陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

596.桂太郎陸軍大将(16)谷少将の采配の凡庸さに、「これは無能と言える」とまで、失望した

2017年08月25日 | 桂太郎陸軍大将
 三浦少将と鳥尾中将は山縣中将と同じ長州藩出身者で、奇兵隊でも山縣とともに戦った戦友でもあった。

 それにもかかわらず、藩士出身である、三浦少将と鳥尾中将は、足軽以下の中間という身分出身の山縣中将が、上司として君臨していることに、内心穏やかではなく、面白くなかった。山縣を追い出そうという陰謀もあったのである。

 これに対して、桂太郎少佐(三十一歳)は、上級藩士の出身だが、山縣中将に対する偏見はなく、従容と従っている。これは桂の忠実な性格と“ニコポン”主義によるものであった。

 明治十一年十一月に桂太郎少佐は歩兵中佐に進級した。三十歳だった。桂太郎中佐の軍制改革は進められ、明治十四年以降、明治政府の立憲体制への転換が起こり、ドイツの君主権の強大な立憲君主制を範とする方向付けが明確となった。

 明治十二年一月四日、参謀本部管西局長心得・桂太郎中佐のところへ、近衛参謀副長・児玉源太郎(こだま・げんたろう)少佐(二十七歳・山口・函館戦争・六等下士官<十八歳>・陸軍権曹長<十八歳>・陸軍准少尉<十九歳>・陸軍少尉<十九歳>・中尉<十九歳>・歩兵第一九番大隊副官・大尉<二十歳>・大阪鎮台地方司令副官心得・少佐<二十二歳>・熊本鎮台参謀副長・近衛参謀副長・歩兵中佐<二十八歳>・歩兵第二連隊長・大佐<三十一歳>・参謀本部管東局長・参謀本部第一局長・監軍部参謀長・兼陸軍大学校長・少将<三十七歳>・監軍部参謀長・欧州出張・陸軍次官・兼軍務局長・大本営留守参謀長・男爵・功二級・陸軍次官兼軍務局長・中将<四十四歳>・第三師団長・台湾総督・兼陸軍大臣・兼内務大臣・兼参謀本部次長・大将<五十二歳>・台湾総督兼満州軍総参謀長・兼参謀本部次長・子爵・参謀総長・兼南満州鉄道設立委員長・死去・伯爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級)が訪ねてきた。

 児玉少佐は、西南戦争の時は、熊本鎮台参謀として出征していたので、当時の話が出た。当時の熊本鎮台司令長官は谷干城少将だった。

 当時、参謀・児玉少佐は、司令長官・谷少将と、作戦について、意見の相異から、対立していた。その時、児玉少佐は、谷少将の采配の凡庸さに、「これは無能と言える」とまで、失望した。

 桂中佐が「今頃、山縣さんのことを悪く言う者がいる。困ったことだ」と言うと、児玉少佐が、「誰が、悪口を言っているのですか」と聞き返した。桂中佐が「谷さん達だよ」と答えると、児玉少佐は「そうですか」と、うなずいた。

 明治十二年五月、児玉少佐は、西南戦争での連隊旗紛失事件で謹慎処分を受けた。児玉少佐にとっては不本意な処分だった。連隊旗を西郷軍に奪われた当事者は、歩兵第一四連隊長心得・乃木希典少佐だった。

 だが、乃木少佐は処罰を受けることはなかった。終戦後二年余りたって、この件で、児玉少佐が謹慎処分を受けたのだ。

 桂中佐は、「この処分に反対したのだが、強引にこの処分を迫った者がいた」と、児玉少佐に言って、桂中佐は「がまんしてくれ」と慰めた。

 当時の参謀本部長・山縣有朋中将を敵対視している、陸軍士官学校長・谷干城中将が、山縣中将が重用している桂中佐と仲の良い児玉少佐に対する嫌がらせともいえるものだった。

 明治十三年三月、桂中佐は、児玉少佐を呼び出して、「東京鎮台の連隊長をやってみるかね」と言った。児玉少佐は、それに応じた。

 同年四月、児玉少佐は中佐に昇進し、東京鎮台歩兵第二連隊長を命ぜられた。連隊旗紛失事件で謹慎処分を受けていた児玉少佐は、連隊長としてやっと軍人らしい道を歩めることになった。

 明治十五年二月、桂太郎中佐は歩兵大佐に昇進し、参謀本部管西局長に就任した。三十四歳だった。

 明治十五年七月二十三日、李氏の王族、興宣大院君(こうせんだいいんくん)らの陰謀により、扇動された大規模な朝鮮の兵士が、漢城(後のソウル)で反乱を起こした。壬午事変である。

