陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

536.永田鉄山陸軍中将(36)永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか!

2016年07月01日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和十年七月十日林陸軍大臣は真崎教育総監と再び会談をして、八月人事の話し合いを行ったが、真崎教育総監は林陸軍大臣の人事案に同意しなかった。林陸軍大臣と真崎教育総監のやり取りは次の通り(要旨・概略)。

 林陸軍大臣「君がどうしても不同意というなら、軍の統制の必要から、この際、部内の総意に従って、教育総監を勇退してもらいたい。そもそも君が派閥の中心になって軍の統制を乱している」。

 真崎教育総監「君は統制、統制というが、一体軍をどう統制するのか。それに俺が派閥を作っているというが、何を指してそう言うのか」。

 林陸軍大臣「総監部に七田大佐あり、参謀本部に牟田口大佐あり、補任課長に小藤大佐あり……そういう部内の輿論(よろん)だ」(しどろもどろの言い方だった)。

 真崎教育総監「何を言うか。七田はおれが総監就任前からの第二課長だ。実はあまり役に立たんから、代えようとさえ思っている位だ。牟田口は永田局長が推薦した男だ。小藤に至っては顔も知らん……秦中将を退職させて、三月事件に関係の深い小磯中将を航空本部長に栄転させるようなことは、正に道理転倒で、俺はこの案に賛成し難い。一体そういう輿論作成の根源は誰だ」。

 林陸軍大臣「実は……これは南大将と永田軍務局長以下の幕僚たちの主張で、自分としては統制上どうにも致し方のない案なのだ」。

 それを聞いた真崎教育総監は、青白く、苦々しい表情をして、「とにかく、この案には同意できない」と、林陸軍大臣の人事案を一蹴した。

 翌日、七月十一日、閑院宮参謀総長、林陸軍大臣、真崎教育総監による、三長官会議が開かれたが、真崎教育総監が案の討議に入ることを拒否したので、結論は出なかった。

 七月十五日、二回目の三長官会議が開かれた。この会議では、真崎教育総監が「今次の異動は不純な動機でなされたものだ」「大元帥陛下に直隷する教育総監の職をけがすものだ」「永田らの統制派の連中こそ三月事件、十月事件で軍の統制を乱したではないか」などと強硬意見を長々と主張した。

 これに対し、閑院宮参謀総長が「総監は、それでは陸軍大臣の事務を妨害するのか」「この案でゆけば、あるいは何事か起こるかもしれんが、その時はその時で、陸軍大臣にも適切な処置があるだろうから、今回はこの案でいこう」との強い意向を示した。

 これにより、真崎教育総監の罷免が決定した。

 七月十七日、軍事参議官会同が行われた。この軍事参議官会同は、教育総監の更迭があった場合は、恒例として、新任の渡辺錠太郎教育総監と、真崎甚三郎旧教育総監の挨拶程度で開かれるものだった。永田軍務局長も出席していた。

 ところが、この会同では、真崎大将が教育総監罷免の、林陸軍大臣の措置を、長々と非難した。荒木貞夫大将も同様に「統帥権干犯ではないか」と林陸軍大臣を非難した。以下、軍事参議官会同での永田軍務局長に関するやりとりは次の通り(要旨抜粋)。

 林陸軍大臣「教育総監が辞任を承知しない時は、陸軍大臣、参謀総長合議の上、辞任させて差し支えないという結論を得ている」。

 荒木大将「陸軍大臣は軍の統制うんぬんと言われ、真崎大将がその統制を乱したようなお話であるが、それはそもそもどういう事であるか」。

 林陸軍大臣「真崎大将は派閥的行動があり、それが軍の統制上すこぶるおもしろくない影響を与えている」。

 松井石根大将「派閥は確かにある。それは自分もおもしろくないと思っていた」。

 川島義之大将「同感である」。

 真崎大将「派閥とか何とか言われるが、それなら永田軍務局長はどうであるか。永田は宇垣陸相の時三月事件に関与し、陸軍の統制を乱したのみならず、その後の行動は、永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか! こういう者を側近に置いて自分らを責めるのは順逆を誤ってはいないか」。

 渡辺教育総監「只今は永田軍務局長の行動を議題としているのではない。永田君のことはまた別に論議する機会があろう」。

 菱刈隆大将「そうかも知れないが、三月事件は、小耳にはさんだことはあるが、こういう席ではまだ聞いたことがない。ついでに事情を聞いてみてはどうか」。

 真崎大将「陸軍大臣は永田と三月事件の関係は御承知のことと思うが、どうか」。

 林陸軍大臣「荒木前陸軍大臣から何らの引き継ぎも受けていないから分らない」。

 荒木貞夫大将「それでは申し上げよう」(荒木大将は三月事件の概要を話し、それに当時の永田軍事課長が関与していたことを述べた)。

 林陸軍大臣「只今のお話だけでは、永田を辞めさせなければならぬほどの事実が良く了解できない。ことに、それだけ悪いことをしているなら、なぜ、君が陸軍大臣のときに永田を罷免しなかったのか、今頃になってその話を持ち出されることは、頗る迷惑である。また、永田を非難されるが、抽象的な攻撃ばかりだ。具体的な事実を示されたい」。




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535.永田鉄山陸軍中将(35)真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させた

2016年06月24日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、昭和天皇は、天皇機関説に賛同していた。昭和天皇は、侍従武官長・本庄繁(ほんじょう・しげる)大将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・参謀本部付・張作霖顧問・少将・歩兵第四旅団長・在支那公使館附武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・侍従武官長・大将・男爵・功一級・予備役・軍事保護院総裁・枢密顧問官・終戦・戦犯指名・自決・正三位・勲一等)に、次のように意見を述べた。

 「軍の配慮は、自分にとって精神的にも迷惑至極だ。機関説の排撃が、かえって自分を動きのとれないものにするような結果を招く。だから、それについては慎重に考えてもらいたい」

 「私自身は、天皇主権説も天皇機関説も、帰するところは同一であると思っているが、労働条約その他債権問題のような国際関係についての事項は、機関説に従う方が便利ではないかと思う」

