陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

548.源田実海軍大佐(8)とんでもない答えが返って来た。「いや、別に何とも思わなかったよ」

2016年09月23日 | 源田実海軍大佐
 さて、「海軍航空隊発進」(源田実・文春文庫)によると、源田実大尉が横須賀海軍航空隊分隊長に就任した頃、横須賀航空隊教頭兼副長として着任したのが、大西瀧治郎大佐だった。

 源田実は、戦後、「日本海軍の航空隊の生い立ちを語るにあたって、欠かすことのできない人物は、大西瀧治郎中将だった」と述べている。
 
 「真珠湾作戦回顧録」(源田実・文春文庫)によると、源田実の大西瀧治郎中将に対する初印象は、「ずいぶん、ゆっくり歩く人だ」ということであった。

 以後、終戦までの十年間、源田実は、いろんな面で接触し、指導を受けたが、ついぞ、この人が走ったのを見たことがなかった。

 どんな緊急を要する場合でも、急ぎ足で歩く事さえ無く、早口でしゃべったり、あわてふためいた姿を見る事は無かった。

 第一次世界大戦中の大正六年、インド洋方面で、日本の常陸丸が行方不明になった。ドイツの巡洋艦に攻撃され撃沈されたのだ。

 撃沈の情報がまだ入っていない時、当時、特務艦隊司令部附の大西瀧治郎中尉に、常陸丸捜索命令が出された。

 郵船の筑前丸に水上機を積み込み、大西中尉は捜索に向かった。だが、大西中尉の搭乗機は、捜索中に、エンジントラブルで、無人のサンゴ礁付近に不時着水した。

 広い海原には他の船影も無く、不時着水した飛行機の周囲には、どう猛なフカの群れが動き回っていた。大西中尉は後に救助された。

 この時のことについて、源田実大尉が、大西大佐に「こわかったでしょうね?」と聞くと、とんでもない答えが返って来た。「いや、別に何とも思わなかったよ」。

 前々から大西大佐という人は、とても太っ腹で豪胆な人だとは聞いていたが、源田大尉は、さすがにあっけにとられてしまった。

 また、ずっと後の昭和十三年一月、源田少佐は南京から内地に帰り、横須賀航空隊の飛行隊長を命ぜられ、横須賀の料亭「魚勝」で、当時、航空本部教育部長だった大西大佐と飲んだ。

 その時に、日中戦争初期(昭和十二年八月)の話が出た。大西大佐は前線視察で、済州島の木更津航空隊を訪問した。

 ある夜、入佐俊家(いりさ・としいえ)大尉(鹿児島・海兵五二・第一五海軍航空隊飛行隊長・霞ヶ浦海軍航空隊飛行隊長兼教官・鹿屋海軍航空隊飛行隊長・ジャワ沖海戦・中佐・第七五一海軍航空隊飛行長・海軍兵学校教官兼監事兼岩国海軍航空隊教官・兼岩国海軍航空隊飛行長・第六〇一海軍航空隊司令兼副長・兼空母「大鳳」飛行長・空母「大鳳」が米潜水艦の雷撃で撃沈・戦死・少将特別進級)を指揮官とする爆撃隊が南京空襲を行なうことになった。

 大西大佐は、入佐俊家大尉が指揮する南京空襲部隊において、二番機の飛行機(九六式陸上攻撃機・乗員五~七名)に同乗した。入佐大尉は、名パイロットであり、名指揮官でもあった。

 南京爆撃後、帰途に、爆撃隊は中国軍のカーチスホーク戦闘機に追跡され攻撃を受けた。中攻の排気管から出る炎を目印に、一三ミリ機銃で狙い撃ちして来たのだ。

 日本海軍の爆撃隊は一機また一機と撃墜され、最後には入佐大尉の指揮官機と大西大佐の搭乗している二番機だけになってしまった。

 この話を聞いた源田大尉が「その時はさぞ気持ちが悪かったでしょうね。私は黄浦江を駆逐艦で航行している時、陸岸から小銃で撃たれたのが、敵弾の下をくぐった最初でしたが、どうも横腹のあたりがむずむずして困りました」と言うと、大西大佐は次のように言った。

 「源田、貴様は偉い。恐ろしいということを感じる余裕がある。俺などは、そんな余裕はなかった。ただ、今度は俺の番かなと思っただけで、恐ろしくも何ともなかった」。

 これが大西大佐の答えであった。「この人の出来は、ちょっと我々では計り知れないものがある」と源田大尉は思った。以後も源田実は大西中将が何かに恐れた表情をしたのを見た事は無かった。

 昭和十年二月から三月にかけて、横須賀航空隊では、隣の航空技術廠と協力して、いわゆる次期戦闘機の機種選定実験が行われていた。



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547.源田実海軍大佐(7)源田の作戦指導面の拙劣さは「見せ物的飛行」によってカモフラージュされている

2016年09月16日 | 源田実海軍大佐
 そこで、源田大尉たちが考えたのは、単座急降下爆撃機だった。単座ならば、乗員一人分の体重、装備品、座席回り等に費やす重量を、燃料に換えることができる。それだけ航続力が長くなる。

 この着想は、前年、源田大尉が横須賀航空隊戦闘機分隊にいて、戦闘機による急降下爆撃に研究をしていたが、間瀬平一郎兵曹長が源田大尉に語ってくれた着想だった。

 空母「赤城」での研究会の席上、源田大尉は次のように主張した。

 「制空権の帰趨が、戦闘の勝敗を決定することが明らかなのであるから、是が非でも制空権を獲得しなければならない」

 「我が海軍では戦闘機隊は主として艦隊の上空警戒に使われているが、もっと攻撃的な用法をなすべきだと考えます」

 「そのためには、戦闘機隊、攻撃隊の各半数を単座急降下爆撃機とし、敵空母の先制攻撃に当てるべきであります」

 「単座ならば、座席の少ないだけ燃料が余計に搭載できるから、それだけ攻撃距離が延伸できます。もちろん、この飛行機は敵空母の先制攻撃が主任務なのでありますが、爆弾を投下した後は、若干性能は劣るかもしれないが、単座なるがゆえに、戦闘機として流用し得るのであります」

