かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「聖なる呼吸」で見たヨガの聖地、マイソール

2016-09-25 01:16:39 | 映画:外国映画
 年をとると、身体のあちこちに齟齬をきたす。
 最近は、足の裏が調子が悪い。自己診断だが2年前の足の指先のシモヤケに始まり、魚の目、タコができた。
 しかし、足の裏に、海(水)の生き物の魚の目、タコがへばりついているとは、何と奇妙というか不気味なことだ。誰が、どうしてこんな名前をつけたのだろう。
 というわけで、足が痛くなったので皮膚科の先生に診てもらった。皮膚科の先生によれば、靴が合っていないのと歩き方の問題だと言われた。魚の目やタコは何とか治ったが、シモヤケだと思っていた足の指先の炎症は、暖かくなっても収まらないところを見ると、皮膚科系ではないようだ。
 血行障害だと思うから、身体の血の巡りをよくするために何か運動をしないといけないと思った。数年前までは時折近くのプールに通って水泳をやっていたが、今は運動といえば歩くことぐらいしかしていない。
 かといって、ジムに通うのは嫌だし、もっとゆったりとした楽しめる運動はないかと考えたら、ヨガを思いついた。
 そしたら、近くの市の施設を利用して「ゆるヨガ」をやっているというのを見つけた。ヨガといえば、アクロバティックに体を曲げたりくねらせたりするのを思い浮かべるが、ゆるいヨガというのが楽そうでいい。それに、自己啓発的で宗教がかったのは嫌だが、そうではなさそうだ。

 *

 すると、新聞の広告で「聖なる呼吸」(ヨガのルーツに出会う旅)という映画の告知を見つけた。
 何だかヨガが僕のところにやって来た、といった都合のよい思考を持ってはいないが、気にすると、人間はそのことに視線や関心が集まるのか、ヨガの情報が急に眼に入る。
 ヨガを知るのにちょうどいいと思い、渋谷に映画を見に行った。

 「聖なる呼吸」(原題:Breath of the Gods、監督:ヤン・シュミット=ガレ、2011年/ドイツ、インド)は、以下のような内容の映画である。
 ヨガのルーツは、古代インドにあるという。ヨガに興味を抱いたドイツ人の映画監督ヤン・シュミット=ガレが、南インドを訪れ、「近代ヨガの父」といわれるティルマライ・クリシュナマチャリアの足跡をたどるドキュメンタリーである。
 監督は、クリシュナマチャリアの弟子や子どもたちに話を聞き、彼が教えていたという学校を訪ね、実際にヨガの教えを受ける。
 クリシュナマチャリアは1989年に亡くなっているが、映画では、彼の残された数々のヨガの実践映像が映し出される。

 映画を見始めて、僕がおやっと思ったのは、クリシュナマチャリアの足跡を訪ねていったインドの町というのが、マイソールだったことだ。マイソールは、クリシュナマチャリアを師と仰ぐ人にとっては、いわば聖地のような町なのであった。

 *

 1994年、僕は2度目のインドの旅に出て、ボンベイ(ムンバイ)に降りたった。前々年の1度目の北インドの旅と違って、この回は南インドを旅しようと思っていた。
 計画は南インド方面と大雑把に決めていただけで、どこに行こうという当てがあったわけではない。ところがボンベイ駅でスムーズに列車の切符が買えず(インド特有の混雑と融通のなさで)、仕方なくとりあえずインド中部のエローラおよびアジャンタの遺跡を周り、再びボンベイに戻った。そこから再び南の方に行こうとやっと切符を買いとり、とりあえずバンンガローブへ向かった。
 今はIT産業で有名になっているがバンガローブの街は面白くなかったので、地図を見てその南のマイソールという町に向かった。マイソールは、マハラジャの住んでいた藩主国だったところだというのが興味をひいたのだった。
 マイソールの街は、マハラジャの住んでいた宮殿が残っていて、周りにはグーゲンビリアの花がまるで日本の錦秋のように赤く彩っていた。夜には宮殿はイルミネーションで彩られた。僕はこの街が気に入っていた。(写真)