 「憲法第四条による『天皇は国民の元首』という言葉は、いうまでもなく機関説である。もし機関説を否定することになれば、憲法そのものを改正しなければならぬ」

 「機関説は皇室の尊厳を汚すという意見は、一応もっとものように聞こえるが、しかし事実は、このようなことを論議することこそ、皇室の尊厳を冒涜するものだ」。

 当時の岡田啓介首相は、この宮中方面の思召しと、軍部を先頭とする機関説排撃―国体明徴運動との板挟みにあって、態度を決しかねていた。

 真崎甚三郎教育総監は、陸軍三長官協議の結果、陸軍の立場を表明する必要があるとして、教育担当である教育総監・真崎甚三郎の名において、天皇機関説排撃の声明書を発表した。

 最終的に、政府は陸軍の要求をのみ、議会終了後に美濃部議員の取調べを警察に指示、美濃部議員の出版物三冊を発禁処分とした。その後、美濃部議員は貴族院議員を辞職した。

 ところが、真崎甚三郎教育総監が天皇機関説排撃の声明書を発表したことが、元老・重臣をはじめ、機関説を盲信する官僚・政治家たちをして、「真崎恐るべし」として、真崎排撃に拍車をかけることになったのである。

 昭和十年八月の異動がやってきた。林大将が陸軍大臣になって以来、昭和九年三月から三回の陸軍定期異動をおこなっているが、人事問題については、ことごとく真崎教育総監の横やりがあった。

 「二・二六事件 第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、林大将は、部内から皇道派分子の一掃をめざしていたが、その都度真崎教育総監の抵抗に遇い、その大半の意図がつぶされていた。また、林大将が何か気に入らないことを言えば、真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させたものである。

 林陸軍大臣は、この八月の異動で思い切った人事案を出した。秦真次第二師団長を待命、柳川平助第一師団長を予備役編入、山岡重厚整備局長を第九師団長、山下奉文軍事調査部長を朝鮮に転出、鈴木率道作戦課長を地方に、堀丈夫航空本部長を第一師団長に移動させるという徹底した皇道派の壊滅案だった。

 林陸軍大臣がこのような思い切った異動案を決意した背景には、天皇機関説問題をはじめとする、真崎教育総監の強硬な姿勢に、宮中も政府も政党も財界も不安を持っていることがあった。

 また、軍事参議官・渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう)大将(愛知・陸士八・陸大一七首席・オランダ公使館附武官・少将・歩兵第二九旅団長・参謀本部第四部長・陸軍大学校兵学教官・中将・陸軍大学校長・第七師団長・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・教育総監・二二六事件で暗殺)の援助があった。

 林陸軍大臣は事前に渡辺大将を訪ねて、この人事案を巡る部内皇道派の猛烈な抵抗を報告し、協議した。

 渡辺大将は、「もはやこの場合は断の一字あるのみ」だと林陸軍大臣を激励した。そして真崎教育総監があくまで反対するなら「その教育総監を解任すべし」と意見を言った。

 林陸軍大臣が今回の異動案を真崎教育総監に内示したところ、はたして真崎教育総監は、「軍事参議官・菱刈隆大将、軍事参議官・松井石根大将、関東軍司令官・南次郎大将、軍事参議官・渡辺錠太郎大将、軍事参議官・阿部信行大将を待命にせよ」と、迫った。

 さらに、「第五師団長小磯国昭中将、第一〇師団長・建川美次中将もクビにしろ」と、真崎教育総監は言い出した。また、「秦真次第二師団長の待命、柳川平助第一師団長の予備役編入には絶対反対」と、言い出した。

 また、この人事案が真崎教育総監の口から皇道派の将校等に洩れたので、彼らは騒ぎ立て、この林陸軍大臣の人事案の粉砕に躍起となった。

 この様な状況から、林陸軍大臣もいよいよ、真崎教育総監と袂を別つ決心をした。その支柱となったのは、参謀総長・閑院宮元帥だった。

 それに、参謀次長・植田謙吉(うえだ・けんきち)中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・浦塩派遣軍参謀・騎兵大佐・浦塩派遣軍作戦課長・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・関東軍司令官・予備役・戦後日本戦友団体連合会会長・日本郷友連盟会長)だった。

 さらに渡辺錠太郎大将と永田鉄山軍務局長ら統制派幕僚の後押しもあった。







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534.永田鉄山陸軍中将(34)二人の免官は永田軍務局長の意図であり、皇道派への弾圧だ

2016年06月17日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和九年八月の異動で、林陸軍大臣は、真崎色を一掃しようと、思い切った人事案を立案した。林陸軍大臣がここまで強硬策を断行しようというのは、永田軍務局長ら統制派幕僚の突き上げだった。

 陸軍将官の異動は、陸軍大臣の原案を参謀総長、教育総監と、いわゆる三長官の協議の上で決定する習慣になっていた。

 当時は参謀総長が閑院宮載仁親王・元帥陸軍大将なので、陸軍大臣、教育総監の間で内定したものを、閑院宮元帥参謀総長に見せて了承をもらっていた。

 柳川平助次官の第一師団長(東京)転出は、さすがに、林陸軍大臣も真崎教育総監に遠慮して行った人事だった。本当は東京以外に飛ばしかったのだ。真崎教育総監も承服した。

 だが、林陸軍大臣と真崎教育総監が正面から対立したのが憲兵司令官・秦真次(はた・しんじ)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・陸軍省新聞班長・陸軍大学校兵学教官・歩兵大佐・歩兵第二一連隊長・第三師団参謀長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・陸軍大学校兵学教官・奉天特務機関長・第一四師団司令部附・中将・東京湾要塞司令官・憲兵司令官・第二師団長・予備役)の第二師団長転出案だった。

 秦中将は真崎教育総監の最も忠実な子分で、憲兵司令官として反真崎派の将官に対して徹底的内偵を行なってきたのだった。

 林陸軍大臣でさえ、護衛名義で付けられた憲兵に追い回され、重要な電話は自宅からもかけられなかった。

 閑院宮元帥参謀総長は、反真崎派の巨頭だから、閑院宮元帥の別当、稲垣三郎(いながき・さぶろう)中将(島根・陸士二・陸大一三恩賜・騎兵第一連隊長・騎兵大佐・英国大使館附武官・少将・騎兵第一旅団長・浦塩派遣軍参謀長・中将・国際連盟陸軍代表・予備役・閑院宮宮務監督・閑院宮別当)も秦中将の憲兵に追い回された。

 真崎教育総監は、秦中将の異動に反対していた。秦中将を憲兵司令官として中央に置き、自分の手足となって、統制派幕僚を監視させるつもりだった。だが、林陸軍大臣の「秦中将を第二師団長にする」という案に最終的に同意した。