 「また単座である関係上、航法上の不安がありますが、それには二座の嚮導機(先導機)をつければよいし、たとえ嚮導機がなくても、捜索列を展張すればある程度の航法は可能であります」。

 以上の源田大尉の主張に対して、誰も賛成する者がいなかった。攻撃隊の搭乗員たちは「攻撃のことは、俺たちに任せておけ」という気持ちだったし、戦闘機隊の者たちは、自分たちの職分をはずれたことだと思っていたのだ。

 だが、山本司令官の考えは違っていた。この源田大尉の主張に対して、次の様に述べた。

 「源田大尉の意見について、自分はこう考える。だいたい、飛行機を防御に使うという考え方が誤っている。したがって、単座急降下爆撃機という思想は当然とも考えられる」

 「がしかし、統帥の上から考えるならば、海軍の中央当局は、やはり二座を採用するであろう。旅順口の閉塞計画に、東郷長官が最後の承認を与えられたのは、やはり閉塞隊員の収容方法に、ある程度の目途がついた時であった」。

 山本少将の腹の中には、飛行機の用法について、他の人々が考え及ばない積極性があったのだが、これは後に、真珠湾攻撃の企図を知らされるまで、源田大尉らは分らなかった。

 昭和九年十一月、源田実大尉は横須賀海軍航空隊分隊長に任命された。三十歳であった。源田大尉は分隊長として、編隊特殊飛行の三代目リーダーになった。

 当時、報告号(九〇式艦上戦闘機)と呼ばれる献納機が多く、日本各地で行われた献納式で、源田大尉は編隊でアクロバット飛行を行った。

 源田サーカスと呼ばれ、有名になったが、このアクロバット飛行に使用したのも、この九〇式艦上戦闘機(複葉機・単座)であった。

 この源田サーカスについて、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の中で、柴田武雄は、次の様に述べている。

 また、源田のスタンドプレーは有名であるが、その代表的なものは、源田サーカスと言われた『見せ物的飛行』である。

 ところで、その操縦は微妙な操作を必要とするので、むずかしい一面のあることは確かであるが、その操作の大部分は実戦の空中戦闘には使用しない。いや、外見は似ていても、内容はまるで違うとも言える。

 そして、空中戦闘における操縦技倆の優秀性は下士官兵を含めて一般の戦闘機パイロットに要求されるものであるが、源田のように航空の重要配置にある者は何よりも必要なことは作戦計画用兵指導等の優秀性である。

 ところが、今日に至るもなお、源田の作戦指導面の拙劣さは「見せ物的飛行」によってカモフラージュされている。これによっても源田の魔力(欺瞞性)がいかにもすごいものであるか、ということがわかる。

 以上のように、柴田武雄は、源田実の源田サーカスについて、批判的というより、これは、源田実の作戦指導面の愚劣・拙劣さをカモフラージュするものであると述べている。

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546.源田実海軍大佐(6)私はこの方針には不賛成だ。こんな考え方をする者は罷めてしまえ

2016年09月09日 | 源田実海軍大佐
 また、連合艦隊参謀長は豊田副武(とよだ・そえむ)少将(大分・海兵三三・二十六番・海大一五・首席・二等巡洋艦「由良」艦長・海軍省教育局第一課長・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第二班長・連合艦隊参謀長・海軍省教育局長・中将・海軍省軍務局長・第四艦隊司令長官・第二艦隊司令長官・艦政本部長・大将・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部総長・功二級)だった。

 連合艦隊航空参謀は、加来止男(かく・とめお)中佐(熊本・海兵四二・四十三番・海大二五・十番・連合艦隊航空参謀・海軍大学校教官・大湊航空隊司令・大佐・木更津航空隊司令・水上機母艦「千代田」艦長・航空技術廠総務部長・空母「飛龍」艦長・戦死・少将)だった。

 昭和九年の連合艦隊司令長官・末次信正大将の下した年度教育方針の中に、「今後、事故によって飛行機を破損した者は、厳罰に処する方針である」というのがあった。

 源田大尉は、飛行機事故に対する、連合艦隊司令長官の方針について、次のように考えた。

 「飛行機は、重力に逆らって空中を飛んでいるのであるから、事故が多いのは自然の勢いである。誰も進んでけがをしたり、死にたいと思う者はいないのだから、事故の中には、過失とはいえ、大目に見なければならないものがある」

 「『航空事故の調査と自己責任の追及とは、ハッキリ区別しなければならない』とは、航空事故調査の鉄則である。事故調査でいちいち責任を追及していたのでは、関係各方面に対する思惑が重なって、事故の真相は決して明らかにならないだろう」

 「事故原因も突き止めることが出来なければ、同じような事故の再発を防止することはできないのである」。

 以上のような、源田大尉の考えと同様に、末次連合艦隊司令長官の「事故に対しては、厳罰をもって臨む」という方針に対しては、母艦乗員の中に、異論を持つものが少なくなかった。

 ちょっとした過失や、機材の故障で飛行機を破損した場合、いちいち処罰されるのでは、だれも前向きな姿勢で飛ぶものはいなくなるだろうと、源田大尉は思っていた。

 ほかならぬ、連合艦隊司令長官・末次大将の下したこの方針に、内心では不服に思っていても、誰も口に出して言う者はいなかった。

 当時、空母「赤城」の飛行隊長は、三和義勇(みわ・よしたけ)少佐(岡山・海兵四八・三十一番・海大三一・次席・霞ヶ浦航空隊副長兼教頭・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・戦死・少将)だった。

 昭和九年に、空母「赤城」で行われた第一航空戦隊の研究会で、三和少佐が、立ち上がって、「連合艦隊司令長官の飛行機事故に対する方針には、納得しかねるものがある」という意味の所見を述べた。

 第一航空戦隊司令官・山本五十六少将は、普通、議論が出尽くした後で、決断を下すのが例であったが、この時は、三和少佐の発言に直ちに応じて次の様に述べた。

 「この訓示は長官自身の発意か、参謀長(豊田副武少将)がいったのか、あるいは、そこにいる加来参謀(後の空母「飛龍」艦長・ミッドウェーで運命を共にする)が書いたのか、その出所は知らないが、およそ犠牲の上にも犠牲を重ねて前進しつつある航空界において、飛行機を壊した者は厳罰に処するなどという考え方で、航空部隊の進歩など期待できるはずがない」

