かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「陰萎」と向きあった、渡辺淳一、最後の小説「愛ふたたび」

2014-06-30 00:54:05 | 本/小説:日本
 作家の渡辺淳一が、去る4月30日に死去した。80歳だった。
 私は、大ヒットし流行語にもなった「失楽園」も読んでいない彼の小説の愛読家ではなかったが、生き方は好きな作家だった。きれいごとを装うことなく本音を語った。
 本人がいうように、女性が好きで、その体験をもとに小説を書いてきた。そういう意味では私小説作家と言っていい。渡辺淳一が長く多くのファンに読まれてきたのは、とりもなおさず彼の体験のたまものといっていい。
 愛について、特に性愛小説は実体験がないとなかなか説得性が持てないと私は思っている。だから、恋愛、性愛小説は、著者に体験があるかないか、その体験が濃いか薄いかが、その作品を読んでいてすぐにわかる。

 個人的な嗜好を入れて振り返ってみると、今はなき北原武夫、川上宗薫、吉行淳之介と性愛を描いてきた作家は、私生活でも恋愛志向、性愛嗜好が強く、多くの女性を愛した。文豪、永井荷風もこの系列に入れていいかもしれない。
 大衆あるいは官能小説家といわれた団鬼六、勝目梓も老いを自覚したのちの作品は私小説で純文学風である。私は彼らの流行作家時代の官能小説は読んでいないが、団鬼六の晩年の70代で書いた「最後の愛人」(2003年)以降の小説、エッセイ、また、勝目梓の「小説家」(2006年)、「老醜の記」(2007年)は、私小説であるがゆえに興味深く読んだ。
 作家は、老いを自覚すると、これだけは本当の自分のことを書いておきたいと思うのかもしれない。
 女性では、森瑤子、若い時の山田詠美あたりが文もうまいし王道だろうが、少し逸脱した、「猫背の王子」の中山可穂、「親指Pの修業時代」の松浦理英子の作品がひりひりと傷のように心に残る。女性の官能は危うい。

 体験したものでないと書けないと述べた渡辺淳一であるが、彼の作品で、私が初めて読んだ直木賞を受賞した後に発表した「阿寒に果つ」は、強く印象に残る純文学小説であった。よくできた小説、物語だと思ったが、のちに実際に彼が高校時代に愛した女性の体験をもとにしたものだと知ってさらに驚いた。実体験とは思えない、いやこんな体験をしたからこそ、その後の渡辺淳一が生まれたのだろうと思わせる物語だった。
 女性を論じた「解剖学的女性論」は、医者出身の作家らしい観察眼が現れていた恋愛論と思った。

 渡辺淳一は、晩年に述べている。
 「70代半ばに達して今一番衝撃を受けて、熱く強く感じたことは何だろう?と自問したらインポテンツということに行きついた。で、自分はどんなことを考え、どうありたいと願ったのかと自分に尋ねたら「愛ふたたび」になった。」(「小説すばる」)
 女を愛し、数多くの女と性愛、セックスを交わしてきた流行作家が最後にぶつかったのが、その生命線ともいえるインポテンツであった。
 彼は、それを小説「愛ふたたび」にした。

 *

 渡辺淳一の最後の小説「愛ふたたび」(幻冬舎刊)は、どんな小説だろう、と思ってページを開いた。
 著者渡辺淳一の分身ともいうべき主人公の気楽堂は、公立病院を65歳で退職した後、整形外科医院を開業している気ままな個人医である。現在70歳を過ぎても、妻がなくなったのを幸いにというべきか、元来そういう性分というべきか、女性には事欠かない生活を送っている。
 今は、熟年の殿村夫人と若い楓千裕の二人とセックス関係を持っている。
 ところが、ある日のことである。殿村夫人との性交渉の最中に、あろうことか股間の局所のものが無反応に陥る。どんなに触ったり刺激を与えたりしても、静まり返ったままなのだ。
 彼にとっては、こんなことは初めてである。
 気楽堂は60代の後半から、性交渉をする日にはED治療薬、つまり勃起不全治療薬であるバイアグラを使うようにしている。だから、これまで不覚というか失敗はなかった。この日も、そのために十分に飲んできている。それなのに、である。
 薬バイアグラを飲んでいるから、大丈夫だと思っていたのだが、その薬すら効かなくなる時が来るとは思いもよらなかった。そんなことはどこにも書いていないし、考えてもみないことだった。
 気楽堂は、これが不能ということか、真正のインポテンツかと愕然とする。しかし、それを夫人に気付かせないように愛撫は続け、何とかその日を終える。
 気楽堂、73歳と半年の時である。
 彼は、若い楓千裕だと反応は違ってくるのかもしれないと思い千裕とも試してみるが、やはり局所は冷たくも無表情で、ピクリともしないのは変わりない。
 勃起しなくなり挿入不可能な自分のペニスを眺めて、気楽堂は、もう男としての役目は終わった、用無しかと深い寂しさに襲われる。
 気楽堂は、インポテンツがどのようなものかを調べる。
 意味内容は辞書や医学書には書いてあるのだが、インポテンツが何歳ぐらいから始まるのか、いったん真正のインポテンツになったらもう戻らないのかなど、彼が知りたいことが、意外と医学としてはちゃんとした研究がなされていないのを知る。

