かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

パリが愛した娼婦

2011-07-27 03:17:45 | 本/小説:日本
 娼婦は、公娼であれ私娼であれ、どこの国へ行っても見受けられる。
 アムステルダムの飾り窓のように堂々と観光地化した街中でのショーウインドウの存在から、街角に立っていたり、通りを歩きながら客を待ちうける女まで様々な形態がある。そのなかでも、盛り場の裏の路地あたりで、誘蛾灯のように妖しい光を灯している館(店)で待つ女が最も一般的といえるだろう。
 娼婦は、しばしば最も古い職業といわれるが、資本が自分の体以外に必要ないので、この説はあながち推測にすぎないとも言えまい。
 日本では買春防止法(1956年)ができて以来買春は法律で禁止されているが、フランスでは買春は法律違反ではないという。とは言っても、フランス映画などでも見られるように、しばしば取り締まりを行って検挙している場面が見受けられる。
 フランスでの買春に対する法律は、簡単に言えば、買春それ自体は禁じられていないが、それを実践しようとして行動を起こすことはほとんどが禁止になっているらしい。複雑な文法を駆使するフランス人らしい、小難しい解釈だ。
 「パリ、娼婦の館」など、この手の研究に余念がないフランス文学者の鹿島茂の「パリが愛した娼婦」(角川学芸出版刊)は、パリの娼婦を歴史的に観察したうえで、その周辺のヒモの存在理由などにも分析をのばして、面白い。
 古いパリの娼婦の考え方や経済的根拠などは、この本ではエミール・ゾラの「ナナ」を格好の資料としているので、いずれこちらも読まないといけない。

 娼婦を仏和辞典(大修館書店)で引けば、「prostituée」(プロスティチュエ)とだけあり、素っ気ない。
 しかし、この本「パリが愛した娼婦」によると、高級娼婦は「ファム・ギャラント femme galante」と言うらしい。古くは「クルティザーヌcourtisané」、七月王政期には「ロレットlorette」とか「ココットcocotté」、第二帝政期には「ドゥミ・モンデーヌdemi-mondaine」あるいは「リヨンヌlionné」、そして第三共和政期には「グラン・ドリゾンタールglande horizontale」など、名前を変えている。
 高級娼婦とは、金銭を媒介としてアムール(肉体であるが)を売るのは私娼と同じだが、客の選択権を有した娼婦のことである。それも、普通の客が買えるという値段ではなく、そもそも値段はないのだが破格の値段がつく娼婦のことで、巷の話題になったり小説の材料になったりする、当時の有名人でもあったらしい。
 当時と書いたが、ゾラやバルザックの時代だけではなく、今日とて高級娼婦は存在するだろう。

 この本の中で、最も興味をひいたのは、娼婦とヒモの関係についてだ。
 時々いい女にどうしようもない男がくっついていたり、場合によっては結婚までしているのを見受けることがある。女は売れっ子(水商売や芸能人の場合もある)で稼いでいるのだが、男は適当な肩書きはあるのだが何をしているのか分からないといったケースだ。こういうのを、陰で男はヒモだと言われたりする。

 高級娼婦には大金持ちのパトロン(かつては往々にして貴族だが)がいるが、普通の娼婦にはなぜかヒモがいる。
 ヒモは、働かないで娼婦の稼ぎで食っている。どうしてこんな将もない男に貢ぐのかと思うが、ヒモでないといけない根拠があるのだという。
 娼婦は、商売柄、金銭を媒介としたセックスをしていると、心は確実にすり減っていく。そのすり減っていく部分を補填する「愛」が必要となる。その愛の対象は、普通の男の愛では満たされないのだという。
 娼婦にとって、常に愛の独占を計ろうとするノーマルな男というのは、商売の対象ではあっても、愛の対象外なのである。
 客として女の前に現れても、ときに愛を訴える男がいるに違いない。娼婦に恋しないとは限らない。
 しかし、純な男がどんなに真剣に愛を訴えようが懇願しようが、女には響かない。むしろ苦痛だという。
 どうして、そうなのだろう。
 金銭を媒介としてセックスを取引する娼婦にとって、客というものは、セックスであれ愛情であれ、総て労働の対価でしかない。だから、真剣な愛の訴えであればあるほど、苦痛であり疲れさせるものでしかないというのである。
 とは言っても、娼婦とて女である。もし、万が一金銭を媒介としないセックスを持ったとする。そうすると、娼婦たちは心の中のプロフェッショナルな意識で、セックスをして金を取らないことに罪悪を感じるというのである。
 また、奇跡的にだが、普通の男と娼婦が金銭を伴わないセックスでもって、普通の恋愛におちいったとする。すると、今度は女の心の中に「負い目」が生まれるというのだ。私はこんなに汚いのにといった負い目が、厄介なことに女を追いつめることになる。男がそのことに触れないで黙っていようと、いや黙っていればいるほど古傷が痛み出すのである。
 なにやら、「プリティー・ウーマン」のようである。いや、あのようにハッピーエンドにうまくいく例はないと言えるのかもしれない。
 つまり、肉体を商売にしている女の心のすり減りは、普通のノーマルな男では補うことはできないというのである。
 となると、残る選択肢はヒモとなる。