 「私はこの方針には不賛成だ。こんな考え方をする者は罷めてしまえ、と言いたい。ただ、断っておくが、軍規違反による事故に対しては、処置はおのずから別である」。

 山本司令官のこの発言の裏には「第一航空戦隊に関する限りは、事故懲罰の方針は採らないから、みんな安心して訓練に邁進せよ。連合艦隊司令長官に対する責任は自分がとる」という含みがあった。

 源田実大尉は「ずいぶん思い切ったことを言う司令官」だと思ったが、同時に安心して思い切った訓練ができると感じた。

 この空母「赤城」での研究会では、敵の空母に対する先制攻撃のやり方が問題になった。当時の攻撃手段は、第一に水平爆撃、第二に雷撃、第三に急降下爆撃だった。

 この中で、日本海軍で実験研究に取り掛かっていた急降下爆撃が、敵空母の先制攻撃には最適であるというのが、当時の海軍航空界の定説だった。

 当時日米ともに急降下爆撃としては、二座機を考えていた。同じ二座機で、日本は二五〇キロ爆弾、アメリカは二二五キロ爆弾とすれば、飛行機の設計、製作能力が同等であるとしても、航続力においてアメリカの上に出ることはできない。
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545.源田実海軍大佐(5)兵器の改善・発明等を軽視または無視している大馬鹿野郎だ

2016年09月02日 | 源田実海軍大佐
 次に、柴田大尉が立ち上がり、次の様な意見を述べた(要旨)。

 「吹き流し標的に対する射撃の成績を見てもわかるとおり、敵機にぶっつかるほど接近して射撃すれば、命中弾数および命中率(発射弾数に対する命中弾数)は確かに飛躍的に向上する」

 「しかし、戦闘機の固定機銃が攻撃機等の旋回機銃と比べて断然有利な点は、連続射撃における射弾の散布界が小さく、従って命中効率(単位時間における命中弾数)が高いということである」

 「このことを考慮しないで、至近の距離で旋回機銃と打ち合ったならば、命中効率は、散布界が大きく連続発射における命中率の低い旋回機銃と(機銃数を一対一とした場合)ほとんど一対一となり、一機をもって多数機を撃墜し得る、戦闘機固有の威力を減殺することとなる」

 「その実例の一端を、昨年(昭和七年)第一次上海事変において、小谷機に二〇メートルまで接近して被弾し白煙を吐いた、敵ボーイング戦闘機が示している」

 「なお、小谷機が撃墜されなかったのは、米人ロバート・ショートが、射撃が、あまり上手でなかったか、操縦者等の致命部に被弾しなかった小谷機が幸運であったか、そのいずれかであると思う」

 「したがって、戦闘機固有の威力を遺憾なく発揮するためには、被害を最小限にして有効な命中弾を得る適当な射距離から射撃する必要がある」

 「しかし、そのため射距離が多少延長する。従って命中効率が低下する。そこで、命中効力(命中効率+弾薬の威力)を向上させるため、優秀な照準器その他高性能の兵器弾薬等の発明、ならびに実戦的な訓練を実施する必要がある」。

 以上のように、柴田大尉は意見を述べた。

 ところが、柴田大尉の意見開陳が終わるか終わらないうちに、出席していた海軍航空本部技術部長・山本五十六(やまもと・いそろく)少将(新潟・海兵三二・十一番・海大一四・霞ヶ浦航空隊副長・兼教頭・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・空母「赤城」艦長・ロンドン会議全権随員・少将・航空本部技術部長・第一航空戦隊司令官・ロンドン会議予備交渉代表・中将・航空本部長・海軍次官・連合艦隊司令長官・大将・戦死・元帥・正三位・大勲位・功一級)が、スックと立ち上がった。

 山本少将は、立ち上がると同時に、次の様に言って、柴田大尉らを叱責した。

 「いま、若い士官達から射距離を延ばすという意見が出たが、言語道断である。そもそも帝国海軍の今日あるは、肉迫必中の伝統的精神にある。今後、一メートルたりとも射距離を延ばそうとすることは、絶対に許さん」。

 柴田大尉はこれを聞いた瞬間、「この人は精神偏重に眼がくらみ、各国海軍とも、敵艦を遠くから射撃して撃沈するため、艦砲(兵器)の研究・開発・発明・発達に伴って射距離が伸びてきている、という歴史的な明白な事実、およびその自然必然性を忘れ、兵器の改善・発明等を軽視または無視している大馬鹿野郎だ(と言われても仕方がないようなことを、権力をかさに着て威張ってものを言っている)」と思った。

 昭和八年十二月源田実大尉は、空母「龍驤」の戦闘機分隊長に着任した。九〇式艦上戦闘機の一個分隊の指揮官だった。

 この時、源田大尉は初めて、山本五十六少将の部下として勤務した。

 「真珠湾作戦回顧録」(源田実・文春文庫)によると、第一航空戦隊は空母「赤城」「龍驤」の二隻と駆逐艦四隻で編成されており、第一航空戦隊司令官は、山本五十六少将だった。

 昭和九年、演習の後、第一航空戦隊の研究会が、旗艦である空母「赤城」の士官室で開かれた。研究会は、特別の制限がない限り、将校は誰でも参加ででき、発言できた。

 この研究会の席上で、意見が対立して収拾が困難な場合に、よく山本司令官が立ち上がって、明快な判断を下した。

 源田大尉は以前から、山本五十六という人は、なかなかの人物であるとは聞いていたが、本物にお目にかかったのは、この時が最初だった。

 昭和九年当時の連合艦隊司令長官は、末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大将(山口・海兵二七・海大七・首席・巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部第一班第一課長・海軍大学校教官・ワシントン会議次席随員・少将・第一潜水戦隊司令官・海軍省教育局長・中将・軍令部次長・舞鶴要塞司令官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・予備役・内務大臣・内閣参議)だった。


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544.源田実海軍大佐(4)こんな成績を実戦でも上げることが出来ると思ったら大間違いである

2016年08月26日 | 源田実海軍大佐
 源田と柴田は、終戦に至るまで、ことごとく対立して、その海軍人生を終えた。さらに、その対立は戦後も続き、和解は無かった。

