陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

574.源田実海軍大佐(34)たとえ正しくとも俺の気にくわねえ奴の言うことなど、絶対にきくもんか

2017年03月24日 | 源田実海軍大佐
 大井篤大佐は、軍令部次長・伊藤整一(いとう・せいいち)中将(福岡・海兵三九・十五番・海大二一・次席・巡洋戦艦「榛名」艦長・第二艦隊参謀長・少将・海軍省人事局長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・軍令部次長・中将・兼海軍大学校校長・兼軍令部第一部長・兼大本営海軍通信部部長・第二艦隊司令長官・戦艦「大和」で戦死・大将・功一級)からこの会議に出席するように言われた。

 当時、軍令部第一部第一課部員(航空作戦主務)だった源田実中佐も出席していた。ある幹部が源田中佐に問いかけた。「マリアナに来やせんかね」。

 すると、源田中佐は極めて強い口調で、「いや、絶対にカロリンです」と断定した。嶋田軍令部総長以下、誰もが黙った。

 「マリアナに来たら、どうなるんだ」と、作戦関係の部員が、質した。「いや、そんなことは航空の分らん人が言うことです」と源田中佐は決めつけるように言った。

 こうして、軍令部の予想は、西カロリン諸島付近となった。大井篤大佐は、源田中佐の自信の強さに驚いた。

 昭和十九年一月、柴田武雄中佐は、ラバウルの第二〇四航空隊司令として、ソロモン航空戦を戦い、毎日のように来襲する敵の戦爆連合の大編隊に対し、攻撃を行っていた。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、当時、連合艦隊航空参謀・内藤雄(ないとう・たけし)中佐(山形・海兵五二・六番・海大三六・海軍爆撃術の権威・ドイツ出張・中佐・南遣艦隊参謀・南西方面艦隊参謀・第三艦隊航空甲参謀・連合艦隊航空甲参謀・海軍乙事件で殉職・大佐)がラバウルにやって来た。

 内藤中佐は、南東方面艦隊司令部(司令長官・草鹿任一中将)に打ち合わせに来たのだが、その時、官邸山の上にあった、柴田中佐の宿舎を訪れた。内藤中佐は、柴田中佐と海軍兵学校の同期生だった。

 内藤中佐は、開口一番、「源田が、柴田の言うことは全部間違っている。たとえ正しくとも俺の気にくわねえ奴の言うことなど、絶対にきくもんか、と言っていたよ」と柴田中佐に知らせてくれた。

 それを聞いて、「源田はそんな気持ちで重大な航空作戦を指導しているのか」と、柴田中佐の公憤は、その極に達した感があった。

 昭和十九年、六月半ばの「あ」号作戦は、軍令部第一部第一課航空作戦主務・源田実中佐が関わった最大の作戦だった。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、この作戦は、中部太平洋方面と予想される敵の攻勢に対し、空母を中心とした新編の第一機動艦隊と、陸上基地航空隊群で編成された第一航空艦隊の両方で応戦し、一気に勝敗を決しようというもので、詳細な作戦計画が練りあげられていた。

 昭和十九年五月三日には「大海指第三七三号」として発令された。作戦の詳細について、作戦参加部隊に対する説明および研究会が開催された。

 トラック基地にいた二五一空にも呼び出しがかかって、司令・柴田武雄中佐も出席することになったが、当初、柴田中佐は「そんな会議なんか出る必要はない」と言って出席を渋った。

 軍令部からは、源田中佐のほか、ハワイ真珠湾攻撃の際の空中攻撃隊総指揮官だった淵田美津雄中佐も参謀として来ていた。

 源田中佐、淵田中佐、柴田中佐は海軍兵学校五二期の同期生だったが、柴田中佐は、同期ではあるが、源田中佐と淵田中佐のこれまでのやり方を信頼していなかったのだ。

 柴田中佐は、しぶしぶ出席したが、厚さ三センチにも及ぶガリ版刷りの作戦計画書を見てうんざりした。

 これを読むだけでも大変だが、その精緻な内容は作文としては立派であっても、今の海軍航空隊の実力からしてその筋書き通りに進まないことは、去る二月のトラック大空襲の際のみじめな現実が何よりそれを証明していた。

 <あんな机上の空論を、得々と並べ立ててなんになる>。作戦計画について熱弁を振う淵田中佐や源田中佐に対して、柴田中佐は腹立たしさを通り越して、空しさすら覚えていた。

 確かにこの作戦計画そのものは立派だった。「我が決戦兵力の大部を結集して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を覆滅(ふくめつ)して敵の反攻企図を挫折せしむ……」に始まる詳細な内容は、もしこちらの思惑通りにことが運べば、大勝利間違いなしと思わせるものがあったし、そのために源田中佐としても精一杯の手は打っていた。
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573.源田実海軍大佐(33)源田一人の考えを定説のごとく断定して教えるのはよくない。取り消せ

2017年03月17日 | 源田実海軍大佐
 これに対し、アメリカ軍の戦闘参加者(陸軍・海兵隊)約六〇〇〇〇人のうち、戦死者は約一六〇〇人、戦傷者は約四二〇〇人だった。

 昭和十七年八月から昭和十八年一月までのガダルカナル島争奪戦における日本海軍航空部隊の損害は、飛行機喪失八九三機、搭乗員戦死二三六二人。

 ソロモン方面航空戦、南太平洋海戦などで失われた多数の航空機搭乗員について、源田実は後に、次の様に述べている。

 「三原元一、檜貝襄二、村田重治などの英傑が、南太平洋の航空消耗戦において、相次いで世を去った。海軍がこれらの人々を失ったことは、その人たちの大きな力を後の戦闘に振るわせることができなかっただけでなく、優秀な後進指導力をも失ったのであって、その損失は測り知れなかった」。

