陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

470.東郷平八郎元帥海軍大将(10)戦時禁制品を積載しているので、この船を差し押さえます

2015年03月27日 | 東郷平八郎元帥
 船内には、清国陸軍兵と大砲、その他、多数の兵器を載せていた。清兵は、人見大尉の一行を見ると、いかにも憎々しげに、ある者は危害を加えようとさえしたが、「浪速」の巨眼が光っているので、人見大尉の取り調べに対して抵抗はしなかった。

 人見大尉は、最初に、商船船長のガルス・ウオルスェーに面会した。人見大尉は流暢な英語で次のような尋問を行なった。

 人見大尉「自分は日本帝国の軍艦「浪速」乗組みの大尉、人見善五郎というものであるが、艦長の命令により、本船を検察のために来た。自分の質問には明瞭に答えてもらいたい」。

 ウオルスェー船長「何故に日本の軍艦が、本船の進航を止め、このような検察の手続きを執るのか」。

 人見大尉「船長は、今、日本と支那の間に、戦闘が開始されたことを、御承知であろう」。

 ウオルスェー船長「知っています。しかし、両国のいずれからも、宣戦の布告が、出たことを知りません」。

 人見大尉「しかし、現に戦闘が開始されたという事実は、見たでしょう」。

 ウオルスェー船長「それは見ました」。

 人見大尉「然らば、宣戦の布告を見た、と、同一である」。

 ウオルスェー船長「判りました」。

 人見大尉は、船長に命令して、まず、船籍書を検閲した。それにより、本船はロンドンの印度支那汽船会社の代理店・ジャーディン・マディソン商会の所有船「高陞号(こうしょうごう)」と分かった。

 調べてみると、その船は英国の商船旗こそ掲げているが、明らかに清国軍の輸送船として活動していることが判明した。

 さらに、人見大尉は、詳細な尋問を、ウオルスェー船長に行った。

 人見大尉「どこから清国兵を載せて、どこに行こうとしているのですか」。

 ウオルスェー船長「大沽(たいこ)からです。牙山(がざん)へ行く船です」。

 人見大尉「清国政府とはどのような関係があるのですか」。

 ウオルスェー船長「雇われたものです」。

 人見大尉「乗船している清兵は何名いますか」。

 ウオルスェー船長「将校と兵卒と全部で一千百名です」。

 人見大尉「大砲などの兵器の数量を言いなさい。正確に言いなさい」。

 ウオルスェー船長「大砲十四門。小銃二千挺です。この通り決して間違いありません」(船長は帳簿を示した。数字は一致していた)。

 人見大尉「当然、弾薬もあるでしょう」。

 ウオルスェー船長「あります」。

 人見大尉「然る以上は、戦時禁制品を積載しているので、この船を、差し押さえます」(厳然たる態度で言った)。

 ウオルスェー船長「えッ、差し押さえるのですか。本船はイギリスの商船ですよ」。

 人見大尉「それは、よく判っています」。

 ウオルスェー船長「私は、どうすればよろしいのか」。

 人見大尉「わが日本帝国の軍艦『浪速』に随行することを命じます」。

 それを聞くと、まわりの清兵たちが、騒ぎ出した。人見大尉は、そんなことに無頓着に、船長に答えを促した。

 ウオルスェー船長「それでは、私は、乗っている人に相談しますから、少しの間、待ってください」。

 人見大尉「それは、相成りません」。

469.東郷平八郎元帥海軍大将(9)双眼鏡で見ていた東郷艦長は、「あの船は見逃せない」と言った

2015年03月20日 | 東郷平八郎元帥
 明治二十七年七月、日清戦争が勃発した。八月一日の宣戦布告の前、七月二十五日早朝に、朝鮮半島西岸沖で、日本艦隊と清国艦隊が戦った豊島沖海戦が起きた。

 日本海軍の第一遊撃隊の、防護巡洋艦「吉野」(四二一六トン)、防護巡洋艦「浪速」(三七〇〇トン)、防護巡洋艦「秋津洲」(三一五〇トン)が、清国の防護巡洋艦「済遠」(二三五五トン)、
巡洋艦「広乙」(一二〇〇トン)と遭遇し、海戦が始まったのだ。

 豊島沖海戦では日本艦隊の第一遊撃隊が圧勝して、逃げる清国艦隊を追い、撃沈や捕獲をし、撃滅した。そのような戦場で、敵艦隊を追撃していた第一遊撃隊は、清国軍艦「操江」と汽船「高陞号」に遭遇した。