 昭和九年十一月に、クーデター未遂事件である「十一月事件」(陸軍士官学校事件)が起きた。

 陸軍士官学校の佐藤候補生が仲間を誘って当時皇道派の青年将校運動の中心的人物、磯部浅一一等主計(野砲第一連隊附)と村中孝次歩兵大尉(歩兵第二六連隊大隊副官)の両氏を歴訪して国家革新について話し合っていた。

 そのうちに、両氏にクーデター計画の腹案があるのを知り、佐藤候補生は陸軍士官学校の本科生徒隊第一中隊長・辻政信大尉にその計画内容を報告した。

 辻政信大尉は、佐藤候補生に対して、クーデター計画に参加するように指示し、「内偵、報告せよ」と命じ、一種のスパイ行為を行わせた。

 佐藤候補生の報告を受けて、辻政信大尉は、懇意の参謀本部部員・片倉衷少佐にそのクーデター計画を報告した。片倉少佐は、陸軍次官・橋本虎之助中将に報告した。

 その結果、憲兵隊は、磯部一等主計、村中歩兵大尉、陸軍士官学校予科区隊長・片岡太郎中尉と、佐藤候補生以下五名の士官候補生を逮捕した。

 第一師団軍法会議で、磯部一等主計、村中歩兵大尉は停職、五名の士官候補生は退校処分となった。辻政信大尉は水戸の第二歩兵連隊附に左遷された。

 停職になった磯部一等主計、村中歩兵大尉は、その後も怪文書により林陸軍大臣や中央幕僚の攻撃を行ったため、遂に免官処分となった。

 片倉衷氏の証言によれば、この事件の報告は、辻大尉→片倉少佐→橋本中将の線で直線的に行われ、永田軍務局長は当時片倉少佐と隷属関係もなく、この事件に介入する余地はなかった。

 だが、「この二人の免官は永田軍務局長の意図であり、皇道派への弾圧だ」と、永田軍務局長は、青年将校ら皇道派の怒りを買ったのである。

 昭和十年二月十八日、天皇機関説問題が浮上して来た。貴族院本会議で、美濃部達吉議員の天皇機関説が国体に背く学説であるとして、天皇機関説排撃を決議した。

 二月二十五日、美濃部議員は天皇機関説を解説する釈明演説を行い、議場からは拍手が起こった。だが、議会の外では右翼団体や在郷軍人会が抗議した。美濃部議員の釈明演説が新聞に掲載されると、軍部や右翼の攻撃は増幅した。
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533.永田鉄山陸軍中将(33)軍人の偏狭独断を匡正するために、広く一般人と交際させる

2016年06月10日 | 永田鉄山陸軍中将
 この会は、池田少佐が幹事役をつとめ、毎週一回全員が集まって、討論審議を行った。この私的な研究会は、永田少将が軍務局長になると、公然と軍務局で取り上げるようになった。

 だが、軍人の知恵だけでは具体策ができるはずは無かった。そこで官僚の中堅層と結んで、それを外郭団体とし、そこで国策を立案させ、その結論の線を軍の威力で陸軍大臣が閣議に提出し、政府に実行させる方法を案出した。

 この永田軍務局長らの要請に応えて参加した官僚は次の通り。

 岸信介(きし・のぶすけ)商工省大臣官房文書課長(山口・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省工務局工政課長・外務書記官・大臣官房文書課長・公務局長・商工次官・商工大臣・衆議院議員・国務大臣・戦後戦犯で巣鴨拘置所入所・衆議院議員・日本民主党幹事長・自由民主党幹事長・外務大臣・首相・国連平和賞受賞・勲一等旭日桐花大綬章・大勲位菊花大綬章)。

 唐沢俊樹(からさわ・としき)内務省警保局長(長野・東京帝国大学法科大学・首席・内務省・警保局図書課新聞検閲主任事務官・警保局保安課長・和歌山県知事・内務省土木局長・警保局長・法制局長官・貴族院議員・内務次官・戦後公職追放・衆議院議員・法務大臣・勲一等瑞宝章)。

 和田博雄(わだ・ひろお)企画院調査官(埼玉・東京帝国大学法学部・農林省・企画院調査官・戦後農林省農政局長・農林大臣・経済安定本部総務長官・参議院議員・社会党入党・衆議院議員・左派社会党書記長・社会党国際局長・社会党副委員長)。

 奥村喜和男(おくむら・きわお)逓信省事務官(福岡・東京帝国大学法学部・逓信省・内閣調査局調査官・企画院調査官・内閣情報局次長・戦後公職追放・東陽通商社長)。

 迫水久常(さこみず・ひさつね)首相秘書官(東京・東京帝国大学法学部・大蔵省・甲府税務署長・外国為替管理法案策定・首相秘書官・大蔵省理財局金融課長・企画院第一課長・大蔵省総務局長・大蔵省銀行保険局長・内閣書記官長・貴族院銀・戦後公職追放・衆議院議員・参議院議員・経済企画庁長官・郵政大臣・鹿児島工業短期大学学長・勲一等旭日大綬章)。

 小金義照(こがね・よしてる)商工省事務官(神奈川・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省鉱山局長・鉄鋼局長・燃料局長・戦後衆議院議員・自由党政務調査会副会長・国会対策委員長・自由民主党資金局長・郵政大臣・勲一等瑞宝章)。

 相川勝六(あいかわ・かつろく)内務省警保局保安課長(佐賀・東京帝国大学法科大学・内務省・警視庁刑事部長・内務省警保局保安課長・宮崎県知事・広島県知事・愛知県知事・愛媛県知事・厚生次官・厚生大臣・戦後公職追放・衆議院議員・自民党治安対策特別委員長)。

 永田少将は、大正九年欧州駐在の後、「国家総動員に関する意見」を書いて高く評価されたが、日本における国家総動員研究の最初の軍人だった。

 永田少将を中心とする国策の新建設は、当然、統制経済を念頭に置いた構想だった。永田少将らの「統制派」という名称は、例えば、池田少佐によると、「経済統制を推進」する集団であるところから、そう呼ばれたという説もある。

 その経済統制を推進する面から、永田少将は、財界の一部と交際した。またグループの幕僚たちも工業倶楽部などに出入りさせて、財界に対する知識を広めさせようとした。

 永田少将の政策に一役買ったものに矢次一夫(やつぎ・かずお・佐賀・父は医師・陸軍省から依頼され国策研究会設立・企画院委員・大政翼賛会参与・戦後公職追放・国策研究会を再建・岸信介首相の特使として日韓国交回復に尽力)の主宰する国策研究会があった。