 しかし、なぜこのようになったかについては、源田実は、何も語ってはいない。

 昭和十八年二月十一日、連合艦隊司令部は、トラック島の泊地で、戦艦「大和」から、戦艦「武蔵」に移った。通信装置も一段と充実して、儀装成った新しい、戦艦「武蔵」が連合艦隊の旗艦になり、豪華なオフィス兼ホテルとしての役目を果たすことになった。

 この頃、大鑑巨砲の殿堂、横須賀海軍砲術学校において、大尉級の高等学生たちに対して、軍令部第一課部員・源田実中佐は次のように言った。

 「かの万里の長城、ピラミッド、『大和』、『武蔵』、こんなデカいものをつくり、世界中の物笑いになった。あんなものは、一日も早くスクラップにして、航空母艦にしたほうがよい」。

 あまりなことに、横須賀砲術学校教頭・黛治夫(まゆずみ・はるお)大佐(群馬・海兵四七・海軍砲術学校高等科・海大二八・海軍砲術学校教官・戦艦「大和」副長・第三遣支艦隊参謀・大佐・水上機母艦「秋津洲」艦長・第一一航空艦隊兼第八艦隊参謀・横須賀砲術学校教頭・重巡洋艦「利根」艦長・横須賀鎮守府参謀副長・化学戦部長・終戦・ビハール号事件で戦犯・拘留・戦後極洋捕鯨入社)は源田中佐に次のように言った。

 「君が今話していたことは、日本海軍の定説ではない。源田一人の考えを定説のごとく断定して教えるのはよくない。取り消せ」。

 だが、源田中佐は「取り消しません」と言って、応じなかった。

 昭和十八年四月十八日、前線基地刺殺のため、一式陸攻二機に分乗して飛び立った、連合艦隊司令長官・山本五十六大将と、幕僚は、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊P-38ライトニング戦闘機十六機に襲撃された。

 一式陸攻は二機とも撃墜され、山本五十六大将は戦死した。海軍甲事件である。戦死後、山本五十六大将は、ナチスドイツから剣付柏葉騎士鉄十字章を授与された。この勲章は、外国人では山本大将だけだった。騎士鉄十字章の外国人受章者の中では山本大将が最高位だった。

 四月二十一日、連合艦隊司令長官に古賀峯一(こが・みねいち)大将(佐賀・海兵三四・十四番・海大一五・四番・在フランス駐在武官・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権随員・海軍省先任副官・戦艦「伊勢」艦長・少将・軍令部第二班長・第七戦隊司令官・中将・練習艦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・飛行機事故で殉職<海軍乙事件>)が親補された。

 昭和十八年七月一日発足した、第一航空艦隊は、昭和十九年二月十五日、連合艦隊に編入された。

 この第一航空艦隊は、開戦時の第一航空艦隊ではなく、基地を移動しながら作戦を行う、予定総機数一〇〇〇機以上という基地航空部隊だった。サイパン、テニアン、グアム、トラック、パラオ、ヤップ、ダバオ、オーストラリア北方、セレベスの各方面に配備される予定だった。

 この時点で、軍令部が予想する決戦海面は西カロリン諸島南方、一方、連合艦隊が予想する決戦海面の第一が、パラオ島付近、第二が西カロリン諸島付近だった。

 昭和十九年五月、海軍省赤煉瓦ビル三階の軍令部作戦室で、参謀肩章を吊った軍令部総長・嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)大将(東京・海兵三二・二十七番・海大一三・巡洋戦艦「比叡」艦長・少将・第二艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・海軍潜水学校長・第三艦隊参謀長・軍令部第三班長・軍令部第一班長・軍令部第一部長・中将・軍令部次長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・兼軍令部総長・軍令部総長・終戦・A級戦犯)を前にして部員たちが集まっていた。

 敵がマリアナに来るか、カロリンに来るか、討論する会議のためだった。大井篤(おおい・あつし)大佐(山形・海兵五一・九番・海大三四・三番・第二遣支艦隊作戦参謀・海軍省軍務局調査課・海軍省人事局第一課先任局員・第二一特別根拠地隊参謀・軍令部第一部戦争指導班長・海上護衛隊司令部作戦参謀・大佐・兼連合艦隊参謀・戦後GHQ歴史課嘱託)は当時海上護衛隊司令部参謀だった。

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572.源田実海軍大佐(32)人間源田の敗北であり、当然、その実質的第一責任者は源田である

2017年03月10日 | 源田実海軍大佐
 引き続き、山口多聞少将は次のように話している。

 「また、南雲長官に、南雲部隊司令部は誰が握っているのかと質問したところ、長官(南雲)は一言もいいませんね。……南雲部隊司令部はいずれも卑怯者ぞろいだ…」。

 南雲部隊の司令長官たるものが山口司令官の質問に対し、『それはもちろん僕である』とハッキリ答えられないということは、南雲部隊を握っていた者は、少なくとも南雲長官でないということを、無言のうちに立証しているようなものである。

 南雲は源田の言い成りになっていた、という事実は、衆目の一致するところである。南雲は、源田の考えを、南雲長官の意見または命令として発表・発信する、ロボットの如き存在に過ぎなかった、と言うこともできる。

 南雲部隊司令部を実際に握っていたのは源田であり、そして、ミッドウェー海航空戦は、諸資料、諸研究によって裏付けられるとおり、人間源田の敗北であり、当然、その実質的第一責任者は源田である。

 以上が、柴田武雄の「源田実論」よりの要旨抜粋である。

 一方、月刊誌「丸」(昭和三十三年・新春二月特大号)所収「源田空将縦横談」の中の「ミッドウェーの二つの敗因」で、源田実は次のように述べている。

 「僕が二つの失敗をやった。一つは、あのとき四隻しか母艦がいないでしょう。真珠湾は六隻でやったが、第五航空戦隊というのが、珊瑚海の戦で一隻傷ついて、間に合わなかった」