 「操江」は防護巡洋艦「秋津洲」が追いかけ、拿捕した。汽船「高陞号(こうしょうごう)」は、戦争準備のため、清兵約一一〇〇名を輸送中だった。「高陞号」事件の始まりだった。

 「元帥東郷平八郎」(伊藤仁太郎・郁文舎出版部)、「元帥の品格―東郷平八郎の実像」(嶋田耕一・毎日ワンズ)、「東郷平八郎・下」(真木洋三・文藝春秋)、その他の資料等によると、「高陞号」事件について、次の様に述べている(要旨・抜粋)。

 明治二十七年七月十八日、清国は、平壌にいる葉提督の要請に応えて、朝鮮への増援部隊の派遣を決定した。

 清国の増援部隊は、イギリスのジャーディン・マディソン商会から借り上げた英国商船、「愛仁号」、「飛鯨号」、「高陞号」の三隻に分乗した。

 第一隊の千三百人が「愛仁号」、「飛鯨号」に乗り、七月二十一日に大沽を出発して、二十三日に牙山に到着した。最後に、大砲十四門と千百人の兵を満載した「高陞号」が二十三日、大沽を出発した。

 七月二十五日午前十時過ぎ、東郷平八郎大佐の指揮する防護巡洋艦「浪速」は、右舷を通過して仁川方向に向かっている英国国旗を掲げた一隻の商船(汽船)を発見した。

 その商船を双眼鏡で見ていた東郷艦長は、「あの船は見逃せない」と言った。その商船に向かって万国旗で停船信号を出し、続いて投錨の命令信号を発した。東郷艦長は、商船の甲板に清兵の姿をはっきり見て、清兵を輸送中だと判断したのだ。

 第一遊撃隊司令官は坪井航三(つぼい・こうぞう)少将(山口県防府市・二等士官・大尉・米艦「コロラド」乗組・米国留学・少佐・木造汽船「第一丁卯」艦長・横須賀造船所・外輪船「迅鯨」艦長・中佐・スループ「日進」艦長・軍事部第二課長・横須賀造船所次長・大佐・艦政局次長・火薬製造所長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・少将・佐世保軍港司令官・海軍兵学校校長・海軍大学校校長・常備艦隊第一遊撃隊司令官・旅順口根拠地司令官・男爵・中将・常備艦隊司令官・横須賀鎮守府司令長官)だった。

 坪井司令官は信号で「浪速」に対して「停船した英国船を臨検せよ」と命じた。東郷艦長は信号兵に命じた。「万国信号で、直ちに停船せよと信号を送れ」。

 空砲を二発発射した後、「浪速」は艦首を英国商船に向けた。次に「直ちに投錨せよ」と信号を送った。英国商船はゆっくりと、停止した。

 坪井司令官は「同船を連行して、群山沖の伊東連合艦隊司令長官に報告せよ」と指示してきた。
午前十時八分、「浪速」は英国商船の近くに到着した。

 午前十時四十分、東郷大佐は、分隊長・人見善五郎大尉(東京・海兵一八・中佐・正六位・勲五等・功五級)を呼んだ。人見大尉は艦内でも評判の高い、英語が巧みな士官だった。

 東郷艦長「君は、これから、あの船に行って、船長に談判するのじゃ。しかし、イギリスの商船旗が掲げてあるから、応接は慎重にしなければいかん。船長の承諾を求めて、船内の取り調べをするのじゃ。戦闘員や、戦器の類がもし積んであったら、戦時処分の手続きを、執ることにしてくれ」。

 人見大尉「ハイ」。

 東郷艦長「それから、手続きを済まして、この艦についてくることを、命令するのじゃ。万一にも面倒なことがあったら、一旦、報告に帰って来てくれ」。

 人見大尉「ハイ」。

 人見大尉は、数名の臨検員の水兵を率いてカッターボートを急がして、臨検に向かった。人見大尉と臨検員は英国商船に到着し、乗り込んだ。

















468.東郷平八郎元帥海軍大将(8)女将が「もう帰りなさい」といっても、東郷中佐はきかなかった

2015年03月13日 | 東郷平八郎元帥
 それに、他の士官連中が、東郷中尉に反省を求めるよう忠告するのは山本少尉しかいないと、「イギリス帰りの鼻をあかせ」とたき付けにかかった。

