文学はどこへ行くのだろう。このことは、おそらく近代文学が生まれたときから、いつも言われてきたことだろう。
文学がその時代を照射する宿命を持つ以上、この問いはいつも付きまとうものといえる。文学の行く末を探る、その水先案内の役割を負わされてきたのが、いくつかの文芸誌の新人賞で、その頂にある芥川賞であろう。
新しい文学への可能性の模索は、話題を伴ってこそその新しさに光が当たるといえるのだが、またそこにこそ陥穽が存在している。近年、新しさの可能性より話題性のそれを重視しながらの新人賞選考となっている、と長らく言われているのに異存はない。
09年「流跡」で朝吹真理子が文壇にデビューしたとき、すぐに、もしかしてと文学者の名を思い浮かべた人は多いだろう。
フランソワーズ・サガンといえば、18歳の時に書いた「悲しみよこんにちは」で一躍有名になり、その本は全世界でベストセラーになった。映画化もされ、主演したジーン・セバーグも人気女優となった。セバーグは、ゴダールの「勝手にしやがれ」では、ヌーヴェル・ヴァーグの代表的女優と言われるほどになった。
サガンは、その後もベストセラーを続出させた、日本でも人気の作家であった。そのサガンの小説の、日本語版の翻訳者といえば朝吹登水子である。
そして当時、ファッション誌にも彼女のフランス便りの文を目にすることも多かった。
彼女は、当時日本の学生や知識人に人気だったサルトルとボーヴォワールとも親交があった。
朝吹登水子の娘、朝吹由起子も翻訳者として活動した。
そして、今、朝吹真理子の出現である。
そう、朝吹登水子は、朝吹真理子の大叔母だった。朝吹真理子の父、亮二も文学者である。
何だか、血統で決まるサラブレッドのようである。
朝吹真理子は、処女作「流跡」で、一躍デビューした。本来なら、公募による新人賞受賞でもないのに、純文学でいきなり「新潮」デビューはないだろうが、それは朝吹ブランドのなせる業であろう。
「流跡」は、冒頭、読んでも読んでも、その本を読み進められない人物の話が出てくる。
私もこの本を読み始めたとき、何故か一気に読めなくて、またしばらくたってからおもむろに読み直したのだった。その場合、本に栞を挟んでおいた途中から読み継ぐのではなく、何故かまた最初から読み直した。こうして、何度か最初から読む羽目になった。
そうさせたのは、本(物語)の流れであった。途中からだと、それまでどのような話だったかが不確かになっているのだった。だから、最初から読み直さないと物語の流れを掴み取れないのだった。
そのうち、この本はどこから読んでもよさそうだ、物語の流れなどないのだと分かったが、それでも最初から読まないと、と思わせるものがあった。
どういうわけか、短い小説なのに日にちはかかってしまった。
この本の物語は、いつの間にか主人公が変わり、時代も変わるのだった。だから、何度読み直しても、堂々巡りをしているような錯覚に陥るのだった。
この本は、最初も最後もなく、時間もあるようでないのだった。そもそも、物語などなかった。どこか幽玄の世界に紛れ込んだ感覚だけが残った。
朝吹真理子の2作目「きことわ」は、あらかじめ文学者としてその椅子を用意されているかのように、一気に2010年下期の144回芥川賞を受賞した。
この小説は、幼い頃葉山の別荘で一緒に時を過ごした女性が、25年の時をへてその別荘で再会するという話である。
ページを開くと、サガンの世界が再現されるのかと思った。読み進むうちに、中村真一郎の「四季」に見られる時間の回遊かと思わせた。
しかし、何か特別な事件が起きたり、秘密が語られるのではない。語られるのは、2人の記憶である。確かのようでもありながら、茫洋とした時間と空間である。
「流跡」では、小説の形式から逸脱した、不確かであるが文学の未知の領域への踏み込みが感じられた。