 「しかも、どうしてもあの時期にミッドウェーをやるというので、第五航空戦隊は残して行った。これが、もともと時期的に無理であって、こちらが十分整えたところで行くべきなんで、急ぐべきもんではなかった」。

 これに対して、柴田武雄は次のように反論している。

 「源田が言っていることを結論すれば、『時期的に無理であり、十分整えてから行くべきであった』ということになるが、こちらは正式空母四隻でも敵空母三隻よりは優勢であり、ミッドウェーの敵陸上機を加味して考えても、こちらにはなお空母鵬翔ほか北方部隊の空母二隻がおり、更に零戦および搭乗員の優秀性を考慮するときは、実質的総合的にはこちらが優勢であるので、航空戦の計画指導実施に誤りさえなかったならば、勝っていたはずである」。

 ミッドウェー海戦後の、六月二十七日、瀬戸内の岩国沖の柱島泊地に碇泊中の戦艦大和に嶋田繁太郎海軍大臣がやって来た。

 連合艦隊の宇垣纒参謀長は嶋田海相に挨拶を行い、ミッドウェー海戦について、「この前は、いろいろまずいことをやりまして、申し訳ありません。ご心配をおかけして申し訳ないと思っています」と神妙なおももちで、嶋田海相に頭を下げた。

 すると、嶋田海相は、「いやいや、なんでもない」と、愛想よく答えたと言われている。「ミッドウェー海戦で空母四隻を失った帝国海軍の海軍大臣はなんと楽観的であることか」と感じた軍人も多数いたそうである。

 ミッドウェー海戦後、山本五十六大将の連合艦隊司令部も異動はなく、そのままの陣容だった。南雲忠一司令長官、草鹿龍之介参謀長、源田実甲航空参謀ら機動部隊首脳も、敗戦の責任は問われなかった。

 南雲中将は第三艦隊司令長官、草鹿少将は参謀長に就任した。さすがに、参謀らは異動になり、源田中佐も、参謀をはずされ、第三艦隊の第一航空戦隊旗艦、空母「翔鶴」の飛行長に任命された。

 昭和十七年十月八日、山本五十六司令長官の意向で、源田実中佐は、臨時第一一航空艦隊参謀として、ラバウルに赴任した。ガダルカナル島攻防戦の作戦指導を行ったが、マラリヤになり、入院した。

 十一月中旬、源田中佐は、中央の航空作戦主務になるために、ラバウルから内地に帰された。軍令部第一課長・富岡定俊大佐から静養を勧められ、源田中佐は九州の別府温泉で十日間、身体の回復を図った。

 その後、十二月十日、中央に呼び帰され、軍令部第一部作戦課航空部員(大本営海軍航空主務参謀)に就任、陸軍と共にガダルカナル島撤退作戦の研究を行った。

 昭和十八年二月上旬、ガダルカナル奪還の成算を失った日本陸軍は、ガダルカナル島から撤退した。ガダルカナル島での戦没者は、陸軍が約二八〇〇〇人、海軍が約三八〇〇人である。そのうち約一五〇〇〇人が病死だが、飢餓からの病死がほとんどだった。




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571.源田実海軍大佐(31)士官室のあちこちから「ザマー・ミヤガレ」という罵声が起こった

2017年03月03日 | 源田実海軍大佐
 「しかし真珠湾からラバウル、インド洋に至る一連の成功から、『今度も成功するだろう。真珠湾やセイロン攻撃だって不安はあったのだ』という自己満足的なものがあって、不安に対して徹底的な『メス』を入れなかった。『臆病者』と罵られても、さらに深い検討を加え、必要な意見具申もすべきであった」。

 戦後に記された源田のこの説明は、詭弁と言えるかもしれない。なぜなら、それほど東正面が不安だったら、実際の場面で索敵機数を増やし、厳重な索敵を実施したはずである。だが、実際には、機数も増やさず、気休め程度の索敵をやらせていた。

 昭和十七年六月五日から七日まで、ミッドウェー島を巡る日本とアメリカ、両海軍の海戦、ミッドウェー海戦は日本海軍の惨敗に終わった。

 「決定版・太平洋戦争『第二段作戦』連合艦隊の錯誤と驕り」(学習研究社)によると、日本海軍は、海戦前に保有していた六隻の正規空母のうちの四隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」)と多数の飛行機及び熟練の搭乗員を、ミッドウェー海戦で失った。

 だが、六月十日午後三時三十分、大本営海軍報道部がミッドウェー海戦の戦果を次のように発表した。

 「米航空母艦エンタープライズ型一隻およびホーネット型一隻撃沈。彼我上空において撃墜せる飛行機約一二〇機。重要軍事施設爆破」

 「わが方の損害。航空母艦一隻喪失、同一隻大破、巡洋艦一隻大破。未帰還飛行機三十五機」。

 以上が大本営発表の数字だが、実際のアメリカ海軍の損害は、航空母艦「ヨークタウン」大破(後に、伊号「六十八潜」が撃沈)。駆逐艦「ハンマン」沈没。航空機喪失一〇〇機未満。戦死者は、航空機搭乗員二〇八人を含む三六二人。

 また、日本海軍の実際の損害は、航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻沈没。重巡洋艦「三隈」沈没。駆逐艦「荒潮」大破。重巡洋艦「最上」中破。航空機喪失二八九機。戦死者は、航空機搭乗員一一〇人を含む三〇五七人。

 ミッドウェー海戦における日本海軍の敗因には、様々な複合要因がある。戦術的には、各空母のミッドウェー基地攻撃隊の収容、二度の兵装転換などによる攻撃隊発進の遅れなどがある。