 映画でも、このマイソールの王宮が舞台となり、映し出された。
 クリシュナマチャリアは、このマイソール王国の君主に雇われて、ヨガを教え普及させたのだった。

 この映画によってヨガの魅力がわかったわけではないが、ゆるいヨガならやってみようと思う。ヨガといっても僕にとってはハードではない、ストレッチ体操程度が今のところちょうどいい。
 しかし、映画でヨガの師が言っていた。
 「体を動かすだけなら単なる体操だ。ヨガは呼吸が大切だ」と。
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富山の旅③ 移りゆく富山市の商店街

2016-09-22 01:49:10 | ゆきずりの*旅
 富山県を地図で見ていると、蝶むしろ蛾か蝙蝠(コウモリ)が羽を広げたように見える。あるいは蟹(カニ)。どれも、漢字にすると何やらいわくありげだ。
 この富山県の姿、どこかに似ていると思っていたら四国に何となく似ている。
 海に面した県には、このような形の県が多い。あえてあげれば、愛知県、神奈川県。もっと広げると静岡県、鳥取県、高知県など。佐賀県だって、この形に近いと言えなくもない。
 僕は地図を見るのが好きなので、見ていると形も個性があって面白い。

 *

 9月4日、この日の午後富山から東京へ帰るので、午前中は市内地図を片手に富山市内を歩いた。
 富山市は、駅の南側に路面電車やバスが走っている通りが間隔をおいて延びている。その3本の道の間が市の中心街のようだ。歩いて周れる程度の適度な大きさのようなので歩いてみる。
 駅から南に歩いていくと県庁と市役所のある通りがある。いわゆるこの辺りが官庁オフィス街の中心なのだろう。 その先に「富山城址公園」がある。前田家の城があったところで、櫓や城壁は新しく、この街が城下町であることの証明であるかのような存在だ。今では公園になっていて市民の憩いの場となっている。
 その先の「大手モール」を過ぎ、さらに南の方へ行ってみた。

 大通りを渡ると、急に今までとは違う空気の漂う商店街の入口に出くわした。通りの入口にアーチ型に「千石町モール」とあり、入口の角の古い家には木の看板が掲げてある。誰も住んでいない廃墟かなと思ってよく見ると、一番町公民館とあるが人はいないし、その気配もない。
 店が並ぶ通りを歩いたが、明らかにかつての商店街である。通りのあちこちにある店は営業をやっているが、客らしい人が見あたらない。(写真)
 かつてと言ったのは、通りから懐かしい匂いがしたからだ。通りは静かだが、今はない賑やかさを忍ばせている。何年前か知らないが、地元のおばさんや子供たちで通りは賑わっていただろうと想像を喚起させる商店街だ。僕は、佐賀の育った田舎の商店街を思い起こしていた。
 千石町という街の名前からすると、富山城大手門から続く城下の町として、昔は最も栄えた一帯だったのかもしれない。

 旅先で、このような地方の街をいくつも見てきた。「陰翳礼讃」ではないが、今は廃れているが、かつて栄華を誇った街や商店街を歩くと、切なさとも愛おしさともいえる、何とも言えない感情がわいてくる。華やかなりし頃、そこに住んでいた人たちは、今はどこでどうしているだろうと考えると、時を巻き戻したような走馬燈が頭を駆け巡る。
 街は、時代によって変わる。
 失われゆくもの、廃れゆくものを立ち止まって見つめるのは、言われえぬ胸を焦がすものがある。

 千石町商店街を出たあと、「日枝神社」に寄った。東京・赤坂に日枝神社があるが、この系列の神社は全国にあるのだろう。
 日枝神社から北へ向かい、大通りの図書館のあるガラス美術館の前を通って、「池田屋安兵衛商店」をのぞいた。富山の薬売りの老舗で、店自体が観光地になっているようだ。中では、レトロな薬をはじめ、様々な薬や茶などを展示ではなく販売している。
 その先に市の観光案内所があった。あまり観光客が来そうもないところなのに、どうしてこんなところにあるのだろうと思った。
 僕が中年の男の係りの人に「景気はどうですか」と訊くと、この辺りで育ったというその人が言った。
 「私が子どもの頃は、この通りの前の中央通りの商店街が賑わっていましたが、今ではすっかり廃れました。西の方に移ってしまいました」と指をさして、嘆いた。
 この辺りはかつて中心街と言っていいほど栄えていたのだろう。富山の商店街の中心は、今でも移り動いているのだ。