 このような特異な経過から、柴田は、源田実批判の書、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)を発行した。

 昭和四十四年三月、源田実参議院議員は、佐藤栄作首相の下で、自民党国防部会長であったが、アメリカ軍の核持ち込みを是認する発言で、国防部会長を辞任した。

 この二年後の昭和四十六年一月二十六日に、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)は発刊された。当時は源田実参議院議員の「核武装論」などタカ派的言動が世間から注目されていた時期だった。

 なお、源田実と柴田武雄について書いた「鷹が征く」(碇義朗・光人社)は、著者の碇義朗(いかり・よしろう)氏が生前の二人に会って、直接取材をして書きあげた書だが、こちらは平成十二年四月十三日に発刊された。

 源田実は平成元年、柴田武雄は平成六年に、死去している。

 源田実と柴田武雄の間に、根本的な思想の相異が生じたのは、生まれ育った環境の相異や、軍歴の相異というよりは、むしろ生来の性格の相異であったと思われる。

 ちなみに、源田と柴田の幼少期、および軍歴の概略を比較してみる。

 源田実は明治三十七年八月十六日生まれ、広島県出身。柴田武雄は明治三十七年二月二十日生まれ、福島県出身。二人とも生まれ年は同じである。

 源田は次男で、幼少時は小柄で運動が得意ではなかったが、身体は頑丈だった。柴田は長男で、幼少時は身体が小さく、ひ弱な感じで、軽度の言語障害があった。

 大正十年、二人とも海軍兵学校(五二期)に入学するが、大正十三年七月二十四日、卒業時の成績は、二三六名中、源田が十七番、柴田が四十六番だった。

 源田は昭和四年十二月第一九期飛行学生を戦闘機専修として首席で卒業、恩賜の銀時計を拝受した。昭和十二年海軍大学校甲種学生(三五期)を次席で卒業。

 柴田は昭和三年十二月第一八期飛行学生を戦闘機専修として卒業。昭和九年第四期高等科飛行学生を次席で卒業。海軍大学校は卒業していない。

 源田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十五年十一月中佐、昭和十九年十月大佐。

 柴田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十六年十月中佐、昭和十九年十月大佐。

 昭和八年夏、海軍で航空戦技が行われた。航空戦技は、個別の航空機の操縦者が持つ戦闘技術のことで、航空戦の戦術にも当然重要な要素となる。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の「第一章・ミッドウェー大敗の実質的最大の責任者は誰か」所収の「第三節・第二の責任者は山本五十六大将である」の中で、柴田武雄は、この航空戦技について、次のように述べている(要旨抜粋)。

 雷撃は、例によって、目標艦にぶっつかるほど接近して魚雷を発射するので、いつものとおり全部命中(戦技では艦底通過)である。

 その時、若い士官の間から、「こんな成績を実戦でも上げることが出来ると思ったら大間違いである。もっと実践的にやらないと大変なことになる。堂々と意見を発表すべきである」という気運が盛り上がった。

 その急先鋒が、雷撃機分隊長・日高実保大尉(海兵五〇・殉職・中佐)だった。

 海軍航空本部技術部長・山本五十六少将ら、関係幹部が出席して、横須賀航空隊で行われたこの航空戦技の研究会で、日高大尉が意見を発表した。意見の要旨は次の通り・

 「毎年航空戦技で、雷撃機隊が目標艦にぶっつかるほど接近して発射するので、いつもほとんど全部命中という成績を上げているが、実戦ではこんなことはとてもできない」

 「いや、文字通り艦底を通過するだけで無効になるのが相当あるだろう。いや、その前に、途中で敵戦闘機に撃墜されるものが多数出るだろうし敵の防御砲銃火によって撃墜されるものも相当あって、例年戦技でやっているように敵艦にぶつかるまでに接近しようとするならば、全部撃墜されてゼロになる可能性もある」

 「そこで、敵戦闘機が接近してきて、あと数秒で撃墜されるかもしれないというのに、のうのうと(いや勇敢に)敵艦に接近を続けるよりは、たとえ多少距離が遠くても魚雷を発射するを有利とする場合がる」

 「しかし、発射距離が延びれば、敵の回避が容易であるということと相まって、当然命中率が低下する」

 「ここに、実戦場において発射前の被害を最小限にとどめ、多少の遠距離からでも命中率を上げるための対策、すなわち、発射法(高高度高速発射法および、それに適応するような魚雷の発明、改善等)や、雷撃用測距儀や射点測定器等の兵器の発明や、実戦的な訓練法等を、抜本的に研究する必要がある」。

 以上のように、日高実保大尉は意見を発表したのだ。


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543.源田実海軍大佐(3)柴田武雄は、この著書「源田実論」で全般に渡り源田実を批判した

2016年08月19日 | 源田実海軍大佐
 この海軍の定期異動について、著者の源田実は次のように述べている。

 旧海軍の方式では、毎年、根こそぎ人の組み合わせが変わるので、チームが解体せられ、新人を持って新しいチームを作らねばならない。

 以心伝心を重要視する戦闘機パイロットは、この点、はなはだ不便だった。戦闘機の編隊各機相互の支援協力は、空中戦闘上最大の要点だった。

 従って、源田実中尉は、自分が転勤する場合、前年度に自分の列機として使った下士官パイロットを連れて転勤したことが数回あった。

 しかし、反面、次の様な大きな利点もある。指揮官たる上司も部下たる下僚も、共に人間である。従って、合性というものがある。個人の性格の相異が、この合性に大きく影響する。

 組織の上の鉄の規律で縛られているから、一応服従はするものの、どうしても心底から、尊敬の念を持ち得ないような指揮官も上司もいる。

 その人が個人的にどうということはなくても、いわゆる、虫の好かない人間がいることは事実である。源田中尉自身にもそんな経験があるし、また、源田中尉の下の者で、上司たる源田中尉に対して、同様な感情を抱いた者もいる。

 こんな状態で、上司と部下との関係を、数年間も続けて行くことは、上司はともかく、下にいる者にとっては、たまらないことである。

 こんな場合、「どんなに嫌で苦しくても、一年間の我慢で足りる」となれば、部下としても辛抱し易く、下手をすれば、せっかく伸びる英才を腰折れにさせるようなこともなくて済むのである。