 インポテンツになった気楽堂は、「これで、俺は男でなくなったのだ」と思う一方、「このまま、女性を絶って、男一人で生きていけというのか。いや、それはできない」と呻吟する。
 「女性に全く触れずに生きていくなぞ、あまりにも殺風景すぎないか。それではととても男とはいえない。女性に興味をもち、追いかけているからこそ男なのだ」という自論で、彼は思いなおす。
 その頃、彼の患者で魅力的な女性が現れる。すでにインポテンツであることを自覚、納得した気楽堂であるが、彼は彼女を誘い関係を持つべく行動に出る。

 物語の内容、ストーリーは、巨匠にしては他愛ないものである。
 しかし、この作家の率直で前向きさが、彼が常に第一線で流行作家としてあり得た源泉だと分かる。これこそ、赤瀬川源平がいうところの「老人力」であり、渡辺淳一本人がいう「鈍感力」なのかもしれない。
 渡辺淳一は最後まで女性を愛した。性愛、性欲こそ、彼の生きるエネルギーで、女性を愛し、また愛されることが、書くエンジンであったのだ。

 本書の中で、主人公が「不能」ということをいろいろ調べて、記述してある。
 その中で印象的だったことは、「不能」の項目は医学大辞典では見当たらず、より大きな医学大辞典には出てくること。それには、まず「陰萎」と記され、次に「インポテンツ」と記されているとある。そうか、日本語では陰萎というのである。
 主人公はこの言葉をきくのも漢字を見るのも初めてだと感想を述べているが、私も、陰萎という言葉は知らなかった。調べると、ちゃんと岩波書店の「広辞苑」にも「国語辞典」にも「陰萎」は載っていた。ただし、逆は載っていない。つまり、普通の辞書では「不能」の項目に「陰萎」はないのである。

 まったくの偶然だが、先日、ラストエンペラーである愛新覚羅溥儀の私生活を描いた「禁城の虜」(加藤康男著)を見ていたら、「陽萎」という言葉が出ていた。中国語で、「陽根が萎える」ということで、これが不能、EDの意味のようである。
 日本語の「陰萎」と比べれば正反対の字ようでいて、同じ意味のようである。英語のペニスを日本語では陰茎、中国では陽根と表してきたのだろう。
 男の局所は、中国では陽で日本では陰。日中の興味深い表現の差異である。

 渡辺淳一は本書「愛ふたたび」で、本来は暗い陰気なテーマを明るい陽気なものに、つまり陰を陽に自ら体験的に価値変換し、現役EDもしくはED予備軍に挑戦、試みることを提案している。
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バルテュスの絵の向こう側

2014-06-11 01:46:16 | 気まぐれな日々
 バルテュス(Balthus)は文学的な画家だ。
 想像、妄想を抱かせ、物語を勝手に作らせてしまう。
 彼の描く、少女に開脚、立て膝をさせて、無邪気とも妖しいともとれる雰囲気を醸し出した絵は、一度見たら忘れられないほど刺激的であり、スキャンダラスであったはずだ。