 そこから再び南の方に向かった。地図に卍の印が集まった「梅沢町寺院群」なる地域があったからだ。
 ずいぶん歩いたが、いわゆる住宅街で、住宅の間にあるいくつかの寺にぶつかったが、時間の余裕もないので全域を周るのは諦めて、また北の大通りへ戻ることにした。
 途中、寿司屋のようなカウンターのある造りのトンカツおよび中華料理店に入り、昼食をとることにした。トンカツがこの店の人気のようだが、麻婆豆腐と餃子を注文。四川風で美味い。

 上本町から西町のガラス美術館に面した大通りに再び戻った。
 その先の駅方向の北に向かう通りを行くと、すぐに右と左にアーケードの商店街が延びている。
 右、つまり東側の「中央通り商店街」は、観光案内所の人が言っていたかつて栄えた商店街で、左の西側が「総曲輪商店街」である。この2つの商店街を直線にすれば、かなり長い商店街だ。
 しかし、「総曲輪」はちょっと読めない字だ。「そうがわ」と読むそうで、現在の賑わいは、この西側の総曲輪商店街に移ったようだ。
 そこから北へ進み、富山駅に戻った。

 *

 富山駅14時6分発上り「かがやき」528号に乗る。途中、長野に停まったら次は大宮だ。そして、上野の次が東京駅、16時20分着。
 富山駅から東京駅まで2時間14分である。富山に行くのはちょっと面倒だがと思っていたころから考えると、何ともあっけないほど物足りない速さである。これじゃあ、旅と言うのもはばかられるなぁ。
 僕には、急行列車あたりが一番合っている。景色も充分見られるし、駅弁もゆっくり食べられるし、何なら落ち着いて読書だってできる。
 しかし、かくのごとく日本列島新幹線の配設で、いつの間にかJR(旧国鉄)の定期急行列車はなくなってしまった。
 何でも速ければいいとは思えないのだが。

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富山の旅② 富山湾の水上ライン

2016-09-16 02:08:48 | ゆきずりの*旅
 富山といえば、昔から薬売りが有名だ。
 僕が小さい頃は、何種類かの薬がセットになっているのを各家庭に置いて行き、時々家を周っては、使った分だけ料金を取り、なくなった薬は補充して帰っていく行商人のおじさんがいた。富山の薬売りだった。
 いつの頃からか薬の行商人は見なくなったが、各地にドラッグストアーができ薬が簡単に入手できるようになったので、職が奪われたのだろう。それでも、少なくなったが今でも残っているという。
 そういえば10年位前であろうか、母が生きていたときのことだ。僕が佐賀の実家に帰ったときのこと、若い男が「こんにちは」とやってきた。そして、家の玄関脇に置いてあるドリンク剤(数本の小瓶)を交換しますという。聞けば栄養ドリンクのような小型の飲料水(瓶)で、飲んだ分だけ料金をもらいますが、飲んでいなくても定期的に新しいのと交換に伺っていますという。
 僕は母に確認して、飲まないからもう置かないでくださいと言って断ったのだが、飲まなくても構いませんからとか契約されたものは本社の了承がないと私個人では解約は難しいとか、相当粘られた記憶がある。あれは、新しい形を変えた薬の行商人かもしれない。

 *

 富山には八尾の「おわら風の盆」を見に来たのだが、富山の市内も見るつもりではいた。
 風の盆の踊りは夕方からなので、富山に着いた次の日の9月2日の午前中は、駅から北西にある丘陵のふもとの富山市民俗民芸村に行くことに。
 まず、民俗民芸村の近くにある五百羅漢の像を見ることにした。石像が段状に整然と並んでいる。おそらく500体以上あるようだ。
 若いとき、大分県中津市の耶馬渓(やばけい)に行ったとき、羅漢寺に五百羅漢があった。五百羅漢は、各地にあるようだ。

 陶芸館は、市内に建てられた豪農の住宅の一部を移築した建物だが、頑強な構造ながら木の造りが美しい。なかで、全国各地の暮らしのやきものを紹介している。

 売薬資料館は、その名の通り富山の薬の歴史と資料を展示してある。
 別館の「旧密田家土蔵」は、富山を代表する売薬商家であった密田家に残されていた資料を展示してあるもので、顧客名簿や行商において守らなければならないことなどが書かれた資料など興味深い資料があった。
 ここの資料館で貰った折りたたんだ紙風船は、かつて行商のときに土産として配ったものであった。油紙の色付きの紙風船を手に取った途端、僕の遠い記憶を甦らせた。確かに、薬の交換のときに、薬売りのおじさんが置いていった。僕ら子供は、それを膨らませて遊んだことがある。今の子どもなら喜びそうもない他愛ないものだが、当時の子どもには嬉しかった。