 昭和七年、霞ヶ浦航空隊操縦教官・源田実大尉は、上海に派遣された。第一次上海事変における二月二十二日の、空中戦闘の模様を調査し、報告するためであった。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)第三章<源田とはこういう人間だ―その奇怪な性格と能力―>によると、この時のことを、著者の柴田武雄は、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 この空中戦闘は、航空母艦「加賀」の小谷進大尉率いる攻撃機隊三機と、生田乃木次大尉率いる戦闘機隊三機とが協力して、アメリカ軍、ロバート・ショートの操縦するボーイング戦闘機を撃墜したものだった。

 帰って来た源田大尉は、霞ヶ浦航空隊の士官室で、得意のゼスチャーで、模型飛行機をあやつりながら、空中戦闘の模様を説明した。

 著者の柴田武雄は当時、源田大尉と同じく、霞ヶ浦航空隊の操縦教官だった。柴田大尉も源田大尉の説明を聞いていたが、大して上手ではないと思った。

 源田大尉の説明が終わり、司令、教官をはじめ、学生たちがぞろぞろ士官室を出始めた。ところが、不思議な現象が起きた。

 学生の集団の中から、異口同音に、“源田さんは偉い”という、感極まったような言葉が、一斉に出て、ため息のようなものが混じって、異様な雰囲気を醸成した。

 海軍兵学校時代から哲学や宗教に興味を持ち、研究し、行(ぎょう)のようなこともやっていた柴田大尉は、次の様に思った。

 「一体これはどういう訳だ。ボーイングを撃墜したのは源田ではないし、たとえ源田の説明が学生たちには大変上手に聞こえたとしても、“源田さんは偉い”という言葉は、一体どこから出るのだ」。

 そして、柴田大尉は、源田には不思議な力(一種の魔力)があるのだ、ということが、ハッキリわかった。魔力とは、その人の持っている純粋な力とはほとんど無関係なものに、意識的または無意識裡に転換して、人を感服・敬服させるような力である。

 たとえば源田大尉の話術が相当優れたものであるとしても、それそのものをもって人を純粋に感服させるものではなく、それらとはほとんど無関係な、軍人としての(あるいは人間としての)偉さに転換して、人を敬服させるような不思議な力(一種の欺瞞力、その背景には、俺は偉いんだと思っている強い信念力等がある)を意味する。

 驚くべきことに、柴田武雄は、この著書「源田実論」で全般に渡り源田実を批判した。中には、批判を通り越して、悪口、誹謗中傷とも、いえる激しく辛辣な論調で、詳細に記している。

 勿論、これには、相当の理由があるのだが、基本的には、ともに海軍パイロットとしての道を歩みながら、その航空戦術思想の違いであった。さらに、戦術思想のみでなく、日常的な思考、物事のとらえ方まで、異なっていた。




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542.源田実海軍大佐(2)源田と柴田は、空中戦闘思想の相異から深く対立するようになる

2016年08月12日 | 源田実海軍大佐
 源田実の著書は、「海軍航空隊始末記・発進編」(文藝春秋新社)、新版「海軍航空隊始末記、戦闘篇」(文藝春秋新社)、「指揮官 人間掌握の秘訣」(時事通信社)、「真珠湾作戦回顧録」(読売新聞社)、「源田実 語録」(善本社)、「統率力 源田実の経営戦略」(読売新聞社)、「敗中勝機を識る」(善本社)、「風鳴り止まず」(サンケイ出版)、「海軍航空隊 発進」(文春文庫)などがある。

 「海軍航空隊 発進」(源田実・文春文庫)によると、広島県広島市水主町の県立病院の裏には、立派な庭園があった。庭園の中央には大きな池があった。

 海軍兵学校合格通知を受けた直後の、大正十年七月の初め、源田実は友人と二人で、この池のまわりを歩きながら自分の将来の道について考えた。

 海軍兵学校を志したのは小学生時代からであったが、いよいよ海軍に入るとなると、源田実は「何をやったらよいであろうか」と次の選定の問題にぶつかった。

 現実問題としては、何もこの時期に決定する必要はなかった。海軍兵学校に入ってからでもよいし、海軍兵学校を卒業後、遠洋航海を済ませ、海上勤務の実際に携わってからの方がむしろよいだろう。

 この時期、二十歳から二十五歳位の成人の域では自分の希望する職業に適しているか、あるいは思いもかけなかった方向に自分の適性を見出すかもしれない。

 海軍兵学校入校前の、いわゆるティーン・エィジャーの間は、正確なことは判らない。しかし、当時の源田には、そんな思慮はなかった。

 “速やかに方針を定め、その方針に従って、驀進する”という方法が、最も効果的であると源田は考えていたので、海軍に入ってからの専門について深く考えた。
 
「海軍に入りたい」という熱意は強いものだった。「海軍がダメなら陸軍とか、高等学校を受ける」あるいは「今年駄目でも、来年がある」という代案は源田には全くなかった。

 ほのかに頭の一角にあった考えは「もし駄目だったら、同文書院にでも行こうか」というようなものだった。源田の兄弟は、ほとんど高等学校から大学という途を歩いている。

 従って、源田がそういう途を希望しても、源田の父は、そうしてくれただろう。だが、源田は海軍兵学校受験を一本勝負として取り組んだ。「もし駄目なら、大陸にでも行こう」という考えだった。

 源田は病院の裏の大きな庭園で池の周りを歩きながら、ふと頭に浮かんだことがあった。イギリスから来た飛行将校の一群が、霞ヶ浦の海軍飛行場で、日本海軍の飛行将校達に、操縦教育をやっている、ということだった。

 新聞を通じて、源田の脳裏に残っていたのである。このことが電光のように源田の頭を走ると同時に、「そうだ、飛行機だ、飛行機にしよう」「これから最も将来性のあるのは飛行機だ」という着想と決心が即座にまとまった。