 「昭和人物秘録」(矢次一夫・新紀元社)によると、著者の矢次一夫は、当時の永田鉄山少将について、次のように述べている。

 「陸海軍をあわせて私が知った将校は無数だが、インテリらしく、いかにも才物らしい鋭さを示した者は稀で、この点では、彼に師事した武藤(章)などまだ及ばずの感が深い」

 「永田が軍務局長として鮮満視察から帰ったあと、相沢に殺される十数日前だったが、一夜会食した席上で、私が視察談を求めたのに答えて、これはごく内密の話であり私見に止まるがと前置きして、関東軍の満州国に対する内面指導は早く打ち切る必要があり、また朝鮮は軍備と外交とを除き、国内自治を許す方向にもっていく必要を痛感したと語ったのである」

 「私はこの話を聞きながら、軍人として話しているというよりも、大学教授と語っているような気がしたし、静かに落ち着いて説く彼に、ありふれた軍人などの持たぬ卓見を聞いたのである」

 「今でこそ(発行当時の昭和二十九年)こんな見解は何でも無いようなものだが、当時としては政界人でもここまでは、個人の意見としても言い切れなかった識見であったのだ」

 「また永田は同じころ、私に、軍人の偏狭独断を匡正するために、広く一般人と交際させるよう計らいたいと思う、それには交詢社とか、日本クラブとか、工業クラブなどに加入するのが良いかも知れない」

 「軍務局とか整備局とか政治や経済を担当している中央部の将校を選抜して、それらのクラブに入会させるのはどんなものであろうか」

 「現役軍人を会員として入会させるかどうか、陸軍でも研究するが、それらのクラブの当事者と相談してもらいたい、と頼まれたことがある」

 「そこで、私はこれのクラブに行き、規約などを集めて、幹部にそれとなく聞き合せていたのであるが、この計画が実現しないうちに、彼は殺されてしまった」。


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532.永田鉄山陸軍中将(32)東條少将は、真崎大将に一泡吹かせる意気込みだった

2016年06月03日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和九年三月五日、永田鉄山少将は、第一師団歩兵第一旅団長から、陸軍省軍務局長に就任した。五十歳であった。

 林大将は陸軍大臣になって二ケ月目に永田少将を本省に呼び戻した。一方、小畑敏四郎少将は、中央に戻さず、近衛歩兵第一旅団長から、陸軍大学校幹事にして(三月五日)、遠ざけた。

 だが、真崎大将と林大将はもともと親友だった。また、大正十五年、林中将が東京湾要塞司令官で待命を覚悟していた時、真崎少将が武藤信義教育総監に頼み込み、林中将を陸軍大学校長にしてもらったのだ。

 その真崎大将に配慮して、林陸軍大臣は、真崎派の柳川平助中将を陸軍次官として留任させ、山岡重厚少将を整備局長に、山下奉文大佐を軍事課長として留任させた。

 東條英機(とうじょう・ひでき)少将(岩手・陸士一七・陸大二七・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・陸軍省軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・関東憲兵隊司令官・中将関東軍参謀長・陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍大臣・大将・首相兼内務大臣・兼軍需大臣・兼参謀総長・予備役・A級戦犯で死刑)は、当時陸軍省軍事調査部長をしていたが、陸軍士官学校幹事に転出した。

 東條少将は、反荒木・真崎派で、永田鉄山少将らの「一夕会」の会員である。東條少将は、陸軍士官学校幹事として中央を離れるのだが、勇躍して陸軍省を出た。士官学校は、真崎甚三郎大将の領地だ。東條少将は、真崎大将に一泡吹かせる意気込みだったという。

 ところで、荒木大将から林大将へ陸軍大臣の更迭があった直後、まだ歩兵第一旅団長だった永田鉄山少将を原田熊雄(はらだ・くまお・学習院高等科・京都帝国大学卒・日本銀行・宮内省嘱託・加藤高明首相秘書官・元老西園寺公望の私設秘書官・貴族院議員・男爵)が訪ねてその意見を聞いた。永田少将は次のように語った。

 「まず、荒木大将自身はまことに神様のような立派な人だ。けれども、大将にはいわゆる股肱と頼むような部下があり、また荒木でなければならんとどこまでも主張する頗る偏狭な人が比較的多く取り巻いているため、ある意味からいうと、取り巻きによってまた他から誤解されやすい」

 「簡単に言えば、軍人以外の人でも極右の連中が荒木さんに近づく傾向がある。次に、林大将には股肱と頼むような人は無く、相談相手にするような誰と決まった人も無い」

 「またよくわかる人で、人の言をよく容れる。ただ、惜しむらくは、やはりその周囲に集まる者は政治ブローカーが非常に多い。そのため非常に誤られやすいが、しかし、非常にものの良く分かる人で、実に立派な大臣だと自分は思う」

 「林大臣が大臣になったらば自分なども中央に持っていかれるというように……つまり、自分が林派であるかのように言う人がある」

 「自分は林大将には一度しか会ったことがない。しかも、それも三十分ばかり話したきりで、その後近づいた事は無い」

 「最後に、真崎大将に至っては全く子分の無い人である。しかし、この三大将のいずれが大臣になっても、陸軍が動揺することは決して無い。すなわち、三大将の中の一人がなればいいのだ」。

 これが、永田少将が林大臣に迎えられる以前の感想である。だが、永田少将は林陸軍大臣のもとに軍務局長となり、「林大将には股肱と頼むような人は無く、相談相手にするような誰と決まった人も無い」欠点を永田少将自身が補って、その人となり、「永田軍政」を築いていく。

 軍務局長に就任して以来、永田鉄山少将が、最初にやったのが、国策の研究である。国内政策を整備し、国家総動員的な体制にしようという狙いだった。

 もともと、永田少将は国家改造方式を研究しており、陸軍大学校出身の優秀な幕僚将校を集めて、これに当たらせた。外国留学の経験のある者五名、東大派遣学生の経験のあるもの四名という構成だった。その主要な三名は次の通り。

 陸軍省軍務局課員・池田純久(いけだ・すみひさ)少佐(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍参謀第五課長・関東軍参謀副長・中将・内閣総合計画局長官)。

 陸軍省軍事調査部・田中清(たなか・きよし)少佐(北海道・陸士二九・陸大三七・東京帝国大学文学部・関東軍参謀・長崎要塞参謀・西部防衛参謀・歩兵大佐・台湾軍参謀・中部軍司令部附・予備役)。
  