 だが、それら戦術的要因以前の問題として、日本海軍の慢心から来るアメリカ軍への過小評価があった。真珠湾攻撃をはじめとする緒戦時における連合艦隊の大勝利で、連合艦隊は敵の戦力を過小評価していた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将自身が、ミッドウェーに向けての出撃では、大名行列のごときお祭り気分で、「戦艦の行列を揃えて、示威運動を行い、敵出てきたらば軽く捻る考えにて」出撃したという。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、ミッドウェー海戦当時、柴田武雄中佐は、第三航空隊副長兼飛行長として、セレベス島のケンダリー基地にいた。

 ミッドウェー海戦で、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」が次々にやられていくことが、第三航空隊士官室にいた柴田中佐らに、電信室で傍受した電報によって、知らされていた。

 士官室のあちこちから「ザマー・ミヤガレ」という罵声が起こった。だが、この罵声は、決して、苦境に陥っている南雲艦隊全員に対するものではなく、南雲艦隊の航空甲参謀・源田実中佐ひとりだけに対するものであることは、お互い以心伝心的にわかっていた。

 なぜなら、源田中佐が真珠湾から帰ってから、あちこちで、「真珠湾はオレがやったんだ。お前らぐずぐずしていると、オレがみんなやってしまうぞ」と公言しまわっていた。

 その、人を馬鹿にした驕慢不遜な態度・暴言に、南方作戦において連戦連勝の大戦果を上げていた、柴田中佐たちは、はらわたが煮えかえるほど憤慨していたからだ。

 しかし、やがて、時間の経過とともに、大乗的なわれに帰り、「これは大変なことになった。せめて飛龍だけでも助かってくれ」と、みな、心の中で祈っていた。

 以上が、柴田の回想だが、真珠湾攻撃およびそれ以後について、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将(海兵四〇・次席・海大二四・次席)が、連合艦隊参謀長・宇垣纒少将(海兵四〇・九番・海大二二)に答えた話として次のようなものがある。

 「好機を捉えて戦果の拡大を計り、あるいは状況の変化に即応して臨機適切な処置をするなどは、南雲部隊では一回もやっていない」
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570.源田実海軍大佐(30)源田中佐は「バターン」と大きな音を立てて、人事局別室を出て行った

2017年02月24日 | 源田実海軍大佐
 猪原少佐は、すぐには承知しなかったが、そのうちに源田中佐の熱弁に負けた。「そこまで言われるなら、しょうがありません」。

 近くで聞いていた別室長・大井篤(おおい・あつし)中佐(山形・海兵五一・九番・海大三四・三番・第二遣支艦隊作戦参謀・海軍省軍務局調査課・中佐・海軍省人事局第一課先任局員・第二一特別根拠地隊参謀・軍令部第一部戦争指導班長・海上護衛隊総司令部作戦参謀・大佐・兼連合艦隊参謀・終戦・GHQ歴史課嘱託・著書多数)が源田中佐に声をかけた。

 「ちょっと待った。それを取られたら、あとが続かないよ」。

 大井中佐は海軍兵学校でも、海軍大学校でも源田中佐の一期上だった。その上、人一倍の理屈屋で、納得できなければテコでも動かないような男だった。源田中佐はそれを知っているので、大井中佐のところへは行かずに、猪原少佐のところへ行ったのだ。

 だが、鼻っ柱の強い源田中佐は、反発した。

 「そんなことありませんよ。今度やったら、後はみないらんようになるんだから、次の戦争とか、計画なんていらんのですよ」。

 大井中佐は、その源田中佐の言葉にあきれて、次の様に言った。

 「いやあ、次のパイロットや整備員を養成しなくちゃだめだよ」。

 すると源田中佐は、次の様に答えた。

 「そうですか。人事局が聞かないと言うなら、私はこれから航本(海軍航空本部)教育部に行って交渉してきますから」(大西瀧治郎少将が航空本部総務部長だった)。

 そう言い終わると、右手の中指と親指で「パチッ」と音を立て、入り口に向かい、ドアを引っ張り、源田中佐は「バターン」と大きな音を立てて、人事局別室を出て行った。

 その源田中佐の態度を見て、大井中佐は「ドアが軽いこともあったかもしれないが、こんな風に驕っていたらダメだろう」と思った。

 連合艦隊司令部も第一航空艦隊司令部も自信過剰になっていた上に、ミッドウェー攻略作戦中は米機動部隊が出現しそうもないと判断される情勢になったため、南雲機動部隊全体が弛んだ気分で出撃準備を進めていった。

 ハワイ奇襲作戦の場合とは雲泥の差だった。幕僚ばかりか、総帥である、連合艦隊司令長官・山本五十六大将でさえも、「今度はたいした獲物はないだろう」と口にした。

 昭和十七年五月二十七日、南雲機動部隊は瀬戸内海、岩国沖の柱島から出撃した。その前日の五月二十六日、柱島泊地の旗艦「赤城」で作戦計画の説明と打ち合わせが行われた。

 二航戦司令官・山口多聞少将は、機動部隊司令部計画の索敵では不十分であると主張した。索敵機の数が少ないと言うのである。

 だが、同司令部は計画を改めなかった。索敵計画を立案した航空乙参謀・吉岡忠一(よしおか・ただかず)少佐(静岡・海兵五七恩賜・海大三九首席・第一航空戦隊乙航空参謀・第三艦隊参謀・横須賀航空隊飛行隊長・海軍大学校甲種学生・第二六航空戦隊首席参謀・兼第一航空艦隊参謀・中佐・横須賀鎮守府附・ルソン島で捕虜・戦後吉岡商会創業)は次のように説明した。

 「これまでの敵情からすれば、ミッドウェー攻略作戦中に、敵艦隊がミッドウェー方面に出現することは、ほとんど考えられません」

 「索敵を厳重にするのがよいことはわかりますが、それには艦攻を使わなければならないので、攻撃兵力が減ることになります。この際は司令部案(南から東、北にかけて七機の索敵機を出す)でよいと思います」。