 後日、山本少尉は思案の末、東郷中尉のところへ行って、「英語で命令するのは、やめたがいいと思いますがね」と率直に意見を述べた。

 ところが、東郷中尉は「英語で言うても、命令は命令」と突っぱねた。山本少尉は、そう来るだろうと計算していたので、次のように言った。
 
 「リッキングの昇降比べをやってみませんかぁ?」。東郷中尉が「昇降比べ?」と聞き返すと、山本少尉が「さよう、早くう甲板に降りたほうが勝ちで、その意見に従うというのは、いかがなもんです?」。

 すると東郷中尉は、立ち上がり、「やってみもそ」と言って、早速、練習用の服の着換えに取り掛かった。山本少尉も服を練習用に着替えた。

 多数の士官が甲板に出て、勝負の行方を見守った。リッキングは、煙突の後方にあるメインマストの見張り員がいる所まで張り静索につけた「縄ばしご」のことで、両舷にはしごの末端がある。

 東郷中尉と山本少尉は左右両舷に分れた。判定係をかってでた士官が、一、二、三と合図して、両舷から二人は同時に昇りにかかった。

 山本少尉は素早い勢いでリッキングを昇り、見張り所にたどり着くと、すぐに引き返し始めた。東郷中尉は、まだ、三分の二程度しか昇っていなかった。

 山本少尉が、ぱっと身を翻るようにして甲板に降りた時、東郷中尉は、まだ、下りの半分にも達していなかった。「山本少尉の勝ち!」。士官達が一斉に山本少尉に拍手を送った。はしごの一段一段を踏みしめ、のっそりと東郷中尉が降りて来た。

 士官達が「東郷中尉の負け!」と判定を言った時、東郷中尉は「いや、負けてはおらん。ズボンが破れただけじゃ」と言った。リッキングを昇る途中で、ズボンが破れていて、東郷中尉は、腿のあたりの破れ目に手をやってみせた。

 東郷中尉の強情に、みんなは笑い出した。だが、それ以後、山本少尉の忠告通りに、東郷中尉は、英語の命令は出さなくなった。英語と日本語の対訳の命令虎の巻を用意して、分らなくなると、虎の巻を出して命令した。

 明治十六年三月、三十五歳の東郷平八郎少佐は、初めて艦長になった。だが、それは、一二五トンの木造船である、砲艦「第二丁卯」の艦長だった。

 その後明治十七年には、砲艦「天城」の艦長になり、明治十八年に中佐に昇進した。明治十九年には新造艦、コルベット「大和」艦長、七月に大佐に昇進し、十一月にコルベット「浅間」艦長に任命された。

 「東郷平八郎・元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、東郷平八郎は横須賀の佐官時代は、よく酒を飲み、海軍料亭で有名な「小松」へよく通った。

 丁度、横須賀鎮守府が開設され、「小松」も開店(明治十八年八月八日)した頃だった。士官仲間が「パイン」と呼んでいた「小松」へ東郷もよく顔を出した。

 女将の山本コマツ(本名・山本悦)の記述によると、東郷中佐は、軍医・鳥原重義と一緒にやって来ることが多かったという。

 その頃の料金は、料理一善(刺身・酢の物・焼き物・お椀・口取)が五十銭、特上酒(二合銚子一本)が五銭、芸者線香代(一時間)が十二銭五厘、芸者祝儀が五十銭だった。

 佐官だった東郷中佐の給料は、二百円近かったから通うことが出来た。二日でも三日でも居続けた。女将が「もう帰りなさい」といっても、東郷中佐はきかなかったという。

 東郷中佐は無口でむっつりしていたので、相手になる女中は少なかった。ただ一人、お浦という女中が相手を買って出て、東郷中佐に惚れてしまった。

 東郷中佐が転勤になると、お浦は「弟が病気だ」と言って、暇をとり、掛け先を回って、旅費の工面をし、東郷中佐のあとを神戸まで追いかけた。それが、謹厳実直といわれる東郷平八郎にまつわるただ一つの艶聞だった。

 明治二十七年六月、東郷平八郎大佐は、呉鎮守府海兵団長から、防護巡洋艦「浪速」(三七〇〇トン)艦長に任命された。





















467.東郷平八郎元帥海軍大将(7)四歳年下の山本少尉に負けるものかと、東郷中尉は競争心が湧いた

2015年03月06日 | 東郷平八郎元帥
 久しく手にしていない日本刀を握りしめ、東郷中尉は、示現流の気合いを込めた一喝をあびせた。水兵たちは、一、二歩後ずさりした。気迫のこもった東郷中尉に歯向かえずに、これ以後、水兵たちは、英語の命令でも、以心伝心で素早く動き始めた。