 “20世紀最後の巨匠”と称される「バルテュス展」を上野の東京都美術館に見に行った。
 彼の代表作は、多くが少女を主人公にしたものである。それも、まだ大人になっていない少女の性的匂いのするものである。風景画も描いているのだが、それは先入観のためか個性的とも魅力的とも思えない。
 1934年にパリで開催されたバルテュスの最初の個展で、予めスキャンダルを引き起こすために「エロチックな場面」を挑発的に描いたという「ギターのレッスン」は、女教師が折檻している少女の下半身は剥き出しだ。最も有名な絵である、両手を頭にあげて目をつむって椅子に座っている少女像の「夢見るテレーズ」(1938年)は、少女は脚を開いて立て膝で、下着をのぞかせている。
 薪を燃やしている男がいる暖炉の前で、手鏡を覗きながら長椅子に横たわる少女は、右胸を半分のぞかせ、やはり膝を立てて脚を伸ばしている。(写真、「美しい日々」1944‐1946)
 バルテュスは若い時から年老いてまで、執拗に女性、なかでも少女を描いてきた。巧妙に計算された絵は、具象的のようでいて創作的、文学的だ。少女、もしくは少女のいる空間から、大人ではない性的な香りを漂わせる。

 「ここで私は、次のような考えを披露したいと思う。それは、少女は九歳から十四歳の間に、自分より何倍も年上のある種の魅せられた旅人に対して、人間らしからぬ、ニンフのような(つまり悪魔的な)本性をあらわすことがあるという考えだ。私は、この選ばれたものたちを、「ニンフェット」と呼ぶことにしよう。」(「ロリータ」ナボコフ著、大久保康雄訳)
 バルテュスからウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」は容易に想像できよう。
 ナボコフのいうところのニンフェット像は、今ではロリータ、ロリータ・コンプレックス、ロリコンと、わが国では独り歩きしている。
 のちに「2001年宇宙の旅」を作ったスタンリー・キューブリックの監督による映画「ロリータ」(1962年)のスー・リオンは映画出演時には14、15歳だったというが、蠱惑的だ。

 「美しい日々」にもあるように、バルテュスの絵にしばしば出てくる少女の持つ鏡は、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」を示唆するものだろうか。最初の個展の時に出品した、胸をはだけ性器を見せながら髪を梳る女の絵のタイトルは、「鏡の中のアリス」(1933年)だ。
 「アリス」も、しばしば少女の象徴、それも特別な雰囲気を持つ少女として表現される。沢渡朔の「少女アリス」(1973年出版)は出色の写真集である。
 ちなみに、「ロリータ」のナボコフは、若い時にルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」をロシア語に翻訳している。

 ロリータとアリス、バルテュスの絵は、別のところに秘かに道を伸ばす。

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東京の西で独自の光を!八王子音楽祭

2014-06-03 01:09:19 | 気まぐれな日々
 八王子市が、東京都では初の中核市に、2015(平成27)年4月より移行することが決まった。八王子市は、東京都では最も人口が多く、面積も大きい市である。
 中核市とは、人口30万人以上が移行要件で、特例市以上で、政令指定都市以下の都市ということらしい。人口30万人を超えるとどこの市でも中核市になるのかといえば、そうではなく、その市が申請しないとなることはないようだ。同じ都内でも、町田市も30万人をクリアしているが、その動きはない。

 そこで、東京都の多摩地区(23区以外)の市町村の人口を見てみた。26市あり、人口10万人以上の市が以下にあげる17を数えた。ちなみに、人口のあとに面積もあげてみた。
 人口は千人未満切り捨て、面積は1平方キロメートル未満切り捨て。資料: 東京都の人口(推計) 平成25年1月1日現在(総務局統計部)より。

 ・八王子市  581,000(人)186(平方km)
 ・町田市   428,000    71
 ・府中市   255,000    29
 ・調布市   225,000    21
 ・西東京市  199,000    15
 ・小平市   188,000    20
 ・三鷹市   186,000    16
 ・日野市   181,000    27
 ・立川市   179,000    24
 ・東村山市  153,000    17
 ・多摩市   145,000    21
 ・武蔵野市  139,000    10
 ・青梅市   138,000   103
 ・国分寺市  120,000    11
 ・小金井市  119,000    11
 ・東久留米市 115,000    12
 ・昭島市   111,000    17