 この索敵計画に対して、源田実は戦後、「海軍航空隊始末記・戦闘篇」(源田実・文藝春秋)次の様に述べている。

 「私は、いちどミッドウェーの東北方面に出て、東半円に対する索敵をやり、東正面に対する不安を除いた後に南西方面に進撃して、ミッドウェー空襲をやりたかった」

 「しかし、時日の関係で、それができなかった。結局、ミッドウェーの西北方から予定の日に空襲を実施すると言う平凡なものになってしまった」

 「計画を終わってからも、自分ながら自信が持てなかった。『攻撃計画には自信がない』などとは誰にも言わなかったが、内心の不安は打ち消せなかった」
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569.源田実海軍大佐(29)当時、機動部隊を源田艦隊と評した者さえあった

2017年02月17日 | 源田実海軍大佐
 草鹿少将は無刀流剣道を修業していたが、その流儀にある金翅鳥(きんしちょう)王剣を特に好んだ。金翅鳥が羽根を天空一面に広げたような心で、太刀を上段にとって敵を追い詰め、ただ一撃で打ち落とし、そのまま上段に返る戦法という。

 宇垣少将はそれに相当の不安を感じて、次の様に述べた。

 「移動性が多く、広い海面に作戦する海上兵力に対して、事前に十分な調査を行い、索敵を完全にするなどは容易ではない。状況の変化に即応する手段こそが肝要なのだ」

 「山口多聞(宇垣と海軍兵学校同期)は、一航艦の思想にあきたらず、作戦実施中もしばしば一航艦司令部に意見具申をしたが、同司令部が計画以外に妙機をつかんで戦果の拡大を計ったり、状況の変化に即応する処置を講じたりすることは絶無だったと、俺に三回も語っていた」

 「俺も山口と同じ考えだ。『一航艦司令部は誰が握っているのか』と尋ねると、山口は『長官はひと言も言わぬ。参謀長(草鹿)、先任参謀(大石)など、どちらがどちらか知らんが、億劫(面倒で気が進まない)屋ぞろいだ』と答えた。今後、千変万化の海洋作戦において、果たしてその任に堪えられるかどうか」。

 さらに、宇垣少将は、草鹿少将に次のように質問をした。

 「艦隊戦闘において敵に先制空襲を受ける場合、あるいは陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をつかれた場合はどうするか」。

 これに対して、草鹿少将は「かかることのないように処置する」と、あっさり答えた。

 さらに追及すると、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐(広島・海兵五二・十七番・海大三五次席)が代わって次の様に答えた。

 「艦攻に増槽(追加の燃料タンク)をつけ、四五〇カイリ(約八三三キロ)先まで飛べる偵察機を各母艦に二、三機ずつ配当できるので、これと巡洋艦の零式水偵を使用して、側面哨戒に当たらせる。敵に先んぜられた場合は、現に上空にある戦闘機によって対処する以外に策はない」。

 宇垣少将は、これを悲観的自白と受け取った(以上宇垣纒著「戦藻録」参照)。ところが、源田中佐は、機動部隊の航空戦にかけては、過剰と言えるほど、自信満々だった。

 源田中佐は、空母を集団使用すれば、防空戦闘機を多数配備できるので、敵飛行機隊を撃退できると確信していた。

 軍令部第一部作戦課航空主務部員・三代辰吉(みよ・たつきち)中佐(茨城・海兵五一・海大三三・空母「加賀」飛行隊長・第四航空戦隊参謀・第二艦隊参謀・中佐・軍令部第一部作戦課航空主務部員・第一一航空艦隊参謀・第七三二海軍航空隊司令・大佐・横須賀航空隊副長兼教頭)は次のように語っている。

 「昭和十七年四月二十日頃、軍令部がミッドウェー作戦において、我が空母に損害が出るのではないかと不安を抱いていたとき、源田参謀は、空母を集団使用し、上空警戒機(防空戦闘機)を多数集中すれば、敵の航空攻撃は阻止できると断言し、軍令部を安心させた」。

 当時、源田実航空甲参謀は、「艦爆と雷撃機の大兵力を集中すれば、一挙に敵を撃滅できるし、上空警戒機を多数集中すれば、敵の航空攻撃は阻止できる」という用兵思想に徹していた。

 また、「戦史叢書・ミッドウェー海戦」には、次の様に記されている。

 「南雲長官は、少なくとも航空作戦の計画や指導などには、ほとんどイニシアチィーブをとることはなく、幕僚の意見を『うんよかろう』と決裁していたようである」

 「草鹿参謀長もまた、ほとんど口を出さなかったようである。その上大石首席(先任)参謀は航海専攻の人で、航空に関する経験が少なかった」

 「勢い航空作戦の計画も指導も、源田航空参謀の意見がほとんど全部通っていた。……当時、機動部隊を源田艦隊と評した者さえあった」
 
 「従って一航艦司令部の航空作戦指導は、源田参謀の用兵思想に影響されるところが絶大であったといえよう」。

 昭和十七年五月半ばの頃だった。海軍省人事局別室に、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐が入って来て、航空機整備員を担当する猪原武雄少佐に次のように談判を始めた。

 「今度は実に大事な作戦だ。いい整備員が多くいる。整備員の学校から、教官でも教員でも、うんといいのを、できるだけよこしてくれ」。

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568.源田実海軍大佐(28)日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した

2017年02月10日 | 源田実海軍大佐
 大石中佐「ああ、そう言うけどだめなんだよ。ウチじゃそういうこと言ったって、源田君がわれわれの言うことを聞いてくれやしないよ。源田君はもっぱら母艦を集めて、戦闘機だけで守っていれば大丈夫、向こうはぜんぶ落とせる、攻撃は受けないと言って、自信満々なんだ」。