 当時の朝鮮は、李氏朝鮮の第二十六代王・高宗の妃、閔妃(びんひ=明成皇后)の一族の高官が政権を担当していた。反乱兵士たちは、その政府高官や、日本人の軍事顧問、日本公使館員らを殺害した。

 これに対して、日本帝国は、軍艦五隻、歩兵第一一連隊の一個歩兵大隊、海軍陸戦隊を朝鮮に派遣した。




595.桂太郎陸軍大将(15)近衛砲兵大隊「竹橋部隊」を中心にした二百五十九名が反乱を起こした

2017年08月18日 | 桂太郎陸軍大将
 当時のプロイセン王国(ドイツ帝国)の首相は、オットー・フォン・ビスマルク(六十一歳・ゲッティンゲン大学卒・ベルリン大学卒・プロイセン連合州議会代議士・ドイツ連邦議会プロイセン全権公使・駐ロシア大使・名誉階級少佐・プロイセン王国首相<一八六二年~少将・中将~一八七二年・一八七三年~元帥騎兵上級大将~一八九〇年>・侯爵・ホーンエンツォレルン勲章・ハレ大学哲学博士・ゲッティンゲン大学法学博士・テュービンゲン大学政治学博士・ギーセン大学神学博士・イエナ大学医学博士)だった。

 プロイセン王国の参謀総長はヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ陸軍元帥(七十六歳・ドイツ連邦・シュヴェリーン公国出身・デンマーク幼年士官学校・デンマーク軍少尉・プロイセン軍入隊・陸軍第八近衛歩兵連隊・プロイセン陸軍大学卒・参謀本部参謀将校・大尉・トルコ駐在・第四軍参謀・少佐・ハインリヒ王子副官・第八軍参謀・参謀本部戦史課長・第四軍参謀長・中佐・大佐・フリードリヒ皇太子副官・少将・参謀総長代理・参謀総長<一八五八年~中将~大将~元帥~一八八八年>・ドイツ帝国議会議員・プロイセン貴族院終身議員・国防員会委員長・伯爵・プール・メリット勲章・黒鷲勲章・大鉄十字章)だった。

 桂少佐は、駐在武官としてドイツに滞在中、公の席では、ビスマルクと面会したこともあったが、親しく意見を交換するような機会はなかった。

 だが、参謀総長モルトケとはよく接近して、軍政についての意見を聞くことが多かった。

 当時七十代後半だったモルトケは、孫ほども年の離れた桂少佐を信頼して、その副官に命じて、いろいろと便宜をはかった。また自ら作戦等の軍事学を教授した。

 当時、ドイツ公使館に勤務していた木屋敬三郎は、当時の桂少佐について次のように述べている。

 「桂は非常によく勉強したらしく、当時有名であったウィーンのスタインの軍事政論(モルトケの戦術論)を購入し、それを、青木周蔵と共に毎夜のように研究した」

 「また、参謀本部の近隣に下宿して、毎日、ドイツの参謀本部に行き、研究を行った。ベルリン大学でワグネルの経済学の講義をも聴いたようである」。

 帰国するまで桂はドイツで軍事研究を続けた。それが彼を軍制の第一人者たらしめたことは言うまでもなかった。

 明治十一年七月十四日、ドイツから帰国した桂太郎少佐は、参謀本部設立を建言し、自らその中に入って、その整備に当たった。

 だが、その年の八月二十三日、現在の東京都千代田区の竹橋の西詰に駐屯していた近衛砲兵大隊「竹橋部隊」を中心にした二百五十九名が反乱を起こした。山砲二門も引き出した。「竹橋事件」である。動機は西南戦争における財政の削減、論功行賞についての不満だった。

 事前に情報を得ていた、当時の陸軍卿・近衛都督・山縣有朋中将は、待機していた近衛歩兵大隊を出動させ、たちまち、鎮圧した。

 この「竹橋事件」の背後には、陸軍部内で、陸軍卿・山縣中将(四十歳)と深刻な対立が生じていた次の四将軍(階級・年齢は事件当時)との確執があった。

 熊本鎮台司令長官・谷干城(たに・たてき)少将(四十一歳・高知・戊辰戦争・大軍監・維新後陸軍大佐<三十四歳>・兵部権大丞・陸軍裁判長・少将<三十五歳>・熊本鎮台司令長官・台湾蕃地事務参謀・中将<四十一歳>・東部監軍部長・陸軍士官学校長兼戸山学校長・学習院長・子爵・農商務大臣<四十八歳>・学習院御用掛・予備役・貴族院議員・子爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)。