 源田が実際に飛行機関係に入るのは、それから七年後であるが、その間、この時決心して定めた目標を、ただの一度も変更したことは無かった。
 
 昭和五年二月源田実中尉は、空母「赤城」乗組になった。その前の昭和五年一月、源田実と海兵同期の柴田武雄中尉(海兵五二・大佐)が空母「加賀」乗組みになっている。

 「赤城」の源田中尉と、「加賀」の柴田中尉、二人はともに若き有為な戦闘機乗りだった。この二人にとって、向こう一年間に及ぶ母艦生活は、彼らの人生でも最も充実した楽しい時期であった。
 
 だが、その後、この二人、源田と柴田は、空中戦闘思想の相異から深く対立するようになる。

 空母「加賀」には、戦闘機操縦の達人と言われた、先任分隊士・岡村基春(おかむら・もとはる)大尉(高知・海兵五〇・岡村サーカス・試験飛行中<左手の中指・薬指・小指>を根元から切断・第一二航空隊飛行隊長・中佐・第三航空隊司令第二〇二海軍航空隊司令・第五〇二海軍航空隊司令・神ノ池航空隊司令・大佐・第三四一航空隊司令・上層部に特攻を進言・特攻兵器桜花部隊である第七二一海軍航空隊(神雷部隊)司令・戦後鉄道自殺)がいた。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によれば、この岡村大尉を一番機に、霞ヶ浦の操縦学生課程で一番と二番の成績を分かち合った、柴田武雄中尉と井上勤中尉(神奈川・海兵五二・少佐)を列機とした豪華メンバーの士官小隊は空母「加賀」の華だった。

 息の合ったこの三人は、普段の飛行訓練中はもちろん、戦技などでも常に行動を共にして、その水際立った編隊飛行ぶりに磨きをかけ、世に「岡村サーカス」の別名で呼ばれた、編隊特殊飛行の基礎を作り上げた。

 昭和五年十二月一日、海軍の定期異動が行われた。「海軍航空隊発進」(源田実・文春文庫)によると、当時空母「赤城」飛行隊の戦闘機パイロットであった源田実中尉も横須賀航空隊附に移動した。




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541.源田実海軍大佐(1)大楠公や上杉謙信公は、横須賀航空隊の高等科学生を卒業していませんね

2016年08月05日 | 源田実海軍大佐
 昭和七年、霞ヶ浦航空隊で源田大尉は操縦教官をしていた。「海軍航空隊、発進」(源田実・文春文庫)によると、海軍将校が例外なく受験する高等科学生の試験を、源田実大尉は受けなかった。

 源田大尉は戦闘機操縦者(戦前はパイロットという名称は使われなかった)として大成することのみを考えていた。

 当時、霞ヶ浦航空隊の飛行長は千田貞敏(せんだ・さだとし)中佐(鹿児島・海兵四〇期・百四十一番・霞ヶ浦航空隊飛行長・給油艦「神威」副長・舞鶴航空隊司令・大佐・大村航空隊司令・第一三航空隊司令・航空本部出仕・逓信省航空局技術部乗員課長・鹿児島航空隊司令・霞ヶ浦航空隊司令・少将・第一四連合航空隊司令官・第二八根拠地隊司令官・戦死・中将・正四位・勲二等)だった。