 ヒモの特徴は、肉体を商売にした仕事に対しての蔑視のなさにあるという。だから、ヒモになれるのだが。
 娼婦にとってこういう男は、傍にいても精神的に安定した常態でいられる。
 そしてもう一つ重要なことは、女に一人の男を養っているという「生きがい」を生み出すのである。
 それと同時に、自分は一人の男を「愛している」という幻想を、ヒモが与えてくれるのである。
 自分の働きで一人の愛する男を養っているのだと思うと、また仕事への生きがいも生まれてくるというのである。
 このように、ヒモは、娼婦にとってセックスワーカーとして働き続けるための存在理由となっているのである。
 それは、サラリーマンが嫌な労働でも、専業主婦や家族のために忍耐強く働き続けるのと同じだという。
 もしヒモが、まれに倫理的で、自分で働きに出ると言いだしたら、娼婦は必死で止めにかかるだろう。それは、サラリーマンが、妻がパートに出ると言いだすのを渋るのと同じだというのも、何やら頷ける。
 う~ん、ヒモの存在理由とはこんなところにあったのか。
 フランス語で、ヒモは「ストゥヌールsoutoeneur」(下から支える人)とか「プロクセネットproxenete」(保護する人、仲介する人)と言うらしい。辞書を見ると、なぜか俗語で、「マクローmaquereau」(鯖)と出ている。

 つまり、よいヒモとは、決して自分から働きに出るとは言いださず、家でぶらぶらしている男である。
 そして、よいヒモの条件として、時折平手打ちで殴ったりすることを付け加えている。そういえば、映画などでヒモはすぐに癇癪を起こして殴る場面がある。
 殴る理由は、取るにたらぬ簡単なことでいい。そうされることによって女は、私はこんなに愛されていると確認するというのである。
 ここまでくると、愛の深層領域だ。
 

 娼婦と客の相対的関係は、今日の水商売の女と客の関係にも通じるものがある。
 盛り場のクラブやキャバクラでは、今夜も恋(擬似恋愛)の駆け引きが行われていることだろう。その裏には、件(くだん)のヒモが存在しているのかもしれない。
 少し前に恋愛学たるテレビ番組で、銀座の一流クラブのママが出演して、私は(水商売としての)仕事はプロだが私生活では男にいくら貢いだことか、別れるときはぼろぼろよ、と苦笑していた。
 つまり、仕事としての客相手と、私生活での男関係(男対応といおうか)とはまったく違うということらしい。

 この本「パリが愛した娼婦」で、パリでの娼婦の歴史とともに、男にとって女は複雑で、男と女の関係はいつまでも分からないと、改めて感じた。
 恋愛学は奥深く、なかなか到達点が見えない。それどころか、すぐ先すら見えない。