 中島少佐「そう言ったって、大型機に夾叉されたでしょう。運よく命中しなかったけれど、当たれば怪我しますよ」。

 大石中佐「そうなんだが、いくら言っても聞かなくて困るんだ」。

 中島少佐は、大石中佐の口ぶりから、これが源田と他の幕僚の関係をあらわしている、と思った。

 昭和十七年四月二十八日から三日間、連合艦隊は、戦艦「大和」に各司令長官、幕僚を集め、「連合艦隊第一段作戦戦訓研究会」を行なった。

 だが、この研究会について、連合艦隊作戦参謀・三和義勇大佐は、四月二十八日の日記に次のように記している。

 「勝ち戦の研究会は愉快なれども余り身(実)はなし、皆、勇者にして皆智者の如し。失敗も相当多かるべきに」。

 この研究会は、真珠湾で第二撃をやらなかったこと、米空母を捕捉できなかったこと、インド洋で英機動部隊を逸したこと、英爆撃機に奇襲されて「赤城」が危なかったことなども、真剣に検討されず、ほとんど通り一遍のものだったようである。

 それでも、二、三は注目すべきことがあった。

 第二航空戦隊司令官・山口多聞少将は、連合艦隊を再編して、空母を中心とする機動部隊三群にすべきであると主張した。

 これに賛成した、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は、「秦の始皇帝は阿房宮(あぼうきゅう)を作り、日本海軍は戦艦大和をつくり、共に笑いを後世に残した」と公言した。

 続けて、源田中佐は「即刻航空主兵の思想に結集し、一切をあげて航空中心の軍備に徹底すべきだ」と論じた(淵田美津雄大佐の戦後の回想)。

 山本五十六大将が、この両人と同意見であることを知っている一同は、誰も反論しなかった。

 当時、第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」飛行隊長だった淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐(奈良・海兵五二・海大三六・空母「龍驤」飛行隊長・佐世保鎮守府参謀・空母「赤城」飛行隊長・第三航空戦隊参謀・空母「赤城」飛行隊長・中佐・横須賀航空隊教官・兼海軍大学校教官・第一航空艦隊参謀・連合艦隊航空甲参謀・大佐・海軍総隊兼連合艦隊航空参謀・戦後キリスト教伝道)は、次の様に考えていた。

 「日本艦隊の主戦兵力は、空母六隻を基幹とする南雲部隊だ。柱島に在泊している戦艦七隻は、もはや中核ではない。無用の長物的遊兵だ」

 「南雲部隊は、やらずもがなの南方作戦に使うべきではなかった。戦艦部隊は柱島に遊ばせておくべきではなかった」

 「これらを合体させて一つの有力な機動部隊を編成し、東方海面で、米国機動部隊と決戦すべきだった」。

 一方、連合艦隊参謀長・宇垣纒(うがき・まとめ)少将(岡山・海兵四〇・九番・海大二二・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・連合艦隊参謀・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・中将・第一戦隊司令官・第五航空艦隊司令長官・戦死)は、南雲機動部隊を次のように見ていた。

 「ハワイ海戦にせよ、ポートダ-ウィン、あるいはセイロン方面攻撃にせよ、多くは据物切りと言うべきで、敵に大海上航空部隊がいなかったから、多大の成果が得られたのだ」。

 これに対して、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)少将(石川・海兵四一・十四番・海大二四・装甲巡洋艦「磐手」副長・大佐・航空本部総務部第一課長・空母「鳳翔」艦長・支那方面艦隊参謀・軍令部第一部第一課長・空母「赤城」艦長・少将・第四連合航空隊司令官・第二四航空戦隊司令官・第一航空艦隊参謀長・第三艦隊参謀長・横須賀航空隊司令・南東方面艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官)は次のように述べた。

 「海上航空部隊の攻撃は、十分な調査と精密な計画の下に切り下ろす一刀の下にすべてを集中すべきであり、そうしてきた」。


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567.源田実海軍大佐(27) なぜ初めに、『意見具申した』と言ったかということだ

2017年02月03日 | 源田実海軍大佐
 ブランゲ博士の「トラ トラ トラ」では、源田中佐や淵田中佐は、積極的に再攻撃の意見具申をしたように書かれている。

 だが、源田中佐と淵田中佐が南雲司令長官や草鹿参謀長に、第二撃(再攻撃)の意見具申をしたということは、実際には、無かった。

 「真珠湾作戦回顧録」(源田実・文春文庫)の「序」で、著者の源田実は次のように記している。

 「私に合点できない一つの例は、第二撃の問題である。私自身は前日まで、連続攻撃の必要性を長官に具申し続けたことを覚えているが、長官には絶対にその意思がないことを見定め、それ以後は一言半句もこれに触れてはいないのである」

 「著書などで、赤城の艦橋で私が二次攻撃を主張したとなっているのもあるが、これは事実に反する。私だけではない。他の何人からも強い二次攻撃に関する意見具申はなかった」。

 また、「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)でも、源田実自身、次のように記している。

 「ハリウッド映画『トラ トラ トラ』などで、淵田中佐が私に『もう一度攻撃させろ』と言ったことになっているが、あれはウソである。また私が南雲長官や草鹿参謀長に対して、再度出撃を迫ったというのも、これまたウソである」

 「淵田中佐は、もう一度出撃するつもりで、士官室で腹ごしらえをしていたし、第二航空戦隊の山口多聞少将は『われ、第二出撃準備完了す』と催促の信号を送って来た」

 「また、第三戦隊司令官・三川軍一中将からも、もう一度攻撃を加えるべきである旨の意見具申があったことは事実である」

 「だが、そのころは、朝から悪かった天候が一層悪化し、夜間攻撃を終えて帰って来る飛行機の収容は、不可能な状態にあった。それは敵の潜水艦よりも危険だった」。

 こうなると、ブランゲが「トラ トラ トラ」でデッチ上げを書いたか、源田がブランゲにデッチ上げを言ったか、どちらかになる。

 「トラ トラ トラ」を翻訳したのは、千早正隆(ちはや・まさたか・海兵五八・八番・海大三九・第四南遣艦隊作戦参謀・連合艦隊作戦乙参謀・兼海軍総隊参謀・終戦時中佐)だ。