 参謀本部支那班長・影佐禎昭(かげさ・さだあき)中佐(広島・陸士二六・砲工二三恩賜・陸大三五恩賜・東京帝国大学政治科・上海駐在武官・陸軍省軍務局軍事課満州班長・砲兵大佐・参謀本部支那課長・陸軍省軍務局軍務課長・少将・南京政府最高軍事顧問・第七砲兵司令官・中将・第三八師団長)。









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531.永田鉄山陸軍中将(31)当時、真崎大将と永田少将は個人的には依然親交があった

2016年05月27日 | 永田鉄山陸軍中将
 当時、いわゆる怪文書が「永田は財閥と結託していた証拠に、自邸の豪壮さ……」などと書いていたが、デマも愛嬌というべきだが、多数の知らぬ者は、やはりそうかと考えた。

 前述の在郷軍人会の班旗の揮毫について、元来永田鉄山は、揮毫を嫌っていて、地位の向上とともに、各所から揮毫を依頼されることが多くなったが、常に「揮毫の依頼があったら、万年筆なら書きますと言ってくれ、それなら大概退却するだろう」と部下に言って笑っていた。

 ところが、旅団長時代に快諾して書いたという事実があり、これが永田少将の揮毫の唯一のものと言われている。それは郷里、長野県諏訪郡の在郷軍人会玉川村分会第三班の班旗に、班名を書いたものである。

 第三班では、今名声の高い永田少将に班名を書いてもらおうと、村長と在郷軍人会分会長の紹介状をもらって、班長、田中今朝次氏が昭和九年一月十四日、班旗を携えて永田少将の自邸を訪ねた。

 永田少将が揮毫をしないという事を聞いていた、田中氏は必死にお願いした。田中の熱情溢れる口上に耳をじっと傾けていた永田少将は、広げた旗を見ながら、次のように言った。

 「これは立派な旗だ……わしは今日満五十歳になるが、人から揮毫を頼まれても絶対に書かない決心で来ました、ちょうど今満五十歳になったから今までの決心は取り消してもよい。その第一号に軍人の旗を持って来られたことを非常に喜ぶ。がしかし僕の筆は一流あるからこのまま将来まで残るものを染めてよろしいかどうか自信がないから、今年一年だけ手習いする期間を猶予してもらいたい」。

 その後、一年も待たずに、その年の五月十七日、早くも書けたとの通知を受け取った田中氏は、十八日、永田少将の自邸を訪れた。

 永田少将は「十四日に明治神宮に遥拝して筆をとりました。お受け取り下さい」と言って、「帝国在郷軍人会玉川村分会第三班 永田鉄山書」と書いた旗を出し、「何事も国家のためだ、国家のためにいよいよ御健闘下さるようにお伝えください」と付け加えて、田中氏に渡した。

 田中氏は、感激の極みだった。これが永田鉄山の唯一の揮毫のいきさつである。

 ところで、永田鉄山の趣味は、多忙な職務で、没頭する事は無かったが、社会学の研究に興味があり、書物も読み、研鑽し、各専門家の意見も聴いたりした。

 また、幼少の頃から禅門を叩いてその道に精進した。そのほか、囲碁は、最も好んだ趣味で、若年の頃から暇な時に碁を打った。陸軍大学校在学中に、そのために処分を受けたほどだった。

 さらに、謡曲という古典的な趣味もあり、多忙の最中にも、公務の余暇に、その会に出席していた。謡は上手とは言えなかったが、永田独特の特徴を持った謡い振りだった。節廻しが誠に確実で、謡曲本に記されている符号の形そのままの謡い方で、それが永田鉄山の性格をそっくり現していた。

 永田鉄山は、頼まれても揮毫を断り、筆を持つことを嫌ったが、その字は、全く、実印不要の字だと冷やかされる程、明瞭で、あいまいな字は無く、真似のできないものだった。

 酒と煙草は、何といっても永田鉄山の嗜好の第一番であった。若い時から大の煙草好きで、指先を黄色にして、絶え間なく煙を吹かしていた。友人たちはニコチン中毒にかからねばいいがと心配したほどだった。

 酒も大好きで、青年の頃から相当飲んだ。だが、どれ程飲んでも、飲まれることは絶対になかったという。酔うと、「鴨緑江節」を歌ったが、恐らく、唄はこれよりほかは知らなかったと思われる。普通は酔えば気が大きくなり、大声になるのだが、永田鉄山は酔うに従って、ますます小声になったという。

 また若い頃から、永田鉄山は植木に興味があり、寸暇を得ては、庭に出て植木いじりに余念がなかった。永田が中、少尉の頃、私宅を訪ねた友人が、あまりにも庭の植木がキレイなのに驚いて、「庭木屋でも出入りさしているのかね」と尋ねたところ、永田は「植木屋さんは、ここにいるよ」と自らを指して笑ったという。

 植木が好きという事から、永田鉄山の性格は、自然を愛し、凡帳面であったということが言えるが、それにしても、幅の広い多趣味には驚かされる。

さて、昭和九年一月荒木陸軍大臣が病気を理由に辞任し、教育総監・林銑十郎大将が陸軍大臣に就任した。また、教育総監には、軍事参議官・真崎甚三郎大将が就任した。

 「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、荒木陸軍大臣は、自分の後任として、真崎大将を陸軍大臣に推薦したが、閑院宮参謀総長が反対した。それで、荒木大将と林大将の間で取り決め、真崎大将を教育総監に推薦し、閑院宮参謀総長もこれは了承した。

 この当時、真崎大将と永田少将は個人的には依然親交があった。永田少将が軍務局長になる昭和九年三月頃まで、教育総監・真崎大将は永田少将を中核にした陸軍部内の結束を考えていた。
 
 二月になり、林陸軍大臣は永田少将を軍務局長にする事に決めた。この案に、荒木貞夫大将は猛反対したが、林陸軍大臣と協調していた教育総監・真崎大将は、永田少将の軍務局長登用に同意した。




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530.永田鉄山陸軍中将(30)次官がそんなに気に入らないのなら、代わられたらいいでしょう

2016年05月20日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田さんが柳川次官のところへ行って話をしていると、なかなか通りにくそうで、とにかく柳川次官の方でも理屈が多く、屁理屈を言っている。永田さんも負けずに屁理屈を言っている。