 *

 ――メトロのシャンゼリゼ・クレメンソーを出ると、そこは、既に日も暮れ、街の明かりに照らされたシャンゼリゼの通りが目に入った。プラタナスの並木に沿って建ち並ぶ店々も、行き交う人々も眩しく映った。私は一人、パリに来ていることを噛みしめた。
 通りのウィンドウを覗きながら歩いた。所々道にはみ出してテーブルを並べているカフェでは、一人でビールを飲んでいる人もいれば友人らしい人と語らっている人もいる。通りにも店にも、華やかで和やかな空気が漂っている。
 しばらく歩いていると、私の前を私と同じようにゆっくりとウィンドウを覗きながらそぞろ歩きしている女性が目に入った。亜麻色の長い髪にフレアーのワンピースが歩くたびに波を打っている。
 私は立ち止まって、ウィンドウを覗き込むその女性の横顔を見とれるように見つめた。柔らかなウィンドウの光が、彼女のふさふさとした黄金色の髪や、首筋から続くなだらかな肩の線、さらにくびれた腰からふんわりと広がったスカートへ、さらにその中から伸びた脚を伝わって靴の先まで、身体全体に降り注いでいた。
 彼女との間隔が少しずつ短くなった。そして、追いついた。目が合った。彼女がにっこり微笑んだ。どうしたというのだろう、こんな美人が。極東から来た旅人に対する愛想笑いか、単なる形式的な挨拶か。私も思わず笑い返してみたら、もう彼女はウィンドウを覗き込んでいた。
 やはり、お愛想の笑いだったのだ。私は再び歩き始め、もう一度彼女を見つめる。彼女と再び目が合うと、彼女は微笑んだ。そして、話しかけてくる。こんなことがあろうかと、私は思わず頬をつねりたくなった。そして、お互いおもむろに、ひと言ふた言話しはじめたのだった。
 しかし、あゝ、何と、彼女は娼婦! 思いがけないことに、美しき娼婦だった。
 「二〇〇フラン」
 「おゝ、君は美しい。しかし、ごめん。今日はとても疲れているんだ。というのも、私は今日、日本からパリに着いたばかりなんだ」
 彼女の名はエバ。わかったわという合図の微笑みを返した。そして、また何事もないように歩き始めた。彼女が私の前を通り過ぎたときに、甘い香りが鼻先をかすめた。
 美しい花の都パリは、曲者(くせもの)だ。
 ――「かりそめの旅」(岡戸一夫著)第1章、初めての旅、パリ――より。この本に関する問い合わせは、ocadeau01@nifty.com へ。

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雨月物語

2011-07-21 01:07:39 | 映画:日本映画
 原作:上田秋成 監督:溝口健二 出演:森雅之 京マチ子 田中絹代 小沢栄(栄太郎) 水戸光子 1958年大映

 日本映画の代表作は、何歳の時に観ても新鮮で、新しい発見がある。
 若い頃に「雨月物語」を観た時は、ただただ幻想的で美しい映像が心に残った。ヴェネチア映画祭で銀獅子賞をとった、東洋のエキゾチズムなどという思いに至りはしない。
 しかし、ある程度年齢を過ぎてみると、製作者の意図や企みに目がいくようになる。

 映画の出だしは、「雨月物語」という題字が映しだされ、続いて制作、出演などの配役の字幕の名前が並ぶ。それに並行して、笛、鼓などの能の謡いが流れる。
 この映画は、能をバックボーンに映像化したものなのだ。
 そう意識してみると、随所に舞台のように見える箇所がある。いや、総てが舞台とも思える。
 能の主役は多くは亡霊であり、生身の人間は脇役である。確かに、映画の中に出てきた妖艶な姫君の顔は、能面のようにメイクをしてあり、当初は無表情に見える。生身の人間がこの亡霊の虜になるところが、この物語のクライマックスである。

 戦国時代の、琵琶湖に近い村で暮らす2組の平凡な家族の生きざまがテーマになる。
妻(田中絹代)と子がいる源十郎(森雅之)は、焼いた壷や皿などの焼き物を売って金儲けを夢みている。
 畑仕事の傍ら源十郎の仕事の手伝いをしている隣に住む藤兵衛(小沢栄)は、妻(水戸光子)がいるが、侍に仕えて出世することを夢みている。
 二人は、琵琶湖を渡って町へ焼き物を売りに出かける。
 町で、源十郎は美しい姫君(京マチ子)に見初められて、離れた立派な屋敷に招かれる。
 瀟洒な屋敷の庭には1本の松が配置されている。屋敷で、源十郎は身に余る歓待を受ける。能面を被ったような姫君の京マチ子が舞いを舞う。
 この屋敷で、源十郎は悦楽に満ちた夢のような日々を送る。
 ふいに舞い降りてきた夢のような日々は、やはり現実ではなかった。虜になった美しい姫も立派な屋敷も、この世の物ではなかった。
 現実に戻された源十郎は、薄の生える朽ち果てた跡に佇んでいるのであった。そして、そこの住人はとっくに今はなく、彼が一時ともに過ごした悦楽の宴は夢幻と化していた。

 一方、侍を望んだ藤兵衛は、偶然に戦場跡で大将の首を拾い、願っていた出世が転がり込んでくる。ところが、家来を従えた凱旋の途中、宿場町で憩っていたときに出会ったのは、遊女に身を堕とした妻の姿だった。
 目の前の遊女となった妻を見て、藤兵衛は成り上がりの侍を捨てる。

 二人は村に戻り、前のように焼き物を焼き、畑を耕す。

 この物語が訴えているのは、何だろう。浦島太郎の教訓もよく分からないのだが。
 夢など見ずに、地道に働きなさいということだろうか。悦楽も名誉も金も、うたかたの幻というのだろうか。
 中国でいう邯鄲の夢、もしくは日本の無常観であろうか。