 征討第三旅団司令長官・三浦梧楼(みうら・ごろう)少将(三十二歳・山口・戊辰戦争・陸軍大佐<二十四歳>・陸軍少将<二十五歳>・東京鎮台司令官・第三局長・広島鎮台司令官・征討第三旅団司令長官・中将<三十二歳>・西部軍艦部長・陸軍士官学校校長・大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行<三十八歳>・子爵・東京鎮台司令官<三十九歳>・熊本鎮台司令官・学習院長・宮中顧問官・予備役・駐韓国特命全権大使<四十九歳>・入獄・出獄・枢密顧問官<六十四歳>・子爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)。

 参謀本部御用掛・鳥尾小弥太(とりお・こやた)中将(三十一歳・山口・戊辰戦争・陸軍少将<二十四歳>・軍務局長・第六局長・大阪鎮台司令官・参謀局御用掛・中将<二十九歳>・陸軍大輔・参謀局長・近衛都督・参議・内閣統計院長・伯爵・枢密顧問官・予備役<四十一歳>・貴族院議員・枢密顧問官・伯爵・正二位・旭日大綬章)。

 別働第四旅団司令長官・曽我祐準(そが・すけのり)少将(三十八歳・福岡・海軍参謀・陸軍大佐<二十八歳>兵学寮権頭・少将<三十歳>・陸軍士官学校校長・兼東京鎮台司令官・別働第四旅団司令長官・熊本鎮台司令長官・大阪鎮台司令官・参謀本部次長・中将<四十歳>・子爵・仙台鎮台司令官・参謀本部次長・陸軍士官学校長・明宮御養育主任・予備役・東宮大夫・宮中顧問官<四十八歳>・貴族院議員・枢密顧問官・子爵・正二位・旭日大綬章)。






594.桂太郎陸軍大将(14)西郷と大山の了解を取り付けた上で、桂少佐は山縣に提案した

2017年08月11日 | 桂太郎陸軍大将
 明治七年二月、第六局が廃止され、参謀局が独立し、六月、参謀局条例が発令された。参謀局は、作戦計画や戦略を独自に立案し、戦時には、作戦を指示、実行し戦略を統括する。

 「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、参謀局の組織は局長に将官を任じ、参謀局の幕僚参謀官と各鎮台の幕僚参謀官を統括する。

 この参謀局の組織には、桂太郎大尉がドイツ留学中に修得したドイツ参謀本部の事例が参照して作られたと考えられる。

 さらに、もう一つ、桂少佐の提案により、公使館附武官の制度が創始され、公使館附武官が各国に派遣されることになった。

 桂少佐自身、ドイツに再び行き、軍制の研究に再び従事したい願望が、抑えがたいものになっていた。そんな時、台湾出兵の善後処理のため、清国との外交交渉が難航し断絶まで覚悟した事例をあげて、相手国の軍事状況を十分に認識していなければならないと主張した。

 それには、早急にヨーロッパの軍制や軍事事情を研究するために、一定のキャリアを持つ軍人を派遣する必要があるとして、公使館附武官の制度を提案したのである。

 さらに、桂少佐は、明治七年十二月末に台湾出兵から凱旋した西郷従道(さいごう・つぐみち)陸軍中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞<二十六歳>・陸軍少将<二十八歳>・陸軍中将<三十一歳>・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿<三十五歳>・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣<四十二歳>・元老・枢密顧問官・海軍大将<五十一歳>・侯爵・元帥<五十五歳>・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)にこの提案をまず話した。
 
 次に、大山巌(おおやま・いわお)陸軍少輔(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後陸軍大佐<二十八歳>・少将<二十八歳>・渡欧・普仏戦争等視察・陸軍少輔・第一局長・陸軍少将<三十二歳>・東京鎮台司令官・第一旅団司令官・攻城砲司令官・西南戦争鎮圧・中将<三十六歳>・参謀本部次長兼陸軍士官学校校長・陸軍卿・兼参謀本部長・伯爵・陸軍大臣<四十三歳>・兼海軍大臣・兼監軍・大将<四十九歳>・枢密顧問官・陸軍大臣・日清戦争で第二軍司令官・陸軍大臣・侯爵・陸軍大臣・元帥<五十六歳>・参謀総長・旭日桐花大綬章・日露戦争で満州軍総司令官・内大臣・公爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・フランス共和国レジオンドヌール勲章グランクロア・イギリス帝国メリット勲章・ロシア帝国白鷲大綬章等)に説明した。