 山下軍事課長が柳川次官のところへ行くと、すぐ通る。また、新聞班長・鈴木貞一大佐が行くとすぐ通ってしまう。実際、そうだった。

 私(有末少佐)は、永田さんと柳川さんとのこういう関係を見ていると、ああこれはなかなか難しいなと感じた。柳川さんは永田さんにはそういう状況であるし、林陸軍大臣に対してもしっくりしていなかった。

 私は柳川次官に、「本気で大臣閣下を御補佐下さい」と訴えた。すると柳川次官は「俺だってやっているぞ。荒木大臣の時とちっとも違わない」と言われた。

 そこで私は「荒木さんの時には、蚊が喰うのを、ウチワでパタパタやりながら、もういいじゃないかと思うまでお話になっておられた。その姿は見ていて楽しかったのです。しかし、林さんの時には、不動の姿勢でちょっと話をしてすぐ帰られる。次官、もう少し努めてやってください」とお話しした。

 すると柳川次官は「実は私は林大臣を人格的に承服、尊敬できないので、荒木閣下の時のようにいきかねるよ」と率直に言われた。

 それで私は柳川さんに「次官がそんなに気に入らないのなら、代わられたらいいでしょう」と言った。すると柳川さんが「いや、しかしね、真崎さんが、おれ、と言うからな」と言われた。それで結局八月まで次官をしていることになった。

 以上が、永田鉄山少将が軍務局長になった頃までの陸軍中央内部の実態について、当時、陸軍大臣秘書官だった有末精三少佐が証言した内容である。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、歩兵第一旅団長時代、永田少将は、一人で群馬県の川原温泉に滞在したことがあった。宿泊していた「敬業館」の主人の話では、次の様なエピソードがあった(要約・抜粋)。

 朝食が済むと永田鉄山少将は、毎日決まって、カンカン帽に浴衣がけ、懐に本を入れて、下の河原に出掛けた。河原の入り口に「河原公園」というのがあり、そこの親父が一風変わっており、河原へ下る入り口に柵を作っており、その柵を開けて下りる人に幾分かの茶代をもらうことにしていた。

 ところが永田少将は、その茶店の前を通っても、一言の挨拶も無く素通りしていた。ある日、その親父が、どうも怪しからぬ人だ、一つ今日は文句を言ってやろうと思った。

 この親父は多少洒落っ気のある男だったので、半紙を短冊型にして歌を書き、それを永田少将に、「お客様!御返歌を」と差し出した。その歌は次の通り。

 「日々にわが園見舞う君こそは 神と思ひて末頼むらん」。

 すると永田少将は、「俺はこういうことは余りうまくない。今日は駄目だから、明日まで待ってくれ」と言った。

 その翌日、やって来た永田少将は、茶店に腰をかけ、「親爺さん、紙を貸してくれ」と言って次のような歌を書き、「ほい来た」と親爺に差し出した。

 「非常時を乗り切らむ糧の魂と身を 鍛へまほしと君が園訪ひぬ 昭和八年菊月上浣 鉄山」。

 この歌を見た親父は、「どうせ大した人でもない、歌も、俺位なものだ」と思って木箱の引き出しにしまっておいた。

 ところが、後に、軍務局長惨殺事件が新聞で報道され、大見出しで「永田鉄山」とあるのを見て、どうも聞いたことのある名だと、そこで木箱の引出しを開けて、短冊の歌を見た。

 すると、「鉄山」と同じ字だった。それで、そんな偉い人だったのか、失礼な事をして申し訳なかったと思った。それからその親爺は、その永田少将の歌を台紙に貼り付けて、壁に掛け、朝夕冥福を祈った。

 また、当時永田少将の私宅に公用で出入りしていた人の話では、地位権勢名望飛ぶ鳥を落とすほどの境遇にありながら、客間の飾り付けがいかにも質素だった。床の間には年中変わらぬ一軸が掛けられており、身分相応な四季それぞれの軸物位は揃えたらいいのにと思われた。

 また、永田少将が唯一揮毫したという、在郷軍人会の班旗の揮毫を願いに永田邸を訪ねたという田中氏は、次のように述べている。

 「今をときめく将軍の御屋敷には、あまりにも質素だ、二階に座敷が三つ、階下に室が三つか、四つらしい、庭も狭くて往来に添っている、御屋敷を出て振り返れば、非常時の日本の今、傑材と讃えられる名将軍の邸とも思われぬ」
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529.永田鉄山陸軍中将(29)あんな奴、大臣になっちゃって、俺は、もう知らん!

2016年05月13日 | 永田鉄山陸軍中将
 山岡さんは誠に立派な武人ではあるが、政治的なこの職務の任用については、一部部内では意外とされていた。この時、永田さんを軍務局長にしたら良かったのじゃないかという噂を耳にした。

 おそらく、小畑さんが山岡さんを推されたのではないかと思うのだが、山岡さんは直情怪行な立派な人だから、きれいな性格の荒木さんと、よく合う。

 しかも山下奉文大佐が軍事課長に出てきたのは、同県の高知県出身で山岡さんが使いやすいということもあったし、部内ではすこぶる好評だった。

 一番大きな問題は、荒木さんの一の乾分(こぶん)の小畑さんが軍務局長にならずに第三部長になり、山岡さんが軍務局長になった。

 それで実際は非常に大事な時ではあるし、いろいろ大きな手を打たねばならぬ時であるから、逸材の小畑さんが軍務局長になればよかった。

 しかし、小畑さんは荒木さんの真のブレーントラストとして、参謀本部から直接陸軍大臣官邸へ出入りして補佐していた。

 閑院宮が参謀総長になられたのは、荒木さんが陸軍大臣になられた後、満州事変勃発の後で、真崎甚三郎中将を台湾軍司令官から参謀次長に持って来た。

 荒木さんは、ああゆう人であるから、若い者とどんどん鷹揚に話をされる。真崎さんは真崎さんで西郷隆盛みたいな恰好をして、含蓄あるものの言い方をされるから若い者は親分のように慕う。

 真崎さんは若い者の意見を直ちに取り入れて、人事とか何とかにある程度動かれた。そのために、永田さんが出てくるまで、人事が偏っているという空気があったのは事実だが。

 むしろ、かつて参謀本部での永田第二部長と小畑第三部長の対立の方が問題だったが、これを真崎参謀次長は押さえてまとめきれず、結局、喧嘩両成敗で二人とも旅団長に出したのじゃないかと、穿った噂が飛んでいた。

