呼んだが、端的に言えば、グラマンからロッキードに鞍替えした岸信介首相の、金がらみの政治的画策によるものだった。

 こうしてFX機種選定問題は、波乱含みの中にも、着々とロッキードに傾きつつあった。それを決定的にしたのが、源田実航空幕僚長の渡米だった。

 昭和三十四年八月、航空幕僚長・源田空将は、FX機種選定のため官民合同の調査団の団長として渡米し、カリフォルニア州のエドワード基地で二か月半に渡り調査を行った。

 源田空将は五十五歳だったが、自ら機種選定候補機の戦闘機に搭乗し操縦し、最適と思われる機種の調査を行った。五十五歳でマッハ2の戦闘機を乗りこなすのはアメリカでも例がなく、称賛された。

 イギリスの当事者たちが、日本の航空自衛隊の最高幹部がアメリカに来て調査していることを聞いて視察にやって来た。

 彼らは、日本の調査団長である源田実航空幕僚長が自ら候補の戦闘機を操縦している実状を見て、非常に驚いていたと、伝えられている。

 帰国後、調査団が提出した報告書により、政府はロッキードF104を採用することに決定し、十一月六日の国防会議で、F104J(一八〇機)、複座型F104DJ(二〇機)が選定された。

 このFX機種選定について、柴田武雄は、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の第二章「日本敗北の実質的最大責任者は源田である」の中で、次の様に当時の航空幕僚長・源田実空将を非難している。

 「また、戦闘機無用論を主導した責任を攻撃機側に転嫁しようとしたことや、航空自衛隊におけるグラマンとロッキードの問題で、『もしそれロッキードを採用するならば、航空自衛隊は平時にして潰滅するであろう(グラマンを採用すべきである)』と、国防会議において堂々と述べておりながら、平然としてロッキードを採用している無反省・無責任ぶり、その他、『源田を語る会』でも開いて、源田の無責任・責任回避・責任転嫁の資料を出し合ったならば、相当膨大なものになるであろうことは、確かである」。

 また「源田実論」第三章「源田とはこういう人間だ」の中で、著者の柴田は次のように述べている。

 「ところで、私はかつて、源田に、“きのう言ったことと、今日言っていることはとは全然違うではないか”と問い詰めたところ、“きのうのオレと今日のオレとは全然違う”と高圧的に言われ、一瞬、グー!とつまったことがあるが、源田のこうした変化(言い変え)ぶりは、本人の強力な悪魔的信念とは裏腹で、知的な進歩的変化や道徳的な向上的変化とはおよそ縁遠いものなのである」。

 一方、当時の防衛庁長官は赤城宗徳(あかぎ・むねのり・茨城・東京帝国大学卒・上野村村長・衆議院議員・戦後公職追放・衆議院議員・自由民主党・農林大臣・内閣官房長官・防衛庁長官・総務会長・農林大臣・霞ヶ浦高等学校校長・著書「わが百姓の記」など多数)だった。

 赤城防衛庁長官は、渡米して調査した源田空幕長の功績を高く評価し、定年まであと一年ある源田実に、退官して参議院議員に立候補することを勧め、赤城自ら自民党幹部を説得して自民党公認候補とした。

 源田実は赤城防衛庁長官の勧めに従って、全国区選出参議院に立候補し、旧海軍航空や自衛隊関係者を基盤に当選し、昭和三十七年七月から六十一年六月まで、四期二十四年に渡って参議院議員を勤めた。

 この間、自民党の国防部会長も務めたが、空のことをよく知らない議員たちが、空中関係の諸立法を審議したり、法令を制定しようとする中で、戦中・戦後を通じて多年にわたり空中勤務を体験し、空の交通や管制などを身をもって理解している源田実の存在は貴重だった。

 同僚の議員たちは。「閣下、閣下」と呼んで、旧海軍の作戦参謀、元航空幕僚長、軍事専門家である源田実を、一目置いて接したが、参議院議員という役職は、源田にとって必ずしも居心地のいい場所ではなかった。

 源田と海兵同期の末國正雄(すえくに・まさお)元海軍大佐(山口・海兵五二・海大三五・第五戦隊参謀・中佐・第三艦隊参謀・人事局第一課員・大佐・艦政本部出仕兼人事局員)は次のように述べている。

 「生真面目で謀略的嘘のない世界に多年育って来た源田にとって、議事堂内での他の練達な政党人政治家といわれる人たちに伍しての付き合いには、非常な戸惑いや困難を感じていたらしい」

 「同期生の集まるクラス会に出席した時の彼は、議会、議事堂内ほど日本語の通用しないところは日本国内どこに行っても見当たらない、と漏らしていた」。

 クラスメートの末國元大佐が語る言葉に、軍人から馴染みにくい政治の世界に身を投じた源田の苦悩が伺える。




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578.源田実海軍大佐(38)この決定には巨額の金が裏で動いたと言われていた

2017年04月21日 | 源田実海軍大佐
 だが、この後大目玉が飛ぶのを覚悟していた小高達に源田大佐は次のように言った。

 「士気高揚のためだ。大いに暴れろ。後の責任は一切司令がとる」。この一言で感激した小高達は、大いに奮起して戦闘に臨んだ。

 昭和二十年八月十五日、終戦となった。「天皇は支那(中国)に連れて行かれ、皇族は全員死刑、皇太子はアメリカに連行される。職業軍人は重労働、婦女子はアメリカ兵に凌辱される」といったうわさが流れた。