 *

 9月1日、2日と越中八尾に「風の盆」を見に行ったので(前ブログ「富山の旅①」参照)、9月3日は富山市内見物とした。
 富山市の北、富山湾に面した町、岩瀬に行くことにした。
 岩瀬は、かつて江戸から明治時代にかけて栄えた北前船文化が色濃く残る港町である。
 富山駅の正面に当たる南口から、地下道で北口に出る。この北口に新型路面電車ともいえるライトレールの出発停車場がある。アムステルダムを走るトラムのようなこのライトレールは、富山駅北から港の岩瀬浜までを約25分で往復している洒落た電車である。
 このライトレールに乗り、終点岩瀬浜の一つ手前の東岩瀬で降りて、街を散策することに。
 街は道に沿って古い家並みが続き、一昔前の町に迷い込んだかのようである。特に北前船廻船問屋の明治11年に建造されたという森家はそのままの形で開放されていて(ただし入館料大人100円)、往時の生活を見ることができる。

 港の近くにあるカナル会館で昼食をとったあと、運河を走る船で富山市内へ戻ることにした。「冨岩(ふがん)水上ライン」といって、岩瀬浜から富山駅北の冨岩運河環水公園までの5.1kmを約70分で遊覧し、料金1500円である。(写真)
 僕は列車が好きだが、船も好きだ。旅の途中、舟廻り、舟遊びがあると乗りたくなる。
 このクルーズは、海辺から街中へのゆったりとした船航である。
 船のなかでは、季節柄だろう、船のガイドの女性が風の盆の格好をしていて、踊りも披露してくれた(おそらく25歳を超えていたが)。
 この運河は上流と下流の水位差が2.5mあり、その水位の調整門である中島閘門(こうもん)を通るので、段差の調整段階をじかに見ることができた。ガイドの人が、パナマ運河を例に説明してくれるのが何とも面白い。
 水郷潮来に行ったときは、「潮来花嫁さん」の歌を聴きながら川を下る舟廻りをしたが、そのときも閘門があった。といっても、冨岩運河は潮来より規模が違って大きい。パナマ運河よりはるかに小さいが。
 終点の冨岩運河環水公園は、富山市民の憩いの場のようだったが、暑いのでとりあえずホテルに戻る。
 
 夜は、駅の南口の繁華街のなかの和食屋で富山料理を。
 八尾で鱒寿司は食べたので、これはパス。
 何といっても魚が美味い。白エビは富山ではどこでも付きもののようだ。これはカラ揚げがいい。

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富山の旅① 越中八尾の「おわら風の盆」

2016-09-09 00:35:15 | ゆきずりの*旅
 盆といえば旧暦7月15日にあたる中元節の日だったのが、今は殆ど.新暦8月15日に祝われる。
 その盆から大分遅れて、秋の声も聞かんとする9月1日から3日にかけて富山市八尾(やつお)で「おわら風の盆」なる踊りの祭りが行われた。
 この「おわら風の盆」とは、真中から折った長い編み笠を目深に被った男女が、3日3晩富山市八尾の街中を優雅に踊り歩く祭りである。何度か小説の舞台にもなり、隠れた人気になっていた。