しかし、「きことわ」では、小説の形式に則ったものとなっていて、その分曖昧さは消え去ったが、未知の可能性も萎縮しているように感じた。
文学はどこを目指しているのだろう。
*
この「きことわ」と同時に芥川賞を受賞したのは、朝吹真理子の観念的な小説と対極に位置するともいえる、西村健太の「苦役列車」である。
「苦役列車」は、その日暮らしの若者の荒んだ日常を自虐的に書いたものである。朝吹真理子の「きことわ」と違って、物語としての話(ストーリー)はあり、面白みもある。
芥川賞受賞が決まり、その報告を受けたときの西村の感想が、「もし賞に落ちたという報告だったら、これから風俗に行くつもりだった」というような受け答えをした。
芥川受賞の感想第一声としては、奇を衒った受け狙いの答えかと思えるほど、異例の発言だったが、それは彼の、装うことのない本心だったようだ。小説を読むと、彼の(おそらく)分身が描かれている。
中卒でまっとうな仕事をする気のない主人公の健多は、日雇い人足をして、かろうじて生計をたてている。友だちもいなく、酒と時たま行く風俗の買春で気を晴らすぐらいがわずかな楽しみである。
そんな彼に、ある日、日雇いの職場で同じ年の友人ができる。ちょっと格好いい清々しい専門学校生の男である。健多にとっては初めてともいえる友だちで、彼と若者らしい交流が始まり、少しは真面目に仕事に行くようになる。
その友人に、女子大生の恋人ができたという。何故か、女は慶応大生。ブルジョアジーの娘としての象徴の意味かも。奇しくも、芥川賞同時受賞の朝吹真理子と同じ(学校)となった。
健多は友人に、彼女の友だちを紹介してもらおうと思い、3人で会うことにする。ここから、読む者が心配するような展開になり、そんな結末になる。
新人の作家に与えられる芥川賞の、「きことわ」と「苦役列車」の間にある茫漠とした距離。
文学が目指してきた多様な方向性と、いまだ未知への不確かな曖昧性が滲んでくる。
文学がその時代を照射する宿命を持つ以上、この問いはいつも付きまとうものといえる。文学の行く末を探る、その水先案内の役割を負わされてきたのが、いくつかの文芸誌の新人賞で、その頂にある芥川賞であろう。
新しい文学への可能性の模索は、話題を伴ってこそその新しさに光が当たるといえるのだが、またそこにこそ陥穽が存在している。近年、新しさの可能性より話題性のそれを重視しながらの新人賞選考となっている、と長らく言われているのに異存はない。
09年「流跡」で朝吹真理子が文壇にデビューしたとき、すぐに、もしかしてと文学者の名を思い浮かべた人は多いだろう。
フランソワーズ・サガンといえば、18歳の時に書いた「悲しみよこんにちは」で一躍有名になり、その本は全世界でベストセラーになった。映画化もされ、主演したジーン・セバーグも人気女優となった。セバーグは、ゴダールの「勝手にしやがれ」では、ヌーヴェル・ヴァーグの代表的女優と言われるほどになった。
サガンは、その後もベストセラーを続出させた、日本でも人気の作家であった。そのサガンの小説の、日本語版の翻訳者といえば朝吹登水子である。
そして当時、ファッション誌にも彼女のフランス便りの文を目にすることも多かった。
彼女は、当時日本の学生や知識人に人気だったサルトルとボーヴォワールとも親交があった。
朝吹登水子の娘、朝吹由起子も翻訳者として活動した。
そして、今、朝吹真理子の出現である。
そう、朝吹登水子は、朝吹真理子の大叔母だった。朝吹真理子の父、亮二も文学者である。
何だか、血統で決まるサラブレッドのようである。
朝吹真理子は、処女作「流跡」で、一躍デビューした。本来なら、公募による新人賞受賞でもないのに、純文学でいきなり「新潮」デビューはないだろうが、それは朝吹ブランドのなせる業であろう。