 何事も数字は単体で見ると素通りしてしまいがちだが、総体や比較で見ると、見えてくるものがあり興味深い。
 東京都では、23区部で約900万人、多摩地区で400万人以上がいる。
 東京都の面積は佐賀県の面積よりやや小さい。しかし、人口はその約15倍である。佐賀県の総人口は2014年時で約84万人であるから、八王子市と町田市を加えた人口より少ない。
 佐賀県で人口10万人以上の市は、佐賀市の23万人、唐津市の12万人の2市だけである。それも、平成の大合併で大幅に増えたのである。県の人口が増えたのではなく、近隣の町村を吸収して境界線が変わって、両方の市の面積が大幅に増えた結果である。むしろ県全体の人口は減り続けている。

 数字を見ると、いかに東京の人口が多いかである。日本の人口は減少に転じており、佐賀県だけでなく日本全体で、都市と地方の格差は開く一方だから、大都市ではない市町村はますますしぼむ一方だろう。
 このままだと、日本全体があちこち空き家になったシャッター街のように、すかすかの国土になってしまう。何とか行政は手を打たないといけない。現在、新幹線を地方に増設しているが、これは都市の格差をますます助長させる結果になるだけだろう。

 *

 さて、八王子市に戻ろう。
 八王子市は、地理的には東京都のほぼ中ほどにある多摩市の西側にある。
 多摩に住んでいながら、このほど初めて八王子の街を歩いたのだった。高尾山に登ったり、奥多摩に行ったりしたときなどに八王子を通過したことはあっても、ちゃんと街中を歩いたことはなかったのだ。
 先月の5月5日から25日までの期間、八王子音楽祭が催された。内容はクラシックからジャズ、ポピュラー音楽まで幅広く、会場となったのは市のホールのほか、街中が舞台である。
 「ラ・フォル・ジュルネ」(熱狂の日)とまではいかないまでも、八王子市が独自の音楽祭をやっているというのは嬉しい。
 去る5月17日、この八王子音楽祭の一環として、僕のヴァイオリンの先生が市のいちょうホール(八王子市芸術文化会館)で演奏されたので、聴きに行ったのである。
 演奏のユニットは「宇野友里亜モネ弦楽カルテット」で、構成はヴィオラ、第1、第2ヴァイオリン、チェロからなる。
 曲目は、モーツァルトの「ディヴェルティメントヘ長調」、ドビュッシーの「弦楽四重奏曲ト短調」、ドヴォルザークの「弦楽四重奏曲第12番ヘ長調」ほか、タンゴやディズニーの世界など、音楽祭らしく多彩な楽しめる内容だった。(写真)
 アンコールで、プログラムに載っていない松任谷由実の「春よ、来い」が演奏されたのは、彼女がこの八王子出身だからである。
 

 演奏会のあと、駅の北側にある会場のいちょうホールから、駅の方に歩いて行った。
 東西に伸びる甲州街道から、道は縦横に格子状に連なっているのを突っ切るように、斜めに駅に向かって走る道があった。ユーロードと言って、この道は両側に様々な店が並んでいて歩くだけでも楽しい。
 音楽祭の季節ということもあってか、通りには人が楽しそうに行き交っている。
 駅からは、京王八王子駅の方に向かってこれまた斜めにアイロードが走っている。地図を見ると、左右に走るこの二つの斜めの道が、駅から開いた扇のように広がっているのだ。
 まるで、広場から放射線状に伸びるヨーロッパの都市のようだ。
 八王子の街が、こんなに賑やかだとは失礼ながら知らなかった。近年、多摩地区では立川の勢いが注目されているが、先にあげたように、立川市の人口は意外にも17万人余である。
 人口だけを見れば八王子市は立川市の3倍以上だし、そもそも八王子は江戸時代には宿場町として栄え、明治時代には南多摩郡の郡役所が置かれ、多摩地区では最も早く市になった歴史のある街である。中核市になるだけのことはあるのだ。

 また、東京の多摩地区ではここだけだと思うが、八王子市の中町には花町が残っていて、芸者衆が活躍しているという。
 かつてこの市が絹織物の街として栄えた頃は、かなりの芸者衆がいたという。その後衰退したが最近見直されたのか、芸者衆が祭りなどで街中へ出てきて踊りなどを披露しているという報道があった。八王子の芸者さんは親しみやすさが特徴なのだ。やはりこういう文化は残さないといけない。
 一度は芸者遊びとやらをやってみたいものだと思いながら、八王子の夜の街を散策した。

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