 ブランゲが淵田や源田にインタビューしたとき通訳をした千早は、次の様に断言している。

 「ブランゲは源田氏や淵田氏にインタビューしていた時、なぜ第二撃をやらなかったかを、非常に聞いている。源田氏は『第二撃の意見具申をしたんだが、採用にならなかったんだ』と、はじめの時言った」

 「ブランゲの『トラ トラ トラ』では『意見具申した』となっている。そこで私が感じた事は、なぜ初めに、『意見具申した』と言ったかということだ。ああいう重大な問題について明言したことを、後になって言った事は無かったと言うのは、おかしいと思う」

 「淵田氏はイマジネーション(想像力)が強い。ブランゲと私が感じた事だ。攻撃から最後に帰り、すぐ艦橋に上がり、二撃を力説したと言っていた。実際はそういうことをやっていない。意見具申すべきだと思っていたのが、意見具申したになったようだ」。

 『トラ トラ トラ』の単行本や映画に出てくる淵田や源田はカッコいい。両人ともそうありたいと切望し、ブランゲに対して、ないこともあったように話したというのが、真相のようである。

 昭和十七年四月二十二日、機動部隊本隊の空母「赤城」「蒼龍」「飛龍」は、それぞれ内地の母港に、四ケ月余ぶりに帰港した。

 「航空作戦参謀 源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、四月末、瀬戸内海西部の柱島泊地に在泊する第二艦隊(南方部隊本隊)旗艦・重巡洋艦「愛宕」で、インド洋作戦までの作戦研究会が開かれた。

 この「愛宕」に、一航艦先任参謀・大石保(おおいし・たもつ)中佐(高知・海兵四八・十三番・海大三〇・砲艦「嵯峨」艦長・興亜院調査官・第一航空艦隊先任参謀・海軍大学校教官・特設巡洋艦「愛国丸」艦長・大佐・海軍省兵備局第三課長・第一課長・運輸本部総務課長・海軍航海学校教頭・横須賀突撃隊司令・戦後第二復員官・佐世保地方復員局艦船運航部長・死去・少将)が来艦した。

 この大石中佐に、第二艦隊通信参謀・中島親孝(なかじま・ちかたか)少佐(北海道札幌市・海兵五四・海軍通信学校高等科首席・海大三七・少佐・軍令部第四部九課・第二艦隊参謀・第三艦隊通信参謀・連合艦隊情報参謀・中佐・兼海軍総隊参謀・戦後厚生省援護局第二課長・著書「連合艦隊作戦室から見た太平洋戦争」)が次の様に話しかけた。

 中島少佐「ツリンコマリ攻撃の時、「赤城」は英国の大型機に爆撃されて、夾叉(きょうさ)されている(数個の爆弾が艦を挟むように弾着する)じゃないですか。危ないですから、ひと固まりの隊形を考え直して、陣容をもっと強化しなければだめですよ」。















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566.源田実海軍大佐(26)数日この付近にとどまって、敵の航空母艦をやっつけましょう

2017年01月27日 | 源田実海軍大佐
 この淵田中佐のトラ連送「トラトラトラ」は、空母「赤城」だけでなく、広島湾にいた連合艦隊旗艦・戦艦「長門」でも、東京の大本営でも直接受信した。

 七時五十三分、「赤城」は、淵田中佐に「隊長、先の発信、赤城了解」と返信した。奇襲に成功したことを知った、草鹿龍太郎参謀長は南雲忠一司令長官の手を固く握り、落涙した。源田中佐は「やはり真珠湾攻撃をやってよかった」と思った。

 損害は日本海軍が、未帰還機二九機、損傷七四機、戦死五五名。特殊潜航艇未帰還五隻、戦死九名、捕虜一名だった。

 アメリカ海軍の損害は、沈没…戦艦四隻、標的艦一隻、その他一隻。大破…軽巡洋艦二隻、駆逐艦二隻、中破…戦艦一隻、駆逐艦一隻。小破…戦艦三隻、軽巡洋艦一隻。航空機一八八機破壊、一五五機破損。戦死軍人二三四五名、民間人五七名。

 米国の歴史学者で、戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)で、情報部の戦史室長であった、ゴードン・W・ブランゲ博士の著書、「トラ トラ トラ」(並木書房・四四二頁)には、真珠湾攻撃終了後の様子を次のように記している(要旨抜粋)。

 第一波の最後に帰艦した淵田中佐は、その日の午後ふたたび敵に対して攻撃を加える事しか考えていなかった。次の目標として、燃料タンク、修理施設、および午前中の攻撃でうちもらした一、二隻の艦を思い描いていた。

 淵田中佐は空母「赤城」の艦橋に行き、報告を終えると、南雲司令長官が言った。「アメリカ艦隊が今から六カ月以内に真珠湾から出てくる可能性があると思うか」。

 淵田中佐は「主力が六カ月以内にでてくることはできないだろうと思います」と答えた。すると、草鹿参謀長が「次の目標は何にすべきだと思うかね」とたずねた。

 その言い回しには積極性がうかがわれたので、淵田中佐は、ほっとして「工廠、燃料タンク、機会があれば重ねて艦船に攻撃を加えるべきと思います」と答えた。

 草鹿参謀長はアメリカの反撃の可能性について質問した。源田中佐と淵田中佐は、「オアフ島とその近海の制空権はすでに日本の手中にあると思う」と答えた。

 南雲司令長官は「敵の航空母艦はどこにいると思うか」と質問したので、淵田中佐が「日本の機動部隊を探しているでしょう」と述べると、南雲司令長官は、明らかに動揺したように見えた。