 昭和七年八月、陸軍次官・小磯国昭中将が関東軍参謀長に転出、騎兵監・柳川平助中将が陸軍次官に抜擢された。

 九月五日に私(有末少佐)は陸軍大臣秘書官に任命された。当時憲兵司令官は秦真次中将で、憲兵情報というのが毎日秘書官室に届けられた。その中に宇垣一成大将攻撃に関するものが相当にあった。

 昭和九年一月二日に荒木陸軍大臣が御病気(急性肺炎)で、一月十九日大臣更迭で、林銑十郎教育総監と柳川陸軍次官と私は、小田急線で小田原の閑院宮邸へ向かった。

 小田急線は満員ではなかったが、近くの客に気兼ねしたのか、林大将と柳川中将はほとんど一言も話をされず、私は実に重苦しい気分でお伴した。

 閑院宮に会われると、林大将は真崎参謀次長を陸軍大臣の後任に推薦された。ところが、閑院宮は、突然大声で「君たちは私に真崎を押し付けるのか。私は真崎を次長に使ってよく知っている。林君、君やりたまえ」と言われた。

 林大将は「それでは真崎君を教育総監にお願いします」と返事をして、柳川中将も同意見で、閑院宮もそれには同意した。

 この十九日の閑院宮邸における会議の時の空気を、柳川中将から後で聞いた話によると、林さんのあの言い方には、どうも伏線があるような風であったらしいとのことだった。だが、私が隣の部屋で聞いたところでは、林さんは真崎さんを執拗に押しておられた。だが、柳川さんとしては、そういう風に感じたのだろう。

 このいきさつが一番、林さんと真崎さんの仲が悪くなってきた始まりじゃないかと思う。つまり事前に閑院宮の方に裏から根回しが行われたとの憶測があった。ライバルとして権力闘争の兆しがあったのではないか。

 こういう形で大臣が決まった時に、私は、私の前任の、荒木陸相専任秘書官・前田正実中佐と二人で寿司を食ったことがあった。その時、前田さんは一口も食べず、ハシで寿司を混ぜくり返して怒っていた。そして言った。「あんな奴、大臣になっちゃって、俺は、もう知らん!」。

 その頃は、陸軍大臣は代わっても、秘書官は代わらないのが通常だった。ところが、林さんが陸軍大臣になった時に、前田さんは代わってしまった。

 昭和九年三月に林陸軍大臣は永田さんを軍務局長に呼んだわけです。山岡さんは整備局長になった。柳川次官は真崎教育総監の要望もあり、留任となった。山下軍事課長も留任だった。
 
 永田さんが軍務局長になった時、永田軍務局長と柳川次官のとの間は、なんだかうまくいっていないと心配され、その片鱗が出ていた。






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528.永田鉄山陸軍中将(28)陸軍省が横暴で、参謀本部は押さえつけられている感じがあった

2016年05月06日 | 永田鉄山陸軍中将
 その当時(昭和二年初頭)、参謀本部第一部(作戦)では、次の三人の課長が、荒木貞夫部長の隣の部屋に、三人とも同室の配置だった。

 作戦課(第二課)課長・小畑敏四郎(おばた・としろう)中佐(高知・陸士一六・陸大二三恩賜・ロシア大使館附武官・歩兵中佐・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・従三位・勲一等瑞宝章)。

 要塞課(第三課)課長・河村恭輔(かわむら・きょうすけ)大佐(山口・陸士一五・砲工高一五・陸大二七・陸軍大学校兵学教官・砲兵中佐・参謀本部要塞課長・砲兵大佐・野戦砲第二二連隊長・少将・津軽要塞司令官・野戦重砲兵第四旅団長・陸軍重砲学校長・中将・第一六師団留守師団長・第一師団長・従三位・勲一等旭日大綬章)。

 演習課(第四課)課長・柳川平助(やながわ・へいすけ)大佐(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・陸軍大学校兵学教官・北京陸軍大学教官・騎兵中佐・陸軍大学校兵学教官・騎兵大佐・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・陸軍騎兵学校長・騎兵監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章)。

 陸士卒業の期と陸大卒業の期は、おおよそ、十期の差があるといわれている。河村大佐は陸士一五期、陸大二七期で、十二期の差である。柳川大佐も陸士一二期、陸大二四期恩賜で、十二期の差だ。

 だが、小畑中佐は陸士一六期、陸大二三期恩賜で七期の差でしかない。しかも陸大は恩賜である。小畑中佐は、陸士は河村大佐より一期、柳川大佐より四期も後輩だが、陸大は河村大佐より四期、柳川大佐より一期早く卒業している。若くして難関の陸大に合格しているのだ。

 なお、当時陸軍省整備局動員課長・永田鉄山中佐は、陸士一六期、陸大二三期次席で、小畑中佐と同じ七期の差である。ちなみに、陸大二三期の首席は、当時、参謀本部編制動員課長・梅津美治郎大佐(陸士一五期)だった。

 陸士一六期の同期生で最初に陸大二三期に合格し入学したのは、この永田中将、小畑中将と、藤岡萬蔵少将、谷実夫少将の四人である。なお、陸大二三期には、陸士一八期の酒井鎬次中将(恩賜)と稲葉四郎中将がいる。

 当時私(有末少佐)は第四課の庶務将校であった。柳川課長は、何とかして作戦課長だけには一室を与えたいといって、私に第四課の室割を考えて無理をして(四期も)後輩の小畑さんの為に独立した室を準備させた。

 御自分の課はしのんでも、作戦課長の小畑さんの仕事(構想)をしやすく、考えられていた程であった。しかも、一番古参の御自分と十五期の河村大佐と二人は同室にして、中佐の小畑さんを一人の単独の室で執務させられた。こんな美しい話があった。

 当時(大正末期)は、いわゆる太平時代であり、金を持っている陸軍省が横暴で、参謀本部は押さえつけられている感じがあった。

 永田さんが動員課長になって、東條さんが陸大教官から軍事課の高級課員になられた時、何かの話の折りに栄転だといって羨ましがった人がいた時、柳川課長は「統帥の大学教官から軍政の仕事に就くのを栄転というそういう時代になったことは誠に嘆かわしい」と嘆息された。