 ある日、飛行長・千田中佐は操縦教官・源田大尉を呼んだ。千田中佐は源田大尉に高等科学生を受けるように説得するためだった。

 千田中佐「君はどうして、横須賀航空隊の高等科学生を受けないのだ」。

 源田大尉「受ける必要はないと思います」。

 千田中佐「いや、受けたほうが良い。ぜひ受けたまえ」。

 源田大尉「横空の高等科学生は、一体、何を学ぶのですか」。

 千田中佐「それは君、判り切ったことではないか。戦略戦術の勉強だよ」。

 源田大尉「ハア―、そうですか。では聞きますが、大楠公や上杉謙信公などという人は、大用兵家ではありませんか」。

 千田中佐「それは君、もちろん大兵術家だ。それがどうしたというのだ」。

 源田大尉「大楠公や上杉謙信公は、横須賀航空隊の高等科学生を卒業していませんね」。

 千田中佐「判ったよ。もうよろしい」。

 結局、源田大尉は、高等科学生を受験しなかった。

 <源田実(げんだ・みのる)海軍大佐プロフィル>
明治三十七年八月十六日、広島県山県郡加計町(現・安芸太田町)出身。源田春七(酒造・農業)の次男。
大正十年(十七歳)三月広島第一中学校(現・県立国泰寺高校)卒業。パイロットに憧れて、八月二十六日海軍兵学校入校。
大正十三年(二十歳)七月二十四日海軍兵学校(五二期)卒業(成績は二三六名中一七番)、少尉候補生。
大正十四年(二十一歳)十二月海軍少尉。
昭和二年(二十三歳)四月砲術学校普通科卒業。七月水雷学校普通科卒業、装甲巡洋艦「出雲」乗組。十二月中尉。
昭和三年(二十四歳)十二月霞ヶ浦航空隊入隊、飛行学生。
昭和四年(二十五歳)十二月第一九期飛行学生修了(首席で恩賜の銀時計拝受)、横須賀航空隊附。
昭和五年(二十六歳)二月空母「赤城」乗組。十二月大尉、横須賀航空隊附。
昭和六年(二十七歳)六月空母「赤城」乗組。十二月霞ヶ浦航空隊分隊長。
昭和七年(二十八歳)十二月横須賀海軍航空隊附。
昭和八年(二十九歳)十二月空母「龍驤」分隊長(兼横須賀海軍航空隊附教官)。
昭和九年(三十歳)十一月横須賀海軍航空隊分隊長。源田大尉率いる三機編隊による曲技飛行を奉納機式典上空など日本各地で行い、「源田サーカス」と呼ばれた。
昭和十年(三十一歳)「単座機による急降下爆撃の教育訓練に就いて」で昭和九年度恩賜研学資金受賞。十月三十一日海軍大学校(甲種学生)入学。
昭和十一年(三十二歳)十一月少佐、第二連合航空隊参謀。
昭和十二年(三十三歳)七月海軍大学校(三五期・次席)卒業、第二連合航空隊参謀。九月上海勤務。十二月南京勤務、横須賀海軍航空隊教官。
昭和十三年(三十四歳)一月横須賀海軍航空隊飛行隊長兼教官。四月兼海軍砲術学校教官兼海軍通信学校教官兼海軍航海学校教官。十二月英国在勤帝国大使館附武官補佐官兼海軍航空本部造兵監督官。
昭和十五年(三十六歳)九月命帰朝。十一月第一航空戦隊参謀(空母「加賀」乗組)、中佐。
昭和十六年(三十七歳)四月第一航空艦隊甲航空参謀。空母「赤城」乗組。十二月八日真珠湾攻撃。
昭和十七年(三十八歳)六月ミッドウェー海戦、乗組空母「赤城」など空母四隻撃沈される。七月空母「瑞鶴」飛行長。十月軍令部出仕、臨時第一一航空艦隊参謀。十二月軍令部第一部第一課部員兼海軍技術会議銀。大本営海軍参謀。
昭和十九年(四十歳)七月陸海軍航空技術委員会委員。八月兼陸軍参謀本部部員、大本営陸軍参謀。十月大佐。
昭和二十年(四十一歳)一月第三四三海軍航空隊(松山)司令兼副長。六月兼第三五二海軍航空隊司令。八月十五日終戦。十月佐世保鎮守府附。十一月予備役。
昭和二十一年十二月(四十二歳)極東軍事裁判で第二連合航空隊参謀として爆撃に関する基本方針(支那事変)、及び第一航空艦隊参謀として真珠湾攻撃の立案と実施について供述。川南工業入社。
昭和二十八年(四十九歳)六月東洋装備株式会社取締役社長。
昭和二十九年(五十歳)防衛庁入庁、航空幕僚監部装備部長。
昭和三十年(五十一歳)十二月航空自衛隊航空団司令。
昭和三十一年(五十二歳)七月臨時航空訓練部長、空将。ジェット戦闘機の操縦資格取得。
昭和三十二年(五十三歳)八月航空集団司令。
昭和三十三年(五十四歳)八月航空総隊司令。
昭和三十四年(五十五歳)七月十八日第三代航空幕僚長。八月FX機種選定の調査団団長として渡米。十二月第三十三国会に委員外の出席者として出席。
昭和三十七年(五十八歳)レジオン・オブ・メリット勲章(米国)受章。四月航空幕僚長辞任、退官(空将)。七月第六回参議院通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補、第五位で当選。以後四期二十四年(~昭和六十一年七月)参議院議員を務める。日本飛行連盟名誉会長就任。
昭和三十八年(五十九歳)十一月赤十字飛行隊初代隊長(~昭和六十一年三月)。
昭和四十三年(六十四歳)自民党政調会国防部会長。
昭和四十九年(七十歳)勲二等瑞宝章受章。
昭和五十六年(七十七歳)従三位、勲二等旭日重光章受章。
昭和五十九年(八十歳)裁判官弾劾裁判所裁判長。
昭和六十三年(八十四歳)七月永年在職議員表彰、引退。
平成元年八月十五日松山市の病院で脳血栓のため死去。享年八十四歳。


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540.永田鉄山陸軍中将(40)石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った

2016年07月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 そして私は「閣下とは今日初めて御会いしたのですが、私は以前から考えていた通り、国体観念の乏しい人だから、軍務局長をお罷めになったらよろしいでしょう」と言うと、これに対しては何も言われませんでした。

 それからしばらく話していると課員が入って来て話が切れましたが、永田閣下は「兎に角今日初めて君に会ったのでゆっくり話す訳には行かぬから、この次の機会に会って話すか、又は手紙で往復して話をしよう」と言われました。

 私は「それでは今度上京した時に御会いします」と言って、最後に「あなたは十一月事件に関係して、而もその責任者として処理するに付いて不届きなやり方じゃないか」と言うと、永田閣下は、カラカラと笑って、「あれは私に関係も責任もない、その様な事をよく言う人があるので、会ってよく話をしている。君もその様に思っているのなら、今度会った時によく話をする」と言われ、午後五時頃別れました。

 以上が、相沢三郎中佐が岡田予審官に話した内容である。

 「片倉参謀の証言・叛乱と鎮圧」(片倉衷・芙蓉書房)によると、昭和十年七月末、当時陸軍省軍務局軍事課満州班に勤務していた片倉衷少佐は、永田軍務局長に「大分閣下を狙っている奴がいますので、護衛を常時つけられたら如何ですか」と言った。

 すると、永田軍務局長は「片倉、人間死ぬときは死ぬ。殺される時はやられる。すべては運命だ。私は運命に従う。俺は覚悟しているよ」とはっきり答えた。

 昭和十年八月十二日午前九時四十五分頃、軍務局長・永田鉄山少将は、陸軍省の局長室で、机に座り、東京憲兵隊長・新見英夫(にいみ・ひでお)大佐(山口・陸士一九・憲兵大佐・東京憲兵隊長・相沢事件・京都憲兵隊長・予備役)の所管事務報告を受けようとしていた。

 新見大佐の側には、兵務課長・山田長三郎(やまだ・さぶろう)大佐(宮城・陸士二〇・陸大二八・砲兵大佐・野砲兵第二二連隊長・陸軍省軍務局兵務課長・相沢事件・陸軍兵器本廠附・自決)が席についていた。

 山田大佐が隣室の軍事課長・橋本群(はしもと・ぐん)大佐(広島・陸士二〇・砲工高一八恩賜・陸大二八恩賜・参謀本部動員課長・陸軍省軍務局軍事課長・相沢事件・鎮海湾要塞司令官・少将・第一軍参謀長・参謀本部第一部長・中将)呼びに席を立って隣室に行った。

 その瞬間、眼光の鋭い中年将校が、抜身の軍刀を手にして迫って来た。新見大佐は、初めは、その男が何か冗談を仕掛けてきたように思われたので、それで笑おうとした。

 だが、次の瞬間、その中年将校は、永田軍務局長に近づき、「天誅!」と声をあげ、逃げる永田軍務局長の右肩あたりに白刃をサッときらめかせた。袈裟がけに切りつけたのである。

 新見大佐は、阻止するためその中年将校の腰あたりに抱き付いたが、次の瞬間斬られて尻餅を突き意識を失った。

 逃げる永田軍務局長の背後からブスリと軍刀を突き刺し、よろよろ逃げるが、遂に仰向けにバッタリ倒れた永田軍務局長の頭部から頸動脈にかけて、中年将校はもう一太刀打ち下ろした。とどめを刺したのである。永田軍務局長は息絶えた。