 敵が傷つき、ひざを屈した今こそ、徹底的に敵をたたきふせるチャンスであると、不屈で剛毅な源田中佐は考えた。

 源田中佐は、「数日この付近にとどまって、敵の航空母艦をやっつけましょう」と力強く提案した。

 源田実は、一九六六年当時も、「攻撃後すぐアメリカの航空母艦を全力で捜索すべきだった。敵が見つかったら、たとえ夜間攻撃になっても、すぐ攻撃をかけるべきだった。……淵田中佐と私は、必要とあらば、オアフ島の附近に二、三日とどまる覚悟をしていた」と、残念がっていた。

 草鹿参謀長は「私はちゅうちょすることなく長官に引き揚げることを進言した」と述べている。南雲司令長官は、すぐにそれに同意した。

 ブランゲは、淵田、源田両氏に対して、インタビューをそれぞれ五十回以上行っている。ブランゲは、「トラ トラ トラ」に、両氏が言った通りのことを書いた。

 「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)によると、山口多聞第二航空戦隊司令官は、機動部隊の旗艦「赤城」に「第二撃準備完了!」の信号を送った。

 第二航空戦隊の旗艦「蒼竜」では、江草隆繁艦爆隊飛行隊長をはじめとする搭乗員や、鈴木栄二郎航空参謀がじりじりして、山口司令官に再攻撃の意見具申をするよう要望した。

 だが、山口司令官は「赤城」を凝視したまま、「南雲さんはやらないよ」と言っただけであった。

 山口県岩国沖の柱島泊地に在泊する「長門」の連合艦隊司令部でも、「再度攻撃を命令すべき」という議論が起こり、山本五十六司令長官に進言した。

 山本司令長官は、「南雲はやらないだろう」と言った。山本司令長官は、以前、南雲司令長官と草鹿参謀長に「ハワイ奇襲作戦は一任する」と約束していた。山本長官は「泥棒だって、帰りはこわいのだから」と付け足して言った。




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565.源田実海軍大佐(25)どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない

2017年01月20日 | 源田実海軍大佐
 「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)によると、著者の源田実は、ハワイ作戦の北方航路進撃決定について、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 昭和十六年九月中旬、ハワイ奇襲作戦の図上演習が行われたが、その後、この図演の研究会が行われた。

 第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将は、ハワイへの進出航路について、「図演では海はシケないが、実際はそうはいかんよ」と北方航路に反対した。

 これに対し、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐は次のように反論した。

 「長官にお考え願いたいのは、そのことです。どう考えてみても、この作戦は奇襲でなければ成功の算はない。事前に発見されれば、全滅しかねない」

 「絶対奇襲を考えるならば、兵術常識を外れなければ、成功の道はありません。米海軍将校は、日本海軍の艦艇の性能、平素の教育、演習実施の状況などから考えて、まさかハワイを航空母艦で攻撃するとは思っていないでしょう」

 「ことに北方航路は、彼ら自身が海がシケるために演習をやっていないくらいだから、船乗りが冬場この海面を使用することは考えていないだろうし、備えもしていないに違いありません」

 「鵯越が馬の通れるところなら、平家の軍勢は裏側からの攻撃にも応じる備えをしたでしょうが、馬は通れないと思っていたからこそ、備えをしていなかった」

 「その“虚”を義経の騎馬隊は衝いた。“鹿が降りられるところを馬が降りられないはずは無い”とさか落しに敵本陣になだれ込んだのです」

 「北方航路は確かに困難でしょう。しかも、そこは私らの努力によって切り開かなければならないと思います」。

 この源田中佐の意見が述べられた時、九州南方海面で大型艦艇に対する洋上補給の試験を繰り返していた空母「加賀」から電報が届いた。

 艦長・岡田次作(おかだ・じさく)大佐(石川・海兵四二・六十三番・空母「加賀」飛行長・中佐・館山空副長・航空本部教育部員・大佐・海軍大学校特修学生・第二三航空隊司令・水上機母艦「能登呂」艦長・空母「龍驤」艦長・艦政本部総務部第一課長・空母「加賀」艦長・戦死・少将)からのもので、「洋上補給成功」というものだった。

 さらに源田中佐の意見具申を聞いていた連合艦隊の佐々木航空参謀が、助言をした。「北方航路以外をとるようなら、この作戦はやめた方がよい」。

 源田中佐は、第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)に対して、「どう思われますか?」と聞いた。

 すると、山口少将は「そりゃあもう、北方航路だよ」と賛成した。それで、南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた。

 以上が「風鳴り止まず」(源田実・サンケイ出版)で、源田実が述べている「北方航路」決定のいきさつである。

 ところが、「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)で、著者の生出寿は、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 だが、この(源田実の)説明には事実と違っているところがあるようである。「加賀」の洋上補給が成功したのは十月十日で、この時は南雲中将も「加賀」に乗っていたはずである。

 『南雲中将も、ついに、「航路は北方」の決意を固めた』と言うが、この当時の南雲は、まだハワイ奇襲作戦そのものに反対で、十月二日(あるいは三日)、山本五十六が大西、草鹿の「ハワイ奇襲作戦中止」意見を却下してから、自分も反対をとり止めた。

 そして十月十日、「加賀」の燃料洋上補給が成功して、北方航路進撃の肝を固めたのであった。南雲は源田の分り切った意見より、省部の研究や、草鹿、大石の意見を尊重したはずである。
 
 以上が、生出寿氏の回想である。

 昭和十六年十二月八日未明、ハワイオアフ島の真珠湾に停泊していた、アメリカ海軍の太平洋艦隊に対して日本海軍は航空機及び特殊潜航艇による攻撃を行った。真珠湾攻撃である。

 真珠湾への奇襲攻撃は成功した。午前七時五十二分、水平爆撃隊九七式艦攻に乗っている、攻撃隊総指揮官・淵田美津雄中佐は第一航空艦隊旗艦・空母「赤城」に、トラ連送「トラトラトラ」(ワレ奇襲に成功セリ)を打電した。







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