 柳川さんという人はこのように、よく筋を通す人だった。こういう人柄を買って荒木さんは、柳川さんを同期の小磯さんに代えて次官にされたのだろう。

 これは永田さんの関係ではないが、陸軍省と参謀本部の間にはいろいろと軋轢や不満もあり、それが後の派閥(?)の関係にも影響したのではなかろうか。

 例えば皇太子殿下に対する軍事の御前進講という軍事学に関する御教育、御養育係りというのは参謀本部の仕事だった。

 それを阿部信行少将(後の大将・首相)が総務部長から軍務局長に代わった時に一緒に持っていかれた。そういう問題が参謀本部、特に作戦系統で問題になって喧しいことがあった。阿部さん(陸士九・陸大一九恩賜)と、荒木さん(陸士九・陸大一九首席)は同期で、ライバル意識が相当にあった。

 当時荒木さんが第一部長、小畑さんが第二課長の時でも、いろいろな要求を出すが陸軍省がなかなか承知しない。山東出兵をやるにしても、陸軍省と参謀本部では出兵理論が違うのではないが、いわゆる統帥と政治の関係、政府の予算がものを言うので、参謀本部が圧迫されがちだった。

 私(有末少佐)は昭和七年九月十八日、満州の大隊長から陸軍大臣秘書官に転任した。満州事変後の昭和六年、十月事件の後に荒木貞夫中将が陸軍大臣になり、軍務局長には教育畑の山岡重厚少将を抜擢された。




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527.永田鉄山陸軍中将(27)陸軍では、非常な秀才が出ると、ライバル意識が出てくる

2016年04月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田鉄山少将は、参謀本部第二部長時代に、「新軍事読本」という本を編著して出している。多忙な時間を縫ってまで書き綴った永田少将の胸に激しく燃えていたのは、「良兵ヲ養ウハ即チ良民ヲ造ル所以」という理念であり、「軍人である前に人間であれ」という痛烈な叫びであり、訴えだった。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、永田鉄山少将、小畑敏四郎少将を両軸にした統制派と皇道派の対立の、陸軍省、参謀本部の陸軍中央内部の実態について、記している。

 当時、陸軍大臣秘書官だった有末精三(ありすえ・せいぞう)少佐(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・在イタリア大使館附武官・航空兵大佐・軍務局軍務課長・北支那方面第四課長・北支那方面参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・終戦直後対連合国陸軍連絡委員長・日本郷友連盟会長・勲二等)は戦後次のように証言している(要旨抜粋)。

 永田さんは合理主義的な考えを持っており理想もある。その理想を着々と実行して行くという、合理適正な方で、しかも非常な包容力を持っている。

 どういう訳で派閥の形になって来たか。陸軍では、非常な秀才が出ると、ライバル意識が出てくる。そういう空気がある。

 当時の派閥の一番の根源は小畑さんと永田さんの仲たがい、意見が合わんということではないか、という風にみんなは見ていた。

 永田さんと小畑さん、参謀本部の第二部長、第三部長の意見の相違がある。その時の参謀次長は、真崎甚三郎中将でしたが、真崎さんはなぜ、ちゃんと恰好をつけないか。

 永田さんと小畑さんは別に切り合いをしたわけでもなければ、殴り合いをしたわけでもない。結局、対ソ情勢判断についての論争に端を発した。

 永田さんは、今は対ソ作戦はやるべきではない、国内体制や満州問題を固めるべきだという意見。小畑さんは作戦畑の出身ではあるし、対ソ作戦準備第一主義というか、要するに北進論だ。

 それが実際問題として現れたのが、北満鉄道買収の問題だ。小畑さんは第三部長、鉄道関係の部長として、北満鉄道なんてそのうちに転げ込んでくる、下手に買収すると、ソ連の経済状態をよくし、その情報募集を容易にするという主張だった。

 これに対し永田さんの方は、それは買った方がいい。買えば満州国国内の治安維持は非常に楽になるというのが、狙いだという。

 最終的に、北満鉄道は買収してしまったが、満州国国内の治安維持には確かによくなったが、ソ連の対日工作を容易にした不利があった。

 結局、北進だ、南進だ、といわれ、それが後に、皇道派が北進、統制派は南進ということになった。後に統制派が南進して支那事変から大東亜戦争にまで発展したんだと言われているが、それは少し飛躍している。

 参謀本部の第二部長は全般の情勢分析をして情勢判断をする。第三部長は運輸・通信の関係から、また作戦部関係の者はその観点から情勢を判断しがちだ。

 だから参謀本部ではしょっちゅう、第二部長の意見は全部蹴られてしまう。私も第二部長をやったが、第二部長案というものは、それはもう情けないほど通らない。

 昭和二年、濃尾平地での大演習で、私は演習課主任部員で、部長が荒木貞夫(あらき・さだお)少将(東京・陸士九・陸大一九首席・ロシア出張・歩兵大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部支那課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・内閣参議・文部大臣・勲一等・従二位)だった。

 審判官の割振りをした時に、陸軍省軍事課高級課員・永田鉄山中佐と参謀本部作戦課長・小畑敏四郎中佐の両雄を対抗してやってもらった。当時は派閥など思いもよらぬ事で、いわば、良い意味での好敵手だった。

 これは、参謀本部演習班長・阿南惟幾(あなみ・これちか)中佐(東京・陸士一八・陸大三〇・十八番・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監・陸軍大臣・自決・正三位・勲一等旭日大綬章・功三級)の起案によるものだった。今から思えば無量の感慨にふけらされる。

 小畑さんは私(有末少佐)の陸軍大学校時代の教官だった。小畑さんは独特のいい考えを持っている人で、当時ロシアのヤヌシュケウイッチ少将の回想録を入手され、それを基礎にして、東方戦場の戦史を講義した。

 小畑さんは、非常に作戦的、独創的で徹底した考えもありながら、なかなかまた政治的な素質があった。

 小畑さんは、元田肇(もとだ・はじめ・大分・東京帝国大学法科卒・弁護士・衆議院議員・衆議院副議長・逓信大臣・鉄道大臣・衆議院議長・枢密顧問官・勲一等瑞宝章)のお婿さんだった。
 
また、船田中(ふなだ・なか・栃木・東京帝国大学法科卒・内務省・東京市長代理・衆議院議員・防衛庁長官・自民党安全保障調査会長・衆議院議長・自民党副総裁・旭日桐花大綬章・従二位)と義兄弟でもあった。

 第一次世界大戦の時、小畑さんは荒木貞夫さんと一緒に従軍しており、荒木さんは小畑さんの性格や能力を識っていた。

 荒木さんが参謀本部第一部長(作戦)の時に、まだ中佐であった小畑さんを作戦課長に抜擢した。荒木さんは思想に置いてもその能力に於いても、小畑さんを信任していた。



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