 しかし、最近は思う。
 それが束の間の夢の一時だとて、この世のものとも思えない悦楽を経験したなら、それだけで良い人生を送ったといえるのではないか。
 少し横道に逸れるが、ファム・ファタール、運命の女に一度でも出会ったなら、それで堕ちていったとしても、良い人生だったといえまいか。
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2011-07-11 00:45:53 | 本/小説:日本
 誰でも思い出の雑誌というものがあるだろう。
 かつて「抒情文芸」(久保書店)という、プロの作家の小説の他に、素人の投稿による小説や詩も掲載する雑誌があった。中綴じの小さい本だが、文学青年や文学少女の小さな夢が詰まっていて、ある日、町の小さな本屋で目に入って、そっと手に取った。
 あれは九州の片田舎での夏休みのある日、夏の熱い日差しを避けて、家の縁側で寝ころんでページをめくった。まだ雲の彼方の、すぐ消える陽炎のような夢だけで生きていた頃、自分が何に向かっているのか、何なのかも知らない頃のこと、僕も一度だけ短い文を投函した。
 あの頃、島根の雁夕子(ペンネーム)さん、「夢ばかり見ている」と書いていた白木じゅんさん、彼らはどうしているだろう。
 青い空に浮かぶ夏雲と、庭の草いきれが目に浮かぶ。
 まだ政治の季節が来る前の、若すぎるあの頃も、あの本も遠く、思い出すと何とも切ない。

 朝日新聞の記事「beランキング」(6月4日)に、「復刊してほしい雑誌」というアンケートの結果が紹介された。10位までを紹介すると、下記のようになる。
 1.朝日ジャーナル(朝日新聞社)。
 2.科学と学習(学研教育出版)。
 3.ロードショー(集英社)。
 4.太陽(平凡社)。
 5.平凡パンチ(マガジンハウス)。
 6.科学朝日(朝日新聞社)。
 7.FOCUS(新潮社)。
 8.月刊プレイボーイ(集英社)。
 9.週刊明星(集英社)。
 10.噂の真相(噂の真相社)。

 1960年代から70年代初頭にかけて、つまり学生運動が燃え上がっていた時代、「朝日ジャーナル」は学生にとって愛読書だった。
 よく当時の学生を称して、「左手に<朝日ジャーナル>、右手に<平凡パンチ>」と言われる(朝日新聞のライターは、この記事で、「右手にジャーナル、左手にパンチ」と書いている)。しかし、当時両方を読んでいる学生はほとんどいなかったと思う。
 つまり、「朝日ジャーナル」を読んでいる学生は、多くは「平凡パンチ」には興味を示さなかった。「朝日ジャーナル」は政治を主体的に、「平凡パンチ」はファッション、車、音楽、女など若者風俗を主に扱った。
 「左手に…、右手に…」とは、左派(革新・リベラル派的学生)は「朝日ジャーナル」を、右派(ノンポリ的学生)は「平凡パンチ」を、といった意味での例えに、ずいぶん後に言われたものだと思う。
 64年創刊の「平凡パンチ」が学生に読まれ出したのは、69年の東大安田講堂の陥落に象徴される、大学全共闘運動の衰退後、いわゆる政治の季節の終焉後のことだろう。その時期を境に、1959年創刊の「朝日ジャーナル」は退潮していったのだが。
 「朝日ジャーナル」と「平凡パンチ」の最盛期は、その意味ではクロスしているのだ。

 現在、評論家として活動している川本三郎は大学を卒業した後1年留年して、69年、朝日新聞社に入る。いわゆる、政治の季節の真っ直中だった時代だ。「週刊朝日」をへて71年、「朝日ジャーナル」の記者となる。
 「街も時代も熱かった」と川本は当時を振り返る。
 入社したてで活気溢れる川本は、若者のサブカルチャーや学生運動を取材していくなかで、ある事件に出合うことになる。そして、そのことがもとで、彼は朝日新聞社を解雇(本文は馘首と記す)させられることになる。
 彼の一生を左右したその事件のことを、その後、彼は忘れようと無意識に避けて生きていく。その彼の心の中で封印していた出来事を、十数年後の88年に書いたのが、「マイ・バック・ページ」(河出書房新社刊)である。