 そのあと、桂少佐は、山縣有朋陸軍卿に建策して、同意を得た。薩派の陸軍省内の実力者、西郷と大山の了解を取り付けた上で、桂少佐は山縣に提案した。その手法は、桂少佐らしい根回しのやり方だった。

 しかも、翌明治八年三月三十日には、ドイツ公使館附武官に桂少佐が任命されたのは、素早い決定だった。これは桂少佐が、自薦してその志を達したのである。

 そして、四月二十八日付で、山縣陸軍卿は桂少佐に宛てた懇切な在外武官服務を論達したが、これは異例の措置だった。その諭達の内容は次の通り。

 「参謀科の将校を派遣するが、その立場は公使館の一員であるとともに武官としての廉潔節操を重んじ、陸軍の名誉を汚してはならない」

 「さらにその任務としては、当該国の兵制、軍法、軍事地理などの調査・研究をはじめ、その国をめぐる対外関係や利害関係の有無に至るまで調査すること」。

 この諭達を受けた桂少佐は、ドイツ公使館附武官として軍事行政の研究を最重要課題とし、その研究が終わるまでは帰朝を命じられないようにと、山縣陸軍卿に要望した上で、六月に出発した。

 桂少佐を迎えた駐独日本公使は長州藩の先輩でもあり、前回のドイツ留学中にも世話になった青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・維新後長州藩留学生としてドイツ留学<二十四歳>・外務省入省・駐独公使<三十歳>・兼オランダ公使・条約改正取調御用係・駐独公使・兼駐オランダ公使・兼駐ノルウェー公使・外務大輔<四十二歳>・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣<四十五歳>・駐独公使・兼駐英公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使<六十一歳>・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・デンマーク王国デュダブネログ勲章グランクロワー・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)だった。

 なお、当時留学生として、先輩の品川弥二郎(しながわ・やじろう・山口・禁門の変・戊辰戦争・奥羽鎮撫総督参謀<十九歳>・維新後渡欧・普仏戦争視察<二十一歳>・内務少輔・農商務大輔・駐独公使・宮内省御料局長・枢密顧問官・子爵<三十五歳>・内務大臣<四十二歳>・政治団体国民協会を組織・獨逸学協会学校(現・獨協学園)創立・旧制京華中学校(現・京華学園)創立・子爵・勲一等旭日大綬章)も滞在していた。

 また、山縣陸軍卿の養嗣子、山縣伊三郎(やまがた・いさぶろう・山口・勝津兼亮と山縣有朋の姉の間に生まれた次男・山縣有朋の養子・ドイツ留学・内務官僚・三重県知事<四十一歳>・地方局長・内務次官・逓信大臣<四十八歳>・貴族院議員・韓国副統監<五十二歳>・朝鮮総督府政務総監・文官朝鮮総督・枢密顧問官<六十四歳>・山縣家の分家として山縣男爵家を建てる・山縣公爵を継ぎ公爵・正二位・旭日桐花大綬章・大韓帝国瑞星大勲章・フランス共和国ドラゴンドランナン勲章グランクロワ等)が在留していた。

 さらに、後に山縣有朋のブレーンとなる、平田東助(ひらた・とうすけ・山形・藩校「興譲館」<現・山形県立米沢興譲館高等学校>・戊辰戦争・維新後慶應義塾<現・慶應義塾大学>入学・大学南高<現・東京大学>入校・岩倉使節団随行<二十二歳>・ドイツ留学・ベルリン大学<政治学>・ハイデルベルク大学<国際法・博士>・ライプツィヒ大学<商法>・内務省御用係<二十七歳>・大蔵省翻訳課長・少書記官・法制局専務・伊藤博文憲法調査団随伴<三十三歳>・貴族院議員<四十一歳>・兼枢密院書記官長・法制局長官<四十九歳>・錦鶏間祗侯<きんけいのましこう>・農商務大臣<五十二歳>・内務大臣・子爵・臨時外交調査会委員・臨時教育会議総裁・内大臣<七十三歳>・伯爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)も在留していた。

 これらの人物は、後の桂太郎が長州派の藩閥政治家の嫡流として登場する上で、貴重な出会いとなったのである。








593.桂太郎陸軍大将(13)最新の軍事知識を仕入れてきた自分が、何で彼らの下で働かなければならないのか

2017年08月04日 | 桂太郎陸軍大将
 三好重臣(みよし・しげおみ)大佐(三十四歳・仙台鎮台司令長官)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は陸軍中将。監軍、枢密顧問官。子爵、正二位。

 山田顕義(やまだ・あきよし)少将(三十歳・駐清国特命全権大使)は、明治四年陸軍少将。最終階級は中将。司法大臣、枢密顧問官。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章。