「流跡」は、冒頭、読んでも読んでも、その本を読み進められない人物の話が出てくる。
私もこの本を読み始めたとき、何故か一気に読めなくて、またしばらくたってからおもむろに読み直したのだった。その場合、本に栞を挟んでおいた途中から読み継ぐのではなく、何故かまた最初から読み直した。こうして、何度か最初から読む羽目になった。
そうさせたのは、本(物語)の流れであった。途中からだと、それまでどのような話だったかが不確かになっているのだった。だから、最初から読み直さないと物語の流れを掴み取れないのだった。
そのうち、この本はどこから読んでもよさそうだ、物語の流れなどないのだと分かったが、それでも最初から読まないと、と思わせるものがあった。
どういうわけか、短い小説なのに日にちはかかってしまった。
この本の物語は、いつの間にか主人公が変わり、時代も変わるのだった。だから、何度読み直しても、堂々巡りをしているような錯覚に陥るのだった。
この本は、最初も最後もなく、時間もあるようでないのだった。そもそも、物語などなかった。どこか幽玄の世界に紛れ込んだ感覚だけが残った。
朝吹真理子の2作目「きことわ」は、あらかじめ文学者としてその椅子を用意されているかのように、一気に2010年下期の144回芥川賞を受賞した。
この小説は、幼い頃葉山の別荘で一緒に時を過ごした女性が、25年の時をへてその別荘で再会するという話である。
ページを開くと、サガンの世界が再現されるのかと思った。読み進むうちに、中村真一郎の「四季」に見られる時間の回遊かと思わせた。
しかし、何か特別な事件が起きたり、秘密が語られるのではない。語られるのは、2人の記憶である。確かのようでもありながら、茫洋とした時間と空間である。
「流跡」では、小説の形式から逸脱した、不確かであるが文学の未知の領域への踏み込みが感じられた。
しかし、「きことわ」では、小説の形式に則ったものとなっていて、その分曖昧さは消え去ったが、未知の可能性も萎縮しているように感じた。
文学はどこを目指しているのだろう。
*
この「きことわ」と同時に芥川賞を受賞したのは、朝吹真理子の観念的な小説と対極に位置するともいえる、西村健太の「苦役列車」である。
「苦役列車」は、その日暮らしの若者の荒んだ日常を自虐的に書いたものである。朝吹真理子の「きことわ」と違って、物語としての話(ストーリー)はあり、面白みもある。
芥川賞受賞が決まり、その報告を受けたときの西村の感想が、「もし賞に落ちたという報告だったら、これから風俗に行くつもりだった」というような受け答えをした。
芥川受賞の感想第一声としては、奇を衒った受け狙いの答えかと思えるほど、異例の発言だったが、それは彼の、装うことのない本心だったようだ。小説を読むと、彼の(おそらく)分身が描かれている。
中卒でまっとうな仕事をする気のない主人公の健多は、日雇い人足をして、かろうじて生計をたてている。友だちもいなく、酒と時たま行く風俗の買春で気を晴らすぐらいがわずかな楽しみである。
そんな彼に、ある日、日雇いの職場で同じ年の友人ができる。ちょっと格好いい清々しい専門学校生の男である。健多にとっては初めてともいえる友だちで、彼と若者らしい交流が始まり、少しは真面目に仕事に行くようになる。
その友人に、女子大生の恋人ができたという。何故か、女は慶応大生。ブルジョアジーの娘としての象徴の意味かも。奇しくも、芥川賞同時受賞の朝吹真理子と同じ(学校)となった。
健多は友人に、彼女の友だちを紹介してもらおうと思い、3人で会うことにする。ここから、読む者が心配するような展開になり、そんな結末になる。
新人の作家に与えられる芥川賞の、「きことわ」と「苦役列車」の間にある茫漠とした距離。
文学が目指してきた多様な方向性と、いまだ未知への不確かな曖昧性が滲んでくる。