 一方では、厚木航空隊事件など、一部の航空隊が徹底抗戦を叫ぶなど、国内は混乱の極みにあった。陸軍では宮城事件なども起きた。

 厚木航空隊事件は、厚木海軍飛行場で、第三〇二海軍航空隊の司令・小園安名(こぞの・やすな)大佐(鹿児島・海兵五一・少佐・第一二航空隊飛行隊長・空母「鳳翔」飛行長・中佐・台南航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊司令・第三〇二海軍航空隊司令・東條英機暗殺計画に参加・兼横須賀鎮守府参謀・大佐・兼第三艦隊参謀・兼第七一航空戦隊参謀・厚木航空隊事件の党与抗命罪で無期禁錮・失官)が起こした騒乱事件だ。

 小園大佐は、後に軍法会議にかけられ、党与抗命罪となり、失官、海軍大佐を剥奪された。
党与抗命罪とは、海軍刑法第五十六条で、徒党をなして命令違反を起こした罪。

 そんな終戦の混乱の中、八月十七日、源田実大佐は軍令部から「至急上京せよ」との連絡を受けた。源田大佐は、紫電改で横須賀に飛び、そこから電車で東京の軍令部に出頭した。

 軍令部に着くと、軍令部作戦部長・富岡定俊(とみおか・さだとし)少将(広島・男爵・海兵四五・二十一番・海大二七・首席・第二艦隊参謀・海軍大学校教官・軍令部第一部第一課長・二等巡洋艦「大淀」艦長・南東方面艦隊参謀副長・少将・南東方面艦隊参謀長・軍令部第一部長・終戦・第二復員省大臣官房史実調査部長・著書「開戦と終戦」)から次のような重要な任務を受けた。

 それは、万一、無条件降伏によって、天皇はじめ皇族が戦犯として処刑された場合、陛下の血筋を絶やさないように、皇族のどなたかを密かにかくまってお守りするという、皇統護持の密命だった。軍資金も渡された。

 大村基地に帰った源田大佐は、対策を練り、決死の同志二十三名を募り、候補地となった九州の熊本県五家荘村を中心に展開し、密命を帯びた隊員たちは、赤穂の四十七士のように、様々な仕事に就いてその時を待った。

 源田大佐も一時期、部下と共に長崎県川南の炭鉱で採炭夫として働いたが、統制のよくとれた働きぶりで、群を抜く採炭実績を上げ、「さすが海軍さんは違う」と称賛を浴びた。

 昭和二十一年に入ると、敗戦の混乱も落ち着き、やがて天皇が戦犯に問われることもなく、皇族も何事もない事が判明し、この秘密任務は自然消滅した。

 昭和二十八年源田実は防衛庁に入り、航空幕僚監部装備部長に就任した。その後、航空自衛隊航空団司令を経て、昭和三十一年臨時航空訓練部長、空将。航空集団初代司令、航空総隊司令を歴任した。

 昭和三十三年航空自衛隊のF86F「セイバー」の後継次期戦闘機、FX機種選定問題が起こり、当時の航空幕僚長・佐薙毅(さなぎ・さだむ)空将(愛媛・海兵五〇・海大三二・連合艦隊航空参謀・軍令部第一部第一課作戦班長・大佐・南東方面艦隊首席参謀・戦後航空自衛隊幕僚副長・第二代航空幕僚長)が渡米して調査を行った。

 佐薙空将の報告に基づいて防衛庁が出した結論は、グラマン社がアメリカ海軍向けに開発したグラマンF11F「スーパータイガー」を可とするというものだった。

 最終的に絞られた候補機は、グラマンF11F「スーパータイガー」と、ロッキードF104A「スターファイター」の二機種だった。

 「F104Aは上昇性能と加速性に優れているが、安全性に劣る。F11Fは行動半径、全天候性、多用途性に優れ、かつ長期にわたって使える可能性が高い」というのが防衛庁の決定の理由だった。

 だが、この機種選定問題は政治問題に発展しており、この決定には巨額の金が裏で動いたと言われていた。

 おさまらないのは、河野一郎(こうの・いちろう)経済企画庁長官(神奈川・早稲田大学政治経済学部政治学科卒・朝日新聞入社・山本悌二郎農林大臣秘書官・衆議院議員・戦後公職追放・衆議院議員・自由党入党・日本民主党を結成・農林大臣・自由民主党・経済企画庁長官・党総務会長・農林大臣・建設大臣・オリンピック担当国務大臣・国務大臣兼無任所大臣)らのロッキード派だった。

 彼らは、政商で政界の黒幕であった児玉誉士夫(こだま・よしお・福島・京城商業専門学校卒・向島の鉄工所・右翼団体「建国会」・天皇直訴事件・「国粋大衆党」・海軍嘱託・上海で児玉機関運営・戦後全日本愛国者団体会議・右翼団体「日本青年社」)を担ぎ出して、国防会議での決定を「内定」にとどめさせると共に、巻き返しに乗り出した。




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