 一方、東郷中尉は、就寝の時間の前とか、手洗い所に入っている短い時間をも利用して、日本語の命令の勉強をしていた。英語の命令の単語を日本語に訳したものを書いて一覧表をつくり、覚え込もうとしたが、どうしてもウースターやハンプシャーで使った英語が飛び出してきた。八年も日本を離れていたので、直ぐにはできなかったのだ。

 八月十六日、東郷中尉は横須賀港に入っている「扶桑」(常備排水量三七一三トン・乗組員三七七名・全長六七メートル・三五〇〇馬力・最大速力一三ノット)乗組みの辞令を受けた。

 艦長は、伊東祐亨(いとう・すけゆき)中佐(鹿児島・薩摩藩士・神戸海軍操練所・戊辰戦争・明治維新・海軍大尉・少佐・スループ「日進」艦長・中佐・装甲コルベット「扶桑」艦長・大佐・コルベット「龍驤」艦長・装甲コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・日清戦争・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・功一級・大勲位菊花大綬章)だった。

 挨拶に行った東郷中尉に、伊東祐亨艦長は「おはん、海江田信義はんの長女を嫁にもらうそうじゃな」と声をかけた。東郷中尉は「ハイ、秋には式を挙げるつもりです」と答えた。

 海江田信義(かいえだ・のぶよし)は、薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の次男。日下部伊三治の婿養子となり海江田武次信義と改名した。戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀となり、江戸城明け渡しでは新政府軍代表として西郷隆盛を補佐し、勝海舟らと交渉に当たった。

 だが、その後、長州藩の大村益次郎と対立、大村益次郎暗殺の指示を出したと疑われるが、本人は否定した。明治三年奈良県令(県知事)任命されるが、明治四年の廃藩置県で解任。その後、元老院議員、貴族院議員、枢密顧問官、正二位、勲一等旭日大綬章、子爵。

 伊東祐亨艦長はかつて、海江田信義の部下だった。伊東艦長は東郷中尉に「おいが仲人してやる」と言った。「よろしゅうお頼みいたします」と東郷中尉は答えた。

 すると、伊東艦長は「承知申した。ついでにおはんに言っときたいが……、この艦は最も優れた新鋭艦で、乗組み士官も精鋭を揃えた」と言い、次のように続けた。

 「兵学校を出て、ドイツの軍艦に乗組み、アームストロング砲に勝るとも劣らないクルップ砲の操作や、水雷の発射練習を重ねて来た山本少尉もすでに六月から、この艦に乗組んでいる」。

 山本少尉とは、山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ・鹿児島市鍛治屋町・海兵二・巡洋艦「高雄」艦長・海軍省主事兼副官・少将・軍務局長・中将・海軍大臣・男爵・大将・海軍大臣・伯爵・首相・予備役・退役・首相・従一位・大勲位・功一級)のことだった。

 東郷中尉は「権兵衛どんも一緒でごわすかぁ」と言った。すると伊東艦長は「あん男、なかなか鼻息が荒いからねえ。ま、エゲレスとドイツのどっちが勝つか、楽しみじゃ」と大声を出して笑った。

 四歳年下の山本少尉に負けるものかと、東郷中尉は競争心が湧いた。「我が帝国海軍の本流となっているイギリス式の軍の編成と教育を足掛け八年も学んできて、山本少尉に負けるようでは、話にならない」と思った。

 その夜、東郷中尉は、山本権兵衛少尉とゆっくり歓談した。山本少尉もトキという女性と今年中に結婚することになっていた。二人とも、結婚前で、女性の話に夢中になった。そのあと、山本少尉は、憤慨しながら次のように言った。

 「ヨーロッパ大陸の諸国ならいざしらず、島国の日本は、まず海軍を充実せんことには、と痛感しとる。川村海軍卿も本気でかかっておられる。長州は山縣中将はじめ陸軍中心でなあ、我々薩摩が頑張らんといかんち思っちょいもす」。

 英国の海軍力に比べると、我が帝国海軍は巨人と子供ほどの開きがあるのを痛感して帰国した東郷中尉は、山本少尉が国の予算上も海軍全体の底上げをせねばと主張するのに、全く同感で、久しぶりに飲む日本酒の美味さに盃を重ねた。

 山本少尉は東郷中尉に一目も二目も置いて接していたのだが、東郷中尉が、時々、英語の命令を出して水兵たちの反感を買っているのを黙って見ておれなかった。

 英語で命令して、分りませんと部下が答え、英語であろうとなかろうと命令は命令と、我を押し通すのはよくない、と山本少尉は思っていた。