 この中年将校は、先月永田軍務局長に面会した、あの相沢三郎中佐だった。相沢中佐は憲兵隊に拘束された。

 軍務局長・永田鉄山少将は、享年五十一歳だった。死後陸軍中将に昇進した。永田鉄山は東條英機より大局を見る眼があり、“カミソリ東條”より、なおよく切れた。

 片倉衷は、永田鉄山と石原莞爾をコンビにして、国軍の刷新強化を図ろうとしていたのだが、石原莞爾は、事務系の人として永田鉄山を余り高く評価しなかった。

 永田鉄山が斬殺された時も、片倉衷に、石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った。そう言われて、片倉衷は面白くなかった。

 戦後、片倉衷は、永田鉄山、石原莞爾の二人が一緒に仕事を始めていれば、支那事変は拡大せず、さらには大東亜戦争も防止し得たのではないか。日本の命運も違ったものになっていただろうと述べている。

 この相沢事件は、翌年の二・二六事件の引き鉄となった。相沢三郎中佐は、昭和十一年五月七日第一師団軍法会議で死刑の判決を受け、七月三日、銃殺刑に処された。

 (今回で「永田鉄山陸軍中将」は終わりです。次回からは「源田実海軍大佐」が始まります)



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539.永田鉄山陸軍中将(39)気違いみたいな奴だが、それにしては、トボけた気違いだ!

2016年07月22日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、相沢中佐は永田少将のそういう様子にはかまわず、別な方向に話をもって行った。「では、閣下は、尊皇絶対の精神を、どうお考えですか」と切り出し、元の連隊長の名前を持ち出し、その連隊長の尊皇絶対の精神について、聞き取りにくい仙台訛りで、くどくどとならべたてた。

 永田少将が耳を傾けてみると、別に傾聴に価する所説でも何でもなく、ごく素朴な尊皇精神を回りくどく言っているに過ぎなかった。

 永田少将は相沢中佐の言葉の区切りを待って、「初めて会ったので、君の思想はよく分らんが、もし言う事があれば、手紙か、今度上京された時、くわしく聞こう」と言って、立ち上がった。

 それにつれて、相沢中佐も腰を上げたが、次の様に言った。「では、もう一つだけ最後に伺います。十一月事件は、あれはどうして起こったのですか。辻大尉が士官候補生をスパイに使って、でっち上げた芝居に過ぎませんが。しかし、辻の背後で糸を引いていたのは、世間では閣下だと言っておりますが」。

 相沢中佐の余りにも飾り気のない直截な聞き方が、とぼけた滑稽味をおびていたので、永田少将は声をたてて笑って、次の様に答えた。

 「世間はどう見てもかまわん。自分はあれについては何も知らん、責任もない……それにあれはもう済んだことだし、何もいまさら……どうでもいいじゃないか」。

 相沢中佐は、まだ何か物足りない様子だったが、それでも丁寧に敬礼をして、局長室を出て行った。

 永田少将は、相沢中佐が出て行ったあとの扉を見つめていたが、そのうちに笑い出した。どうにもおかしくて、我慢できないといった笑いだった。「気違いみたいな奴だが、それにしては、トボけた気違いだ!」。

 だが、一瞬後には、永田少将は生真面目な顔に戻った。「あいつらは俺を憎んでいる。何もかも俺の仕業で、俺が元凶だと思い込んでいる」。

 永田少将はじっと宙を見つめて、思いを凝らした。すると刺客が四方八方から自分一人を狙っているような感じに襲われた。

 永田少将は、部下の幕僚に、「相沢によく言って聞かせてやったら、おとなしく帰ったよ」と言った。

 一方、「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、昭和十年七月十九日の、陸軍省軍務局長・永田鉄山少将と相沢三郎中佐のやり取りを、相沢公判における岡田予審官による第三回被告人訊問調書で、相沢中佐自身は次のように述べている。

 (上略)それから私は改まって「一寸申し上げます」と言って「閣下はこの重大時局に軍務局長としては誠に不適任である。軍務局長は大臣の唯一の補佐官であるのに、その補佐が悪いから、何卒自決されたらよろしかろうと思います」と申しました。

 すると永田閣下は腑に落ちない様で「一体君は今日初めて会うのだが、君の心持ちもよく判らないが、一体自決とはどういう事か」と聞かれたので、「早速辞職しなさい」と言ったように思います。

 すると永田閣下が「君のように注意してくれるのは非常に有り難いが、自分は誠心誠意やっているが、もとより修養が足りないので、力の及ばないところもあるが、私が誠心誠意、大臣に申し上げても採用にならない事は仕方がない」と言われたので、これは誰でも言う事でありますから、この人は普通一般の人だと思いました。

 そして私は「あなたの御考えは下剋上である」と言いますと、永田閣下は、「君の言う事は違う。下剋上というのは下の者が上の者を誣いる事だ」と言われたので、私は「一体大臣は輔弼の重職にあられるもので、その大臣に対して間違った補佐をするのは、これは大御心を間違えて下万民に伝えるのであるから、あなたは下剋上だ」と言いました。

 永田閣下は「話が込み入って来たから腰掛よ」と言われたので、腰を下ろすと「君は私が悪いと言うが、具体的に言え」と言われましたので、そこで私は「真崎大将が交代したというのは間違った補佐である」と申しますと、永田閣下は「人は各々見方があるが、自分は情を以って取り扱わない、理性を以って事をする」と言われた。

 私は「情という事は日本精神の方から言うと真心即ち至情で最も尊いものだが、あなたの言われる情というのは感情の事か」と言いましたところ、永田閣下は返事もせずに「自分は漸新的にこの世の中を改革する」と言われたので、私は「それは良い事だ」と言ってから“至情”ということに就いて説明しました。

 この時私は永田という人は、以前から考えていた通り薄っぺらな人だと思いました。至情という事に就いて村岡中将という人は軍を厳粛に統率された非常に立派な人で至情について確固たる信念をもっておられると感じた事を話すと、永田閣下はそれに対して何も言わずに「自分は罪を憎むが人を憎まない」と言われたので、私は何の事か判らなかったが「私もその様に考えております」と言いました。
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