 川本が評論・著作生活をしていた1986年、彼はフランスのクリス・マイケルのインディペンデント・フィルム「サン・ソレイユ」(日の光もなく)という映画の試写を見た。その映画は、日本の様々な風景や日常生活をドキュメンタリー風に描いたもので、それが突然、ヘルメットをかぶった学生たちがデモをしている映像が表れる。
 その映像とともに、彼は思い出したくないと閉じ込めておいた過去が甦るのを抑えられなくなる。
 学生たちのデモの場面に、次のような言葉がかぶせられる。
 「愛するということが、もし幻想を抱かずに愛するということなら、僕は、あの世代を愛したといえる。……」
 「僕は、あの世代を愛したといえる。」
 「このやさしさは、彼らの政治行為そのものよりも長い生命を持つことだろう」
 この台詞が、彼を「あの時代」、大学を卒業して朝日新聞社の記者になった68年から72年、を甦らせる。

 1968年はフランス五月革命に代表されるように、世界的に学生運動が燃え上がった時期である。日本でも、全国の大学で燎原の火のように学生運動が広がった。
 当時の本は何冊か出ているが、解説書はあっても、そのただ中にいた人の心情吐露は少ない。
 当時の学生運動への憧憬を心情的にダブらせた「ヘルメットをかぶった君に会いたい」(集英社)の鴻上尚史や、当時の学生運動の膨大な資料解説ともいえる「1968年」(新曜社)を著した小熊英二が、その後の世代であるように、そのただ中にいた人間がなかなかその時代の自分を書き難いのは理解できる。
 自分の青春を告白するのが面はゆいように、刺さった棘がいつまでも疼くように、長い躊躇いをぬぐい去ることが難しいのだ。

 この川本三郎の本「マイ・バック・ページ」が映画化された(監督、山下敦弘)。僕は、まだ映画は見ていない。
 出演者は、妻夫木聡と松山ケンイチである。1960年代後半から70年代初頭の時代と、その時代に生き、時代の波に呑み込まれた若者の鼓動がどのように再現されたのだろうか。
 川本は、映画の試写を見て涙したという。
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胡同(フートン)のひまわり

2011-07-02 01:46:57 | 映画:アジア映画
 監督・脚本: 張揚(チャン・ヤン) 出演:スン・ハイイン ジョアン・チェン チャン・ファン 2005年中国

 中国の映画では、家族の愛や親子の愛の表現で出色の作品を多々生み出す。中国人の家族の血は、他のどこの人種よりも濃いと感じてしまう。
 「北京ヴァイオリン」(監督:チェン・カイコー)では、ヴァイオリンの才能ある息子を連れて、田舎から北京へ出てきた、貧しくとも実直な親と子の物語だった。
 「胡同のひまわり」(原題:向日葵)は、絵の道に挫折した男が、息子にその夢を強制的に託す物語である。
 「胡同」(フートン)とは、北京にある古い路地、横丁のこと。大半は元と明、清、この三つの時代につくられたもので、北京には数千本もあったといわれ、おびただしい数の胡同が故宮の周囲に張り巡らされている。
 その一画にあるのは、中庭をロの字形に建物で囲む「四合院」という伝統的な住まいである。その胡同も四合院も、現在では近代化の波によって壊され新しいビルになり、年々少なくなっている。

 「胡同のひまわり」は、この胡同で暮らす一家族を、文化大革命が終わった1976年から30年という時代の変遷の中に、郷愁いっぱいに描き出す。
 まず、子どもたちの遊びが映しだされる。胡同は、子どもたちにとって最高の遊びの広場だ。
 パチンコ(ゴム銃)やメンコ(ぺちゃ)やビー玉など、かつての日本の子どもたちの遊びと変わらない。夜、子どもたちを集めて行われる映画会も、日本人にとっても懐かしい。
 自ら画家を目指していた父(スン・ハイイン)が、文化大革命で挫折した自分の夢を9歳の一人息子の向陽(シャンヤン)(チャン・ファン)に託すことから、物語は濃く深く染まっていく。遊び盛りの息子に、遊びよりも絵を優先させる。それも強制的に。
 気のいい母親(ジョアン・チェン)は、間に立つがどうすることもできない。
 日本でもよく見かけられた、頑固で一徹な父親像と強くて優しい母親像。
 頑固な父親のもとで絵の道に進んだ子であったが、成長しても親子の対立は解消されることなく、愛憎半ばしながら互いに傷ついていく。

 息子のシャンヤン役は3世代の異なる男優たちが演じ、頑固で一徹な父親役は実力派俳優スン・ハイインが好演。人のいい元気な母親役も、ジョアン・チェンがはまり役となっている。
 急速な近代化の影で消えゆく胡同(フートン)で営まれる家族の日々が、日本人にも懐かしく郷愁を誘う映画となっている。
 
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