 仙台の大学で民俗舞踊を研究していた友人の誘いもあって、富山に行ってみた。
 北陸新幹線ができて、金沢、富山は相当近くなった。最も速い特急「かがやき」だと2時間10~15分で富山に着くが、往きは、もう少し停まる駅の多い「はくたか」に乗る。
 9月1日、東京駅で東京弁当なる駅弁を買って特急「はくたか」に乗車。
 旧東京駅を描いた包装紙のこの弁当は、今半の牛肉タケノコや魚久のキングサーモン粕漬けなど、東京の老舗の味を集めた幕の内である。最近は駅弁を食べるのが、長距離列車に乗る楽しみとなった。
 10時32分に東京駅を出発した列車は、上野、大宮を通って高崎に着く。高崎から軽井沢を過ぎ上田へ。ここからは各駅停車となる。若いときに付きあったことのある上田出身の女の娘は、今頃どうしているだろうと考える間もなく長野に着く。
 田園と山あいを見ながら進む列車は、糸魚川あたりで海が見える。日本海だ。
 次の黒部宇奈月温泉駅では、トロッコ列車に乗ったのを思い出した。そのときは、乗る直前に急に天候が悪化し雨が降り出した。窓ガラスのない骨組みだけのガタゴト列車だったので、情緒を味わう余裕もなく冷たい雨に打たれ震えながら進んだ。
 そのときは夜に富山市内に着き、市内のホテルに泊まったのだが、次の日は朝すぐにバスで立山黒部の観光へ行ったので、富山市の知識はまったくない。
 新幹線の黒部宇奈月温泉駅の次は富山で、13時17分に着。「はくたか」の東京からの所要時間は2時間45分である。

 *

 富山駅前は、すでにいくつかの出店があり幟もたって、この日から始まる「風の盆」のお祭りモードである。
 ホテルに荷物を預け、高山本線猪谷方面行きの富山駅14時5分発の電車に乗る。祭りの期間中は、富山から越中八尾間は多くの臨時電車が組んである。深夜0時台も3本あり、最終は0時59分と東京都心並みの遅い時間である。
 越中八尾駅には14時37分着だから、富山駅から約30分で着く。

 越中八尾駅前は、ごく普通の地方の駅前だ。普段は閑散としているだろうと思える駅前も、この日は出店がいくつか出ている。駅から少し歩いた先の井田川とその支流の間が八尾の中心街のようだ。
 ガイドブックの地図にそって、街中の方に向かって歩いていると橋があり、橋を渡った先に踊りに繰り出さんとするグループに出くわした。子どもも交じっていて、母親が傍らで見守っている。街の端になる天満町だという。
 さらになだらかな坂を街の中心の方に歩いていくと、別の踊っているグループにぶつかった。11の町ごとに街中を踊り歩く「町流し」で、ここは下新町だという。
 甲高い歌とともに、三味線と胡弓の音に合わせて、女性と男性がそろいの浴衣と法被を着て踊りながら歩を進める。深く被った傘で踊り子の表情はわかりづらいが、そこがかえって艶っぽい。聞くところによると、踊り子は25歳以下でなければいけないという。だから、身体の動きがしなやかなのかなどと想像してしまう。
 地図を見ながら、街をさかのぼって歩いていくと、いくつかの町の「町流し」に出くわした。(写真)

 街中で、地元の町の人の踊りの出し物に出くわすという趣向は、長崎のさるく(歩く)「くんち」に似ている。長崎のくんちは、町ごとに出し物が異なっていて、盆踊りのような和風の踊りの町もあれば有名な蛇踊りや南蛮船を引き回す町もあるなど変化に富んでいるが、ここ八尾はどこの町も風の盆の踊り一色である。
 街の奥に位置する諏訪町を連なる一本の道は、道の両側に並んだ灯籠の明かりもあって美しい。

 午後7時から9時まで、小学校のグランドに設えた演舞場で、5つの町の踊りの出演が行われた。
 そのあと上新町では、一般の人も加わって躍る「輪踊り」が深夜まで行われる。
 友人が懇意にしているその上新町の呉服屋さんの坪庭で特別に行われた、男女2名ずつの風の盆の踊りを見せてもらった。街中ではなく家の中での踊りは、何となく密やかだ。
 この日、ホテルに帰ったのは深夜零時過ぎだった。

 *

 翌9月2日、午前中は富山市内の民族民芸村を見て、昼食の後、再び越中八尾へ。
 昨日のように、夕方、街中を歩きながら「町流し」を楽しむ。
 午後7時から9時半まで、やはり小学校のグランドの演舞場で、昨日出演した5つを除いた6つの町の踊りを見ることに。
 全11町の踊りを見た訳だが、浴衣の色や柄の違いはともかく、基本に則った各町の踊りに大きな違いがあるわけではないので、素人には同じ踊りに見えた。
 2日目は、時計の針を巻き戻したような、昨日初日のデジャブの行動となった。
 やはり、この日もホトルに戻ったのは深夜1時近くだった。
 風呂に入り、疲れていたので泥のように眠った。

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