 堀江芳介(ほりえ・よしすけ)少佐(二十九歳・陸軍教導団教官)は、明治四年陸軍中尉。最終階級は少将。歩兵第六旅団長、衆議院議員、錦鵄間祗侯。従三位、旭日重光章。

 国司順正(くにし・よりまさ)少佐(三十二歳・近衛歩兵第一連隊長)は、明治五年陸軍少佐。最終階級は少将。男爵、正四位、貴族院議員、錦鶏間祗。男爵、正四位。

 品川氏章(しながわ・うじあき)中佐(二十九歳・広島鎮台司令長官御用取扱)は、明治四年陸軍中佐。最終階級は少将。工兵会議議長、歩兵第一〇旅団長。正四位、勲二等。

 福原実(ふくはら・みのる)大佐(三十歳・陸軍省第四局副長)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は少将。沖縄県知事、貴族院議員。男爵、正三位、勲一等瑞宝章。

 福原和勝(ふくはら・かずかつ)大佐(二十八歳・陸軍教導団司令長官心得)は、明治六年陸軍大佐。最終階級は大佐(戦死)。初代在清国公使館附武官、第三旅団参謀長。

 以上のように、明治七年当時、桂太郎と同郷の長州藩出身者で、ほぼ同世代である有為な軍人たちは、すでに一様に出世していたのである。

 この様な状況であるから、陸軍卿・山縣有朋中将は、桂太郎に、「大尉に任ぜられたことは不満足かもしれないが、秩序を正す点からもやむを得ないが、了とせよ」と言ったのである。

 だが、この説得に対する、桂の返答は、次の様なものであった。

 「陸軍卿の言われるところは、自分の最も望むところです。秩序を軍隊に立てることは、自分が兵制を研究し、将来我が国の陸軍のため尽くさんとする主たる目的でした。むしろ自分を少尉に任ぜられた方が、かえって陸軍のためによいのではありませんか。その方が自分の目的と合致するのです。しかし、いったん任命があった以上は是非もありませんが、初任を大尉以上とすることはよろしくないと思います」。

 この桂の返答は、意外なものであり、山縣中将を喜ばせ、大いに感心させた。さだめし不平を言うだろうと思っていたのに、この言、桂の見どころの尋常でないと、山縣中将は見てとった。

 これ以降、初任として大尉になった者は、跡を絶つに至り、将校初任の方針が、ここに確立することになったのである。

 だが、「桂太郎―予が生命は政治である」(小林道彦・ミネルヴァ書房・平成18年)によると、次のように記してある。

 桂太郎は、自らの人事に恬淡としていたことになっているが、杉山茂丸によれば、実は内心ははなはだ面白くなかった。

 洋行前の同僚が遥か上官にいて「肩で風を切って」いるのに対して、賞典禄はもとより、県庁から借金までして私費留学をおこない、最新の軍事知識を仕入れてきた自分が、何で彼らの下で働かなければならないのか。桂はそんな不満をおくびにもださなかった(杉山茂丸『桂太郎伝』二二一~二二五頁)。

 杉山茂丸(すぎやま・しげまる)は、福岡県出身。福岡藩士・杉山三郎平の長男。日本の政治運動家、実業家。山縣有朋、井上馨、桂太郎、児玉源太郎、寺内正毅らの参謀役を務め、「政界の黒幕」などと呼ばれた。

 さて、山縣と桂が意気投合するようになった第一歩には、次の様なこともあった。任官の日に桂が、山縣と会ったとき、その日の話題に徴兵令発布の問題が上がった。

 山縣は内心相当の自信と覚悟とをもって徴兵令を出したのだが、それに賛成する者はほとんどなかったのである。

 ところが、桂は、ドイツを見てきた頭で、プロイセン軍制の認識から、陸軍の将来にとって徴兵令の制定は大きな意味を持つと、徴兵令の発布を喜ぶ旨を語った。

 これに山縣は意を強くした。山縣は、徴兵令を陸軍の基礎となるものと評価したのは桂ただ一人であると、喜んだ。山縣と桂の意気投合は、この日から始まった。

 桂は、同年の明治七年六月十日には、早くも少佐に昇進して、参謀局諜報提理に就任し、志願兵徴募を担当した。

 徴兵令施行後の期間が短く、徴兵だけでは不十分で、窮余の策として、志願兵徴募が行われた。徴兵制度を否定するような政策で難しい仕事だが、陸軍卿・山縣中将が、徴兵制を全面的に支持した桂への強い信頼によるものだった。